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日蓮大聖人・池田大作

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1 生命の起源  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 生命がこの地球上にどのようにして出現したかということについて、一般的に支持されている考え方は、自然発生説だと思います。
 そうした生命の起源に関する現代科学の考え方は、ソ連のオパーリンやイギリスのバナールの説に代表されているとみられます。彼らは地球の進化のなかで自然に生命の発生があったとし、これを段階的にとらえて、最初に無機物から有機化合物が生成され、次に蛋白質が形成され、さらに物質代謝の発現によって生命体が発生したという点で、およそ意見の一致をみております。
 こうした生命の起源に関する学説は、原初段階の生物の化石の発見によって、また簡単な有機物が人工的に合成されたことによって裏づけられているようです。
 トインビー それらの科学者たちは、生命を物質的現象としてとらえ、その立場から生命の発現する契機がどこにあったかを探求しているにすぎませんね。
 池田 その通りです。これらの科学者たちの考え方は、生命発生の物質的側面については、おそらく正しい解明を与えるものでしょう。もちろん、細部については、今後の研究によって訂正されなければならない問題も出てくるかもしれませんが、基本的な考え方はおそらく変わらないであろうと思います。
 しかし、ここで私が問題にしたいのは″どのように″ではなく″なぜ″無生の物質の世界に生命が誕生することができたか、という点です。それは、物質現象の側面のみの問題ではなく、もっと深く、生命の本質にまで掘り下げてみなければならないテーマになります。
 トインビー つまり、変化の性質一般に関する問題ですね。とりわけ、過去においては見かけ上無生であった宇宙が、部分的には依然として無生でありながら、やがて人間のような意識ある生物が存在する現在の宇宙へと変化してきた――その変化の性質に関する問題ですね。
 池田 ええ。私の考えを先に申しますと、誕生した当初はたぶん無生であった地球に生物が発生したということは、無生の地球それ自体のなかに、すでに生命への方向性をはらんでいた――といえるのではないでしょうか。
 生命は受動的な存在ではなく、明らかに能動的な存在です。とすれば、その能動性、さらにいえば発動性は、どこに由来するのでしょう。私は、無生のなかに生を内包し、その生が自己を顕現していった過程こそ、まさに生命の起源の意味するところだと思うのです。
 トインビー あるいは、その通りかもしれませんね。しかし、現段階では、われわれにはそのことを知る手段はありません。ただ、変化の概念を知的に分析することはできますし、それによって、生命の起源を知るうえで一歩近づくことができるかもしれません。なぜなら、生命の起源とは、それ自体一つの重大な″変化″だからです。″変化″ないし″新奇性″(ノヴェルティ)が生じることに関しては、次の二つの説明のうちいずれかが考えられます。一つは、これらが生じるのは″創造″(クリエーション)――以前存在しなかった事物が存在せしめられる、ないしは存在するようになること――によるのではないかというものです。これに代わる二つ目の説明は、″新奇性″が生じるのは″発現″(エボリューション)によってではないかというものです。――ここでいうエボリューションとは、文字通りの、元来包みに入っていたあるものが解き開かれるという意味での″展開″、すなわち″発現″のことです。この″発現″という説明によると、変化が現れるのはすべて実際には錯覚にすぎなくなってしまいます。なぜなら、現在存在するものも、これから存在しようとしているものも、すべて初めから存在していたことになってしまうからです。すべての出来事は、もともと潜在していた実在の要素が徐々に顕在化したのだろうということになってしまうわけです。
 池田 ただいまの博士の″創造″と″発現″という分類に従えば、私は、生命に関しては″発現″という見方が正しいと思います。生命はそれ自体作者であり作品である、というふうに表現できると思うのです。
 生命は、この地球上に誕生してから現在に至るまで、自己を顕現し、個別化していく方向をずっと保ち続けてきています。しかし、その個別化した生命に能動性を与えている生命エネルギーともいうべき力は、すでに無生の地球それ自体に内在していたはずです。
 トインビー では、生命は創造によるというより、発現によって生じたとされるわけですね。私としては、創造によるというほうが真実だと信じています。
 池田 そうでしょうか。その創造という考え方に関連して、たとえば最近、科学の分野で成功を収めた生命の人工合成についていえば、私は、この生命の合成は、生命を創造することではなく、生命を発現させるための人工的条件をつくることであると思うのです。すなわち、ここでいえることは、生命の創造は不可能であるということです。人間にできることは、せいぜい物質の内部にもともと存在していた生命エネルギーを引き出すことであると思います。もちろん、ここでいうエネルギーとは、物理的な意味でのそれではありませんが――。
 トインビー 私は、科学者たちが無機物から有機体への物質的組成変化を追求し、さらに人為的な考案により、この組成変化を繰り返させることまで可能にしたことを、決して否定するものではありません。たしかに有機体は、人間生命を形成している意識と意思をもった、不可分の心身相関的統一体の一側面をなすものです。しかし、このように物質の組成上の進展を追求し、繰り返させたとしても、それは無生物と生物との相違を説明することにはなりません。ましてや、意識をもたない生物と、意識ある生物との相違を説明することにはなりません。
 物質が有機的に配列されていることは、生命の存在を可能にする不可欠の条件かもしれませんが、しかし、それがただちに生命そのものになるわけではありません。生命物質は、意識を存在せしめる不可欠の条件ではあるかもしれませんが、しかし、意識それ自体とはなりません。私は、生命も意識も、ともにまったくの″ノヴェルテイ″(新奇性)であると思っています。そしてまた、このまったくの新奇性ということは、論理的にいって人間の理解できるものではないとも思うのです。これは、原初から潜在していたあるものが発現することとは、対照をなすものです。これがなぜ人間に理解できないかというと、それはきっと、人間の思考が空間や時間を基準とする考え方に限定されているからなのでしょう。空間や時間はあくまで現象上のものにすぎず、″実在それ自体″の不可知性に対すれば、本質的なものではないのでしょう。
 池田 おっしゃる点については、よくわかります。しかし、私は、そのまったくの新奇性が論理的に理解できないからといって、それに惑わされる必要はないと思うのです。次のように考えるとすれば、いかがでしょうか。
 宇宙を有無という二つの概念のみでとらえようとすれば、そこにおける生命の発生は、無から有を生じたといわざるをえません。仏法では、生命は、有無の概念を超えた、いわば有への可能性を秘めた無の状態で――これを″空″といいます――それを宇宙に内包されている実在として把握しています。この″空″というのは、時間と空間の次元で論じられるものではなく、博士のいわれるように一つの神秘でもあります。この″空″という概念を理解したとき、生命という実在の性質も理解しやすくなるのではないかと思います。
 つまり、地球を含む宇宙それ自体が、本来、生命的存在であり、″空″の状態にある生命を含んでいます。それが″有″として顕在化する条件が整ったとき、宇宙のどこにでも、生命体として発生する可能性があるということです。現代科学においても、地球以外にも生物の存在する天体が数多くあることを予想しており、その実証の端緒も見受けられます。このことからも、私は、宇宙自体が生命を誕生させる力を内包した″生命の海″であると考えています。
 物質の有機的構造は、本来″空″である生命が″有″として顕在化して生を営むための、物質的基礎条件であるといえます。そして、この生命体が意識活動を行うためには、いっそう複雑で精巧な物質構造を必要とするわけです。
 トインビー われわれが論じ合っているこの話題は、きわめて興味深い、しかも重要な話題です。これについては、今後さらに論及していかなければならないでしょう。ただ、私としては、生命も″実在それ自体″も、やはり一つの神秘であり、″発現″という観点からは説明し尽くせないもの、と考えております。

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