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日蓮大聖人・池田大作

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2 生命の永遠性  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 生命は死後も存続するものか、それとも現世だけのものか、もし存続するとすれば、それは永遠のものか、有限のものか、またいかなる状態で存続するのか――という問題があります。これは生命について語るとき、どうしても直面しなければならない、最大のテーマでしょう。
 トインビー 生命が永遠のものであるかどうかは、たしかに重大な問題です。と同時に、これには実証不可能な点がいくつか出てくるようです。
 池田 そこに、古来、幾多の哲人、聖人が苦悶してきたゆえんがあると思います。生命が永続するものであるか否かを考えるうえでカギとなるのは″死″の問題ですが、私は、死後の生命に関する考え方は、大別して二つあると思います。つまり、一つは、死によって肉体が無機物に還元するときに生命そのものも同時に消滅してしまうという、唯物論的な考え方、もう一つは、唯心的な生命の″不滅″説です。
 トインビー 人間の身体は死後無機物へと還元されるわけですが、そうした肉体的な死をもって生命の終わりとしない点、仏教、ヒンズー教、ゾロアスター教、それに三つのユダヤ系宗教は、いずれも見解が一致しています。また、死後再び生命が現れるとき、もう一度肉体の形をとるとする点でも一致しています。これらの諸宗教は、死後に再び現れる人間の形態は、死ぬ以前の人間と同じく、心身統一体であるとしています。
 池田 博士のあげられた、いわゆる″高等宗教″は、いずれも生命が死後も存続することを説いています。しかし、その内容については、それぞれ非常に大きな違いがありますね。
 トインビー その通りです。たとえば、キリスト教信仰によれば――これはパウロの使徒書簡中にも、福音書中のいわゆるイエス復活後の顕現にまつわる話にも説かれていることですが――死者の復活した肉体や″最後の審判″の瞬間にたまたま生きている人間の変容した肉体は、われわれがふだん肉眼で見慣れている人間の肉体とは異なるというのです。この新たな肉体は、パウロの言い方によれば″霊的肉体″であり、イエスが復活後に再臨したさいの肉体がこれに当たるということです。イエスは突然姿を現し、突然に消え去る、彼は、閉ざされて錠の下りた扉をも通り抜ける、そして地上から雲のかなたヘと昇天して見えなくなる――というのです。
 また、これは私と同年配のカトリック教徒たちの話ですが、最近、聖母マリアの″被昇天″説が教理化され、それによると、マリアの肉体は、昇天したとされるイエスの肉体と同じく霊的肉体であり、われわれ人間の経験に映る現象としての肉体とは異なるものとみなされているそうです。
 池田 キリスト教が、死者の復活した肉体を″霊的肉体″と名づけ、現実の人間の肉体と区別したことは、肉体を磯れたものと考える思想からきた教義だと思います。そのような教えは、他の宗教にもしばしば見受けられます。たとえば、南伝仏教、ないし小乗教においては、人間の欲望の巣ともいうべき肉体を滅しなければ、最高の境涯たる″涅槃″には入れない、と説かれています。
 トインビー 仏教徒やヒンズー教徒は、人間は何度か生まれ変わることができるし、またそれが通常のことだとしていますね。それどころか、そうした再生の回数は 無限でありうるし、たぶんこれまでにも無限に転生してきたのだと信じています。この信仰には、さらに、宇宙を永遠のものとみる信仰が含まれていると思われます。
 ところが、四つの西洋の宗教にあっては、いずれも宇宙には――少なくとも現在の形の宇宙には――初めがあったのだから、やがては終わりもくるはずだと信じられています。また、人間が死後生まれ変わるのも一回限りであると信じられています。ただし、これらの諸宗教では、この一回だけの再生を永続的なものとしていますから、宇宙についても、初めがあったとしながらも、やはり、現在とは違った形で永遠に存続するものと信じているのです。
 池田 つまり、諸宗教の死後の生命観を大別すると、仏教、ヒンズー教等で説く″輪廻″説と、キリスト教を中心とする西洋の宗教で説く″霊魂不滅″説の二つになるわけです。
 トインビー ええ。ところで、この二つの見方も、生命の不滅性について、ある点では一致しています。すなわち、われわれはこの世で短い一生を送るわけですが、その時間次元における人間の一生を時間的に延長したものをもって″不滅″と考える点です。
 ヒンズー教では――また、ギリシャ宗教のいくつかの流派でも――次のように考えています。すなわち、霊魂は、肉体に宿ってこの世に生(ないし一連の生)を享ける以前から、無限の長きにわたって存在していた、そしてこの世での肉体における死(ないし一連の死)の後も、無限に存在し続ける――と。南伝仏教も、このヒンズー教的見解と一致していますが、ただ、輪廻転生は、現世での人生における精神的努力によってとどめうる、とする点で違っています。
 一方、キリスト教では、霊魂は母親の胎内に肉体が宿る瞬間に、神によって創造される、ただし、ひとたび創造された後は、死後も無限に存続していく――としています。このキリスト教の″不滅″の概念は、ヒンズー教的概念よりも合理性に欠けるように思われます。
 とはいっても、人間の生活の場であるこの世界の時間次元において、人間は生まれる以前からすでに存在していたとか、死後も存在し続けるとかいうことは、私には信じられません。人間生活が営まれるのは、たしかに時間次元においてであり、また人間のカルマ(宿業)が生じるのも、時間次元での人間の行為によってです。しかしながら、私のいう″究極の精神的実在″が存在するのは時間次元ではなく、また人間のカルマがこの″究極の実在″に影響を与えるのも、時間次元においてではない、と私は想定しています。ただし、この点では、私自身、人間としての理解力の限界にきていることを感じます。
 池田 生命が永遠であるということも、それでは肉体が崩壊した後、その生命はいかなる形態で存在するのかということも、たしかにむずかしい問題です。たとえば、博士の説かれる″宇宙の背後にある究極の精神的実在″に合一するというふうに考えることもできます。しかし、その場合、あらゆる生命がすべて平等に合一するのか、あるいは、生きている間の行動の善悪などによって合一したり、しなかったりするのか、ということが問題になりましょう。
 トインビー 私個人の場合を申し上げれば、私が人間であるがゆえに、私のなかにある人間としての意識が、善と悪を識別するわけです。また、それゆえに、私の人間としての良心が、善と思われることを行い、悪と思われることを差し控えるよう私に命ずるのです。
 これと同じく、私が次のような考えをもつのは、きっと私の人間としての本性のゆえなのでしょう。それは「人間のこの世での一生の行いは、必ず倫理上の結果をともなう。しかも、その結果は重要である。それは、自分自身にとってのみならず、全人類、全宇宙にとって重要性をもっている」という考えです。つまり、私は、この世における人間の一生は、善かれ悪しかれ、宇宙そのものに何らかの影響を与えると信じています。そして、そうした影響こそ、この世での人生に正反いずれかの価値をもたらすものであり、それゆえにこそ、人生に意義が生じるのだと信じます。こうしたところから、私は″究極の精神的実在″が、すべての人間のカルマから影響を受けている、と信ぜざるをえません。
 池田 ただいまの博士のご発言のなかで、私が強い興味をおぼえるのは、すべての人間のもつ業(カルマ)が″究極の精神的実在″に影響を与えていく、という点です。これは、これまでの宗教が、こうした究極の実在は絶対的なものであって、他からいかなる影響を受けることもない、むしろ逆に、他のすべてに対して強力な影響を与え続けるだけであると教えてきた思想を、大きく転換するものと解釈してよろしいでしょうか。
 もしそうだとしたら、博士のお考えは、きわめて人間を中心にした新しい宗教観であり、それは仏法のそれに共通するものであると評価いたします。しかし、一方、あらゆる人間の宿業によって左右されるということになりますと、それ自体″究極のもの″ではありえなくなるのではないかとも思われますが、どのように考えたらよいでしょうか。さらに、こうした″究極の実在″の存在は、証明されうるものと博士はお考えでしょうか。
 トインビー ″霊魂不滅″説にも、″再生″説にも、人を説得できるだけの根拠は見当たりませんね。同じように、私自身の信ずる″究極の精神的実在″の存在についても、説得力ある証拠は見いだせないのです。
 思うに、われわれの住む宇宙の本質というものを理解するには、われわれ人間の知力はあまりにも限られています。われわれがもっている証明可能の知識からは、人生を生き切るに必要なだけの、情報や指針が得られないのです。われわれが人生において直面する最も重要ないくつかの疑問は、手もちの情報をいかに合理的に活用したところで、解答が得られるものではありません。したがって、われわれとしては、どうしても、検証しえない仮説に基づいて行動せざるをえないのです。たとえ知識が不十分で、正誤の判断に議論の余地がある場合でも、われわれはとにかく行動しなければなりません。そのためには、こうした仮説を最初から信じてかかる以外にないのです。
 池田 たしかに、人間の知的能力には限界があり、その範囲を超えた宇宙の究極にあるものや、人間の生命の本質に関する定義は、すべて″仮説″にならざるをえないと思います。
 私は、この″仮説″に関して、科学上のそれと宗教上のそれとは、区別して考えなければならないと考えます。つまり、科学上の″仮説″は、理論的・実験的にその真偽が確認されうるものであり、また確認されなければなりません。これに対して、宗教上の″仮説″は、人生の納得できない現象をそれがどう説明するか、またそれに基づく判断なり行動がいかなる有効性をもつかによって、評価されるべきです。いいかえれば、科学上の″仮説″について問われるのが真偽であるのに対し、宗教上の″仮説″について問われるのは、人間的資質の向上のためにもちうる価値であるということです。
 その意味で、私は、仏教が主張する、輪廻しながら生命が永続していくという″仮説″は、人間が生まれながらにして、個人によって種々に異なる宿業(カルマ)をもっているという事実を説明するうえで、有効性をもっていると思います。すなわち、もし過去にもその人の独自の生の営みがあったことを仮定しなければ、この生まれながらにもっている宿業(カルマ)というものは、神のような超絶者の意思によって定められたとするか、あるいはまったくの偶然性によるとする以外になくなってしまうからです。
 この仏法の説明は、人間に、自分が人間以外の超絶者によって支配されているのではなく、すべてについて自分自身が責任をもっていることを自覚させ、本源的な主体性がここから打ち立てられることを可能にするもの、ということができましょう。
 トインビー ″不滅″説や″再生″説も仮説なわけですが、もしそれらが真実だとすると、われわれにとって不可避の疑問でありながら、手もちの不十分なストックから証明可能な知識を引き出しても解答を得られない疑問のいくつかに、解答を与えてくれることになるでしょう。
 仮説としての″再生″説は、人間が一生の間にカルマを経験するという証明可能な事実と結びついて、たしかに人間の運命が不平等であることの、一つの説明を提示しています。この″再生″の仮説を認めるとしても、だからといって″不滅″の仮説をも同時に認める必要はないでしょう。
 ところで、私の理解するところでは、南伝仏教にあっては、阿羅漢の精神修行の目的は、自身の再生に関するかぎり、生死の輪廻をとどめることにあるとしています。阿羅漢は、わが身の不滅性を信じ、そこに恐れを感じて、そうした宿命を逃れようとするわけですね。
 池田 南伝仏教では、輪廻それ自体を人間の苦しみの原因とし、それを断ち切ることを理想としています。輪廻転生ということは、煩悩の業に縛られながら、生死、生死と苦しみの世界を流転していくことにほかならないからです。そのため、阿羅漢はこの輪廻をとどめることを理想としたわけです。
 トインビー ヒンズー教やキリスト教で説く″不滅″の概念には、ともに似たような誤認識があり、それがこの概念を損じているようです。
 すなわち、時間次元といえば、それは人間が肉体を有して生を営む次元です。ところがこの二つの宗教は、霊魂が、この世での人間の肉体に宿っていないときでも、なおかつ時間次元にあるとしているのです。しかし、人間の生命がたとえこの世で肉体を有して生きる一回の――あるいは一連の――生だけに限られないとしてみたところで、肉体から離れた状態の生命が、時間次元にあるとする根拠はまったくありません。
 われわれに経験できる人間生命の状態とは、ただ一つ、心身統一体としてのそれだけです。知性によって霊魂と肉体を区別するのは一つの仮説にすぎず、あくまで経験から得た既知事項(データ)ではありません。肉体を離れた霊魂の存在については、経験から得た確証というものがないのです。
 もっとも、死体というものが存在することは、われわれの経験するところです。しかし、死体とはすでにたんなる物質の集合体にすぎず、そこにはもはやかつて有機体を形成させ、生気を与えていた生命活動はみられません。また、かつては意識があったからこそ人間でありえたわけですが、もはや有機体が分解してしまった死体には、当然、意識もありません。いやそれどころか、人間の意識というものは、その人の一生と同じ期間持続されるものでさえありません。意識は、生後徐々に目覚めていくものであり、死期が近づくと、ときに失われてしまうこともあります。肉体の死を迎える前に、耄碌してしまうこともあります。
 死体がどうなるかについては、誰しも知るところです。それは急速に無機物へと分解していきます。たとえこの物質の集合体を人為的に維持しようとしても、生命が尽きたと同時にすでに有機体としての機能は失われています。ともあれ、われわれは肉体を離れた霊魂の存在というものについては、何の経験ももち合わせていません。したがって時間次元での存在に関するかぎり、霊魂は死とともに存在を失うもの、と推論せざるをえないようです。これをもって結論とするなら、時間次元には、霊魂の不滅とか再生とかはありえないことになります。
 人間はひとたび死ねば、その時間次元における心身統一体としての生命は、終わりとなります。しかし、その死とともに、霊魂が時間次元の外に存在するかもしれないという可能性まで、なくなるわけではありません。さらに、この世での心身統一体としての生存期間中に人間の行為が織りなすカルマが、″究極の実在″に善悪いずれかの影響を与えるかもしれないという可能性も、死とともになくなるわけではありません。なぜなら、この″究極の実在″が時間次元に存在すると想像すべき理由は、われわれには少しもないからです。われわれが経験上、時間次元にあることを知っている唯一の意識ある生命的存在といえば、それはこの世での心身統一体的生命だけです。
 池田 さきほどもちょっとふれましたが、私は、あらゆる人間生命は、個々の存在であるとともに、その生命の奥深いところで宇宙生命ともいうべき実在に合一している、と考えます。博士がいわれる″宇宙の背後にある究極の精神的実在″も、このように考えるとよく理解できます。
 しかし、死にさいして肉体が無機物に還元されるのに対し、かつてある著書で述べられた「人間の魂は、宇宙の背後にある超人的な精神的実在の中に再吸収される」という博士の所説は、精神を一つの独立した実在とされているように思われます。もちろん、肉体は生きている間も絶えず変化しており、一定の期間がたてば、細胞はほとんど一新します。また、死ねば全体が無機物に還元されることも事実です。しかし、たとえば、三歳であったAという人が三十歳になったとしましょう。その場合、Aは肉体的には変化したわけですが、そのなかに一貫して持続する本質があることは明らかです。肉体はそれ自体が独立しているものではなく、その奥にある生命的傾向性と深い関係があります。逆にいえば、内在する精神的実在のなかに、絶えざる肉体的傾向をはらんでいると考えるほうが、より本質的な認識となるのではないでしょうか。
 したがって、死によって現実の肉体は無機物に還元しても、精神的実在に内包された肉体的な傾向性は、持続すると考えることができると思います。そして、縁にふれて、再び顕現された形で肉体が持続するのではないでしょうか。死によって肉体と精神が分断されてしまうと考えるのは、おそらく知性の犯している誤りであって、事実はこのように考えるべきだと思っています。
 トインビー 人間を精神的要素と肉体的要素に分離して考えることは、たしかに知性のなせるわざです。それは経験による既知事項ではなく、経験的デ―夕を考察して引き出した一つの結論なのです。したがって、それは考えられる唯一の結論でもなければ、これまでに人間が導き出した唯一の結論でもありません。
 経験からいっても、われわれは肉体を離れた霊魂とか、魂をもたない人体などといったものには出会うことがありません。もちろん、精神的欠陥者や、耄碌した人の場合は、その精神機能にはかげりがさしていますし、肉体的欠陥をもつ人や障害者の場合は、身体のほうが不十分です。しかし、こうした欠陥はいずれも異例とみなすべきで、精神と肉体が客観的事実としてそれぞれ独自に存在できる証拠にはなりません。これらは、われわれが人間を精神と肉体という観念上の二要素に知的分析を行うことと、はっきり区別して考えるべきでしょう。
 池田 さきほど博士は、死後の生命の存在の仕方について、それは時間次元を超えたものであろうとおっしゃいました。私も、それは正しいと思います。しかし、さらに掘り下げていえば、現に生きているこの生命も、その本質の実在においては時間次元を超えたものであると考えられます。なぜなら、もし人間の生命が時間という枠にはまった存在であるとすれば、人間の知性によってそれを理解することも、可能であるはずだからです。
 この点に関連して、私はベルクソンの考察を思い起こします。ベルクソンは″流れる時間″という概念を主張し、過去・現在・未来という時間的区分はもともとあるのではなく、人間の意識の流れが過去・現在・未来という内的な持続を実感しつつ、つくりだすものであるとしました。しかし、この″流れる意識″というものも、人間生命のごく一部にしかすぎません。ともあれ、生命自体には、もともと過去・現在・未来という現象的時間の区別は存在しないと考えられます。そのような区別は、生命が肉体と精神とをそなえた存在として具体的活動を営んでいくとき、初めて現れるにすぎないものといえましよう。
 トインビー カントは時間と空間の概念は、人間の思考にとって不可避の範疇であることを指摘しました。また、アインシュタインの指摘によれば、時間・空間という二つの知的範疇を区別するのは、すべて人間の知性の働きにすぎず、科学上の観察をするにあたっては、時間は空間によって、空間は時間によって測定する以外にないとのことです。しかし、三つの知的範疇――時間・空間・時空――が客観的実体をもつと推定できる根拠を、われわれははたしてもっているでしょうか。これらの知的範疇も、あくまで人知の宇宙理解力の限界を示すものにすぎないのではないでしょうか。
 池田 時間・空間というのは人間が創造した観念であり、人間の生命がその活動において設けた枠であると考えます。もし、この生命の発動がなければ、時間も空間もありえないでしょう。したがって、時間と空間というものを絶対的に実在するもののように考え、その枠に生命そのものをはめ込んで規定しようとすること自体、本末を転倒した考え方ではないかと思うのです。
 時間とは、われわれが宇宙生命の活動や変化を通して感ずるものです。われわれの体験からいっても、時間の動きは、われわれの生命活動の状態によってさまざまに変化します。楽しいときには、時間は飛ぶように過ぎ去ってしまいますが、苦しいときには時計の針の進むのが非常に遅く感じられます。
 そこで死の問題に戻りますが、さきほども少し話しましたように、仏法では死後のわれわれの生命の存在の仕方を″空″という概念でとらえています。″空″というのは、現象としては現れなくとも、厳然と実在する状態のことをいいます。実在するといっても、それは目には見えませんから、″無″と変わらないともいえましょう。しかし、実在する以上、縁にふれて目に見える現象として現れるのです。そうなると″無″とはいえません。つまり″有″と″無″という二つの概念だけでは表現できない状態です。
 結局、仏教の教えによれば、生命の本質は″生″すなわち″有″と、″死″すなわち″無″とを現じながら、永遠に存続していく超時間的実在であるということができます。
 トインビー いまおっしゃったことから、人間の真の存在は″空″の次元にあるといえるのではないでしょうか。それが、個人と宇宙の一体性を確認するヒンズー教の格言″汝はそれなり″の意味するところでもあると思うのです。
 結論として、死という現象は、われわれが心身統一体として見慣れている人間存在のうち、肉体面の分解をともなうわけですが、しかしそれは″実在それ自体″からみれば、じつは人間の知的着想力の限界から生じる幻想にすぎないことになります。したがってまた、″究極の実在″ないし″空″に関する疑問は、空間とか時間とかの観点から公式化してみたところで、解答が得られないわけです。
 ここでいえることは、ヒンズー教や仏教で説く輪廻転生の概念にしても、ゾロアスター教やユダヤ系諸宗教でいう一回限りの死者復活の概念にしても、私には知的に理解できないということです。さらに、ヒンズー教や仏教でも、またゾロアスター教やユダヤ系諸宗教でもともに説いている、人間が死んでから再び心身統一体としての生を始めるまで中間的な期間があるという概念も、私には理解できないものです。
 人間の知性で理解できる時間・空間内での諸現象とは対照的に、″実在それ自体″には時間も空間もないのではないでしょうか。私は、″実在それ自体″には時間もなければ空間もないと信じています。といって、それが時間と空間に束縛されたこの世界から、まったく遊離して存在するものだとは思っていません。
 池田 私も、実在それ自体には、時間も空間もないと考えます。また、この実在が時間・空間に規定された、この現象世界を離れたところにあるのでないことも確かです。
 大乗仏教においては、″生死不二″といって、生と死という時間・空間次元の現象は、時・空を超えた実在である生命の、二つの異なった顕れ方であると説いています。個々の生命体は、生命が顕在化した状態であり、死とはその生命が″冥伏″した状態です。冥伏とは無に帰することではありません。さきほどから私が提起してきた″空″の概念は、目には見えなくとも厳然と実在する、有無のいずれか一方に決めることのできない概念です。これに対して、現実にさまざまな個別の姿をとって現れてくる姿を″仮″と名づけています。心身統一体としての生とは、この″仮″の姿であり、しかもそのなかに″空″をはらんでいます。死後の生命は″空″として実在しながら、そのなかに″仮″の傾向性、方向性をはらんでいます。そして、この″空″と″仮″を貫く生命の本質を″中″と呼んでいます。あるときは顕在、あるときは冥伏という姿をとりつつも、無限に持続していく生命の本質ということです。
 この持続していく生命の本質とは、現代の哲学用語でいえば、最も根本的な意味での″自我″という表現に通ずるものです。さらに仏法では、この″空″と″仮″と″中″は円融一体のものであって、それらを全体として統一的に把握しなければならないと説いています。
 トインビー ただいま述べられた仏法の″空″の概念によれば、″実在それ自体″が、″すべてを包含する偉大な宇宙の生命力″としての″空″の本質をなすことになるのでしょうか。もしそうであるならば、″空″とは、ゾロアスター教やユダヤ系諸宗教でいう″永遠″の概念に相当するものになるでしょう。
 さきにあげた六つの宗教は、いずれも、ただいま仏法用語をもって論じられたような、人間の死後の状態を描き出す問題と取り組んでいます。つまり、死後、人間の肉体的側面が分解して、心身統一体としての人間存在が休止期間に入ったとき――その期間が一回限りであるにせよ、何度も繰り返されるものであるにせよ――人間存在はいかなる状態にあるのかを論じています。
 もし私が、人間存在の心身統一体としての死後の再生という、この六つの宗教に共通する根本原理を認めるとするなら、私としてはヒンズー教H仏教的説明のほうが、ゾロアスター教=ユダヤ系諸宗教的説明よりも、説得力があるというでしょう。
 しかし、私は、″空″″仮″という仏法概念の考察においても、やはり知性による理解のむずかしさが明るみに出てくることを感じます。したがって、六つの宗教のすべてがやっているように、死後の生命という問題を時間とか空間という言葉で表現しても、解答が得られるかどうかは疑わしく思われます。生命は、はたして死後も存続するのか。また、肉体が無機物の世界へと還元されてしまった後、精神はどこへ行くのか。――要するに、これらの疑問は、空間とか時間の基準からは答えられず、″空″ないし″永遠″の概念によって初めて答えられるのだと信じます。

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