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日蓮大聖人・池田大作

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宗教・思想・道徳  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  人間の本質と宗教
 松下 宗教と名づけられるものは、人類の歴史のうえにおいて、非常に古くから存在しているようですが、これはいったい人間のいかなる本質から生みだされてくるものでしょうか。また人間の本質から生みだされてくるものならば、今後も人間とともに、いわば永遠に存在していくものでしょうか。
 池田 結論から申し上げれば、宗教は人間が存在するかぎり、人間とともに、永遠に存在しつづけていくものです。これははっきりと断言してはばかりません。
 なぜかといえば、宗教は人間の本質というより、人間存在のおかれた条件から必然的に生みだされるものであるからです。
 では、その条件とは何か。大きく分けて、二つあります。人間は生まれたと同時に、この二条件によって、ある意味では支配されていくといえるでしょう。
 その一つは、生まれた以上、いつかは必ず死ななければならないというような、自然の必然的な法則です。
 この法則については、仏教の開祖・釈尊は、生・老・病・死の四苦というかたちで明快に示しました。これだけは、どんなに富を積んでも、才能に恵まれていても、あるいは栄燿栄華をきわめていても、誰びともいかんともしがたい絶対にまぬかれることのできない法則であり、しかも人間はこれを意識することができるのです。否、意識しないではいられない存在なのです。
 それともう一つは、第一の必然的な法則に支配されているにもかかわらず、人間は無限に自由を求め、欲望を最大限に解放しようと努力しつづける存在である、という条件です。この二つは互いに相反し矛盾しあう条件ですが、人間存在に、誕生と同時に刻印された根本的なものです。
 そのうえに、人間はホモ・サピエンスといわれるように、他の動物とは異なり、この矛盾をみずからの知性でよくわきまえている動物であり、この矛盾をなんとか統一しようと努力するわけです。
 昔から人間が飽くことなく求めたように、不老長寿を得ようとしての空しい努力も、人間存在に必然的にともなう二つの条件がぶつかりあった結果です。
 宗教とは、まさにこの矛盾を解決するために人間が生みだしたものといえます。逆にいえば、人間存在の根本にある二つの条件を合致させようと願った結果、人間自身の限界、つまり有限性を深く自覚するとともに、ある永遠なる力や存在に対する信仰心が宗教を生みだしたともいえるのです。
 同じ宗教といっても、多種多様な形態や内容をもっており、どの宗教が人間にとって理想的な宗教であるかについても論じなければなりませんが、ご質問に求められているところからは逸脱しますので省略いたします。ただ次のことだけはいえるのではないでしょうか。
 人間の生存の条件について、真剣に熟考すればするほど、人間にとって宗教は先天的なものであることがますます明らかになるとともに、「人間は宗教的存在である」といった識者の言がずっしりとした重みをもって迫ってくるといえましょう。
2  宗教と人生の関係
 池田 宗教をアヘンであると否定しさる人、またその必要性は認めつつも、精神修養的役割しか宗教に課していない人等、さまざまです。ところで、宗教と人生の関係をどのようなものとしてお考えでしょうか。またご自身にとって宗教はいかなる意味をもっていますか。
 松下 を不教の意義につきましては、先に私のほうからご質問申し上げましたところ、事理を尽くしたお答えをいただきましたことを、まずもってお礼申し上げます。
 要約すれば、「宗教は人間が存在するかぎり、人間とともに永遠に存在するものである。すなわち、人間は生・老・病・死といった自然の法則から逃れられない一方、無限な自由を求め、欲望を最大限に解放したいと願うという矛盾した存在であり、そうした事実を直視しつつ、これを解決するために生みだしたものが宗教である」というご趣旨だと思います。私は、宗教というものについて、これまでこのように明確な考えをもってはいなかったのですが、お答えを拝見し、全くこのとおりだと感じたしだいです。
 宗教は人間が存在するかぎり必要なものであり、宗教をもたないという人でも、日にみえないところで、大きく宗教に影響され、動かされていることは否定できないと思います。ですから、もちろんアヘンとして否定しさるべきものでもなく、たんなる精神修養的な役割を超えるものでしょう。
 そういうところに宗教の重要性があり、また同時にそこから責任性が生まれてくると思うのです。それは、宗教は日に新たでなくてはならない、時代の進歩に即した在り方が常に考えられなくてはならないということです。宗教の停滞は人間の進歩の停滞になります。それでは、宗教が人間に幸せを与えるものでなく、逆に幸せを損ずるものにもなりかねません。そこのところがきわめて大事だと思うのです。
 私は、宗教の意義を高く評価し、また宗教にそういうことを望むと同時に、そのような宗教に対する信仰心を自分も養いたいと思っていますが、今のところはどの宗団・宗派にも属しておりません。
 ただ、私は私なりに、宇宙の根本の力と申しますか、人間発生の原点とでもいうべき、宇宙の根源力といったものを想定し、毎朝「きょうもこうして無事にご挨拶できることはたいへんにありがたいことです。きょうも無事でいけるように、安らかに過ごせるように、心に疑うことなく、憂うることなく、悲しむことなしに、和顔、和言をもって人に接することができますようにお願いします」といった意味のことを心のなかで唱え、いわばご挨拶するといったことをしております。また、夜は祖先の位牌を前にして、同様のご挨拶をしているわけです。もっとも、そうはいっても、実際には、なかなかそうはいかず、和顔、和言どころか、なにかと腹をたて、心を乱すという状態で、信仰三昧的な境地とはほど遠い姿にあることを残念に思います。
3  宗団・宗派はさまざまでよい
 松下 宗教における宗団・宗派というものは、究極的には一つであったほうがいいのでしょうか。
 またさまざまにあったほうがいいのでしょうか。
 一つであったほうがいいとすれば、それを一つにする道はあるのでしょうか。また、さまざまあってもよいとすれば、その共存は可能でしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 結論的にいえば、信仰の自由は絶対に守られるべきであり、したがって、必然的にさまざまであってよい。いや、さまざまであらざるをえないと考えます。
 もちろん私自身は、究極の真理は一つであり、その真理への迫り方は種々ありうるにせよ、現代の時代に、地球人類にとって、最も有効な道を教えた宗教を選ぶべきである、そして「最も有効な」という以上、それは一つであると確信しております。
 しかしながら、選ぶのは民衆であり人間であって、それはどこまでも選択者の自由意思に委ねられるべき問題です。選ぶべき道が最初から制限され、一本化されてしまった場合には、選択の余地はないし、人間の自由意思を奪ってしまいます。自由意思の奪われた信仰などは、真の信仰とはいえません。それは形式、形骸にすぎないでしょう。
 その意味で、私は、宗団・宗派は、さまざまであってよいと結論いたします。そして、民衆は、そのさまざまにある宗団・宗派のなかから、いずれが真理を最も深く究め、示しているか、そして、いずれが自己の人生のなかで実践するのに適しているか、人生として生きていくうえでの指標を与えてくれるか、現代の社会と文明のなかにみずみずしい生の息吹を蘇らせていく源泉となりうるかを判断し、選択していくべきです。
 また、宗団・宗派自体も、本来、自宗のもっている教義、哲理、理念というものが、いかにして現代の人間および社会・文明の課題にこたえうるかという観点から、互いの優劣を競い、明確にすべきです。そして、たんに本来もっている教義・哲理のなかに没入するのでなく、それを基盤として、どのように応用化し実践化していくかを模索しなければならないでしょう。こうして、宗団・宗派と民衆の間、宗団・宗派同士の間に、絶えまない競合、切磋琢磨が行なわれていくとき、宗教は真にその生き生きとした生命を保ち、文化・社会・人間に対して限りない創造の養分を提供していくことができるのです。権力によって固定化されたり、一本化されて安住してしまった宗教は、それ自体も、血の通わなくなった身体の組織のようにやがて腐っていきますし、その毒は全体を侵すにいたるでしょう。人間・社会・文化もまた、その最も尊い創造の源泉を失って固定化し、腐敗し、死滅していくのです。
 ちなみに、ご質問のなかで″共存″という言葉を使われましたが、宗団・宗派が、いかなる権力とも結託せず、また権力によって抑圧・支配されることなく、精神の自由のうえにたって、平等の立場で論争し、競合する姿は、これ自体″共存″であると思います。それは、自由主義経済における企業の在り方の場合と同じであると思います。あるいはまた、公正なルールにのっとって行なわれるスポーツ等のゲームとも同じです。さらに、あらゆる生物は、互いに競争しながら、共存しているのではないでしょうか。
4  宗教はどれも同じか
 池田 宗教を否定しないまでも、積極的には受け入れない人の考えには、多くの場合、宗教は結局、どれも同じではないか、教義は違っているようであっても、どの宗教の求め目指すものも、根本は同じであるから、一つの宗教に固執するのはおかしいという考え方があります。つまり、登り回は、たくさんあっても、目指す頂上は同じようなものだという考えです。こうした宗教観を、どのようにお考えになりますか。
 松下 宗教というものが、どれも同じであるかどうかは、これは非常にむずかしい問題で、私としては、むしろお教えいただきたいと考えております。
 ただ、私なりにごく常識的に考えてみますと、宗教というものは、かりに基本的に目指すところは同じだとしても、具体的には宗団により宗派によって、それぞれに特色があり、異なっているものではないかと思います。
 今日でも、数多くの宗団・宗派があり、それぞれに独自の教義というものをもっているわけです。また、歴史をみましても、いろいろと宗団・宗派の興亡がみられ、ある時期には非常に興隆したけれども、その後衰微したという場合もあれば、ある国では非常に広まっても、別の国ではあまり広まらなかったという場合もあります。そういうことを考えますと、やはり宗教には、多くの共通する面もありましょうが、そういうものをもちつつも、宗団二不派によって、異なっているように思われます。
 したがって、宗教に帰依する場合でも、そういう観点から、どの宗教が自分の人生にとって最も好ましいかということを十分に考え、慎重に選択することが大切ではないかと思います。これまでは、一般にとかく病気やケガをしたような場合とか、災難に直面したり、煩悶するというような場合に、それが一つの機縁となって宗教に入る、といった姿が多かったのではないでしょうか。これはこれで、一つの入り方かもしれません。
 しかし、宗教というものは、人間にとって、その一生を変革し、幸・不幸を左右するほどのものだと思うのです。ですから、ほんとうにそのような宗教の尊さ、重大さを考えたならば、そうした日常的なきっかけだけで、深く考えずに宗教に入るという態度ではいけないと思います。やはりさまざまの宗教に思いをいたし、慎重に考え検討し、自分としてはこれが一番好ましい、これこそ自分にふさわしいものだ、といった確信に到達したうえで、その宗教に入っていくといった態度がより望ましいといえるでしよう。
 もちろん、人間は迷いも多く、また弱い面ももっていますから、これまでのような姿も一面やむをえなかったと思います。しかし、今後は、人知もさらに進み、宗教に対する考え方も進んでいくでしょう。したがって、やがては、誰もがあるていど選択を行なったうえで宗教に入るということになっていくのではないでしょうか。
5  平和に果たす宗教の役割
 池田 人類は、すべて平和を希求しながら、現実は、なかなか平和が得られないでいます。平和の原点については、種々の論議がありますが、なんといっても、やはり人間の心にあるといえましょう。人間の心、精神に、確実な平和の砦を構築する方途として、宗教の果たす役割をどう評価されますか。
 松下 おっしゃるように、真の平和とは、たんに形のうえでの問題でなく、やはり人間の心の在り方に根ざしたものでなくてはならないと思います。
 その意味から、私は真の平和を招来するうえでの宗教の役割をきわめて高く評価するものです。私は浅学の身で、過去の宗教についての詳しい知識は持ち合わせてはおりませんが、現実の社会をみても、人間個々の場合でも、宗教心をもっている人は争うことが少ないのは事実だと思います。また、宗教に帰依することによって、これまで争っていた人が和解するということも幾多例があると思うのです。ですから、宗教は人間の心の平和を築き、真の平和をもたらすうえで大きな役割なり力をもつと考えられ、したがって、宗教の興隆は平和を推進するうえで好ましいことだと思います。
 ただその一面、過去において、ときには宗教の宗団と宗団、宗派と宗派が教義を異にすることによって争いを起こしたり、それが昂じて戦争を引きおこすにいたったことも、これまた一つの事実です。なぜそのようになったのか、私も深く研究したわけではありませんが、やはり、われ是なりと信ずるあまり、他は誤てりと断定するところに大きな原因があるとも考えられます。
 いずれにしても、そのように過去においては、本来、平和を推進すべき役割を担っている宗教が、一面にそうした本来の役割を果たしつつも、半面、むしろ互いに相争い戦争すらも引きおこすという過ちに陥っています。そう考えますと、今日までにおいては、宗教は平和の推進ということについて、功罪相半ばするといってはいいすぎかもしれませんが、ややそれに近い見方もできるのではないでしょうか。こうしたことの原因がどこにあるかは、むしろ私のほうからおたずねすべき問題かとも思われますが、私なりの解釈を申しのべますと、やはり我執と申しますか、自分にとらわれるところにあると思います。
 宗教というものは、本来、我執を去ることを教えるものでありましょうが、その宗団なり宗派においてすら、過去においては、自分にとらわれてそういう過ちを犯すことを考えてみますとき、我執を払うことのむずかしさを、あらためて痛感するのです。そして、それとともに、個人といわず団体といわず、別のところで申しました″素直な心″の培養がきわめて大切だと思うしだいです。
6  宗教戦争の原因
 松下 洋の東西を問わず、古来、宗教にもとづく争いというものは数多くあり、ときにはそれが血を流し合う戦争にいたることもあったようです。これははたして宗教の本質的なものでしょうか。もしそうでないとすれば、どこにその原因があるのでしょうか。今後もそういう争いは絶えないのでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 まず、ご質問のなかの「洋の東西を問わず」という表現には、こと宗教にもとづく争いに関するかぎり、少し限定をつける必要があるのではないでしょうか。なぜならば、東洋の宗教について、なかでも仏教については、宗教戦争なるものは歴史上に絶えてみられないといっても過言ではないからです。
 トインビー博士などは「仏教ほど平和で寛容な宗教はない」とまでのべ、血で汚れた歴史のないことを第一の特徴として指摘しているほどです。
 ところで、目を西に転ずるとき、たしかに、いわれるような宗教戦争は、キリスト教圏、イスラム教圏には多々あったようです。
 たとえば、キリスト教とイスラム教との争いとして有名な十字軍の戦いにしても、あるいはキリスト教の新旧両教徒の間で行なわれた宗教戦争にしても、その残虐さは目にあまるものがあります。それが平和と幸福を願う宗教から発しているだけに、ご質問のような疑問も生まれるのは当然であろうと思われます。そこで、なぜ、キリスト教圏やイスラム教圏で血を流すような宗教戦争が起こったのか、その原因を考えてみますと、一つには双方とも、唯一絶対、全智全能の人格神をたてる一神教であるということです。この唯一神を信仰する宗教においては、その信仰が熱烈であればあるほど、その他の神をたてる宗教に対する寛容性がなくなってくるのは当然の成り行きです。また同じキリスト教内にあっても、何を唯一絶対神とするかという教義内容の食い違いが、互いに相手を抹殺しあうまでの争いに発展するわけです。
 これらの宗教のよってきたる原因を考えてみるに、私の考えでは、これは宗教の本質的なものではなく、あくまでその宗教の精神をどう受けとめるかという信仰者の姿勢によって生ずるものであると思うのです。したがって、キリスト教においても、聖フランシスのように絶対平和主義を強く叫んだ人もいます。しかし、概して唯一神をたてることは、他の宗教に対して不寛容にさせるということができるでしょう。
 そもそも、全智全能の神という存在を想定すること自体、人間に不可能なことを可能ならしめたいという強い欲望がつくりあげたものですから、もともと人間が主体であったのです。それがいつのまにか主客転倒して、人間が神に振り回されるという倒錯した形態になったわけです。
 ところで、最近では、とくにキリスト教ではこれに対し反省を加えつつあるようです。
 すなわち、神について、人格神としての性格はなくなって、宇宙、自然の現象の奥底にあって、これを動かしている法則を″神″と名づけるようになってきています。
 この意味での″神″は、すでに、キリスト教本来の神とちがって、むしろ、仏法の説く″法″に近い考え方になっているといえます。このように、人間が徐々に、宗教の本質を正確にとらえるようになるにつれて、宗教にもとづく争いは、この地上から消滅するであろうと私は確信しています。
 なお、歴史上、宗教が原因で起こったとされる戦争や悲惨な争いも、よく調べてみると、世俗的な権力欲や経済的欲望が主原因で、宗教は利用されただけであったというのが、大部分の実態であったことも、最近の歴史学では常識になっているようです。
7  世界宗教となった条件
 池田 世界の三大宗教といわれるキリスト教、回教、仏教について、それぞれどのようなご所見をおもちですか。また、それらの宗教が世界宗教となった条件は、どこにあるとお考えですか。
 松下 キリスト教、回教、仏教それぞれの教義なり歴史については、詳しいことは知りませんので、個々に論評はいたしかねますのですが、これらが、広い範囲に伝わり、多くの国の人びとから信仰される、いわゆる世界宗教になった原因について、主としてのべさせていただきたいと思います。
 一つは、やはりそれぞれの教えが、人間の本質に触れる、いわば普遍的な真理というものをもっているということがあるでしょう。そういうものなくしては、広く、長きにわたって、人びとの信仰を得ることはできないと思います。
 しかし、そのように教えの内容がすぐれているということだけで、広く人びとに伝わるかというと、そうではないと思います。それに加えて、その教理がそれまでの他の宗教に比べて、平易でわかりやすいということがあったのではないかと思うのです。いかに立派な内容をもった教理でも、それが非常にむずかしくてわかりにくいというのであれば、多くの人に受け入れられにくいでしょう。やはり誰にでもわかるということが大切だと思います。
 たとえば日本の場合、同じ仏教の宗派でも、禅宗はどちらかといえばむずかしく、念仏を唱えれば救われるという真宗は一般の庶民でもわかりやすいといえましょう。ですから、禅宗は武士のような、いわば一部の知識階級が中心となり、真宗は広く民衆の間に広まったとも考えられるわけです。
 それとともに、もう一つは、そうした宗教を、時の支配者とか、王様が信じ、また活用したということがあるのではないかと思います。キリスト教でも、ローマ帝国が、最初はそれが民衆の間に広まるのを弾圧した面もありますが、後には積極的にこれを取り入れ、国教とさえするにいたったわけです。それは皇帝自身がほんとうに信仰し、帰依したのか、それとも、そうしたほうが国家の経営がよリスムーズにいくだろうと政策的に考えたのか、あるいはその両方かはわかりませんが、いずれにしても、そうなれば多少の疑いをもつ人でも信ぜざるをえないといった、絶対的なものになってくるだろうと思うのです。
 仏教でも、やはり、インドでアショーカ王という王様がこれに帰依し、積極的に後援したときに、非常な隆盛をみたといわれていますし、日本においても、聖徳太子とか聖武天皇のような国家の指導者の方々がこれを尊ばれたことが、仏教が普及する大きな力になっていると思います。回教の場合には、マホメットの後継者自体がサラセン帝国というものを打ち立て、文字どおり祭政一致の姿で布教が進められたと聞きます。
 そのように考えますと、教理が普遍的真理をもち、しかも、わかりやすいこと、そして時の支配者、権力者がこれを活用したこと、この二つの条件が相寄って、キリスト教、回教、仏教のそれぞれを世界的宗教たらしめたのだと思います。
8  「末法」の意味
 松下 仏教には、釈尊入滅後、正法千年、像法千年、末法一万年という教えがあると聞きます。今は末法の世ということになりますが、末法ということの意味をわれわれ現代人はどう考えたらよいのでしょうか。また、一万年ということは一つの比喩と考えるべきなのでしょうか。
 それとも、これは事実であって、人間の力でどうすることもできない宿命的なものなのでしょうか。
 池田 たしかに、釈尊の教えには、自分の滅後、正法千年(釈尊の教えが正しく行なわれる時代)、像法千年(釈尊の教えが形式化する時代)とつづき、その後は末法に入るとする教えがあります。
 「末法」というのは、「法が末(な)くなる」という意味で、もはや釈尊の教えでは世の人びとを救うことができなくなる時代のことを「末法」といいます。日本の歴史のうえでは、平安時代末期に末法に入ったと信じられ、人びとは、この「末法」の意識を強烈にもち、不安と絶望のどん底にあえいだことは周知のところです。もっとも、これには、保元・平治の乱などの相次ぐ動乱、飢饉、疫病の流行によって、拍車をかけられたことも事実です。
 ところで、この歴史的な事例から、現代の私たちは何を学ぶべきでしょうか。「末法」というのは、たしかに本来の意味は、釈尊の仏教が人びとに光明と生きる力を与えなくなるということでした。
 平安時代の人びとにとっての釈迦仏法は、今日の私たちでいえば、時代をリードする思想であり、哲学であり、価値体系であったといえます。
 したがって、末法とは、時代の行く先を照らし、人びとに光明と希望を与える思想・哲学、価値体系がその権威を失い、時代をリードする思潮とはなりえなくなることを指し示しています。
 このように考えるとき、現代もまた、末法の世であることはいうまでもありません。
 たんに、時間的にいって、末法一万年のなかに現代という時代が入っているからといつた表面的な意味からではなく、末法の本質的な意義から、そういえると私は思います。
 また末法を本質から理解することがいかに大切であるかは歴史上の事例に照らして明らかです。時代の動乱期には必ずといっていいほど、人びとの心情的不安と動揺にあやかって、一時的な気休めや現実逃避の方向にリードしようとする宗教や思想が流行するものです。
 平安末期から鎌倉期にかけて起こった安易な現実肯定による呪術や、この世を穢土と嫌い浄土を希求する宗教などはその好例といえるでしょう。私の信奉する日蓮大聖人の仏法は、安易な現実肯定も現実逃避も本質的に末法を救うものではないと見抜き、動乱の現実を、むしろ動乱なればこそ冷静に直視し、そこから現実変革をなしゆく強固な主体を築く源泉を与えられたのです。
 この歴史的教訓にならって、私は、本質的に末法の様相を呈している現代において、現代人の一人ひとりが、この現実を、感情的動揺に振り回されることなく、冷徹に直視することのできる強固な主体をこそ確立すべきであると訴えたいのです。
 この一人ひとりの強固な主体を確立する以外に、再びファシズムヘ傾斜する多くの要因を内包している現代社会を、希望と栄光の時代へと転換することは不可能であると私は信じております。
 なお、末法一万年の一万年ということですが、これは事実ではなく、比喩と考えてもよいのではないでしょうか。ただし、比喩だからといって無意味ということではなく、ヨ万年」という長時間の表現に、末法の危機意識がそれだけ強烈に実感されていたということを汲みとることができるのです。
9  仏教をどうみるか
 池田 近代以降、東西の交流が盛んになり、東洋は、多くのものを西洋から学び取りましたが、半面、西洋が東洋に、思想の面において着目し、なかでも仏教に最大の関心を払ってきております。日本などでは、東洋思想の再発見を、逆に西洋から教えられているといった逆転現象までみられます。
 それだけ、仏教には深い理念があり、しかも現代的な課題として、模索されているといえましょう。そうした現代文明の行き詰まりの打開という観点を踏まえて、個人としての仏教観をおうかがいできれば幸甚に思います。
 松下 私は、仏教の教義教説というものについては、なんら知識をもちませんが、日本の歴史というものをみますと、明治維新まで千数百年にわたって、仏教文化というものが国民生活のあらゆる面をおおい、それによって国家活動、国民活動がなされてきたように思われます。
 ところが明治維新を境として、新しい西洋の思想といいますか、科学的な知識や考え方が入ってきました。それ以後、そうした科学の面が非常に重視され、西洋文明というものに国全体がおおわれたため、旧来の仏教を中心とした東洋思想、ひいては伝統の日本精神なり、それにもとづく精神文化というものまでがカゲをひそめるといったきらいがありました。それも、いわば一つの時の勢いであり、やむをえないものがあったと思います。
 しかし、やはりそれだけではいけないのであって、そうした結果、今日ではいろいろ日本の伝統にふさわしからざるものも生じてきて、さまざまな弊害も起こりつつあります。
 それのみならず、西洋自身を考えてみましても、現在では西洋がみずから誇ってきた科学を中心とした西洋文化、西洋文明の行き詰まりに西洋人が気づいてきているようです。
 そして、東洋の思想なり仏教文化になにか魅力を感じるというところから、東洋に注目し、とくに日本について研究しはじめてきたようでもあります。聞くところによりますと、創価学会の活動についても、非常に多くの西洋人が深い関心を寄せているということで、これなどもその一つのあらわれだと思います。
 こうした現象はお互い日本人としては大いに反省せねばならないところで、われわれが手にしているものの価値を、逆に西洋人から教えられているわけです。これはいわば本末転倒であって、やはりわれわれ自身がそういうことに目覚め、日本人として西洋人以上に、みずから伝統の文化なり、東洋思想というものを掘り下げ、研究しなくてはならない時にきていると思います。
 そういう意味から、いま大切なのは、仏教というものをどう近代化していくかということだと思います。仏教それ自体はきわめてすぐれた教えであり、その基本理念は正しくても、その説き方といいますか、表現の仕方については、今日の時代にふさわしいものにするよう工夫がなされなくてはならないと思います。そういう点を今後研究しつつ、さらにそこに東西融合した新しい普遍的な一大思想というようなものが日本において醸成されるとすれば、これはきわめて望ましいことです。
 幸いにして先生が指導される創価学会が、そうした時代の要請にこたえるべく力強く活動しておられることには、私は深く敬意を表するものでありまして、心強く感じているしだいです。
10  既成宗教はあきられたが
 松下 欧米では、これまでの教会に行く青年たちが少なくなってくるとか、新しい宗教運動が盛んになるとかいった傾向があると聞きますし、日本でも既成宗教にたよるとか、信仰しようとする人が、しだいに少なくなってきているようにも思えます。
 もちろんその理由はいろいろあるとは思いますが、いったい既成宗教があきられてきている一番の原因はどこにあると思われますでしょうか。
 池田 宗教に対する畏敬の風潮は、たしかに世界的に薄らいでいるといえそうです。しかし、だからといって、宗教それ自体が現代においては遺物と化しているといえるかどうか、ということは別だと思うのです。
 宗教・哲学とは、日常的なさまざまな生活体験、精神的な葛藤などをとおして、その奥にある人生の意味を考え、生命の本質を探るところに存在します。
 そして、この根本的な問題について得た信念から、ひるがえって人生をどう生きるべきか、生活をどのように律すべきかの英知がわいてくるのです。現象に流されるだけなら、それはいかに知識をもっていようと「才能ある畜生」の域を出ません。その「意味」を考えてこそ、初めて人間は人間としての価値をもつのではないでしょうか。
 とするならば、人間が人間として存在しようとするかぎり、宗教は必要だということになります。というより私は、宗教をもつことこそ、人間の不可欠の要件であるとさえ考えています。
 今日、既成の宗教が人びとの心をとらえられなくなっているという現象を考える場合、こうした観点にたってみると、まず人間が人間の心を失いつつある現代文明の象徴的な欠陥が浮かびあがってくるのです。本質の世界、内面の世界を求めようとせず、生命とは何か、運命とは何かという問題を、恐れずに見つめ、取り組もうとする姿勢が失われつつあり、情報におどらされ、みずからの農窃荻を喪失して巨大な社会機構のなかに埋没して管理されつつある人びとの姿が、この現象のなかに見えてくるような気がします。
 そして第二番目に、このように離反していく人びとの心をつなぎとめることのできない宗教者の努力の欠如、かつての特権的地位に安住しようとしてきた怠慢が浮き彫りにされてきます。宗教者は、人びとの心と取り組み、悩みを分かちあって、勇気ある実践をもって社会に貢献しなければならないはずです。ところが、長い間、人びとから受けてきた信頼や庇護に安住して、現実社会とかかわり、人びとの悩みに取り組むことを避け、抽象的な理論や、形式化した宗教儀式を執り行なうことだけでよしとしてしまったところから、宗教の堕落が始まったわけです。
 宗教が人びとをリードし、救済する力をもちつづけるには、宗教者自体が、常にみずからを向上させる努力を怠ってはなりません。本来の宗教の精神を忘れ、みずからの保身のため日進月歩する自然科学といたずらに対立した権威主義が、やがては自然科学から手痛いしっぺ返しを受け、人びとの尊敬をも失ってしまう結果になってしまったのでしょう。
 たしかに現代人の多くは宗教に無関心になってきていますが、人びとの心が宗教そのものを見捨てたわけではないことは、既成宗教の不振とはべつに、さまざまな形で新しい宗教運動が起こっていることでもわかります。
 みずからの教義が、現代文明の発達によって起こる種々の疑問に耐えうる内容をもっているか、またそれをどのように実践化しているか――この点についての厳粛なる内省なしに、人びとの心の世界を切り開くなど無理なことです。
11  仏教書ブームについて
 池田 この数年、出版界には静かなる仏教書ブームがつづいているようです。これは、西洋文明の行き詰まりの結果、生きがいを喪失した人びとが、東洋の英知である仏教思潮に文明転換の活路を見いだそうとしているからである、ともいわれています。このような仏教書ブームを、どのようにお考えですか。また、仏典を読まれたとすれば、何をごらんになりましたか。
 松下 最近、西洋の人びとの間で仏教に対する関心が非常に高くなり、たとえば、その内容は知らずとも″禅″という言葉は多くの西洋人が知っているようです。
 西洋文明、西洋文化というものは、主として宗教面でのキリスト教文化と、科学を中心とした物質文明だと思います。そして、現在では、キリスト教文化よりも、科学文明のほうが色合いが強くなってきているのではないでしょうか。けれども、物質文明というものは、行けども行けども、それで精神的な満足が得られるものではなく、むしろ新しい物質文化が進めば進むほど、心をいやすものが欠けてくると思います。
 物質文化の進歩を、かりにお金が手に入ったことにたとえれば、お金を山と積んで、その瞬間は、これで欲しいものを買おうと喜んだけれども、さて買ってみたら、それですべてが満たされるわけではなく、どことなく空虚な感じが残るというようなものだと思うのです。やはり心の満足感というものは物質文明だけでは得られない、それによって得られるものもあるが、すべてではないということです。
 だから物質文明にひたればひたるほど、一方では精神的には満たされず、空虚さを感じてくるのだと思います。西洋の人びとが、仏教に関心をもち、いろいろ研究しはじめたのは、そういうところに原因があるのではないでしょうか。
 そして、ご質問の、最近のわが国における仏教書ブームといわれるものも、やはり同じところからきていると思います。日本人は、西洋の科学文明、物質文化というものを急速に取り入れ、ある面では、西洋の諸国以上の成果もあげてきました。けれども、それが進歩すればするほど、むしろ心の悩みは深まってきて、なにかしら不満や不安があるというのが今の姿だと思います。そういうところから、一度は仏教というものの門戸を訪れてみようという気持ちが人びとの間に起こってきて、それが仏教書ブームという形となってあらわれたのではないかと思われます。
 仏教については、私は十分知りませんが、泉のごとく、くめどもつきぬ奥深いものをもっているのではないかという感じがいたします。そういうものがどこまでほんとうに理解できるかは別として、やはりそれにあこがれ、研究してみようという人が、この物質文化が先行し精神文化が立ち遅れている今日において多くなってきているのではないかと思うのです。
 私自身についていえば、仏教には関心はもっておりますが、これまで一、二の禅僧の方から若干の仏典についてのお話をお聞きしたことがあるていどで、仏典を読んだ、というところまではいっておらないのが実情です。
12  宗教と政治の在り方
 松下 わが国では古来、祭政一致ということがいわれ、宗教と政治とは表裏一体をなすものと考えられていました。それが今日では、別の分野のように考えられているようですが、国家経営という観点からみて、宗教と政治とはどういう関係にあるべきなのでしょうか。また人間の本質からみて、宗教と政治は一体のものでしょうか、別のものでしょうか。
 池田 これは非常に大きな問題で、簡単には論じ尽くすことができませんが、私の考えの要点をのべますと、古代における祭政一致というのは、わが国だけのことではなく、ギリシャやローマでも、エジプトやメソポタミアでも、おそらくあらゆる文明社会に共通するものです。つまり、本来は、政治は宗教から未分化であったのです。いや、政治ばかりでなく、あらゆる生産活動も、芸術的創作も、宗教から分化せず、一体であったと申せましょう。
 人間の、外界の事象への知識が豊富になり、合理的になるにつれて、これらの諸活動は自立するようになり、独自の発展を進めるようになりました。それが、やがて宗教へも合理のメスを入れるようになって、宗教は抽象的観念の産物であるかのように、蔑視されるにいたりました。
 しかしながら、古代の原始的な宗教は別にして、釈迦やキリスト、マホメットにょって深められた″高等宗教″は、本来、人間の内面に焦点を当て、人間の完成を目指して説かれたものです。その浅深の差はここでは触れませんが、人間自身についてのこの態度は、ひいてはその人間の営為にほかならない政治、経済、芸術、科学等のあらゆる活動にも、本源的に影響をおよばしていきます。
 したがって、具体的な活動の次元では、政治と宗教とは、あくまで別のものでなければならないというのが、人間の歴史的教訓から得た英知でしょう。しかし、活動の本源にある精神の次元では、これらは深く結びあっています。ご質問の「国家経営の観点からみて」ということは、国家の経営ということは必ず権力の作用をそこにともない、したがって、一人ひとりの人間にとっていえば、それは外からの規制や強制を意味します。
 ですから、この場合の「宗教と政治」の関係は、あくまで別の分野に属するものとして切り離されなければなりません。もし、これが結びつくと信仰の権力による強制や禁圧を引きおこし、人間の精神的自由が踏みにじられる恐れがあるからです。また、そのような力によった宗教は、必然的に人びとの自由意思に訴えかける、本来の宗教としての努力を忘れ、堕落してしまうのです。
 人間の本質からみれば、宗教と政治は一体です。この場合、人間の本質とは、他から強制されたり、踏みにじられない主体性と意思の自由、尊厳性をもっていることを大前提として忘れてはならないでしよう。
13  聖徳太子と仏教
 池田 聖徳太子の十七条の憲法に大変注目されていることは、先のご回答にも記されておられましたが、太子の思想の背景に仏教があったことは、よく知られているところです。事実、太子は法華経、勝髪経、維摩経の疏などを著わしています。この事実を、どのように評価されますか。
 松下 おっしゃるとおり、私は聖徳太子の十七条憲法の内容というものは、非常に高い普遍的真理をもち、しかも人心の機微にかなった、今日にも十分に通ずるまことに立派なものだと考えております。ああした立派な憲法をつくられたことを含めて、私は太子が政治的な立場にたって、考えられ、行なわれたことに対して、きわめて高く評価するものです。
 その太子が、そうしたすぐれた手腕を発揮し、業績をあげられた根底に、『三経義疏』といわれる経典の解説書を著わされたことにもみられるように、仏教の教えがあったのは、事実だと思います。ご自身でむずかしい経典を解説されるぐらいですから、おそらく、仏教の教えというものを、それだけ深く十分に会得しておられたのでしょうし、また、仏教を重視しておられたのだと思います。
 私は、太子が政治的手腕を発揮されたその根底に、仏教をおいておられるということによって、なおいっそう太子を尊敬するのです。つまり、太子は自分の思いつきだけで政治をされたのではないわけです。すぐれた教えというものを、いろいろ玩味検討し、心から得心してそれを政治に生かされた、いわば真の衆知によって政治を行なわれたのだと思うからです。
 そのことはまた、祭政一致ということにも通じると思います。昔から祭政一致という言葉がありますが、私はこれは非常に大事なことだと思うのです。本来そうあるべきものであり、祭政一致ということが、日本の土壌、日本の歴史・伝統において非常に正しい意味をもっていたのではないでしょうか。
 最近では、祭政一致というと、なにか好ましからぬことのように考えられる傾向が強いようです。むしろ祭政分離ということがいわれているようにも思われます。たしかに、形のうえでは、政治と宗教とは別個のものであり、異なった役割を果たしているようにもみえます。けれども、それは、たとえていえば、家庭における夫と妻のようなものではないでしょうか。それぞれ役割は違いますが、両者が一体となって初めて好ましい家庭ができるのであって、それを根本から分離してしまうのは誤りだと思います。
 それと同じことで、根底においては祭政一致なのです。そういう意味からしても、仏教の教えを正しく政治のうえに生かされた聖徳太子の業績に、今日のわれわれは深く学ばねばならないと思います。
14  「縁なき衆生」
 松下 俗に「縁なき衆生は度し難し」とお釈迦さまがいわれたと聞いておりますが、大慈大悲にたつお釈迦さまのこのお教えの真意はどこにあるのでしょうか。
 池田 「縁なき衆生は度し難し」という言葉が、釈迦自身の言葉かどうかは疑問に思われます。おそらく、後世にいわれ、世にいいならわされたものではないかと考えられます。
 一般には、仏の広大な智恵と慈悲とをもってしても、仏縁のないものは、どうにも救いようがないといった意味に使われ、そこには、人によって先天的に縁のない人間がいるという考え方があり、そういう人は話しても救えないのだとサジを投げる考え方があるようです。ここまでくると、仏法の本来の精神からは、だいぶかけはなれた意味合いになっています。
 仏法では、いま仏の教えを信ぜず、反対する者であっても、仏法になんらかの縁をもつことによって、その人の生命にもともと内在している仏法の因が芽ばえ、やがて仏法を信ずることとなり、救われていくと説くのです。
 つまり、仏法では因と縁とが和合して一つの結果をもたらすと説きます。人の生命に内在した因は、さまざまな外界の縁にふれて、初めて結果としてあらわれるということであり、これは、仏法が発見した生命の不変の法則です。ゆえに仏法は、生命の変革・浄化のためには、善い縁に触れることが大切であることを強調するのです。
 「縁なき衆生は度し難し」という言葉も、このような、縁の大切さを説く仏法の原理を踏まえていわれた言葉であるといえましょうが、先天的に縁がない人を認めるのではなく、現に仏法を話してあげること自体が″縁″であって、あらゆる人に″縁″をつくってあげようとするのが、仏および仏法を実践する人の根本精神なのです。
15  仏教伝来の原動力
 池田 ご承知のように、仏教はインドの古代社会に生まれ、釈迦滅後一千年以上の長きにわたってインド民衆の信奉するところとなりました。また、その教えは広くアジア諸国にも伝えられ、中国でも一千年以上、さらに日本に伝来してからも一千五百年にもなります。この中国から日本へと伝わった北伝仏教とは、やや趣を異にしますが、今日のスリランカ、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、カンボジア等ヘ向かった南伝仏教も、二千年以上もたった現在でさえ生きつづけています。
 このように一つの宗教が長く伝えられたのは、どこに原動力があったと思われますか。また、それと関連して、仏教発祥の地であるインドでは、なぜ滅んでしまったのか、客観的な立場でごらんになったお考えをうかがいたいと思います。
 松下 私は仏教の歴史についてはあまり知りませんが、二千五百年もの昔にインドでお釈迦さまが説かれたものが、今日になお生きており、しかも、ご質問にありますように、広くアジアの各国に伝わっているのは、動かしがたい事実です。
 そのように、仏教というものが、広くかつ長きにわたって伝えられ、信仰されている原因は、個々にはいろいろありましょうが、やはりその根本は、仏教の教えのなかに、人間の本質に触れるものがあったからであり、そういうものが時代をこえ、国境をこえて、多くの人びとに受け入れられつづけた原動力となったのだと思います。
 そうした高い内容をもつ仏教が、なぜその発祥の地であるインドで衰微してしまったのでしょうか。これは私も疑問に思っており、むしろお教えいただきたいと思うのですが、伝え聞く範囲では、たとえば、インドというところは階級制度のきわめて厳しい国であって、どちらかといえば平等思想を説く仏教が浸透しにくい素地があったのだということもいわれているそうです。また、そういう階級制度のため、一般民衆の民度が低いままに抑えられ、したがって非常にむずかしい内容をもつ大乗仏教などは、一部の知識階級、指導階級には受け入れられても、一般民衆には、十分理解されなかったのだという人もあるようです。
 あるいは、インドでは王朝の興亡が激しかったため、一つの王朝なり時の権力者が仏教を支持したときには非常に興隆したけれども、そうした王朝なり権力者の滅亡とともに、仏教も今度は圧迫されるようになり、それで結局、衰微したのだという見方もあるといわれています。
 私には実際のところはわかりませんが、それらのことを私なりに考えてみると、いずれもそれなりに妥当性があるように思われます。おそらく、そうしたことが総合されて、インドでは仏教が衰退してしまったのではないでしょうか。
 私は仏教というものについて、そのように考えておりますが、ここで願わくは、そうした仏教が、さらに近代的に脱皮するといいますか、たんに今までの教えを説くというのでなく、今日の時代に真にアピールする一般仏教に対して新しい説き方を創造していってほしいと思います。そういうことはすでに各方面で進めておられると思いますが、さらにそれが力強く展開されることを望むものです。
16  創価学会発展の要因
 松下 創価学会の急速な膨張ぶりは、まことに目を見はるものがあります。武力も権力も用いずして、これほどの偉大な発展を遂げた例は、過去の歴史において、いかなる団体にもみなかったことだと思います。これは一つには正しい教理にたっておられる夕θ/宗教・思想・道徳からだと思いますが、それだけでは説明しきれないものがあるのではないでしょうか。どこにその原因があるのか、率直など高見をいただければ幸いに存じます。
 池田 従来、創価学会の発展については、さまざまな人が、さまざまな憶測を交えながら、批評してまいりました。足で歩いて実情を調べ、鋭く正鵠を射た評価をした人もいましたが、ろくに調べもせず、研究もせず、半ば妬みから勝手な批判を投げつけた人もけっして少なくありませんでした。
 戦後の混乱期に起こった、たんなる一時的社会現象として、社会学的に把握しようとした学者もいたようです。しかし、その物指しだけでは測り切れないという結論を得ただけだったということです。
 根本的には、ご指摘のように、日蓮大聖人の仏法哲理の正しさと偉大さによるというのは、私どもの信念であることは論をまちません。究極的には、この一点に尽きるといえますが、そのうえで、現実的な各要因があげられると思います。
 一つには、日蓮大聖人の仏法というものを、正しく現代に生きた実践原理として展開したのが、創価学会であるという点です。いかにすぐれた哲理、宗教といえども、時代性を無視して教条的に用いても、大きく時代の潮流とはしていけないでしょう。
 原理としてあるものを、いかに具体的に現代社会に敷衍して展開するか、またそれが可能な哲理と実践であるかが問題でしょう。それを個人のレベルでいうならば、宗教、信仰が、観念的なものではなく、生活に根ざした、生活そのものを、根底から蘇生させていく力があるかどうかということです。
 そしていま一つの理由は、学会が、庶民に根ざした、庶民から発した団体だということです。かつて、学会は、貧乏人と病人の社会の最下層の人間の集まりだと、嘲笑されました。たしかにそのとおりであったでしょう。しかし、世間から見捨てられたその人たちが、信仰によって、人間革命、生活革命、家庭革命を成し遂げてきたという実証こそ、学会の正しさ、この仏法の力を証明しているのではないでしょうか。下からの庶民から盛り上がった運動こそ、本物であることは歴史が証明しております。
 さらに、次の理由として、自身の救済と革命だけでなく、みずからの体験と実証をもとにして、他の人びとにも働きかけるという″折伏の実践″を、たゆみなくつづけてきたことがあげられるでしょう。
 信仰は、個人の問題で、他人に勧めるべきものではないという考えもありますが、利他、愛他こそ宗教の生命です。信仰により確かな実証というものを得た人なら、当然、隣人にも教えていくということが、人間として道理であります。
 そして、なによりも、欠かすことのできない理由として、私の恩師である戸田第二代会長という卓越した指導者を得たということです。かりに戸田第二代会長が、いなかったとすれば、今日の学会の発展は、全くなかったといっても過言ではありません。ほかにも、組織の形態とか、青年の育成とか、まだまだあげるべき、さまざまな要因があります。どの一つを欠いても、今日の発展は望めなかったと思います。
 すでに、海外にも、多くの信仰を同じくする友が増えております。創価学会は、創価学会という一宗教団体だけの存在ではなくなりました。私のいつわりのない心境を語れば、創価学会を発展させるということが目的ではない。先哲の遺した精神的な偉大な遺産である仏法哲理を現代に蘇らせて、人類の未来を開くことに寄与することができれば、との誠実な願いに一貫しているつもりです。
17  ″人類滅亡論″と仏法
 松下 過去の歴史において、なにか大変動が起こると人びとはしばしば″この世の終わり″と考えてきたようですが、とくに昨今のように公害、資源、人口などの問題が深刻になってくると、″人類滅亡論″のような″この世の終わり″的な考えが強くなってきている一面があるようです。仏法からは、こうした考え方をどうみられるのでしょうか。
 池田
 しかし、そうした物質的な必然の過程として起こる″終末″以外に、人間が形成している文化共同体、社会が崩壊し、終末するという考え方があります。共同体をつくりあげている基盤は思想・理念・宗教であり、これらの力を失ったとき、人びとの精神的紐帯は断ち切れて、争いが常となり、創造的な営みは破壊的活動によって追いやられてしまいます。釈迦の経典では″末法″といわれているのがそれです。
 一般に、このような末法は、人間の努力とは関係のない、一種の超越的な歴史の推移のようにとらえられていますが、仏教の本来の原理からいうと、それは正しくありません。わが国においては、平安末期がいわゆる″末法″観が支配した時代にあたり、事実、そうした様相を呈しました。しかし、その原因は、人間にあったのです。
 つまり、当時、この世を穢土とし、真の幸福は死んで極楽浄土へ行く以外に得られないとする浄土教が人びとの間に流行しました。貴族や社会的指導者の地位にある人びとがこの思想に染まった結果、現実の政治に真剣に取り組む熱意を失い、社会悪をのさばらせ、それが悪世的様相を招くことになったといってよいでしょう。日蓮大聖人が有名な「立正安国論」を書かれたのも、このような末法観にたたれていたからにほかなりません。もし″末法″が必然のものとしたら、そうした事態を招いた原因として、為政者の誤った宗教観を諫め、浄土教を責められた道理がないからです。このように仏教は、人間に焦点を当て、終末をもたらす原因も人間にあるとするのですが、ひるがえって、公害、資源、人口問題等の現代の諸問題は、人間の営みとは別のところから不意に起こってきた変動ではなく、人類が長年積み上げてきた営為の結果として起こってきた課題であり、それがつづくかぎり確実に終末を迎えなければならないのであり、しかもそれが依然として、加速度的に進んでいるところに、従来の終末観と違ったことが指摘されるわけです。
 いわば現在起こっている問題は、人類の生き方、文明の在り方に総決算を迫っている問題であり、このような、突然降りかかった天災よりも確実に一歩一歩迫ってくる終末的様相こそ、恐れなければならないのは当然です。今までに人類は数々の課題をこなしてきたから、これからもなんとか道は開けるだろうという安直な信頼感ほど危険なものはないと考えます。
 文明そのものを転換させるほどの決意で、これらの課題に取り組むことが必要であり、もし十分な熱意さえもってこれにあたれば、その課題の解決をもたらす知恵を人類は持ち合わせていることを信じております。
 現代文明を脅かす種々の終末的様相は、たとえようもなく大きなものですが、それをもって人類滅亡だと騒いで悲観したとしても、そこからはなんらの創造的な解決は出てこないにちがいありません。末世と感じる生命が末世をつくるのです。
 さらに、仏法の、末法という考え方は、一つの時代の終わりであると同時に、次の時代の始まりであることを示しております。物質文明としては終末的様相は、それを乗り越えたヒューマニティーの文明の到来を告げる鐘でもあるというより、そうあらねばなりません。少なくとも私たちはそう信じて新文明開拓の作業をつづけなければならないと思っております。
18  宗教と文学・文化
 池田 『源氏物語』は、人間心理の深い洞察にもとづく長編小説として、世界的にも高い評価を受けていますが、これは、仏教、とくに中国の天台大師の著わした『摩訶止観』等の影響を強く受けたものだとの主張もなされています。たしかに仏教伝来以降の日本の文学・文化が、強く仏教の影響を受けていることは事実です。ところで、一般論として宗教と文学ないし文化との関係を、どのようにとらえておられるでしょうか。ご高見をお聞かせください。
 松下 私は、文学書というものは全くといっていいほど読んでおりませんし、また宗教についてもあまり知りませんので、的確なお答えはいたしかねますが、私なりに考えてみますと、やはり宗教なくしては、ほんとうにすぐれた興味ある文学は生まれてきにくいのではないかという気がします。
 仏教の経典を読んだわけではありませんが、想像しますと、人間の愛欲とか煩悩といったものはすべて仏教の教えるところであり、その経典は、人間の種々相といいますか、百態というものを余すところなくとらえて解説しているだろうと思うのです。つまり、表現の仕方はともかくとして、本質的には人間の実生活を離れたものではないと思います。
 ですから、文学という点からすると、そこに非常に豊富な材料が見いだされるわけです。人間のいろいろの物欲とか、権勢欲とか、筆にすれば、面白い絵模様、生活模様が書けると思います。悲しみも、喜びも、憎しみも、怒りもみな入っている。そういうもののよってきたる原因を仏教は究明していると思うのです。仏教を知ることによって、人間の百態を知ることができ、文学の内容も豊富になっていくのではないでしょうか。
 だから、仏教がなければ、真にすぐれた面白いものがなかなか書けない、かりに書けても、仏教によって読む側にもあるていどの知識が与えられていなかったら、それを理解できにくいと思うのです。『源氏物語』が理解されたのは、当時の貴族階級の人びとが、いちおう仏教によって人間の百態というものをあるていど知っていたからだとも考えられます。
 こうしたことはひとり仏教に限ったことではなく、他の宗教についてもいえましょう。西洋の文学はキリスト教の影響を受けているといわれるそうですが、やはり、それはニュアンスの差はあっても、キリスト教が人間の種々相を解明し、教えているからでしょう。だからまた、西洋人が面白いと思う文学が、やはり日本でも、評価されるのだと思います。
 いずれにしても、そのように宗教というものによって、文学はより人心の機微に触れたものになるでしょう。人間の愛憎とか煩悩を宗教が説かなかったら、非常に深みのある文学はできにくかっただろうと思います。そういう意味で、宗教は文学や文化に一層の深みを与えるものであるといえましょう。
19  「モーゼの十戒」の意味
 松下 「モーゼの十戒」という教えがありますが、これが人間生活においてどういう意味をもつのか、忌憚のないご高見をいただければと思います。
 池田 「モーゼの十戒」には二つの部分があるようです。
 すなわち、唯一神の礼拝、偶像の禁止、また神の名をみだりに唱えることを禁止し、安息日を守ることを教えた前半の部分は宗教の教義としての戒であり、後半の部分、すなわち、父母への尊敬を教え、殺人、姦淫、盗み、偽証、貪婪の禁止を教えているのは道徳的な戒であると考えます。
 ここでご質問の意味は、前半の宗教の教義における戒の意義を問うておられるのではなく、道徳的戒律の意義を問うておられるのだと解して、私なりの見解をのべたいと思います。
 こうした内容の戒は、モーゼの十戒にかぎらず、儒教にも支配的な教義として説かれておりますし、仏教においても、最も初期の小乗経典においては、さまざまな戒律が説かれています。小乗仏教の五戒は、不殺生、不楡盗、不妄語、不邪浬、不飲酒で、これはモーゼの十戒と酷似しています。
 これらの戒律は、生き方の理想を示したというよりも、人間が人間らしく生きるうえでの基本的な規範という意味で掲げられているのでしょう。少なくとも仏法の真髄においては、これらの戒律は終着点ではなく、出発点であるとしています。つまり、これらの戒律を守ることに修行の究極があるのではなく、これらの戒律を守ることが修行をしていくうえの最低条件であると説いているのです。
 たしかに、日常生活において、これらの戒律は必要不可欠なものであることは間違いありません。道徳のなんたるかを知らない人びとに対しては、それを教えることは緊要な課題です。
 しかし、ではそれを教えたからといって、それで十分とすることはできないと思います。殺生は悪いことだと知っていながら、社会の種々の葛藤から殺傷事件が相次いでいるのが現実の社会だからであります。
 それらが、いかに重要な教義であり戒律であると教えられても、その制約力を超えてあまりある強烈なエゴが、人間生命には内在しております。そのエゴの本質を見極め、昇華せしめなければ、いくら立派な道徳的戒律を並べたてても、たんなるスローガンに終わってしまうにちがいありません。
 こういったからといって、これらの戒律が、日常生活に果たす役割が無力であり無意味であるというのではありません。日常の意識の世界を規制・矯正する働きはもっておりましょう。しかし、それで十分としてはならない。それらの奥に潜むエゴを転換せしめる生命変革があってこそ、戒が戒としての役割をもってくるのではないでしょうか。
 日蓮大聖人の仏法においては、受持即持戒と説き、根源の法をたもつことが、生命の根本的変革をもたらし、戒律を守る根本的な修行になることを教えております。
20  倫理・道徳と宗教の違い
 池田 人間が生きていくには、倫理・道徳、そして常識といったものをたもっていれば十分であって、あえて、宗教とか信仰をもつ必要はないという考え方もあるようですが、はたしてそういうものでしょうか。また、宗教と倫理・道徳の違いはどこにあるとお考えでしょうか。ご所見をうかがいたいと思います。
 松下 学問的にはともかくとして、ごく常識的に考えますと、倫理・道徳は、お互いが自分の身を正し、共同生活をスムーズに行なっていくためのルールというか、無言の取り決めのようなものではないかと思います。それに対して宗教は、神仏のような絶対者とか、非常にすぐれた宗祖なり、その教えなどを神聖化し、これに対する信仰をもつというものでしょう。
 ですから、お互い人間が普通一般に日常生活を好ましい姿で営んでいくためには、倫理・道徳を守っていくことで足りるという見方もできるかもしれませんが、しかし、そこにもう一つなにか信念的なものをもつためには、やはり宗教というものが必要になってくると思うのです。
 いうなれば、宗教というものは、倫理・道徳の根底に躍動して、倫理をして真に倫理たらしめ、道徳をして真に道徳たらしめるものではないかと思います。いいかえれば、人間の心の底からわきあがつてきて、倫理・道徳を守らせていく根底の力、そういうものを生むのが宗教ではないでしょうか。
 特別に宗教というものをもたなくても、倫理・道徳を実践して立派に生きているという人もあるでしよう。しかし一般的には、日に倫理・道徳を唱えても根底に宗教をもたない人は、その実践において、やはり、いささか力弱いものがあるのではないでしょうか。その点、宗教をもった人は、いわば一つの安心感に安住している人であり、信念をもって力強く倫理・道徳を守り、実践していくことができると思います。
 そういう意味において、宗教は、たんなる知識とはちがって、もっと心の底からわきでる非常な安心の力だと考えられます。そのようなものですから、宗教を理解し、信仰をもつことは非常に大切であり、そういうものをもっている人はまことに幸せだと思うのです。
 私は、そのように倫理・道徳の根底をなし、それらを全うせしめるものが宗教だと考えております。ただ、これは最初にも申し上げましたように、ごく常識的に考えたものでありまして、こうした問題につきましては、むしろ機会があればお教えいただきたいと存じておるしだいです。
21  道徳は実利に結びつく
 松下 道徳というと一般に堅苦しい窮屈なもののように受けとられていますが、私はむしろ、道徳とは実利に結びつくもの、すなわち、人びとの道徳が高まれば、精神面はもちろん、物質的な面でも、お互いの生活はより豊かな好ましいものになってくるものだと思うのですが、いかがでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 結論からいいますと、道徳が、広い意味での″実利″に結びつくものということに異論はありません。道徳・倫理は、一般社会の規範の総体をなすものですが、法律と違う点は成文化されていないこと、法的強制力をともなわないという点にあるわけです。そして法的に規制するというのは、人間の行動のある部分を拘束することによって社会の秩序を維持しようとするもので、ここには外からのコントロールが働いています。
 それに対して道徳は、個々の人間の精神的態度にいっさいが委ねられている。そして人びとの道徳心を究極的にささえている原理は″人間が人間としていかに生きるべきか″ということに集約されると思います。つまり人間の生き方の問題を、長い間の経験や習俗のなかから学びとっていくのが、道徳の価値であろうかと思います。
 さて、ご質問の冒頭に「道徳というと堅苦しい窮屈なもの」という一般的な考え方を取り上げておられますが、道徳を「堅苦しいもの」と受けとる見方には、他から生き方を強制される、あるいは、道徳を守ることは既存の社会体制の擁護に通ずるという考えが基本にあると思います。とくに後者の考えの背景には、戦前の暗い「国家道徳」のイメージが脳一暴をかすめているといえましょう。
 とくに昨今は、個人主義の風潮が強くなってきておりますので、極端な場合、自分の生き方を他から強制されたり、それに影響されたりするということは主体性のない人生であるとして頭からとりあわない人もいるかもしれません。もちろん、これは個人主義のはきちがえであることはいうまでもありませんが、今まで、個人主義の経験のない日本では陥りやすい落とし穴です。
 個人主義の伝統の古い欧米では、キリスト教を根底とした道徳が人びとの日常の行動の規範として暗黙のうちに順守されてきたことをみても、個人の確立が道徳心を高揚する素地であることは明らかです。さらにいえば、道徳の普及は、元来、個々の人びとの良心の発露によって保たれていくものですから、本来的に個人の自覚を土壌とするといえましょう。
 したがって、個人の確立が図られないままに、道徳を上から強要する行き方は、道徳の本義にも反し、かつ時代逆行もはなはだしいと思います。道徳は最も人間的な心の自然の発露として、位置づけられるべきであります。しかも、庶民の生き血を吸うような劣悪な社会にあって、たんに道徳心をオウムのように唱えるだけでは、青年の心はますます離反していくにちがいありません。現代の支配的な立場にある人が、まずその姿勢を正すことから始めなければならないと思います。
22  哲学・思想・宗教の違い
 池田 私たちの人生に多大な影響を与えるものとして、哲学とか思想、そして宗教があります。また、人類は、文明の発生とともに、さまざまなかたちでこれらを生みだしてきました。ところで、哲学・思想・宗教という三つの言葉・概念は、おうおうにして混同されて使われていますが、これらの相違は、本来、どこにあるとお考えでしょうか。
 松下 学問的に定義づければ、哲学・思想・宗教それぞれに明確に区別されるところもあろうかと思いますが、私なりに考えてみますと、この二つの根本は同じではないかと思われます。
 つまり「人間とは何か」というような、基本的な問題を考えるのが哲学ではないかと思います。そして、そこから生まれてきた「人間はこうすべきである」「このようにしたらいい」というものが思想だといえましょう。さらに、そうした教えなり、その教えを説いた人、あるいはそれに関する、なんらかの事物を、いわば神聖化したものが宗教だといえましよう。
 私は仏教についてはあまり存じませんが、私なりに推測いたしますと、お釈迦さまは、やはり、人間とはどういうものか、人生とは何か、といったことを深く考えられ、その答えを得るためにいろいろと修行もされたのだと思います。そしてその結果、悟りをひらかれた、その悟りの内容というものは、これは哲学といえるのではないかと思うのです。つまり、お釈迦さまの第一歩は哲学であり、仏教は哲学に始まるとも考えられるのではないでしょうか。そして、その教えなり、あるいはお釈迦さま自体を非常に神聖化するところから、それが宗教になったのであり、また、その教えが共同生活の各面に応用され、それぞれのところで一つの考え方となったものが思想だとも考えられるわけです。
 そのように考えてみますと、哲学・思想・宗教はそれぞれ別個のものであるともいえますが、もともとは一つの問いから発しているものであって、その源は同じであり、本来は一つのものであると考えてもいいようにも思われます。ですから、ご質問にあるように、今日その三つがやや混同されて使われているきらいがあるというのも、そこに原因があると思いますし、見方によっては、あえて区別をしなくていいとも考えられますが、やはり根本は、まず問いから発しているということです。そして、大事なことは、そういう問いを発することは、人間だけがよくなしうることであって、他の動物ではできません。
 ですから、哲学にせよ、思想・宗教にせよ、人間特有のものだといえましょう。
23  善悪の判断基準
 松下 人間の生活というものは、絶えずなんらかの善悪の判定のうえにたって、その営みがつづけられているように思います。けれども、ある時代において善とされたことが、時代が変わると悪とみなされるといったことも実際にはみられ、また、人により、ところによっても善悪の考え方が異なる場合も少なくありません。
 いったい善と悪との判定基準は、どこにおけばいいのでしょうか。また、なんらかの絶対的な基準というものがあるのでしょうか。
 池田 たしかに、人間の善悪の問題は、一面からみれば、相対的なものにすぎないかもしれません。その最も端的な例は、平和な時代においては、他国人を殺すことは悪であっても、戦時となれば必要悪として是認され、ときによっては愛国的行為として高く評価されるような場合があります。これなどは、時代によって、善悪の価値が入れ替わる好例といえるでしょう。また、同時代であっても、人により、場所により、属する集団や組織により、善悪の価値観が異なる場合は多々あります。
 とくに、現代は組織の時代といわれるように、一人の人間が多くの組織に入っているだけに、その善悪観も入り乱れて、その渦中にあって右往左往する人も少なくありません。
 このように、今日、善悪といっても複雑多岐になってきて、ますます基準のおきどころが流動的になっています。そうした様相を反映して、善悪の判断は、公式的に原理や規範として定立できるものではなく、流動的な現実のなかで、そのつど起こってくる問題との関連で、一人ひとりが、どう生きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないといった″状況倫理″の考え方も出てきています。
 もう少しわかりやすくいえば、初めから善とか悪が存在するのではなく、ただ移り変わる状況、現実のなかで、みずからがそれにどのようにかかわるかによって善にも悪にもなる、という考え方です。
 たしかに、この状況倫理の考え方は、人間個々の存在以前に善とか悪とかいった決まったものをおかず、いっさいを人間自身の判断や意思に委ねられている点で、最も現代人にマッチした生き方を主張しているといってよいでしょう。
 しかしながら、この考え方は、一貫した不動の理念、規範を求めながら得ることができず、サジを投げてしまった、一種の諦めの反映にすぎないというべきでしょう。その結果として、地に足の着かない、軽薄で自己中心主義の社会を生みだし、相互不信と断絶の渦巻く混乱した状況を招いているのではないでしょうか。
 そこで問題は、善と悪との判定基準はどこにあるか、なんらかの絶対的基準というものはあるのかということです。
 私は、この問題の答えの鍵として、デカルトが、いっさいの真理を判定する基準として、思索を重ねた末、すべてを疑っても、今それを疑い思索している自分が存在しているということは疑えない。この″考える自分″こそ、すべての真理を断定する出発点であり基準である、としたことを思い出します。
 つまり、善と悪との判定基準の基盤は、生きているこの人間の生命にあり、そして、すべての人はより幸福な生活を求めて、必死の努力をしているということです。もちろん、この場合、幸福を求めているのは自分も同じですが、善悪の判断基準というのは、自分がどう行動するかということですから、自分の幸福ということは、本然的なものであって、あえて、善悪の基準として論ずるまでもないことです。
 したがって、他のすべての人がより幸福を求めているということの認識が、善悪の判定の出発点になります。すなわち、他の人の生命を守り、そのより大なる幸福のために助け、貢献していくことこそ″圭ヌであり、その反対は″悪″になるのです。
 人間自身、永遠な存在ではない。いつかは地球も滅びるであろうし、人類も滅びるだろう。そのような人間の生命を″絶対的″な基準とするのは不合理ではないかという人もあるでしょうが、人間が存在しなくなったときは、判断する人もいないのですから、存在しないときのことを論ずるのはナンセンスです。判断する主体があるかぎり、人間は存在するのですから、それは永遠と同じことなのです。
 ともあれ、生命の尊厳こそ、絶対的基準であり、その生命の尊厳を守り、その生命の求める幸福のために尽くすことが善であり、その逆が悪である。これは、いかなる時代になろうと、どういう社会であろうと、変わらない基準であると思います。もし、生命を破壊することが″善″とされるような社会があったとすれば――それは、たしかにいたるところ、あらゆる時代にあったわけですが――その社会自体が″悪″であるといわなければなりません。
24  倫理・道徳をささえるもの
 池田 倫理・道徳の退廃ということがいわれて久しくなります。これに対して、人びとの心のなかに倫理・道徳観を復活させようとの試みもなされていますが、実効をあげていないようです。私には、倫理・道徳の退廃の背景に、それを生みだし、ささえていた、より根源的な価値観の崩壊があるように思われます。
 この点に関して、倫理・道徳の役割は何であり、また、それをささえるものは何であるとお考えか、おうかがいしたいと存じます。
 松下 今日、倫理・道徳の退廃がいちじるしいことはご指摘のとおりで、まことに憂慮すべきことだと思います。
 その原因についてはいろいろありましょうが、一番根本となるのは、人間の物心一如の繁栄というものを絶えず検討し、追求していないところにあると思うのです。そういうところから、倫理・道徳の本質を見誤り、それが退廃をもたらしたと考えられます。
 道徳というものは、本来実利に結びつくものだと思うのです。つまり、正しい道徳が人びとの間に行なわれれば、それは必ず物心両面のプラスになってあらわれてくるということです。そういうところに道徳の本来の意義があるわけです。
 ところが一般には、道徳は実利に結びつくとは考えられてはいませんし、もちろん教えられてもいません。むしろ、道徳は犠牲を払うものである、だから尊いのだというのがいわば通念となっているのではないでしょうか。そこに大きな誤りがあったと思います。
 かりに親に孝行することが一つの道徳としますと、親に孝行することによって、そこから親にも自分にも喜びが生まれ、円満ですべてがスムーズな家庭ができてくるでしょう。そういう喜びにあふれた家庭であれば、各人の働きも高まってくるでしょうから、物心ともの実利が生まれてくるというわけです。
 親に孝行することによって親も困るし、自分も損をするというのであれば、これは道徳になりません。道徳というものは、必ずそれを行なう人も、その対象になる人も、ともに幸せになることを前提としているわけです。
 それを今までは、道徳は犠牲をともなうと考えていたわけで、これではよほど立派な人でないかぎり、自分の損になるのならやめておこうということになると思います。たしかに道徳には、一見犠牲のようにみえる面があります。しかし、私はそれは、いわば事業における投資のようなものではないかと思うのです。資本を投じたそのときは形のうえでは損をしたようにみえても、それは先へ行って、より大きな利となって返ってくるのです。資本を投じっばなしというのでは、投資になりません。それと同じように、犠牲を払っただけというのでは、それは真の道徳とはいえないと思います。つまり、道徳はいわゆる滅私奉公ではなくて、自他共栄を生むものなのです。
 よく、戦前の道徳があの太平洋戦争に結びついたというようなことをいう人がありますが、私はそうではないと思います。むしろ、自国を愛するごとく他国も愛するといった、真の道徳がなかったことが、戦争を生む結果になったのだと思うのです。もし、戦前においてそういう正しい道徳があったなら、あの戦争は起こらなかったでしょう。
 そのように、道徳というものは、それが正しく踏み行なわれれば、人びとが幸せになるとか、国が治まるとか、総合的に必ず実利に結びついてくるものです。そういう正しい道徳観が十分認識され、教えられることが大切だと思うのです。
25  百年後の世界の思想は
 松下 百年後、世界の人びとの生活をつくりあげていく思想は、いったいどういうものになっているでしょうか。今日と同じくさまざまの思想が混在して、それなりに生活を築いているのでしょうか。それとも、なにか一大潮流となるような思想が、世界の人びとの生活に浸透しているでしょうか。また五百年後はいかがでしょうか。
 池田 私は宗教者であり、歴史学者でもなければ予言者でもありません。百年後、五百年後のことを予測するのは差し控えて、思想の潮流はどうあらねばならないかという観点から考えてみることを許していただきたいと思います。
 さまざまな思想が混在すべきか、一大潮流となる思想が流布すべきかという問題は、二者択一の問題であるというよりも、二つの問題提起であると私は考えます。どのような思想が、それぞれ独自の価値を発揮しながら混在していくべきであり、どのような思想が一大潮流を形成していくべきかという問題に置き換えてみることです。
 この問題は思想の意義内容の問題となってきます。思想ないし価値観というものは、人それぞれに独自なものであるべきです。各人に独自であるべき物の考え方を力で圧迫しようとしたり矯正しようとするのは誤った考え方です。私たちは他人に教え、忠告する権利は無限にもっておりますが、強制する権利は一片だにも持ち合わせていないのです。
 独自性をもつということは人間にとって至上の価値であり、思考は人間の精神的営みのなかで最も尊い部分を形成しています。したがって、人によって物の考え方が違うということは、当然のこととして認められなければならないでしょう。人びとが真実の、個の自立を成し遂げ、自己の信ずるところに向かって歩んでいるとするなら、他の考え方を強制し、圧迫することは、けっしてあってはならない。また、そうした力による強制が、人びとの心を長く支配できないことは明らかです。結局、いかなる強大な権力も、地球上のすべての人びとを掌中に収めることはないでしょう。
 そうした独自性を認めたうえで、それらの根底となるべき共通の思想的基盤は必要です。それは生命尊厳の思想です。いっさいの思想は地球上の生命を守り抜くためにこそあるべきですし、それを脅かす思想は、断じて受け入れるべきではありません。平気で人間同士が殺しあう悲惨さを繰り返している現代の世界を転換するためにも、この基本的思想だけは、世界共通の一大思想潮流となって生活、人生のあらゆる分野に浸透していかねばなりません。
 それが、百年後に達成するか、五百年後になるかは私にもわかりません。百年後には達成しているかもしれないし、力およばず、五百年たってもまだ微々たるものであるかもしれません。しかし、この思想を支配的な潮流としていくための必死の努力だけは、二十世紀の人類が、未来の子孫に届ける最高の贈り物として、継続しなければなりません。
 将来のことは予測できませんが、ただ、現在すでに現代文明のもたらしたさまざまな課題が、今や人類を一個の運命共同体であると考え、生命を至上の存在と考える思想を基本的理念としてその共同作業をもって取り組まなければならない事態をもたらしていることだけは確かなようです。
26  形而上と形而下
 池田 今日、形而上の問題と形而下の問題とは二元的に切り離して考えられる傾向が強いようです。私は、この二つは必ずつながるとの考えをもっておりますが、この点についてのご意見をお聞かせください。
 松下 実は私は、形而上・形而下というような言葉は知らなかったのですが、説明を聞きますと、ごく通俗的にいって、形ないものと形あるもの、いわば精神と物質、心と物ということのようにも思われます。
 そうといたしますと、私はこの二つを切り離すのではなく、必ずつながるというお考えに賛成です。
 私は、かねてから「塀批ぃち婿」ということを申しております。ご承知のように、私はPHP研究所というものを島索し、そのモットーとして「驚鶯によって平和と幸福を」ということを唱えてまいりましたが、その場合の繁栄にしろ、平和にしろ、幸福にしろ、たんに物的なもの、形にあらわれたものだけでなく、日に見えぬもの、心の面をも含めた、いわば物心一如の繁栄、平和、幸福なのです。
 そのことをたまたま、月刊誌『PHP』の創刊号(昭和二十二年四月号)に書いておりますので、やや長文になりますが、その一部をここに引用させていただきます。
 「繁栄というとすぐ思い浮かべるのは草木の生い茂って大きく生長していく姿であろう。幹も太くなり、葉も茂っていく。このように世の中が栄えていくことが望ましい。しかし幹や葉ばかりを見てはいけない。太い幹、茂った葉をささえる根の広がりを忘れてはならぬ。目に見える栄えの陰に目に見えぬ栄えがともなわねばならぬ。世の中の栄えも、ただ人びとが金持ちになる、暮らしが楽になる、というような物質的のことだけを繁栄というのではない。これと同時に心も豊かになることが望ましい。
 学問、思想、芸術というような心の働きが高まってくる。道徳も向上する。すべて伸びやかに住みよい世の中になることがほんとうの繁栄であると思う。これを物心一如の繁栄といったらよいであろうか。物と心が別々でなく、お互いにつながりのある豊かさが繁栄の姿であるといいたいのである」
 「平和というとすぐ戦争を思う。戦争をしないことが平和だと思う。なるほど戦争を代表とする争い――国内の争いでも、一家の争いでも、個人間の争いでも――なんの争いもないところに平和がある。しかし平和というものはもう少し突っ込んで考えてみると、落ち着いた心の在り方をいうのではなかろうか。嘆き、恨み、ねたみというような心をかきみだすもののない澄み切った心が平和の姿であろう。形に見える争いのないということより、もっと心のなかに食い込んだ平和というものを観念したいと思う」
 「幸福ということは物心一如の幸せという意味にとりたい。物の満ち足りたありさまは幸福の力強い条件ではあろうが、また『狭いながらも楽しいわが家』という見方もある」以上、引用が長文にわたりまして恐縮ですが、このように私は、あらゆる面で、本来、物心一如ということを考えており、形而上・形而下の問題は必ずつながるというお考えに全面的に賛成するものです。

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