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豊かな人生  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  運命とは何か
 松下 私どもの人生には、人間の力ではいかんともすることのできない大きな力、いわゆる運命というものが働いているようにも思うのですが、私どもはこの運命をいかに考え、これにいかに対処していけばよいのでしょうか。″人事を尽くして天命をまつ″という言葉もあれば、″運命は服従すべきものではなく、開拓すべきもの″ともいわれます。この運命について、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 私たちが人生の風波を受けつつ生きていくなかで、どうしても運命の存在を感じることがあります。貧富の差、顔の美醜、病気の有無などはもとより、性格の特徴や、事業の好不調にいたるまで、自分の手に負えない巨大な力として、人生のコースを左右しているように思われます。逆説的にいうと、そうした自分の努力によってはどうしようもないものを、人間は″運命″と名づけたということができます。人間はその知恵と努力によって、かつては″運命″として諦める以外になかったものを、変革し支配する力をもつようになりました。しかし、今なお人間の力のおよばない領域は、おのおのの人生において広大な広がりをもっており、相変わらず、私たちの人生は運命という風のまにまに漂う小舟のような存在であると考えることもできましょう。
 しかし、私たちの行動の一つ一つにいたるまで運命のなせるわざだと考えるのは明らかに行き過ぎであるといわざるをえません。なにか一つの事業をやろうとしても、それが成功するかどうかは運命に帰せられ、事業に踏みだすことを決意するのもしないのさえも運命によって決定されていると考えるならば、そこからは諦観か逃避的な楽観主義といったようなものしか出てこないでしょう。「人事を尽くして天命をまつ」ということと、運命を開拓するということとは矛盾しないと思います。自分としてできる範囲については最善を尽くすというのが「人事を尽くして天命をまつ」ということであり、この、最善を尽くすということのなかに、今まで不可能と考えてきた領域を少しでも狭めようという努力は含まれますし、それが「運命の開拓」にほかならないからです。運命それ自体、根底的には、みずからがつくりだしたものにすぎません。つまり、自分以外の誰か――たとえば神のような存在――が自分の運命をつくったり定めたりしたのでなく、自分の運命は自分がっくったのです。
 このことは仏法の三世――過去、現在、未来――にわたる因果論によらなければ説明はできませんが、手近な例をとって考えれば、顔の美醜という動かしがたいように思われるものさえ、その人の行動、姿勢の集積である場合があります。若い時はあまりすぐれた容貌にもみえなかったが、年を経るにしたがって、その人の誠実な人柄がにじみでて、中年に達するころには、人を引きつけずにはおかない魅力をもった人になる場合もあれば、美しい容貌で人にうらやましがられていた人が、すさんだ生活でいつのまにか「ケン」を含んだ顔になる場合もあります。リンカーンは、人は四十になると自分の顔に責任をもたねばならない、といったそうですが、人の行動の集積が、知らずしらずに肉体の微妙な部分まで変えてしまうのでしょうか。
 仏法では「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん」「人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる」等と説いております。運命を仏法では宿業ともいっておりますが、業とは人の行動の集積であり、それが運命を構成しているとするのです。
 このように考えれば、運命とは、一瞬一瞬の行動、精神の軌跡がつくりだしているものといえます。とするならば、運命は、私たちの生命の働きによって開拓されていくものでもあります。運命の巨大な力を認めつつ、それを転換させていく、より大きな力を、人びとの生命のなかに発見し、それを発掘していく作業が、運命開拓へと通じているのであると私は訴えたいのです。
2  人生コースのモデルは
 池田 古代インド社会では、ことにバラモン階級についていえることですが、自己の人生コースを四期に分けて考えていたといわれます。
 第一が学生期、第二に家長期、第三に林棲期、第四に遊行期です。学生期は、七、八歳になると当時の最高の学問であったバラモンを学ぶ時期で、ふつう十二年間ぐらいとされていました。ひととおり修学すると、次に家に帰り、結婚して家長としての務めを行なうのが第二の家長期で、二十歳から五十歳ぐらいまでの約三十年間ぐらいといわれています。そして、家長の任を終え、跡継ぎを得て、今度は林棲期に入り、閑静な林野に入って、五十年の人生を省察し、自然のなかで自己の人格を完成します。その修行に区切りがつくと、林野を出て、無一物となって、各地を托鉢遊歴するのが、最後の遊行期です。
 現在、私たちの人生においても、第一、第二にあたる時期はありますが、第三、第四の、哲学的、省察的な人生の完成期というものは、ほとんど明確には意識されていないことが多いと思います。
 現代とインド古代の時代では、社会環境も、生活条件も、いちじるしく異なっていますから、これと同様の人生コースをすべての人がとることはできないと思いますが、やはり、いかなる時代であれ、一個の人間として、それなりに理想としては、これに類した自己完成への人生コースが考えられてしかるべきだと思いますが、いかがお考えでしょうか。
 かりに、こうした人生コースを考えるとしたら、どのようなモデルを望まれ、理想とされますか。
 松下 人間がよりよき人生を歩んでいくうえで、このような自己完成への人生コースを考えるというのは、まことに好ましいことだと思います。こういうことを昔の人が考え行なっていたというのはすばらしい知恵だと敬服させられます。今日は時代が違うため、その形態には当然差異はありましょうが、しかしお互いの人生のうえでそういう心持ち、そういう区切り、転換期については、これはあっていいというより、むしろ昔より今日のほうが必要とされているのではないかと思います。
 どのようなモデルがいいかということについては、私自身、これというものを持ち合わせませんが、ご質問に示された四つに分ける分け方も非常に興味があります。ご指摘のように、今日では哲学的、省察的な人生の完成期といったものがほとんど意識されていないのが実情でしょう。ですから時代が違うため、このとおりにはいかないでしょうが、そういったものを好射しつつ、このモデルのように四つなら四つに分けるということを一人ひとりが考えてはどうかと思います。
 ただ今日では、あらゆる面に多様化が進み、人さまざま、それぞれに異なった人生の歩み方をしています。ですから、昔のように、すべての人にあてはまるような人生コースといったものは考えにくいし、考える必要はないと思います。それぞれの人が、人生の意義ということに思いをいたしつつ、それぞれの人生に即した人生コースを考えていったらいいでしょう。そういうものを考えていくひとつの手がかりとしても、ご質問に示されたモデルはよき参考となるものだと考えます。
3  普遍的な生き方
 池田 現代は価値の多元化の時代といわれております。その影響もあって、今日、人間の生き方の問題も、さまざまに分裂しているようです。「人はどう生くべきか」などといえば、たちまち若い人たちから反発をうけそうな状態です。しかし、人さまざまに生き方があるにせよ、人間としてこれは踏みはずしてはならないという普遍的な基準はやはりありますし、それを無視しては、人間らしさをこの社会、文明から失うことになるでしょう。
 こうした普遍的な人間の生き方の基準についてどうお考えでしょうか。
 松下 今日の社会は、いわゆる不信感に満ちみちているような感じがします。そういうところから、たとえば青い物でも、それを素直に青いと見るのでなく、赤い物と見るといったような錯覚に、お互いが陥っているわけです。そのような姿が好ましくないことはいうまでもありません。
 やはりお互いがもっと冷静になって、なるべく相互に信頼しあい、だまされることはあっても、だますことのないといった姿を生みだすための基本的な心がけというものをもたなくてはならないと思います。
 その基本的な心がけはどこに求めたらいいかといいますと、結局、人間がお互いに人間を尊重しあいつつ、共同生活にプラスしていくということではないかと思います。こうしたことは、きわめて平凡というか当然のこととも考えられますが、その当然のことが行なわれていないのが今の社会です。人間尊重が盛んに叫ばれながら、むしろ反対に人間が軽視され共同生活の調和向上が妨げられているのが実情です。ですから、真の人間尊重とはどういうものであり、何が共同生活のプラスになることかが、正しく見極められなくてはならないでしょう。
 それと同時に、そういうことの前提なり基礎として大事になってくるのは、自由な活動ではないかと思います。それが与えられなくてはならないと思うのです。
 もちろん、その自由な活動というものは、他を不自由ならしめるとか、他をおとしいれるようなものであってはなりません。しかし、そうでないかぎり原則として自由な活動が許される社会でなくてはならないと思います。そういう社会におかれていないとすれば、普遍的な活動、普遍的な生き方というものも、やろうと思ってもできないのではないでしょうか。
 良心の命ずるところといいますか、普遍的な良識のもとに自由が許されるという状況においてのみ、普遍的な生き方ができるのであって、そういう自由が制約されていたら、そこにおける生き方は普遍的とはいえないと思うのです。
 ですから、良心にもとづく自由が妨げられることのない社会、そういう社会をつくるということをまず心がけなくてはならないと思います。そのようなところから、初めて真の人間尊重なり、共同生活の向上も生みだされてくるのではないでしょうか。
4  真の幸福とは
 松下 人間の幸福というものについては、人によりいろいろの解釈がなされておりますが、端的にいってこれはどういう状態といいますか、内容をもつものでしょうか。
 池田 幸福の内容について、一般的に、健康であること、経済的に恵まれていること、社会的地位が安定していることなどがあげられますが、たしかにこれらは、幸福のための客観的条件であるといえます。とくに健康は、かけがえのない宝です。仏法では「蔵の財」より「身の財」がすぐれているとしております。さらに「身の財」より「心の財」が第一義に重要であると説いております。
 「心の財」とは、その人自身の生命内奥の充実感であり、まさにそれこそ幸福の実体であると考えます。これはいわゆる「欲望の充足」よりも、もっと生命の深部における充足感です。この真の充足感は快楽とは異なり、生命の主体的な躍動によって得られるものです。若千の説明を加えれば、おいしいものを食べたい、映画が見たい、さらには、経済的にもっと恵まれた状態になりたい、社会的地位を向上させたい等の欲望を充足したときのような幸福感は、いったんは満足しても、その充足感は、やがてどこかへ消えさってしまいます。そして、次には、他人との比較のうえから、自分の得たものに不足を感じ、または新しい欲望の対象を考えだして、ふたたび、現在の姿に不幸を感じていくという果てしない繰り返しに終始してしまうものです。
 このような、欲望の充足という次元で感じられる幸福に対して、もっと広く社会的視野にたって自分自身の目標を定め、それに向かって主体的に自己の生命を燃焼させることによって生命の充実を感じていくのが真の幸福です。前者が他に依存した受動的な幸福であるとすれば、後者はより積極的であり、主体的であり、より永続性のあるものになると思います。
5  何のために生きるのか
 池田 個人的な体験に即してお聞きしたいのですが、人間誰びとであれ、人生の途上にあって何度か「何のために自分は生きているのか」といった、予期せず心の底から聞こえてくる根本的な問いに悩まされることがあるように思います。そんなとき、その問いに、いかなる答えをもって切り抜けてこられましたか。
 松下 人は何のために生きるのか、ということは人生のまことに重要な問題だと思います。けれども、正直のところ、私は自分個人の問題としてそのことをあまり深く考えた経験をもたないのです。もちろん、いろいろな事にあたって、そのこと自体について悩んだり、あれこれ考えさせられたことはありますが、それに関連して「自分は何のために生きているのか」といったことは深く自間自答したというようなことはなかったと思います。
 私の場合は、職業人として、産業人としての立場において、事業は何のためにあるのか、それはよりよい生産をして、より豊かな社会をつくるところにある、といったような、使命感を考え、自間自答してきたことはありました。というより、そういうことの連続であったと申せましょう。
 聞くところによりますと、お釈迦さまは、一国の王子という恵まれた地位にありながら、そういうものを超越して、一個の人間として人生の根本問題を思索するために、お城も妻子もなげうって修行されたということです。王子としての立場にたつならば、自分は王子として何をなすべきか、いかによき政治をするかといったことを考えられたでしょうが、それをこえて、人間として、自分は何のために生きるのかといったことを考えられたのでしょう。
 その点、私はもっぱら職業人、産業人としての立場を中心に、職業意識にたって、自分の使命ということを考えてきたわけで、そういうものが、あるいは私の人生観をつくっているといえるかもしれませんが、一個の人間として「われ何のために存在するか」を深く考えることはなかったのが実際のところです。
 しかし、今こうしてご質問をいただいてみますと、あらためて、そのように一個の人間としての問題を考えなくてはならないという感じがしております。ですから、遅まきながら、今後「何のために生きるのか」ということを身をもって真剣に考え検討してみたいと思うのです。
 そういう反省のよい機会を与えていただいたと喜んでおりますし、自分なりの自問自答のなかで、なんらかの考えがつかめれば、またお答えできる機会もあろうかと思います。
6  女性の幸福の条件
 松下 女性の幸せというものは、結婚して家庭に入り、妻として母としての生きがいを見いだしていくところにあるとか、あるいは、女性といっても男性と変わりはない、一個の人間としてよりよく生きていくところに幸せを見いだせばよいとか、いろいろの考え方があります。女性と男性とは、やはり本来、違いがあると思いますが、女性の幸福の条件として欠くべからざるものというと、どういうものがあるでしょうか。
 池田 幸福というものは生き方の根本姿勢ともいうべきものにつながったものであり、生理的機能や社会的体制はそれらの部分的要素とはなっても根本的要件とはなりません。女性と男性の生理的な機能の違いが幸福への条件となることはまず考えられません。
 社会的な差別や環境の違いも、直接的には幸福に結びつくものではありませんが、間接的にせよ人間として幸福を得ることを妨げるほどの内容のものである場合には、その機構の改善が幸福への最も初歩的な条件になるでしょう。
 以上のことを踏まえたうえで、女性の生き方、生きがいといったものを考えるとするならば、大別して二つの側面が考えられると思います。一つは人間としてどう生きるかという面であり、一つは女性としての特質をどのように発揮するかの問題です。
 この問題を混同して、たとえば、女性は女性の生き方があり男性のまねはする必要がないといった面だけを強調したり、逆に、女性と男性とは全く同じであり、少しでも差別を設けるのは女性蔑視であるということのみを主張するのは、ともに正しくないと思います。
 まず、女性といい、男性といっても、ともに人間であることには変わりはなく、一方に少しでも蔑視の思想があるならば即刻改めねばなりませんし、そのような思想にもとづく社会体制も排除しなければならないことは当然です。
 女性論とはとりもなおさず人間論のことであり、仏法、とくに法華経では、生命の根本的次元からの男女平等を説いております。竜女の即身成仏(竜女は蛇身の畜生。爾前権教では許されなかった女人、畜生の成仏が法華経で即身成仏したことがあかされた)がそれです。
 したがって、生き方といっても、人間としての生き方を模索するのが基本条件であり、一個の社会人として、家庭、社会の繁栄を目指し、隣人と共存共栄の生活を築いていくことに生きがいを見いだすべきなのは当然といえましょう。
 そうした意味から私はまず女性の方々に、人間としてより大きな視野をもつべきことを訴えたい。家庭に閉じこもりがちな生活に安住して、日先の事象のみを追い求めるのでなく、視野広く教養豊かにして、聡明な人生を送っていただきたいのです。それがひいては子供たちの未来を開くことにもなる。このことは男性にとっても同じ課題ではありますが、従来、環境的条件もさることながら、女性自身、みずからを狭い視野に閉じ込めてきたことも事実です。まずこのみずからの意識でつくった狭い枠を打ち破っていかなければならないのではないかというのが第一点です。
 第二点として、人間として全く平等でありつつも、機能的な側面としてはそれぞれの特質があることも事実です。なんといっても子供を産むという厳粛な行為は女性のみに許された特権であり、それに付随した子供の養育も女性のもつ重要性が大半を占めています。そこから男性は仕事、女性は家庭という大まかな任務分担がされるようになったのでしょうが、私はそれにこだわる必要はないと思います。女性が職業をもつのは立派なことであるし、男性も子供の教育に無関心であってよいということはありえないはずです。
 ただ、ウーマンリブのなかの一部の極端な考え方をする人びとのなかには、機能的にさえも平等無差別であることを主張しようとする人がいますが、女性としての権利さえ捨てようとするこうした考え方が、女性の幸福を獲得できる道でないことは明らかでありましょう。
 生命を産み、育て、守っていく働きは女性にとって強さであり、その権利を捨てることは、むしろ愚かというべきです。男性が物質面で未来の世代に宝を残そうとしているのに対し、女性は有為な人材を世に出すという貢献をなしているのだと考えるだけでも、どれだけすばらしい権利かがわかろうというものでしょう。
 このような本質と機能の側面をよく理解したうえで、生き方は考えられていくべきものと思います。
7  女性の特質と役割
 池田 人間の問題を考えるとき、私たちは往々にして、男性中心的な見方に陥りがちです。本来、人間とは男性と女性をもって成り立っているわけですから、もっと女性の特質を明らかに知り、社会的にも女性の活躍できる部門を開拓すべきだと思いますが、いったい肉体構造上の違いを除いて、男女の本質的な違いは、どこにあるのでしょうか。ことに女性の特質と、そこから考えられる社会的役割についての、ご所見をおうかがいしたいと思います。
 松下 今日では、女性に適した職業、女性でなければできない職業というものもだんだんふえてきましたし、それにともなって、女性が社会に出て大いに活躍するということも多くなってきました。そうした姿は、非常に意義あることではないかと思います。
 それでは、女性の特質、本来の役割はどのようなものかということですが、これは私はおのずと男性とは異なったものがあると考えます。女性にせよ、男性にせよ、生涯一人で暮らすのがその本来の姿かといえば、そうではないと思います。なんらかの考えにたって、自分は生涯独身で過ごすという人も、なかにはあるでしょうが、それはどちらかといえば例外であって、一般には男女が一対となり夫婦として暮らすというのがぶつうの姿であり、それが人間本来の姿でもあると思うのです。
 そうしてみますと、その夫婦の間で、出産、育児という非常に大切な役割を果たす天与の特質をもっている女性と、そうではない男性とでは、その役割はおのずと異なってくるでしょう。つまり、男性は外に出て働き、女性は家を守り家を治めるということです。そして、夫婦が一体となって、健全な家庭を築いていくということではないかと思います。過去の日本には、いわゆる男尊女卑的な考え方があって、なにか外に出て働くことを尊び、家を守ることを軽視するような風潮も一面にみられました。しかし、これは大きな間違いだと思います。どちらかを重視し、どちらかを軽視すべきものではなく、両方ともに同じように尊いわけです。男女ともに同じ役割を果たし、同じように仕事を分担するという考え方もありましょうが、現実の問題として、出産とか授乳といったことは男性にはできませんし、女性に出産、育児といった重要な役割に加えて、男性と同じ役割をも、すべて担わせるとしたら、それはかえって過重な負担を強いることになるでしょう。やはり、本来、異なった役割を負っており、その役割はどちらも同じように尊いのだと考えるのが、自然というか素直な考え方ではないかと思います。
 ですから男性は、家を守り、子を産み育ててくれる女性の働きに感謝と敬意の念をあらわさなくてはならないでしょうし、女性も外で働く男性にいたわりと敬意をもつことが大切でしょう。
 最初にも申し上げましたように、今日、女性に適する職業も多くなってきましたから、そういう場で女性が活躍することは大いに結構だと思いますし、また結婚までの一時期、実社会を知るために職業につくということもそれなりに意義あることだと考えます。ただ、本来の役割ということについては、以上のように私は考えております。
8  出産と育児
 池田 女性には出産・育児という実に大変な仕事が課せられているわけですが、今日では、その女性の働きが、社会的に高く評価され、保障されていないのが実情です。私は、このような女性の働き自体に対して、なんらかの経済的、社会的保障をなすべきであると考えますが、この点について、どのようなご見解をおもちでしょうか。
 松下 女性の出産・育児という働きは、おっしゃるとおり、きわめて重要なものであって、これは非常笙品く評価されるべきだと思います。したがってまた、これに対して経済的、社会的保障をなすべきであるというお考えも、まことにそのとおりだと考えるものです。
 ただ、その場合、ひとつ考えておかなければならないことがあるように思われます。それは何かというと、そういった経済的、社会的保障を誰が、あるいはいかにするかということです。今日のわが国では、とかく保障というと即これを国が行なうものであるといった考え方も一部にあるようですが、それでいいか、ということです。
 もちろん、その国がその国の程度に応じて、そういう保障をするという姿は、それでよいでしょう。しかし、出産・育児ということに関しては、これはまず夫婦が一体となってその責任を果たしていくベきではないでしょうか。したがって、経済的保障については、これをまず夫たるべき男性が行なうことを原則としなければなりません。子供は夫婦でつくるものです。その子供を育てるのに女性ばかりに苦労させるというのでは、これは夫たるべき資格、結婚する資格がないといわねばなりません。したがって、夫たるべき男性は、よほどの覚悟をもって結婚するのでなければならないと思います。
 しかし、それでもなお、なんらかの事情によって、夫たるべき男性に保障するだけの力がなくなったような場合には、これはやはり他の一般的な社会福祉と同じ観点にたって、社会的な保障をすることも必要でしょう。
 けれども、そうでなく、初めから国が保障するということにしたなら、そこにはかえって好ましからぬ姿も起こってきはしないかと思います。といいますのは、たとえば男性としても、困れば国が保障してくれるというので、夫として男性として果たすべき責任を軽視し、なおざりにする姿も起こってくるでしよう。さらには男女ともに、出産・育児に対する責任感が薄くなって結婚もせず、家庭ももたずに子供を産むといった姿がふえてくることも考えられます。
 そうした姿は、やはり健全な家庭をつくるためにも、共同生活の向上を図るうえでも、けっしてプラスにはならないと思います。男性と女性が結婚して子供をつくり、夫婦が一体となって家庭を守り育てていくところに、健全な家庭、健全な共同生活というものが生まれ高まっていくと思うのです。したがって、女性の出産。育児に対する経済的、社会的保障は、原則として夫たるべき男性がその責任をもつということが奨励されねばならないと思います。ただ、男性が男性としての責任を十分果たすことができるためには、男性が力一杯働くことができやすい社会、しかもその働きが十分に報われるような社会、そうした社会が築かれねばならないと思います。そのような社会というものを、国家の力、国民共同の力で保障するというか、つくりあげていくことはきわめて大切でしょう。
9  女性の職業
 池田 最近では職業をもつ女性が大変多くなりました。しかし、その大半は、結婚とともに家庭に入っているようです。そこで、女性にとって職業がいかなる意味をもつものか等の問題が、よく論議されます。女性と職業については、いかがお考えでしょうか。
 松下 おっしゃるように、最近では職業をもつ女性が非常にふえてきましたし、またその大半は結婚まで職業について、以後は家庭に入っているようです。こうした姿は、やはり女性の本来の在り方に即したものではないかと思います。
 先に「女性の特質と役割」のところで申し上げましたように、私は、女性は本来、男性とは異なった本質と役割をもっており、家庭にあって家を守るところに本来の在り方があると考えております。それは、なにも女性を軽視するとか、女性は男性に比べて才能的に劣っているというような意味ではなく、やはり素直に考えて、男性にしろ女性にしろ、それぞれに特質があり、その特質に生きるところに真の幸せがあると思うのです。
 もちろん、社会が進歩し多様化するとともに、女性に適したいろいろの仕事も生まれてきています。そういう仕事は、それにふさわしい女性にやってもらうことが、女性の特質を生かすためにも、社会のためにも大事だと思います。また、女性が実社会を知るという意味から、結婚までの一時期、社会に出て職業をもつことは、これもそれなりの意義もあり、好ましいことだと考えます。
 ただ、社会主義の国では、女性が機械工とかトラックの運転手といった、本来、男性がやるべき仕事にたずさわっていることもあるようです。そういったことも、一国の建国の過程においては、あるていど必要とされるでしょう。しかし、それが本来あるべき好ましい姿かといえば、そうではないと思います。建国といういわば非常時における、常ならざる姿だといえましょう。
 今日の社会には、女性の社会的地位の向上のためには、女性は大いに職業について活躍しなければならない、といった考え方もあるようです。これも一つの考え方でしょうが、しかし、もっと大事なことは、女性の本来の役割を正しく知って、それを適正に評価することだと思います。実際問題としても、職業の面では活躍しているけれども、家庭を守り子供を育てるのをおろそかにしているといった姿は、けっして女性の地位を高めるものではないでしょう。
 やはり、女性は本来、家庭にあって家を守るということが大切で、そのことの意義と重要性が、もっと適正に認識され、高く評価される必要があると思います。そういうことを前提として、女性が女性に適した職業についたり、結婚前の一時期、実社会を知るために職業につくことは、意義あることだと考えます。
10  人間としての成功とは
 松下 昔から立身出世と申しますか、社会的な地位を得たり、財をなした人を成功者として尊敬する風潮があるように思います。しかし、成功というものをそのように狭い範囲に限定してしまうのでなく、たとえば、みずからの天分を精一杯発揮することによって、たとえささやかなものでも一つの仕事なり職業において成功したというように、もっと広く考えることはできないでしょうか。人間としての成功というものについて、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 人間として成功したかどうかということは、ある一つの部分だけみていたのではわからないものです。一代で財をなした人とか事業で成功した人というのは、それなりに努力を積み重ね、精進していることはよく知っております。しかし、そうした成功例に共通していえることは、経済的な予測がたまたま的中したとか、うまく時流に乗ることができたという場合が多く、その人の努力・精進に加えて、社会の不確定な動きへの偶然的な順応が働いているものです。
 安定した社会、とくに今日のような複雑にからみあった経済機構のなかでは、庶民が無一文から出発し、一代で財を築くなどということは不可能に近いといえます。ごまかしや欺臓で成功したなどというのは論外としても、経済的な成功というのは人間としての成功という観点からいえば、人間の営みのなかのほんの一部分における成功というにすぎないという認識を明確にもつべきであると思います。もちろん、部分的な成功が、無意味だとか、成功の部類に入らないという極論をしているのでは毛頭ありません。
 では「人間としての成功」とはどういうものか、というと、これも一概に断言できる性質のものではないと思います。あえていえば、人間が人間らしく生きることが日常のなかでにじみでているような生き方、ということにでもなりましょうが、では人間らしく生きる基準は何かということが問題になってまいります。
 そこで話に断面をつくって申し上げれば、人間の営みは、経済活動、文化活動、社会活動、政治活動等々、まことに多岐にわたっております。そのなかで、経済活動がとくに現代において人間の諸活動のなかでもとりわけ重要視される要素であることは事実です。それだけに経済の分野での成功者というのはイコール人生の成功者、人間としての成功者とみられがちなのもわからないではありません。しかし、ここに大きな錯誤があるといわねばなりません。それは部分における成功を人間という全体観におきかえてしまっていることです。したがって、経済的に弱者であるということは、まるで人生の敗北者のように取り違えられてしまっている場合が多いのです。
 一例をいえば、昨今の芸術家や文筆家は別として、音の作家や画家のなかには、赤貧洗うがごとき生活のなかで立派な作品を残した人も少なくありません。こういう人たちは人生の敗北者かというとけっしてそうはいえません。
 このように、人間としての成功は、その人のもろもろの側面から検討していかないとわかるものではないし、安直に結論をくだすことはできないと思います。
 また、もう一面から申し上げれば、ある人間の価値というものは、その人物の没後に広く再確認される場合もあります。それも死後まもなくということもあれば、百年、二百年たってからということもあります。ともあれ、人間として誠実に生き抜いた人にして初めて、その価値が、いぶし銀のように時代を超えて輝くのではないでしょうか。
11  最後に悔いなき人生
 池田 人間、年老いて最後になれば、富も、地位も名誉も、なんの役にもたたないといえるでありましょう。長ずるにつれ、ますます精神を豊かなものにし、悔いなき我が人生であったと確信して死に臨むには、何が最も必要とされるでありましょうか。
 松下 これはまことにむずかしい問題であって、人生の真髄と申しますか奥義と申しますか、そういうものを究めえた人のみが答えうるものではないかと思います。その意味では、私ごときにはとうてい的確なお答えはいたしかねますので、私なりの感懐をのべてお答えに代えさせていただきたいと思います。
 死に臨んで、悔いなき我が人生であったと思えるためには、やはり自分の歩みをかえりみて、自分ながらよくやったといえるということが必要なのではないでしょうか。人生を通じて長い間いろいろやってきた、失敗もあったけれど成功もあった、そういうことの繰り返し、積み重ねではあるが、一貫してみればよかった、そういう結論を自分なりにつかめるということが一番必要ではないかと思うのです。
 人生の歩みの具体的内容は千差万別、人さまざまでありましょうが、いわば大は大なりに、小は小なりにそういうことが大切だと思います。ごく平凡なものであっても、かえりみてこれでよかったというものがあればそれでいいでしょうし、きわめて大きな成功があっても、一方になにか心にかかるものがあるというのであれば、必ずしも安んずることができないかもしれません。
 そのように、死を目前にして、振り返って、まずいこともいいこともいろいろあったが、二貫してみれば、まずまずよかったという人は、それなりに悔いなく死ねると思いますが、そういう心境で死を迎えるためには、人生の途上においても、一つの区切り区切りにおいて、それを自問自答してみることも大切だと思います。
 たとえば、十年の歩みをかえりみてどうだったか、あるいは一年をかえりみて悔いなきものであったかを考えてみるということです。どんな場合でも、いいことばかりというのは人間としては望めないことでしょう。個々には成功もあれば失敗もある。正しい行ないもあれば過ちもある。けれども、そうしたものを一貫してみて差し引きプラスであるかどうかということです。十年をかえりみてそれがどうか、一年をかえりみてどうか、さらには一日をかえりみてそういうことがいえるかどうか。そのことの積み重ねが、その人の人生となってくるわけです。そのようにして、一生を通じてみて、差し引きプラスであれば、それでいいのではないかということです。
 そうしてみると、大事なことは、日々そういうことを自問自答しつつ、一日一日を怠りなく誠実に生きるということになるのかもしれません。ただこのようなことは、宗教などに信仰をもたない人についていえることです。信仰をもって安んじている人の場合は、おのずと信仰に根ざした安心感をもつことができ、そこに悔いなき喜びをもって人生を送れるので、幸せであると思います。
12  人間のモットー
 池田 貴方の主宰する″PHP″は、Peace(平和)、Happiness(幸福)、Prosperity(繁栄)の三つの言葉で、社会、国家の基本的なモットーをお示しになったのだと思いますが、社会をささえるのは、一人ひとりの人間であるということから、一個の人間にとって、生涯、指針とし、モットーとすべき言葉があるとすれば、何をあげられますか。
 松下 お互いが一個の人間として生涯の指針とすべき言葉は何かというご質問ですが、これは個々の人によって異なる面もありましょうし、なかなかむずかしい問題だと思います。
 あえて申しますならば、私自身としては、つねづね「素直な心」ということを心がけており、また「素直な心になりましょう」といったことを、PHPの活動を通じて提唱してもおります。もっとも、素直な心と申しますと、一般にはどちらかといえば、たんにおとなしく柔順であり、なんでも人のいうことをよく聞いて、よかれあしかれ、いわれたとおり動くことだと考えられている面もありますが、私はそれとはやや違った意味合いで考えております。
 すなわち、私心なく曇りない心と申しますか、一つのことにとらわれずに物事をあるがままにみようとする心、そういうものが、真の意味での素直な心ではないかと思います。人間にはさまざまの感情とか欲望といったものがありますが、ともすれば人間はそうした感情や欲望、あるいは自己の利害得失とか主義主張といったものにとらわれて、物を考え、物事に処しがちなものです。私は、そういったこともやはり人間の一面であり、やむをえない面もあろうかと思います。けれども、そうしたとらわれた心に終始していたのでは、あたかも色メガネをかけて物を見るようなもので、どうしても物事の実相を把握しにくく、そのため正しい判断もできず、事を誤るといった結果になりがちではないかと思うのです。
 やはり、そういうとらわれをできるだけ排して、赤いものはそのまま赤いと見、白いものは白いと見る素直な心を養い高めていくことが大切だと思います。素直な心からは、物事の真実の姿をつかむ力が生まれてきますし、それにもとづいて、なすべきことをなし、なすべきでないことを排する勇気というものもわいてきます。一言にしていえば、私は、素直な心は人間を正しく強く聡明にすると思うのです。
 そのような意味から、私は個々の人間の心がまえとして、素直な心というものがきわめて大切だと考え、私自身も、そうした心を養い高めていきたいと考えております。そしてまた、見方によっては、過去における先哲諸聖の教え、あるいはさまざまな宗教の説くところも、一つには、こうしたとらわれのない心の大切さと、そのとらわれを払い、素直な心になるための道を示すものではないかと思っております。
 素直な心になるのはなかなかむずかしいことですが、やはり心してそういう導きに近づくとともに、みずから日々それを心がけることが大切だと思います。囲碁でも一万回打てば初段になれるといいますが、素直な心も日々心がけ、一万日すなわち約三十年たてば、いわば素直な心の初段になれるのではないかと思うのです。
13  清貧か富の向上か
 松下 ″清貧に甘んずる″という言葉がありますが、また人間には、富の向上を求めてやまないという本質もあると思われます。そのどちらもそれぞれに意義があると思われますが、先生はそのどちらを尊しとされるでしょうか。
 池田 貧富について、こんな話を、なにかの本で読んだことがあります。人生は航海に似ている。貧困というのは、人生という海の砂州であり、富裕は、岩壁にあたる。真に幸福な人というのは、その砂州と岩壁の間をすりぬけて船を操縦していく人だと。これを私流に解釈しまして、人間の生き方としての理想は、貧しすぎてもならない、また豊かすぎてもならない、その中道をいくのが望ましいといえないでしょうか。
 人間として生活していくには、憲法でも、有名な第二十五条で謳われていますように「健康で文化的な最低限度の生活を営む」だけの豊かさがどうしても必要でしょう。精神さえ豊かであれば、物質的に貧しくてもいいというのは、人間の道理からして無理があると思います。たしかに、しばしば貧困は、人間を向上への意欲を燃やさせる原因にもなりますが、それ以上に、人間を精神的にも、いびつにしてしまうことのほうが多いといえましょう。人類史に残る多くの闘争、そして国家間の戦争の多くが、その原因が、貧困からの脱出であったことは事実です。むろん、富める者が、さらにその富を拡大するためにした戦争も、けっして少なくなかったわけですが……。
 ともあれ、人間にとって、人間らしく生活できる最低限の富は求められるべきものと考えます。しかし、また豊かすぎるということも、人間にとって幸福かどうか疑問です。物質的な豊かさが、かえって精神の貧困を招くという場合も私たちの周囲にみることができます。またしばしば、豊かさが、他の多くの人びとの貧困の犠牲のうえに成り立っている場合も少なくありません。
 ことに、現代のような、地球的規模で、資源問題、人口問題を考え、解決しなければならない時代には、自分たちだけの繁栄をめざしてやみくもに富を追求し、他を犠牲にするという生き方は、避けられねばならないといえましょう。
 よりよい地球人類の存続と発展と向上のために、人間は、どのように生きていかねばならないか、どう欲望をコントロールしていかねばならないか、という人間存在の根本から問い直さねばならない時代に入ったと、私は考えるのです。
 その視点に立脚するならば、あるいは人類全体が、いわゆる″清貧″に甘んじざるをえないということになるかもしれません。
 物質文明と一口にいわれている現代世界がかかえている課題の根本から、見直していく必要があることだけは、確かでしょう。そうした意味からも、少なくとも、物質的豊かさに見合うだけの、人間精神の豊かさが、今日ほど、要求されている時代はないといえます。
14  苦闘の体験は
 池田 青年に、未来への希望と行動の確信を与えるものは、どんな理論や高邁な教説より、先達の確かな人生体験にすぐるものはないといえましょう。そうした意味で、貴方がこれまでの半生で、最も苦労し、心身を削られたという、苦闘の人生史の一ページを、お話しいただければ幸いです。いつ、どのような問題で格闘されたのか、また、そのさい、何をよりどころとし、信念として打開されたかを、おうかがいしたいと思います。
 松下 これまでの私自身の半生で、一番苦労したのはどんな時かというご質問ですが、実はこの種のご質問が一番お答え申し上げにくいのです。と申しますのは、正直のところ、自分の歩みを、今静かに振り返ってみて、あの時は非常に苦しかった、大変な苦闘であったという感じがあまりしないのです。他人からみて苦闘と思われることはあっても、自分ではそのなかに常に喜びというか希望が輝いており、そのため苦労という感じがなかったのかもしれません。
 ただ、私は幾分神経質なせいもあって、あれこれ考え悩んで一晩眠れないといったことなら、これは何度もあります。たとえば、こんなこともありました。
 私が事業を始めてしばらくして、五十人ばかり人を使うようになった時、そのなかに一人ちょっと悪いことをする者があったのです。それで、そんな人がいて困ったなと思ったり、その人をやめさせたものかどうか迷ったりで、一晩気になって寝られません。
 ところが、あれこれ考えているうちに、ハッと気のついたことがあるのです。それは、今、日本に悪いことをする人が何人いるかということです。そうすると、いわゆる法を犯して監獄に入っている人がかりに十万人とします。ところが、法にはふれずに、軽罪、微罪で見逃すという人は、その三倍も五倍もあるでしょう。五十万人もいるかもしれない。それではその人びとをどうしているかというと、ベつに日本から追放するでもなく、国内にとどめています。
 当時は戦前のことで、天皇陛下は神様のようなものでしたが、その天皇陛下の御徳をもってしてもそういう悪いことをする人を少なくできない。しかも、ごく悪い人は監獄へ隔離するけれど、それほどでもない人はこれを許しておられる。それが現実の日本の姿だとすると、そのなかで仕事をしている自分が、いい人だけを使って仕事をやるというのは虫がよすぎる。天皇陛下の御徳、御力をもってしてもできないことを、一町工場の主人にすぎない自分がしようと思ってはいけない。そう気がついたのです。そう考えると気分がスーッと楽になりました。そして、その人を許す気になったのです。それから後は、そういう考えにたって非常に大胆に人が使えるようになりました。
 ですから、そういう悩みから、いわば一つの悟りをえたわけで、今となってみれば、苦闘でもなんでもなく、あれもいいことだったなという感慨が残っているのです。
 結局、私の場合、その日その日を精いっぱいに努力してきたということに尽きるように思われます。そして、その過程のなかには、常に希望があって、それが苦労とか苦闘を感じさせなかったのではないかと思っております。
15  私心を去って生きる
 松下 昔から、私心を去り私欲を捨てて素直な心で人生を営むというのは、お互い人間としての一つの理想であるともいわれております。
 けれども、人情の常として、ついつい目先の利益とか、みずからの立場にとらわれて事を判断し、実行しがちであるというのもまた、お互いの実際の姿ではないかと思います。そこで、自分の利害得失にとらわれないようにするために、昔から、宗教に帰依するとか、いろいろな人の教えを聞くとか、さまざまな方法が考えられていますが、そうしたなかで、最も基本的に大切なのはどういうことでしょうか。
 池田 結論的にいえば、自己自身を冷静に見極める英知をもつことと、他の人びとに対して、自分と等しい尊厳性――もっとわかりやすく表現すれば、自分と同じように人生を生き、楽しむ権利をもっていることを認めること、この二つであると考えます。宗教とくに高等宗教は、そうした人間の人間らしい生き方について教えたものであり、宗教に帰依するというのは、その教えを身につけるのが第一の目的です。しかしながら、ただ理性的にこの点を理解したといっても、理性よりさらに深い生命の内奥に渦巻き噴出してくる欲望や衝動は、理性の力では容易に抑制できるものではありません。こうした欲望や衝動を規制できる力のよりどころを求めて、たとえばキリスト教では絶対的な神の存在と、その神による未来の裁きという畏怖心を呼び起こすことを試みました。
 仏教でも、俗化したいくつかの流派では、死後の閻魔大王の裁きと地獄の苦しみを教えることによって同様の教えを説いたものでした。しかし、仏教の本質は、自己の生命の究極的な実体を覚知させることによって、欲望や衝動をはるかに超える力を呼びさまし、目先の利益やエゴイズムにとらわれない、人間らしい生き方を可能にする道を開きました。
 これらは、理性的な理解を超えた自己の生命変革の方法ですが、それが目的化してしまうと、宗教のための宗教におちいり、人びとを人間生活とは断絶した独善のカラに閉じ込めてしまう恐れがあります。あくまで、その宗教が何のために説かれたか、その宗教を実践するのは何のためであるかを正しくわきまえることが肝要です。
 これまでの歴史を振り返ってみても、本来、崇高な理想をもっている宗教の熱烈な実践者が、必ずしも崇高な生き方を貫いたとはいえません。むしろ、そうした宗教とは無関係な人のなかに、本質の精神において、宗教がめざした理想を体現した人も、少なくありません。
 たとえば、愛を説いたキリスト教の熱烈な信仰者が、みずからの意思にせよ、政治的策謀におどらされたにせよ、残忍きわまりない宗教戦争を繰り広げたのは、この間の消息を雄弁に物語るものといえましょう。仏教の歴史においても、これは遥かに稀ですが、やはり、そうした事実があったことは否定できません。
 みずからの、自己完成を求めていくこと、そして、他の人びとの尊厳を認め、その幸福のために尽くしていくこと――ここにこそ人間としての根本的姿勢があることを忘れてはならないでしょう。
16  素直な心
 松下 素直な心というのは、とかく、たんに柔順な心というように受けとられがちですが、本来はそのような消極的なものではなく、この心はいわば真理に直結するほどの偉大な心の姿であり、人間にとって一番大事な心の在り方をあらわすものであると思いますが、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 おっしゃるとおりだと思います。「素直」という言葉の意味は「飾らないこと、ありのまま」「まっすぐ」「正直」「柔和」などの本来使われているとおりですが、何に対して「まっすぐ」であり「正直」「柔和」であるのかということを考えてみる必要があると思います。
 間違った物の考え方や、そうした間違ったことを教える人に素直に従うということは自分を不幸にするのみでなく、社会に害を流すことになります。正しい考え方、普遍の真理に対してこそ、素直でなくてはなりません。
 では、そうした究極の真理はどこに求められるか。ここに哲学・宗教の問題が出てきます。
 かつて、ソクラテスは、汝自身を知れと主張したといわれていますが、自己の真実の姿に開眼することが、古来からの哲人の願いであり、そして、要請でもあったと思うのです。
 仏法においても、釈尊出現以来の三千年におよばんとする流れの、幾多の仏法者の目標と努力の結晶は、まさしく、宇宙真理そのものとしての「偉大なる生命」との邂逅であったと、私は考えます。
 仏法では、万物の奥底を流れつづけ、生きとし生けるものに、限りない生への力を与える根源なる生命を「仏の生命」といい「仏性」と呼んでいます。
 大乗仏教においては、私たちが通常、自我という言葉で呼びならわしている生命の部分を「小我」と規定しています。
 これに対し、仏法の宗教的直観智は、「小我」の内奥に、すべての自我をささえ、栄養を与え、はぐくみゆく「大我」の実在を見抜いています。
 「大我」は、人間生命においては、本質的自我としての姿をあらわしていますが、その根は、あらゆる生命の底流を貫いて、宇宙生命自体に直結し、そこから、宇宙の本源力をくみとっているのです。
 しかし、多くの人びとは、表面の「小我」にとらわれて、その内奥に開ける「大我」の大海原に着目しようとはしないようです。
 仏教は、このような「小我」を乗り越えて、利他と慈悲とまばゆいばかりの英知と、そして蘇生の源泉としての「大我」のなかに、心の焦点をおくべきであると主張するのです。
 宇宙生命との融合を成し遂げた生命の「我」であって初めて、真実の意味での慈悲の行動も可能になり、持続できるであろうし、欲望の昇華を見事に成し遂げうると思われます。つまり、宇宙本源の真理と直結した生命の「我」のくみあげる慈悲の生命エネルギーが、本質我をはぐくみ、その主体的なコントロールのもとで、「小我」の性質転回と欲望の発動がなされていくのであると考えられます。
 こうした考察のうえから、人間が、まことの人間らしい生を完成しゆくためには、まずなによりも、宇宙真理と一体となった「大我」を開き、宇宙生命からの偉大なる力をたゆまず、くみあげる努力が肝要ではないかと、私は主張したいのです。
17  統一的な自我の持続
 池田 組織・集団の時代といわれる現代の社会生活が多様性をきわめていることはいうまでもありません。一人の人間が、好むと好まざるとにかかわらず、一定の組織のメンバーであるだけでなく、同時に多元的な組織にまたがって生活しなければならなくなっているのが今日の状態といえます。
 いいかえれば、一人の人間がさまざまな″顔″をもって生活しなければならないということです。そこから、現代入を慢性的な精神分裂症に陥っていると指摘する人もいます。
 このような自我の分裂を強制される社会にあって、統一的な自我を持続するにはどうすることが最もよいとお考えでしょうか。ご意見をお聞きしたいと思います。
 松下 ご質問にあるように、今日のように非常に多くの組織・団体があり、それぞれ異なった指導理念、指導精神をもっていて、各人がそうしたいくつかの組織・団体にまたがって入っているとなりますと、ともすれば混乱したり、自分を見失ってしまうことになるでしょう。
 そういうなかにあって、自分を失わず、おっしゃるような統一的な自我をもちつづけるには、やはり、しっかりした人生観をもっていることが大事だと思います。一つの信念にもとづく人生観をもっていなくては、その場その場の考えに左右されて、はっきりした自分というものがなくなってしまうと思うのです。
 ですから、いいか悪いかは別として、自分なりに、何が正しいか、何が大事かということをつかまなくてはなりません。そしてまた、それとともに、それについてのあるていどの説得力をも併せもつことが大事だと思います。
 そのような人生観は、自分なりに、何が正しいかを自間自答しつつ、つくりあげていくということもありましょうし、あるいはなんらかの宗教の教え、団体の主張といったものを自分のうちに取り入れるということもあっていいと思いますが、いずれにしても、なんらかのかたちでそれをもたなくては、いわば風に吹かれる本の葉のように頼りないものになってしまい、ときに分裂し、ときに去就に迷うということにもなりましょう。
 どういう立場にたっても、自分としてはこういうことが正しいと考えるという一つの人生観を把握し、それにもとづく使命感にたっていれば、自我の統一的な持続もできると思います。
 やや本題からはずれますが、そういうことは、個人だけでなく、会社とか団体、さらには国家についてもいえることではないでしょうか。正しい社是・社訓といいますか経営理念をもっている会社は、経済の情勢がどうあろうとも、それなりに力強く発展していくでしょう。また国家にしても、一つの国是・国訓をもって国家経営がなされていれば、どの外国との交際にしても、わが主張は変える必要はなく、主張すべきは主張し、受け入れるべきは受け入れるということで、終始一貫した態度がとれ、大いに尊敬されるということにもなろうかと思います。そういうものをもたずして、その場その場で事にあたっていたのでは、物を与えてかえって信用を落とすといったことにもなりかねません。
 そのように、個人といわず、団体といわず、国家といわず、そういうしっかりしたものをみずから把握し、確立することが必要ですが、その場合、大切なことは、個人の人生観にせよ、国家の国是・国訓にせよ、素直な心から生まれてくるものでなくてはならないということです。そうでなくして、なんらかの意欲でつくったというものでは、ほんとうに普遍的な力強いものにはなりにくいと思います。
18  感謝の心
 松下 まんじゅう一つでも、人からもらえば″ありがとう″というように、人間には恵みを知るというか、感謝する心の働きがあります。
 人間生活のなかには昔からすでにいろいろと礼儀とか習慣のようなものもありますが、そのお互いの感謝の心を、いったいどのようにあらわしていけばよいのでしょうか。
 池田 感謝の心というものは、自分自身の存在が、他の人びとや、社会、自然によってささえられ、はぐくまれていることへの認識から発せられる、大切な心の働きであると思います。不平不満に満ちた心は荒々しくささくれだっています。それに比べて、自己をささえ、はぐくむ働きに感謝の心をもてる人には、人間らしい幅広い心のゆとりを感じさせられるものです。むしろ、感謝する心自体が、その人の内面を、より豊かにしているともいえるでしょう。その感謝の表現をどうするかというご質問の趣旨のようですが、私は、きわめて自然でよいと思います。素朴な「ありがとう」という一言のなかにも、誠実な響きもあれば、形式的な冷たい語調もあります。かといって、私はけっして礼儀や習慣を否定しているのではありません。これらは、人間関係をスムーズにしていく人間の知恵であり、これがなければ社会生活は成り立ちません。だが、大事なことは、形の奥にある無形の一念の姿勢であると考えます。
19  自然の恵み
 松下 ″自然の恵み″ということがいわれますが、この言葉のように自然の働きを恵みとして受けとめる考え方がある一方、これはたんなる自然の作用にすぎないのであって、ことさらに恵みとして受けとめる必要はないという考え方もあるようです。この考え方の違いはどこから生まれてくるのでしょうか。また人間としてどちらが好ましいのでしょうか。
 池田 私たちの存在は、人間社会と、さらにそれより根底にある大自然とによってささえられています。科学の発達が、私たちに多大の恩恵をおよぼしたことは事実ですが、それはすべて自然界の法則の発見と利用によってなされたものです。しかも、自然界が私たちの生存のために整えているさまざまな働きに比べれば、科学が新たに創造した価値はその一部分であります。
 それはともかく、科学の目をもってすれば、太陽のエネルギーも、植物や動物をはぐくむ大地や大海の働きも、すべて、たんなる自然の作用にすぎないということになるかもしれません。それは事物を、どこまでも客観視した観点にたったものといえましょう。
 しかし私は″たんなる自然の作用にすぎない″その作用を起こしている自然の法則自体に慈悲の働きを感ずるのです。もし、それらを″たんなる作用″と呼ぶならば、私たち自身の存在そのものも″たんなる自然の作用にすぎない″ことになります。自己の存在そのものをそのようにみるならば、自然のいっさいの働きも同じようにみることができるでしょう。
 しかし、人間は、事物を客観視できると同時に、必ず自己自身にとってそれがいかなる働きをしているかという主観的見方をしているものです。しかも、幸・不幸等の最も人間的な実感は、主観的側面において感じているものにほかなりません。とすれば、物事を主観視していく側面をすべて無視して、客観的な目だけで自然の作用をみていくことは、存在の一面的な見方といわざるをえません。
 したがって、鋭い客観的認識を必要とする分野ならともかく、一般の生活人の姿勢は社会・自然がわが生命をささえ、はぐくんでいることに対して、それを″恵み″として明らかに実感できることのほうが、より豊かで潤いのある生き方といえるのではないでしょうか。
20  個人主義と利己主義
 池田 西欧の個人主義の伝統は、その根源をたどれば遠くアリストテレスのペルソナ(人格主義)の思想にその揺籃を認めることができます。個人主義は、その後、西欧において幾多の試練を経ながら今日の社会に根づいたわけですが、このよき伝統が利己主義と混同されてきた面も指摘されはじめています。個人主義と利己主義との混同を避けるには、人間としてどういうことに注意していけばよいでしょうか。
 松下 個人主義というのは、個人は非常に尊いものであるという考え方だと思います。そのことは大いに認めていいし、また認めなくてはならないでしよう。しかし、一人の個人が尊いということは、同時に他の個人も尊いということになります。
 ですから、本来の個人主義は、いわば他人主義にも通じるわけで、そこで初めて共同生活が公平に成り立つのだと思います。つまり、お互いの共存共栄が実現してくるわけです。
 けれども、利己主義というものは、自分の利益をまず主として考え、他人の利益をあまり重んじません。そして、自分がそうなれば、他人もその人の利益中心に考えますから、共同生活が成り立たないか、あるいは成り立っても非常に低調である貧富の偏った姿になってしまうわけです。
 個人主義は、個人を立派にすることを考える、同時に他人の個人主義も認め、ともどもにみがいていこうということでよりよい共同生活が生まれてくる。けれども利己主義は自分だけを大事にするから好ましい共同生活の所産が生まれてこない。だから純正な個人主義は尊ぶべきものであり、利己主義は排すべきものである、そういった個人主義と利己主義の区別をお互いにはっきりわきまえていかなくてはならないと思います。
 けれども今日では、ご指摘のように、この二つが混同されて使われているきらいがあります。自分のことしか考えない人間を指して、われわれは不用意に「あいつは個人主義だ、けしからん」などと、利己主義に通じるようなニュアンスで話すことがあるようです。そういうところから、個人主義すなわち利己主義だといった誤った考えがまかりとおってしまう場合があるのだと思います。
 ですから、そうではないのだ、個人主義とはこういうもので非常に好ましいのだ、利己主義は自己中心主義で排すべきものなのだ、という画然とした違いを、お互いにつね日ごろから知っておく必要があるでしょう。さもないと、個人主義が誤り伝えられて、利己主義に変貌してしまうおそれもあります。そのためには、やはり、そういった個人主義、利己主義の本質というものが、教育の初歩から教えられることも、きわめて大切なのではないでしょうか。
21  煩悩をどう考えるか
 松下 われわれ人間には、日常いろいろな悩みが次から次へとわきおこってきます。こういう悩みというものは、しょせん人間についてまわるものかとも思われますが、一方また″煩悩を断つ″という言葉もあります。
 われわれは、この悩みというものをどのように考え、これをどう処理していけば、真に幸せな人生を営めるのでしょうか。
 池田 煩悩――悩みは人間生命あるかぎりわきおこってやまぬものであり、逆にいえば、煩悩があることが、人間生命の宿命であり、生きていることの証であるといえましょう。
 しかし煩悩あるゆえに、人は互いに傷つけ合い、争い、殺し合うことも事実であり、それが人類の歴史を形成してきたことは、悲しいことでもあります。
 煩悩があるゆえに人は苦しむ。この煩悩を断つことはできないものか。これは古来、哲学・思想の分野における重要な問題の一つであったことは論をまちません。西洋近代哲学においては、理性をクローズアップし、それによって人間の精神活動のいっさいを制御することを考えました。また、儒教等のごとく道徳・倫理的内容をもってその抑圧を考えたこともあったようです。
 しかし煩悩は、理性や良心、道徳心といった意識よりも、もっと生命の深部からわきおこつているものであり、生命の表層部分をもって制御しようとするのは、逆三角形を立たせようとするに等しい困難な行為でありましょう。理性をもって煩悩を支配しようとしつつも、かえって煩悩が勝利を収め、そのなすがままにさせてしまう場合が多々あります。人間とは、そのような弱いものです。しかし、人間が本来、そうした弱いものであると認識するところから、話は始まるのではないでしょうか。
 私たち人間は煩悩をもっております。その大前提を認めるべきであります。もし煩悩がなければどうなるか。もし、遠い所へ早く行きたいという煩悩がなければ、交通機関は発達しなかったにちがいない。生きたいという執念がなければ、医学の発達は望めなかったでしょうし、種々の煩悩がなければ、生活のあらゆる知恵、文明の進展は望むべくもなかったはずです。いいかえれば、煩悩は人間の行動の原動力であるといっても、けっして過言ではないでありましょう。
 したがって、煩悩を断つということは、生命の存続を否定する以外にできない。煩悩を断つことができないとするならば、思いきってそれを認め、煩悩を「方向転換する」「生かす」という方向で考えてみることが必要でありましょう。
 仏法の究極の義においては「煩悩即菩提」と説いております。菩提とは悟りということであり、煩悩の本質を見極めたところに悟りがあるというのであります。煩悩を避け、あるいは対立するのではなく、その本質を明らかにみつめ、それをより大きな価値に転換していくことが可能であるというのが根本的な考え方です。
 たとえば「怒る」という煩悩があります。それはたしかに対立を生み、争いの起因ともなる感情であります。しかし、その煩悩を、人類の生存を脅かす根源の「悪」に対して燃やすとすれば、それは極善の煩悩となるにちがいありません。
 私たち人間生命の奥深くに潜む煩悩の実体を明瞭に把握し、それを存分に働かせ、人間生活に価値を創造せしめていく哲学を発見するならば、煩悩こそ、真実に人生を潤し、回転させていく原動力にもなっていく。煩悩はけっして断つものでもなければ抑圧すべきものでもありません。人類の平和への大煩悩を燃やすべきであることを、仏法の真髄は教えております。
22  次の世に生まれるとしたら
 池田 もし、次の世に生まれることが可能だとしたら、何に生まれたいと思いますか。どこの国に生まれたいと思いますか。そして、どのような境遇に生まれたいとお考えでしょうか。また、いかなる職業を選ぶことを望まれますか。
 松下 もし、次の世に自分の望むままに生まれうるとしたならば、私は、やはり今と同じように、人間の男性として生まれたいと思います。
 どこの国がよいかとなれば、私としては、この日本の国の歴史伝統が好きですから、これまた、同じ日本の国に、庶民の階層の者として生まれたいと思っております。
 それでは、どういう道を選ぶかということですが、これは当然のことながら、義務教育というものを受けます。そして、その義務教育を終えたところで、将来どういう職業につくかということを考えると思うのです。その時に、今世の自分の経歴といいますか、思いというものから考えると、私は政治を志すのではないかと思います。
 と申しますのは、いうまでもなく職業には貴賤はありません。どの職業も同じように尊いわけです。そのことは、人からも教えられ、また自分自身でも、職業に上下貴賤はないと考えております。
 けれども、昨今の暗浩たるといいますか、混乱した世相をみますと、やはり政治の大切さということを痛感するのです。こうした世相を正常化するのは、国民全体の良識に待つしかないということも考えられます。とはいうものの、そういった国民の良識を培い、そして人びとの安定、発展を図るのは、やはり政治だと思います。国家の発展も、国民の幸福も、やはり政治の姿勢、政治の在り方によって大きく左右されてくるわけです。
 そのようなことを、今現在の私は強く感じています。ですから、そうした今世の体験といいますか感懐にたって考えるならば、いっさいの職業に上下貴賤はないけれども、政治というものを、多少の使命感をもってやってみたいと考えるだろうと思います。
 ですから、かりに次の世に生まれることがかなうものと仮定すれば、私は、人間として、この日本の国に生まれ、政治を志してみたいと考えます。
23  日に新たな精神
 松下 一般に″若さ″というものは、年をとるにつれて失われていくものであるというように考えられますが、若さとは、いったいどういうことをいうのでしょうか。
 私は、若さとは、たんに肉体的な面にとどまらず、むしろ心の若さというか、常に新しいものを求めて日に新たな活動を生みだしていくような精神を保っていることであり、それは肉体的年齢とは必ずしも結びつかないものだという解釈もできるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 人間の若さについて、肉体的な若さと精神的若さを立て分けて、精神的な若さは、必ずしも年とともに失われるものではないとされるご意見には、全く同感です。″若さ″というものが、進歩、成長、躍動を象徴する言葉であるとすれば、肉体的には残念ながら限りがありますが、精神的には無限の可能性が秘められていることは、人類史にあらわれた精神面における巨人の存在が、容易に証明してくれるところです。
 たとえば私は、一昨年、および昨年、イギリスの歴史学者、哲学者のトインビー博士と会談の機会をもつことができました。博士は八十歳の半ばにかかっておられますが、なお、かくしゃくとして創造的な仕事をつづけられ、ご自身の思想をさらに発展させようとたゆみない努力をつづけられています。そこに私は、博士の精神のみずみずしい若さを感じました。
 また、こうした名のある人ばかりでなく、一介の庶民のなかにも、老いてますます、生命の輝きを増しつつ、日々に進歩し、成長し、躍動の波動を、周囲の人びとに与えている多くの人びとがおられるのを、私はよく知っています。
 しかも、この精神的若さは、肉体的若さにも影響を与えているようです。老い朽ちようとする肉体も、精神の若々しいエネルギーにささえられて、生き生きと輝いていくものです。逆に、精神面での前進のための戦いをやめてしまった人は、肉体の老化を早めてしまっているように私には思われます。
 私は、この精神面の若さをささえるものは、″偉大なる道″を求める、真摯な求道心であると考えます。自分自身もまた、生涯、人間生命の探究と、平和世界創造への限りない旅路を、どこまでも走りつづけるわが人生でありたいと願っています。
24  青年に期待するもの
 池田 時代は新しい世代の手によってつくられていきますが、現代の青年層が、これからの時代に、どのような役割を果たしていくことを期待なさいますか。
 松下 青年に何を期待するかということですが、ごく一般的にいえば、いい意味での新しい日本をつくりあげていくということになります。つまり、日本のよき伝統のうえに新たな創造を付け加えて、新しい、よりよい日本をつくりあげていくことを期待するわけです。
 しかし、そういうことを期待するといっても、それでは誰がその″新しい日本″というテーマを青年に与えるのか、ということが問題です。それは今日の大人といいますか、各界の指導的立場にある人びとだと思います。そのテーマを取り上げて、これを工夫して実現していくのは青年ですが、しかし大人はそのテーマを与える必要があるわけです。
 もちろん、青年がみずからテーマを取り上げて、それでやっていくという場合もあるでしょう。けれども、だからといって、大人がなにもそういうものを与えずに「どうぞ勝手にやってください」というようなものでいいかといえば、私はそうではない、と思います。
 やはり、伝統を受け継ぎ、伝えていくという役割を担っているわけですから、いわばその最後の仕事として、青年にテーマを与えなくてはいけないと思います。「私たちは先祖から、こういう伝統を受け継いで、このようなことをやってきた。あなたがたはまた、これを受け継いでやってください」ということだけはいわなくてはなりません。それをどう受け継ぎ、発展させていくかということは青年の仕事ですが、テーマを与えるのは大人の仕事です。
 ところが、残念ながら、今日の大人は青年にそういうテーマを与えていないように思われます。そういったテーマを生みだすような社会観・人生観というものが、個々にはもっている人はいても、日本人に共通しては確立していません。そこに非常に問題があると思います。
 ですから、私としては、青年に期待するまえに、大人の人、とくに指導者の人びとに、ここに書いたようなことを要望したいのです。もっと、注文するというか与えるべきテーマをもたなくてはならないと思います。それがあれば、青年はそういう大人の希望を取り入れ、いいものは取り上げ、悪いものは捨てるというように取捨選択しつつ、そのテーマを実現していくと思います。それは青年には必ずできると思うのです。
25  健康であるために
 松下 健康であるということは、それは人生の目的ではないかもしれませんが、人びとの幸福を左右するほどの大きな力をもっているように思います。したがって、お互いに誰しも健康でありたいと願い、またあるていどはみずからの健康保持ないし増進を心がけているのではないでしょうか。お忙しいなかでの健康法についてご高見を賜わらば幸いです。
 池田 私は健康法についてお答えするまえに、少しばかり、健康とは何かについて、私なりの考えをのべさせていただきます。
 通常、健康といえば、病気でないことと同じように考えがちです。たしかに、疾病に悩まされない状態にあることは健康ということの条件の一つでしょう。
 だが、特定の疾病に悩んでいないからといって、その人が、健康な人生を享受しているとはいえないようです。病院で種々検査しても異常が認められないにもかかわらず、どこか気分がすぐれないとか、少しばかりの気候の変化にあまりにも敏感すぎるとか、そうした状態はけっして健康の名に値しないと思われます。
 私は、健康とは、たんに、医学的な意味での疾病が発見されないという消極的な状態ではなく、さらに進んで、身体と心が、生あるものに特有な、生きることの輝きに満ちている生命状態を指して名づけるべきではないかと思うのです。いいかえれば、一人の人間の生命の奥から、新たなる人生を開こうとする力強い生命エネルギーがわきおこっていなければ、健全なる心身と呼ぶことはできない。そのように考えるべきではないかということです。人間生命内奥からわきあがる生命本源の力が、肉体と精神ヘとみなぎり、最高度に発現されている状態こそ、まさに、健康といえましょう。ゆえに、もし、健康を、人間生命において、大きく分類するとすれば、肉体上の健康と精神的健康の二つを考えなければなりません。そしてこの両者が、ともに保持され、推進されてこそ、真実の健康がもたらされるのではないでしょうか。
 いかに肉体的健康に恵まれていても、この世に自分が生きる喜びも知らず、未来への希望を失った失意の人を、健全な生命と呼ぶことはできません。生きることへの絶望は、やがて、身体をむしばみ、種々の疾病さえ引きおこすにいたることは、論をまつまでもないでしょう。医学的には、身心の相関を解明する精神身体医学の指し示すところであります。
 今度は逆に、自己の生涯に対して希望をもち、なすべき仕事に全力を傾けようとしても、肉体上の弱点があれば、それが、精神への負担となって、多くの場合、たくましい人生を送ることは困難となります。
 このように身体と心は、相互に影響しあうのが、人間生命の真実の姿であります。とすれば、健康法も、心身両面にわたらなければ、それらの効果を期待することはむずかしいと考えます。
 さて、身体的な側面からのべていきますと、まず、基本的な条件は、どうしても、食生活と生活の場をととのえることでありましょう。
 食物は、やはり、自然食物に近いものが、人間身体に適合すると思われます。むろん、現代栄養学の示すところは尊重すべきではありますが、少なくとも、病者でないかぎり、自然の味と内容をできるだけ残した食物を摂取することが、生物としての人間には最も有効な力となりましょう。なぜならば、人間生命も、他の生物と同じく、大自然のなかから生まれでて、自然界の恵みをうけつつ、現代にいたったからです。
 次に食物の量についてですが、古人の英知が指し示すように、少し控え目な程度がよいのではないかと思います。腹八分とは、経験の集積から生まれた真理の一つです。
 しかし、食生活において最も大切なのは、心の在り方ではないかと考えます。大自然の恵みに対して感謝の念をかみしめつつ、心豊かな食事の時をもちたいものです。また、心の通う人びととともに食卓を囲む楽しみは、なにものにも代えられないものです。
 また、心身両面の健康のために、たとえ少しの間でも、自然にふれる機会をもつことが大切だと思います。自然は、現代文明の殺伐たる生活に疲れた身体と心をやさしく包み、よみがえらせてくれます。さわやかな早朝の大気、さんさんと降りそそぐ陽光に包まれての、深呼吸とか散歩などの、ゆとりの時を少しでももちたいものです。東洋においては、健康法の一つとして、呼吸の仕方を種々に工夫し、実践を勧めております。
 精神的な健康法としては、すぐれた芸術、文学などにふれることも、健全な生命を養うとともに、あすへの偉大な糧となると思われます。
 これは年齢にも関係するでしょうが、その人の体力や生活条件に合わせて適度の運動をすることも、健康には欠かせないと思います。
 最後に、健全な生涯を送るべき最も重要な条件は、自己の一生をかけて悔いない理想をいだいて、その実現のために情熱をかたむけて専念することではないでしょうか。私は、社会に貢献し、人類の未来に思いをはせ、そこに、自己の生きがいと使命を見いだして精進することが、どのような健康法にもまさる人間にのみ与えられた特権であると主張したいのです。
26  信条について
 池田 日々の生活において、常にそれをもって出発し、そこに帰ってくるような信条を一つあげてくださいと求められたとき、いかなる信条をおあげになりますか。
 松下 私自身の信条は何かというご質問ですが、一つは″素直な心″ということです。これについては、「人間のモットー」のところで申し上げましたので、ここでははぶかせていただきます。
 もう一つは、次のような言葉です。
  青春
  青春とは心の若さである
  信念と希望にあふれ 勇気にみちて
  日に新たな活動をつづけるかぎり
  青春は永遠にその人のものである
 これは、今から十年ほど前に、ある文章にヒントを得てつくったもので、いわば私の座右の銘としている言葉です。
 なぜ、こういうものをつくったかということですが、一般によく″日に新た″ということが世間でいわれています。そのように日に新たでなければいけないということを考えてみると、これは見方によっては生成発展ということになります。日に日に生成発展するということです。
 そうすると私ども商売をしているものとしては、やはり日に新たなものをつくっていかなくてはならない。日に新たな発想をしていかないといけない。さもないと時代に遅れ、発展も止まってしまうと考えられます。しかし、私もそうは考えつつも、いつしか一年たち二年たち、頭に白髪が生えてくるという状態になってきました。
 その時に、これもやはり日に新たな姿だと考えたのです。シワが一つふえるということも、やはり一つの新しい姿である。人はそれを老いた姿というけれど、やはり変化しているということは、進歩ということになる。昨日より今日は一つシワがふえたのも、毛が少し白くなったのも、みな変化の姿であって、これは日に新ただという見方もできる、と考えていたわけです。
 ところが、いつしか肉体に衰えを感じるようになってきたのです。そしてそれに関連して、やはり気分的にも老いを感じるというか、若さをなくしているのではないかという気がしてきたのです。そして、そういうところから、青春というものは非常に貴重なものだ、青春を失うことも日に新たな進歩の姿だと考えてきたけれど、やはりそれによって気も衰えてくる。だからそういう考えではどうもピンとこないものがある。これは一つ転換しなければならないと考えるようになりました。
 そして、青春というのは、結局、肉体の若さではなくて、心の青春、精神的な若さだと考えるようになりました。そういう時に、たまたま、最初に書いたように、ある文章を目にしたので、それにヒントを得てこうした言葉をつくり、座右の銘として今日にいたっているしだいです。
27  世間をどうみるか
 松下 この世間をどのようにみればよいのかということにつきましては、たとえば″渡る世間に鬼はない″とか申しますように、世間は公正であり温かいものだとする考え方もあるでしょうし、逆に、世間は厳しく、冷たいものだとする考えもあると思います。このように、世間というものについての考えはさまざまですが、われわれは、これをどのように考えて対処していけばよいのでしょうか。
 池田 世間をどうみるかということについては、たしかにさまざまな見方があると思います。人によって考え方も違いますし、同じ人間でも、二十代の時の見方と、三十代、または五十代にいたった時点での見方というものも、異なっている場合が少なくありません。
 ということは、もう一歩踏み込んで考えてみますと、世間はこうだといった客観的な姿というものが確立しているのではなく、各個人と世間、いわば社会との相対関係で定まってくるものといえないでしょうか。
 つまり、一つには、世間、社会といっても一人ひとりの生きた人間の有機的なつながりによって成り立っているということ。さらに、一個の人間を中心に考えれば、その個人の存在は、ただ物理的に存在しているだけでなく、その人間の周囲、つまり、まわりの世間、社会、人間に働きかけて生活しています。逆に、また、一個の個人は世間からのさまざまな働きかけを受けてもいます。その内容は、恩恵、励ましといったプラスの面もあるでしょうし、ときには、排撃、反発といったマイナスの力として働くこともあるでしょう。
 したがって、世間をどうみるかということは、その個人と社会との相互の関係力によって、およそ定まってくるものと思います。
 個性が強く、強引に生きて成功している人にとっては、概して″渡る世間に鬼はなし″という見方になってくるでしょうし、環境に恵まれた社会からプラスの面の働きかけを、多分に受けている人にとっては、″世間は公正で、温かいもの″と映るでしょう。また逆にマイナス効果を多く受ければ″冷たい″ものとみえるでしょう。
 したがって、世間をどうみるかという問題は、しょせん、社会のなかで、一個の人間としてどう生きるかという問題と本質的には、同じだと思います。
 私が、未来を担うべき青年たちとよく話すのは、次のようなことです。
 世間を、うまく渡ろうとする姿勢であってはならない。その前に、世間というものを、社会の姿、本質を、鋭く見抜く力を養ってもらいたい。知ることは、一つの力であると。
 安易に妥協しながら、生き抜くのではなく、勇気と英知をもって、社会にぶつかり、顛難をなめつつ、成長していってもらいたいと。
 世間、社会には、たしかに、さまざまな矛盾と、改善すべき問題が山積していることでしょう。しかし、世間のせいにしているかぎり、真の意味で、自己の成長はない。自身に力をつけ、世間の荒波に翻弄されるのではなく、逆に、世間に働きかけ、環境を変革しゆく人間へと、人間革命していくべきだと、励ましつづけております。
28  歴史をどうみるか
 池田 一個の人間にとって、また、現在から未来ヘの世界の動向を洞察するために、歴史をどうみるかということが、一つの重要な要件になります。そのために、さまざまな歴史観、歴史哲学が提唱されてきたわけですが、どのような歴史観に賛同なさいますか。または、独自の歴史哲学を提唱されますか。
 松下 人間の歴史というものはどのように進んでいくかということについては、たとえば、だんだんに終末に向かっていくとか、歴史は繰り返すものだとか、ある種の発展段階が最高のものであるというような、いろいろな見方があるようです。
 私は、歴史というか、人間の歩み、人間の共同生活は限りなく生成発展していくものだと考えています。これまでにも申し上げましたが、この宇宙には、絶えざる生成発展という自然の理法が働いているわけです。そして、人間も、また人間の共同生活も、そうした自然の所産であり、自然の理法にしたがってどこまでも生成発展をつづけていくものだと思うのです。
 現に、いわゆる有史以来の世界の歴史をみれば、これは相当長きにわたっていますが、やはり生成発展の歩みをつづけていると思います。その過程をみれば、個々にはいわゆる栄枯盛衰ということがありますが、人間全体としては、大きく生成発展してきているわけです。そして、こうした姿は無限につづいていくと思うのです。
 そういう前提にたって歴史をみていくことが大切ではないかと思います。
 だから、人間の共同生活もさらに生成発展していくでしょう。また、個人個人の生活というものも、さらに発展していくでしょう。国家と国家の間というものも、今では紛争が絶えまなくあるようですが、そういう姿は今後もまだまだつづくとしても、しかし、だんだん共同的になり、一体化していくというような面でも進展していくと思います。そして、ついには世界が一つになるということも、けっして夢ではないと思うのです。もちろん、その場合でも、それぞれの民族性、国民性というものはなくならないし、また、なくす必要もありません。それぞれの国民、民族の特殊性を生かしつつ、世界が一体化していくだろうと思います。
29  中国の歴史上の人物
 池田 中国の三千年の歴史というものは、日本の文化にも多大な影響を与えてまいりました。私たちも子供のころから、『西遊記』や『三国志』『水滸伝』などを通じて、中国の英雄豪傑にも親しんでまいりました。ところで、そのような中国の歴史上の人物のなかで、どのようなタイプの生き方に共感をもたれますか。
 松下 中国三千年の歴史のなかには、聖人、賢人、英雄、豪傑がそれこそ無数といってもいいほどいるでしょうが、私はまことにそういったことに暗く、思い浮かぶ人物といっても、いわば十指にも満たず、しかもそれらの人びとの業績についても、ごく断片的に伝え聞いているにすぎませんが、あえて、そのなかの何人かをあげてみたいと思います。
 よく″堯舜の世″ということがいわれ、一つの理想的な時代とされているようです。堯も舜も昔の中国の天子で、その仁慈は天のごとく、知識は神のごとくといわれ、自分は倹約に身を保ち、ただ人民の安楽な生活を心がけたということです。したがって、その時代は天下太平、万民平和だったそうです。こうした堯舜の姿は、指導者としての在り方を考えるうえで、やはり一つの理想とされるべきものだという気がします。
 ただ、堯舜はいわゆる伝説的な天子ですので、実在の人物を考えますと、漢の高祖、劉邦なども、非常に偉大な君主だったように思われます。
 彼が秦を滅ぼした時に、いわゆる「法三章」、つまり「人を殺した者は死罪に処す、人を傷つけた者、物を盗んだ者はその程度によって罰する、他の秦の法律はみな廃止する」ということをいったので、それまで秦の煩雑な法律に苦しんでいた人民は大いに喜んだということです。このことは、今日の日本の状態をも併せ考えますと、まことに人情の機微にかない、物事の本質をつかんだ姿だといえましよう。
 また彼は「自分は軍事でも知謀でも内政でも、部下におよばない。ただ自分はそうした自分よりすぐれた部下を使うということを知っているのだ」といったそうですが、これなど、人の上にたつ者の心構えとして実に味わうべき言葉だと思います。
 次に、多少観点は変わりますが、『三国志』に出てくる関羽という人も、実に尊敬すべき人物だという気がします。
 関羽は、大軍を相手にしても、あたかも無人の境を行くがごとく、向かうところ敵なしといった無双の象傑だったということですが、それ以上にまた義に厚い人物でもあったようです。
 自分の主君であり義兄でもある劉備玄徳が、時の実力者曹操との戦さに敗れ、消息不明になっていたさいに、関羽の人物を高く評価した曹操がなんとか彼を自分の臣下に加えたいと、非常な富や地位や名誉をもってし、また情誼を尽くして誘っても、劉備との信義を重んじ、ついに曹操には仕えなかったのです。そして、ひとたび劉備の居所がわかるや、ただちにそのもとに馳せさんじ、その去ったあとの屋敷には、莫大な曹操からの贈り物がなに一つ手をつけられずにきちんと残されていたということです。後になって、今度は曹操が戦さに敗れ、敗残の姿で逃れていた時、関羽はこれを容易に討てたにもかかわらず、かつての恩義に感じ、自分は軍法に照らして処罰されることを承知で、あえて見逃したそうです。
 そのような関羽の徹底した生き方は、私などには、とうてい真似できるものではありませんが、やはり一つの鑑として深い尊敬を覚えます。中国の人びとは、彼を祀った関羽廟というものを各地に設け、これを崇拝したそうですが、まことにもっともだと思います。
 以上、堯、舜、劉邦、関羽の四人をあげさせていただきましたが、これらはあくまで私の知っているごく狭い範囲のもので、そのほかにも、これに劣らぬ立派な人びとは多々あると思います。われわれは、そうした先人の生き方に学び、みずからを高め、社会をよくしていく資とすることがきわめて大切だと思いますし、とくに若い人びとには、そういった意味で大いに歴史を勉強していただきたいと思うのです。
30  若い世代に望むこと
 松下 若い世代の人びとは、次代を担い、次代を左右する大事な立場にたっているわけですが、こうした人びとがどのように育ち、歩んでいくかということは、やはり大人が何を期待し、要望するかによって決まってくると思います。
 それでは、若い世代に対して、大人はどのようなことを期待し、要望することが必要でしょうか。とくに今日の日本の若い世代に対して、何を期待し、要望すべきでしょうか。
 池田 時代により、社会により、青春像に相違があるとしても、骨髄となるものは同じだと思います。私も、よく青年たちと語る機会をもちますが、そのさい、青年たちに話すことは、あらゆる意味で、青春とは、一生の土台を築く時代である。土台が堅固でなければ、その上に何を建てても崩れてしまう。また、土台を築くというのは、この時期をおいてほかにない。あとでは築けない。社会の風潮がどうあっても、自分の人生に責任をもつのは自分自身以外にない。なによりも青年時代にこそ、この人生の土台づくりに真剣であれ、ということです。
 そして、どんな境遇であろうとも、恵まれていようと、なかろうと、甘やかされず、またみずから甘えず、肉体とともに精神の汗を流すことをいとわず、″労苦″こそ宝としていく情熱をもってもらいたいと訴えています。またそのためにも、虚栄の衣装に身を包むのではなく、一念の作業服を着て、汗と涙の建設の譜であってほしいと――。
 こんな吉川英治さんの言葉を思い出します。ある富裕な一青年に語ったというのですが、「どの青年もおしなべて情熱との戦いを繰りかえし乍ら成長して行くのに、君は不幸だ。早くから美しいものを見過ぎ、美味しいものを食べ過ぎていると云う事はこんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れて行くと云う事は青年として気の毒な事だ」(岡副昭吾『吉川英治全集』月報より)というのです。
 青年期に、ほんとうの労苦を知らなければ、真の人生の深い喜びを知ることもできないということでしよう。
 ともあれ、一度しかない青春を、真剣に生き、勇気をもって強く生きてほしい。虚栄に溺れず、誠実な人生を、自身の内に秘められた豊かな個性、才能を伸ばすためにも、その基礎を、土台を、確かなものにしていってほしいと念願しているものです。
 そして最後に、それらのいっさいの基盤として、まず、なによりも自身の健康を、肉体の基礎だけは築いておいてほしいと、そう私は願っております。
31  青年の無関心層の増大
 池田 現代青年のなかに無関心層と呼ばれる若者が増大しているといわれます。これは何事に対しても自分の精神力を傾注することができない、ということですが、青年たちにいわせると、精神を集中するに足る存在が社会にないということにもなります。そしてこうした現象は科学技術を原動力とした現代文明の進捗と無関係ではないようです。つまり、すべてがきわめて機械的・合理的に運ばれていく社会機構のなかで、自己の全存在をかけるものどころか、自己そのものの存在さえ見失いかねないという、まことに追い込まれた状態になっているわけです。この、若者の間にみられる無関心層の増大についてどうみておられますか。またこれをどう解釈すべきでしょうか。
 松下 今日の青年のなかに、なぜ無関心層といわれる人びとが増大しているかということについては、いろいろな原因があると思います。が、そのなかでもとくに大きな原因の一つは、若者たちが使命感をもっていない、ということがあるのではないかと思うのです。
 たとえば、大学生についてみても、多くの場合、その大学の建学の精神とか、学是といったものが強く訴えられることがなく、したがって、自分は学生としてこういう使命が与えられているのだといったことをはっきりと自覚していないのではないでしょうか。もしそういった使命感というものが明確に与えられていたなら、それにたってなすべき勉学に心身ともに打ち込むということになり、無関心ではおられなくなると思います。
 また、これは大学生にかぎらず、社会に出ている青年たちにもいえることでしょう。つまり、社会人としての使命感をはっきりともっていたなら、その使命感にたって仕事をし、活動を進めるということになって、自分の仕事はもとより、社会のいろいろな物事に対しておのずと関心が高まると思うのです。
 こうした使命感はどこから出てくるかといいますと、個々にはいろいろありましょうが、結局は、やはり国家としての目標、方針というか、いわゆる国是・国訓というものがはっきりと定まっていることだと思います。国としての国是・国訓が明確に定まっていれば、社会の一員としてなすべきこと、果たすべき使命もおのずと明らかになりましょう。あるいは大学としての在り方、そのなかにおける大学生の在り方といったものも明らかになります。したがって、青年の一人ひとりが、みな使命感にたって歩むという姿も生まれてくるでしょう。そうした姿になれば、もはや無関心層といった人びとは絶無とまでいかなくても、ごく少数の例外としてしか存在しなくなるのではないでしょうか。
 青年の無関心層について考えられることは、そうした国是・国識の問題が第一だと思いますが、もう一つは、学問をする人の数の適正化を図るということです。
 といいますのは、無関心層というような人は、いわば学問の真の意義を理解していない場合が多いのではないかと思うからです。つまり、学問を教えられることによって生きがいを感じることも少なく、かえって身をもって事に当たろうとしなくなり、何事に対しても関心が薄れてくるという人が少なからずあるような気がするのです。
 したがって、そういう無関心層を少なくするには、学問をする人の数を思いきって適正にすることも一つの方法だと思うのです。今日では、どこの国も、どれだけの人数がどれくらいの教育を受ければよいかということを、はっきり数字を出して定めてはいないようです。その国の富める度合によって、富める国ほど多くの青年が高度の教育を受けているのが実情でしょう。
 しかし、いくら富める国であっても、学問をしても、かえってそれを正しい方向に生かせない人もいると思います。事実、大学が多い国ほど社会が安定し、好ましい姿で発展しているかというと、必ずしもそうでもありません。むしろ、各種の社会的問題を多く起こしているのは、大学がたくさんある国の場合が多いのではないでしょうか。アメリカをはじめ、先進諸国の姿によって、そのことがよくわかるのではないかと思います。
 ですから、真に学問をしたいという人、真に学問する才能のある人、そういう人が百人のうち何人あるかということを統計的に調査し、そのパーセンテージにもとづいて教育の方向を決めるということも、一つの行き方ではないかと思うのです。そうすることによっても青年の無関心層は少なくなってくると思います。
 ただ、このような学問をする人の数の適正化ということも、国是・国訓というものがはっきりしてこそ、考えられ、行なわれるものでしょう。それがアイマイでは、そうした教育の抜本的な方向づけは出てこないと思います。したがって、そういう意味からも、私は、国是・国訓というものの確立が、なによりもまず第一に行なわれるべきだと考えるのです。
32  影響を受けた人物
 池田 これまでの人生にあって、最も強く影響を受けた人物なり、書物なりを、よろしければお聞かせください。
 松下 私がこれまで最も強く影響を受けた人ということですが、今静かに考えてみますと、ある特定の人の影響を受けたというよりは、非常に多くの人の影響を受けつつ今日まできたというような感じがいたします。
 つまり、これまでの人生において、直接に接した人はもちろん、会ったことがなくても、話に聞いたり本で読んだ人、そういったあらゆる人びとの影響を、強弱いずれにしろ、受けていると思うのです。たとえば、私が奉公に出ていた子供のころ、店にこられたお客さまから、よく「タバコを買ってきてくれ」と頼まれることがありました。そんなささいなことでも、お客さまによって、頼み方、物の言い方が違うわけです。それで、この人はいい人だなとか、この人はどうもいい感じがしないとかいうことを子供心にも感じ、自分が人に物を頼むときはこうしたらいいなというように、やはりそこで影響を受けたというか学ぶものがありました。
 そのように、日常、なにげなく接した多くの有名、無名の人びとから、それぞれに、よき経験を与えられつつ、いわば教えられずして教えられてきたわけです。したがって、そういう意味では私の場合、接した人はみな、なんらかの手本となったともいえましょう。
 ただ、あえて申しますならば、私は聖徳太子という方を非常に尊敬申し上げており、それだけそのご業績に学ぶところが大きかったように思います。あの十七条憲法の条文の一つ一つをみましても、太子がいかに人間というものを正しくつかんでおられるか、そしてそれを政治のうえに生かそうとされているかがわかり、まことに感銘させられるものがあります。たとえば「和を以て貴しと為し、さからうこと無きを宗と為よ。人皆党有り……」という第一条にしても、派閥というものを人間がつくりやすいこと、いいかえれば派閥をつくるのは人間の本性であることを認めたうえで、だから争わず仲良くしなさいと教えておられます。今日のわが国で、そういった人間の本性に対する深い洞察なしに、ただ派閥それ自体がいけないとするような見方が強いことを思うとき、こうした十七条憲法の内容、さらにはそこに盛られた精神というものに深い感銘を受けるのです。
 したがって、あえて最も強い影響を受けた人をあげるとすれば、この聖徳太子の御名をあげたいと思います。書物については、これまでほとんどそういうものを読んでおりませんので、とくにこれというような書物はございません。

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