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日蓮大聖人・池田大作

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3 組織と価値観  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 現代文明を考えるとき、どうしても根本的に認識しなければならないこととして、組織に関する問題があります。組織は、技術や情報とともに、現代文明を支えている重要な柱であり、それが人間に与えている恩恵は計り知れないものがあります。しかしまたその反面、人間にとって重大な脅威となるものだということも事実です。
 つまり、人間がつくり出したはずの組織なり社会というものが――もちろん人間の意志を反映してはいくのですが――そのメカニズムによって、人間にとってはまことに望ましくない方向に機能していくという側面があることです。私は、この組織、社会の自律的運動が、人間性を著しく抑圧し、歪めているところに現代の悲劇があると思います。
 トインビー たしかに、組織というものは、往々にして、その創設者の考えとは別の結果を生みだします。これはあたかも組織がそれ自体の意志をもち始め、その成員がめざすものとは別の目的を勝手に設定していくかのような印象を与えるものです。しかし、私の想像では、事の真相は、組織そのものが自律的な人格的存在になるのではなく、むしろその組織の支配者たちが、自分が責任をもつ組織を存続させることを第一の関心事とすることからくる問題だと思います。これらの人々にとって第二の関心事となるのは、その組織が創設された当初の、目先だけの小さな目的を達成することであり、そこでは、より広範な影響とか、最終的な結果とかは考慮されないのです。
 池田 その端的なあらわれの一つが、高度工業社会にみられる公害でしょう。公害を引き起こした要因を考えてみますと、そこにはさまざまな要素がありますが、最も根本的な問題としては、人間と自然の関係性を無視した征服の思想、またそれに基づいた価値観が指摘されると思います。
 しかし、私がここでとくに注目したいのは、それらの要因は、現時点ではたしかに批判の対象とはなっているものの、それぞれ歴史のある時点では、積極的に高く評価された考え方であり、思想であり、行動であったということです。つまり、それらの発想なり行動なりというものは、歴史的にみれば、決して非人間的な動機や衝動から出てきたのではなく、むしろほとんどの場合が、個々のレベルでは人間としての善意に基づいていたのではないでしょうか。
 ところが、それら個人の発想の時点では善意であったものが累積され、社会のメカニズムに乗ってしまうと、各人の善意とはまったく異質の、ときにはその善意すら否定するような組織悪、社会悪となり、しかもそれらが拡大再生産されていきます。たとえば、ある薬品を、人類の福祉に貢献するものと信じてつくり出した人がいるとします。ところが、それが一つの巨大な企業に発展していった場合、その薬が害を及ぼす危険性のあることに気づいても、もはやその薬の製造を中止するのは容易ではなくなってしまいます。それは、この薬品の製造がその企業という組織の生命になっているからで、製造中止の決定は、組織の生命にかかわる問題になるわけです。
 トインビー 本来は善であったはずの組織が、いつのまにかその組織自体にも個々の成員にも難問題を投げかけるということは、よくあることです。たとえば、ある企業の労働組合の執行部が組合員の賃上げに成功したとしても、それが行き過ぎると、その結果は企業自体を破産させ、組合員たちもすべて永久に職場を失ってしまうということがあります。すると、せっかく組合が獲得した高賃金はもはや支払われず、組合員たちは収入がなくなって、国家支給の失業手当で生活していくというハメに陥ります。こうした結果というものは、当然、組合執行部や組合員の当初の願望に反するものですし、政府の願うところでもありません。それは、組織の近視眼的な運営から生じた結果なのです。
 池田 その通りですね。この問題については、現代ほどそれが顕在化していなかった時代、すなわち十九世紀中ごろから、すでに先見性ある哲学者や思想家がさまざまに指摘してはいますが、その解決法となると、いかんともしがたいようです。
 労働者――資本主義社会の犠牲者としての民衆――の救済に真っ向から取り組んだはずのマルクス主義も、その社会理念が社会体制として現実化してくると、やはり人間がつくりなす組織悪、社会悪に覆われてしまっているようにみえます。こうした趨勢から、人間と社会、人間と組織、人間と体制という問題は、もはや解決不可能なのではないかという諦観も生まれ、そこから組織、集団に対する拒絶的な態度、すなわちニヒリズムやアナーキズムヘと傾斜していく動きも目立ってきています。
 トインビー ニヒリズムやアナーキズムは、組織運営がうまくいかないことに対する第一の反発だと思います。たとえば、今日の″怒れる若者たち″やヒッピー族などは、最大限の利益をめざす競争的私企業による経済体制の失敗に対して、抗議しているわけです。こうした、ある体制への怒りの反応というものは、抗議のゼスチャーが向けられた組織の崩壊を早めるだけにとどまります。しかし、次にくる第二の反動として、急進的な独裁政権が出現することが考えられるのです。
 池田 私も、それを最も危惧しております。ところで、現代の組織が内包するそうした矛盾に対しては、さまざまな改革の試みがなされています。ある人は、自らの組織の内面から積極的な改革策を講じ、またある人は、これまでのように組織に依存するのではなく、個々人の主体性に基づく共同体的な運動形態をとろうとしています。しかし、この現代の矛盾を是正するカギは、決して技術的な試みのなかにはないと私は考えます。この矛盾は、一つの社会体制や機構を改革したくらいで、ただちに解決できるものではありません。
 私は、まず人間が、自らの行動の基準となっている価値観自体を、再検討することから始めなければならないと思うのです。つまり、現代の人間にとって、最も普遍的な価値をもつ生き方は何か、ということの再考察です。
 その原点に立ったうえで、そこから一つ一つ、現実のわれわれの生活態度や行動を再点検し改めていかなければならないでしょう。この普遍的な価値観をまず確立して、その次に、それを実現するにはどういう組織、体制が望ましいかを検討すべきだと思います。この点、私のいだく現代文明社会改革の基本構想は、まず現代における哲学、宗教の確立、次にそれを基盤にした意識革命――その根底は人間性自体の革命――であり、その次に組織や社会の変革という順序になります。
 トインビー 私も、現代社会の病根を治すには、人間の心の内面からの精神革命による以外にないと考えます。社会的病弊は、組織の変革によって治癒できるものではありません。そうした試みはすべて皮相的なものであり、結局は組織を全面的に拒否するか、または一つの組織を別の組織にすげ替えるかの、いずれかになってしまいます。効果ある唯一の治癒法とは、あくまで精神的なものです。社会のどんな組織や制度も、すべて何らかの哲学や宗教を基盤としており、そうした精神的基盤のいかんによって、組織は善にも悪にもなるものです。
 したがって、人類が新たな精神的基盤を必要としているというご意見には、私も賛成です。何らかの新たな基盤が見いだされ、それによって現代社会の病根が治癒されるとすれば、その新たな、より優れた精神的基盤の上に、新しい、より満足すべき形の社会を建設することができるでしょう。それ以外に、この病根を癒やす可能性は見当たりません。
 池田 そこに必要とされる精神的基盤とは、あくまで各個人がもつさまざまな価値観を、すべて包括的に満足させられるものでなければならないでしょう。
 人間がもつべき価値観は、決して偏狭なものであってはなりません。一個人、一集団、一民族、一国家、一イデオロギーの利益や欲求を満足させればよいという、極端な利己主義は当然排除されるべきです。偏狭な価値観が、過去においていかに矛盾と不合理に満ちた社会を形成したか――このために起こった悲劇を、人類は幾多体験しているからです。
 二十世紀後半から二十一世紀にかけて、人類がもたなければならない価値観とは、少なくともそのような個別的なものではなく、普遍的なものでなければならないと思います。人間はどう生きるべきかという問題は、決して一つの社会の通念や常識の枠内でではなく、人類社会と全地球的自然と、さらには宇宙との関連性においてとらえられなければなりません。なぜなら、人間の存在は、たんに一国家を基盤にした社会的存在ではなく、人類社会、全地球的自然、さらには宇宙全体と連鎖的な関係にある生命的存在であるからです。
 トインビー まさにおつしやる通りです。
 池田 これまでの人間観にあっては、概して、その一部である社会的存在としての側面には非常な関心が払われてきましたが、この人間存在の淵源である生命的存在としての考察は、軽視されてきたきらいがあります。
 人間が生命的存在であるということは、いかなる社会、国家、民族をも超えて、普遍的かつ絶対的な命題です。これに対して、社会的存在としての人間は、時代、民族、国家などによって異なってきます。その意味で、人間が真に人間らしく生きるには、まずこの生命的存在であるという、自明の原点に立たなければならないと私は信じます。そして、人間が厳然とこの認識に立つことが、現代の要請である普遍的価値観を築く出発点になると思うのです。
 では、人間がこの原点に立つときに生まれてくる価値観とは何か――。それは当然のことながら、人間のこの本質的なあり方を決定する生命の尊厳を常に第一義とする考え方、生命を代価物のない至上の価値として認識すること、となりましょう。
 トインビー 生物が本然的にもつ衝動は、己の利己的な目的のために他の生物を、そして自已を除く宇宙のあらゆるものを利用しようとすることです。しかし、これは正しい態度ではありません。およそ生あるものは、自らを宇宙から遊離した存在とみなすのではなく――ましてや一種の反宇宙的な存在とみなすことなく――それぞれが宇宙の不可欠の一部であることを知らなければなりません。
 こうした態度にみられる真実の視野こそが、奪う代わりに与えるよう、また貪る代わりに愛するよう、人間の心を高めてくれるのです。このことは、すべての高等宗教、高等哲学の教戒となってきました。
 池田 言葉こそ違え、私たちの主張は一致するものです。そうした真実の視野に立つとき、人間が現実生活でとるべき態度、行動は、最高の価値としての生命の尊厳に立脚しつつ、宇宙のあらゆる生物を包容していくことでなければならなくなります。
 われわれが現在の体制の矛盾を解決しようとするとき、まず、人間が宇宙、自然に本源的に関わり合いがあるという、この価値観をもつことこそ、最も大事なポイントであると思います。
 トインビー 人々はこれまで自分たちを、ある限られた社会の成員とみなしてきました。かつていかなる社会も――いかなる伝道的宗教でさえも――全人類の帰属をかち得たことはありません。現代に入って初めて人類は一体化されましたが、それもこれまでのところ、たんに技術面での一体化にすぎず、社会面、宗教面での一体化はまだ達成されていません。
 技術面での地球の一体化は、今日すでに既成事実であり、否定することはできません。しかし、もしこの一体化が技術レベルの域を出ないならば、それは世界的な兄弟愛をもたらすものではなく、相互破滅を招くだけでしょう。われわれは事態をこのまま放置しておくわけにはいきません。どうしても、精神面での一体化を急がなければならないのです。
 われわれは、あらゆる人間の目を開かせ、そこから人間が全人類を包含する社会の一員であり、人類が全宇宙的な生命体の一部であるという自覚をもたせるような、世界的宗教を必要としています。われわれの精神的な目標は、宇宙と地球人類家族をそれぞれ代表する個人との、調和を築き上げることにおかれるべきです。
 池田 その点、まったく同感です。そうした調和を確固たる前提として踏まえたときに、初めて社会的存在としての人間のあり方の新たなパターンも生まれ、新たな社会論、体制論も成立するものと信じます。

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