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日蓮大聖人・池田大作

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8 仏法的なものの見方  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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3  (3) 生命の動的把握――十如是論
 池田 ところで、あらゆる生命は、その独自の一貫した性質をもちながら、外界との関連のうえから、一瞬一瞬変化し、脈動しています。
 これまで私は、生命をその主観的な″生命感″の状態によって十種の範疇に立て分けた″十界論″を紹介してきましたが、仏法はさらに、ある一瞬、たとえば″天界″の生命が現れているとき、その生命が外界とどのように関連し、肉体にどのような変化、特質を現し、流転していくか――という動態についても、あらゆる角度から解明しています。
 それは″十如是″といわれる、生命の動態に関する一つの運動法則です。如是とは、真実をありのままにとらえた、というような意味です。この″十如是″については、法華経の「方便品」に示されていますが、その内容は、相・性・体・力・作・因・縁・果・報、そしてこれらが一体となって融和している、ということです。
 最初の″相″とは、生命の外面に現れた姿、形であり、″三諦論″の立場からいえば、″仮″にあたると考えられます。″性″とは、生命内在の性分であり、人間生命では、その性質、心、知恵、精神などを指し、″三諦論″の″空″にあたります。″体″とは、生命の統一的主体であり、″相″としての身、″性″としての心を統一する生命の主体で、″三諦論″の″中″にあたります。
 以上の″相″″性″″体″の三つは、生命の実体そのものを指していると思われます。つまり、生命の実体は、これら″相″″性″″体″の三つの観点からとらえられるというわけです。
 トインビー つまり、″十如是″の最初の三つは、さきほどの論題であった″空・仮・中″の″三諦″に該当するもので、生命力の実体を統一体として説明している、ということですね。
 池田 そうです。要するに、″相・性・体″の三つは、相互に関連し合いつつ、一つの統一体をなしているのです。さらに、そのような統一体の運動態を法則化したものが、残りの七つの″如是″なのです。
 まず、″力″とは、生命自体に内在する力です。この生命内奥の力が発動し、外界に働きかけるとき″作″という作用、具体的な働きかけが生じるのです。次に、″因・果″とは、物理・化学的な因果律ではなく、生命の奥底に内在する因果です。それは、空間的・時間的にとらえられるものでもありません。博士が説明された″カルマのバランス・シー卜″の底流に一貫して流れている因果なども、広い意味では、この仏法の因果に含まれるように思います。
 トインビー 私は、生命の法則とは、カルマ(宿業)のことであると思っています。行動は必ず結果を生み出しますが、その結果からは誰も逃れることはできません。しかし、その結果は、変えられないというものではありません。次に起こす行動によって、良くも悪くも変えることができるわけです。あらゆる生物は、″カルマのバランス・シート″に記帳を重ねています。もし私が大乗仏教の法華経学派の教説を正しく理解しているとすれば、輪廻転生は無限に繰り返されるため、″カルマのバランス・シート″が閉じられることは決してない、ということがいえましょう。
 ところで、この領域にあっては、因果の関係が、物理的な関係に適用される因果律とは違った意味でとらえられていることに、私は着目したいと思います。
 池田 その生命の因果について、別の角度から比喩的にいえば、生命内奥の因果が、生命活動のなかで、肉体や精神を通じて、現象の世界ににじみ出るとき、それを時・空の概念でとらえれば、物理学などでいう統計的な因果律――確率的因果律――が、一応当てはまるような姿をとるのではないかと思います。
 生命現象は、長期間観察していれば、不確定性をともなった統計的因果として把握できるものではありますが、この不確定性における自由度は、人間生命の場合、物質や他の生物に比べて、当然、比較にならないほど大きいに違いありません。それにもかかわらず、その生命は、一つの傾向性をもち、それがしだいに鮮明な形で、生命現象ににじみ出てくると思うのです。
 ともあれ、仏法でいう″因″とは生命内奥のものであり、そうした″因″を形成するために外界との間に行われる交流が″縁″です。生命内在の″因″は、同時に生命内在の″果″を含んでいると考えられています。この生命自体にそなわる″果″が生命活動の現実面に現れたのが″報″で、この″報″が現れるためにも″縁″が必要となります。われわれが、時・空に束縛された方法で、仏法の因果を少しでも垣間見ようとするならば、この″報″を詳細に観察するほかはないようです。
 ″十如是″の最後に″如是本末究竟等″といって、一つの生命の統合性、調和性を指し示すものがあります。″相・性・体″としての生命の実体、さらに″力・作・因・縁・果・報″という生命の発動的な流れ、それらが一体となり、融合し、統一体としての調和の営みをなす原理そのものを″本末究竟等″といっているわけです。
 トインビー ただいま展開された仏法による生命活動の分析は、私が知っている現代西欧のいかなる分析よりも、詳細かつ精密なものです。
 私が、あなたのおっしゃることを正しく受け止めているとすれば、仏法における″十如是″の概念は、″挑戦と応戦″という私自身の考え方に似ていないこともありません。私のいう″挑戦と応戦″とは、一定、一律の因果とは対照的に、互いに関係し合う当事者が無生物ではなく、生物であるような現実の領域において、それらがどのような性質の関係性をもつものかを示すものです。
 池田 もし、博士のいわれる″挑戦と応戦″が生命自体における現象であるとするならば、それは、仏法に説く生命の因果律と同じことの、異なった表現であると思います。挑戦があれば応戦がある。それは、そこに″生命の法″があるからだといえます。
 人間は、悪いことをすれば、国法の問題以前に、その報いがあるだろうということを予知します。それは、生命自体の法が存在することを、うすうす感゛ついているからではないでしょうか。その生命の法が何であるか――。これを、明確に知れば、人生をいかに生きるべきか、いかに活動すべきかも、明らかに判断できるのではないでしょうか。

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