Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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8 仏法的なものの見方  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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2  (2) 幸福観としての″十界論″
 池田 では、ここで論題を変えて、人間の幸福観というものについて考えてみたいと思います。仏法には″十界論″という生命観があります。この″十界論″とは、生命を、その幸福感の状態ないし姿勢について、十種の範疇に分けるものです。そして、人間はもとよりあらゆる生物において、一瞬一瞬、その条件に応じて、この″十界″の生命が現れるというのです。もちろん、これは、動物とか植物とか、知的能力をもっているとかいないとかいった分類とはまったく異なるもので、生命全体の″生命感″によって分けたものです。
 この″十界″の考え方は、たとえていえば、ダンテが『神曲』で描いた、地獄、煉獄、天国に相当します。ダンテの場合は″三界″しかありませんが、仏法では、さらに精密に十界に分けているのです。また、死後、そのように区別された世界に入るというのではなく、生命がその活動のなかで感ずる状態、あるいは境涯として続くのです。たとえば、生命が苦しみに打ちひしがれているときは、その世界全体が苦しみを与えるものとなります。逆に、楽しみや喜びに躍動しているときは、バラ色の世界として映るものです。
 十種の範疇とは、苦しみの大きいほうから並べると″地獄″″餓鬼″″畜生″″修羅″″人″″天″″声聞″″縁覚″″菩薩″″仏″です。″地獄″とは、生命の本源的な魔性の衝動に支配され、苦悩のどん底にある状態であり、″餓鬼″とは、欲望に支配された状態です。″畜生″とは、より強い者に対する恐怖におののいている状態、″修羅″とは、闘争心や競争心に引きずられ、また、他に勝って騎り高ぶる心です。このうち″地獄″″餓鬼″″畜生″の三つをとくに″三悪道″といい、これらに″修羅″を加えると″四悪趣″とも呼ばれます。いずれも不幸な状態だからです。
 次に″人″とは、普通の人間社会にみられる平静な状態であり、″天″とは、欲望などが満たされ、喜びにあふれている状態をいいます。しかし、この″天″の幸福は、物質的欲望や名誉心、快楽などが満たされることによるもので、刹那的な幸福にすぎません。
 ″地獄″から″天″までを″六道″といい、一般に生命活動という場合、この″六道″を出ることはありません。これを″六道輪廻″といっているわけです。
 トインビー そして、仏教で説く実践目標の一つは、その″六道″内での輪廻をやめることにあるのですね。
 池田 そうです。そのようなはかない生を乗り越えて、恒久的な幸福を追求しようとするのが、仏法における実践です。もとより″六道″といっても、本来、生命にそなわっているものであり、これを消滅させることはできませんし、その必要もありません。しかし、人間として高次元の目標をめざすことにより、'”六道″に支配されている人生を変革する努力のなかに、恒久的な幸福への道が開けていくのです。
 トインビー では、そうした実践は、現実世界における行動に基盤がおかれるわけですね。
 池田 その通りです。この″六道″に続くのは″声聞″ですが、漢字では「声を聞く」と書きます。それは、先哲の教えを学ぶことによって人生の真理を知ろうとする姿勢を示しています。つまり、不変の真理を学ぶことに喜びを感じている、その生命の状態を″声聞″と名づけたのです。
 次に″縁覚″とは、漢字では「縁によって覚る」と書きます。これは、宇宙の現象、自然の現象によって、自ら悟りを開くことで、そこに喜びを感じていく生命の状態です。しかし、″声聞″″縁覚″は、自分だけの喜びです。
 これらに対して、″菩薩″は利他――すなわち、他の人々を救うこと――に喜びを感ずるもので、キリスト教的な愛、仏教の説く慈悲が、その実践的な特質となっています。
 最後に、″仏″とは、菩薩の修行の結果として到達する境涯です。それは、宇宙と生命の究極の真理を究め――″声聞″や″縁覚″も真理を悟りますが、それは部分的な真理にすぎません――宇宙、全生命的存在と自己との一体感に達し、生命の永遠性を悟った、絶対的な幸福の境涯とされています。この″仏界″は、博士のいわれる「完全かつ永遠の満足」という幸福と、多くの点で共通するように思われます。
 トインビー 仏教では、きわめて精緻な心理分析をしていますね。その精緻さは、これまで西洋でなされてきた、いかなる心理分析にもまさるものです。私には、″声聞″と″縁覚″は、小乗仏教がめざしたものであるように思われます。これらの目標も、高邁で困難なものですが、″菩薩″は、それ以上の目標に向かうわけです。小乗仏教がめざしたものは、個人的自我が到達しうるものとしては、おそらく最高の境地でしょうが、一方、″菩薩″の場合には、その個人的自我がさらに心を開いて、宇宙的、普遍的自我へと精神の拡大をしています。
 大乗仏教の概念、理想に相当するものをキリスト教に求めるとき、私は、菩薩とキリストとの類似性を見いだすのです。すなわち、菩薩は、自らすすんで、涅槃に入るのを遅らせますが、キリスト教の三位一磁話における第二の位格、すなわちキリストも、自らの神性を一時的に捨てて、人類同胞の救済にあたります。ただし、菩薩の場合は、人間以外の有情をも救済するのですが――。また、キリスト教の説によれば、受肉後人間としてこの世に出現したキリストは、菩薩と同じく、自らを人生の苦悩にさらし、その苦しみを味わったとされています。彼がそうせずにおられなかった動機も、菩薩と同じく、憐憫の情だったといわれます。
 池田 たしかによく似ています。まったく共通するといってよいでしょう。
 トインビー ″菩薩″という存在段階は、定義によれば、キリスト教神学でいう神の受肉と同じく、一時的な段階であり、したがって、それ自体では、完全なものでも、永遠のものでもありませんね。私は、キリストに代表されるキリスト教の神が得たという、完全かつ永遠の満足とは、さきに一時的に行った、愛他的で憐れみ深い自己犠牲の結果によるものであろうと想像します。この自己犠牲の行為とは、自ら神性を捨て、人間の体験しうる最極の精神的・肉体的苦痛を、わが身に受けるというものでした。
 ″仏界″において到達しうる完全かつ永遠の満足というものも、これと同じく、過去の行為の結果得られるものなのでしょうか。また、菩薩が最終的に涅槃に入った後に得る″仏界″は、昇天後のキリストの状態と似たものなのでしょうか。
 池田 キリストが苦悩の姿を現じたことは、彼の生命のなかに″菩薩界″があらわれていたことを示すものだと考えます。キリストの場合も、菩薩の場合も、その発想の基盤はともに″利他″であるからです。
 小乗仏教の理想には、そうした″利他″の概念は乏しいのですが、もし小乗仏教に″利他″の概念があるとすれば、それは実践の過程にではなく、悟りを得た後に求められるものでしょう。しかし、その時は灰身滅智といって″空″しかないでしょう。
 涅槃に入った菩薩の″仏界″は、昇天後のキリストと似ているのか、とのご質問ですが、ここに、仏教が″法″を根本として示すのと、キリスト教が″人格″または″神格″を根本とするのとの違いがあります。″人格″ないし″神格″を根本とするかぎり、その実在は、現実の人生、社会、世界から離れたところに求めざるをえません。ゆえに、キリスト教では″天″にその実在の場を求めたのでしょう。それに対し、″法″は、この現実の人生、社会、世界の現象の底に、また、それらを包含するものとして、実在します。ゆえに、″仏界″は、現実社会から離れたどこかにあるのではなく、人間の個々の生命の中に、この宇宙生命の中に常住するのです。
 トインビー 小乗仏教徒にとっての″仏″がどんなものであるかについては、私も理解しているつもりです。もし私の理解が正しいとすれば、ギリシャ図像法を取り入れる以前の原始仏教は、涅槃の状態にある仏陀を、ギリシャのアポロ神像からヒントを得た神人同形的な姿によってではなく、″空″をもって表現しています。ここでいう″空″は、涅槃が消滅そのものであることを象徴しています。
 池田 小乗仏教は、自身の″小我″(個人的自我)を否定し、消滅することによって、″大我″(宇宙的・普遍的自我)の中に融け込むことをめざしたものです。それは、たしかに″小我″の範囲内においては、到達しうる最高のものでした。ところが、それは他を利するものではまったくなく、あらゆる人々を救おうとする仏の願望とは、本質的に反するものだったわけです。
 これに対して、″小我″を否定するのではなく、利他による自己拡大と″大我″の本質である″法″を一体化することによって、欲望や怒り、自己保存の本能を超克する道を教えたのが大乗仏教です。したがって、大乗仏教においては、″小我″を肯定しつつ、それを″大我″へと拡大するわけです。
 トインビー それでは、大乗仏教の″仏界″に関する教説はどういうものでしょうか。いまのご説明から推論すると、大乗仏教徒にとって″仏界″とは、″小我″の″大我″への拡大が完結することを意味します。ところが、この目標は、すでに″菩薩″の段階で到達されていたのではないでしょうか。また、″菩薩″に続く″仏″の段階は、さらに高度の満足なのでしょうか。
 池田 ″菩薩界″と″仏界″の違いについて申し上げれば、″菩薩界″は″仏界″に至る過程であるといえます。大乗仏教のなかでも法華経に説かれる仏の目標は、あらゆる人々を仏自身と同じ悟りに至らしめることであり、その道程として菩薩の実践を示したのです。ゆえに、中国の天台大師(智顗ちぎ)は、菩薩を五十二の段階に分析し、その第五十二位を仏の悟り(妙覚)としたのです。もし、菩薩が″小我″を″大我″に拡大しきった仏と同じであるとすれば、″小我″の拘束を受ける人間が″大我″を樹立していく過程がなくなってしまい、すべての人々にとって可能な道はなくなってしまいます。
 仏の悟り、″仏界″の境涯とは――博士の考えておられる″宇宙の背後にある究極の精神的実在″ということとも共通しますが――したがって″仏界″の生命とは、ある特定の部分的な性質によって定義づけられるものではなく、ヨコ(空間的)に一切を含んで「完全」、タテ(時間的)にすべてを含んで「永遠の満足」の状態、と表現する以外にないのです。いいかえると、仏の境涯とは、その生命の覚知による内面的状態であって、おもてにあらわれてくる具象の次元では、あるいは″菩薩界″であり、″天界″であり、″人界″等々といった九界となります。小乗仏教においては″小我″の消滅のみに終わりますが、大乗仏教においては″大我″の樹立によって、ひるがえって″小我″を生かすことになるわけです。
 結論を申し上げれば、″十界論″では、あらゆる生命が、本来、この十界をすべて内包していると説かれています。したがって、ここから、あらゆる生命は――すべての人間は当然のことですが――″仏″という尊極の生命を秘めており、尊いものであるという思想が出てきます。また、すべての人々が、仏法を実践することによって″仏界″の生命を湧現することができるという、人間変革の原理が含まれるわけです。この″十界論″のもつ生命変革の原理は、博士の″自己超克″ということにもつながると思われます。
3  (3) 生命の動的把握――十如是論
 池田 ところで、あらゆる生命は、その独自の一貫した性質をもちながら、外界との関連のうえから、一瞬一瞬変化し、脈動しています。
 これまで私は、生命をその主観的な″生命感″の状態によって十種の範疇に立て分けた″十界論″を紹介してきましたが、仏法はさらに、ある一瞬、たとえば″天界″の生命が現れているとき、その生命が外界とどのように関連し、肉体にどのような変化、特質を現し、流転していくか――という動態についても、あらゆる角度から解明しています。
 それは″十如是″といわれる、生命の動態に関する一つの運動法則です。如是とは、真実をありのままにとらえた、というような意味です。この″十如是″については、法華経の「方便品」に示されていますが、その内容は、相・性・体・力・作・因・縁・果・報、そしてこれらが一体となって融和している、ということです。
 最初の″相″とは、生命の外面に現れた姿、形であり、″三諦論″の立場からいえば、″仮″にあたると考えられます。″性″とは、生命内在の性分であり、人間生命では、その性質、心、知恵、精神などを指し、″三諦論″の″空″にあたります。″体″とは、生命の統一的主体であり、″相″としての身、″性″としての心を統一する生命の主体で、″三諦論″の″中″にあたります。
 以上の″相″″性″″体″の三つは、生命の実体そのものを指していると思われます。つまり、生命の実体は、これら″相″″性″″体″の三つの観点からとらえられるというわけです。
 トインビー つまり、″十如是″の最初の三つは、さきほどの論題であった″空・仮・中″の″三諦″に該当するもので、生命力の実体を統一体として説明している、ということですね。
 池田 そうです。要するに、″相・性・体″の三つは、相互に関連し合いつつ、一つの統一体をなしているのです。さらに、そのような統一体の運動態を法則化したものが、残りの七つの″如是″なのです。
 まず、″力″とは、生命自体に内在する力です。この生命内奥の力が発動し、外界に働きかけるとき″作″という作用、具体的な働きかけが生じるのです。次に、″因・果″とは、物理・化学的な因果律ではなく、生命の奥底に内在する因果です。それは、空間的・時間的にとらえられるものでもありません。博士が説明された″カルマのバランス・シー卜″の底流に一貫して流れている因果なども、広い意味では、この仏法の因果に含まれるように思います。
 トインビー 私は、生命の法則とは、カルマ(宿業)のことであると思っています。行動は必ず結果を生み出しますが、その結果からは誰も逃れることはできません。しかし、その結果は、変えられないというものではありません。次に起こす行動によって、良くも悪くも変えることができるわけです。あらゆる生物は、″カルマのバランス・シート″に記帳を重ねています。もし私が大乗仏教の法華経学派の教説を正しく理解しているとすれば、輪廻転生は無限に繰り返されるため、″カルマのバランス・シート″が閉じられることは決してない、ということがいえましょう。
 ところで、この領域にあっては、因果の関係が、物理的な関係に適用される因果律とは違った意味でとらえられていることに、私は着目したいと思います。
 池田 その生命の因果について、別の角度から比喩的にいえば、生命内奥の因果が、生命活動のなかで、肉体や精神を通じて、現象の世界ににじみ出るとき、それを時・空の概念でとらえれば、物理学などでいう統計的な因果律――確率的因果律――が、一応当てはまるような姿をとるのではないかと思います。
 生命現象は、長期間観察していれば、不確定性をともなった統計的因果として把握できるものではありますが、この不確定性における自由度は、人間生命の場合、物質や他の生物に比べて、当然、比較にならないほど大きいに違いありません。それにもかかわらず、その生命は、一つの傾向性をもち、それがしだいに鮮明な形で、生命現象ににじみ出てくると思うのです。
 ともあれ、仏法でいう″因″とは生命内奥のものであり、そうした″因″を形成するために外界との間に行われる交流が″縁″です。生命内在の″因″は、同時に生命内在の″果″を含んでいると考えられています。この生命自体にそなわる″果″が生命活動の現実面に現れたのが″報″で、この″報″が現れるためにも″縁″が必要となります。われわれが、時・空に束縛された方法で、仏法の因果を少しでも垣間見ようとするならば、この″報″を詳細に観察するほかはないようです。
 ″十如是″の最後に″如是本末究竟等″といって、一つの生命の統合性、調和性を指し示すものがあります。″相・性・体″としての生命の実体、さらに″力・作・因・縁・果・報″という生命の発動的な流れ、それらが一体となり、融合し、統一体としての調和の営みをなす原理そのものを″本末究竟等″といっているわけです。
 トインビー ただいま展開された仏法による生命活動の分析は、私が知っている現代西欧のいかなる分析よりも、詳細かつ精密なものです。
 私が、あなたのおっしゃることを正しく受け止めているとすれば、仏法における″十如是″の概念は、″挑戦と応戦″という私自身の考え方に似ていないこともありません。私のいう″挑戦と応戦″とは、一定、一律の因果とは対照的に、互いに関係し合う当事者が無生物ではなく、生物であるような現実の領域において、それらがどのような性質の関係性をもつものかを示すものです。
 池田 もし、博士のいわれる″挑戦と応戦″が生命自体における現象であるとするならば、それは、仏法に説く生命の因果律と同じことの、異なった表現であると思います。挑戦があれば応戦がある。それは、そこに″生命の法″があるからだといえます。
 人間は、悪いことをすれば、国法の問題以前に、その報いがあるだろうということを予知します。それは、生命自体の法が存在することを、うすうす感゛ついているからではないでしょうか。その生命の法が何であるか――。これを、明確に知れば、人生をいかに生きるべきか、いかに活動すべきかも、明らかに判断できるのではないでしょうか。

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