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「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  後記                             「池田大作全集」刊行委員会
 本巻は先に刊行されたルネ・ユイグ対談(本全集第五巻)につぐ、対談編の第二冊目であり、本全集の第三巻(第十三回配本)となるものである。
 著者池田大作の欧米文化人との対談は、本稿執筆時点ですでに十一編を数え、今後も予定されており、さらに東洋人との対談も含めると四十編近くになり、その多彩な顔ぶれとともに、本全集の大きな特色となっている。その中で、特にその後の欧米文化人との対談の原点の観をなすのが本トインビー対談である。それほど本対談の持つ意味は大きいといわねばならない。ちなみにこれ以前に行われた欧米文化人との対談としては、クーデンホーフ・カレルギーとの『文明・西と東』一九七二年刊)があるだけである。
 そもそもこの二十世紀最大の歴史家と謳われるトインビー博士が、池田会長(当時)に出会うことになったのは次のような経緯による。
 一九六九年(昭和四十四年)九月、一通の書簡が、池田会長の許に届いた。発信人は本巻の対談者トインビー博士その人であった。
 「前回、訪日のおり(注目昭和四十二年。一九六七年)、創価学会並びにあなたの事について、多くの人々から聞きました。以来、あなたの思想や著作に強い関心を持つようになり、英訳の著作や講演集を拝見しました。これは提案ですが、私個人としてあなたをロンドンに御招待し、我々二人で現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します。時期的にはいつでも結構ですが、あえて選ばれるとするならば、五月のメイ・フラワータイムが最もよいと思います」(九月二十三日付)
 昭和四十二年当時といえば、創価学会は池田会長就任七年後で、未曾有の大躍進の最中であり、公明党の政界進出ともあいまって、各界から様々な声があがっていた時期である。当然、創価学会に対しては必ずしも良い評判ばかりではなかったはずである。そのような状況下にもかかわらず、トインビー博士が創価学会に、人類を覆う暗雲の中の光亡を見いだして強い関心を持つようになり、池田会長との対談を強く申し入れてきたという事実は、誠に驚くべきことと言わざるを得ない。
 それは、世界最高峰に位置する老碩学(一九六九年当時、博士は八十歳)でありながら、なおかつ人生の真実を求めてやまないその情熱と謙虚さ、また世界人類の明日を心から憂える、一世界市民としての責任感のなせる行動か――、いずれにしてもその姿の中に、博士の高い人格と人間的深さがにじみ出ているように思われてならない。
  
 二人の歴史的な対談が実現したのは、その書簡から三年後の一九七二年(昭和四十七年)五月五日、場所はロンドン、オークウッド・コートのトインビー博士の自宅であった。
 対談は五月九日まで四回にわたって続けられ、さらに翌一九七三年五月十五日から十九日まで、延ベ十日間、四十時間に及んだという。その後、往復書簡を交わしつつまとめられ、翻訳を経て日本で上梓されたのが対談終了から二年後の一九七五年(昭和五十年)三月であった。そして英語版はそれから更に一年後の一九七六年三月、イギリスのオックスフォード大学出版局から刊行されている。ただし、トインビー博士はその半年前の一九七五年十月に、英語版の刊行を待たずにその生涯を閉じている。対談が終了してわずか二年半後のことである。享年八十六歳であった。その最晩年に東洋の若き仏法指導者に巡り会い(第一回対談時に池田会長は四十四歳)、有意義な語らいを持ち、それを後世に残すことができたことに、博士は満ち足りた思いを抱いていたにちがいない。
 そのことは博士自身が本書の序文で「アーノルド・トインビーがすでに旅行を困難と感ずる年齢に達していたとき、池田大作はすすんで訪英の労をとり、わざわざ日本から会いに来てくれた。(中略)ア―ノルド・トインビーは、これらの諸事(注。出版までの労)をその若い双肩に担ってくれた池田大作に対し、心から感謝している」(一九七四年七月 ヨークにて)と述べていることや、さらに対談終了直後に、「お忙しいでしょうが、これらの友人たちに会っていただければ幸いです」と、世界的に著名な識見ある人物をトインビー博士が池田会長に紹介したという事実が、何よりも雄弁に物語っていよう。ちなみに池田会長がそれを承けて、その中の一人、ローマ・クラブ会長ペッチェイ氏との対談を実現させたのは、それから二年後、一九七五年五月のことである。
  
 さて本対談の内容は、目次に「第一部 人生と社会」「第二部 政治と世界」「第三部 哲学と宗教」等とあるようにきわめて多岐にわたっており、人間に関するすべての問題を網羅しているといっても過言ではあるまい。それらの諸問題をめぐって、古今東西の該博な教養と知識を傾けて論を展開するトインビー博士に対して、仏法の深い思索から生まれた英知とその実践から得た強い確信で迫る池田会長のやりとりは、息詰まるような迫力に満ちている。
 そして両者は、相違点を探すのに骨の折れるほど、多くの点で見解が一致している。これは特筆すべきことである。
 当然のことながら、トインビー博士は西欧キリスト教やその文明の影響を強く受けており、仏教にも古くから関心はあったようだが、その知識は主として南伝仏教と呼ばれる小乗仏教に限られていたようである。
 一方の池田会長は、北伝仏教をさらに深化した日蓮大聖人の教えを信奉し実践する日本の仏法者である。年齢も三十九歳も違う。西欧の世界的老大学者対日本の一宗教団体の四十代のリーダーである。その両者が何故心から満足して会談を終了することができたのであろうか。
 トインビー博士は一応、古代史が専門であるが、それにとどまらず、古代から現代に至る文明の盛衰を通じて、独特の史観を確立したことで知られる。つまり巨視眼の持ち主である。さらに優れた学究として、物事の本質を見極める思索の結果、宇宙や人生の″実像″について肉薄したイメージを心の中に描いていたのであろうと思われる。その結果、仏法の見方に極めて近い見解を持つに至っていたのではなかろうか。それに加えて責任ある世界市民としての良心から、人類の未来に対する深い憂いを抱いていたであろうことは推測に難くない。
  
 対談が行われた昭和四十七〜八年という年は、創価学会にとっては大きな転換の節であった。それまでの一つの大きな目標であった正本堂が完成し、いよいよ本格的な世界広布への幕が開いたのである。
 当時すでに世界各国にメンバーが誕生しており、徐々にその数も増大しつつあった。
 そこで仏法理解のための理論的バックボーンとなる書が必要になっていたのである。そのことを誰よりも早くから知悉していたのが、池田会長であった。そしてそれを実現したのが本トインビー対談であった。
 事実、この対談が刊行されると、世界広宣流布は力強いエンジンを得た大船のごとく、いやまして着実に前進を始めたのである。現在この対談は、英語、日本語を初めとして、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、中国語、マレー語、インドネシア語、タイ語、韓国語、ポルトガル語、トルコ語それにスワヒリ語等の十四カ国語で出版されている。事実、この書によって創価学会と池田SGI会長を正しく理解し認識するようになった人々は、各国の指導階層から市井の一市民に至るまで、それこそ数えきれないだろう。
  
 対談の最終日、池田会長がトインビー博士に対し「私個人に対し何か忠告を……」と求めたところ博士は次のように答えたという。
 「私が、あなたに個人的なアドバイスをすることは僣越だと思います。私は″学問の人間″であり、あなたは大変に重要な組織の″責任ある長″でいらっしゃる。私のいえることといえば、あなたと私とは、人類は自らの生き方をどうすべきかという点で、意見の一致をみた、ということだけです。あなたご自身が、今まで実践してこられた″中道″の生き方にこそ、人々が歩んでいくべき道があると思います」
 池田名誉会長は、トインビー博士を初め世界の要人や無数の市民からのこのような期待を承けて、人類の真実の幸福と世界恒久平和のために、二十年後の今日も、この地球上を力強く行動しているのである。
 一九九一年十月二日

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