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日蓮大聖人・池田大作

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6 時間と空間  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 時間と空間といえば、万物を認識する尺度としてきわめて基本的な概念ですが、それだけにむずかしい問題です。たとえば、たんに時間・空間といっても、人間が主観的に意識しているそれと、物理学などでいう客観的なそれとでは違っている場合があります。
 まず、物理学的な時間・空間ですが、古典物理学では、時間と空間はそれぞれ独立した絶対的な存在と考えられていました。つまり、過去から未来に向かって一定の速度で流れる固定的な絶対時間と、宇宙空間の各点が等間隔に座標を決定されているとする絶対空間という概念を、一切の自然現象を解釈するときの基準にしていたわけです。
 ところが、アインシュタインによって相対性原理が発見された結果、時間と空間は相対的なものであり、互いに影響し合うことが明らかになりました。こうして生まれたのが、時間と空間を統一的に認識する時空観であるわけです。
 トインビー 私はまず、空間と時間は人間の思考にとって不可避の範疇であるとする、カントの理論を認めたいと思います。われわれは、時間と空間を基準にしなければ、何事も考えることができません。それゆえに、われわれの時間や空間という概念自体が″実在それ自体″にとって本質的なものかどうかを確かめる手段もありませんし、また、そうした仮説上の客観的実在が、じつは空間的でも時間的でもなく、したがって、われわれの意識に映る現象が誤り伝えるものなのかどうかを確かめる手段もないのです。
 また、アインシュタインの相対性理論に関する私の理解が正しいとすれば、空間は時間を基準にしてのみ考察、測定でき、逆に、時間は空間を基準にしてのみ考察、測定できます。つまり、空間も時間も、それが実在するにせよ、または、たんに人間思考の錯覚の範疇にすぎないにせよ、いずれにしても不可分の統一体だということになります。
 池田 哲学の分野でも、デカルト的な空間論と、ベルクソン的な時間論をどう統一していくかということが、現代の大きなテーマの一つになっていますね。
 ベルクソンは、時間を純粋持続として″流れる時間″を考えています。たしかに、流れた時間はすでに空間化し、現に持続している時間そのものは内に感ずるものであり、意識のなかに流れているものです。この観点からみますと、物理学でいう時間と空間はともに空間である、そして時間とは生命の内的発動への力感とでもいうべきところにその本質がある、ともいえます。そうしますと、時間とは主観的なものであり、空間とは客観的なものということになります。時間とは流れそのもので、空間とは広がりである。時間とは非延長的なものであり、それに対して空間とは延長的なものである――ということになると思います。
 トインビー 空間と時間とは、ともに意識におけるデータ(既知事項)です。しかも、それは、意識をもつ心身相関の生物がそれを経験するときの精神的・肉体的変化にともなって、見かけ上の大小長短が変わるという意味で、主観的なデータです。
 私にとって、空間の広さについての主観的な変化を示す尺度となっているのは、ロンドンのケンジントン公園です。この公園の広さが、見かけ上変化するのです。子供のころは、この公園が果てしなく大きいものに思えました。片側から入ると、もう一方の側には、とうてい出られないと感じられたものです。壮年期に入ると、ケンジントン公園の広さは小さくなったように思えました。ところが、今日この年になりますと、その広さは、子供のころに感じていたのと同じく、再び限りなく拡大したように思えるのです。
 一つの土地の主観的な広がりがこのように変化するのは、もちろん、私自身の体力と活力が変化したことによるものです。壮年時代には、ケンジントン公園の端から端まで、十分間で歩くことができました。ところが、子供のころもそうでしたが、年をとった現在では、再び、この公園の端から端まで歩き切るのは、カタツムリのようなのろのろ歩きでさえ、体力的にとても無理になってしまいました。高さも、距離と同じように、主観的に変化します。ギリシャのデロス島にキントス山という山がありますが、これはギリシャ本土の高嶺からみれば低い山です。私が初めてデロス島を訪れたのは二十二歳の時でした。その山の頂上まで、一日に何度も駆け登ったものですが、当時は肉体的な苦痛など少しも感じませんでした。
 七十六歳で再びデロス島へ行ったとき、もう一度キントス山の頂上に挑みました。無分別にも、五十四年前に登ったときの、あの小さな丘と変わりないだろうと期待していたわけです。ところが、登り始めてから改めて驚いてしまいました。たった半世紀の間に、キントス山は、私にとってはオリュンポス山と同じくらい高い山になっていたではありませんか。ともかくも、やっとの思いで再登頂できたわけですが、そこで認識を新たにしたことは、かつては何ら肉体的な苦痛を感じずに登れたがゆえに、主観的に低いものに見えたこの山にも、私は、もう三度と登ることができないだろうということでした。
 池田 たいへん興味深いお話です。客観的には同じ空間の広さ、高さも、主観的にはずいぶん変化するものだということですね。
 そうした、空間の大きさ、広がりは、その時その時の生命の状態によっても、さまざまに変化します。たしかに年齢によっても異なりますが、その時の生命がどういう状態にあるかによっても、ずいぶん違ってくるものです。悩み苦しんでいるときには、目的地までがはるかな距離に感じられるでしょうし、希望に燃え、意気はつらつとしているときには、目的地がすぐ前にあるように思えるというふうに――。このことは、時間の長短についてもいえますね。
 トインビー ええ、時間の長さにも主観的な変化があります。私の記憶では、人生の最初の七年間は、その後の人生全体、つまり――いま八十五歳ですから――七十八年間と同じくらい長いものに感じられます。しかも、現在では、年齢が一歳増すごとに、その一年間は、主観的に、過去のどの一年間よりも短くなってきています。いいかえますと、年をとるにつれて、時間の流れが速度を増しているように思えるのです。これは、主観的な時間の内容が、過去の出来事の記憶から成り立っているからです。
 子供は、七歳までに自分にとって大事なことを数多く学びます。これは、その後の人生で学ぶことのできるすべてのことよりも多いのです。それは寿命がどんなに長い場合でも変わりありません。そのうえ、年齢が一歳増すごとに、その一年間に経験したり記憶する出来事は、それ以前の年に経験し、記憶したすべての出来事に比べて、相対的に少なくなるものです。見かけ上の時間の流れの速さが、七歳を過ぎるころからかなり急速度になり始め、その後、年々徐々に速度を増していくのはこのためです。
 池田 生命が感ずる時間というのは、じつに興味深いものです。いまお話しいただいたような、年齢による違いということもありますが、生命の充実感の違いによっても、時間の長さはずいぶん異なってくるものです。
 人生が充実し、能動的な場合には、同じ一時間という物理的時間であっても、感じる長さは相対的に短く思われますし、逆に、生命活動が緩慢な、受動的な状態であれば、相対的に長く感ずるのではないでしょうか。ところが、あとで振り返ってみると、充実した時間は長く、空虚な時間はゼロに近いものになることが多いものです。
 トインビー われわれは、時間的流れの速度の変化に対するわれわれの意識が、主観的なものであることを知っています。なぜなら、われわれが時間を測定できるのは、空間次元でわれわれの意識がとらえる指標によるものだからです。たとえば、われわれは空間的な現象面を感知することによって、日々の昼夜の交代や、年々めぐりくる四季の変化を感じます。また、われわれは日数や年数によって時間の経過を意識するわけですが、そうした日数や年数の長さも、そこに空間的な測定法が応用されることによって、等間隔のものになるということを知っています。
 こうした、空間的な測定法、つまり年とか月とかの言葉で私の人生の前半期を表現すると、それは八十五年間のうちの四十二年半ではなく、わずか最初の七年間にすぎない、としかいえないのです。ところが、この″前半期″は、私の主観では全人生の″半分″と感じているものなのです。これから迎えようとする八十六年目も、八十五歳の一年間に比べると、わずかながら短く感じられるはずですし、四歳の時の一年間に比べたなら、ずつと短いものになりそうな気がします。ところが、私の主観的体験による空間的な長短という言葉で、時間的経過に対する私の主観的体験を表現した場合、今度は、その八十六年目の一年間も、四歳の時の一年間と同じ長さになります。
 われわれはまた、空間的な距離や高さの変化に対するわれわれの意識が、主観的なものであることも知っています。なぜなら、われわれが空間を測定できるのは、時間次元でわれわれの意識がとらえる指標によるものだからです。一人の人間が二つの場所に同時にいるのを意識するというのは、ありえないことです。移動の距離は、空間中のある一点から他の一点へと移るさいの持続感によって、時間を基準にして測定することができます。この持続感が年齢によって変化することは、さきに申し上げた通りです。大人にとっては短時間しかかからないように思える旅行でも、子供には長時間かかるように感じられることでしょう。しかし、年齢的な差はともあれ、この持続感が、われわれにとって唯一の、空間測定の非空間的な尺度なのです。
 池田 たしかに、私たちは物理的な時間と空間のなかに生命活動を営んでいるわけですが、意識としての時間と空間とは、生命のもつエネルギーの強さによって、同じ物理的時間、同じ物理的空間であっても、さまざまに異なってきます。しかも、いま博士が指摘されたように、空間は時間次元で意識がとらえるものによって測定されますし、時間もまた空間次元で意識がとらえる指標によって測定されるものです。結局、時間・空間といっても、生命、意識の外界に対する認識の基準であり、それは私たちの生命、意識のなかに、ともに融合しているものであるということができますね。
 トインビー 一方の次元の現象が、他方の次元の現象を基準に据えることによって測定できるということは、われわれの時間意識と空間意識が、ともに主観的なものであることを示しています。また、時間意識と空間意識がともに主観的であるということは、一方の次元の主観的経験をもとにして他方の次元の主観的経験を測定するというこの方法が――実用的な目的にはきわめて役立つものでありながら――じつは″実在それ自体″の解明とはならないことを示しています。
 ここで、私は、冒頭でふれたカントの命題に再び戻りたいと思います。すなわち、空間と時間は、人間の思考にとってあくまで不可避の範疇なのです。そして、空間や時間を基準にしてしか感知できない現象と″実在それ自体″――万一、人間の空間的、時間的な思考基準に無理やりはめ込んで知的に処理する必要がなくなった場合に、われわれに理解されるはずの″実在それ自体″――の間に何らかの関係があるとしても、われわれはそれがどんなものであるか知りませんし、また知ることもできないのです。

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