Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間について  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

前後
2  人間内面の法則
 池田 人間は他の動物と異なり、知恵ある人として特色づけられています。その結果、飽くなき自由を求め、創造性を発揮すべく活動しています。一見すると、一人ひとり、無制限に自由と創造性が与えられているようにも思える面があります。今日の人びとは、むしろこの考え方に立って、その生を謳歌しているかに見受けられます。たとえ制限を加えるものがあったとしても、他の人間の自由との衝突、ひいては社会秩序との軋礫など、あくまでも外部的な制約がその原因と考えられています。
 そこで、お聞きしたいのですが、人間一個の内面で、精神の自由と創造性をコントロールする、なんらかの力なり働きなり、あるいは肉眼には見えないが厳として実在する法則なりがあるとお考えですか。もし、あるとすれば、それはいかなるものとお考えでしょうか。
 松下 人間のなかに、目には見えないが、みずからをコントロールする力なり法則なりが働いているかどうかというご質問ですが、私はそういうものはあると思います。
 一般の動物をみましても、そういったものをあるていどもっているような感じがいたしますが、人間はそれをはるかに高度に広い範囲で働かせていると考えられます。
 それはどういうものか、的確には申し上げられませんが、精神的良識と申しますか、人間的理性と申しますか、いわゆる良心といったものではないかと思います。良心というものは、教えられて初めて身につくものだという考え方もできるかもしれませんが、私はそうではなく、生まれながらにしてもっている、いわば天与のものとしてそなわっていると思うのです。ですから、それを意識するとしないとにかかわらず働いているわけで、その意味では、いわゆる善人という人だけがもっているのではなく、悪人も悪人なりの良心をもっているといえましょう。そういうものが、その人のもつ判断力などと総合されて、そこに自制、コントロールがなされてくるわけです。
 もちろん、そういった良心のあらわれ方は人により時代によって異なってくるでしょう。非常にそれが強く働くという立派な人もあれば、あまり働かずに、ともすれば自制ができず悪に走りがちになるという人もあると思います。社会全体として、人びとの良心の働きが盛んであるという好ましい時代もあれば、きわめて低調だという時代もありましょう。そういうことを考えてみますと、私は、良心を導き育てる教育、良心を培養する政治というものがきわめて大事になってくると思います。つまり、人間のなかに本来そなわっている良心をいかに引きだし、涵養するかということが教育のうえで最も重要なこととして考えられなくてはなりませんし、また政治のうえにそういう配慮がなされなくてはならないということです。もちろん、教育にしろ、政治にしろ、本来、人間のなかに良心というものがないならば、これを植えつけるのはきわめてむずかしいことでしょう。けれども幸いにして、そういうものがあるのですから、そのことを正しく知って、いかに適切にこれを培養するかを考えたらいいと思うのです。
 ご質問にもあるように、今日は非常に自由や創造性が伸びのびと発揮されている時代だけに、それをみずからコントロールする良心というものの自覚と培養は、きわめて大事だと思います。
3  人間の本質
 松下 一千年後、人間の本質というものは、大きく変わっているでしょうか。変わるとすれば、どう変わっているでしょうか。また、変わらないとすれば、なぜ変わらないのでしょうか。
 池田 ご質問にお答えするにあたって、まず、人間の本質とは何か、ということについて考えをはっきりしておく必要があります。
 古来、多くの人びとによって、人間の特徴とか、人間のまさに人間たるゆえん、根拠についての考え方が提示されてまいりました。思いつくままにあげてみましても、「道具を使う生物」「社会的動物」「遊ぶ人」などの名称もあれば、リンネのつけた学名では「ホモ・サピエンス(賢い人)」となっています。シャルル・リシエのように「ホモ・ストゥルトゥス(愚かな人)」と皮肉たっぶりに呼ぶ人もいます。
 東洋においては、梵語で、人間を「末奴沙まぬしゃ」といいますが、これは「思考する者」との意味です。もっとも、この呼び名は、ドイツ語の「メンシュ」、英語の「マン」、フランス語の「オム」等と共通しています。私は、人間の人間たるゆえんの一つは、やはり、理性をそなえ、知性の発動をなしゆくことであると考えます。他の生物と人間のなんといっても最も大きい相違点は、理性、知性の有無にあるとするのが妥当だと思うからです。
 また、理性とともに良心、愛なども、人間の根拠となりましょう。愛情は、他の動物とも共有する面もありますが、人間らしい聡明な精神的愛は、人間生命特有のものと考えざるをえません。
 しかし、人間生命と他の生物との相違は、逆説的なようですが、人間行為の愚かな側面にも見受けられます。つまり「ホモ・サピエンス」であるとともに「ホモ・ストゥルトゥス」でもあると、私は思うのです。その愚行の本源を、ニーチェやアドラーは「権力への意志」「権力欲」等ととらえていますが、私も、全くそのとおりだと思います。
 二十世紀後半に入ってからは、大脳生理学の成果が、人間の前頭葉をそのよりどころとする「殺しの血潮」を指摘しています。前頭葉の発達は、人間の肉体上の生理学的な特徴の最たるものであり、理性の働きは、ここを主たる場としていることは、ひろく認められているとおりです。それとともに、権力意志にかられた殺戮への血潮は、たしかに人間生命内在の特質の一つとしてあげることができましょう。
 人間は、今をさる数百万年の昔からこれらの特徴をあらわし、一方では生命の内に理性、知性、意識、良心、愛をはぐくみつつも、同時に、殺戮への魔性をいだいて、この地球上に、独自の生命体としての足跡を刻みはじめたのです。
 理性、知性、良心、愛の胎動が、道具の使用、社会生活の形成、技術の進展、哲学、科学の成立をも可能にしたと考えられます。しかし、同時に、権力意志、生命内在の魔性を引きずりだし、他の生物にはみられない殺戮の無残な愚行を繰り返すことにもなったのです。こうして、人類の歴史は明と暗のしじまを織りなしつつ、二十世紀後半の現代におよんでいます。
 その間、外面的な社会、経済、風俗、習慣、制度などは、各々の民族によって、また時代の変遷によってめまぐるしく歴史を彩ってきました。時代により、場所によって理性や良心などの発現の仕方は変わり、その強度も千差万別でありましょう。また、人類の足跡が、地球上のいずこであろうと、血なまぐさい戦いの惨事に染められたことのない場所はないといってよいほどです。
 このような歴史をとおして、人間の本質に考察の焦点をあてるとき、今後一千年たとうと、善悪をともに内在している人間生命の基底、根拠が大きく変化するとは考えられません。もし、人間としての特質が消滅することがあったとすれば、それは、人間生命そのものの断絶以外には考えられないでしょう。
 一千年後の世界の様相、政治、経済、習慣などは、現在の私たちには想像もつかないほどの変化をみせているでしょう。だが、人間が人間である以上、本質的部分は、おそらく変わらないであろうと思うのです。なぜなら、人間の人間たるゆえんを形成している善なるものと悪なるものとは、そのあらわれ方の違いであって、いわば表裏一体のものであり、一方のみをなくすことはできないからです。
4  人間の条件とは何か
 池田 人間の定義は、生物学的には、ホモ・サピエンス、つまり知恵ある人という意味で、知性が人間を他の動物と異なって特色づけるものとされています。また、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)というようなこともいわれますが、人間の最も人間たる条件は何だとお考えになりますか。
 松下 人間を他のいっさいの動物から区別する基本の条件というか特質は何かというご質問ですが、一言にしていえば、いわば万物の王者として、いっさいのものを活用できる力がその本質として与えられているということではないかと思います。
 私は、この宇宙は一つの偉大な生命体であって、その大意すなわち大きな意思は、自然の理法として万物に作用しており、そうした自然の理法によって、すべてのものにはそれぞれ異なった特質が与えられていると考えております。
 そして、人間は、そのような自然の理法を認識し、万物それぞれに与えられている特質を見いだしつつ、その特質に応じてすべてのものを活用していくことができます。たとえば、鉄にはどういう特質が与えられているか、本の特質は何か、あるいはウシやウマはそれぞれこのような特質をもっているといったことを人間は的確に知ることができます。そして、鉄は鉄の、木は木の、ウシはウシの、ウマはウマの、それぞれの特質にあった用い方、利用の仕方を考え、それらを活用することによって、いっさいのものを、正しく生かしつつ、同時に人間生活自体の物心一如の向上発展を生みだすことができるのです。つまり、人間は相寄って共同生活を営んでいますが、絶えずそれを進歩させ、逐次よりよき共同生活を生みだしているわけです。そういうものが、人間としての最も基本的な特質だと思います。
 しかし、本質はそうであっても、現実の人間生活は、必ずしもそうしたすぐれた本質にふさわしい姿にあるとはいえません。それは一つには、人間自身がこうしたみずからのすぐれた本質を十分に自覚認識していないからだと思います。
 それとともに、大事なことは、衆知が十分に集められ、生かされていないということです。一般に″知恵ある動物″といわれるように、たしかに人間には他の動物よりすぐれた知恵が与えられています。しかし、いかに他の動物よりすぐれているといっても、人間個々の知恵というものにはおのずと限りがあり、それのみに頼っていたのでは、人間の偉大な本質は十分には発揮されないと思うのです。大切なことは、そうした個々の知恵が集められ融合調和された高い衆知といいますか、英知といったものを生みだしていくということです。そのように、衆知によって物事をなしていくとき、初めて人間は、自然の理法を的確に認識し、万物を生かしつつ、人間に与えられたすぐれた本質を発揮し、よりよき共同生活を生みだしていくことができると考えております。
5  肉体と霊魂
 松下 人間には、肉体とともに、それをこえる霊魂というものがあるという考え方もあれば、肉体だけがすべてだという考え方もあるようです。はたして人間には霊魂というものがあるのでしょうか。あるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。
 池田 人間生命を物質的側面からみれば、肉体によって成立していることは明瞭です。
 科学的手段によって、私たちの身体を分析し、分解していけば、究極的には、種々の元素にまでいたるでしょう。さらに精密な分析を重ねれば、当然、原子、電子等の動きとしてとらえられるかもしれません。しかし、どこまで分析を重ねても、そこから、精神、心の働き自体を説明することはできないと思います。
 たとえば、大脳皮質のなかで人間生命における最も特徴的な領域は、前頭葉です。大脳生理学者たちは、前頭葉において、私たちは、意志し、感動し、創造への働きを営むといっています。たしかに、私たちは、前頭葉を働かして、人間らしい生活を送っていることはまぎれもない事実でしょう。
 それではというので、前頭葉という肉体上の組織を、どれほど精密に分析し、分解しつくしても、究明できるのは、電子や原子などの動きであり、肝心の意志、情操、情感、創造性への意欲などをとらえることは不可能でしょう。では、前頭葉なくして、意志や情操などの心、精神の働きができるかといえば、明らかにそれは不可能です。
 とすれば、考えられる唯一の答えは、前頭葉という肉体の場に即して、相当する心の働きが顕現するということにならないでしょうか。
 私は、最もわかりやすい実例として、前頭葉をあげましたが、他の大脳領域や大脳辺縁系を、その顕現の場として、心の働きが浮かびあがるのだと考えています。
 このうち、高等な精神作用は、主として大脳皮質に関係するでしょうし、衝動、欲望、生理機能などは大脳辺縁系を中心とする生命体組織に関連するでありましょう。
 こうした考察にたって、私は、人間生命を肉体のみであると説くのは、ただ物質的側面のみにとらわれた部分観にすぎないといいたいのです。しかし、一方、いわゆる″霊魂説″では、肉体と切り離して、心、精神を実体化するという誤りを犯していると思います。
 人間生命は、肉体と心、精神の統一体であり、統合体であると考えます。そのような生命体を、物質的側面から究明すれば肉体としての姿を示し、もし、精神、心の働きに着目すれば肉体と一体となり、その肉体を場として顕現する、種々の精神面が浮かびあがるわけです。
 人間生命を肉体のみに限定せず、心の働きにも目を向けなければならないということならば、その考え方は大切にしなければならないと思います。
6  唯物論と唯心論
 池田 古来、唯心論と唯物論の対立は、生命論争の重要なテーマとなってまいりました。
 そして現在でも、人間生命の心に重点をおく唯心論と、物質に基盤をおく唯物論との、止揚、統合はなされていないようであります。
 私は、唯心、唯物の両生命論を、一段と深く、そして高い次元から融合し、止揚する新たな哲学の必要性を感じているのですが、この点についてのご意見をうかがいたいと存じます。
 また、人間生命における身体と心の関連性をどのようにとらえれば、真実の姿を描きだせるかについても、基本的な考え方をお示しいただければ幸いです。
 松下 「精神を重視する唯心論と、物質を重視する唯物論の二つの考え方を、より深く高い観点にたって融合調和させる新しい哲学が必要である」というお考えに、私は全く同感です。
 むずかしい学問的なことは私にはよくわかりませんが、ごく常識的に考えますと、精神と物質、心と物というものは、物心一如という言葉もありますように、紙の両面のごとく、本来、表裏一体をなしているもので、本質的にこれを別々に論ずべきものではないという気がします。もちろん、便宜的にこれを分けて考えたほうがいいという場合はありましょうが、それは、いわば支流においての話であって、本流はどこまでも一体論でなくてはならないと思います。
 ところが、聞くところによりますと、唯物論か唯心論かということは、古代エジプトとかギリシャのころから論じられ争われてきたということです。私は、そういう問題を論争すること自体はあながち悪いことだとは思いません。そういうところから、また新しい物の考え方も生まれ、進歩がもたらされることもあるでしょう。だから、それはそれなりに、意義のあることだと思います。しかし、数千年にわたって、そうした論争に終始してきたというのは、これは長きに失するという感じがするのです。
 そのような対立から、ときに思想や宗教の弾圧となったり、異端者という名のもとに死刑にしたり、はなはだしい場合には流血の革命とか戦争という事態にもなって、人間生活のうえに非常に悲惨な姿をもたらしたと思うのです。したがって、唯物論と唯心論の争いは、一面のプラスも生みだしたことではありましょうが、それによって失うところ、はなはだ大であったといわなくてはなりません。
 そしてまた、人間が唯物論か唯心論かという論争をつづけているかぎり、この世界から争いというものは永遠になくならないと思います。
 そういう意味から私は、お考えに賛成するものです。
 次に身体と心の関連性ということですが、これも本来そういった一体のものとして、いわば心身一如と考えるべきだと思います。その場合、あえていえば心が主で、身体が従ということになろうかと思いますが、これは主が上位で、従が下位だと考える必要はないと思うのです。
7  生気論と機械論
 池田 人類未開時代の生命観は、原始的な生気論に彩られていました。時代が下って、ギリシャでは、デモクリトスの機械論と、アリストテレスの生気論が対立していたといわれています。
 西洋における近代科学(生物学)の成立とともに、機械論が世界を風靡し、その余韻は二十世紀後半に入った現代にもおよんでいます。しかし、生気論も、ドリユーシユによって新生気論としてよみがえり、さらに、ベルタランフイの生体論が登場しました。
 現在、機械論への批判が高まるにつれ、新生気論、生体論に傾く人も多くなってきたようです。これら機械論、生気論(新生気論)、生体論は、いずれも、それぞれ長所をもつと同時に、欠陥をももっているといわざるをえません。今後、生命像を正しくとらえるには、これら各種の生命観を参考にし、取り入れつつも、さらに止揚した新しい生命観が形成されなければならないと考えるのですが、いかがでしょうか。
 松下 生物の働きといいますか、いわゆる生命現象というものを解明しようとするための考え方には、ご質問にありますごとく、いろいろなものがあるようです。基本的には、生物に働く原理・法則は無生物に働くそれと本質的には同じものだとする機械論と、生物には全く独自の原理・法則も働いているという生気論とがあって、さらにそこにいろいろな論説が加味されて、今日にいたっているように聞いております。
 私は、それらの諸説の詳細は存じませんが、伝え聞く範囲では、それぞれに深い研究なり洞察から生まれたもので、まことに興味ある内容をもっているように思われ、軽々にいずれを是とも非ともできないような感じがいたします。
 それでは私自身はどのように考えているかと申しますと、確たるものは持ち合わせていないのですが、ずっと以前に次のように考えたことがあります。
 すなわち、この宇宙には、いわゆる自然の理法というものが働いており、その自然の理法が万物いっさいを動かし、万物をして万物たらしめているのだと思います。それでは、その自然の理法は、どのように万物に働きかけているかといいますと、物的法則と心的法則という姿になっているわけです。物的法則というのは、たとえばニュートンがリンゴの落ちるのを見て万有引力を発見したというような、ふつう自然科学の法則とか原理といわれているようなものです。人間の肉体でも、これを物質とみれば、やはりこの物的法則によって左右されているのであって、この法則を解明していくのが、医学とか生理学だと考えられます。
 心的法則というのは、わかりやすい例をあげれば、人間の心に働いている法則です。そういうものが、はたしてあるのかないのかは、なかなかむずかしい問題ですが、私はあるのではないかと思います。ただ、これまで物的法則のようにはっきりと意識される面が少なかったため、その解明が遅れていたのではないかと思うのです。したがって、今後は、物的法則とともに、この心的法則の探究解明がまことに重要ではないかと思います。
 自然の理法は、このように物的法則、心的法則として万物に働きかけていると思うのですが、そこにもう一つ、この二つの基盤をなすものが考えられはしないかと思います。それは生命力というものです。すなわち、ものみなすべて、万物いっさいを生かそうとする力です。
 植物でも動物でも、生きよう生きよう、伸びよう伸びようとしているように感じられますが、それは自然の理法によって生命力というものが与えられているからではないでしょうか。
 とともに、生命力には、たんに生きる力だけでなく、いかに生きるかという力、いわば使命の力が含まれています。つまり、動物にせよ、植物にせよ、その他いっさいのものは、それぞれにすべて異なっており、それぞれにあった生き方、あるいは活用の仕方があるわけです。そうした使命の力というものが、生きる力とともに、生命力として働いていると思うのです。
 そして、この生命力というものが根幹ともなり基盤ともなって、物的法則、心的法則といわば三つの線をなして、自然の理法が万物に働き、万物を生かし、動かしていると思います。もっとも、三本の線と申しましても、もともとは同じ自然の理法であって、別個に働いているのではなく、いわゆる三位一体といいますか、同じものと考えられるわけです。したがって、それは、本質的には、生物、無生物を問わず、いっさいのものに同じように働いているといえましょう。
 以上のようなことを、私は終戦後まもないころ、「PHP」の研究において考え、当時の『PHP』誌上にも発表いたしました。そして、多くの方のご批判を仰ぎつつ、さらに考えていきたいと思っておったのですが、実は、それ以後この問題についての研究は怠ったまま今日にいたってしまいました。したがって、その考えの当否については私自身必ずしも確たるものをもっておらず、そうしたものをお返事として申し上げることもいかがかと存じたのですが、せっかくの機会でもありますので、お教えをいただく意味であえてのべさせていただきました。ご批判、ご高見をいただければ幸いに存じます。
8  人間の欲望
 松下 人間の欲望は悪の根源であるとか、なにか汚らわしいもののようにいうむきもありますが、しかし欲望それ自体は、一つの生命力の発現であって、善でもなければ悪でもない、それ以前のものであるとも考えられると思います。ただその欲望をどのように満たすかによって、善にもなれば悪にもなると思うのですが、人間の欲望というものを基本的にそのように考えることの是非について、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 欲望については、仏教がいろんな角度から深く掘り下げて考察しており、私も仏教を学ぶ一人としてつね日ごろから思索しておりますが、結論的にいって、おっしゃるとおりで正しいと思います。
 欲望は、人間の負っている苦悩の原因であり、悪の根源ともなりますが、また逆に、人間の喜び、人生の楽しみ、そしてあらゆる善の根源もまた、欲望にあるといって過言ではありません。欲望は、自己の生命を物質的・精神的にささえ、維持し、さらに拡大するために生命が本然的にもっている力・エネルギーといえます。
 存在は、それ自体においては善でもなければ悪でもないのであって、ただ他の存在に対してどのような作用をするかによって善悪が生じます。したがって、欲望というエネルギーも、それ自体は善でもなければ悪でもない。しかも善にも悪にもなりうるわけです。
 欲望は、自己を維持し拡大するために生命がもっているエネルギーですが、この自己の維持のために他の存在を犠牲にするというのは悪になります。他を犠牲にしないこと、共存共栄を図っていくことが望ましいわけですが、なおかつ犠牲にせざるをえない場合もあります。たとえば、人間は、動物にせよ植物にせよ、他の生命体を犠牲にしないで生存することは不可能です。ですから、欲望をどのように満たすかということだけが、善悪の決定項とは考えがたい。もう一歩進んで、そうした欲望によってささえ拡大した生命で、何を創造し、個別的あるいは総体的な生命存在の世界にどのように貢献していくかが、より深い善悪決定の要因となると考えるべきではないでしょうか。このようにいうと、人間の自己正当化のように聞こえるかもしれませんが、あらゆる存在が生死を繰り返しつつ、ささえあっている生命の世界にあっては、そこに真理を認めなければならないと考えます。
9  本能について
 松下 古来、人間の本能というものは、動物的なものとして人間を誤らしめる根本のようにみられ、ことごとに罪悪視されてきました。たしかにその一面はあったと思いますが、これを罪悪視してもなかなかこれから脱却できず、かえって苦しみを増している一面もあるようです。本能というものは欲望と表裏一体をなすものではありますが、また多少別のものでもあるとも考えられます。いったいこれを、どう考え、どう処していけばよいのでしょうか。
 池田 本能とは「人間や動物が生まれつきもっている性質や能力」のことで、このなかに欲望のある種のものもあります。つまり、欲望には本能的なものもありますし、そうでない後天的なものもあるわけです。本能的欲望は、生物としての生存を可能にする原動力であり、人間生命にとっても基本的な欲望の一つです。
 たしかに、本能的欲望は、他の生物にもみられ、他の種類の人間らしい欲望とは、その性質を異にしています。たとえば、私は、まず本能的欲望とは別に心情的欲望を分けることができると考えています。本能的欲望の発現する肉体の″座″が主に大脳辺縁系であるのに対して、心情的欲望の顕現には、大脳皮質が関与してきます。また、本能の引きおこす生命感が、快と不快の感情であるのに比べて、心情的欲望には、もっと人間らしい喜怒哀楽の心情がともなっています。
 さらに、この心情的欲望から高度化したところに精神的欲望を考えることができます。精神的欲望を顕現させる肉体の中核部分は、大脳皮質の前頭葉であり、そこに生起する感情は、知的な充実感とか、崇高さとか優美といった美的感情とか、また、人間的な愛情に包まれた生きがいなどが相当します。
 こうした各種の欲望のもつ質的差異に着目すれば、本能的欲望と他の欲望とは別のものと考えることができます。否、そう考えるべきだと思われます。しかし、すべての欲望は、その元をただせば、人間存在の基底にうずまく生命エネルギーの顕在化した力であるということができます。このように考えますと、本能的欲望のみを区別して罪悪視することはできなくなります。
 本能を動物的なものとして罪悪視する思考法の淵源は、人間は神の似姿としてつくられたものであるゆえに、人間と他の動物との間には越えることのできない断絶があるはずであると考えたキリスト教の教義にあるといえます。しかし、理性による本能の抑圧という方程式を築きあげた直接的原因は、近代西洋哲学に求めることができます。つまり、デカルト以来の二元論に端を発する理性至上の思考法にほかなりません。
 他種の動物と人間生命との決定的差異を、理性の有無に求めた近代西洋の思考は、その理性に対立するものとして本能的欲望を取り上げ、これを抑圧し、消滅しようと試みました。理性が人間に特有な心的内容であるのに対して、本能的欲望は他の生物と共有する要素であるからです。
 だが、正常な発現をさまたげ、生命の内部に閉じ込めたとしても、本能的欲望は、けっして消滅してしまうものではありません。かりに、本能の断滅が可能になったとすれば、そのとき、人の生もまた断ち切られざるをえないはずです。
 理性や良心によって抑圧された欲望のエネルギーは、生命の内部に激しくうずまき、理性や良心の力が弱まるような事態に直面したとき、そのすきまからせきを切ったように噴出するにいたるでしょう。また、そうでなくても、生命内面で、異常な高まりをみせる本能のエネルギーが、身体と心に病的な苦悩をもたらすことは、あえていうまでもないと思います。
 だからというので、本能をその発動のままに流出させれば、自己と他者の生命を破滅にまで追い込んでしまうでしょう。本能の動きのままの生命活動は、みずからの心身を傷つけ、さらには、他者を犠牲にする行動におよぶこともまれではありません。
 私は、本能的エネルギーも、人間らしい賢明にして力強い生命の″我″によって、抑圧ではなく、抑制しつつ昇華する努力が肝要であろうと思います。
 いいかえれば、本能にまつわる悪への傾向性を打ち破りながら、しかも、その充足を可能にするような、個人の自我を確立することが大切なのです。自我が、その自己中心性をぬぐいさり、慈悲という色彩をみせはじめれば、欲望もまた善への傾向性を強めていくことでしょう。
 慈悲に彩られた本能的欲望は、自己の生を守りうるに必要にして十分な充足をみずから覚知し、それ以上の貪欲へと転化することもないはずです。たとえば、基本的な本能の一つである食欲にしても、みずからの栄養状態にあわせての限度をわきまえ、ただ、快感をうるためだけの貪欲に走ることもないはずです。
 また、性欲も、たんなる肉欲におばれることなく、豊かな人間愛、夫婦愛の源泉としての働きをなすでしょう。夫婦の愛をかみしめた人は、愛情の本質を覚知し、家族愛、隣人愛へと力強い情愛の昇華を次々と成し遂げていくことでしよう。
 これは少しの例にすぎませんが、本能といえども、その賢明な昇華によって、自他の生命を保護し、発展さす原動力として働きうることを推察願いたいのです。
10  欲望の種類
 池田 現代科学文明は、人間生命の本来的な欲望を解放したといわれています。たしかに、多種多様な欲望が入り乱れ、エゴと結びついての狂乱のありさまは、目をおおいたくなるほどであります。
 だが、現代社会にとびかう欲望は、本能的な欲望とか、物質や権力に向かう欲望であり、人間的な愛、慈悲心、自然美を賛嘆する心などは影をひそめつつあるようです。
 そこで、私は、現代社会における欲望を論ずる前提として、人間生命に内在する欲望を次のように分類したいと思います。第一には本能的欲望、第二には人間関係、ならびに社会との関連から生じる欲望(これを心情的欲望と呼びたいと思います)、第三には知識、真理、美、愛などにかかわる欲望(これを精神的欲望)、そして第四に人間生命が生をうけた、この大宇宙生命にひたり、それと融合し、融和したいとする本源的な欲望(宗教的欲望と名づけています)をあげたいと思います。
 このような、四つの段階の欲望の分類についてどのようにお考えになりますか。ご意見をおうかがいしたいと存じます。
 松下 欲望というものを四つに分類するというご高見については、まことに結構なことだと思います。この分類によって、欲望というものをより明確に認識理解することができるように思われます。私もこれを大いに参考にさせていただきたいと思います。
 ただ人間の欲望については、私は次のように考えております。すなわち、欲望というものは本来、人間の生きる力、生命力であり、これがあるからこそ人間は生きていくことができるのだ、ということです。人間お互いの生活の向上、文化の進歩というものも、そのもとをたどれば、すべて人間の欲望にもとづいていると思います。つまり、欲望を満たそう、満たしたい、というところから、あらゆる創意が生まれ、労作がなされ、お互いの活動が展開し、逐次、人間生活が向上してきたと思うのです。この欲望の重要性を、われわれは正しく認識することが大切だと思います。
 ただ、そこで大事なことは、欲望をいかに満たすかということです。欲望のおもむくままにこれを満たしていくというのでは、イヌやネコと変わりません。やはり人間には人間にふさわしい欲望の満たし方があると思うのです。
 たとえば今ここに空腹をかかえた人がいるとします。この人には空腹を満たしたいという欲望があるわけです。そこで隣家に押し入り、食糧を強奪したらどうなるでしょう。空腹を満たしたいという欲望はたしかに満たされるでしょうが、しかし、それによって隣家は大きな迷惑をうけ、しかも自分も罪を犯してしまうわけです。一方、この人が職について働き、収入を得て、それで食糧を手に入れたらどうでしょうか。欲望は十分に満たされ、しかも、その働きによって他に喜びを与えることもできるわけです。同じ一つの欲望であっても、このように満たし方によっては、好ましくない結果とも好ましい結果ともなってあらわれます。
 どちらの満たし方が人間としてふさわしいかというと、もちろん後者です。これはいわば欲望を善用するということです。人間は欲望を善用することができるものであり、また善用していくことが大切だと思うのです。
 この欲望の善用を進めていくのは、個々人の知恵、社会の知恵で考えていかねばなりませんが、そのさい、欲望を四つに分類するというご質問のお考えは、善用のよき道じるべとなると思うのです。
11  人間生命に内在する欲望
 池田 人間の生命には、種々の欲望や衝動がうずまいています。こうした多様な衝動、欲望のなかで、人間において最も基本的、根源的なものとしてニーチェは「権力への意志」をあげ、アドラーは「カヘの意欲」をあげています。
 また、フロイトの考えは、初期には「自己保存本能と種族保存本能」をあげ、やがて「リビドー」(性的衝動を起こさせる力)へと変化しています。さらに、後期には「生の本能と死の本能」を中心的な衝動としてかかげています。フロイトの流れをくむ精神分析学者の一人、マルクーゼの力説するのは「生の衝動と死の衝動」でしょう。
 ところで、人間生命内在の衝動、欲望のなかで、最も最深部にあり、根源的な衝動はどのようなものと考えられますか。
 松下 ご質問にある諸説につきましては、私はその内容をよく知りませんが、世界的なすぐれた哲学者や心理学者の人びとが、それぞれに深く研究して発表されたことであり、おおむね妥当なものではないかと思います。
 そこで私なりに、人間を動かしている最も基本的な力は何かと考えてみますと、それはやはり、生きようとする力と申しますか、生命力とでもいうものではないかと思うのです。人間をつくったものが何であるかはわかりませんが、かりにそれをこの宇宙に働く自然の理法というものだとしますと、その自然の理法によって、人間には生きよう生きようとする力、生命力が与えられていると考えられます。もちろん、これは人間だけにかぎったことではなく、あらゆる生物にも与えられているといえましょう。どんな植物でも、とにかく伸びよう伸びようとして、幹を伸ばし、葉を茂らせ、根を張っています。動物でも、本能的に住みよい場所を求め、自然のなかから食物を探し、摂取することができます。それはやはり、自然の理法によって、生きようとする生命力が与えられているから、本能的にそういうことを行なうのだと思います。
 ただ、この生命力の与えられかたは、それぞれの動物、植物によって違うと思うのです。ですから、人間には人間として生きようとする人間の生命力が与えられているわけです。
 そうした人間としての生命力というものが根本となって、そこからもろもろの人間としての欲望が発生してくると考えられます。欲望については、先に、これを四つの段階に分けて考えてはどうかというご質問をいただき、私もそれにご賛同申し上げたのですが、そのようなさまざまの欲望は、すべてみな、この生命力の具体的な発現の姿だと申せましょう。
 ですから、欲望を否定することは、その根底となる生命力、すなわち人間としての生きる力を否定することであり、それは結局、人間の存在それ自体をも否定することになってしまいます。やはり、欲望というものは、これをあるがままに認めつつ、その善用を図っていくことが大切なのであって、それがすなわち生命力のよき発露になると思うのです。
12  知・情・意の調和
 松下 人間には、知・情・意の働きがあるといわれていますが、とかく知に走りすぎたり、情におばれたり、また意のみを強くしたりしがちです。どうすれば、この知・情・意をそれぞれに高めつつ、円満な調和を図ることができるでしょうか。
 池田 知・情・意とは人間の心の三つの働きを指しています。この場合、知とは知性、理性の働きを指し、情とは感情、情念などの働きを意味し、意は意志、意欲の意味であると定義して論を展開していくことにします。
 さて、人間生命には、誰びとであっても、知・情・意のいずれの要素をも持ち合わせているわけですから、完全に知だけで、情と意はゼロという人はいませんし、その逆もまたありえないでしょう。人により、その″重心″の位置が異なっているわけで、人それぞれ、その重心の位置が異なるということが、いわば一種の個性ということにもなり、その人の独自な生命活動をささえているともいえましょう。したがって、あるていどの知・情・意のアンバランスは、人間として当然の姿といえるかもしれません。
 しかし、知・情・意のアンバランスが、かえって、みずからの生命をゆがめ、破壊に導くこともありますし、自己と他者の不幸を招く場合も少なくありません。
 おっしゃるところの円満な調和とは、知・情・意の働きが、それが必要とされる場面に対応して適切に発現することであり、それによって、人間らしい生命を保ち、発展させる状態を意味している、と考えます。
 つまり、円満な調和とは、知・情・意のそれぞれが均等にそなわっているというものでは、けっしてありません。調和とは、ダイナミックな脈動のなかに見いだされるものでありましょう。円満とは、生命のすべての心的内容が、ダイナミックな脈動のなかにも、一個の生命体として統一し、統合されているとの意味であるはずです。そこで最も大切なことは、やはり、どのような環境、境遇にも耐えて、自己の生を開こうとする主体的な自我の確立であると思うのです。
 むろん、こうした主体性をはぐくみ、育てるためには、知・情・意のすべてを開花させようとする人間教育が要請されることは、あらためて強調するまでもないでしょう。人間教育をとおして、その間に、人間らしい生き方も、みずからの生命を燃やすべき目標も、しだいに体得することが可能になるからです。
 だが、それと同時に、私たちは、自己の生命を明らかに洞察し、強い意志と、豊かな心情と知性の光り輝く主体的な自我の確立に努めるべきであり、そのためには、表面的な自我の奥に広がる、さらに深い生命の″我″を発見し、そこに、人生の基盤をおく努力をしなくてはなりません。
 仏法では、環境の激変に左右されるような弱い自我とか、利己心にこりかたまったエゴイスティックな自我=小我などの内奥に、宇宙大にまで広がる主体的な生命の″我″=大我を見いだしています。この″大我″に、私たち自身の生存の基盤をおくとき、人間生命の内奥から創造へとおもむく主体的な力が発動し、その力こそが、知・情・意の三つの心的要素をコントロールし、統一しつつ、人間らしい人生を開拓しゆくのです。
 人の生命が破壊され、知・情・意の間にアンバランスが生じるのは、表面的な自我が、あるときは、情の衝動、欲望の突きあげに動かされ、またあるときは、意志がかえって、人間らしい心情の発露さえ抑圧してしまうからでしょう。知性の重みに、人間らしい心情を枯らしてしまったり、勇気とか意欲をそがれてしまう場合も起こりうるでしょう。
 知・情・意のそれぞれに動かされ、生命の大海をただよう小舟のように、揺れ動くのではない。″大我″に立脚した主体的生命が、これらの三つの要素を創造と発展の方向にコントロールし、また、統一しつつも、生命全体としては昇華しゆく姿こそが、真実の主体性の獲得であり、絶えざる生命の創造であり、まことの円満な調和をなしうる生命状態といえるのではないでしょうか。
13  残虐性と理性
 池田 大脳生理学の所見によれば、前頭葉の発達によって、人類は、人間としての種々の特質をもつにいたったとのべられています。
 つまり、人間らしい感情、思考、意志、意欲などの精神活動は、前頭葉にもとづいて発現してきます。だが、同時に、他の人びとや生物を殺害し、征服しようとする衝動もまたこの前頭葉を場として発現することが明らかにされています。
 人間生命のもつ、すぐれた理性と、こうした残虐性とが同じ前頭葉を媒介としてあらわれるということから、残虐性をしずめ、創造へと向かう意志、意欲、思考の働きを高めるには、どのようにすればよいとお考えになるでしょうか。
 松下 大脳の仕組みなり、働きの具体的なことについては私は存じませんが、ご質問のように、人間の非常に好ましい特質と、そうでない特質とが、体の同じ機関の働きとして生じてくるというのは、きわめて興味深いことだと思います。これが、かりに別個の機関の働きによって起こってくるものだとしますと、医学的にそういうことが可能かどうかは別として、極端にいえば、その好ましくない働きをするほうの機関を取り除くことによって、人間の精神活動を向上させることもできるわけです。
 けれども、そうはなっておらずに、同じ大脳の前頭葉というもののなかに、人間のすぐれた理性と好ましからぬ残虐性の両方を生む働きがある、ということは何を意味しているのでしょうか。私は、これは結局、人間というものは導き方しだいでは善にも悪にもどちらにも向かうものであり、だから善に向かわせるような教育、躾が大事だ、ということを教えているのではないかと思います。そこに徳育を中心とした教育の重要性というものがあるのではないでしょうか。
 一つの例ですが、日本人として日本に生まれた子供は、小さな時から日本語を話します。英国に生まれた英国の子供は同じように英語を話すでしょう。これはなぜかといえば、意識的、無意識的に周囲がそれを教え、覚えさせているからです。けっして先天的に自分の国の言葉を知っているわけではありません。
 もし日本人の子供を生まれた時から英国に連れていき、そこで育てたら、英語をしゃべるようになるでしょうし、英国の子供を日本に連れてきたら日本語をしゃべるようになると思います。結局、人間というものは、教育したとおりになっていくものです。だから、正しい徳育、人間教育というものがきわめて大切なのです。
 ですから、残虐性をしずめ、創造へと向かう意志、意欲、思考の働きを高めるようにするには、そのような教育をしていくことです。それ以外にはないと思います。反対に残虐性を奨励するような教育をしていけば、必ずそういう人間ばかりが育ち、人びとが争いに終始して、みずから不幸を招くという姿になってしまうでしょう。
 やはり、教育しだいだと思います。
14  男女のバランス
 松下 人間の男女の数のバランスがとれているというのは、天の摂理とでもいいますか、いずれにしろ人間の力を超えた働きによるものと考えられますが、いかがでしょうか。
 最近では科学の力によって、男女を産み分けるというようなことも研究されているようですが、もしそうなれば、人間の意思によって男女のバランスが崩れるようなことになりはしないか。その結果、社会の各面に弊害が生じて、異様な人間社会が現出するとも考えられますから、こうした研究はしないほうがいいのではないでしょうか、いかがでしょうか。
 また、かりに科学が男女の産み分けを可能にした場合、それを人間が実施してもよいものなのでしょうか。ご高見をいただければ幸いです。
 池田 人間の場合にかぎらず、種族保存のために、あらゆる生物は「人間の力を超えた働き」をもっています。原始的な生物における無性生殖も、生命のもつ不思議な働きといえますし、高度な生物における有性生殖は、なおさら不可思議といわざるをえません。
 それらは、生命自体がみずから生みだし、発展させてきた機能と仕組みであって、「人間の力を超え」ていることはもとより、「人間の思考」をさえ超えているようです。人間の思考力は、それらの仕組みの過程を説明することはできますが、なぜ生命体が、そうした活動を起こすのか、ということはわかりません。
 これを古来からの表現でいえば″天の摂理″ということになるのでしょうが、まさにそのとおりであると思います。ただ″天の摂理″という表現については、″天″という特別な世界や実在があるような印象を与えますので、私は、生命それ自体がもっている力であり、知恵であると考えます。
 男女の数のバランスという点についても、この生殖の仕組みや機能にあらわれている生命の不思議な知恵が反映されているのではないでしょうか。一般に、生まれる子供(もっとさかのぼっていえば、受胎の時点で)の数は、男子のほうが多いそうです。しかし、妊娠中、あるいは出産後は、男子のほうが死亡率が高く、成人時においては、だいたい男女の比率が平均化するようです。
 また、戦争によって男子がたくさん死んだあと、男子の出産率が増えたということも聞きます。これなども、男女のバランスを保とうとする、不思議な生命の働きといわざるをえません。
 したがって、ご指摘にもあるように、自然の姿のなかに、男女の数の比率はたくまずしてバランスがとれているというのが真実であろうと、私も思います。
 さて、分子生物学をはじめとする科学――生命科学――の進展は、近い将来に必ず、男女の産み分けを可能にするでしょう。
 たとえ、人間の性を選別する研究だけをストップしてみても、家畜における研究が進めば、人間の場合への適用はむずかしいことではなくなってしまうと考えられます。
 また、他の側面からの精子、卵子、ホルモンに関する研究成果が、おのずと男女の性の産み分けに通じることもありうるでしょう。
 原理的にいって、この方面の研究だけを抑制することはできないし、また、生命科学全体の進展を望む以上、将来における男女の性の選別は、科学の当然の成果としてもたらされるはずです。
 また、このような研究が、人類社会へ貢献する面も見落としてはならないと思います。
 たとえば、遺伝病に関することですが、現在判明しているところでも、血友病とか無虹彩症などは、男女の性の識肌が決定的に重要になると聞いています。血友病を例にとってみますと、この病気は女性がその因子をもっていたとしても、男性だけにあらわれるものです。
 したがって、血友病を遺伝する因子をもっている女性ならば、女の子を産まないようにすれば、その因子が子孫に伝わることは防げるわけです。
 つまり、男女の性の決定と識別に関する研究によって、こうした遺伝病を根絶する道も開けるというのです。その観点からすれば、私はあえて、この種の研究をとどめる必要はないと考えます。
 そこで問題になるのは、人為的に産み分ける人間の行為によって、人類社会が異様になるのではないかということですが、私は、たとえ、こうした研究が実用化の段階に入ったとしても、男女のバランスが大きく崩れることはありえないと推測します。
 国家権力や特定の圧迫がないかぎり、多くの人たちは、自然の配慮にまかせるのではないでしょうか。たしかに、同じ性の子供を何人もつづけて産んだあとでは、反対の性の子供を欲する場合もありましよう。
 しかし、民族とか人類の単位となれば、人びとの種々の思惑が全体としては平均化されて、男女の調和が大きく乱されることはないとも考えられます。また、ある一定の期間、どちらかの性が増加したとしても、自然の調節力が働いて、反対の性の出生を促すでしょう。さらに、男女の性のバランスが少しばかり崩れはじめた社会においては、民衆の心は敏感に反応し、相対する性へと傾くでしょう。
 ともかく、生命自体のもつ調節力と庶民の鋭敏な対応力が、ともに助け合って、性の不均衡をつくりだすことはないと、私は考えます。それよりも、多くの人びとにとって、通常は、たとえ科学的方法が確立されても、自然のままの配慮に従うと考えるのが、最も真相をあらわしているのではないでしょうか。
15  超人類は出現するか
 池田 地球上における生物進化は、原始生命に始まって人類にまでおよんできました。
 人類の特徴は、他の動物に比して、いちじるしい大脳皮質の発達にあり、それとともに、高度の知性と人間としての情操があらわれました。現在、人類以上の知的能力を示す生物は、この地球上にはいませんが、今後、超人類とでもいうべき生物の出現はありうるでしょうか。それとも、人類こそが、生物進化の究極の姿でしょうか。
 松下 この地球上に人間以上の知的能力をもった生物が出現するかどうかというご質問ですが、私はいわゆる進化論の立場はとらないものです。ですから、問題はそのような生物が、今後、地球上に新たに発生するかどうかということになりますが、私はそういう生物は、たぶん発生しない、まずありえないと考えていいのではないかと思います。
 もっとも私は、人間はまだ進歩すると思います。そして、その人間が進歩していけば、一見、今の人間とは全く異質のようなすぐれた姿になろうかと思うのです。しかし、それは人間が異質のものに変化するのではなく、人間が本来もっている本質がより高度に発揮される、いいかえれば、人間が真に人間になるということです。
 すなわち、先に「人間の条件とは何か」のところで申し上げましたように、人間にはいわば万物の王者として、いっさいのものを活用することができるという非常にすぐれた本質が与えられていると考えられます。そして、そうしたすぐれた本質は、人間がそれを自覚認識し、衆知を集めて物事をなしていくならば、しだいしだいに発揮されてくると思います。けれども、まだ今日の人間はそういったことが十分にはできていないわけです。
 ですから、今後、人間がみずからの本質を正しく知って、その本質が発揮されやすいような社会の仕組みなり、教育の在り方といったことを衆知によって生みだしていくならば、人間は今より数段すぐれた姿に進歩していくと考えられます。
 しかし、そういうことはありえても、人間とは異質の高等生物がこの地球上に新たに発生することはまずないと考えていいのではないでしょうか。
16  大脳移植の是非
 池田 心臓移植は是か非か、についての論争は、いまだに明確な解答はだせないようであります。心臓移植には、腎臓とか角膜、血管などの移植に比べて、直接、人間の生死の問題がからんでくるからです。だが、もし、人工心臓の開発が進めば、提供者の死を考慮の外におくことは可能となりましょう。
 そこで、最終的な臓器移植として浮かびあがってくるものは、大脳の移植であります。将来、大脳移植が技術的に可能になった場合、この移植を認めてよいものでしょうか、どうでしょうか。
 また、他者の大脳を受け入れた人間生命における主体性の問題はどのように理解すべきでしょうか。
 松下 大脳移植が技術的に可能となった場合、ということですが、私はまずそういったことは可能にならないのではないかと思うのです。また、もしかりに大脳移植が可能になったとしても、それを実際に行なうことについては、どうも賛成する気になれません。
 大脳移植をなぜ行なうのかといえば、やはりそれは人間の生命の維持のためでしょうが、大脳を移し替えてまで生命を延ばそうとすることが、はたして人間に許されるのかどうか、いささか疑問に思います。死ぬべきは死ぬ、寿命を終えたら死ぬ、というのが人間のほんとうの姿であり、そこにまた新たな生命も生まれてくるわけです。すなわち、死ぬべきが死に、そして新たな生命が生まれる、という姿こそ、生成発展という自然の理法のあらわれでもあると思うのです。ただ、そうはいっても、大脳ではなく、たとえば心臓の移植を行なうことは、これは許されるのではないかと思います。心臓の移植については、ご指摘のごとく、提供者の死の認定といったむずかしい問題もあるようですが、そういう問題がすべて解決されたならば、移植を行なってもよいと思うのです。というのは、心臓といっても、これは腎臓や肝臓と同じく、人間の身体の一つの器官にすぎないと思うからです。
 ところが大脳の場合は、これは、たんなる一つの器官とはいえないように思います。心臓や腎臓の移植の場合は、それによって人格が変わるとはいえないでしょうが、しかし大脳を移植したなら、これは人格が変わってしまうと思うのです。たとえば、かりにA君の大脳をB君に移植した場合、それは元のB君ではありませんし、さりとてA君かというと、そうも断定できないでしょう。これでは困ります。したがって、人格を左右するような移植については、簡単に「いい」とはいえません。
 かりにこの場合、B君が消滅してA君という人格だけが存続するとしても、それなら好ましくない人間の大脳を入れ替えてしまえといった姿も起こりかねないでしょう。さらに極端にいえば、トラに人間の脳を移植したらどうなるか、ということです。人間の知恵をもった猛獣となって、人間はみな食い殺されてしまうかもしれません。反対にトラの脳を人間に移植しても、大変なことになるでしょう。私はこのような姿は起こらないほうがよいと思います。したがって、私は、人間の生成発展という点からも、また大脳移植によって好ましからざる姿が起こるかもしれないという点からも、かりに大脳移植が可能になっても、それを実施することには賛成したくないと思うのです。
17  人間尊重のために
 池田 「人間尊重」という言葉は現代社会の通念となっています。しかし、現実には、公害や交通事故など現代の日本の社会には、人間を圧殺する力が人間個々に迫ってきております。真の意味で、人間尊重を叫ぶには、この社会問題を解決するための、なんらかの変革運動を抜きにして語ることはできないように思いますが、いかがでしょうか。
 松下 人間がお互いに尊重しあわなくてはならないというのは、当然すぎるくらいきわめて当然なことだと思います。その当然なことが、あらためて叫ばれている、そのこと自体が、人間が尊重されていない、なによりの証拠だとも考えられます。だから、今日、人間尊重ということが盛んにいわれているのは、それだけお互い人間同士が虐待しあい、圧迫しあっているからでしょう。そういう事態を解決し、人間尊重を実現するために、なんらかの変革運動が必要であるというお考えはまさにそのとおりだと思います。
 ただここで考えなくてはならないのは、そういう運動はこれまでにもいろいろあったということです。人間尊重を叫び、そのためになんらかの運動を起こし、また現に行なっている人なり団体は多々あります。そして、一面そうした運動によって人間尊重がより進んだということもありましょうが、逆に変革運動そのものが、また人間尊重を破壊する恐れも多分にあるような気がします。現に、最近のいろいろの運動をみていると、なかにはその運動が人間尊重を傷つけるという姿を呈している場合も少なくありません。人間尊重を唱えながら、かえって人間を圧迫し、自由を叫びながら、かえって他人の自由を束縛しているといった姿がしばしばみられるわけです。
 そういうことをやっている人びとは、けっして悪意でやっているわけではないと思います。むしろ、人間は尊重されなくてはならない、人間尊重がなによりも大切だという善意で運動しているのでしょうが、その結果は事志と反しているということです。
 なぜ、そうなるかといえば、これは結局、心に怒りをいだいてそういう運動を行なうからだと思います。怒りにかられ、不信感や憎しみに満ちて、いたずらに他を非難したり、責めたりするところに原因があると思うのです。怒りというものも、ときには必要ですが、それに終始しては、善意の運動も思わざる結果を生むでしょう。
 だから私は、先生のいわれるような変革運動は大いに必要であり、やらなくてはならないとは思いますが、そうした運動の指導者の人びとは、ここにのべたようなことを十分認識することが大切だと思うのです。日先だけで人間尊重を唱えるのではなく、ほんとうの人間尊重とはどのようなものかといった、いわば人間尊重の基本理念というものをしっかり把握し、人間の尊厳ということにもとづいて、変革運動の在り方を考えていかなくてはならないと思います。
18  ″人間革命″運動の評価
 池田 私どもは、社会を変革する、また崩れざる平和建設のための、本源的方途として″人間革命″という理念を訴え、現実に、運動として展開しております。これは、たんなる意識の変革という次元より、もう一歩掘り下げたところの、生命そのものの一念の変革ということです。この″人間革命″という理念と運動を、どうごらんになりますか。
 松下 先生が指導される創価学会が推進しておられます″人間革命″の運動について、その具体的内容を十分には存じ上げないのですが、ご趣旨は、今日の社会をよりよいものに変革していくについては、たんなる制度や機構を変えるだけではなく、まず人間そのものの変革が大切だというもののように理解しております。
 そうした理念なり運動の推進には、私は基本的に賛同するものです。
 今日、たとえば自由資本主義か共産主義か、ということで盛んに論議がなされております。そのことは、一面、意義あることとは思いますが、これはあくまで社会の体制の問題であって、人間自体の変革といいますか、人間観の問題ではないと思います。けれども、そういうことでは、必ずしも好ましい結果は得られないのではないかと私は考えております。従来の人間観をそのままとらえて、政治なり、その他の社会の仕組みだけを考え、これを変えてみても、それで人間社会の争いが少なくなったり、人間の真の幸せが増すものでもないことは、なによりも過去の歴史が雄弁に物語っていると思います。
 やはり、人間そのものの変革と申しますか、人間の本質の再認識ということがなされなければならないと思います。そして、その人間の本質にもとづいて、社会の仕組みなり、政治の在り方、共同生活の在り方というものが新たに考えられ、生みだされなくてはならないと思うのです。そういう人間の本質の真の把握なくして、これまでと同じ人間観にたって、いかに制度を変え、政治の在り方を変革してみても、多少の成果はあっても、基本的にはこれまでと同じように、依然として争いしげくして人間が人間みずからの不幸をもたらすという社会の姿が繰り返されるのではないでしょうか。
 最初にものべましたように、私は″人間革命″の運動の理念なり内容について十分には存じませんので、具体的には論及いたしかねますが、いま申しましたように、そうした人間の本質というところまで掘り下げ、そのうえにたって真の平和を建設し、よりよい社会を生みだしていくというものであるとすれば、まことに結構なものだと考えますし、人間の真の幸せのため、大いにこれを推進していただくことが望ましいと思います。

1
2