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日蓮大聖人・池田大作

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9 死刑廃止について  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 イギリスでは死刑制度は廃止されていますが、日本も含めて世界の大部分の国々では、まだ死刑が行われています。
 イギリスがどのように死刑廃上に踏みきったかは、非常に興味のある問題です。博士は、イギリスの死刑廃止について、どのような見解をもっておられますか。
 トインビー イギリスで死刑が廃止されたことを、私は非常に喜ばしいと感じています。しかし、この廃止も決して驚くべきことではないのです。イギリスでは、かつてこの処置がとられるずっと以前から、警察と犯罪人たちの間に、ある暗黙の了解がありました。それは、双方とも武器を使用しないだけでなく、携帯することも差し控えようということでした。といっても、犯罪者たちが説得されて強盗などの犯罪をやめた、というわけではありません。ただ、警察側が犯罪者に対して暴力の行使を避けたので、その限りにおいて、彼らもなるべく暴力を用いずに犯行をしようとしたのです。そこで共通にめざされたことは、暴力は最小限に抑えようということでした。したがって、論理上は、死刑の廃止はそうした人道的な方向に沿う、大きな一歩前進となるはずだったのです。つまり、これに対する犯罪者側の反応としては、殺人を一切やめるということでなければならなかったはずです。
 ところが不幸なことに、イギリスでは、死刑廃止に続いて起こったのは、職務上犯人の逮捕にあたった警官たちが次々と殺害されるということでした。すでに死刑が廃止された今日では、犯人としては次のような計算が成り立つのでしょう。つまり、自分が警官に逮捕されてしまったらそれまでで、その犯した罪が重ければ、長期間の禁固刑に服さなければならない。そこで、いっそのことその警官を殺してしまえば、その後逮捕されたとしても、最悪の場合でせいぜいもっと長期間の服役をすれば、それですんでしまう。あるいは、自分を逮捕しかけている警官を殺してしまえば、まつたく捕らわれずにすむ可能性も出てくる――と。こんなところに、犯人たちが警官を殺害しようとする動機がひそんでいるわけです。
 こうした新しい事態が生じたことによって、警察の仕事は以前よりも危険になりました。そこで警察側としては、公務執行中の警官が犠牲となった殺人事件の場合は、それに対する刑罰として死刑を復活すべきであると提案しているのです。
 池田 私は、そうしたイギリス警察の考えは、無理もないとは考えます。しかし、それでは死刑を復活させれば警官の犠牲はなくなるかというと、そうでもないことは、諸外国の例をみれば明らかです。私はあくまでも死刑は廃止されるべきだと考えます。死刑廃止論を唱える人は「人が人を裁き、その生命を奪うことは許されない」というヒューマニズムの精神か、または「死刑を廃止しても犯罪は決して増加しない」という根拠に基づいています。一方、死刑の存続を主張する人は、死刑が犯罪の抑止力になるという効果を説いています。しかし、死刑に犯罪の抑止力という効果があるにしても、そういう考えには、殺されたことへの報復という思想や、生命を奪うことによって他への見せしめにしようという思想があるように思われます。
2  報復は必ず新たな報復を招き、悪循環をもたらすものです。また、見せしめという点についていえば、私は、絶対的に尊厳である生命を、生命以外のもののために手段化するのは、断じて許されないことだと考えます。生命の尊厳は、それ自体目的であり、したがって、もし何らかの社会的な犯罪抑止力が必要ならば、死刑以外の方法を考えるべきです。
 見せしめのための死刑というのは、人間社会につきまとってきた残忍性のあらわれであり、現代において、ますますその傾向は強まっています。現代における生命軽視の風潮はそのあらわれであり、そのような風潮を生み出している最大のものは戦争です。戦争は、多くの場合、国家がその利益のために人間生命を手段化し、犠牲にするもので、これ以上の罪悪はありません。これを許しているかぎり、凶悪な犯罪の温床は広がり、深まる一方です。
 トインビー 私は、あらゆる国々で、死刑が廃止されるよう望みます。それには、二つの説得力ある理由があります。
 その第一は、どんな人間にも他人の生命を奪う権利は、道義上まったくないということです。おっしゃる通り、死刑廃止は、同時に戦争の放棄を必要とします。一方では、ある人間が他人や人間社会に対して何らかの重罪、たとえば殺人を犯した場合、このたった一人の人間を、できるかぎり非人道性の少ない方法で死刑に処すことさえ私たちの権限にないとしておきながら、他方、戦争にあっては、最も残酷で最も野蛮な手段をもって、無数の人間を殺傷することが正当視されるというのでは、それこそ非論理的な話です。しかも兵士たちは、個人的には何の私怨ももたないいわゆる敵兵を、命を賭しても殺すよう強制されるまでは、かつて人間同胞に何の罪を犯したこともなかったのです。戦争は、人々を殺すだけでなく、人間を無理やり殺人者に仕立てあげます。そして、この二つの罪悪を、個人の次元だけでなく、集団的に犯させるのです。
 死刑と戦争を廃止すべき、第二の説得力ある理由とは、一度殺してしまった生命は、再び元へ一戻すことができないということです。たとえその人が度重なる重罪を犯した人であっても、生命あるかぎりは、道徳的に更生する可能性があるものです。
 池田 死刑廃止には、それと同時に戦争放棄が必要だという点で、私たちの意見はすでに一致しています。この戦争放棄ということに含まれますが、とくに私が主張したいのは、核兵器を使用することだけは断じて許されないという点です。もし死刑が許されるものとするならば、戦争を起こし、核兵器を使用する魔性の人こそ、死刑に処せられるべきでしょう。といっても、私が死刑を認めるというのでないことは、よくおわかりいただけると思います。私は、人々が、核兵器による大量殺人という、最大の罪悪を抹消すべき強い姿勢に立ち、その根を断ち切るべきだといいたいのです。
 私は、現在、死刑廃上の方向が各国で模索されているのは、非常によい傾向だと思っています。しかし、もう一歩、死刑に値するような犯罪を生まない社会を築いていく努力が、続けられなくてはなりません。そのためには、どうすれば今日の生命軽視の風潮が抜本的に改められるかを、考えることが先決でしょう。
 ただ、現実の問題としては、いわゆる凶悪犯に対していかなる姿勢で臨むかということも、考えなければなりません。これについては、私は、どんな犯罪者に対しても、忍耐強くその良心を呼び覚ましていく努力が必要だと思います。この努力をせずに、国家が凶悪犯を死刑に処すならば、国家自体が殺人を行っていることになりましょう。どうしても社会的制裁が必要な場合でも、死刑以外の手段が講じられるべきだと考えます。
 トインビー ある国で死刑が廃止されたからといつて、では、有罪と決まった犯人にも十分な個人的自由が与えられてよいかというと、決してそんなことはありません。何の罪科もない一般市民が道義的・法的な権利としてもっていると同じだけの自由が、犯罪者に与えられてよいはずはないのです。殺人犯にも生き続ける権利があるというのであれば、同じく無辜の隣人たちには、殺人犯によって殺される危険から保護される権利がある、といわなければなりません。したがって、殺人犯として服役中の者は、釈放しても他の人間に害を加える恐れが、もはやまったくないと思われるまでは、刑期を解くべきではありません。ただし、この場合、あくまでもその恐れがないと思われる、ということであって、そこに確実性はないわけです。
 犯罪者を刑に服させることの目的は、報復をめざすものであってはなりません。むしろ、どこまでも犯罪の予防をその目的とすべきであり、さらにこの消極的な目的を超えて、積極的に教育し、更生させることをめざすべきです。刑務所は、できうるかぎり、犯罪者に自力更生の道を教える、学校のような存在にすべきです。しかし、これは、はたしてどこまで可能なものでしょうか。教育の効果は、自発性の度合いに比例するものです。他の人間関係と同様、教育にあっても、強制は抵抗を生みがちです。刑務所という名の学校も、やはり客観的にみて、また服役者自身の意識からいって、強制が最大限行われ、強制がもたらす怒りが極限に達している学校なのです。
 池田 あらゆる刑は報復的なものでなく、予防を目的とするものでなければならないとする博士のご意見に、私も賛成です。また、服役者の教育は強制をともなうゆえに、効果を生むことはむずかしいというご指摘も、まことにその通りであると思います。この囚人教育がもっている限界を乗り越える唯一の道は、教育者の並々ならぬ情熱と慈愛であり、そこから、服役者との間に真に人間的な心のつながりをつちかうことではないでしょうか。
 ともあれ、死刑の廃止、死刑を必要としない社会を実現させるには、仏教で説く″慈悲″の精神がすべての人々に行きわたり、確立されることが望まれます。それによって初めて、人間が真の意味での生命の重みを認識し、生命の尊厳に目覚めることができると信ずるからです。

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