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人生問答 繁栄への道

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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2  真の繁栄とは何か
 池田 繁栄という言葉は、誰しも反対することのない主要な目標であり、要素だと思われますが、公害、人口、資源などの問題が、人類史の繁栄の歴史に、大きな問題を投げかけております。そこでは、たんなる盲目的な繁栄は許されなくなってきております。そうした現代文明のかかえる根本問題を見据えつつ、人類世界の視点にたって、人類の歩むベき、真の繁栄の道は何か、また、それには何が最も大きな鍵となるか、ご意見をおうかがいしたいと思います。
 松下 ご質問にもありますように、今日、日本といわず世界といわず、公害、人口、資源など非常に大きな問題が生じてきており、そのために、繁栄というものに対していろいろ疑問が投げかけられているようです。
 私は、こうした問題が生じてきた一つの大きな原因は、いわゆる物心のアンバランスにあるのではないかと思います。つまり、物質的な面では非常に進歩向上してきていますが、精神面での進歩がそれにともなわないため、物を使うべき人間が反対に物に振り回されているといった姿も一部には生じてきて、そうしたところから、いろいろなヒズミが生まれてきたのだと思うのです。
 そのような物心のアンバランスの姿は、これは真の繁栄とはいえないと思います。真の繁栄というものは、物質面と精神面の調和のとれた繁栄、いわゆる物心一如の繁栄といいますか、心も豊か、身も豊かといった姿をいうものだと思います。
 心の豊かさというものには、たとえば、物の価値を知り、すべてに感謝するといった心とか、自分一人の繁栄、幸せだけを考えるのでなく、自他ともの幸せ、共存共栄を願う心といったものも含まれるでしょう。そのように具体的にはいろいろありましょうが、個々人といわず、団体国家といわず、世界人類全体として、そういった心の豊かさを養い高めつつ、それに相応した物の面での進歩向上を図っていくことが大切だと思います。そのような心の豊かさがあれば、いかに物が豊富にあっても、それをムダにしたり、人間がそれに振り回されたりするといったことも起こらないと思うのです。
 それでは、そうした物心一如の真の繁栄を生みだしていくうえで、大切なものは何かということですが、これはいろいろ考えられると思います。しかし、あえて一つあげるとすれば、私は、まえにも申し上げました″素直な心″というものではないかと思うのです。
 素直な心は人間を正しく強く聡明にするということを申し上げましたが、素直な心になれば、物事の実相がわかってくると思うのです。そういうところから、心の豊かさというものも生まれてきますし、また、物の面での繁栄もよりもたらされやすくなってくると思います。
 そのように、物事の実相がわかる素直な心こそ、物心一如の繁栄を招来する一番大切な鍵となるものではないかと思うのです。
3  人間性・国民性・時代性
 松下 われわれが、よりよい社会を築き、お互いの福祉を高めていくための、さまざまな方策を考え生みだしていくさいに、普遍的な人間性、その国の国民性・民族性、さらにはその時々の時代性といういわば三つの柱を調和させつつ、それに適合したものを考えていくことが大事であり、そのいずれを欠いても好ましい結果は得られないと思うのですが、いかがでしょうか。またそういう観点から、今日の日本の社会なり政治をみた場合、そういう配慮がなされていると考えられましょうか。
 池田 よりよい社会の建設と福祉向上のために、普遍的な人間性と、その国の国民性・民族性・時代性を調和させ、それに適合した方策が生みだされていかなければならないというお説には、私も同感です。
 そして、今日の社会なり政治なりをみた場合、いろんな場面に、これらの要素のアンバランスがあることも事実です。ただし、この問題については、個人が自分のためにすることと、権力によって人びとの行動を規制ないし強制することと、この二つを明確に区別してかかる必要がありましょう。
 というのは、自分のためにする場合は、だいたいにおいて、この三つは調和しているものであり、かりにその不調和があっても、それは当人の好みでやっていることで、そのために不便をきたしても、それは当人自身が被害をこうむるだけでしょう。たとえば、ある人が自分の家を建てる場合、外国風の家を建てるのも自由ですし、時代性に合わない古風な造りにするのも自由です。そうした自分がその結果を受ける問題については、あくまでその人の自由であって、それが調和がとれていなければならないのどうのと、第三者がとやかくいうべき問題ではありません。
 大事なのは、その行為なり造ったものが、他の人にいやでも影響を与える場合です。この場合は、行為する人、造る人は、その結果としての利害をこうむる立場の人びとのことを、深く念頭におく必要がありましょう。たとえば、物資を製造する企業は、その製品を買うか買わないかは購買者の自由ですから、その製品が、これら三つの条件をどのようにそなえているかは、売れ行きにのみ関する問題です。場合によれば、異国調であるほうが購買欲をそそることもありうるでしょう。しかし、製造作業によって生ずる環境汚染は、強制的に地域住民ひいては人類に被害をおよぼしていきます。これは、普遍的な人間性に反するものとして、厳しく戒められねばならないでしょう。
 政府の施策の場合は、そこに権力というものがあり、国民は好むと好まざるとにかかわらず、その施策による結果を受けなければなりません。もちろん、一部の国民には、日本的でなくとも外国的であるほうがよいとか、現代的であるより古典的のほうがよいといった人もいるでしょう。しかし、大多数の人びとのことを考えれば、日本人の国民性、現代の時代性に合っていることが、まり多くの人びとを満足させる道といえます。
 しかし、この問題に関して、なによりも私が重要だと思うのは、普遍的人間性、民族性、時代性というふうに三つの要件をあげられていますが、絶対的に大事なのは普遍的人間性という要素であり、あとの二つは相対的なものであるということです。そして、国民性、民族性、時代性といっても、普遍的な人間性に合致し、それを基盤にしてこそ善となるのであり、もし、それが人間性に反していれば、かえって悪となることを知らなければならないでしょう。
4  中道について
 池田 現代の日本社会においては左右勢力の激突があり、世界においても争いがさまざまな立場に分かれてつづけられております。こうした事態を解決する一つの示唆として、東洋の「中道」という考え方が重要になってくると、主張する学者も多いようですが、この「中道」という言葉を、どういう意味に理解しておられるでしょうか。また、どういう評価を与えられますか。
 松下 今、日本といわず世界といわず左右が極端に対立し、いろいろと物議をかもしています。そういう姿も、一つの進歩の過程とみることもできるかもしれませんが、現実にはそこから生まれる損害とか不幸は非常に大きなものがあるように思われます。ですから、あまりに左右の対立ばかりで、争いを重ねるということは、必ずしも好ましいものではないと思います。
 やはり、一つのことにとらわれたり、偏ったりせずに、適正な道を求めていくことが大事ではないかと思います。昔から″過ぎたるは及ばざるがごとし″ということがいわれますが、どんないいことでも、それにとらわれ、それが行き過ぎれば弊害を生むわけです。人間の欲望でも、好き勝手にこれを放任してもいけないし、あまり押えつけても人間を苦しめることになるのであって、適度に満たしていくことが人間の幸せに結びつくと思います。また、政治のやり方でも、あまりきつく規制すれば、国民は窮屈に感じるでしょうし、あまりゆるめると悪に走る人も多くなって社会の秩序も乱れ、混乱すると思うのです。
 ですから、やはり人間性といいますか、人間の本性というものをしっかりと把握し、それにもとづいて、とらわれたり偏ることなく、適度、適正というものを求めていくことが大切だと思います。そういうことが真の意味での中道ではないでしょうか。真の中道とは、いわゆる″足して二で割る″といった主体性のないものでなく、このように人間の主座にたちつつ、物事の本質を正しく究めつつ歩むというものだと思うのです。
 今日の社会では、何事によらず、どちらかに偏っているという傾向がありますから、中道というと、なにかしらアイマイな道という解釈がなされたりもし、考え方が混沌とした面もありますが、ここにのべましたような中道は、真理の道であり、中正な道であって、もう少し高く評価する風潮が国民の間に芽生えてきてもいいように思います。そうなれば、政治ももっと良くなるでしょうし、能率もあがるでしよう。
 ただ今日、いろいろな面で中道が唱えられながら、いぜんとして争いしげき姿がみられるのは、口に中道を唱える人は多くても、これを実行する人が少ないからではないかと思います。多くの人が真の中道を歩むようになれば、争いももっと少なくなるでしょうし、物価なども適正になってくるでしょう。
 ですから私は、真の意味での中道の考え方は、共同生活のすべての面にわたって必要ではないかと思います。
5  すべてが共存する道
 松下 古来「大の虫を生かすためには小の虫は殺さねばならぬ」という教えがあり、また逆に「一匹の迷える小羊を救うために九十九匹を捨ててもよい」という教えもあるようです。いずれが真実なのでしょうか。また小の虫を殺さず、迷える小羊も出すことなく、すべてが共存していける道というものがあるのでしょうか。
 池田 どちらかといえば、「大の虫を生かすためには小の虫を殺す」という考え方は、政治的な権力者の志向だといえます。現代でも″大国の論理″などといわれる例は、この原理をそのままあらわしているといえましょう。
 こうした非情な権力の論理に対抗し、その圧制のなかから苦しむ人びとを救おうとしたのが、本来の宗教の目的であり、それを代表する考え方が「一匹の迷える小羊を救うために九十九匹を捨ててもよい」という言葉に集約されているのではないでしょうか。この言葉自体は、聖書から出たものですが、要は、九十九匹を捨ててもよいということに本意があるのではなく、宗教的使命とは、一個の苦悩し迷える″小羊″を救うことにあるのだという意味でしよう。
 仏教にも同様の譬えがあります。七人の子供をもつ親の心は、等しく子供たちを愛するけれども、一人の病気の子供があれば、その子に深い慈愛を注ぐという譬えをあげて、仏の慈悲は平等大慧であるが、苦悩、懊悩の人こそ、まず救済するのだという説法があります。おしなべて、いわゆる高等宗教の精神とは、そこにあるといえましょう。
 したがって、ご質問にある二つの例を、同一次元で論ずることはできないといえます。もっとも、好意的に解釈するなら、第一の例は、政治的、社会的な相対的次元から人びとを幸福にしていく道は何かという問題として考えられますし、第二の問題は、そうした外からの関与ではなく、人間の内面的な絶対的次元から人びとを救済していく道を求めることと、置き換えて論ずることはできると思います。
 ただ残念ながら、とくに前者については、小さい者、弱い者は犠牲にされてもやむをえないのだという面が強調されがちです。その結果、経済活動一つを例にとってみても、多分に大のために小を犠牲にする政策がとられているといわざるをえません。国際間では、堂々と″大国のエゴイズム″がまかりとおっている現状です。政治理念の根本的転換、政策の変革によって、犠牲を極小化していく道がとられるべきだと思います。国際間の問題も、一国、一民族という次元ではなく、今後の地球人類の方向をどうするかといった、視点の転換によって、各国、各民族の、共存、共栄の道が追求されるべき時代だといえます。
 それには、いっさいの根底として、第二の宗教的次元からの平等観が確立されねばならないといえましよう。あらゆる人びとが、それぞれ一個の人間生命として尊極の当体であり、平等に栄えゆくべき存在だという、理念の構築を急がねばならないといえます。
 どこまで深く、一個の生命の尊厳性を展開しているかという、哲学、宗教の問題です。また、一人ひとりの人間のなかに、エゴイズムを超克できる確かな哲理と実践があるかないかということです。そこに、真に宗教の役割があり、人類の未来を開く鍵があると確信します。
 一個の生命を大切にしながら、全人類を潤していく。犠牲の論理でなく、ともどもに幸福を創造していく実践、真に個と全体の調和を図っていく哲理は何かという問題です。
 仏法には「一人を手本として一切衆生、平等なり」という、哲人の金言があります。一個の″仏″という尊極なる生命を″手本″として、徹底して生命の哲理を展開したものが仏法であるというのがこの文の元意ですが、これは、等しく、あらゆる人びとに普遍的な生命の哲理でもあります。これを敷衍していえば、一人ひとりに生命次元から確かな幸福を実現し、その連帯によって、初めて全人類の幸福が得られるのだという原理になります。私たちの主張する″人間革命″という無血の変革運動の意味もここにあります。そこに、個と全体との融合、昇華が図られていくものと確信します。
6  この地上に楽土を
 松下 楽土とか天国とかいうと、なにか自分に関係のない架空のものとか、あるいは死後の世界に属することのように考えがちであると思いますが、しかし、いわゆる地上天国というか、この地上に楽土をつくるということこそ、お互い人間が大いに求め合い、また、その実現に努力しなければならないことであると思うのです。その楽土とはいったいどのようなものであり、また、いかにつくっていけばよいのでしょうか。
 池田 この地上に楽土を築くのが人間の理想であり目的であるということは、たしかに、おっしゃるとおりだと思います。仏教のなかでも、さまざまな″浄土″の思想がありますが、なかにはこの現実に私たちが住する国土を穢土として嫌い、死んで西方の極楽世界に往生することこそ本望だといつた「厭離穢土、欣求浄土」の思想、信仰があります。しかし、仏教の精髄である法華経の思想は、娑婆世界即寂光土といって、この無常なる現実世界こそ、常寂光土であるというものです。このことは、もう一歩、掘り下げて申し上げれば、この現実世界が苦悩に充満した穢土であるだけに、その現実を浄土と転換しなければならないという変革の哲理を意味しているのです。
 また法華経に「衆生所遊楽」という言葉があります。人間は、この世に遊び楽しむために生まれてきたのだという意味です。けっして悩み苦しむために生をうけたのではないということです。それでは、そのように遊楽できる″楽土″をいかにして実現するかが問題ですが、仏教では、この楽土構築の鍵を″生命″に求めています。
 「衆生所遊楽」の「衆生」とは生命という意味でもあります。幸福の楽土とは、生命の遊楽、つまり、生命の躍動、歓喜から発したものでなければならないという意味でもあります。生命の内から発する″楽しみ″こそ、楽土の最も基本的な条件だということです。その内なる世界の充実のうえに、外的幸福の要素が築かれていくべきだといえましょう。
 人間は、ややもすると物質的な豊かさを得さえすれば、安穏な楽土が実現するのだといった考え方に陥りがちです。GNP信仰とかエコノミック・アニマルといわれる生き方の背後にある思想は、まさに、そうしたものではなかったかと思います。むろん、生命の内からの開発とか、心の問題が大切だということを知らなかったというのではないでしょう。ただ、外的、物質的な充足に見合うだけの、内面の開発を促す、思想、宗教が必要だということを、等閑視してきたところに原因があるといえましよう。
 しょせん、いかなる楽土の建設といえども、一人ひとりの人間の生命の内なる不壊の楽土の構築から出発し、また、そこに帰着するものでなければ、いかに経済を発展させ外面を飾り、物財を豊かにしても、砂上の楼閣でしかないといえましょう。
 その意味では、固定した静的な楽土というものを考えるべきではなく、人間の無限の創造性を引きだしていくような、創造的環境社会を、私は楽土と考えたい。そのような楽土は、創造的生命の横溢するなかに築かれていくし、また、その社会がさらに創造的生命を伸ばす、という相関関係にあり、その絶えざる交流のなかに、ダイナミックに展開されていくものと信じます。
7  社会福祉はどこまで
 松下 最近のわが国においては、いわゆる福祉大国ということも叫ばれ、社会福祉の拡大を進める努力が払われているようです。もちろん、こういった社会福祉を充実させることは大切なことですが、しかし、それをどこまでも拡大していくことが、はたして望ましいのでしょうか。
 社会福祉、社会保障を拡大していくうえで考えなければならない最も大切なことは、どういうことでしょうか。
 池田 福祉とは、国民の最低限度の生活を保障するすべての制度機構をいいますが、日本は経済大国から福祉国家へ移行しつつあるとはいえ、実質的には、まだあまりにも不完全です。日本は残念ながら、いわば福祉を志向する初期の段階にあり、しかも、その移行の速度は、きわめて遅々としているといわざるをえないようです。
 国民の最低限度の生活を満たすことが福祉の基本とすれば、そのミニマムの生活は、時代、社会のさまざまなインパクトによって、絶えず流動する変数の性格をもつはずです。たとえば今から二十年も前には電気洗濯機は、ごく限られた家庭にしかなかったけれども、今ではほとんどの家庭の必需品になっています。これはできるだけ余裕のある時間を生活のなかで生みだしたいという人びとの欲求水準が上がったこともありますが、社会の動きがめまぐるしいため、少しでも時間を生みだし、それによって社会の進展に遅れまいとする庶民の健気な気持ちも働いているはずです。
 いずれにせよ、ミニマムの基準は心理的にも物質的にも常に上昇線をたどりながら動いており、これに準じて考えるならば、福祉のマキシマムはあらかじめ策定しうるものではなく、時代とともに変化するものです。したがって、″福祉をどこまでも拡大していくことは、はたして望ましいことか″ということは数量的に限界を明示できうるものではないと思うのです。ともかく、為政者は最大限の努力を払って福祉をできうるかぎり充実させるべきであると思います。
 ところで、このご質問の背景には福祉先進国といわれる北欧諸国の福祉事情と人びとの生活感覚が踏まえられているようです。その一つを取り上げますと、あまりにも福祉が行き届いているために、人びとは″生の俗怠″を感じはじめているという風評があります。この風評をいちおう認めていえば、″生の俗怠″というのは、福祉が行き届いて、人生に不安がなくなったから生じたというのは早計な見方です。現象的には、そのとおりかもしれません。しかし福祉が完備して″生の俗怠″が出はじめるというのは、本質的には自己の生命が外界に紛動されている姿であり、生命そのものの主体性がなくなっている状態ともいえましょう。
 このような外界の変化にのみ揺れ動く生命は、不安があればやはりそれに紛動されるし、不安がなくなれば俗怠を感ずるという、常に根無し草のようなはかない存在でしかない。仏教では、これを無常に支配された生命といい、この無常の奥に生命の奔流ともいうべき生命内在の力が脈流していると説きます。この生命に内在する力を自覚し、そこに立脚することによって、外界に紛動されずに生きていくことができるのです。
 したがって、結論していえば、福祉は為政者の責務としてどこまでも追求すべきである、そして庶民は福祉制度機構を使いこなす生命の哲学に目覚めなければならない、ということになります。
8  福祉の理念とは何か
 池田 今やGNP経済大国となった日本は、今後の目標として大衆福祉国家への道を名実ともに歩んでいかねばならない時期にあります。そこで福祉とは何か、という問題ですが、社会厚生施設を充実させ、国民の先行き不安を軽減するという意味をもっていても、その諸設備を、何によってまかなうかというと、結局、国民の血税によってなされるわけです。
 北欧のように福祉国家の歴史の長い諸国でも、高額の税金に庶民が泣かされているという話をよく聞きます。また、そうした外的な諸施設、諸制度の充実が図られても、人びとの精神的な側面には、いくつかの問題点が残されているようです。そこで、日本が今後、よりよき福祉国家を目指すにあたって福祉の理念をどこに求めるべきでしょうか。
 松下 福祉といいますと、まず考えられるのが、その対象となる人びとに、それぞれの面であるていど不自由のない生活ができるように、物資や金銭を与えるとか、なんらかの精神的なさとしを与えるといったことだと思います。もしそういうことで、その人びとが人生に意義を感じて暮らしていけるというのであれば、事はきわめて簡単です。国力といったことは勘案しなくてはなりませんが、その時々の国力なり文化程度に応じた、制度や施設を整えていけば、それでいいわけです。
 けれども、人間というものは過去の歴史とか、いろいろなことから観じてみても、それほど簡単なものではありません。そういうまことにありがたい境遇におかれて、それで満足するかというと、必ずしもそうではなく、一を得れば二を望み、二を得ればさらに三を望むというように、常に欲望がついてまわるように思われます。
 そういうことを考えてみますと、福祉については、たんに与えるということでなく、やはりみずからある努力、働きをして、築き上げ、引き上げるという面を何十パーセントか繰り入れなくては、真の福祉にならないのではないかと思います。福祉国家をつくるということで、国は、収入の多い人から税金を高くとって行なうということもあっていいでしょうが、それだけではほんとうに人びとを満足させる福祉にはならないと思うのです。
 やはり心のうえからも、また、物のうえからも満足できる福祉というのは、自分は働いてこれだけのものを得てきた、人から恵まれたのではなく、自分でつくりあげてきたのだ、だからありがたい、といった感情が加わったものだと思います。そのように自分で働いて得た福祉は、与えられた福祉よりも何倍もの意義があるのではないでしょうか。
 ですから、すべて国家が与えて福祉を充実させていくのではなく、国家とともに、自分みずからもあるていどの苦労をするが、その苦労に喜びを感じ、自分でつくりだしたという生きがいを感じせしめるような点も、十分加味した福祉制度にしていくことが大事だと思います。なんの労作もなしに与えられた福祉では、やがて不満が出てきて、福祉が福祉にならなくなってしまうおそれが多分にあります。やはり、一部はみずから築き上げたものであり、一部は国家すなわち世の人びとの浄財によって生みだされたものであるというところに、ありがたさも感じられ、満足できる福祉になると思うのです。
 そのような人情の機微といいますか、人間の本性に即したところに福祉の理念をおくことが好ましいのではないかと考えます。
9  老人問題の根本
 池田 日本の人口構成をみると、出産率が欧米並みになっていること、医学の発達によって、徐々にゼロ成長の方向へ向かいつつあるようであり、また人口問題から考えてみても、そういう方向へ行く以外に解決策はないように思われます。そうすると、どうしても老人の数が多くなり、老人問題が重要な比率を占めるにいたると考えられます。老人対策は根本的にはどうあるべきでしょうか。たとえば福祉を十分にしすぎても、かえって張り合いを失うということも考えられますが、その点はどうお考えになりますか。
 松下 先生のおっしゃるとおり、世の進歩発展につれて、人間がだんだん長生きできるようになり、それだけ老人が多くなっていくと思います。日本人の平均寿命というものをとってみましても、戦前には五十歳に達していなかったものが、今日では七十歳を超え、日本は福祉国家として名高い北欧三国と肩を並べる、世界でも有数の長寿国になってきたわけです。そして、今後ともこの傾向はつづき、おそらく日本人の平均寿命は今より延びても、縮まることはないと考えられます。
 ですから、今後、老人はだんだんとふえてくるでしょうし、それだけ老人問題は大きな社会問題となり、その適切な対策もしぜん必要になってくると思います。
 それでは、老人の処遇はどうあるべきかということは、なかなかむずかしい問題です。ご質問にもありますように、福祉を十分にしすぎても、かえって張り合いをなくしてしまうということも十分考えられます。行き過ぎた老人対策は、老人を幸せにするよりも、結果として虐待することにもなりかねません。ですから、軽視するとか虐待するということはもちろんあってはなりませんが、行き過ぎた福祉対策というものも同様に好ましくないわけです。やはり、老人には老人にふさわしい生きがいをもってもらえるようにしていくことが、老人対策の基本にならなくてはいけないと思うのです。たとえば、老人に適した仕事を提供し、それによって働く喜び、生きがいを感じてもらうというようなことが考えられます。
 それと関連して大事なことは、老人対策というものが、日本の総合した国力とか、文化程度に応じて、好ましい状態が考えられなくてはならないと思います。国力からみて貧弱であるということは困りますし、またそれを無視して行なうということも、かえって弊害を生ずることにもなりましょう。やはり、分相応ということがありますが、国力相応といったところに一つの基点をおいて、そのうえで、先述のように、たとえば適当な仕事を提供するなどして、老人に生きがいをもって暮らしてもらえるような、具体的な方策を考えていくことが大切でしょう。そういうことが、とくに政治のうえで十分配慮されることが望ましいと思います。
10  適正な競争を行なうには
 松下 競争というものは、個人にしても、企業や国家の場合でも、お互いの進歩発展を生むためにも、大いに必要で大切なことだと思います。しかし、その競争が行き過ぎると、相手を倒すことのみにとらわれ、好ましからざる姿も起こってきます。いわゆる過当競争の弊に陥ってしまいます。国と国との戦争にしても、この過当競争の最たる例だといえましよう。こういつた過当な競争でなく、好ましい姿をもたらす適正な競争を行なうために一番大切なことはどういうことでしょうか。
 池田 人間と生物、人間と人間、企業と企業、国と国との競争は、自然と社会が成り立つための一つの側面でもあるようです。ご質問でもおっしゃっているように、こうした競争が、文化、文明の発展をもたらす力ともなってきたことも事実でしょう。だが、半面、この競争という原理が、他者の抹殺と破壊を通じて、人類の歴史に汚点を刻みつづけてきたことも認めなければならないでしょう。
 たしかに戦争を通じて科学技術や医療技術の進歩がもたらされたことも事実ですが、私は、このように生命破壊のなかからもたらされた成果は、真実の進歩という名に値しないものであり、少なくとも、人間のための進歩とはいえないと思うのです。それにもかかわらず人類の歴史を冷静にながめるとき、やはり、競争原理につきまとう二つの側面だけは認めざるをえません。とすると、私たちの願いは、おのずから、競争にともなう″善″の側面を強化し、″悪″を生む根源をどのようにして断つかということになるはずです。
 競争にともなう″悪″の側面が生ずる原因を考えてみますと、ご質問に「過当競争」といわれるように、量的側面ということも、もとより無視はできません。たとえば、国と国との競争にしても、その戦いが激化しない間は、政治的解決が試みられ、外交の場での対話が主流を占めているはずです。
 だが、合法的手段でもってしては、相互の主張を調節できないところまで激化すれば、戦争という物理的手段に訴えようとする事態に突入してきたのが、人類史の実相でありましょう。この場合、戦争に訴えての競争を「過当競争」と呼ぶこともできましょう。
 しかし、より大切なことは、「過当」であるか、それとも「正当」であるかといった量的問題だけでなく、競争の質の問題です。
 さて、競争の質から、競争の内容を大別すれば、一つは、個人、企業、国家等々のエゴを貫くための競争です。そのエゴには、権力欲、名誉欲、征服欲、等々の人間生命内在の悪が同時につきまとってきます。
 このようなエゴに染められた競争は、たとえ、い
 かに小さいものであったとしても、他者の排除、殺戮、破滅をみなければ、けっして充足しない性質をもっています。
 このエゴによる競争とは別に、他者との競争を通じて、互いに切磋琢磨しつつ、ともに、庶民の生命を守ることにのみ専念するかたちの競争があります。これは、本質的に、共存し共栄することを前提とした競争です。このような競争の内部には、個人や企業や国家のエゴではなく、愛と良心と他者への尊敬の念が満ちあふれていることでしょう。
 ゆえに、もし、こうした競争のプロセスで、他者を傷つけ、人間生命の尊厳にふれる障害が生じた場合には、なにをおいても、まず、悪の側面をぬぐいさる努力に全魂を傾けていくと思われます。また、ときによっては、競争そのものを中断したり、放棄する場合もありうるでしょう。そうでなければ、競争の量的増加とともに、企業、国家、個人のエゴが忍び込む危機を避けえないからです。
 この種の競争の例としては、やはり、学問、知識、知恵の集積と開発があげられましょう。また、国家や民族においては、人類生存のための努力、文化交流の促進、苦悩する者へのエゴにとらわれないかたちでの援助等々を列挙できましょう。企業間競争の目標も、あくまで、人びとの幸福に奉仕することに定められ、それを貫く競争のみが、人類の必要とするものであり、そうした目標を放棄して、企業自体のエゴにとらわれた競争に陥ってしまったならば、たとえ、少しばかりの社会への還元があったとしても、それは、戦争に付随する科学の進歩と同列のものにすぎないと私は考えます。
11  過当競争と政治
 松下 私の手元へ、ときおり中小企業の経営者の方からお手紙がくるのですが、その多くの人があまりに競争が激しく、このままでは倒産してしまうということをいっておられます。つまり原価を切ったような、安売り競争、いわゆる過当競争になっているというのです。
 そういう過当競争になれば、大きな財力、資本力をもった大企業が必ず勝ちます。中小企業は、たとえ経営者が適格性をもち、いかに努力したとしても、過当競争には耐えられないということです。もともと私は中小企業は日本の経済、社会の基盤であり、根幹だと考えています。中小企業があって、初めて大企業も活動できるものであって、大・中・小の企業が一体となって国民生活が成り立っているのだと思います。
 ですから、その中小企業を疲弊させ、ついには倒産に追い込むような過当競争は厳に戒めるべきでしょう。ただ、人間は過当競争が悪いとわかっていても、つい感情にかられて、必要以上の競争に陥りがちです。
 だから、そこに政府のなんらかの指導、規制が必要になってきます。ところが政府の在り方なり施策をみていますと、反対にむしろ過当競争を奨励しているように思えてなりません。これでは、中小企業にとっても、国民全体にとっても、大きな損失をもたらすように思うのですが、そうした政府なり政治の在り方についてどうお考えでしょうか。
 池田 私は、経済の専門家ではありませんので、一庶民として日ごろ感じている点をとおしてお答えしたいと思います。
 過当競争による倒産から中小企業を守るような積極的な政府の姿勢なり施策を望まれていることに、私も全く賛成です。もとよりわが国が、自由主義経済、資本主義体制をとっているかぎり、あるていどの企業間の競争は、やむをえないでしょう。
 もし競争を全く廃止しようとするならば、資本主義体制そのものを根底からくつがえす以外には方法はありませんし、また、それによって起こる混乱と損失は全く想像を絶するものでしょう。
 私は、やはり、現在の体制そのものの当否よりも、この体制から生じている歪みをできるだけ早く発見するとともに、その是正に少しでも努力する姿勢と誠意と、そして知恵が必要なのではないかと思います。
 競争の過激化による″過当競争″も、やはり歪みの一つです。政府の経済政策が、競争の正常な在り方を常に維持しうるように、的確にして鋭敏な対策を次々と打ち出していくように望むのは、国民の等しくいだいている期待ではないでしょうか。
 それと同時に、企業間における経済倫理が確立されているかどうかも大きな問題です。目的のためには手段を選ばぬ式の競争や、強者が残るためには弱者を犠牲にしてもよいといった修羅闘諍の″倫理″が横行しているかぎり、大企業の繁栄のために中小企業が倒産していくのは、当然の結果といえるでしよう。
 ここに、大企業と中小企業とは、近視眼的には競争の関係にある場合でも、大きい立場からみれば互いにささえられているのだといった相互協調の精神、そして、ともどもに日本の産業の発展、国民生活の向上に、それぞれの立場で機能していくといった使命感の自覚が要請されるのではないでしょうか。
 もっとも、この問題は、たんに日本国内だけで解決されるものではなく、世界の変動する経済機構、つまり国際競争ともにらみあわせ、また、日本経済は世界の繁栄と平和のために、どのように貢献していけるかという観点からも考慮していかなくてはなりません。
 おっしゃるとおり、中小企業は日本の経済、社会の基盤であり、根幹であることを考えるならば、日本がほんとうの意味で、国際社会のなかで活躍していく力は、中小企業を大切にはぐくみ、その全体の団結があって初めて生ずるように思います。その意味からも、今日の大企業優先の政府の施策は、残念至極です。
 一刻も早く、中小企業を含めた日本経済全体の抜本的な立て直しがなされるように切に望むものです。
12  資本主義社会の問題点
 池田 「金は鋳造された自由である」といったのは、ドストエフスキーですが、この炯眼の作家の言は、たしかに鋭く一面の真理を突いていると思います。この言葉を額面どおりにとると、今日の資本主義社会は、飽くなき自由を追求する人間が、生みだした必然的な社会であることになります。
 そこで、お聞きしたいのですが、今日の資本主義社会は、いろいろ矛盾と問題点が指摘されているにもかかわらず、人間が本来、生みだすべくしてつくりだした社会であるとお考えでしょうか。それとも本来の社会から逸脱した社会であるとお考えでしょうか。もし、逸脱した社会なら、どの点で逸脱しているとお考えでしょうか。ご意見をおうかがいしたいと思います。
 松下 資本主義というものは今日いろいろと論議の的になっています。そういう資本主義がなぜ生まれ、なぜこれまで発展してきたのか、そして、なぜ今日、世界の大半をなしているのかについてはいろいろ考えられると思います。たんに人間の我欲というか、気ままな自由を追求するために資本主義が生みだされたという考えもできるかもしれません。
 しかし、やはりこれは、人間の本質に根ざした自然の姿ではないかと思います。人間には種々の欲望が与えられていますが、その欲望にもとづいて、自然な姿においてつくりだされた一つの形態が資本主義だと考えられます。もちろん、自然にできたものだからといって、それが完全であるというわけではありません。やはり、自然に生まれてきたいろいろの欠点もあるでしょう。
 だから、自然につくられた形態でも、知識が進んできたり、また、いろいろな思想とか考え方とかの研究が進めば、自然の姿に対して、人為的にこういう改良を加えたらいいということも起こってきますし、あるいは、社会主義思想のほうがいいという理論もできてきます。これはこれで、無理からぬことでしょうし、それなりに意義あることだと思います。
 資本主義は、本来、人間が長い期間にわたって、自然のうちに生みだした一つの制度であり、それによっていろいろな文化の発展も起こってきたと思います。今日の物質文化も精神文化も、資本主義によって向上発展し、その文化の発展がまた今度は資本主義を高め、進歩させてきたとも考えられます。
 けれども、そういう資本主義にもいろいろ欠点が生まれてきており、また、種々の思想とか、そういうものも高まってきていますから、今後はそれによって、資本主義の欠点を反省し、是正していくということは、大いにあっていいし、また必要だと思います。そういうところから、より高度に人間の本質に即した形態が自然のうちにつくられていくことも考えられましょう。
13  自由と秩序の両立
 松下 自由がすぎると、ともすれば秩序が乱れがちとなり、秩序を重んじると自由がせばめられがちとなります。世界の国々のなかにも、このどちらかに偏った国々があるようで、いろいろと問題を起こしているようですが、はたして自由と秩序とを両立させつつ、社会が繁栄していくという道はないのでしょうか。
 池田 自由も、秩序も、ともに一個の人間の尊さという大前提が確認されることによって真実の意義が生じるものです。
 私たちは、歴史の幾多の経験を通じて、今日、自由の束縛は人間にとって主体性・創造性を奪う不幸な状態であり、無秩序は社会を混乱に導き、人間生活を脅かす好ましくない社会状態である、という知恵を学びました。そして自由(社会的な行動の幅)の拡大と社会秩序の維持をいかに両立させるかを求めてきたわけです。
 西欧ではルネサンスにはじまった封建社会の崩壊と近代市民社会の誕生という推移が、人間の尊厳が学問的にも宗教的にも、また実践的にも再確認されはじめたことと軌を一にしています。というのは封建社会における人間の自由というのは非常に重苦しい体制の重圧のもとでしか認められなかったのに対し、近代社会への萌芽は、個人の自由の回復ということが第一前提となって、そこでいわゆる百八十度の価値転換が行なわれたのです。
 この経験を踏まえながら、自由と秩序についての一端をのべますならば、本来、自由と秩序はけっして相反するものではないはずであるということです。一見すると、秩序というのは、人間のつくった社会体制の側の問題であり、自由というのは人間個々の側の問題のようにみえます。
 しかし、実は秩序もまた人間個々の心のなかに確立されるべきものであり、外側から権力などによって強制されるべきものではない。
 つまり、一人ひとりが、みずからの責任において、自分が自由を正しく満喫するためには、同じく他の人の自由を尊重しなければならない。そこにおのずと、自分の自由といっても、みずから制限を設けなければならない一線があるということに気づくはずです。
 したがって、秩序も自由も、それが、何のためであるかが明確になれば互いに矛盾するものではなく、自動車のアクセルとブレーキのように、ともに必要なものであるということが理解されるし、またこれを正しく用いることができるものです。
 私は、あくまでも自由も秩序も、ともに一個の人間の生命の重みというものを原点に据えて考えていく必要がある、ということを申し上げたいと思います。
14  自由は行き過ぎか
 松下 戦後、わが国では、憲法によって言論の自由、思想の自由、そのほか幅広い自由が認められ保障されるようになりました。これはまことに好ましいことだと思います。けれども、その自由がともすれば行き過ぎて、勝手主義になったり、他を傷つけたりするようになったりする姿もみられます。そうしてみると、自由というものは、あるていど抑制すべきなのでしょうか。自由にして、しかも秩序があるという状態こそ好ましいと思われますが、そういう姿はどのようにしたら得られるでしょうか。
 池田 もともと自由という言葉は、ゲルマン語では「首の自由な状態」を意味し、奴隷が首にはめられた鉄の輪を解き放たれた状態をいったもので、おおむね、今日までの自由という言葉の解釈は外的な束縛から解放されること、という意味で考えられてきました。そしてご指摘のとおり、今日においては、その意味における人間の自由の幅は、かなり拡大されてきたといえます。
 しかしまた一面、とくに現代社会において顕著にみられる傾向として、人間の自由が見えざる操作によって縛られていることも見逃すことはできません。この窒息しそうな現代社会においては、自由を求めるエネルギーが屈折し、歪んだ形を噴出しているように思えてなりません。
 この側面を踏まえたうえで、私たちは自由の最も基本的な意義を鋭く見定めておく必要があります。それは、理想としての自由が今のべたような「……からの自由」という消極的な観点だけで、はたしていいのかどうかということです。いいかえると、消極的な自由の行きつくところ、つまり、いっさいの外的な束縛が取り除かれた状態というのは、たしかに無秩序で無政府状態に等しいものとなるでありましょう。そして、これのみに固執すると、結局は自分の内面の醜いエゴが露出して、世の中はエゴとエゴの確執のルツボとなってしまうことは、火を見るより明らかであります。
 そこで私は、″自由″に関して今一つの観点に触れておきたいと思います。これは、積極的自由ともいえましょうが、自分の生命の深部に巣くうエゴをどう克服するかという問題になってきます。
 古来、高等宗教では、キリスト教にしろ、仏教にしろ、この人間内部のエゴにメスを入れ、人間尊厳の基本理念を提示してきました。キリスト教で説く他者への愛や、仏教で説く慈悲の実践は、ともにその基点を己れ自身のエゴの超克に焦点を当てたものです。私は、この己れ自身のエゴの克服を自由論の基本思想として訴えておきたいのです。
 ご質問のなかにも、自由の行き過ぎとして勝手主義、他を傷つける、という点が取り上げられておりますが、これは、エゴイズムの魔性に自由の権利を付与したものにすぎません。そして権力者がエゴイズムの魔性に生命を侵されたとき、時代はまっしぐらに奈落へと落ち、人間の自由は暗き闇へと葬り去られていくでありましょう。
 自由には一定の責任がつきまとうことはいうまでもありません。それは外面的には、その行動が、他に対してどのような善悪の影響をおよぼしたか、その影響の善か悪によって判定されるものです。相手をいちじるしく傷つける言動というものは、その元をただしていけば、結局、己れ自身の生命の姿勢いかんに還元されてくる。人間の行為や言動は、社会性をおびればおびるほど、影響力が強まっていくものです。したがって、絶えず自己反省をしながら、行為、言動のチェックをしていくことが不可欠です。大事なことは、外から自由を抑制するのではなく、内より、自由を駆使するにたる個の確立を図っていくことであろうかと思います。
15  治安とインフレの関係
 松下 世界の国々をみますと、例外はありますが、概して治安の乱れている国ほど物価の上昇が激しく、治安の安定している国は物価も比較的安定しているように思われます。そのような姿をみると、一見なんの関係もないようでいながら、そのじつ、治安というものは物価と密接に関係があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 たしかに治安と物価は関係があるかもしれませんが、もしあるとすれば、それは治安が乱れるから物価が上昇するのではなく、物価の異常な上昇が治安の乱れを招くのではないでしょうか。そのメカニズムについては、詳しくは経済学者に開かなければなりませんが、私の率直な感じでは、まずインフレが人心の動揺をきたし、それが社会不安を呼んでいくように思われます。
 インフレの進行がもたらすものは、たんに経済的問題にとどまらず、人間の精神の荒廃につながっていきます。まじめに働くことがバカバカしくなるといった風潮になるのは当然です。そこにさまざまな悪がしのびよることでありましょう。
 このことは、二十世紀の現代の歴史に照らしてみても、明らかではないでしょうか。一九二九年の大恐慌に端を発した世界経済の危機は、各国の経済をマヒ状態におとしいれ、やがて第二次世界大戦の主因となっていきました。また、第一次大戦後のドイツにおけるインフレの進行は、社会不安を呼びおこし、ワイマール体制を崩壊させ、そしてヒトラーを出現させるまでにいたったのです。
 わが国の戦後の歴史をみても、敗戦後の急激な物価上昇、そして止めどないインフレの高進が社会不安を生み、米よこせデモや、二・一ゼネストヘと発展していきました。もっとも、このゼネストはマッカーサーによって中止させられましたが……。その後も、インフレは収まらず、あのメーデー事件や火炎ビン闘争も、その根源をたどっていけば経済的な激動が、治安の混乱を招いたといえるでしょう。
 最近の異常ともいえるインフレ、大蔵大臣でさえ、狂乱物価と称する日本経済の危機は、庶民の怒りを呼び、空前のゼネストが打たれるまでになったわけです。このままの状態が、さらに進行すれば、また治安が悪化する恐れもあります。したがって私は、為政者が治安の乱れを心配するのであれば、まずインフレの高進を止めることに全力を注ぐべきであると警告したい。インフレこそ諸悪の根源であると考えるからです。
16  治安保持の方策
 松下 お互い国民が安心して仕事に打ち込める住みよい社会をつくるためには、まず治安をよりよく保持することが大切だと思います。
 今日の日本においても、治安の安定ということについては、いろいろと研究もされ努力もなされているようですが、にもかかわらず、必ずしも好ましい状態にあるとはいえないように思われます。
 新たに法律を制定したり、警官をふやすことも考えられますが、そういったものをむしろ少なくして、しかも治安をよりよく保持できるような抜本的な方法・方策はないものでしょうか。あるとすれば、それはいったいどういうものでしょうか。
 池田 国民が安心して生活できる住みよい社会をつくるには、まず治安を確保することが大切であるというご所見に、私も基本的には賛成です。しかし、今日の日本が、諸外国と比較した場合、かなり治安が安定していることは国際的にも高く評価されているのではないでしょうか。私自身、諸外国を回ってみて、そのことを膚で感じています。
 ところで、治安を保つということは、昔から為政者の真っ先に心がけるところであります。しかし、これには両面の意図があると私は思うのです。一つは、真に為政者として国民の安寧秩序を保とうとする意図によるものと、もう一つの側面として、権力者がみずからの権力を長く維持するために治安の確保を図ろうとするものです。
 もちろん、この二つの側面を切り離して考えることはできないでしょうが、本来は前者が主体になるべきであり、これが逆転して後者の面が強くなってくると、どうしても警察国家的な行き方になってしまいます。古代の専制国家や、近代から現代にかけての独裁国家にみられる例です。日本も戦時中は、治安維持法などという法律がハバをきかせ、治安維持を名目に多くの無実の国民が弾圧されました。
 ご承知のように、創価学会も昭和十八年に治安維持法違反に問われ、初代会長は獄死、二代会長(当時は創価教育学会の理事長)も二年間、牢におりました。
 このような過去の歴史からしても、私は新たに治安のための法律を制定したり、警官をふやすことには反対です。その点、ご質問でおっしゃっていること――治安のための法律や警官は、むしろ少なくして、抜本的な方法・方策を考えよ――に賛成です。
 では、治安をよりよく保持するための抜本的な方法・方策は何か、とのご質問ですが、それはなによりもまず人心の安定を図ることだと思います。すなわち為政者は、いたずらに国民の不安や動揺を煽らないことはむろんのこと、常に、国民が安心して生活できるような住みよい社会の建設に努力すべきだということです。それが結果的には、治安がよりよく保たれることにつながっていくからです。
 また議会制民主主義をとるわが国では、民意が正しく議会に反映されるよう、最善の努力をすることが必要でしょう。そうでなければ、議会政治に対する不信が深まり、やがて院外に大衆行動の波が起こらないとはかぎりません。民意が正しく議会に反映されるためには、少数意見が無視されないようにすることも重要です。多数決原理をとる議会では、往々にして多数党のゴリ押しがみられますが、それは弱者を切り捨てる政治であり、かえって治安を乱す因をつくっているようなものです。
 さらに経済的側面からいえば、富が公平に配分されることが大切だと思います。一部の不労所得者が莫大な財をためこみ、大多数の国民が貧困に苦しんでいるような社会では、治安が保たれるはずはありません。かつての日本において、百姓一揆や米騒動が起こったのも、そうした経済的不平等が一つの原因をなしたと思われます。自由主義経済の現代日本でも、大企業が反社会的行為によって物価をつりあげたり、不当な利益を得るということがあっては、いつ民衆の怒りが爆発しないともかぎりません。
 このように考えてくると、真に治安を保持するためには、警察力を強化したり、そのための新たな法律を制定するといった小手先の政策ではなく、民衆が心から安心して生活できるような立派な政治を行なうことに尽きるようです。それには人びとの心がおのずから一致していけるような価値観が根底に樹立されること、そして社会的不平等が是正されることが肝要と考えます。
17  治安の乱れの原因
 池田 今日の日本の治安は、必ずしも好ましい状態にあるとはいえない、とのご高見をおもちのようですが、その原因はどこにあるとお考えですか。原因を究明せずして対策はたてられないと思いますので、その点を、おうかがいしたいと思います。
 松下 昨今のわが国における治安が、必ずしも好ましくない状態にあることの原因は、個々に数えあげていけば、いわば無限にあると思います。
 たとえば一つには法軽視の風潮があります。お互い国民が簡単に法を犯し、しかも本人も周囲も、それほど悪いことをしたという意識をもたず、なんとか理屈をつけてごまかす、といった姿はしばしばみられます。こうした姿が起こるということは、法の維持、順守に対する指導力が弱いということだと思います。
 また、治安を守るための取り締まりの方針もはっきりしていないようです。治安を乱す姿に対して、いわば疑念をもちつつ取り締まっているような気がします。取り締まる側も治安保持に弱さがあり、お互い国民の側も取り締まる機関を軽んじているわけです。国民に、おそれつつしむという心がないと思います。
 教育においても、昔は先生が尊敬され、長敬の念をもたれていましたが、今日では生徒と先生はいわば友だちづきあいです。友だちづきあいも好ましい点はありましょうが、しかし、そういう姿だけで育った人が社会人となれば、やはりどこかにゆるみも生じ、治安にも影響があるのではないでしょうか。
 さらにいえば、マスコミの報道の仕方、記事の書き方です。なにか起こると、それが世の常の姿、あたりまえのことでもあって、とかく社会が悪いということにしがちです。事実の報道は大切ですが、最後にひとこと批判をつける、その批判のつけ方に問題がありはしないかと思うのです。それによって人心が左右され、動揺するとすれば、これも治安に影響するのではないかと思います。
 このように、治安の乱れにつながる原因をあげていけばキリがないと思いますが、その根本となる原因は何かというと、それは政治の折り日、ケジメがきちっとしていないところにあると思うのです。つまり、この日本という国の国家方針、経営理念、国家経営の哲理というものがないために、国民にも為政者にも弛緩が生じています。国家の目標がはっきりしていないところからゆるみが生じ、それが治安の乱れにつながっていると思うのです。したがって、今日の日本において治安をよりよく守るためには、まず国家の経営理念、国是・国訓といったものをはっきりさせることが必要だと考えます。
 創価学会が一糸乱れない、見事な姿で活動を進めておられるのも、やはりそこにはっきりした目標があり方針があるからこそだと思うのです。国家の場合でも同じことではないでしょうか。つまり、はっきりした目標、方針、経営理念というものがあってこそ、治安をよりよく守っていくことができると思うのです。
18  法軽視の風潮
 松下 日本は法治国であり、国家の運営も国民の生活も法律というものに則して行なわれています。そしてその法律を国民お互いが正しく守ることによって、社会の秩序も保たれ、民主主義も真に正しく維持されていくのだと思います。けれども、最近では、国民の間に法軽視の風潮もかなりみられるようで、まことに憂慮すべき事態ではないかと思われます。いったいそうした法軽視の原因はどこにあるのでしょうか。また国民の順法精神を高めるにはどうしたらいいのでしょうか。
 池田 法軽視の風潮が強まってきているとのご指摘には、私も同感です。しかし私は、その風潮は、一般庶民の間よりも、政治家や大企業の責任者等、社会の指導者たちの間に、より顕著であると思います。
 国会で制定される″法″そのものが、″ザル法″″骨抜き″等の不名誉な名称を冠せられている現状です。元来、法とは、国民の利益のために、国民の総意のうえに決定された、合理的思考にもとづいた約束であるべきものです。ところが、それが制定されるにあたって、特定の政党の思惑や、そのバックにある利益のために歪められるにいたっては、なにをかいわんやです。これこそ最も法を軽視した姿であるといいたいのです。
 またこれに加えて、政治家の汚職と大企業の脱税に象徴される指導者たちの、法の網をかいくぐって自己の欲望を達成しようとするエゴの姿、さらには法の名に隠れながら、公害のタレ流しになんら痛痒を感じない企業の姿は、現代日本の腐敗ぶりを語ってあまりあるといえましょう。″国民″の間の法軽視、順法精神の欠如を正そうとするならば、まず、これら″指導者″たちの姿勢を糾弾し、正すことが先決ではないでしょうか。
 このような法軽視の底流には、″指導者″が、社会的責任や国家的、世界的視野にたつことを忘れさせる、エゴの跳梁があるといえます。このエゴイズムの克服は、法以前の問題であり、個々の人間性と、それを開拓すべき思想・宗教の分野にまで行き着くと私は考えます。
 重ねていえば、今日の日本社会の乱れは、そのまま、指導者たちの乱れを反映したものであり、それを正すには、まず、指導者自身を正すことにあります。けっして、国民の道徳教育や、罰則強化によっては、最終的に順法精神を高めることはできないことを私は主張します。
19  消費者のあるべき姿
 松下 ″消費者は王様″という言葉がありますが、これはこのように考えていいと思います。しかしまた、王様というものは、いわゆる名君であることが望ましいのも、古来一つの事実です。
 とすれば、消費者も名君であることが望ましいわけですが、それは具体的にはどのような姿を意味するのでしょうか。
 池田 ″消費者は王様″という言葉は、商品とは元来、消費者のためのものであり、いわば消費者を主体に考えなければならない、消費者こそ主体者なのだ、といった主張からいわれたものだと考えられます。そこには政治も経済も、圧倒的に生産者側、企業者側の擁護に傾いているという状況が背景にありました。
 たしかに今までの数々の消費者運動によって、いくらかの成果を収めることもできました。しかし、消費者は王様といっても、現実は、まだまだ無力な″裸の王様″であるというのが実情ではないでしょうか。企業こそ暴君であり、力なき民衆である消費者のうえに君臨しているというのが実態です。日本経済は、高度成長を遂げてきましたが、その背景の一つは、″消費者は王様″といって祭りあげながら、消費者心理を巧みに操作し、消費者の欲望を生みだして生産を高めていったという点が指摘されております。かと思えば、エネルギー危機とともに、政府は″節約・節制″の掛け声をかける――正直いって、消費者は翻弄され、戸惑っているというのが真相でしょう。
 したがって、あえて消費者は名君でなければならないというならば、まず、消費者の本来の権利と立場を確立することこそ先決とされなければなりません。そういう意味から、名君であれというより、消費者こそ″智者であれ″というほうが、ふさわしいように思えます。つまり賢明なる庶民であれということです。
 消費者一人ひとりが、信念として自分の生き方をもち、具体的には、商品知識を高め、また企業の在り方を厳しく監視していく鋭い鑑識眼を養っていくといったことが必要でしょう。人が買うから自分も買うとか、物価の問題は、政治家や、どこかの消費者運動に任せておくといった無責任さ、他力本願の行き方では、真に消費者の主権は得られないにちがいありません。ときには、みずから決然と、不買、買い控えの行動をとる勇気があってほしいと思うのです。近視眼で物をみるのではなく、信念ある正視眼で、判断し行動してほしい、それが私の訴えたい″智者″たる消費者、いな庶民の姿です。
20  余暇をどう利用するか
 池田 フランスの社会学者、ジャン・フーラスティエ教授は、人間は近い将来において生涯の労働時間は四万時間になるであろうと予測しています。これは一日に働く時間が大幅に減少し、余暇時間が、その分だけふえるということになりますが、日本人は、余暇の利用の仕方が欧米に比べて不得手だといわれます。
 そして今後とも、さらに余暇時間がふえる傾向にありますが、余暇を有意義に活用する方法を、どう考えておられますでしょうか。また日本人の心のなかには勤労を美徳とする意識はあっても、「余暇」をまともに考える意識は乏しいように思われますが、いかがでしょうか。
 松下 今日、働く時間が少なくなり、余暇の時間が大きくなりつつあるというのは世界的な傾向だと思います。こうしたことも、いちおう人間の進歩発展の姿と考えられ、どこの国といわず、今後とも余暇の時間はふえていくでしょう。とくに、生産力が大きくなる一方で、資源が乏しくなっていくということを考えますと、近いうちには、週の三日だけ働いて、四日は休養するというか、余暇にあてなくてはならないようになるかもしれません。
 そういうことを考えますと、余暇の活用、善用ということを大きな問題として考えなくてはならない時代にきているともいえましょう。これはお互い個々人にとってだけでなく、国家社会としても、軽視することのできない問題だと思います。つまり、余暇の活用の仕方いかんということが、一国の発展を左右するほどになると思うのです。余暇の時間をうまく利用、善用する国は今後発展する国であり、それをへたに使う国は、極端にいえば滅びてしまう、あるいはそこまでいかないまでも、発展しない国になるとも考えられます。
 そのように、余暇の活用ということは、大きな社会問題であり、政治問題であり、また教育問題であって、これを学問化するというといささか大げさかもしれませんが、それほどの重要性のあることだと思います。
 ですから、私ども産業界としても、この問題については、いろいろ研究もし、考えてもまいりましたが、国家全体、国民全体としても、真剣に考える必要があると思います。そして、この問題を日本人共通の問題として考えていくためには、やはりそこに共同生活体としての国家の在り方というところまで問題を掘り下げる、つまり国家の経営ということと考え合わせるということがなければならないと思います。そういうものの一環として余暇の問題を考えていくということでないと、どうしても力弱いものになってしまうでしょう。
 そういう国家の方針、民族の方針にたって、余暇の活用の問題を大きく取り上げ、行政の面では、たとえば余暇活用省、余暇活用大臣といったものをおいてもいいと思います。それほどの重要性をもつものだといえましょう。
 そういうことを国全体として、今から考えておくことが必要だと思います。また、個人としても、自分の将来のために、それぞれに余暇の善用、活用ということについて、それぞれの立場で考えることが大切でしょう。しかし、そのためにも、国家としての基本理念、基本方針がなくてはならないと思うのです。
21  調和の本質
 松下 調和というと、とかく妥協や馴れ合いのように受けとり、足して二で割るようなことで調和なれりと考えてしまいがちです。はたして、これが調和の本質でしょうか。調和というのは、もっと高い観点から考えねばならないようにも思いますが、調和の本質ということについて、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 たしかに、ご質問にもいわれているように、調和の本質は足して二で割るような行き方や、安易な馴れ合いなどにあるのではありません。
 かし、残念ながら、″調和″という言葉で実際に行なわれてきたのは、ほとんどが妥協や馴れ合いであったため、″調和″という考え方自体、とくに若い人びとなどからは一種の感情的な反発をもってみられがちのようです。
 それは、長い間の日本人の習慣がつくりあげてきた優柔不断な問題の解決の仕方にあると私は思います。意見が対立しても、互いに納得するまで論議するのでなく、適当なところで「まあ、まあ」という調子で、情緒的な形にすりかえて終わらせてきたこと、そして結局、力をもつほうが自分の意見を押し通し、力をもたないほうはそれに従うことが″調和″であるとするような日本人独特の解決法に対する反発だと思います。
 それはともかく、調和の本質はどこにあるのでしょうか。この問題を考えるさい、欠かせないのが、対話の本来の在り方ということです。本来、対話、論議とは、二つ以上の見解があって対立した場合、冷静な理性、知性にもとづく忍耐強い話し合いによって、より止揚されたところに解決点を求めようとするものです。
 調和は、こうした対話、論議を尽くした結果として、互いが納得できる解決策を生みだしたところに実現するものであるはずです。あるいは、皆が自分の意見を存分にいいあえ、それが尊重されるところに調和の本質があるともいえます。
 ですから、調和というのは、どこかに先験的にあるのではなく、相対立する人びとの、互いを尊重しあう姿勢のなかに生みだされ、またそうした話し合いによってつくりだされるものであって、だからこそ、その話し合いの在り方が最も肝要なポイントになるわけです。
 いうまでもなく、その話し合いは、相手の意見を尊重せず、自分の主張を押し通そうとしていったのでは、けっして″調和″にはいたりえません。したがって、相手を信頼し、理解しあおうとする心の姿勢こそ、話し合いの前提となる条件です。
 それといま一つは、全体観にたつということではないでしょうか。互いに全体観、大局的な立場にたって話し合うとき、より高い次元での解決点を発見することがスムーズに行なわれるものと思われます。これらの条件にのっとって話し合っていくとき、調和にいたる道程が明確にされるように思います。
 これまでのように、調和が、足して二で割ったり、安易な馴れ合いに堕さないためにも、前提となるべき真の対話を成立させる条件を、日本人一人ひとりが身につけねばならぬ時にきているように思います。
22  人格的価値の基準
 池田 その人の社会的地位、たずさわっている職業の種別等と、人格的価値とはおのずから異なるし、また根本とすべきは人格的価値のほうであると思います。しかし現状は、社会的地位や職業の種別等による評価が優先して、それがそのまま人格的価値に置き換えられているようです。この現状をどのように考えられますか。また、人格的価値の基準はどこにおくべきであるとお考えでしょうか。
 松下 おっしゃるとおり、その人の社会的地位なり職業というものと、人格的価値とは別のものだと思います。人格的には中ぐらいと申しますか、まあ普通であっても、なんらかの技能に秀でていて、それによって高い社会的地位を得ているという場合もありましょう。そのこと自体はべつに悪いことではないと思うのです。すぐれた技能をもっているということは、それによってそれだけ社会に貢献することにもなるわけですから、現実の社会では、やはりそれも高く評価されていいと思います。しかし、人間としてどちらがより根本となるべきものかといえば、これはご質問にもあるごとく、人格的価値のほうでしょう。
 したがって、人格的に非常に立派である、しかもすぐれた技能をもっているという、いわば文武両道にすぐれているといった姿が一番好ましいわけで、そういうことをお互いに目指すことが大切だと思います。
 しからば、その人格的価値の基準となるものは何かというと、良識があるとか、自分の良心に忠実であるとか、個々にはいろいろ考えられましょう。たとえば、音の中国では、仁、義、礼、智、信、のいわゆる五常というものを、人間の踏み行なうべき大切な道としたそうですが、そのような点に秀でた人も人格の高い人といえましょう。
 しかし私は、最も根本をなすものは、これまでにもたびたび申し上げました″素直な心″ではないかと思うのです。他を思いやる仁の心も大事である、利害を捨てて正しい道理に従う義というものも大事である、礼節を重んじる心も必要であり、真の知恵も、互いに信頼しあう心もそれぞれ大切である、そのいずれもが人格的価値を決める重要な要素となるものではありましょう。しかし、そうしたもろもろの心を生みだし、培養する基本となるものは、やはり素直な心だといえます。素直な心については、すでに申し上げましたからここでは詳しくは申しませんが、素直な心になれば物事の実相がわかり、素直な心によって人間は正しく強く聡明になってくるわけです。
 ですから、そこからは他に対する思いやりもわいてきましょうし、正しいことを行なうにあたっては、千万人といえどもわれ行かんといった勇気もわいてきます。また、物事の是非善悪を正しく見極める知恵も出てくるでしょう。
 そのように考えてみますと、素直な心というものが、人格的価値の基準であるといっていいのではないかと思います。
23  相互不信を取り除くには
 松下 いつの世にも、人間相互の不信感というものが、絶えず、さまざまの災いを引きおこしていますが、この人間相互の不信感というものを根本的にぬぐいさる妙策というものがあるのでしょうか。
 池田 たしかにおっしゃるように、いつの時代にも人間不信が渦巻いており、それが種々の葛藤の原因になってきたことは否定できません。しかし、それと同時に、人間相互が信頼しあい、社会に潤いと躍動をもたらしている姿がみられることも事実です。信と不信、これらが相交わり錯綜しているのが人間社会だともいえましょう。
 ところで、相手に対する不信というものをよくよく考えてみると、実は、自分自身に対する不信であると考えることもできるのではないでしょうか。相手の心を推し測るとき、人はみずからの生命を鏡に映しだすごとくみつめ、それを相手に投影して、相手を信頼したり不信をいだいたりする。極端な話ですが、すべての人が、みずからに恥じない行動をすれば、そこには人間不信が介在する余地はなくなるはずです。
 この考え方はあるいは極論であるかもしれません。自分だけ正しい行ないをしても相手笙暴切られる場合が往々にしてあることは事実です。しかし、右にのべたような考え方のなかに、解決の鍵があるように私は思うのです。
 たとえば、こういう例を考えてみたい。私たちは人に金銭を貸してあげたり、あるいは見知らぬ人から急に暴力的行為に出られることを心配せずに通りを往来したりするのは、法律によって守られていると信ずるからです。見も知らぬ人に全幅の信頼をおいているわけでもなければ、貸したお金は無条件に返してくれるものだと信じているわけでもない。そこに法あるいは、人間としての道義の力を認め、人びともその法ないし道義に従っていることを知っているからこそ、信頼関係が成り立つわけです。
 現実には、法の網の目をくぐって人を欺く人がいるゆえに、ますます不信感がつのったりするわけですが、それでも法の威力がなければ、それこそ一瞬の安心もできず、生きていくことさえ不可能な事態になるはずです。
 この考え方をさらに敷衍して、仏法ではそれぞれの行動の結果は、みずからの業、行動の集積によって決定されるのであり、その行動の善悪は法によって決まることを教えております。
 すなわち、私たちの生命活動をつかさどる根源的法の存在することを教え、それにのっとった行動、姿勢がみずからの内にあるか否かによって、幸・不幸の結果があると説くわけです。そこでは、他人が裏切ったかどうかは、たんなる「縁」としての副次的要素となる。たとえ他人の行動がいかなるものであろうと、その人自身の幸・不幸の結果を招来する決定的要素とはならず、かえつてそれを乗り越えることができるとするならば、他人を信じないという姿勢はなくなってくるはずです。
 さらにもう一つの視点として、より高次な共通目標にたつとき、人はおのずから力を合わせ共通の精神的基盤をみつけだすものであります。人びとの視座をどれだけ高め、そのような目標に向かわせることができるかが、人びとの間に信頼を呼べるか否かを決める鍵であり、人の不信を悲しむまえに、みずからの内に人から信頼されるべき精神的内容を築き上げ、人びとに呼びかけていくことこそが先決ではないかと考えるのです。
24  新しい「恩」の考え方
 池田 仏教のなかには「恩」という考え方があります。こうした考えは現在では古い封建道徳の遺物であるとして排斥されていますが、ヨ切衆生の恩」を説いているように、たんなるタテの主従関係を強いるものではなく、もっと社会への広がりを含めて、他者の存在を受け入れ、それへの信頼を強調した内容をもっております。
 人間疎外、エゴの相克する社会の亀裂を埋める潤滑油として、こうした考えに新たな息を吹き込んで見つめ直していくことが必要ではないかと考えますが、恩ということをどういう意味にとらえるべきか、またその役割はどうあるべきだとお考えになりますか。
 松下 おっしゃるとおり、「恩」ということはきわめて大事なものだと思います。実は私どもの会社では、私自身の処世の基本でもあり、また社員の指針ともなるものとして、七つの精神というものを以前から定めておりますが、その一つとして「感謝報恩」ということをあげ、この思いこそ、われわれに無限の喜びと活力を与えてくれるものであり、この思いが深ければ、いかなる困難も克服でき、真の幸福を招来する根源ともなるものだとしております。ですから、ご質問にもあるように、人間生活の潤滑油としての役割を果たすものだと思いますが、たんなる潤滑油ではなく、いわば高級潤滑油ともいえましょう。
 俗に、大でも三日飼われれば恩を忘れぬといいますが、まして人間には本来、好意を受けたら、それをありがたいと感謝し、それに報いたいという感情がわいてくるような本性がそなわっているのではないでしょうか。恩という言葉がいつからできたか知りませんが、そういう言葉のない昔から、その内容はあったろうと思います。しかし、そういうものを強く感じる人と、あまり感じないという人とがありましょう。けれども、あるていど適当に恩というものを感じ、それをかみじめ味わう、そして、だんだんそれに報いていくというところから、その人の人生も、また共同生活も非常に情操的に豊かになっていくと思うのです。
 心の豊かさというものはいろいろありましょうが、やはり恩を知るということが一番心を豊かにするものではないでしょうか。人間といわず天地万物いっさいのものの恵みがみなわかってくるわけです。
 花一つ見ても、今まではただきれいだなというていどだったものが、もっと深い美しさがわかってくると思います。つまり、恩を知るということは無形の富であって、無限に広がって大きな価値を生むものだといえます。
 猫に小判ということがありますが、せっかくの小判も猫にとっては全く価値なきものにすぎません。けれども、恩を知ることはいわばその逆であって、鉄をもらってもそれを金ほどに感じる。つまり鉄を金にかえるほどのものだと思うのです。そして、だから金にふさわしいものを返そうと考える。みんながそのように考えれば、世の中は物心ともに非常に豊かなものになっていくでしょう。
 もっとも、この恩とか恩返しということは、けっして要求されたり、強制されたりするものであってはならないと思います。今日、恩ということがともすれば排斥されているのは、昔はそれが君臣の恩を中心として強調され、しかも多少強制的に要求されるといった面があったからだと思います。けれども、本来、恩というものは、ご質問にもあり、またすでにのべてきましたように幅広いものであり、しかも人間生活を物心ともに豊かにしていくきわめて大切なものなのです。ですから、そういうことが、自由な姿においてお互いの間で理解され、浸透していくことが望ましいと思います。
 そのためには、それを培養するようなあるていどの教育が必要でしょう。最近は、豊かな情操を育てるうえで、いわゆる音感教育というものが重視されているようですが、それ以上に、いわば「恩感教育」というものを、近代的な姿で行なっていくことが大事だと思うのです。
25  普遍的な正義はあるか
 松下 正義とは、辞書によれば「正しい道理、人間行為の正しさ」であるということですが、今日の社会においては、人によってその正義の内容が異なるという場合が少なくなく、そのためお互いにいらざる対立をし、混乱を招くといった姿も往々にしてみられるようです。正義とは、このように人によって異なってもよいものでしょうか。それとも万人に共通する普遍的な正義というものがあるのでしょうか。
 池田 正義についての明確な理念が失われ、何が正義なのか、はっきりした定義が下せなくなっているのは、たしかに今日の実情です。それは、社会が複雑になり、価値の混乱をきたしていることと対応しています。
 しかし、ある意味では、これは今日だけの問題ではなく、大なり小なりどの時代にもあったことではないでしょうか。といいますのは、正義という問題も、善悪の問題と同じように、時代とともに、また人によって、ところによって、それぞれ異なるという面をもっているからです。ある時代、あるところでは正義とされたことが、次の時代や別のところでは不正義とされるということは、過去の人びとにも気づかれていたことです。ただ、大部分の民衆は、その時代に正義とされることを疑わずに信じていたといえるでしょう。
 しかし、現代に生きる私たちは、とくにこの正義が不正義とみなされたり、逆に不正義が正義とみなされたりする歴史のアイロニー(皮肉)を十分眺めうる立場にたっています。
 そこから、正義という観念に対する不信と疑惑の念を起こし、万人に共通する普遍的な正義というものはなく、要するに、自分だけの正義感をもっておればよいといった考え方に思考を短絡させたようです。「自分には自分の正義がある」といった一種の居直りに近い考え方が多くの人をとらえるようになり、その結果が今日の混乱を招いているといってよいでしょう。
 しかし、私は、現代人が、そのように判断する過程で、大事な問題が忘れられていると思うのです。といいますのは、正義、不正義の問題を歴史の表面的事象だけから追って、現になんらかの正義をいだいて戦った人びとの内面については全く無視してしまっているからです。
 もし、その人びとの内面にまで目を届かせる深い思考をすれば、簡単に、万人共通の正義はないといった結論は出てこないはずです。
 もし、自分がその時代に生きていたら、どのように生きていただろうかといった、自分の生き方との関連のうえで過去の出来事を考えるならば、むしろ、正義というものが、時代によって変化するのはなぜか、永遠不変の正義というものはないのかといった真剣な思索が行なわれるはずです。
 さて、そこで、時代や人によって異ならない正義は何かという問題ですが、それは一言でいえば、生命の尊厳、人間が人間として生きるための基本的な条件を守り抜くところにこそおくべきであると思います。
 私は、この「生命」を尊厳ならしめる、あらゆる活動、逆に、生命の尊厳を踏みにじるあらゆる勢力に対決することこそ、万人に共通する正義であると思います。
26  力の正しい行使
 松下 この社会には、権力とか財力、知力、あるいは多数の圧力といったさまざまな力が存在し行使されています。こうしたいろいろな力は、すべて正しく行使される場合にのみ、許されるのではないかと思います。世の中の真の繁栄、人びとの幸せに結びつくような、正しい権力、正しい財力、正しい知力、正しい圧力であって初めて、力というものが意義あるのであって、それ以外の力は排されるべきではないかと考えます。
 昨今、金力というか財力などの正しからざる行使については、いろいろ批判がなされていますが、その正しい使い方についてはあまり論及されていないようにも思われます。こうしたもろもろの力を正しく行使していくためには、どうすることが心がけられるべきでしょうか。力がエゴ的に行使されることが許されていいものかどうか、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 ご質問でものべておられるように、人間のもつあらゆる力は、それらが正しく行使されてのみ、人びとの幸福に寄与することができましょう。
 一部の特権者による金力、財力、知力などの誤った使用が、庶民の生活を圧迫し、この世界の物質的・精神的破壊をもたらすことはいうまでもありません。誤った使い方とは、ご指摘のように、エゴにもとづいた力の乱用だと思います。
 さて、種々の力を、エゴ的にではなく、正しく使うためには、その前提として力というものの性質を解明しておく必要があります。
 人間は、より大きな権力、財力をもつのに比例して、権力、財力、知力を使うのではなく、かえって、これらの力のもつ魔力というべきものに使われる、哀れな存在になりさがってしまうのです。金銭、権威、名声の奴隷になってしまった著名人を見受けることも少なくありません。
 力には、それを所有し行使する人間のエゴを引きだす魔性のようなものが必ずそなわっています。力をもつ人は、この事実を銘記し、その魔性との絶えざる戦いをなす決意が要請されましょう。とともに、力を他の人びとの幸福のために活用する賢明な知恵を開発する努力が大切になります。常に、みずからのもてる力を、自己のためではなく、最も苦悩する人びとに役立てるにはどうすればよいかを熟慮することが肝心ではないでしょうか。
 仏法が取り組んだのは、人間の正しい行為として、力にそなわった魔性を打破するために、自己の生命に内在する慈悲のエネルギーと英知の光を引きだす方途を明らかにすることであったといえます。慈悲と英知を輝かす努力のなかにのみ、すべての力は正しく行使されるのです。
 たとえば、こうした決意にたった企業家ならば、企業活動によってもたらされる利益を、できるだけ社会に還元する道をみずから探し求めるはずです。利益を庶民に還元するために、積極的に、その地域の文化、福祉の向上に努めるでしょう。もし、少しでも住民に迷惑をかけているならば、真っ先に住民への被害をとどめることに努力を尽くすでしょう。また、自己の企業のためではなく、人類的視野にたった科学と文化発展のために、努力するという方法もあるでしょう。研究機関、教育機関、病院、種々の施設に、真心からの、ひもつきでない財政援助をなすことも可能です。
 だが、現実には、今の日本の多くの企業者に、こうした、偽善ではない慈悲の発露を求めることは夢物語かもしれません。せめて、庶民の切なる期待を裏切らない、誠実な行動だけはしてほしいものです。そこから、力の正しい行使への道が徐々に開かれていくと私は考えます。
27  平等と差別
 松下 最近は、平等ということが非常に大切とされており、いわゆる差別はいけないということが盛んにいわれています。一方、人間は一人ひとり顔形が異なるように、それぞれに異なった特質があるわけです。ですから、見方によっては、形のうえにおいてある種の差別をつけることがかえって真の意味の平等になるとも考えられますが、いったい、平等ということと差別というものの兼ね合いをどのように考えていくことが、人間の真の幸せを生むのでしょうか。
 池田 平等が大切であるということは、いうまでもありませんが、では平等とはどういうことか、いかなる場合に平等といえるのかという問題になると、非常に複雑で、むずかしい問題です。それは、ご質問にもあるように、一人ひとり、個性があって異なった特質をもっているということにもよりますし、その他にも、能力、功績、必要性等において個人差があるからです。
 たとえば、三百メートルを走る競技をしたとします。一等の人には金メダル、二等には銀メダル、三等には銅メダルをあげた場合、この賞は、明らかに不平等です。しかし、だからといつて、賞が不平等だといって文句をいう人はいないでしょう。もし、かりに走る距離がコースによって違っていて、ある人は百九十メートルしかなく、そのために一等に入り、金メダルをもらったとすれば、その不平等に対して、激しい抗議がなされるに相違ありません。
 つまり、ここで要求されている″平等″とは、金メダルを得るためのチャンスである、二百メートル競走ということにおいて、平等の条件が満たされているということです。この点で厳格に″平等″であることが、この場合の「正義」であるわけです。
 もし、この条件の平等が満たされていなかった場合、結果がどんなに″平等″であっても、それは不正義として糾弾されるはずです。また、走った結果に違いがあったにもかかわらず、一着の人も五着の人も、同じ金メダルを得たとしても、これまた喜ばれないばかりか、やはり″不平等″であるという批判をまぬかれないでしょう。
 これは一つの例ですが、このことから″平等″とは何かを考えてみますと、その人の能力に応じて仕事が与えられ、功績に応じて賞なり名なり名誉が与えられ、権利に応じて責任が与えられること、そして、その程度は、相対的に定められるべきであるということになりましょう。
 「相対的に定められる」ということは少しわかりにくいかもしれませんが、簡単な例でいうと、オリンピックなどで、百メートルを十秒ゼロで走り、一位で金メダルをとった、二位の人は十秒二で銀メダルをとった、とします。ところが、何年前かのときには、十秒三で一位になり金メダルをとることができた。その場合、今回十秒二で走りながら銀メダルしかもらえなかった人は、何年か前の人が、十秒三でも金メダルをもらえたことに対して、不満を感ずるかといえば、そんなことはないでしょう。つまり、この賞は、何秒で走ったかという記録に対して与えられるのでなく、何位であったかという相対的成績に対して与えられているわけです。
 厳密にいえば、不平等のようであっても、人間はそれを不平等とは感じないものです。結局、能力、功績、資格等には個人差があり、その個人差に応じて、それに対して与えられる仕事、賞、名誉、俸給等にも差別があったとしても、そこに適正さが守られていれば、そのこと自体″平等″であるといえます。
 ただ、あえて、差別があってはならないものをあげれば、能力を身につける機会は平等に与えられなければならない――これはたとえば教育を受ける機会の均等といったものです――、資格を獲得する機会は平等でなければならない――これは各種資格試験は厳正公平でなければならないこと――等になりましょう。生来、すばらしい素質をもちながら、家が貧しいために十分に教育を受けられない人もいます。こうした場合、貧しい人でも、存分に教育を受け、素質を伸ばすことができるよう援助したり、あるいは教育費の無料化を実現することは、政治、社会にとって″平等″を実現する方法でしょう。
 このように、平等といっても、物品やお金、社会的地位などについていう場合と、人間自体についていう場合とでは、根本的に考え方を変えなければならない問題があり、より究極的には、すべての人を尊厳な存在として尊重することといえます。この人間の尊厳についての平等の考え方を絶対の前提とし、そのうえで、すべての人が自己の特質を発揮できるような条件、権利の平等を明らかにし、さらに、この各自の特質、能力、功績に応じた報酬等の平等が実現されなければなりません。
 これを逆転して、報酬などの物質的な平等を押しつけようとすると、各人の個人差に対してはかえって不平等になり、ひいては、人間としての尊厳をも無視した結果になってしまいます。また、個人差に応じて報酬に差別を設ける場合も、人間としての尊厳を踏みにじることのないよう配慮されなければなりません。
28  正義と力
 池田 正義はそれを裏づける力とは切り離せない側面をもっています。正義を主張する者がなんの力もなく、不正を抑えることができなければ、その正義がいくら正当であっても、弱者の泣き言に終わってしまうのが常です。
 ここに、正義は不正と悪を屈服させうる力をもつ必要があるように思います。しかしながら、今日の社会に、多分にみられる傾向は、この関係が逆転して″力こそ正義である″との建前のもとに、力や暴力が先行し、その結果、力と力とが激突する惨劇がしばしば見受けられるということです。
 そこでお聞きしたいのですが、今日の社会において正義と力の正当な在り方は、どうすれば回復することが可能であるとお考えでしょうか。ご意見をお聞かせください。
 松下 ご指摘のように、今日の社会では、力なき正義は正義としてとおりにくいのは事実です。そして、これは今日だけでなく、過去においてもそうだったようです。俗に″勝てば官軍″などといわれているのも、そのことを示しているのでしょう。孔子という人は、非常に立派な人であり、その説くところは正義であったと思いますが、残念ながら、みずから力をもたなかったために、自分ではその正義を実現できず、後の権力者がその考えを政治に取り入れて、初めてそれが世にとおるようになったわけです。ですから、今日においても、正義を唱える者は、それを裏付ける力をもたなければならないと思います。もちろん、何が正しいか、真の正義とは何かということ自体、非常にむずかしい問題ですが、かりに真の正義を主張する人があっても、それにふさわしい力をあわせもたなくては、その正義が正義としてとおらないと思います。
 なぜ、そういうことになるかといえば、正義を正義として受けとる人が少ない場合が多いからでしょう。正義を正義として受けとる人が多ければ、正義をとおすのになんら力を必要としません。正義であること自体が力になるわけです。けれども、現実の社会は必ずしもそういう姿になっていません。だから、真の正義を唱える場合でも、それを裏付ける力がないと正義がとおらないのです。そういう状態がけっして好ましいとは考えませんが、現在もまた過去においても、それが現実の世の中であることは、いちおう承認しなくてはならないと思います。
 これを変えることは、非常にむずかしいと思います。そのためには、徳育というものを社会のすみずみまで浸透させ、いかなる人でも正義を正義として見分ける真の知恵をもつようにしなければならないでしょう。ただ、それは一朝一夕にはできませんから、やはりここ当分は、正義を唱えれば唱えるほど、一方で力を必要とすることになると思います。
 ただ、ご質問にもあるように、こういう状態では、正義の心なきものが、力を振るうというきわめて危険な姿も起こってきます。ですから、やはり正義が正義としてとおる社会をつくっていくため、国民共同の力で、虚心に何が正義であるかという徳目を生みだし、人間良心の培養というか、中正な人間教育、国民教育というものを盛んに行ない、一刻も早くそれに成功しなくてはならないと思います。
29  現代における大義
 松下 ″大義親を滅す″という言葉もありますように、昔は君臣の義というものが、他の徳目より優先していたようにも思われます。それでは現代において、それに代わるなんらかの大義というものがあるでしょうか。あるとすればそれは何でしょうか。
 池田 現代社会にあっては、さまざまな勢力・集団が、それぞれに、平和・自由・平等・独立・繁栄等の理念を掲げて、千差万別の行動を起こしています。これらのさまざまな指標をみると、まさに価値の多元化を象徴しているように思われます。私は、これらの多元的な価値観は、さまざまな側面から人間の幸福を追求していることであり、それはそれでよいと考えます。あえてそれらを一つのものに統一する必要もないし、むしろ、統一すべきではないと思います。
 かつての君臣の義は、人間をタテの系列に並べ、それを規範として、身近な行動にいたるまで強く拘東する力をもっていました。今日、いろいろなところで主張されている理念には、そうした身近な行動規範という面が薄いのが弱点です。というより、自由とか平等とかいいながら、日本人の行動基準は、あいかわらず″君臣の義″の流れをくむタテの人間関係によって支配されているのが実情です。
 ただ、私は、これら多元的な価値観の一歩奥にあって、それらにもとづく行動をチェックする根本的価値という意味において、″生命の尊厳を守る″ということが、最も根底的な基盤におかれなければならないと考えるものです。あえて大義というならば、これが現代の″大義″であるといってもよいでしょう。なぜなら、今日のさまざまな勢力・集団が掲げた理念も、すべて、この一点をいかにして実現するか、というところから発せられた理念・指標であるといえるからです。
 本来、人間生存の目的は、国家や社会や、一集団のためにあるのではなく、自己自身の生命を、最大限にみがきあげ、その力を発揮するところにあります。その個人の尊厳を守るために社会があり、そのための社会の指導原理が、平和であり、自由であり、平等であり、繁栄等であると考えます。
 しかし、さまざまな理念・指標が″生命の尊厳を守る″ことから出発しているとはいっても、とかく、その出発点が忘れられがちなのが現実であるといえます。ここに私が、あえて″生命の尊厳を守る″ことを、行動のチェックポイントとして強調するゆえんがあるのです。しかも私は、これを、自己の生命の尊厳を守るというより、むしろ、他者の生命の尊厳を守るということに、より重要な意味を込めたいのです。私たちは、平和・自由・平等・独立・繁栄等という名のもとに、自己以外の人間存在に対して生命の尊厳を軽んじ、抑圧し、生存をすら脅かしていないでしょうか。この″生命の尊厳を守る″という一点が、常に人びとの思考の中心にあって、すべての思想・行動を照らしだしているというようになることがなによりも大切だと考えます。
30  タテ社会の人間関係
 池田 日本の社会構造はタテの関係で律せられていることを分析したのは中根千枝さんですが、タテ社会には、個人の自由な発想とか、行動というものが権威的に拘束される面が強いように思います。こうした日本の伝統的なタテ社会の人間関係をどう評価しておられますか。
 松下 日本の社会が伝統的にタテの人間関係で律せられている面が強いのは事実だと思います。たとえば、欧米では職場などでは上下の関係にあっても、そこを離れれば一個人と一個人という対等の関係になるけれども、日本では個人と個人の場合にもそうした上下関係が多少からんでくる面があるようです。そのこと自体には、高く評価できる好ましい面もあって一概に排することはできない半面、また欠点もあって、いわば両刃の剣をなし、長短あわせもっていると考えられます。
 ただ現実の姿として、今日ではそうしたタテの関係というものは、しだいに薄まりつつあり、ヨコの人間関係がだんだんに広まるような傾向がみられるのではないでしょうか。タテの関係は、一つの伝統として残っており、それにはいい面も欠点も両方あるけれども、民主主義的な思想が広まるにつれて、しだいに是正されてきているように思うのです。こうした傾向はこれからもつづいていくと考えられますから、今後はいっそうタテの関係というものは薄まっていくと思います。ただ、そうはいっても、これは長い間の伝統であり、習慣をなしてきたわけですから、あまり急速に極端な変革を行なっていくということでは、かえって混乱が生まれたり、弊害が起こってきたりすると思います。ですから、徐々にといいますか、適度に薄めていくことが必要でしょう。
 つまり、タテの関係がしだいに薄れつつあるという大勢を承認したうえで、その傾向を、たんに放任するのでなく、むしろ、それにある種の方向づけをして、うまく導いていかなくてはならないと思います。タテの関係にも、日本の伝統としてそれなりのよさがあります。ですから、そのよさを残し生かしつつ、日本独特のヨコの広がりにまで理想化していく、そういうことによって、好ましい姿において、新しい人間関係の姿を樹立していくことができるのではないかと思うのです。
31  民主主義を生かすには
 松下 戦後、民主主義というものが日本に入ってきて、政治にも国民生活のいろいろな面にもそれが取り入れられてきました。けれども、戦後三十年近くたった今日でも、いまだに民主主義のはきちがえといったこともいわれており、必ずしも民主主義が好ましいかたちにおいて国民の間に定着したとはいえないような気がします。これはいったいどこに原因があるのでしょうか。また、民主主義を真に生かすにはどういうことが大切なのでしょうか。
 池田 日本に民主主義の概念が入ってきたのは大正時代であり、当時は、天皇主権をはばかって″民主″等の言葉を使わずに、民本主義とか、衆民政等の言葉を使っていました。以来、細々と受け継がれてきた未熟な民主主義が、第二次大戦後、民衆の自覚ある戦いによることなく、占領軍司令部の力によって、一挙に国政の基本原理とし、また生活規範として取り入れられたというのが実情です。
 以来三十年たった今日、なお民主主義が、好ましいかたちで国民の間に定着していないとのご指摘は、残念ながら、たしかにそのとおりです。社会的責任感なくして、一方的に権利を主張し、形式的平等をもって実質的不平等を正当化し、他の人びとの自由を犠牲にしつつ自己の自由を主張するなどの姿も、ままみられるところです。この現状をみて、「民主主義は本来日本の風土に適さない」等の速断も一部にはあるようですが、私は、それは、あまりにも性急すぎる結論であると思います。
 日本の場合、このような現象の原因の一つは、今日の民主主義が、国民の手によって、歴史的試練のなかからつくりだされたものではないことに求めることも可能かもしれません。しかし、今日の若い世代は、民主主義の理念そのものを、きわめて自然に吸収し、歴史的体験においても、欧米社会のそれを、かなりの程度において引き継いでいることは事実です。しかも、民主主義と現実とのギャップに悩んでいる国はひとり日本だけではなく、世界の大多数の民主主義を政治の基本原理とする国々の大半を占めているといっても過言ではありません。してみると、このような現象の原因は、ただ日本固有の事柄に帰着させるわけにはいかないことになります。
 私は、物質的繁栄のみを追求している今日の文明の精神的貧困によって、民主主義体制に未熟な面をもたらしており、試行錯誤の段階にあると考えます。民主主義の概念そのものは、古くからあつたものの、主権者たる人民が、一般大衆にまで拡大されたのは、イギリスにおける一八三二年の普通選挙の実施が、その始まりです。以来、大衆そのものの質的転換が、民主主義の最重要課題となったといってよいでしょう。
 民主主義の、現状と理想とのギャップという問題は、実に、この民主主義が、大衆すべての質的向上、転換を前提とし、目標としているところに内在するといえましょう。したがって、民主主義の理想を実現しうるか否かは、社会を構成する市民一人ひとりの人間変革がなされるか否かにかかっていると考えるのです。そこで大事なことは、大衆が民主主義を担うには未熟だから民主主義を廃止するというのでなく、民主主義を担うにふさわしい大衆の知的道徳的向上に努力することです。
 現実問題として、今日、民主主義の″はきちがえ″ということで責められなければならないのは、国民の側よりも、政治家のほうであるということを付け加えておきたいと思います。
32  民主主義体制について
 松下 民主主義体制というのは、今日においては最善の社会体制といわれていますが、これは人間が創造することのできる究極の体制でしょうか。もしそうならばこの体制を守り育てるうえで一番大事なことはなんでしょうか。
 もしそうでないならば、いかなる社会体制がこれからの最善の体制と考えられるでしょうか。
 池田 民主主義、あるいは主権在民という考え方は、少なくともギリシャ時代に源を発し、さまざまな歴史の体験のなかから、人類が政治の基本原理として確定してきたものであり、私は、これは、人間の英知と歴史が生みだした、貴重な財産であると考えます。
 権力が、一人もしくは少数の人間に独占される旧来の政治形態に対して、民主主義は、社会を構成する一人ひとりに、政治的意思決定の権利を平等に与え、主体的創造の自由を保障しようとするものです。したがって″民主主義″は、民衆を、被支配者としての横暴な権力への恐怖と、自己の意思にもとづかない拘束の苦痛から、わずかずつではありますが、解放してきました。
 そして、今日では、民主主義の価値は普遍的に承認され、大多数の国家は、民主主義体制を標榜するにいたっています。
 しかしながら、その形態は実にさまざまであり、同じ民主主義といいながら、その内容は相互に異なり、相いれないようにもみえるほどです。しかも、それぞれの形態のなかにおける民主主義は、実質的には不平等や拘束や、混乱などを入びとにもたらしております。
 しかし、私は、これをもって民主主義の限界であると考えてはならないと思います。もともと民主主義が、どこまでいっても未完成であることは、人間が未完成であるのと軌を一にしていることなのです。しかし、だからといって諦めるのでなく、どこまでも完成を目指していくところに人間の尊さがあるのです。民主主義もまた同じです。
 かつてルソーは「民主主義の終着駅は、人びとが神になる時代である」との言葉を残しました。私は、この言葉の意味を、民主主義の目指すものは、個人個人の尊厳を最高度に発揮させるところにあり、また、自己の尊厳性をみずから確立した人びとによってささえられるとき、民主主義はその真価を発揮するという内容として理解しています。
 この意味から私は、生命の尊厳を制度的に保障することを目指す民主主義の原理を、二十世紀の今日における普遍的価値だけにとどまらず、未来の人類社会においても変わらぬ規範にし、その理想的な実現のために、人類は努力していくべきであると考えるのです。
 また、この民主主義を守り育てるうえで一番大事なことは何かとのご質問ですが、今日までの民主主義を獲得し、育ててきたのが、大衆自身の戦いであったことを考えるとき、これからの民主主義の発展も、私たち大衆自身の手に負うところが大であることは明らかであります。そこには政権への参加の方法をどうするか等の制度的な諸問題も山積していることでしょうが、より基本的には、個の自立と、その連帯を高めていく以外にないと考えます。
33  才能と職種
 松下 人間みな顔形が異なるように、それぞれの才能、天分も異なると思います。したがって、いわゆる適材適所ということが実現され、すべての人が真に自分の天分を発揮できるためには、それだけ多くの職種が必要になってきます。そこで、そのような観点にたてば、より職種の多い国ほど、進んだ好ましい国であり、政治の要諦もまたそういうところにあると思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 人間は、一人ひとり、独自の個性をもち、才能をもっています。したがって、一人ひとり、自己の適所を発見するためには、多くの職種が必要となるでしょう。ここまでの考察には全く同感です。
 しかしながら、この考察から、職種の多い国ほど進んだ好ましい国であると結論づけるのは、少しばかり飛躍があるように思われます。もし、この論法を推し進めるならば、人間の個人差だけ職種が必要であるということになってしまわないでしょうか。そのような社会が存在するとは思われません。
 では、どこに、この論理の飛躍があるかといえば、第一には、やはり、人間の才能と職種とをストレートに結びつけた点にあるようです。同じ職種であっても、異なった才能の人がたずさわったほうがよい場合が少なくないからです。
 第二は、職種の多少と、国家の良否を、これも、算術計算的に結び合わせた論理にも、私は賛同いたしかねます。といいますのは、職種は国家によってつくられるものでなく、人間の工夫と社会の要望によって自然に生まれるものだからです。
 第一の点についてさらにいいますと、人間の才能、天分、個性などをあまりにも単純に割りきりすぎているように思います。いかなる人といえども、それぞれ独自の才能をもちながらも、その基盤には人間としての共通の特質をなす多様性をそなえているはずです。たとえば、ある人が、数学上の才能は抜群だが、言語能力には自信がないとします。それでも、猿の仲間などとは比較にならないほどの言語を駆使していることはいうまでもありません。もし、この人から言語の使用を禁止すれば、人間としての生を保つことさえ不可能となりましょう。
 つまり、人間生命は、最大公約数としての共通基盤にささえられ、そのうえで、個々の才能なり、天分を発揮できるのです。人間としての本質的な基盤を失えば、どのような才能も枯渇し、生存の力さえ枯れおとろえていかざるをえません。こうした人間生命の本来的な在り方を熟知したうえで、個性ができるかぎり生かせるような適所を得ることが必要になってきます。
 そうしますと、かりに職種を分割して、数を増加させるとしても、ある一定の限度があるといえます。その限度は、当然、民族、国家を形成する人びとの特質に応じて変化してくるでしょう。
 とくに、現代社会は、その発展につれて分業化を進めてきましたが、今日では、職種の分割が進みすぎて、かえって才能を枯らし、あげくのはてには、心身の障害を生じている場合も少なくないように思われます。たとえば、手先が器用であるとか、耐える力が強いなどといった特質をもった人がいるとします。そのような人でも、終日、機械と顔を突きあわせての単純な作業だけにたずさわっていれば、心身症やノイローゼなどの現代病に侵されてしまうでしょう。むしろ、関連する分野の仕事をも含めて一つの職種とし、変化ある作業にたずさわるほうが、才能をよりよく生かす道であろうと考えます。
 また、精神労働の場合にも、職種をあまり細かく分割すれば、全体観を見失い、創造の意欲さえなくしてしまいかねません。あるていどの幅をもたせ、そのなかで自由に選択していく方法のほうが、新鮮な発想もわくというものです。
 今日、学問の世界において、総合化が試みられている理由の一つは、明らかに、分割しすぎた研究分野での、研究者たちの才能の限界を打ち破ろうとすることにありましょう。私は、このような種々の考察を踏まえたうえで、次の二点を主張したいのです。それは、まず、職種は、人間生命に関連するすべての分野にわたるのが自然であって、ある特定の分野の職業を禁止するなどといった政治的介入は許されないということです。ただし、人間生命の破壊や人間的権利の侵害を目的とした職業領域――殺人兵器の研究、生産とか、死の商人としての職業など――を、正当な職種として認めるべきでないことは当然です。第二の主張点は、人間の才能を生かすには、職種の自由な選択を保証することであり、政治の要諦は、この自由を、あらゆる障害を除去して、守り抜くことに集約されると考えます。
34  富の公平な配分
 池田 今日は、昔と比較した場合、たしかに一人ひとりの生活は物質的に恵まれているといえます。しかし、それでもなお、大部分の人は経済的、物質的面での不足を感じています。私は、この原因の一つは、富の偏在――公平な分配がなされないところにあると考えます。この点に関して、どのようにお考えでしょうか。また、資本主義経済のなかにあっての富の公平な配分は、いかにしたら可能になるとお考えでしょうか。
 松下 ″富の公平な配分″という言葉、あるいはその考えには私も全く賛成です。富の公平な分配は人間にとってきわめて大切なことであって、かりにも不公平があれば、これは極力排除していかなくてはなりません。
 ただ、問題はどういうことが公平なのかです。これが非常にむずかしい問題です。それぞれの人の働きに応じて分配するとなれば、額に甲乙が生じてきます。かといって、すべての人に均等に配分すれば、その働きに対しては不公平だともいえます。
 人間なり国民としての権利は同一であっても、どれだけの富を生みだしているかということは、千差万別です。というより、富を生みだす人のいる一方で、富を食いつぶすという人もいます。そういうものをどう評価してどう富を配分したら公平なのか、これはほんとうに判定のむずかしいところです。見方によっては、ほんとうにすべての人が公平だと満足するような配分方法はないのではないかとさえ考えられます。
 ですから、私は公平な配分という趣旨には賛成ですが、何が公平かということについては十分論議を尽くして、できるだけ多くの人の合意を生みだすことが先決だと思います。私なりに考えれば、富を生む人、生みも減らしもしない人、食いつぶす人、いろいろありますが、半分は頭割りで均等に配分し、半分は富を生む働きに応じて配分するということが、あるていど公平といえるのではないかという気がしますが、いずれにしても、国民合意のうえで、なんらかの基準をつくり、それにしたがって富の公平な分配を図っていくことが大切だと思います。
 そういう合意にたって、日本のような資本主義の国で、いかにすれば富の公平な配分が可能かということですが、やはりそれは、税金と社会保障ではないかと思います。そして現に今日の税制は、そういったことを加味して高度の累進制をとっています。たとえば、個人の場合、所得税と住民税を合わせて、最高八〇パーセントまでが税金として累進的に徴収されるようになっています。そのほかに、贈与税や相続税も累進的に徴収され、富の不平等を是正するようになっています。
 そういう累進税率でもなお不十分だというのであれば、さらにこれを検討して改定していったらいいと思います。ただ、それが行き過ぎて、公平に名を借りて働く者を虐待するような税率になっては、今度は誰も働かなくなるおそれがあります。ですから、公平という観点からしても、税率は、このていどまでは出さなくてはならないなと、人情からも納得できるものでなくてはならないでしよう。
 いろいろ考えてみますと、公平という趣旨には万人が賛成でも、どうすれば真の公平になるかというのは、実にむずかしい問題です。ですから、政治のうえでも、絶えずそういうことを研究するとともに、また、税制とかその他の面で、公平を実現するために、こういう努力をしているのだという実態を国民に知らせ、そういうところから国民の合意を形成していくことが大事だと思うのです。さもないと、取られるほうも、もらうほうも、どちらにも不公平だという不満感が残るのではないでしょうか。
35  経営者の資格要件
 松下 経営ということは、たんに企業経営のみならず、あらゆる団体、ひいては国家のうえにもあてはまることだと思いますが、その経営をうまく行なうかどうかは、ひとえに経営者のいかんにかかってい2`7繁栄への道ると思います。そこで、経営者としての立場にたつ人の資格、要件というものが大事になってくると思うのです。その資格要件の内容として最も大切なものというと、どのようなものがあるでしょうか。
 池田 あらゆる組織・運動体について、″経営″とか″経営者″という言葉が、そのまま概念として適用できるのか、多少疑問があります。さらに、いかなる組織にも共通した、中心者の資格要件というものが、はたしてあるのかという点も、厳密に考えますと疑問です。その組織の規模、構成、機構、そして、なによりも、その″目的″によって、その行動様式も、中心者の在り方も、相当異なってくるのではないかと思うからです。
 また、ごく一般論として、いわゆる″指導者論″なるものも、ここで、あらためて論ずるまでもなく、幾多の論著が巷間に出ておりますし、なによりも、歴史のなかから、さまざまな教訓を学びとることができると思います。私自身『三国志』とか『水滸伝』、また歴史に一時代を画した人物の生き方などをとおして、多くの貴重な教訓を得てきました。それらのなかに、指導者の条件のなんたるかは、ほとんど尽くされているといってよいと思います。
 したがって、ここでは、そうしたさまざまな教訓と、私自身一つの組織をあずかる責任者としての、今までのいささかの体験のなかから、組織の指導者の条件、中心者の要件について、感じたままを、のべることにしたいと思います。
 まず、人間によって構成された組織であるかぎり、その中心者は、なによりも、人間としての全人格的な力をそなえることが、第一の前提となる条件ではないかと確信します。多種多様な欲求や才能をもった人間を生かしつつ、指導する立場にある以上、偏った人格では、全き組織の推進は図れないといえましょう。人それぞれの個性を生かし、包容しながら、全体として一つの確かな方向に舵をとっていくためには、全人格的な豊かさと深さがまず要求されるといえます。
 この全人格的な力とは、さらにこれを具体的な要素に分けると、一つは包容力、第二に公平さ、第三に確信、第四に責任感、第五に先見性といった内容が含まれると思います。
 包容力は、さまざまな個性をもつ人びとを、大きく包容する人間としての幅と深さです。具体的にいえば、一人ひとりの才能を発見し、また、その境遇や立場を、よく理解し、それぞれが、自信をもって、自分の才能を十二分に発揮しながら、組織の推進にあたれるように、配慮していけるかどうかです。それには、人の心の機微を鋭敏に感じとる心と、大きく相手を包み込む慈愛がなくてはなりません。
 第二に公平さとは、自己の感情や情実で動かされないこと。厳正公平に人を評価し用いていく、一つの″能力″といえます。といっても、機械のように冷たい行き方ではなく、人間愛に根ざした公平さでなければならないことは、論ずるまでもありません。
 第三に確信。中心者のその組織体の目的に対する確固たる信念と、その目的観にたった個々の問題についての明確な判断、組織全体にエネルギーをみなぎらせ、大きく前進させていく力となります。この確信がないと、周りに不安と動揺を与え、出せるはずの力も、十分に出せずに終わってしまうものです。とくに、いざというときに示す、中心者の信念と決意と勇気と果断の有無が、きわめて大切だと思います。
 第四の責任については、あらためていうまでもないでしょう。一つの組織の長であるということは、その組織の最高責任者ということです。責任とは、よく世間でいわれるような″失敗の責任をとる″といった、いわゆる出処進退ですまされる問題ではないはずです。現実の行動のなかで、たしかに責任をもって、こうしたという実態で示されるものでなければなりません。
 五番目にあげた先見性ということは、正しく時代、歴史をみる目があるかどうかということです。組織をあずかり、目標を目指して指揮をとる者にとって、絶対不可欠の要素です。現状に対する正確な認識と、そこを基点とした未来への深い洞察があるかないかが、組織の盛衰を決するからです。
 さらに、今まであげた五つの要件に加えて、最も大切な指導者の条件として、後継者ならびに未来にそなえての人材の育成という問題があります。会社組織においても、また一つの国家においても、この長期的な人材養成が行なわれているかどうかが、最大の眼目になってきます。
 そうした意味で、いかなる組織であろうと、ある指導者が真に偉大であるか否かは、その指導者の死後、三十年から五十年後の状態がどうであるかで、判断できると思っています。未来を担うべき青年たちが、どこまで大切に教育され、未来飛翔のエネルギーをたくわえているかが、一民族、一国家また一組織の盛衰の鍵となると確信します。

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