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宇宙と生命と死  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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2  死に臨む覚悟
 池田 大変ぶしつけで失礼な質問かもしれませんが、人間として、根本的な課題でありますので、あえてご質問するしだいです。貴方は、いま死に直面するとしたら、不安はないかという問題です。安祥として死に臨む覚悟が、できておいででしょうか。同じ一個の人間として、また一信仰者として、おたずねすることをお許しください。
 松下 私自身、死に臨む覚悟ができているか、というご質問をいただき、じつは、ハッとする思いがしたのです。自分は死に直面したらどうするかというようなことを、深く考えたり、十分自覚するといったことは、正直のところ今まであまりありませんでした。
 今回こういうご質問をいただいて、初めてこのような問題について、はっきりした一つの諦観をもたなくてはならないということを痛感したようなしだいで、私にとってはいわば予期せぬ突然のおたずねですので、今日ただいまの心境をそのまま申し上げてお答えに代えさせていただきたいと思います。
 いま死に直面するとして考えてみますと、現実には悔いを残すような問題も、考え方によってはあるように思います。いろいろな問題について、いつ死んでもいいように十分な整理がしてあるかといえば、必ずしもそうでない面もあります。
 そう考えてみますと、いま死んでは大変に困るということはないと思いますが、かりに三日先に死ぬということがわかったら、その間にあれはやっておかなくてはならない、あるいは十日先であればどういうことをしておきたいといったことは、やはりたくさんあるように思われます。
 しかし、それが何日も先のことではなく、日前の瞬間に迫っているというのであれば、そんなことは考えないでしょう。従容として死ぬか、あるいはうろたえるかは、実際は、その時になってみないとわからないことで、どちらとも申し上げられません。
 けれども、少なくとも二、三日の猶予があれば、こういうこともしておいたらいい、といったものはたくさんあるように思われますから、そのような姿で死に直面したら、できるだけのことはやってみたい感じがします。
 実際に三日先なら三日先に死ぬと知ったら、その瞬間はハッとすることでしょう。それを聞いた瞬間は動転するかもしれません。しかし、次の瞬間には、これはやはり覚悟しなくてはいけないということになると思います。そしてその次には、この二日の間にしておくべきことはしておこう、いっておくべきことはいっておこうと考えるだろうと思うのです。
 いま現在では、以上のように考えておりますが、はたしてそのとおりにできるかどうかは、やはり実際に死に直面してみなくてはわからないというのが正直な心境です。
3  死後の生命
 池田 現代の人びとの多くは、死による肉体の崩壊をもって、生命は″無″に帰すと考えているようであります。しかし、死んでも、実体としての霊魂は不滅であるとする″霊魂説″も、全く否定されたわけではありません。
 私は、死による″生命断絶説″にも、また、いわゆる″霊魂説″にも同意することはできません。仏法では、人間生命は死によって″空″という状態になると主張しています。つまり、個々の生命は、大宇宙という生命体に融合し、融和してしまうと考えるのです。
 ちょうど、この空間に、各種各様の電波が流れ、しかも、独自の波長を保っているように、死の状態における個の生命は、大宇宙と渾然一体となりながらも、個としての特性は保ちつづけています。″空″という状態を説明するための一つの譬えでありますが、少なくとも、私は、死後の生命を考えるうえにおいて、肉体崩壊による″断絶説″、″霊魂説″とは異なった第二の説として、仏法の死後観を提示しうるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 松下 死後の生命は全く消えてなくなってしまうとか、あるいは霊魂として個々に存続していくというような考え方については、私も賛成したくありません。
 私の考えるところは、仏教でいう個々の生命は死後、大宇宙という生命体に融合し、融和するという考え方にやや近いのです。ただ、個々の生命が大宇宙という生命体と渾然一体となるのであれば、個性はもはや失われてしまうと考えたほうが妥当ではないかと思います。
 仏教では、生命の個性は存続し、再びそれがこの世に生まれ変わって出てくると考えるようですが、それは、現世の行ないによって来世の姿が良くも悪くもなるから正しい行ないをせよ、という一つの教化の方法として説かれたものではないかという気がします。しかし、こういう説き方では、現代人には多少理解しにくいものがありはしないかと思うのです。
 生命は肉体が滅ぶことにより宇宙という生命体に帰納するが、そこではもう個性はない、と私は考えます。それは個々人というものは全くあとかたもなくなってしまうのかというと、そうではありません。個々人が生きている間の思い、行ない、実績というものは、この世に永遠に残るのです。現に今から二千年も前になくなられたお釈迦さまの思い、行ない、実績というものは、今日も立派に生きつづけています。また、お釈迦さまでなくとも、すべての人が生きている間の足跡、実績、思いを残すわけです。そしてそれが現実の事実として残されるのです。
 したがって、もし教化するのであれば、善きにつけ悪しきにつけ、個々人としての実績は残るのだから、この世でよりよく生きなさい、というように説いてみたらどうかと思います。それと同時に、個々の実績を後々まで残し伝えていくために、個々人が死んだら、その人の履歴書、功績書を作成し、それを保存していくことにするのも一つの方法だと思うのです。
 新しい生命は大宇宙の生命体から出てきます。そして個々の肉体に結びついて新たな個々人が生まれるのです。たとえば、同じ鉄でつくられているものでも、クワもあればナイフもあります。ところが、それらが使えなくなると、熔鉱炉に入れられて再び同じ鉄になります。そこでは、クワとかナイフといった個性はありません。しかし、その熔鉱炉の鉄によって再びクワもナイフも新たに作られるのです。
 死後の生命が帰納する大宇宙の生命体というものは、あたかもこの熔鉱炉のようなものと考えられはしないかと思うのです。
 死後の生命については、このように宇宙の生命体に帰納し一体となり、個々にはもう存在しない、というように私は考えているのです。
4  「肉体離脱体験」とは
 池田 生命の危機に直面した場合、多くの人が、一種の「肉体離脱体験」をもつことが知られています。雪山で遭難して、九死に一生をえたある人は、肉体から意識が分かれて、より大きな生命へと融け込んでいくのを感じたといった体験を語っています。
 このような体験は、たんなる幻想であると考えるべきでしょうか。それとも、死は、生命そのものの消滅ではなく、宇宙生命ともいえるような、大きな生命のなかに融合していくことだということを示しているのでしょうか。
 松下 前削項でも申しましたように、私は死後においても、生命は消滅することなく、大宇宙という大きな生命体に帰納、融合していくと考えております。
 ただ、ご質問にありますような、いわゆる「肉体離脱体験」というものが、そうした死後の生命の在り方を証明するものだとは思わないのです。私自身そのような、九死に一生をうるといった体験をもちませんので、このようなことを申し上げるのはあるいは僣越かもしれませんが、やはりそれはある種の錯覚ないし幻想ではないかと思います。
 それでは、なぜそういう錯覚や幻想が起こるのかを私なりに推察してみますと、これはやはり一つの潜在意識からくるものではないでしょうか。つまり、われわれは日ごろ、たとえば、人間は死んだら天国とか極楽に行くといったような考え方を聞かされたり、書物で読んだりしていると思います。そして、そういうものがいつとはなしに潜在意識のなかに入っていると思うのです。それがたまたま生命の危機に直面したような場合にあらわれてくるのではないでしょうか。
 やはり、生命というものは死の瞬間までは肉体とともにあり、死後はじめて大宇宙に帰納、融合するのだと思います。
5  死後における身体
 池田 死後の生命の存在を考える場合、最も中心的な課題は、身体がどのようになるかということであると思われます。
 表面的にみれば、私たちの身体は、死後、最終的には、元素、原子などの段階にまで分解されてしまいます。
 だが、死後も、生命がなんらかの形で存在していくと考える学者たちの間では、死後の身体について、大別して二つの考え方をしています。
 イギリス学士院会員であり、文学、法学の博士号をもち、心霊研究にも深い関心を寄せているプライス氏は、これを死後の存在における「身体所有」説と、「身体不所有」説とに分類しています。「身体所有」説とは、死後、人間生命は、生前の身体よりも「より高級な物質」から形成された、いわば、エーテル体、あるいは星気体といったものをもつであろうという考え方です。一方「身体不所有」説とは、死後の存在は完全に非物質的存在であると主張しています。
 もし、死後も生命は存在しつづけるとすれば、いずれの意見が妥当と考えられるでしょうか。また、この二つの見解以外の考え方を示すことができるでしょうか。
 松下 ご質問にあります二つの所説につきましてはよく存じませんが、死後の生命についての私の考えは、これまで「死後の生命」あるいは「″肉体離脱体験″とは」のお答えで申し上げましたとおりです。
 すなわち、生命というものは、非物質的な目に見えない清らかなものであり、心に描くことはできても、手にとることのできないものだと思います。そして、個々の肉体が生きている間は、その生命も個々に存在していますが、肉体が死んだ後は、生命はこの宇宙の大生命体に帰納、融合するのであって、もう個々の生命としては存在しなくなると考えます。
 したがって、二つの説のどちらとも異なるのではないかと思います。
6  転生の可能性
 池田 分子生物学の解明するところによれば、人間のDNA分子は、五十億組の四文字――A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)――で書かれた暗号文だとされています。したがって、文字の並べ方を変えれば、ほとんど無限に近いDNA分子が存在しうることになります。
 さて、ある一人の人間生命をつくっていたDNA分子は、死とともに崩壊しますが、もし、それ以後、宇宙のどこかで、同じようなDNA分子が形成されれば、そこにその人は再び生をうけることも考えられます。
 だが、科学者たちは、そのような同じDNA分子が形成されることはほとんど起こりえないと主張し、したがって、私たちが、再び、この宇宙に転生することは考えられないと主張しています。
 このような生命科学の提示する死と転生に関する考え方について、どのように評価されるでしょうか。
 松下 分子生物学とか遺伝学とかいった学問的な面についてはよくわかりませんが、ごく通俗的に考えてみましても、われわれが日常接するかぎりにおいて、これだけ世の中にはたくさんの人がおりながら、似ているという人はあっても、全く、なにからなにまで一緒だという人はいないようです。ですから、科学者の人がいろいろな研究の結果、同一のDNA分子というものが形成されることはほとんど起こりえないと主張されるのであれば、それは正しいと考えていいのではないかと思います。
 ただ、ほとんど起こりえないといっても、そういう科学的見地からすれば、絶無というわけではないと思います。きわめてまれに、文字どおりある人と寸分ちがわぬ人が時代をへだててあらわれるということも、全くありえないとはいえないように思うのです。
 それではその場合、ある人が再び生まれ変わってきた、いわゆる転生したと考えるべきかというと、私はそうは思いません。それはいわゆる偶然の一致にすぎないと思います。
 つまり、科学的には、全く同じDNA分子というものが形成されることはありえても、転生ということはありえないと思うのです。それぞれの人が一度だけこの世に生をうけて、その生を終えたあとは、三度と再び生まれ変わってくることはない、そのように考えてよいのではないかと思います。
7  安楽死を認めるか
 松下 最近、アメリカでは「人間は荘厳に死ぬ権利がある」といわれ、安楽死を是とする運動が医師を中心として起こっていると聞きますが、いわゆる「生ける屍」となることが予想されるとき、本人またはその周囲が、その安楽死を希望し実施することは、真理にたって是となるのでしょうか、非となるのでしょうか。
 池田 安楽死について最も熱心なのは、アメリカの医師たちのようです。彼らは、ほぼ十年ほど前から、安楽死の合法化を求め、次のような条件を提示しているといわれます。
 第一に、患者は疾患の末期に入っていること。第二に、苦悩が耐えられないほど強く、永続的で不治のもの。第三に、患者の死への希望が明確であること。第四に、医師は患者の病気が不治であることを、他の二人の医師に確認させること。第五に、問題となる疾患の種類を規定し、それに該当すること。
 この要求は、一見、合理的にみえますが、ある疾患が不治であることの判定は、いかなる医師にとっても不可能でしょう。いや、死の判定自体が現代医学において種々の論議をかもしだしている状態をみれば、不治とか死を安易に考えることはきわめて危険な行動です。
 よく耳にするのですが、外科医を数十年にもわたって職業としていれば、一例か二例のガンの自然治癒に遭遇することはけっして稀ではないとされているようです。
 したがって、ご質問に記されたいわゆる″生ける屍″となるであろうことを、明確に予測することなど、誰びとにもできないのではないでしょうか。たとえ、先ほどあげた五つの条件が満たされると考えられる場合でも、このような人びとの生命を奪うことは、積極的安楽死に傾く危険性を多分にはらんでいるように思うのです。
 医聖ヒポクラテスは、誓文のなかで「私は死に導くような毒はだれにも与えないし、たとえ希望されても与えないだろう。また、このような排斥すべき行為には加わらないであろう」とのべています。
 人間生命自体にそなわった、他のいかなるものとも代置できない尊厳性を心肝にそめている医師ならば、やはり、ヒポクラテスの誓いに同意するのではないでしょうか。
 さて、私は、安楽死が切実な意味で問題になるのは、″生ける屍″になることが予想される場合ではなくして、″生ける屍″自体として病床に横たわっている人の生命をどうするかというケースだと思います。
 意識が喪失し、脳波が消え――現在測定可能なのは、大脳皮質の領域にとどまっているのですが――、深い昏睡状態に陥っている患者の生命を、断ち切ってもよいかどうか、といった生と死の接点にかかわる場合です。
 ご質問に記されたアメリカの医師たちの見解によると、「人間は荘厳に死ぬ権利がある」との理由から安楽死是認を要求しているようでありますが、植物人間として病床にふす患者たちは、はたして、荘厳でないときめつけられるのでしょうか。
 植物人間は、たとえ脳波が消失し、意識が消えさっても、脳幹部分を中心として、懸命に死と戦っている人間生命の状態をさすのであって、けっして生をあきらめた人の姿ではありません。彼らは、最後の力をふりしぼって生きようとしていると私は考えたいのです。
 もし、そうでなければ、重症の精神病患者とか、重症の公害病(たとえば樹憾屈における朧慇憾水俣病の子供たち)に侵された人の生命をも、荘厳なる人間の生と認めなく感じなくなってしまうでしょう。
 少し話がそれますが、私は、その人にとって死が荘厳であるか否かは、死をいかに受け入れ、死といかに対決し、それを乗り越えたかどうかにかかっていると思います。
 医学は、あくまで、不幸にも疾病や事故で、治癒への可能性をほとんど断ち切られたと思える植物人間になろうとも、無意識の内奥で死と戦う生命を守り、なんとかこれを延長させようと努力すべきだと考えます。それが、医学とか医師の発想の仕方であり、また、この学問の成立意義でもあるといえないでしょうか。
 脳幹の生を認めることは、無意識の生の内なる働きを重視することであり、人間生命内奥の尊厳性を守る行為といえましょう。
 なお、最後に、安楽死肯定論の根拠の一つとして、人間には自分の意志で死を選ぶ権利があるとする主張があります。
 つまり、いかに死にゆくかの選択権は、当事者自体にあり、その自由を侵すべきではないというのです。
 しかし、私は、意識的意志が喪失した状態において、もし、意志の変化が起きても、それを確認することはできません。また、本人の意志が果たして、ほんとうに自由な決断かどうか、何らかの心理的・社会的な圧力が加わっていないかどうかも問題です。
 アメリカの精神科医、E・キューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』(川口正吉訳、読売新聞社)と題する著書のなかで、患者は最期の瞬間までなんらかのかたちで希望をもちつづけていると記されていました。
 その希望が絶望に変わると、二十四時間以内に死んでいったとも書かれていました。
 私は、そうした絶望の底にも、希望の光をともしつづけながら、人は死におもむくと思います。心の奥の願いを、医師も、また、それにかかわる人も、けっして忘失してはならないでしょう。
 ″死の権利″論ではこのようなさまざまな状況をも組み入れて、きわめて慎重に論議を重ねるべきでしょう。
8  安楽死と宗教の役割
 池田 安楽死を肯定しようとする根拠の一つには、やはり、死自体にともなう苦しみがあげられるようです。とくに癌の末期における苦しみは、本人のみならず、家族の人びとにも、安らぎの死を求める心を呼びおこすものです。心情的には、私も安楽死に傾かざるをえません。だが、死にともなう苦しみの内容を分析してみますと、肉体的な苦痛と、精神的な苦悩に大別できましょう。
 そして、肉体的苦痛は、おもに医学的手段で軽減できるとしても、死の恐怖、不安を中核とした心の悩みは、みずからの努力によって乗り越えるべき性質のものであります。しかも、死の苦しみにおいては、肉体的苦痛よりも、心の悶えのほうが、いっそう人の生命をさいなむはずであります。
 私は、この精神的苦悩に体当たりし、死自体の深い不安を乗り越える原動力になるものとして、宗教の役割の一つを見いだしているのですが、いかがでしょうか。
 松下 安楽死を考える場合、その前提というものがあると思います。つまり、心の働きが正常であって、肉体が病んでいる場合には、肉体の苦痛も感じ、また精神的な苦悩もあるでしょう。しかし、心も肉体もともに病んで、いわゆる生ける屍、植物人間となってしまった場合には、これはまた別に考えねばならない問題があると思います。
 ご質問は、前者の場合ではないかと思います。つまり、心は正常で、肉体が病んでいるという場合です。そういう場合には、やはりご高見のように、宗教的なものの役割は十分考えられると思います。すなわち、死に対する一つの確固たる考えとか悟りといったものをもち、心に平静を保って、そして死に臨んでいくという姿をとるしか方法はないと思うのです。そして、そのためには、宗教など、自分が信じることのできるものを得ることが一応妥当な姿ではないかと思うのです。おっしゃるとおりだと思います。
 ただ、そういう場合、すでに自分で宗教的なものをもっている人はそれで救われるでしょうが、しかし世の中には宗教などをもっていない人も少なくありません。宗教をもたず、信仰の道に入っていない人は、肉体の苦痛にさいして、精神が健在であるだけに、いっそうその悩みや苦しみは深くなるでしょう。
 もちろん、そういう悩みに直面して初めて、宗教的なものを求め、それにすがっていくという人もあると思います。そういった付けやきば的な姿でも、あるていどの成果はあるかもしれません。しかし、多くの人は、苦しみや死に直面してあわてて宗教にたよろうとしても、いわば手遅れといった状態になってしまうのではないでしょうか。
 だからやはり、つね日ごろから、宗教的なものを求め、信ずるものを求め、そして心のよりどころを得ておくことが人間にとって大切なことだと思います。それを自分自身でやりとげる人もいるでしょう。しかし自分だけでは、そういうよりどころを得ることのできない人も多いと思います。
 そこに宗教家といわれる方々の大事な役割があると思うのです。つまり、世の人びとが日ごろから心のよりどころを得ておくことができるように、宗教家の方々はその教えを常に人びとに勧めていくことが肝要だと思うのです。
 しかし、それでもなお信ずるものを得られずに苦しむという人に対しては、その苦しみから救うことを考える必要があるのではないでしょうか。その場合、厳正な規約のもとに荘厳な儀式をともなう安楽死を認めることがのぞましい、とするのが人間の知恵の教えるところとなるのではないかという気もします。つまり、今後において、人間の知恵は、人間を死の苦しみから救うために、厳正にして荘厳なる安楽死を認めるようになるのではないかと思うのです。
9  生命の発生
 池田 ジャック・モノーの『偶然と必然』は、日本でも大きな反響をまきおこしましたが、彼が主張するように、地球上における生命の発生は、偶然のみに支配されていると考えるべきでしょうか。
 私は、生命の発生には、地球自体に内在する″生命への傾向性″が不可欠の要因であると思うのですが、この点についてはいかがでしょうか。
 松下 ご質問にある『偶然と必然』については、まだ読んでおらないのですが、聞くところによりますと、地球上の生命の発生はきわめて偶然的な、いわゆる唯一無二ともいうべき出来事だと論じてあるそうです。著者のジャック・モノー博士は、ノーベル賞受賞の世界的な生物学者とのことであり、そのご高見は科学的見地からすれば、重要な意義をもつものではないかと推察いたします。
 ただ、いささか観点を変えて、お互い人間のよりよき姿を生みだしていくには、生命の発生をどうみたらいいかということを考えた場合、私自身は次のような見方をしております。
 すなわち、私はこの大宇宙というものは、それ自体、一つの偉大な生命体ではないかと考えております。そして、その宇宙の大きな意志は、自然の理法となって万物に作用しているように思うのです。そういう意味からすれば、この宇宙には生命が充満しており、いっさいのものに生命があるとも考えられます。
 しかし、ご質問にある″生命″とは、そういった大きな意味での生命でなく、いわゆる生物としての生命だと思います。それについては私はこう考えます。
 すなわち、この宇宙には、生成発展という自然の理法が働いており、その生成発展の歩みのなかで、太陽ができ、地球ができた。そして、地球ができた当初にはまだいっさいの生物は地球上には存在しなかった。けれども、地球自体の何億年、何十億年という長い生成発展の過程において、もろもろの自然条件が整い熟してきた時に、そこに初めて生命が発生した、と、このように考えているわけです。
 ですから、大きくはこの宇宙の、小さくは地球の生成発展の過程で生命が発生したのであって、人間をはじめ、いっさいの生物はそのような生成発展の所産だと思います。そう考えてみますと、人間は、みずからそういった生成発展に則した存在であると考えることによって、たんなる偶然の所産であると考えるよりも、人間が生きていくうえで、あるいは人間生活を高め発展させていくうえで、より強い信念がもてるのではないでしょうか。
 もちろん、最初にものべましたように、モノー博士の説は、科学的な成果から生まれた一つの学説として、お互いに十分に傾聴しなくてはならないと思います。けれども、人間のよりよき姿を実現していくという観点からして、私は「生命の発生には地球自体に内在する生命への傾向性が不可欠の要因である」とされるお考えに、より意義あるものを感じるしだいです。
10  進化論をどうみるか
 池田 ダーウィニズムによれば、生物進化は、突然変異と自然淘汰が主軸となって促進されると考えられます。ところが、ラマルク学説では、生物の、外界への適応性を重要視しています。
 現在では、ダーウィニズム全盛の観を呈していますが、ラマルクの考え方にも、鋭い真理への洞察が含まれているようです。生物体の環境に対する能動的な適応性に着目したラマルク流の見解を、再評価すべきであるとの意見もありますが、この点に関してはいかがでしょうか。
 松下 私は、ダーウインの説についても、ラマルクの学説についても、なんら深い理解を有するものではありませんが、先生のいわれるように、生物が外界への適応性によって、精神的あるいは形のうえで、なんらかの変化なり進歩を遂げていくということは十分ありうると思います。そのことを進化と呼ぶならば、私もそれを認めるものです。
 ただ、私は、一つの生物が全く異質のものに進化していく、いわばその本質が変わっていくという意味での進化論には疑問を感じます。
 つまり、俗に「人間の祖先はサルである」ということがいわれます。このことが、今日の進化論の立場からみて、科学的に妥当なものかどうかは別として、進化論というものをごく通俗的に解釈すれば、このように、生物が下等なものから、だんだんに高等な別のものに進歩向上していくということではないかと思うのです。
 けれども、私はそういう考えはとりたくないのです。いわば、サルは最初からサルであり、人間は初めから人間であって、けっしてサルが進化したものではないと思います。
 と申しますのは、前項でのお答えで申し上げましたように、私はすべての生物の発生は、それぞれ異なった自然条件のもとで起こったものだと思います。つまり、一定の条件がつづく期間内には一つの生物が発生し、それが変わったあとには、もうその生物は発生せずに、他の生物が発生したということがつづいて、今日みられるように無数の種類の生物がこの地球上に生まれたと考えるわけです。たとえていえば、ある自然条件のもとではイヌだけが発生した、それが変わって別の自然条件になったら今度はサルだけが発生した、次は人間だけが発生したというような具合です。
 そして、それぞれの生物の本質なり、特性というものは、それぞれが発生した時の自然条件によってすべて与えられていたと思うのです。その自然条件はその時々ですべて異なっていたわけですから、その結果、すべての生物がそれぞれに異なった特有の本質をもっているわけです。
 そのように、私は、それぞれの生物がその発生当初から独自の特質をもっていたと考えており、したがって、下等なものからしだいに高等な生物に変化したとする進化論には同意しかねるのです。
 もちろん、最初にのべましたような、人間の知識が増し、経験が豊かになるといった意味での進歩は、これは時代とともにあると思います。けれども、それぞれに与えられた本質的なものは未来永劫変わらないと思うのです。
 ややご質問のご趣意からはずれたお答えになりましたが、重要な問題だと思われますので、あえてのべさせていただきましたしだいです。
11  人類の誕生
 池田 地球上における人類誕生の起点――類人猿との決別の分岐点――を明確に定めることは、現代の学問をもってしても困難のようです。
 しかし、人類が類人猿と分かれて、独自の道を歩みはじめるにいたった条件は、科学者や哲学者によって、種々提示されています。主要なものをあげれば、直立二本足歩行、道具の使用、言葉の駆使、火の使用、また、生命自体の問題として、理性、知性、意識、精神等の発現等になりましょう。
 これらの条件は、いずれも人間形成の重要な要素となりましょうが、では人類は、なにゆえに、これらの要素を獲得し、発現さすことができたのでしょうか。
 私は、そこに、どうしても、人間生命と地球、宇宙との関連性に目を向けなければ、この謎は解きえないと思うのですが、いかがでしょうか。
 松下 先の「進化論をどうみるか」のご質問に対するお答えのなかで、私は、生物が下等なものからだんだん高等の別種のものに進歩向上し、その本質が変化していくという、いわゆる進化論には同意しかねる、と申し上げました。
 つまり、私は、それぞれの生物は、それぞれに、この地球の生成発展の過程のなかで、異なった自然条件のもとに発生したものであり、いっさいの生物はその発生当初から特有の本質をもっていると考えたいのです。
 ですから、人間は発生当初から人間であり、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿は、発生当初から類人猿としての本質をもっていたのであって、本来同じ祖先だったものが、途中から、なんらかの事情で分岐したとは考えたくないのです。
 ただ、ご質問のご趣意は、人間がなぜに類人猿を含めた他の動物にないすぐれた本質をもち、それを発揮するようになったのかというところにあると思います。その点に関しましては、人間というものを、地球、宇宙との関連において考えるべきであるとする説に、同感です。
 すなわち、これも先の「生命の発生」のお答えのなかで申し上げたことですが、私は、人間はじめ、いっさいの生物の発生は、この宇宙なり地球の生成発展の所産だと思っております。すなわち、この宇宙には、生成発展という自然の理法が働いており、その生成発展の歩みのなかで地球ができ、その地球自体の生成発展の過程において、もろもろの自然条件が整い熟してきた時に、人間はじめいろいろな生物が、それぞれ特定の自然条件のもとで順次発生したと考えるわけです。
 ですから、人間が他にすぐれた特有の本質をもっているということは、直接的には、人間を発生せしめた自然条件が、そういう本質を与えたものであり、大きくいえば、地球なり宇宙の生成発展によるものだといえましょう。
 もちろん私は、人間がしだいに道具を使ったり、言葉を話したり、人を利用するなどして進歩発達してきたことを否定するものではありませんし、そのような人類の歩みをいろいろ研究することはきわめて大切だと思います。ただ、人間がそういうことができるようになったのは、もともとその本質が与えられていたからであって、道具を発明したり、火を使ったから、サルと分岐したのではない、人間とサルは、最初から違うものなのだと考えているのです。
12  生命内奥の探求を
 池田 西洋において、人間生命内奥の領域に足を踏み入れだしたのは、深層心理学、精神分析学成立以後のことであると思われます。
 ところが、東洋では、仏教において、すでに竜樹、天親などの時代から、心の領域の開拓を進め、あらゆる人びとの生命の最深部に、大宇宙自体とも連なる広大な世界を見いだしております。
 現代人の関心の的は、ともすれば、外なる世界にのみ向けられがちですが、みずからの生命内面にも焦点を当て、そこから新たなる可能性を引きだす作業が急務ではないかと思います。その場合、東洋人の心の領域に向けられた知恵が、現代の人びとの心の砂漠をうるおす、なによりのオアシスとなりうるのではないでしょうか。この点についてのご意見をおうかがいしたいと存じます。
 松下 結論から申しますと、おっしゃるとおりではないかと思います。つまり、人間は主として自分自身というものを考えて、そして自分を取り囲む外の世界、さらには宇宙というものを考えなければならないと思うのです。そして、そういうことができる可能性をもっているのが人間だと思います。
 すなわち、人間は、その身は地球上の一生物といえるかもしれませんが、しかし、その心は大宇宙のすみずみにまではせることができます。月や火星にロケットを飛ばし、さらには太陽の黒点の状況まで観測してその影響を考えることができるのです。また、そういった科学的な考えを進める一方では、太陽の恵み、大自然の恵みといった、いわば宇宙の心にまで思いをはせています。まことに広大無辺な心の働きの探求が人間にはできるのです。
 そして、そういう心の働きについては、いわゆる東洋の思想に多いわけです。ところが今日では、西洋の物質的、外面的な考え方に幻惑され、心の内を探求していく傾向は弱くなっているようです。そこに現代人の精神的動揺の起こる一つの原因があるのではないかと思います。
 過去をかえりみれば、東洋人であるわれわれは、いわば内なる精神の探求に長く心を打ち込んでいました。それで西洋的外面的な事柄に対する研究は十分でなかったわけです。たとえば自然に対しても、これと融合することは考えたにしても、しかし自然それ自体と取り組んで、そこに科学的な活動を展開するようなことは、東洋人は怠っていました。ところが西洋人と交際して西洋的なものをみると、人間に益することがたくさんある、これはいい、ということで、最近では西洋の物質的な考え方が重視され、東洋的な考え方というか、心の探求、心を広げ深めるということがなおざりにされてきているわけです。
 大切なことは、物心両面をともに発展させていく、物心の調和を生みだしていく、ということだと思います。そういうことから考えるなら、現在やや物質的な面に偏っている姿を改めるため、精神的な面に力を入れるということは大いに必要なことといえるでしょう。
 心も物もともに大切です。両者は車の両輪のように、ともどもに進んでいかなければならないと思うのです。そのために、現在いささかおろそかにされている心の面の探求を進めていくことが肝要だと思うのです。先生のおっしゃるとおりだと思います。
13  部分的生命と全体生命
 池田 現在、各大学の研究室には、有名な「ヒーラ細胞」が生きつづけています。ご存じのように、この細胞は、子宮頸癌にかかった米国の一女性から取り出されたものです。
 むろん、その女性は、一九五一年に死亡しました。だが、彼女の子宮から取り出された癌細胞は今も培養液のなかで分裂をつづけています。
 癌で死亡した女性の生命と、彼女の子宮から取り出された細胞生命とのこの関係についてどのようにお考えになりますか。
 松下 癌で死亡した女性の生命と、その体から取り出され、今なお生きつづけている細胞生命との関係をどう考えたらいいかということは、まことに興味あるご質問だと思います。
 私は、こういう問題を考えるについては、これまでにも申し上げましたように、この宇宙自体が一つの大きな生命体であると考えてはどうかと思います。
 その宇宙の生命があらゆるもののなかに充満しているわけです。人間はいわば、その宇宙の生命の分身であり、その人間を形づくっている個々の細胞はそのまた分身だといえましょう。そのことは、人間にかぎらず、どの生物についてもいえることだと思います。
 生物学のことはよく知りませんが、下等な動物では、体の一部を切り離すと、それが生きつづけ、だんだん成長して、完全な一個の生物となるといったことがあるそうです。また植物でも、枝の一部を切り取って土にさしておくと、やがて根をはやして成長していくことはよく知られています。このようなことは、もとの生命体とは別個の、分身としての生命が生きつづけているのだと考えていいのではないでしょうか。
 その意味においては、その女性の場合も基本的には同じことだと思います。その癌で死亡した女性の生命は死んだけれども、分身である細胞の生命は生きつづけているということだと考えてはどうかと思います。ただ、人間のような複雑な組織をもった高等生物の場合は、切り離された細胞が一個の人間にまで成長するといったことはないと思います。
14  生命現象の重層性
 池田 今日において、生命といえば、通常、生物学的生命をさしているようです。この生物学的生命のなかには、一個の細胞からなる生命もあれば、膨大な数の細胞からなる生物もあります。また、多細胞生物のなかでも、精神活動をともなった人間生命は特異な存在といえましょう。
 このような事実から、私には、生命現象は重層的に考えられるべきではないかと思います。つまり、生命現象の最も基盤になるのは、物質とかエネルギーの世界です。この世界をも広義の生命に含めれば、宇宙自体が巨大な生命体であり、私たちの存在する地球も一個の生命的存在といえましょう。
 次の段階は、単細胞生物の領域になります。そのうえに、各種の動植物を含む多細胞生物の段階が位置づけられます。人間生命は、さらに高次の段階の生命体と考えられます。
 また、分子生物学者の渡辺格博士は、人間生命のつくりだすものとして、文化的生命、社会的生命という言葉を使われていますが、私も広義の生命には当然含むべき概念だと思います。
 このような、幾重にもわたる生命現象の重層性を考えることは、生命の謎を解くために、きわめて重要な方法となりうるのではないでしょうか。
 松下 生命現象を重層的に考えてはどうかというお考えに、私も賛成です。
 再三申し上げますように、この宇宙自体が大きな生命体であり、ご質問にあるような広義の生命というものは、万物いっさいにあるといえましょう。
 石でも鉄でも、機械その他の人工の物質でも、それぞれに生命をもっているわけです。よく「物のいのちを大切にする」ということがいわれますが、どんな物にも生命があるとし、その生命を尊重するという考えにたてば、たんにいのちなき物質と考えるより、ずっと物を大事にするようになると思います。
 つまり、物の価値がわかってくるわけです。そこに人間として好ましい生活態度が生まれてきますし、物を粗末にするとか資源を浪費するといったことも少なくなって、経済活動もより適正なものになってくると思います。
 人間はじめ、もろもろの動植物に生命があることはいうまでもありませんし、それにも下等な単細胞生物から高等なものまでいくつかの段階があり、人間がその最高位にあるということは全く同感です。渡辺博士のお説については、具体的な内容は存じませんが、人間がつくりだした文化とか社会制度といったものにも生命があるという考え方であれば、私もそのとおりだと思います。
 思想であれ、文化であれ、社会体制であれ、すべて生命体として躍動しているものだと考えていいと思うのです。そしてまた、生命があるということは、長短の差はあっても、それぞれに寿命があるということに通じると思います。つまり、どんなにすぐれた思想でも文化でも、社会制度でも、時がくればその生命を終え、そこにまた新しい生命をもったものが生まれてくるということです。そう考えれば、一つの思想、一つの社会制度だけを最善と考えてこれに固執するというような弊害に陥ることも少なくなるでしょう。
 したがって、生命を重層的にみて、あらゆるものに生命があると考えることは、生命そのものを解明していくうえだけでなく、現実の共同生活をよりよいものにしていくためにもきわめて大切ではないかと思います。
15  生命現象の不確定性
 池田 物理世界の究極の領域にいどんだ量子力学では、有名な「不確定性原理」を打ち立てています。電子の位置と速度を同時に正確に測定することは不可能であるという原理ですが、原子物理学者のボーアなどは、生命現象にも、一種の不確定性を見いだしうると主張しています。
 たとえば、生体内の分子や細胞の構造を明らかにしようと思えば、自然状態を変化させたり、生体を殺して観察しなければなりません。
 しかし、生体を殺して細胞を取り出したり、自然状態を変化させたのでは、ありのままの生命現象を把握したことにはならないからです。
 生命については、こうした不確定性をともなわざるをえないところに、今日の科学的方法論の限界があるとも考えられますが、いかがでしょうか。将来、生命現象における不確定性を克服しうる新しい学問が起こりうると考えられるでしょうか。もし、新しい学問の道が開けるとすれば、その学問は、どのような思考法を基盤としたものになると思われますか。
 松下 おっしゃるとおり、生命現象というものをありのままに観察研究することは、なかなかむずかしいように思われます。そういうむずかしさを克服するような新しい学問が起こってくるか、また、それはどのような思考法を基盤としたものになるのかといったことは、正直のところ科学にうとい私としては皆目見当がつきません。
 ただ、申し上げられますことは、人間というものは限りなく進歩向上していくのですから、そのような学問が必要であり、それが人間生活の向上に役立つものであるならば、多くの専門家の人びとの衆知によって、しだいしだいに解明が進んでいくのではないかということです。
 いわゆる生命現象というものには、肉体的な面と精神的な面とがあると思います。そのうち、肉体的な面の研究解明は今日でも相当に進んでおり、学問的な成果もいろいろあがっているように思われますが、それに比べて、精神活動の解明は遅れていると思います。
 けれども考えてみれば、昔の先哲諸聖といわれるような人びとは、まだ人知もそれほど進まず、学問も発達していなかった時代にあって、人間累代の衆知と、みずからの体験にたって深い洞察のなかから、人間の心の働きを究め、高い哲理を打ち立てられたわけです。
 そういうことを考えてみますと、真に人間の衆知が集められるならば、今後とも物心両面にわたる生命現象の解明が一段と進み、やがてはご質問にあるような「不確定性」が克服されることも考えられると思います。
 ただ、それが具体的にどのような姿でなされるかということにつきましては、私は残念ながら今のところお答えできるものをもたないのです。
16  生体実験の疑問
 池田 かつて、軍国主義下の日本や、ナチ政権下のドイツでは、種々の生体実験が行なわれたことが知られています。それについては厳しい指弾が行なわれていますが、間接的であっても、生体実験になるのではないかとの疑問をぬぐいきれない事件は、今日においても、しばしば告発されています。
 たとえば、精神科領域では、かつて、ロボトミー(前頭葉切載術)を行なった行為が問題となっていますし、さらに、新薬の開発にさいして、社員を使用して、種々の副作用を引きおこした企業もあります。
 学問の進歩や人間の幸福のために貢献するという名目のもとに、生体実験の疑問をぬぐいきれない行為が跡をたたないのが実情ですが、こうした風潮の根源は、いったいどこにあるとお考えになりますか。
 松下 医学者の人が、真剣に病気の原因を探究したり、治療法を研究して、その進歩を求めていく過程で、ある種の人体実験的なことをしてみたいと考えることは十分ありうると思います。その結果、人を殺すとか、人体に害を与えるということがあれば問題ですが、真の人命尊重の立場にたって、可能な範囲でそういうことを試みることは、やはり医学者としての努力の姿ではないでしょうか。それがある許された線を越えてはなりませんが、そのギリギリのところまで努力することは、医学を進歩させ、より多くの人命を救い、健康を守ることに通じると考えられます。
 もちろん、それはきわめてむずかしいことですから、軽々には行なってはならず、非常な慎重さが必要だと思いますが、一方、批判や告発も軽々にすべきではないと思うのです。
 かつて、イギリスのジェンナーという人は、自分の息子に種痘の実験をしたといわれています。そうしたジェンナーの努力によって、それまで世界中の多くの人命を奪い、人びとの恐怖の的となっていた天然痘も、予防できるようになったわけです。またわが国でも、有吉佐和子さんの小説で有名な華岡青洲が、世界に先駆けて麻酔薬というものを発見し、それを自分の母と妻に実験したことが知られています。
 そうしたジェンナーなり華岡青洲といった人びとの行為は今日では大いに称賛されていると思います。それは、その行為が私の心から出たものでなく、大きな高い見地から、人間尊重を考え、医学の進歩を願ってなされたものであり、その結果、非常に多くの人命が救われたからだと思うのです。
 ですから今日でも、自分の売名とか利益のためにそういうことをやるのは論外としても、非常に高い良識で判断して是とされるものであれば、多少の危険がともなっても、それは許されるのではないかと思います。いつの時代にあっても、人間の進歩には一面にある種の危険がともなうものであって、その危険に応ずる勇気ある人がなかったならば、人間はここまで進歩してこなかったと思います。
 もちろん、再三申しますように、人間の生命、健康がかかわってくるような実験を行なうについては、神のごときといってもいいほどの良識が必要で、医学者の人びとがそういう高い良識を涵養しつつ、公正無私な立場で行なうのでなくてはならないと思います。また、したがって、これを批判したり、告発したりする人も、学閥的な考えとか、なんらかの意図にもとづいて行なうということであってはならないでしょう。
 行なう側も、批判する側も良識を養いつつやるということであれば、人体実験的なことは、弊害をもたらすことなく、進歩を生むものだと思うのです。
17  生命の人工合成は可能か
 池田 今世紀後半に入ってからの生命科学の進歩には、まことにめざましいものがあります。
 ワトソン・クリックのDNAの模型からはじまり、遺伝暗号の解読を経て、DNA、RNAの人工合成、さらには、最も単純なウイルスの合成にまでおよぼうとしています。
 一般に認められる生物学的生命といえば、細胞のレベルをさすのでしょうが、将来、細胞の人工合成は可能になるとお考えでしょうか。また、多細胞生物としての人間生命の合成は、原理的に可能でしょうか。
 それとも、高度の精神活動を発現する人間生命だけは、どのような技術をもってしても不可能であるといえるでしょうか。
 松下 ご質問にもありますとおり、生命の探究をめざす生命科学の進歩はまことにめざましいものがあると聞いております。そうした科学的な成果にかんがみて、生物のからだを形づくっている細胞というものは人工で合成が可能か、また、たんに一つの細胞でなく、無数の細胞が複雑に組織されている人間というものについてはどうかというご質問だと思います。
 これに対して、科学的な観点からお答えすることは、専門家でもなんでもない私には、とうていいたしかねますので、私はこれを生物の発生という見地から考えてみたいと思います。
 生物の発生についての私の考え方については、これまでものべたところですが、この地球上にある自然条件が整ったときに、それぞれの自然条件のもとで、人間を初めいろいろな生物が逐次発生してきたというものです。
 そういう観点からしますと、人間を発生せしめたものと同じような自然条件を、現在の人間が人工的につくりだせるならば、人間の合成は可能だとも一応は考えられます。しかし私は、そういう自然条件をつくりだすこと自体、まず不可能ではないかと思います。
 といいますのは、人間が発生したのは、数百万年前か、あるいは数億年前か、いずれにしても、はるかな音です。そういう大昔に、地球がだんだんと生成発展してきた過程で、ある自然条件が整い、そのときに人間が発生したわけです。ですから、その自然条件を再現するということは、この地球の姿を、何百万年あるいは何億年といった昔にかえらすことを意味します。そのようなことは事実上できないのではないでしょうか。
 もっとも、さまざまな生物を発生せしめたもろもろの自然条件の一部を実験室の中で、偶然にあるいは意図的に再現することは、これは全く不可能ではないかもしれません。その意味では、一細胞といったものを人間が実験室の中で合成することは、あながちできないことではないと考えます。
 しかし、人間を発生せしめたという、特定の大きな自然条件のすべてを実験室の中で再現するといったことは、とうていできるものではありません。ですから、人間による人間生命の合成は、まず不可能であると断定して、さしつかえないと私は考えます。
18  人工中絶の問題点
 松下 今日の社会においては、いわゆる中絶というものが多く行なわれており、それについて社会的にも問題となり、いろいろと論議を呼んでいるようです。つまり中絶は、やむをえないことだという考え方もあれば、反対に胎児といえども生命を有し、中絶はその生命を奪うことだから許されないことだという考え方もあるわけです。
 こういった中絶については、いったいどのように考えることが正しいでしょうか。
 池田 私自身としては、人工中絶ということには、基本的には反対です。なぜなら、人工中絶は、生まれでようとする生命を、人工的に闇から闇へ葬りさろうとする行為であり、それは、生命のすべての可能性の芽を摘み取ってしまう行為であります。子供は、これから生まれでようとする生命も含めて、けっして両親の私有物ではない。生まれでて、社会に、それぞれの生命なりに羽ばたくことが約束されている未来の生命です。
 また人工中絶は同時に、母体をも傷つける行為であります。元来母体は、人工中絶をするように形成されているのではなく、出産に適するようにできているのであり、医学的にみても、人工中絶はいちじるしく母体を傷つけ、健康をそこねるものであることは周知の事実です。中絶をしたため、子供が産めなくなった例や、命さえ危うくなった例も聞かれます。母と子、その両方の生命を脅かす人工中絶には、基本的には許されない要素があることを認めるべきだと思っております。
 ただし、やむをえない場合のあることもまた確かです。たとえば、出産によって母体の生命の安全が脅かされる場合、また優生学上、悪い影響が子供に出ることが十分に予想される場合などがそうです。そのような場合は、中絶もやむをえないことといえるでしょう。しかし、この場合もまた、それらが十分事前に予測される場合は、中絶をしなければならない事態を十分な注意をもって避ける知恵が要求されるのはもちろんです。
 こういう場合も考えられます。産むことは経済的に無理があるから中絶するという場合です。しかし、中絶をするにはそれなりの社会的背景があることを重視したいと思います。何よりも、母親が安心して子供を産めるような社会の体制をつくってあげるべきだと思うのです。中絶を安直に考えさせてはいけませんが、一方、中絶によって生涯の心のキズをつくらせてしまうような罪悪視もどうかと思います。
 それにしても現代は、社会的な体面とか本人の利己的理由で中絶することが、けっして少なくないようです。それは、中絶という行為そのものを悪であるとして憎むよりも、生命というものを、社会的な名誉や利害より低い次元のものとして考えているからであり、そのような動機でなされる中絶、そしてそれを許している風潮はあってはならないと思うのです。
19  人口問題と避妊
 池田 人類が早急に解決策を探さなければならない問題の一つとして、爆発状況にある人口問題がありますが、この問題については、どうしても、出産を抑える方向、すなわち避妊によらなければならないのではないかと思われますが、いかがでしょうか。また、この点については多くの学者によって指摘されていますが、まだ十分な効果はあらわれていないのが実情です。人口増加の抑制のために可能であり、有効な方法はほかにあると考えられますか。
 松下 人口問題の背景として、一番重要なのは、なんといっても食糧だと思います。人口がふえても、食糧がそれに見合って生産されれば、べつに抑制する必要はないわけです。過去において、食糧の増産は人口増加のテンポに追いつかない、だから人類の将来は非常に悲観的だと唱えた人もあったそうです。が、結果としては、科学技術などの進展によって、人口を上回る食糧の供給を可能にしてきたのが、これまでの人間です。しかし、今後もそういうことが可能であるかどうかは別問題であって、これは私は専門家ではありませんから、よくわかりませんが、いずれにしても調査研究してみなくてはならないでしょう。
 そして、その結果、このままでは人口が食糧の供給を上回ってしまう、いろいろ増産の方法を講じても、それでもまだ不十分である、ということであれば、その事実は事実として受け入れ、人口の抑制を考えなくてはならないと思います。
 一般によくいわれることですが、過去においては、大戦争とか世界的な伝染病の蔓延によって人口が調節されてきたということです。しかし、そういった不幸な出来事によって人口が調節されるというのでは、人間としてまことに好ましくないのはいうまでもありません。また、妊娠中絶ということも考えられますが、これも母体の健康という点からも、性道徳という点からも、とらないほうがいいと思うのです。
 そういたしますと、ご質問にもありますように、今日考えられる範囲では避妊という方法が一番大切なのではないでしょうか。ただ避妊については、先進国はともかく、教育水準が低く字の読めない人が多い開発途上国では、なかなか普及せず、効果もまだ不十分だといわれているようです。ですから、そういう国に対しては、先進諸国も大いに協力援助して、避妊知識の普及を今以上に行なっていくことも大切だと思います。また、避妊をあるていど奨励するような法律を人道というか道徳性をも加味してつくることも効果があるでしょう。それによって避妊の奨励、人口の抑制を効果的に行なうことを各国がそれぞれの国情に即して考える必要があると思います。
20  避妊と性道徳
 池田 人口問題その他によって、もし避妊が広範囲に行なわれた場合、その反動として性道徳が乱れることが予測されます。これは仮定の問題ではなく、現実にも一部で兆候がみられるようです。それを受け入れるか、性道徳観念自体の変更を余儀なくされるかといったことも考えられますが、性教育等によってそれらの事態は回避できるとお考えになりますか。
 松下 前項でも申しましたように、今後の人口抑制ということが人類にとって必要になってきますと、そのためにとりうる手段としては、やはり避妊というものが一番適切だろうと思います。その場合、ご指摘のような性道徳の乱れということも当然考えられます。その弊害は放置しておいていいものではないと思います。古来、一部の宗教では避妊を禁じていたようですが、これも一つにはそういう弊害を未然に防ぐためではないかという気がします。
 それでは、そういった風潮にどう対処していくかということです。ご質問にありますように、性道徳自体をそのような風潮にあわせていくということも考えられますが、やはり私は教育によって道徳心を高め、性道徳をいわば微動もしないようにしていくことが肝要だと思うのです。そのことが可能かどうかというよりも、それをしなくてはならないと思います。
 もちろん、性道徳自体、すべての面で絶対に変更してはならないというものではないでしょう。やはり時代とともに進歩していく面は当然必要なわけで、そういった点での変更はあっていいし、なされなくてはならないと思います。しかし、基本的な性道徳というものは、これは多年にわたる人間の経験と知恵の集積だと思うのです。ですから、そうしたものまでも変えてしまうということは、いわば、人間を人間でなくしてしまい、他の動物と同じようにしてしまうおそれもあるわけです。
 したがって、性道徳というものを衆知によって検討し、何が基本的な変えてはならないものであり、どういう点が今日的に変更すべきかを考えつつ、これを適切に教育していくことが大切だと思います。
 それとあわせて、やはり、なんらかの法律を定めて、それによって性道徳を維持していくことも必要ではないかと考えます。各国がそれぞれの国情に応じた適切な法律を定めたらいいと思います。そういった法律と教育との両方があいまって、好ましい姿で性道徳を維持していくことを考えるべきではないでしょうか。
21  試験管ベビー
 池田 人口問題からの要請とは別に、受胎、出産の人工的調節の研究が行なわれております。試験管ベビーはその一つですが、現在は子供に恵まれない人びとのために開発されている方法だとしても、やがて、望むときに子供をつくったり、男女児の選択を可能にしたり、出産の苦痛から逃れさせるような技術も開発されるかもしれません。この試験管ベビーについてはどう思われますか。
 松下 試験管ベビーというものについて、よくは存じませんが、母胎から卵子をいったん取り出し、受精させた後に再び胎内に戻して成長させるというものだと思います。
 最近では、子捨て、子殺しなどという好ましからぬ風潮もごく一部にはありますが、人間として子供をもちたいという願望は、これは本質的にもっているものだと思います。世の中には自分が子宝に恵まれない場合、他人の子をもらって育てるという人さえ少なくありません。
 だから、なんらかの理由によって自然な方法では受精ができにくく、そのため子供ができない人びとにとって、そこに人為を加えることによって子供を産むことが可能になるとすれば、これにまさる喜びはないでしょう。ですから、そうした方法が医学の進歩によって開発されたこと自体は高く評価していいと思います。
 けれども、なにごとによらず、進歩にはその半面になんらかの弊害がつきまとうというのも、これは避けられない事実であって、効果が大きければ大きいほど、われわれはその弊害に気をつけなければならないと思うのです。
 結局、こうした試験管ベビーといったものをプラスに生かして使うか、それを悪用するかということも、それは人間しだいだと思います。ですから、これが医学的に真に有効であり、人体に悪影響をおよぼすものでないかどうかについてさらに解明していく一方で、必要があれば法津をつくるなり、あるいはさらに道徳心を高めるなりして、その悪用に陥らないような方途を講じていくことが大切ではないかと思います。
22  青年の自殺を防ぐには
 松下 最近、青年の自殺が多いといいます。青年が自殺するのは、青春の多感の時代ということで、あるていどわかる気もしますが、なぜこのように多くの青年が自殺するのでしょうか。こういった傾向を防ぐことは可能なのでしょうか。青年の自殺を少なくしていくためには、どのような考えにたち、いかなる施策を進めていけばよいのでしょうか。
 池田 青年は、とくに感受性が鋭く、想像性が豊かですから、小さなことであっても、思いつめると、想像が想像を生み、こうして巨大化した幻想の圧力のもとに、死以外にそこから逃れる術はないかのような気持ちになりがちです。
 しかし、だからといって、すべての青年がそのように限りなく想像を追う――というより想像に追われる――性向をもっているわけではありませんし、かりにそうした心の動きがあったとしても、それに立ち向かうしたたかさや、あるいは相当つらいことであっても、そこから気分を転じて生きる希望を見いだしていく柔軟さをもっている人が大部分でしょう。
 したがって、社会として、周りの人びととして青年の自殺を少なくする、というより、青年を自殺に追い込まないようにするには、まず第一に、青年をして、これ以上生きることに希望をもたなくさせるような、社会の不正や汚濁をなくしていくこと――これが最も根本であると考えます。
 もちろん青年のなかにも、大人たちの不正の姿をみて、自分もやってみたいと思っている人もあるでしょう。だが、自分はあんなふうになりたくないと思っている、正義感にあふれた青年こそ大切です。もし、今の社会が、こうした純粋な正義感をもった青年にとって嫌悪しか呼びおこさないとしたら、すでにこの社会自体、死んでいるといわなければならないでしょう。
 第二に、今の社会がどうあれ、正義感あふれた青年こそ、生き抜いてもらわなければなりません。今の社会が先にいったような意味での″死″にまだいたっていないとすれば、″生″を受け継ぎ、さらに生の息吹を高める使命を、そのような青年はもっています。もしまた、今の社会が″死″にいたっていたとしても、そのような青年は、これを蘇生させる使命と責任をもっています。
 結局、青年の自殺を少なくするために、なすべきことは、以上の二つの点に要約できます。第一の点は、現在の大人たちの生き方、社会のあらゆる分野における姿勢の転換ということを含んでおり、容易なことではありません。だが、この現実社会の歪みこそ、たんに青年にかぎらず、あらゆる年齢層の人びとの自殺の主原因であり、とくに老齢者の自殺は、青年の自殺よりいっそう悲惨なものに思われます。なぜなら、青年の自殺は、現実のきっかけは小さくて、想像が際限なく発展した末にいたる結論であることが多いのに比べ、老人の自殺は、想像の分野は小さく現実の比重が大きいからです。
 このことは、それだけ、そのような事態に追い込んだ社会の罪が大きいことを物語っているといえましよう。
 その意味で、青年の自殺を少なくするために、より大事なことは、むしろ第二の点になりましょう。青年であれば、生命の力も若々しく躍動性がありますし、当人さえ、気を取り直せば、社会の不正に挑戦するにせよ、みずからの失敗を乗り越えるにせよ、不可能ということはありません。社会に希望はもてなくとも、みずからに対しては希望をもつことができますし、ひいては、みずからの力で、希望のもてる社会に変革することも可能だからです。
23  自殺をどう考えるか
 池田 「本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である」とはアルベール・カミュの言葉ですが、仏法では人間生命を至高の価値として、その尊厳を、あらゆるものに優先して守り抜くことを説いています。したがって、基本的には、みずから命を断つことは仏法の理念に背くことになります。ところで、自殺を否定されますか、または状況によっては肯定するという立場をとられますか。いずれの場合もその理由をのべてお答えいただければ幸甚でございます。
 松下 おっしゃるとおり、人間の生命というものはきわめて尊いものであって、これを奪うことは大きな罪悪といえましょう。ですから、自殺ということも原則としては許されないと思います。窮状におちいって死を求めるということは往々にしてありましょうが、やはりそういうことはいけないのであって、勇気をふるって生きるという、いわば生に対する義務が人間にはあると考えられます。やはり、いかに苦しくとも、窮境を脱却するために努力しなくてはならないと思うのです。
 それでは、どんな場合でも自殺は否定されるべきか、それは人間の尊厳に反するのかということですが、ただ一つ、自殺もまた人間の至高性といいますか、非常に高い心の働きによる行動の一つであるとして認められる場合があるのではないでしょうか。
 それは、一死をもって万生を救うといいますか、自分が死ぬことによって万民が助かるというような場合です。このままでいけば、自分も殺され、また多くの人も殺されてしまう。けれども自分一人が死ぬことによってみんなを助けることができるというような場合が、普通では考えられませんが、長い人生のうちには世の変遷によって展開してくるかもしれません。そういう場合に、やはり自殺は許されないのが原則だからといって、その原則に従うか、あるいは例外中の例外としてそういう自殺は認めるかということです。私はそのような場合に限っては、自殺が認められていいのではないかと思うのです。
 過去の歴史にはそういう姿がみられます。たとえば、秀吉が備中2局松城を囲んで、水攻めにした時、城主の清水宗治は、切腹することによって、城中の部下や領民の命を救ったわけです。そのような例は他にも多々ありましょうが、歴史におけるそういう姿は、その当時の人びとにも、後世の人びとにも、おおむね是とされ、あるいは称賛さえされてきたと思います。
 今日は昔より進歩してきましたから、そういつた事態もほとんどなくなってきましたし、またそんな状態におちいらずにすむように、お互いに考えなくてはならないと思いますが、しかし、時の勢いでどういうことが起きるかわかりません。
 ですから、自殺は原則としてはいけないけれども、そういう尋常一様ならざある場合には、万民を救うために例外中の例外として認められていいと思います。
24  現代生物学発展の方向
 池田 現代科学のなかでも、近年、生物学の進歩にはいちじるしいものがあります。生体のメカニズムの分析と解明から、近い将来には、遺伝子の操作まで可能になるのではないかといわれるほどです。
 しかし、このような生物学の発展の方向が、はたして、生体、とくに人間存在を正しくとらえるものになるのか、疑問視されるむきもあります。このような現代生物学の発展の方向を、どう評価されますか。生体の本質を正しく把握することができると思われますか。
 松下 今日の生物学の内容というものについて、私はほとんど存じませんので、具体的に論評することは、いたしかねます。ただ、伝え聞く範囲では、生物の体や働きの仕組みとか、親の性質がどのように子に遺伝するかといった問題などについての解明が非常に進み、そうした結果が、医学とか農業その他、人間生活のいろいろな面に取り入れられ、大いに役立っているということですから、それはそれで大いに結構なことであり、高く評価していいのではないかと思います。そういう意味では、生物学が今後さらに進歩していって、一段と現実の人間生活に役立てられることは、大いに必要だといえましょう。
 ただ、ご質問にあるように、生物学の進歩によって、生命の本質が解明、把握されるかというと、これは別問題だと思います。結論から申しますと、生命の本質というものは、生物学だけでは把握されないと思います。
 と申しますのは、生物学というものは、その内容は個々にはいろいろあっても、やはり生物の物質的な面を扱うものだろうと思います。もちろん精神的な面を対象とする場合もありましょうが、その場合でも、それは脳とか神経といった物質的機関の働きとしてとらえるわけです。そのように、生きている生命体を対象とはしていても、物質的なものに主体をおいているのであって、身体作用、精神作用といった、いわゆる生命現象は解明できても、生命の本質を解明するものではないと思うのです。
 それでは生命の本質は、何によって、あるいはどのようにしたら把握できるのかということですが、これはやはり哲学というものによらなくてはならないと思います。しかもそれは、学問的に解明していくというのではなく、いわば哲学的な推知によって把握するものではないでしょうか。
 もちろん、そのように哲学的に推知していくうえで、生物学が解明した科学的な成果というものが、大いに参考になる場合もあるでしょうし、あるいは、それが一つの裏付けになるということもあると思います。その意味からも、現代生物学の進歩は貴重なものといえますが、しかし生命の本質は、そういうものを参考としつつも、哲学的推知によって把握するしかないと思うのです。
25  地球外生物の存在
 池田 現代天文学の知見からすれば、宇宙のどこかに、生命が誕生しうる条件だけは徐々に立証されているようです。
 地球外の生物がいかなる形態を示すかは科学の問題ですが、宇宙生物が存在しうるか否かの判断は、哲学上の重要な課題でありましょう。
 仏法では、この広大な宇宙には、必ず、生命と呼ぶにふさわしい生き物が生息し、しかも、そのなかには、知的生物も実在しているであろうと説くのですが、その点に関してのご意見をお聞かせください。
 松下 地球以外にこの宇宙のどこかに生物、とくに人間のような高等生物が存在するかどうかということは、まことに興味ある問題だと思われます。
 先の「生命の発生」のお答えのなかで、私は、自然の理法による地球の生成発展の過程において、もろもろの自然条件が整った時に、人間をはじめいろいろな生物が発生したという考えをのべさせていただきました。
 そのように考えてみますと、この大宇宙には、無数といってもいいほど多くの星があります。そして、そのなかには地球と同じような星もたくさんあると思うのです。ですから、この地球の生成発展の過程で生命が発生し、人間というすぐれた知恵をもった高等生物が発生した以上は、他のところでも同じようなことが起こりうることは、当然考えられると思います。つまり、地球とよく似た他の星で、その星自体の生成発展のなかで、ある自然条件が整えば、そこに生命が発生するであろうし、地球において人間を発生せしめたのと同じような自然条件が生ずれば、人間あるいはそれ以上の高等生物が発生することもありえないことではないと思います。
 もちろん、今日、地球上に住むお互いはそうした他の星に生物が存在するかどうかを確かめたり、これと交信したりするという十分な手段方法をもちません。ですから、今の段階では、そういった宇宙生物が存在するかしないかということは、現実の人間生活に深いかかわりあいをもつものではないと思います。しかし、われわれは、そうした生物の存在を念頭においておくことも一面必要ではないかという気がします。
 その意味からも、ご質問にあるような仏法の考え方は、きわめて意義深いものであると考えます。
26  地球外生物との共通点
 池田 地球外生物については、その可能性が論じられているだけで、その証拠となるものは発見されておりません。しかし、その可能性を信じてオズマ計画(一九六〇年、アメリカで行われた地球外文明との交信計画)など人類と他生物との通信を試みたこともありました。もし地球外の、人類と同等もしくはそれ以上に知識の十分に発達した生物がいたと仮定し、接触する機会があったとすれば、その生物と人類との共通点はありうるでしょうか。物理・化学や数学など自然科学部門については共通することが考えられているようですが、どうお考えになりますか。また文学、芸術などの分野はどうでしょうか。政治・経済はどうでしょうか。また哲学・思想の分野についてはどう考えられますか。
 松下 この地球以外に、生物がいるのかどうか、また、いるとすればどういうものか、といったことについては今日私どもは、なんらの知識を持ち合わせておらず、ただこれを推測するしかありません。
 先の「地球外生物の存在」のところで申し上げましたように、人間はじめ地球上の生物が自然の理法によって発生した以上は、宇宙のほかのところでも、同じ自然の理法の働きで、いろいろな生物が発生し、人間と同じような、あるいはそれ以上の高等生物が存在することも十分考えられると思っております。
 それでは、かりに人間と同じような生物がいたとして、その生物はどんな科学、芸術、思想、社会制度など、いいかえれば、どのような物質文化と精神文化をもつかということですが、これは、私は基本的には人間と相共通するものがあるのではないかと思います。
 といいますのは、別のところで申しましたように、自然の理法は、物的法則、心的法則によって万物に働きかけています。その物的法則、心的法則を入知で解明しつつ、人間の共同生活のうえに適用し、具現化したものが物質文化と精神文化になるわけです。ですから、自然の理法というものが、この大宇宙のあらゆるところで、同じように働いているとすれば、それにもとづいて生みだされる物心両面の文化も、基本的には相共通するものがあると考えられます。
 と申しましても、この地球上だけをとってみましても、同じ人間同士とはいいながら、それぞれの民族のもつ文化というものは、非常に差があります。言葉も違いますし、風俗、習慣も千差万別です。一つの国、一つの民族において是とされることが、他の国、他の民族においては非とされるといったことも、たくさんありましょう。
 そういうことからすれば、地球外の生物がかりにいたとしても、そのもつ文化は形のうえではわれわれのものとは全く異なる場合があるかもしれません。というより、その可能性のほうが大きいとも考えられます。われわれ人間が、学ぶべきことがそこにあるかもしれません。
 けれども、この地球において、非常に高度な文化生活、文明生活をしていようと、原始未開の姿同然であろうと、そこに人間としての共通するものがあるように、地球外生物の文化というものも、形のうえではわれわれのそれと非常に異なっていても、本質的には共通するものではないかという気がいたします。
27  物質究極の姿
 池田 現在、物質究極の姿を求めて、素粒子を統一する試みがなされています。
 ハイゼンベルクの宇宙方程式の提唱、湯川博士の素領域理論を含めて、種々の模型が考えだされていますが、これらは、素粒子の背後にあるものへの、科学者たちの挑戦のあらわれであると考えます。
 物質とは何か、その究極の姿はどのようなものかを探索することは、科学の問題であるとともに、哲学の領域に入る重要な課題ともいえましょう。科学が解明した事実のうえから、物質究極の姿とはどのようなものだとお考えになりますか。
 松下 物質の究極の姿はどういうものか、というご質問ですが、結論から申しますと、私は物質には究極の姿というようなものはなく、人類がつづくかぎり無限に解明されていくものではないかと思います。
 私は科学的なことはよくわかりませんが、聞くところによると、かつては鉄とか金とか酸素といったものの原子というものが、物質の究極の姿と考えられていたということです。ところが、科学の進歩につれて、原子はいわゆる素粒子からなっていることが発見され、それが究極の姿かと思ったところ、素粒子にもいろいろの種類があり、生まれたり、消滅したり、別の素粒子に変化したりするといったことから、今日では素粒子の解明に、科学者の人びとが全力をあげておられるように聞いております。
 そうしたたゆみない研究の努力によって、素粒子についても、さらに解明が進んでいくことでしょうし、物質というものについては、今日の科学では想像もできないような新発見が次々と生まれてくることでしょう。それらはすべて、人間が自然を解明していく過程に生じてくる成果であって、そうした解明は長久におよぶと思います。
 ですから、人間が存在するかぎり、究極というものは、永遠のかなたのものでしょう。その永遠のかなたに行く過程には無限の広がりがあり、進歩発達があるわけで、したがって、科学の前途は洋々たるものであるといえましょう。
 それは、なにも科学だけに限ったものではないと思います。たとえば思想などについてもそういうことがいえるのではないでしょうか。思想というものも、人間とともに永遠にわたって進歩していくべきであって、ある一つの思想をもって、究極的なもの、絶対的なものと考えるのは大きな誤りではないかと思うのです。
 かりにもし、人間が絶滅するようなことがあれば、その瞬間すでに解明されたことをもって究極の姿と考えることもできましょうが、そうでないかぎり、なにによらず物事には究極の姿というものはないといっていいのではないかと思います。
28  宇宙は無限か有限か
 池田 天文学等によって提示される科学的宇宙像には、膨張宇宙論、脈動宇宙論、定常宇宙論があります。今のところは、膨張宇宙論が大勢を占めているようですが、他の二つの説も全く否定されたわけではありません。
 これらの科学的成果を組み込んだうえで、宇宙は有限と考えるべきでしょうか。それとも無限であると推測されますか。もし有限であるならば、宇宙の限界の先は、どのようになっているのでしょうか。さらに、時間的に有限であるか、無限とみるべきかについても論及していただければ幸いです。
 松下 この宇宙がどのような姿であるかということは、人間にとって、まことに興味ある問題です。人間というものが、この宇宙に働く自然の理法によって発生したものとするならば、人間を解明していくためには、われわれは、宇宙とはどういうものかについて、考えていくことがきわめて大切だと思います。
 今日、天文学などの科学的研究によれば、ご質問にあるように、この宇宙は絶えず膨張しつつあるとする考え方や、膨張と収縮を繰り返しているという見方、あるいはいつみても定常であるとする意見などいろいろの論がなされているようです。それらの詳細については、私は門外漢でよくわかりませんが、それぞれに非常に興味ある説のように思われます。今後、科学の発展とともに、さらにそれらの諸説が融合調和され、この宇宙の姿が科学的により明らかにされていくことを期待するものです。
 それでは私自身はどう考えるかということですが、私はこの宇宙は、広大無限といいますか、どこまでいっても果てしなく広がっているものだと思います。別のところで、物質には究極の姿はないだろうということを申し上げましたが、それと同じように、宇宙は限界はなく、限りなく人間によって解明されていくものだと思うのです。
 また、時間的に有限か無限か、すなわちこの宇宙には初めと終わりがあるかという点についても、私は無限であると考えたいと思います。聞くところによりますと、地球ができたのは何十億年という昔であり、地球を含むいわゆる銀河系宇宙誕生というものは、何十億年前とも何百億年前ともいわれているようです。そのように個々の星なり、その集団というものをみれば、初めがあり終わりがあって、その寿命は有限かもしれませんが、この宇宙全体としては、無限だといっていいと思います。
 そのように、この宇宙は空間的には広大無限にして、時間的にも長久無限のものであると思います。そしてさらに加えるならば、たえず生成発展し、常に日に新たな姿に躍動しているとも思うのです。そういう意味から、あえてこれを名づけるならば、躍動無限宇宙論とでもいうことになりましょうか。私はそのように宇宙というものを考えたいと思っております。
29  エントロピー増大の法則
 池田 現代科学の掲示する最も重要な法則の一つに、エントロピー増大の法則があります。つまり「熱力学第二法則」です。この法則によれば、私たちの住む宇宙は、最終的に「死の世界」に陥ってしまうことになります。それは、全宇宙の熱がしだいに平均化していって、ついには「熱的死」の状態になってしまうからです。
 こうしたエントロピー増大の法則を、宇宙の未来を想定するために使用することは、基本的に正しいといえるでしょうか。
 また、この法則は、生物の世界には適用できないとされています。むろん、生物が生きているかぎりにおいてですが、もし、生物体にこの法則があてはまらないとすれば、それはいかなる理由にもとづくと考えられますか。
 松下 実を申しますと、私は″エントロピー″というような言葉に接するのは、このご質問が初めてで、その法則がいかなるものかよくわからないのです。
 聞くところによりますと、ごく通俗的に考えれば、ある物体なら物体の各部分が異なった温度だとすると、これに外部から熱が加わらないかぎり、時がたつにつれて、その物体の温度は全体的に平均化されてくるというようなことだそうです。
 そうだとしますと、物を食べたり飲んだり、あるいは呼吸したりして、たえず熱源を補給している生物については、それが生きているかぎりこの法則はあてはまらないと考えていいのではないかと思います。
 それでは、こうした法則がこの宇宙全体にあてはまるのかどうかということです。この宇宙には、たとえば太陽のように中心部の温度が一千万度を超えるという高温のところもあれば、ほとんどの物質が凍ってしまうというような低温のところもあるといわれます。しかし、かりにこの法則が宇宙にもあてはまるとすれば、そうした温度の違いも、やがては平均化していって、ついには宇宙のどこも同じ温度になってしまうことになります。
 私は、科学的見地からそういう見方が妥当であるのかどうかについてはよくはわかりません。ただ私としては、そのように宇宙が将来、ご質問にある「熱的死」の状態を迎えるとは考えたくないのです。前項でも申し上げましたように、私はこの宇宙は、時間的にも空間的にも無限に躍動しているものであり、一つの偉大な生命体であると考えています。そうした偉大な宇宙というものには、「熱的死」というようなことはありえないと考えたいと思うのです。
 しかし、かりに百歩ゆずって、そういうことが科学的に考えられるとしても、それはいわば無限ともいっていいほどの遠い未来のことでしょう。われわれが考えうる将来においては、そのようなことは起こらないと思います。
 ですからお互いの共同生活の発展、人間の福祉の向上という観点からすれば、この宇宙は無限に生成発展していくものだと考え、その生成発展に即した人間の在り方ということを中心に考えていってさしつかえないし、またそう考えなくてはならないと思うのです。
30  エネルギー保存の法則
 池田 物理学では、物質世界の基本原理の一つとして、エネルギー保存の法則を発見していきます。物質とエネルギーは、互いに交換しながらも、けつして消滅してしまうことはない。つまり「有」が「無」になることは起こりえないとの法則です。
 ところで、岡部金次郎博士は、最近『人間は死んだらどうなるか』(共立出版)という著書のなかで、この「不生不滅の法則」を拡張し、人間生命の死後についても適用して生命が死後も存在する論拠とされています。
 このようにエネルギー保存の法則を拡大して考えることに対して、どのように思われますか。
 松下 「エネルギー保存の法則」というものは、いわば物質の不生不滅ということを科学的に解明したものだと思います。
 私は岡部博士のお説について、よくは存じませんが、もし、生命というものを、なにか物質的なものと考えて、この法則を拡張して適用するというものであれば、賛成したくはありません。私は、生命は非物質的なものと考えたいと思います。
 ただ、そういう非物質的な生命は、人間が生きている間だけでなく、死後も引きつづき存在すると考えます。つまり、死後の生命は、この大宇宙という大きな生命体に帰納、融合すると考えるわけですが、そのことにつきましては、「死後の生命」のお答えをご参照いただければ幸いです。
31  東洋医学の評価
 中国の鍼麻酔手術のテレビ公開が機縁となっ東洋医学(漢方医学)への評価が高まっています。
 東洋医学は、中国民族の長い経験の集積と、中国古代の生命観であり、宇宙観でもあった陰陽五行説とがあいまって、西洋近代医学とは異なった医学の一潮流をなしてきました。
 私は、西洋的な意味での科学化はなされていないとはいえ、中国民族の経験の精華を謙虚に学ぶ必要があるとともに、今後は、陰陽五行説という生命観にも考察の光があてられるべきだと考えます。
 さて、陰陽五行説のうち、陰陽説については、宇宙と生命の展開を見事に洞察した深い直観智がきらめいていると思いますが、いかがでしょうか。
 また、五行説も、その発想の基盤には、みるべきものがけっして少なくはないと考えますが、あまりにも形式化しすぎたために、観念的なものになってしまっていると推測したいのです。この点に関しても、ご意見をお聞かせください。
 松下 私は医学に関しては門外漢であって、深い知識はありませんが、しかし人間が数千年にわたって進歩し、発達してきたという過程においては、西洋医学、東洋医学、いろいろの医学のなかに生きてきたわけです。ですから、西洋医学を尊しとするとか、東洋医学を低しとするといったように形式的には評価できないと思います。われわれの祖先が現にそれによって生き、発展してきていることを考えれば、そういう長い間の医学体験というものは、大いに尊重すべきものではないでしょうか。だから、東洋医学が旧式で、西洋医学が新式だというように軽々に評価すべきではなく、もっと慎重に考えなくてはならないと思うのです。
 ことに最近は、すべて物事には行き過ぎがあって、そこから弊害が起こってくることもだんだんわかってきました。進歩があっても、その進歩のためにかえって弊害が生まれるといったように、厳密にいうと物事にはすべて功罪が相なかばしてつきまとっているように思われます。
 その意味では、今日、東洋医学にも非常に貴重なものがたくさんあるというような反省の時期にきているともいえましょう。現に、西洋医学よりも東洋医学のほうを好むという人もありますし、また薬物にしても、病気によっては西洋薬物よりも東洋薬物のほうがいいという考え方が最近は起こってきているようです。
 そういう点から考えまして、東洋医学にも大きな健置があり、西洋医学とともに慌用されることがあっていいと思います。ただ、願わくは、それが名医によって併用されることが望ましいと思うのです。
 陰陽五行説というのは、ごく平易に考えますと、この宇宙の森羅万象は、陰陽二つの気の働きと、木、人、土、金、水の循環流行によって生ずるというものだと思います。私は、どういう人が考えたのかは知りませんが、何千年も昔に、こういう形で森羅万象の根底をなすものを認識したというのは、驚くべきことだと思います。静かに考えてみますと、今日のわれわれも、意識するとしないとにかかわらず、こうした考え方によって生かされているのではないでしょうか。中国にこのような考えが生まれ、また周辺の国がそれを取り入れて、数千年にわたって社会生活をしてきた、そういうことを今あらためて考える時期にきているのではないかと思います。
 いずれにしても、日本はまことに幸いなことに、一方では中国という古い先輩をもち、他方、西洋の新しい医学も取り入れているわけですから、それを巧みに使いわけ、併用していくことが大切だと思います。そして、それは先にものべましたように、名医によってなされることが一番望ましいわけですが、ただ、そのためには国民がそういう意味の認識をもつことが必要で、さもないと名医も生まれてはこないでしょう。

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