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日蓮大聖人・池田大作

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2 余暇の増大に対して  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 先進工業社会では、生産手段の機械化をはじめ労働の合理化にともなって、余暇が著しく増大してきており、日本でも、官庁や大企業では週休二日制に踏みきったところもあって、余暇をいかに過ごすかが人々の大きな関心事になってきております。
 一般的に、日本人は勤勉で働くことの好きな国民とされていますし、とくに、現在、中年以上の階層についてはその通りで、彼等は余暇の有効な過ごし方があまり得意ではありません。しかし、若者たちのほうは、むしろ余暇の使い方の巧みさが一種の優越感をもたせるくらいまでになっており、そうした若者たち相手のレジャー産業が繁栄しています。この傾向は今後一層強まっていくでしょうし、それにともなって人生において余暇の占める部分は無視できないものになっていくでしょう。
 労働の場合は、各自の持ち場によって、毎日しなければならない行動が決定されていますから、個人はそれをいかに正確に、効果的にやり遂げるかを考えればよいわけで、何をなすべきかに悩まなくてもすみます。ところが余暇となると、まず自分は何をなすべきかということから考えなければなりません。これは多くの人にとっては、むしろ苦しみであるとさえいえるでしょう。
 トインビー 余暇は人間の選択領域を拡大させます。ところが選択を迫られるということは、かえって苦しい責務となる場合がありますから、人間性としてはなるべく余暇を避けようとします。これは、人々が民主主義から逃れようとする理由に相通ずるものがあります。
 人間は、人間性を剥奪されることによって、たとえば機械の歯車と同じような存在にされたときに、自ら決定を下すことの責任から解放されます。こうした人間性剥奪のための伝統的な方法が、政治的独裁と軍隊の訓練、教練でした。しかし、産業革命以後、こうした昔ながらの非人間化の麻酔剤に、機械化された工場での、綿密に組織化された作業の単調さが加わりました。つまり、政治警察や訓練係の軍曹は、ベルト・コンベヤーという人格をもたない暴君から援軍を得たということなのです。しかも今日では、科学的に管理される機械操作から、すでにオートメーションヘと技術が進歩しています。これは、従来は少数者の特権であった余暇が、あらゆる人々に与えられることを約束しています――というよりは、人々を脅かしています。
 池田 そこで、近い未来において、仮に一切の生産活動が、機械とコンピューターとロボットによって行われ、人間は労働する必要がなくなったと想定してみましょう。もちろん基本的な生産計画の検討やコンピューターヘの指示などは、特殊なエリートによってなされるでしょうが、ともかく大多数の人々は働く必要がなくなったとします。すると、今度は、毎日毎日をいかに過ごすかを考えるのが最大の問題となってきます。そうなると、これはもはや″余暇″とはいえなくなってしまうでしょう。
 そうした社会になったとして、たとえば作家、芸術家などのように創造的な才能をもち、そうした仕事に喜びを感じていける人は、退屈で苦しむことはないかもしれません。しかし、そうでない多くの人々にとっては、余暇を過ごすための活動は、非創造的な遊戯やそれに似たものとならざるをえないわけです。
 本来、人間は創造的能力をもった動物であり、何らかの意味で創造の喜びを奪われては生きていけない存在ですが、いま申し上げたような事態を考えると、この創造的能力を各自がいかに発掘し、発展させていくかが、余暇問題解決へのカギになってくるのではないかと思われます。
 トインビー たしかに、そういった創造的能力を伸ばすことも、またそれらを活用する重要性に気づくことも、ともに必要になるでしょう。なぜなら、過去に余暇を享受してきた人々は、必ずしもそれを十分に有効には使っていないからです。たとえば、特権少数者はしばしばその余暇を重荷と感じてもてあまし、他愛もない娯楽とか、邪悪な戦争とかいう仕事をわざわざ作り出しては、暇をつぶしていたのです。この種の人為的な暇つぶし以外には、こののらくら者たちにはたった一つの仕事しかありませんでした。それは、何ら社会に奉仕することなしに手に入れた彼らの特権を、力ずくで維持するという仕事でした。
 このグループとは対照的に、特権少数者のうちでも創造的少数者たちは、余暇を重荷と感じるどころか、むしろ恩恵とみなしていました。彼らは、一生の余暇をすべて仕事に捧げても、なおやりたいことが多すぎて、予定を消化しきれないといった人々でした。このように、過去においては、余暇は有閑特権少数者に特有の問題でした。しかし、オートメーション時代には、大多数の人々がこの問題に直面することでしょう。
 人々は余暇を逃れ、余暇の責任から逃れようと熱心に願うわけですが、もし余暇というものが、そうした熱望が示すほど真実好ましくないものだとすれば、きっとオートメーション時代にも特権少数者がまだ存在することでしょう。ただし、この特権少数者は、余暇という特権ではなく、仕事という特権を手にする人々であるはずです。この少数の人たちとは、他の人間から義務的な職務をもぎとってしまうコンピューターを製作し、操作し、プログラミングする、一握りの働き手たちであるはずです。
 オートメ化時代以前には、大多数の人々が生計を得るための労働をしなければならなかったわけですが、その仕事に対する態度は、両面的な感情をともなっていました。彼らは労働を強いられると、不公平にも特権少数者だけが免れている重荷を、自分たちが背負い込んでいると憤慨したものです。ところが、いったん職を失うと、今度はたとえそれまでの労働が単調で骨が折れ、気に入らないものであったにせよ、失業したこと自体に腹を立てたのです。
 池田 失業は耐えがたい苦しみであり、その怒りは当然のものです。私は、生活のために労働が必要でなくなる時代がきたとしても、人間が人間らしく生きるには、労働はあくまで必要ではないかと考えます。これは、たとえば、創造の結果を直接見ることのできる鍛冶屋や農耕従事者であっても、またはその結果を直接には見ることのできない巨大企業の一作業員にしても、変わりのない喜びです。
 余暇が増えるのは結構なことですが、労働を奪われるのは決してよいことではありません。文明は、労働時間の短縮、余暇時間の増大をそのまま人間の幸福の増大につながるものとして、今日まで進んできました。もちろん、これもある段階まではよいのですが、そこにはおのずと限界がなければなりません。今日の実情が、すでにその限界に達しているかどうかは一概にいえないにしても、余暇問題にも必ずプラス面とマイナス面がともなうことは、現代人のすべてが見きわめていかねばならないでしょう。限界に近づき限界を越えると、必ずマイナス面が強くあらわれてくるわけで、それを無視して推し進めることは、必ず反動を呼び起こすことになるでしょう。
 たとえば、今日、日本でも女性の間で衣服やアクセサリーを自分の手で作ることが、一種のブームになり始めていますし、自動車をやめて自転車に乗ろうという機運が広まってきています。このような余暇を労働に振り替えようとする傾向も、もちろん、まだ産業の核心に迫るところまでいっていないことは確かです。しかし、やがては現代文明のあり方に対して、何らかの人間的な抗議が激しく起こってくることが予想されます。自己の力を存分に発揮できる仕事を失うことは、人間にとって耐えがたい苦痛だからです。
 トインビー 失業をすることは、いうまでもなくいろいろな不利を招くものです。失業の苦しみのうち、最も深刻ではないにしても、最も明らかな苦痛は、経済的な困窮です。しかし、失業がもたらす心理的苦痛は、それ以上に激しいものです。何もすることがなくなったかつての労働者というものは、自分が社会にとって余分な存在になったと感じるものです。これは屈辱的なことです。人間は社会的動物であり、社会のはみだし者になることは人格を否定されたも同然の印象を与えるからです。
 さらによくないことには、失業するということは暇になるということです。それも、失業した人がたまたま数少ない創造的才能の持ち主で、生涯、余暇ばかりであったとしても、時間的、体力的に、消化しきれないほど多くの仕事があるのなら、話は別です。そうでもないかぎり、その人は人間の運命という、究極の問題に突き当たらざるをえません。人間は生計の資を得る職をやめたり、また、生計とは何の関係もない、自分でつくり出した仕事をやめると、途端にこの問題に悩まされます。その自分でつくった仕事が、いかに他愛なかろうと、有害であろうと、あるいは創造的であろうと、それは変わりありません。
 人間の運命という問題は、すべての人を待ち受けています。これはいかに鈍感な人にも、いかに無感覚な人にも、共通の問題です。なぜなら、人間が意識ある存在であるかぎり、人間であることは厄介な立場、恐るべき神秘さのなかにいることだと、ときとして気づかずにはいられないからです。自己の存在が危機に見舞われた折などに、人間のこのような立場や神秘さに直面することなく、一生を終えるという人はほとんどありません。そして、慢性的失業状態とは、まさにこの一時的に見舞う危機と同じ働きをしうるのです。つまり、人間の運命という問題を、不可避的に突きつけるのです。
 この問題を直視せざるをえないのは、祝福すべきなのでしょうか、それとも呪わしいことなのでしょうか。多くの人間は、まるでそれが呪わしいことであるかのように振る舞っています。すなわち、彼らは強制的な仕事によって麻痺されることがなくなると、今度は自ら不必要な仕事を考え出して自分を麻痺させます。もし社会からはみだして社会的麻痺剤を手に入れられなくなると、彼らは酒や麻薬で身体を麻痺させるのです。
 池田 私は、余暇が増えるにせよ、労働に取り組むにせよ、人間にとって結局大事なことは、そこに主体性を確立し、創造的に生きていくことだと考えます。
 現代の風潮には、たんに労働時間さえ減らせば、それはただちによいことだとする考え方があります。しかしながら、労働は人間にとって苦痛であるとともに、創造の喜びをもたらすものでもあるわけです。この両面の意味があることを忘れて、人間を労働から解放して余暇を増やせば、それだけ苦痛が減って喜びに変わるだろうと考えるのは、あくまで誤りだといわざるをえません。
 社会体制のあり方としても、私は、労働によって個人を義務的に束縛するのではなく、各人が自己の才能や特質に応じて思う存分働くことができ、余暇もまた有効に過ごせるような、総合的な体制がつくられなければならないと思います。
 トインビー おっしゃる通りです。しかし、ここでもう一度、余暇を人間の運命に取り組むことに使うという点について、簡単にふれてみたいと思います。なかには、余暇をそのように使うことを幸いと感じる人もいるものです。人間の運命を直視するということは、宗教、哲学の別名です。かつて余暇をもつことを特権としていた少数者のうちでも、創造的少数者のなかには、芸術、科学、技術などよりは、むしろ宗教、哲学の分野に才能を発揮した人々が、いつの時代にもいたものです。
 このように、人間の究極の精神的問題を考えることに生涯の余暇を費やして、そこに自己達成を見いだすことのできた人もいるということは、あらゆる人にとって、そこに自己達成のカギが秘められているということではないでしょうか。きっとそうであるに違いありません。ただし、人間の運命という問題が、意識に目覚めたすべての人間を待ち受けているというのが真実であればの話ですが、これも間違いなく真実であるはずです。
 人間は社会的動物ですから、宗教にも社会的な面と個人的な面とがあります。ヒンズー教、仏教、キリスト教などの隠遁者たちといえども、彼らは、自身の精神的生活の要求に応じることによって、社会的機能を果たしているのだという自覚をもっていました。そして、社会に対する彼らの奉仕は、世間一般の人々からも認識され、承認されてきました。
 宗教こそは、オートメ化から生じる種々の問題の解決を求めるうえで、最も有望な分野であるように思われます。宗教は、個人的活動であると同時に、社会的活動です。いかに避けようとしても、宗教は、われわれの人生の道程において、いつかはわれわれに直面してくるものです。たとえ宗教からまつたく逃れることができたにしても、その逃避の代価は、人間性の喪失ということになるでしょう。

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