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日蓮大聖人・池田大作

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3 人間の運命について  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人間は、生まれながらにして貧富の差、賢愚の別、才能の有無など、境遇や能力に個人差があります。もちろん、個人の能力は、後天的に形成される面もありますが、その後天的な形成に大きい影響を与える環境的条件は人によって異なり、しかも、それらの外的条件は、生まれてくる当人にとっては選択の余地のないものです。こうした外的条件は、人間の意志を超えた超越的なものという意味で、運命といえると思います。また、その後の人生において遭遇する種々の困難や、人生の軌跡といったものを考えてみても、運命というものは、認めざるをえないと思えるのです。
 そこで、そのような運命はいかにして形成されるのか、ということが問題です。仏教では、過去・現在・未来にわたる生命の流転を説き、その連続のなかで、その人の過去の行為が現在の運命を形成していると教えています。これに対して、キリスト教では、運命は全知全能の神の意志の表れであるとしています。この相違は、非常に興味深いものです。
 トインビー 人間の運命を説明する場合、一回限りの人生という枠を超えて、その先を考えなければならないとする点では、仏教もキリスト教も一致しています。
 仏教では、個人の運命は本人の行為、つまリカルマ(宿業)によって決まると説きます。このカルマという仏教の概念に関して私が誤りなく認識しているとすれば、それは、われわれの行為が生み出す、倫理上の一種の銀行口座のようなものだといえるでしょう。この口座の差引残高は――ある時点では黒字であったり、赤字であったりしながら――貸し方・借り方の欄に新たな記帳がなされるたびごとに、絶えず変化しています。運命の個人差に関するこのような説明は、その前提として、人間存在はすでに人間がこの世に生まれる以前から形成されており、死後もまた消滅することがない、という仮説を必要とします。仏教の信仰によれば、この″カルマのバランス・シート″は死後も有効で、いつでも記帳できる状態になっており、人間はそれをもって再び生まれてくる、こうして死と再生は何度でも繰り返される――ということです。
 これに対して、キリスト教では、個人の運命を決定するものは、宇宙を創造し、宇宙を自ら定めた目標へと導く全能の神であると説きます。この説明は、その前提として全能の神の存在という仮説を必要とします。
 キリスト教の信仰によると、人間に人格を与え、人間の生まれる時と場所を決定し、さらにそこでの社会的地位を決定するものは、すべて神です。仏教徒と違って、キリスト教徒は、人間はこの世にたった一回しか生まれてこないと考えています。つまり、母親の胎内に宿ったときをもって、人間の精神的・肉体的存在の始まりとしているわけです。しかし、人間の存在が死によって消滅するものではないとする点では、キリスト教徒も仏教徒も同じです。キリスト教徒は、人間が死後再びこの世に現れることはないとしながらも、人間の存在は不滅のものであると信じています。また、この世での生が終わった後、終局的に行きつくところは――おそらく煉獄を経て――天国か、または地獄であると考えています。
 キリスト教徒のうちでも、唯一全能の神の存在を信じ、それを合理的に結論づける人々は、人間が最終的に天国に行くか地獄に行くかは、あらかじめ神によって定められていると信じています。しかし、その他のキリスト教徒は、人間の死後の運命は――少なくとも幾分かは――その人のカルマによって決定されると考えています。ただし、カルマといっても、キリスト教的な見解では、それは人間がこの世に一回だけの生を享けた時に開かれ、死とともに閉じられる、今世だけの銀行口座のようなものとされます。キリスト教神学史においては、人間の運命を決定するうえで果たす神の役割と人間自身の役割をめぐる論争が、全面的な合意のもとに解決をみたことは一度もありません。
 こうして、こ三二百年ほどの間に、ますます多くの西洋人が、キリスト教の教義を信じなくなってきています。そうした数多くの脱キリスト教的な西洋人は、もはや全能の神の存在も、人間が死後も存在し続けるということも、信じていません。ただ、人間がこの世に生まれるのは一回だけだとする点で、彼らはキリスト教徒と見解が一致しています。彼らは、人間の一生の運命は、あるいは祖先から受け継ぐ遺伝子の組み合わせによって、あるいはその人の環境によって、あるいはまた一生の間に積み重ねるカルマによって決定されるのだ――と主張しています。
 しかし、このような脱キリスト教的な西洋人の考え方も、実際には、キリスト教信仰が別の言葉で表現されたものにすぎないように思われます。つまり、現実において個人が遺伝子を偶然に受け継ぐことは、キリスト教のいわゆる″運命予定″という神の恣意的な行為に相通じます。遺伝子の受け継ぎということも、遺伝子の組み合わせが事実上無限に可能であることを考えれば、やはり恣意的なものです。また、環境は、特定の時と場所ないし社会的立場に個人をおく神の行為に等しい役割を担っています。
 こうした脱キリスト教的な西洋人の考えは、″カルマのバランス・シート″が人間の死後の運命に影響を与えないとする点では、キリスト教徒や仏教徒と立場を異にしますが、しかし、人間の運命がある程度カルマによって決まると考える点では、キリスト教徒のなかの、運命予定説をとらない人々の立場と同じであるわけです。つまり、これら脱キリスト教の人々の考えでは、死とは完全な消滅であるがゆえに、死後の運命もありえない、というのです。
 池田 人間存在がなるほど現世の生だけのものだとすれば、死後の運命などということは問題ではなくなってしまいます。しかし、こうした死後についてのとらえ方の相違は、この世でのわれわれ人間の生き方を大きく左右することが考えられます。
 そこで、生まれながらにして個々の人間の運命が異なるのはなぜかという点について、博士のお考えをお聞きしたいと思います。とくに、博士は″宇宙の背後にある究極の精神的実在″を主張しておられますが、それが人間の運命を左右する意志的な存在なのかどうかという点について、ぜひ伺いたいと思います。
 トインビー 人間の運命が異なるのはなぜかについては、私も、他の脱キリスト教的な西洋人と同じく、遺伝や環境の相違がこれを部分的に説明するものと考えています。しかし、それと同時に、彼らのうちでも運命予定説に近い考えをもつ人々の幾人かよりは、私はカルマの役割を重視しています。私はまた、彼らのうちでわれわれが経験的に知っている人間本性の精神面を超えたところに、何らかの″究極の精神的実在″が存在することを信じない人々とも、意見を異にしています。
 私は、私自身の人生で直接にカルマの働きを体験してきましたし、私が直接間接に知っている人々の生涯にもカルマを見てきました。また、人間社会や制度の数々の歴史のなかにもカルマが働いていたことを、見ることができるのです。社会や制度は、死を免れない存在である人間群が、互いに関係して繊りなす網状組織であり、これら人間群は一つの網状組織を一個人の一回限りの人生よりもずっと長期的に存在しうるものとするため――事実、しばしばそうなっていますが――順次交代しながら、前任者から後任者へと引き継いでいます。
 したがって、社会や制度の歴史にカルマが作用していることを証明するには、個々の人間存在の場合のような、生死の繰り返しのなかで一貫した同一性を保っているといった仮説は、必要ないわけです。社会や制度の存続を支えているのは、あくまで人間関係の網状組織であり、そこに一時的なかかわりをもつ個々の人間存在ではないのです。
 ここで、私のいう社会や制度の歴史に作用するカルマの実例を、イギリスの歴史から三つあげてみましよう。
 十四〜十五世紀に、イギリス国民は、フランス攻略を目的として百年戦争を起こしましたが、結局はこれに失敗しました。このため、イギリス国民は、ヨーロッパ大陸制覇の野望を永久に放棄することになり、大陸列強によるイギリス攻略を防ぐという唯一の目的を除いては、ヨーロッパ問題に関する一切の軍事的・政治的干渉を差し控えるようになりました。これによって、イギリスは、その″カルマのバランス・シート″の借り方勘定を、首尾よく帳消しにしたのです。
 また、十七世紀のイギリス国民は、国内政治において暴力的でした。彼らは、内戦を起こし、国王を死刑に処し、絶対君主制を廃して軍事政権を打ち立てています。しかし、これに幻滅を感じた彼らは、その後、政治面では非暴力的になりました。つまり、国内政治の面でも、イギリス国民は″カルマのバランス・シート″の借り方を、貸し方に転ずることに成功したわけです。
 十八世紀および十九世紀初頭のイギリスでは、一雇用者たちが情け容赦なく産業労働者を搾取し、私利を貪っていました。二十世紀に入ると、イギリスの中産階級は、産業労働者に対するそれまでの経済的圧迫を悔い改め、自らすすんで、より公平な経済的処遇を認めようとしました。しかし、そのときすでに労働者たちは自衛手段として、労働組合を結成していたのです。これらの労働組合は、いまや強大化して攻勢に転ずるほどになっています。そして、権力を握った組合員たちは、自己の利益のために、かつて雇用者たちがやったのと同じ、情け容赦のない行為に出ています。この場合、イギリス国民は、もう一度″カルマのバランス・シート″の借り方を貸し方に転じようとしたわけですが、今度はそれに失敗してしまいました。結局、経済関係では、互いに慈愛の念をもつことができなかったのです。労使の関係においては、互いの立場が逆転したとはいうものの、行為の無慈悲さには少しも変わりがなかったわけです。
 池田 ただいま述べられた、社会や制度における宿業(カルマ)の作用というとらえ方には、私も全面的に賛同します。私には、個々の人間が集合して構成している社会も、一つの超生命体のように感じられます。社会は独自の運動法則をもち、成長し、増殖する働きをもっています。また、社会には自己再生能力のようなものも内包されているようです。これらの機能は、私には、生命体特有のものと思われるのです。
 したがって、社会、制度、国家というものが、生命体と同じように、宿業を自らの内に形成し、それによって影響され、さらに新たな宿業を形づくっていくという原理を設定することは、私には妥当であると感じられます。
 とすれば、国家、社会をリードしていくべき為政者は、このような大きな次元での宿業までも考え、そのバランス・シートを調整していくという、高度な、また大局的な感覚をもたなければならないでしょう。たとえ政治的な技術や経済面の能力が優れていても、宿業を次から次へと悪化させて、バランス・シートを狂わせていくようなやり方は、終極的には国民を不幸にしてしまうといわざるをえません。第二次世界大戦時における日本は、まさしくこの宿業のもつ重みを無視し、その暴走を許し、清算のために多大の犠牲を強いられた、明らかな例であるといえましょう。さらに、利潤優先の経済成長が日本にもたらしている公害の過酷な現状も、国土自体の宿業のバランス・シートを借り方にし、その結果、手ひどい反撃を受けているのだということができるでしょう。
 トインビー あなたは、カルマに関する私の考えを、さらに大きな次元で具体的に説明されたように思います。ところで、さきにあなたは、私のいう″究極の精神的実在″がどんなものかについて、おたずねになりました。
 私は、ユダヤ教徒やキリスト教徒や、イスラム教徒が信奉しているような、唯一無二・全能の、しかもその他の点では人間的な男性神というものの存在を信じておりません。また、ヒンズー教や、キリス卜教以前のギリシャやスカンジナビアなどの神々のような、人間の姿をした男女の神々も信じません。同様に、人間が、あるいは他の太陽系中の棲息可能な惑星上の人間に似た生物が、宇宙最高の精神的実在であるという説も、信じがたいものです。
 人間は、善悪の区別を意識する存在です。また人間は、その良心によって、常に善行をなすように命じられるものです。にもかかわらず、現実には人間は、ごく控えめにいっても、しばしば悪行をなしています。人間が、自らの行為を体験でき、しかも自らの悪行に良心の呵責を感ずるということは、人間が、常に人間性にまさる何ものかを信じていることを示しています。
 池田 つまり、人知を超えた何らかの実在に対する人間の謙虚さが、人間の倫理的行為を可能にしているということですね。また、その究極の実在への畏敬の念が宗教であると――。
 トインビー 人間性は、その本有的な自己中心性を克服できないかぎり、常に悪行をなすものです。しかし、ときとして、その克服を果たすこともあります。つまり、人間は自己を超える何ものかのために――他の人間とか、ある人間集団、または全人類とか全宇宙のために――自己を犠牲にすることもあるわけです。そのようなとき、人間は、自己の貪欲さを満たすために宇宙を利用しようとするのではなく、逆に宇宙に献身しようとしているわけです。人間に自己犠牲をなさしめる衝動は、愛です。愛も貪欲もともに欲望の一形態ですが、両者はまったく正反対の目的に向かうものです。貪欲性は、宇宙をその中の一小片に従属させようとし、愛は、その一小片を宇宙に従属させようとするものです。
 聖書の一節には「神は愛である」とあります。しかし、私は、人間のような人格をもつ神の存在というものは信じません。もし人間に似た神が存在するとすれば、その神は愛するとともに憎みもするでしようし、また、善行をするとともに悪事をも働くはずです。事実、ユダヤ系の神がおよそその通りであることは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典に述べられています。このように、愛が人格を有するとか、その愛が全能であるとかいうことは、私には信じられないのですが、ただ、愛が″究極の精神的実在″であることは確信しています。ただし、これも神の存在に対する信仰、また人間の再生への信仰と同じく、あくまでも検証不可能な仮説です。
 池田 しかし、もし″究極の精神的実在″が愛であるとするならば、愛とは本来人間の心の中にあるものですから、究極的実在とは宇宙に存在するものであると同時に、人間の内に存在しているものである、ということになるのではないでしょうか。
 トインビー 人間にみられる愛は、人間同士の一つの関係をなすものです。人間は、愛する反面、憎みもし、善をなす反面、悪事もなすものです。″究極の実在″が、ヤーウェの神やビシュヌの神のような人格的なものであるとは、まず考えられません。しかし、″究極の実在″が人間以下のものであるとか、あるいは超人間的なものであるとかいうことも、考えられないのです。次のように否定語を用いて表現すれば、私の考えに最も近い定義となりましょう。すなわち、人間は精神的に最高の実在ではない、しかし、人間でない精神的に最高の実在ないし、″究極の実在″は、また神でもなければ、神以外のものでもない――と。
 池田 非常に含蓄のある、またそれだけに難解な定義であると思います。私は、この博士の定義を、次のように敷衍できるのではないかと思います。
 すなわち、″精神的に最高の実在″が神でないという場合、その神が、ユダヤ系宗教でいう人格神を指していることは、これまで博士が何度も指摘された通りです。しかし、その実在が神以外のものでないという場合、この神とは人格神ではなく、あえていえば、宇宙生命に内在する″法″であるといえないでしょうか。この″法″とは、宇宙のさまざまな現象を起こし、かつそれらの現象の間に厳然と調和を保っている、あらゆる法則の根源となる実在であるといえます。
 この″法″を根底とした宇宙の運行は、それ自体、万物の調和を築き、かつ保とうとする″慈悲″ないしは″愛″であると思います。人間が自己中心性を発揮することは、この調和を乱すことです。逆に、宇宙生命に内在する″法″を志向することは、宇宙の調和に従うことになりましょう。このような″法″は、博士のいわれた″精神的に最高の実在″と同じ考え方のように、私には思えます。
 それはまた、博士がいわれたように、″人間以下″でも″超人間的なもの″でもありません。つまり、人間が″精神的に最高の実在″を求め、自己中心性を克服したときに、その実在は、その人間の内にも顕現されるということです。いいかえれば、宇宙生命に内在する″法″は、宇宙の一部である人間にも、可能性として内在しているわけです。
 また私は、人間の運命というものは、″究極の精神的実在″にその人間がどう関係するかによって決まるような気がします。つまり、その実在が意志的に人間の運命を決定するのではなく、むしろ人間の″究極の実在″に対する態度や行動が、人間自身の運命を決定づけていくということです。そういう人間の態度や行動が、人間の宿業(カルマ)を形成していくものと考えます。
 そういう意味からも、運命を各人の宿業の因果であるととらえた仏法こそ、人間の本源的な次元での責任性・主体性を確立するカギを秘めていると思うのです。人間自身のそのような責任性・主体性を確立することが、人間の宿業はもちろん、社会や制度の宿業をも転換していく第一歩ではないかと考えるのです。
 トインビー カルマ(宿業)を非人格的な言葉で表現したことは、仏教の偉大な知的・道徳的業績の一つであると思われます。粗野な宗教は、同じ真理を人格的な表現によって――″神の羨望″とか″最後の審判″とかで――示し出そうとしてきました。このような描写は、カルマの概念に人間的な恣意的行為の意味合いをもちこむことになり、その本質を誤り伝えることになってしまいます。

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