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日蓮大聖人・池田大作

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4 日本が貢献する道  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 日本人は、しばしば、他文明の吸収、消化に特異な民族的素質を発揮してきたといわれますが、周知の通り、この特質の現れ方は、時に応じ機に応じて、さまざまに変遷してきています。
 たとえば、日本古代の国家誕生の初期には、中国の体制を模範にして政治的・社会的機構を整えましたし、生産技術や芸術一般についても、多くを中国や朝鮮から学んでいます。飛鳥・天平期の文化にはこうした模倣の色彩が色濃く残っていますが、平安期ともなると、新しいものを吸収するのは中断して、これまでのものを消化して、そこから独自の文化を創造しています。その後、鎌倉・室町時代には再び吸収がなされました。しかし、江戸時代に入ってからは、鎖国体制が長く続き、その間、外来のものは斥けられ、日本的な独自の文化が華を咲かせ、庶民の生活にまで深く根をおろしていきました。ところが明治期を迎えると、政治体制の交代とともに日本文化の状況は再び一変しています。維新以後、ヨーロッパにならった近代化の波が、急激に高まったわけです。第二次大戦後の今日も、日本は本質的にはそうした西欧化の流れのなかにありますが、とくにアメリカからの影響が強まっている点が注目されます。
 ただ現在では、その西欧からの摂取もすでにその頂点を過ぎて、同化、そして創造期に入ろうとしているように思えます。今日の日本にみられる混乱は、この転換のあらわれといえるでしょう。
 トインビー 西欧は、その近代技術がつくりだした人為的環境によって自然的環境を圧迫してきた結果、自らが問題を抱えており、この西欧文化の影響によって日本人が混乱させられているのは、別段驚くべきことではありません。日本人にとって、唐時代の中国文化よりも近代西欧文化のほうが対応しがたいのも、理の当然です。しかし、日本人は、非西欧民族のなかでは、この西欧の問題との対応に最も成功してきているのではないでしょうか。ロシア民族に比べても成功していますし、中国、インド、イスラム圏の諸民族などより、はるかに成功しています。
 日本人はこれまで、四つの異なる方法によって、西欧からの衝撃に対応しようと試みてきました。まず第一に、十六世紀には、どちらかというと無批判に西欧の文化・宗教を受け入れました。第二に、その後西欧との接触が進むと、今度は対応策を翻し、極端に孤立化しようと試みました。ついで第三に、徳川幕府の鎖国政策がもはや続行不可能なことに気づくと、明治維新を断行し、二つの世界で相異なる目的のもとに、同時に生き抜く実験を試みたわけです。すなわち、近代西欧世界においては、技術、経済の分野に、また貿易、外交、戦争など国際関係の分野にその目的をおき、他方、日本の伝統的世界においては、国民生活の文化面・精神面に生きる道を求めました。しかし、この第二の西欧文明への対応策は、一九四五年に、日本の破局となって終わりました。それ以来、日本人は第四の実験を行ってきました。彼らは、第二次大戦での最終的な軍事的敗北を、今度は非軍事面で――つまりそれまで西欧の独檀場だった技術上の妙技を競い合うゲームで――西欧を打ち負かすことによって、埋め合わそうとしたわけです。
 この試みにおいて、日本人は今日センセーショナルな成功を収めています。しかし、技術というのは、人間事象のほんの一部にすぎませんし、しかもその最重要部門でもありません。人間は心身相関の生命機能体ですが、私はその物質的要素よりも、精神的要素のほうが重要だと信じています。私はまた、日本人もこのような信条をもっているという印象を受けるのです。
 池田 ええ、それは日本の伝統的な信条でした。私は、いまこそ、この信条を失わないよう、堅持すべき時だと考えています。そこで、今後の世界に日本が何をもって寄与できるかといえば、私は二つの点があげられると思います。第一点は、さきほども申しました、日本民族独自の創造性です。第二点は、他文化との融和的精神において諸民族の手本になりうるという点です。
 トインビー おっしゃる通りです。しかし、多少異なる観点から、この問題を考えてみたいと思います。私の想像するに、日本人はいまおそらく次のように自問しているのではないでしょうか。――「自分たちは、これまであまりにも技術の分野のみに努力し、注意を傾注しすぎて、精神面をなおざりにしてきたのではあるまいか。戦後おさめた勝利といっても、それはあまりに一面的にすぎたのではないだろうか。自分たちは技術面での勝利を、はたしてそれに見合う精神面の勝利によって、バランスをとってきただろうか。そうでないのなら、この両面のバランスをとることこそ、今後めざすべき主要な課題ではないだろうか。とすれば、現代世界において日本が果たすべき精神的役割とは、いったい何だろうか」と――。
 これは、あくまで日本人だけにしか答えられない疑問です。外国人がこれに答えを出そうとするのは、危険なことです。たとえその外国人が、私と同じく、日本民族に深い尊敬と愛着をいだく人であっても、それは変わりありません。しかし、ここではあえてその危険を冒して、提言を試みましょう。
 日本人はいまや、近代技術面では他をしのぐ、卓越した能力を見せつけました。ところが、この近代技術は、すでに世界中いたるところで、始末におえないものになりつつあります。それは物質的な豊かさをもたらしつつも、その過程で、物質的にも精神的にも汚染を生み出しているわけです。したがって、人類にとっては、この技術を規制していくことが――排斥ではなく抑制することが――必要です。これを換言すれば、人間が、技術よりもはるかに歴史の長い、人間自身の欲望を抑制しなければならないということです。欲望の歴史は生命の歴史と等しいのですから――。
 日本人はこれに必要とされる精神的資産をもっています。日本の伝統的宗教は、仏教であれ神道であれ、いずれも人間と自然との協調が人倫の道であることを説いています。これは、人間には自然を威圧し支配すべき特権があると想定し、この特権を擁護する西欧のユダヤ教的伝統と、よい対照をなすものです。この西欧的な道は、破局へと向かうものです。これに対して日本民族は、人類を、より安全で、より幸福な道へ先導できるものと、私は信じています。
 日本民族は、西欧の近代技術を自家薬籠中のものとしつつも、これによって固有の宗教的伝統を失うことはありませんでした。この伝統こそ、自然を汚染し人間生活を非人間化している近代技術に対して、適正な精神的解毒剤となるものです。この日本的伝統は、人間の尊厳性とともに、人間以外の自然の尊厳性をも擁護しているからです。

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