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日蓮大聖人・池田大作

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1 指導者の条件  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 現代の世界は、第二次世界大戦時代に活躍した英雄や指導者が相次いで逝き、中国の毛沢東やユーゴのチトーなど少数の例を除けば、その個人的魅力や思想によって世界的に大きな影響を与える指導者が、きわめて少なくなったといえましょう。
 これが良いことか悪いことかは、ただちに断定できません。一人の人間に絶大な声望と権力が集中し、そうしたカリスマ的指導者の判断で国家や世界が揺れ動くという事態が解消されることは、ある意味では前進であるといえましょう。さらに、社会が民主的メカニズムの軌道に乗り、そうしたスケールの大きい指導者に依存する必要がなくなったというのであれば、それはむしろ好ましい現象だと思います。
 しかし一方、民主主義社会の現状を考えるとき、はたしてそこに人類社会をリードできる指導性というものがまったくなくてよいかというと、これはまた別問題ですね。
 トインビー 私は、カリスマ的な独裁指導者が、もうこれ以上現れないとはいいきれない、と思います。もちろん、できるだけ多くの市民が最大限に参加できる立憲政体こそ、われわれがめざすべき政治的目標ではありますが、今日の世界があまりにも抜本的な政治的・社会的変革を、しかもきわめて緊急に必要としていることから、これを立憲的なやり方で達成することがはたして可能かどうか、私には疑わしいのです。
 私は、個人的リーダーシップは、いかなる性格の集団的事業にも必要とされるものだと思います。これは、可能なかぎり最も民主的な線に沿って組織された事業についても、あてはまることです。民主的な事業や組織・制度でのリーダーシップというものは、カリスマ的独裁指導よりも微妙で、困難な仕事です。後者の型の指導者は、被統治民に対して、あるいは圧力をかけ、あるいは反理性的な感情をかきたてることによって、彼らを服従させるものです。
 これに対して、民主的政体にあっては、指導者は自分の提唱する政策の正しさを、市民に合理的に納得させることによって彼らの協力を得なければならず、しかもこの理性的な対話は冷静な感情をもって行わなければなりません。
 池田 その違いは非常に大事ですね。たしかにおっしゃる通り、民主的リーダーシップとは、困難で微妙なものです。民主的な指導者は、民主主義があくまで社会運営の制度と機構のあり方を規定するものであることを、常に念頭において行動していかなければなりません。これらの制度や機構は、当然、民主主義のルールに従ってつくられていなければならず、またそれらが運営されていく背景には、民主主義の理念が確立されていなければなりません。ところが、人間の心には、自己の権力を安定させ、より拡大しようとする欲望があります。そのため権力者は、自分がその上にのっているところの制度や機構そのものを、人々に絶対視させることを望みます。そうなると、本来の基盤である、理念としての民主主義が見失われるという傾向があります。
 現在、世界は決して平和で安定しているとはいえません。世界が抱える諸問題を解決していくには、優れた英知と高邁な理念に裏づけられたリーダーシップが要求されるでしょう。民主主義社会においては、指導者の出現というと、とかく反感がもたれやすいものですが、これは感情的に扱われるべき問題ではなく、あくまでも彼がそうした指導理念をもっているかどうか、その指導理念はどこまで実効性があるか、という面から判断されなければならないと思います。そうした判断が、民衆にとって、カリスマ的指導者の独裁を防ぐ大事なポイントになると考えます。
 トインビー 一つの民主的政体が満足に機能するためには、策謀家でも煽動家でもない指導者、つまり国民が抑圧されたり、感情を煽られたりすることなくその指導に従えるような、明らかな倫理的・知的長所をそなえた人物が必要とされます。そのような指導者となると、なかなか見いだすことがむずかしく、またたとえ見いだされても、本人としては、自国民を導いていくという困難で感謝されない仕事を、あまり引き受けたがらないかもしれません。指導者の担う役割は、明らかに最大級の社会的意義をもつものです。しかし、利他的な理由からこれを請け負うとなると、そこには非常に高度の公共的精神と無私の献身とが要求されるわけです。
 現代の民主的指導者たちのうち、その困難な役割を満足に果たすことに最も近づいたのは、私の判断ではF・D・ルーズベルト、チャーチル、それにネルーです。もっとも、ルーズベルトも――またネルーですらも――その選挙民との関係において、完全に公明正大だったとはいえません。そのうえ、この三人には、ともに危機にさいして職務を担当したという有利さがありました。危機に臨んでは、民主国家の国民といえども、甘んじて苦難に耐え、犠牲を払う気になるからです。
 池田 困難な時代にあっては、民衆はたしかに指導者のリードに従いやすいものです。したがって、そうした困難な時代にリーダーシップを握ったことは、いまあげられた人々にとって幸運であったといえるでしょう。しかし、それは彼らがその能力を存分に発揮しうる機会に恵まれていたということであって、もしそれだけの能力がない指導者だったら、事態をますます悪化させていたことはいうまでもありません。
 それはともかく、私は民主主義体制にあって指導者に委託される権限には、必ず期限がなければならないと考えます。その期限を終えれば、その間の功罪について民衆の審判が下されます。そして、それによって再任されるか、退陣して他の人と交代するかどうかが決定されるわけです。このように、在任中の権限はいかに大きくとも、それはあくまでも民衆から委託されたものであり、その成果については民衆の裁きのもとにあるというのが、独裁制と異なる、民主主義体制における指導者の特質であると思います。
 このことはまた、指導者自身にしてみれば、在任中の言動が常に民衆の監視のもとにあることを意識せざるをえないということであり、そこに、次期の再選を望む指導者が、どうしても民衆に迎合する政策をとりやすい、という欠陥も生じてきます。
 トインビー 民主的な指導者は、望ましからざる二つの道の中間をうまくぬっていかなければならず、しかもその中間で彼が巧みに行動する余地というのはきわめて狭小です。一方の道をとれば、彼は、選挙民の要望が間違っていると判断したときでも、なお彼らの願いに迎合したいという気持ちになることでしょう。この誘惑に負けると、彼は指導者という自分の役割を実質的に放棄することになり、自分に寄せられた信頼を裏切ることになります。これと反対の、もう一つの望ましくない道とは、自分では正しいと判断しながらも、あからさまに提示すれば拒否されるような政策について、選挙民を欺いて賛成投票をさせることです。これもまた、指導者に寄せられた信頼を裏切ることです。しかも、そうした指導者の欺臓は、遅かれ早かれ見破られるでしょうから、そうなると彼は結局、信頼感の断絶によって信用を失ってしまいます。
 池田 おっしゃる通りです。指導者は、民衆に迎合するために自己を欺いてもなりませんし、自己の信念を通すために民衆を欺いてもなりません。どこまでも、真実と誠実とを根本としていかなければならないわけです。もし、自己に対しても民衆に対しても欺臓があったならば、彼はその瞬間から指導者としての資格を失うといっても過言ではありません。そして、権力の座を保持することに終始する政治家ほど、社会にとって迷惑な存在はありません。
 その点、かつて貴国イギリスの宰相チャーチルがとった態度は立派だったと思います。第二次世界大戦においてイギリスを国難から救った英雄が、ひとたび戦火がおさまり、戦後の復興期において適切でないと国民から判断されるや、潔くアトリーの労働党に政権を明け渡しているからです。
 私は、政治家に望まれるのは、自己に対しても民衆に対しても変わることのない真実、正義感、公正さを貫くことだと考えます。優れた指導者に要請される資質とは、勇気、正義、常識、寛容、礼儀などであり、それらが発揮されるための不可欠の条件とは、大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆のなかに死んでいくという決意でしょう。
 さらに、指導者にとってその真価が問われるのは、どれだけ優れた後継者を育てたかです。後継者を育成し、その人々に道を譲っていくというこの仕事は、私利私欲にとらわれず、広く人類社会の未来を想う、愛他的な精神が要求されるものだからです。
 しかし、現実には、博士も指摘されたように、そうした優れた指導者というものは、まれにしか存在しません。歴史上の人物をみても、むしろ人格的には必ずしも感心できないような指導者が、業績としてはかえって大きなものを残している例が多いのは、皮肉なことです。
 トインビー 非民主的な国家では、指導者が武力を行使したり民衆を煽動したりして統治を行うわけですが、そこでは、ときとして高潔で無私無欲な熱情家――たとえばロベスピエールとかレーニンなど――は、逆に冷酷・陰険で抜け目なく、機転のきく立身出世主義者よりもむしろ禍いを招きやすく、かえって役に立たない場合があります。
 漢帝国の高祖劉邦、ローマ帝国のアウグストゥス、それにサラセン帝国のカリフ・ムアーウィーヤの二人は、計算高い立身出世主義的な指導者の例です。彼らはいずれも、前代の指導者に柔軟性がなかったために凋落の兆しをみせ始めていた帝政を引き継ぎましたが、その世故にたけた手腕のおかげで、それぞれ各帝国の体制を崩壊から救って立て直し、そこに恒久的な基盤を与えたのでした。彼らの世才的手腕は、倫理上は決して誉められるものではありませんでした。しかし、当時の状況下では、かえって政治上、好都合だったわけです。
 私も、凡庸な資質の指導者であっては、どんな政治体制も首尾よく運営していくことはできないと思います。アメリカ合衆国の歴史上にも、凡庸な大統領が何人かいましたが、彼らは結局、煽動家や策謀家よりも、国家にとって大きな害をなしています。ソ連の歴史では、ブレジネフは疑いもなくあの怪物スターリンよりはましですが、しかし気分屋で精力家の前任者フルシチョフに代わる人物としては、見劣りがするように思われます。

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