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日蓮大聖人・池田大作

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3 目的・手段と権力悪  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 目的は手段を正当化する――という考え方が、かつて、多くの組織や団体を推進してきましたが、この思想は、現代においても各種の組織・団体に根強く流れています。とくに政界における権力闘争のなかでは、この行き方がやむをえない、ないしは当然であるとさえされる傾向があります。ファシストは、この考え方を最も端的な形で利用したケースだといえましょう。
 われわれは、ファシストまたはそれに類する野心的な権力集団が、再び地球上に台頭することのないよう、厳重に監視していかなければなりません。そのためにも、目的と手段の適正な関係を、人々がはっきりと認識することが必要でしょう。
 これについての私の考えは、目的の正しさは、それを実現する過程で用いられる手段によって裏づけられ、証明されなければならないということです。
 トインビー 目的は手段を正当化するものではありません。目的と手段は、倫理的に一貫性がなくてはなりません。これは経験から生まれた原理です。第一段階で意図的に悪事を働いておきながら、第二段階で正しいことをしようなどというのは、心理的にいっても不可能なことです。つまり、出発点が間違っていれば、決して正しいゴールには到達できないのです。
 池田 その意味から、現在、各種の団体・組織が用いている手段については、検討すべき点が多いのではないかと考えます。目的については、どんな団体・組織でも一応の理念を掲げており、それもよほど極端な偏向的世界観に基づくものでないかぎり、それなりに必然性をもっています。つまり、ほとんどの場合、目的自体には多くの人々の共鳴する要素があるものです。
 したがって、目的の正否を論ずるだけでは、その団体なり運動なりの本質をとらえることはできません。どうしても、その団体や運動が用いている手段を検討することが大切になってくるわけです。その掲げる目的は抽象的な観念にすぎなくとも、そのとりつつある手段は現実のものだからです。私も、目的と手段は倫理的に一貫性がなければならないとの、博士のご指摘に同感です。目的は高邁であっても、手段がその目的に反するものであるならば、目的自体が欺瞞のスローガンになってしまいます。
 トインビー 善なる目的を悪辣な手段で達成しようという考えの欺肺性は、ドストエフスキーの小説『悪霊』と、その悪魔的な主人公におけるテーマになっています。これについては、また、二人の高潔な革命家、ロベスピエールとレーニンの生涯が、教訓を残しています。彼らはともに私利私欲がなく、人類の福祉に寄与すべく心身ともに捧げました。しかし、二人とも誤り――知性の誤りであるとともに倫理上の誤り――を犯しています。すなわち、彼らは自分たちの目的は善であり、その達成は重要なのだから、暴力の行使は、手段として正当化されると考えたわけです。その結果、地上の楽園を現出させる代わりに、ロベスピエールは恐怖政治を、レーニンは全体主義政権を、出現させてしまったのです。
 池田 興味深い史実ですね。結局、目的をめざす以上、それを実現するための手段においても、断じてその高邁な理念性が反映されていなければならないということですね。その意味で、現在の平和運動にしても、自らの理想を実現すべきプロセスを絶えず明らかにし、その理想に手段を合致させていくべきでしょう。
 次に、この目的が仮に理想的な手段で達成されたとして、そこに新たに醸成されてくる問題に、″権力悪″という問題があります。これもまた、われわれが常に警戒を怠ってはならない問題です。
 社会は秩序を要求し、秩序の維持は権力を要求します。権力は人々を支配し、人々の行動を強制したり抑制したりする″力″としてあらわれます。そのために、権力はしばしば人々の自由を妨げ、人権を侵害する″悪″となるものです。本来、権力はより多くの人々を守るために、そして善なる目的のために行使されるべきものですが、権力者の心理的動機や目的観によっては、悪に走ることも少なくないでしよう。
 いわゆる″権力悪″という言葉は、元来、権力者の心に思い上がりや利己心、名誉欲などを強めさせ、堕落させる本質をもっているということと、権力の行使が人々の人格を侵害し、ときには生存をも奪う危険性を秘めているということの、両面のニュアンスを含めて使われます。もしも権力が、人々の幸せと正義の擁護のために純粋な精神で、しかも、その力がなるべく害を及ぼさないという配慮のもとに行使される場合は、権力は正しく用いられているといえましょう。人々が権力に託す期待、希望もまた、そのようなものであるに違いありません。
 ところが残念なことに、人間の本性は必ずしも善ではありませんし、おかれた状況によっては精神の純粋さも失われることが多いものです。その結果、権力者自身を含めた少数者の幸福と利益を実現するために、多くの人々を犠牲にする方向に、権力が行使されることになります。こうしてみますと、権力悪という問題は、権力者だけの問題であるかのようにみえて、じつは権力行使の対象である民衆の側の問題も、重要な因子としてこれに加わってくるといえましょう。
 トインビー 一人ないしはそれ以上の数の人間によって握られ、他に向けて行使される権力というものは、人間生活において不可避のものです。それは、人間が社会的動物であり、権力はその社会関係から自動的に生じるものだからです。もちろん、権力が悪のためでなく、善の方向に行使されるということはありえます。しかし、あらゆる生物は、本来、自己中心的であり、貪欲ですから、権力を握った人間は、その掌中にある人々の利益を犠牲にしても、なおその権力を己の利益のために乱用したいという、強い誘惑にとらわれるものです。
 ところが、人間は社会的動物ですから、社会が、その成員の存続を不可能にするような無秩序な状態へと崩壊するのを防ぐことが、社会における第一の優先事項になります。このため、権力の不当行使のほうが、社会の崩壊に比べればまだしも小さな悪であるという状況も生じ、ここに権力の犠牲にされる人々が、ときとして不当な権力行使を黙認する理由もあるわけです。
 いいかえれば、社会の成員としては、権力者の思うがままにさせるという代価を払っても、なお社会が崩壊を免れることを望むのです。もちろん、彼らもしばしば誤算をすることがあります。たとえば、一九三二年、ドイツ国民はヒトラーに救世主としての望みをかけ、すべてを彼に託しました。ところが、ヒトラーは意図的に彼らを第二次大戦へと巻き込み、結局は、一九二九年の世界恐慌で蒙ったよりも、さらには第一次大戦の敗北よりも、はるかに大きな災禍をドイツにもたらしたのでした。
 池田 自己の存在の基盤である体制の存続を願う民衆の心が、権力悪を支えているということですね。そうした権力の暴虐に拍車をかけるものは、一つには強い者の前に屈服し、あるいは進んで取り入って、できれば自分もその余禄にあずかりたいという、人間の醜い心であるといえましょう。
 強い悪は弱い悪を引き出して掌中に収め、ますます強大な悪へとふくれあがります。私は、これが権力悪の実態であり、最も恐るべき悪の自己増殖作用であると考えます。
 トインビー その通りですね。そしてその自己増殖作用は、社会の規模が大きければ大きいほど、それだけ広範囲にわたるものです。たとえば、今日ではあらゆる諸民族が世界的規模の一社会へと合体しつつあります。ところが、この社会は、すでにいくつかの理由から、崩壊の危機に瀕しています。
 まず第一の理由は、きわめて非協調的な百四十の主権国家の存在が、全面的な政治的無秩序を生み出そうとしていることです。第二には、人口爆発が、非常に多くの問題を惹起しています。第三には、最近の驚異的な技術進歩が、人類の少数者に新たな力をもたらし、それを彼らが私有化していることです。この新たな力をもつグループは、世界の諸民族のうちの富裕少数者と呼ぶことができるでしょう。さらに、彼らは、自らの欲望を満たすためにその力を使って、地球資源のうちのきわめて不当な取り分を消費しています。そうした資源の多くは、再生のきかない、かけがえのないものなのです。
 池田 たしかにご指摘の通りです。中国の古い言葉に「苛政は虎よりも猛し」というのがありますが、現代において人間の生存を脅かす最大の敵は人間自身であるという様相が、ますます顕著になっています。人間は、人間自身をいかに治めるかを学ばなければ、破滅の淵に落ちることでしょう。
 トインビー 人類が破滅の淵に落ち込む危険性についてのご指摘ですが、この点について私の考えを付け加えるならば、人類は、富裕者の貪欲さが貧困層の増大や国際関係の混乱と相まって、いまにも全世界を災禍に陥れようとしているという事態に、突如として気づくことになるのではないでしょうか。私は、そうした事態のなかで、共産主義的=フアシスト的な型の世界的な全体主義運動が、主権国家、民主主義政治、自由私企業制といった既成の諸制度を打ち倒すのではないかと予測します。そして、そうした全体主義運動が、ぎりぎりのドタン場で人間事象を安定させることになるでしょう。しかも、それは、抜本的な措置によってなされ、これに欠くことのできない基本的な改革には、苛酷な、不公正な行為が絡んでくるのではないかと思われます。この世界的革命運動は、全世界的な政教一致の組織形態を形成し、独自の新たなイデオロギーを生み出すことが考えられます。そして、この世界的政党の綱領の主要な項目としては、いかなる代価を払ってでも人間生活万般にわたる安定化を図る、ということが謳われるでしょう。
 なお、私は、この革命的事業が一人の苛酷な世界独裁者の指揮下に達成されたとき、一つの反動が起こって、それまで不可欠の要件であった安定化自体も、より穏当な、したがって、より持続性のある形のものへと、改変されるのではないかと思います。これは第二の世界独裁者によって成し遂げられることでしょう。彼は、その前任者の苛政が反生産的であったことを経験的に学んでいるはずですから、彼のとる措置は、人心の機微をつかんだ柔軟性のあるものになるでしょう。
 池田 その世界独裁制の出現という博士の予測は、私にはきわめて大胆なご意見のように思われます。私は、個人の自由意思を踏みにじるような独裁性の出現が三度と再びあってはならない、とつねづね願っております。博士が人類の未来にそのような不安を予見されるのは何故か、どのような根拠に基づいてなのか、もう少し詳しく聞かせていただきたいと思います。
 トインビー この点については数多くの歴史的事実をあげることができますが、とりあえず、いま思い浮かぶ実例を三つだけ述べてみましょう。それは、日本、中国、ローマの歴史上にみられた事実です。
 すなわち、まず、豊臣秀吉の事業を継承した徳川家康は、長期的な徳川幕府体制を確立しました。また、始皇帝が樹立した秦帝国は、十四年間――紀元前二二一〜二〇七年――の短命に終わりましたが、その後継者である漢の劉邦が築いた帝政中国は、断続的ながらも二十一世紀以上の長きにわたって存続しています。同じく、ジュリアス・シーザーを継承したアウグストゥスは、ローマの帝政を確立しました。これは、紀元前三一年から紀元二八四年までは原形のまま、ついで一二〇四年まではより専制的な形で、コンスタンチノープルで存続しました。
 これら三つのケースでは、いずれも過激的な最初の帝政に続いて樹立された、より穏健な形の帝政においてすら、時折は、そしてまたある程度までは、その権力が不当に、かつ抑圧的な方向に行使されています。ただし、概していえば、これらの体制は、それぞれの時代と場所の特殊な状況にあっては、他に考えられるどんな体制よりも、小さな悪だったわけです。
 池田 人類社会の崩壊という深刻な危機に陥ったとき、あるいは、人類は世界的な独裁体制を出現させるに至るかもしれません。私も、そうした危険性はありうると思います。しかし、この世界独裁制出現の可能性については、後ほど、もう少し詳しく伺うことにしたいと思います。
 ともあれ、私は、人類が平和と幸福を求めて努力を重ねていくとき、他のあらゆる問題は解決しえても、最後まで残るのは権力悪の問題ではないかと思います。権力悪を形成している根源の実体は、人間生命に内在する善性に対する悪性だからです。権力の究明、権力が生み出す悪についての究明は、もちろん社会体制の問題もありますが、究極のところは、人間性それ自体の解明、生命の本質の解明にまで遡らなければならないでしょう。
 トインビー 権力の本質的な悪が、本来人間性にそなわる傾向性であり、この悪の力を弱める方途を究明すべきであるとのご指摘は、まことにその通りであると思います。私は、そのための唯一の効果ある方途は、各個人の行為において、利己主義、つまり貪欲を、利他主義、つまり愛に従えさせていくことであると信じています。いいかえれば、自己超克こそが、個人にとっても人類全体にとっても、幸福ヘの唯一の道なのです。
 池田 それをいかに実践し、実現するか――ここに、人間が抱えている最大の課題があるわけです。根本的には、各個人の自覚と自己超克の努力以外にないことは当然ですが、社会全体としても、考え方の基本をその方向に向けていかなければなりません。また、そうした人間の変革が全体主義による個人の尊厳の侵害に陥らないようにするためには――つまり、各個人の自覚的な覚醒によって幸福の追求がなされるためには――万人が納得できる哲学、宗教が、どうしても必要だと思うのです。

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