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日蓮大聖人・池田大作

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3 一般医と専門医  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 現代医学の主流をなしているのが、近代科学の思考法に支えられた西洋医学であることは、いうまでもありません。しかし、その医学も、精神身体医学者が主張するように、人間生命を分析し、専門分化を重ねた結果、真実の意味での人間の病気を見失おうとしています。つまり、西洋医学は、病める人間生命から病気を切り離してしまい、病気自体に関する知識を山のように積み重ねていながら、現実に苦悶する人間のほうは忘れ去っているというのが実情ではないでしょうか。
 トインビー 残念なことに、西洋では過去三世紀の間に、医学は他の科学一般と同じ道をたどってしまいました。つまり、分析、選択、専門化といった方面に、進路を転じてしまったのです。
 専門医は、ある一つの器官、一つの病気の取り扱いのみにとどまっています。ちなみに、私の父方の祖父は耳科専門医でした。ロンドンでは草分けの耳科医だったのです。専門医は、自分が治療にあたっている器官や病気の持ち主である患者の全体像には取り組みません。これに対して、一般医のほうは人間を全体的に診療するわけですが、彼らは専門医からはよろずやとか、″多芸は無芸″とかいわれてさげすまれています。
 アメリカでは、近代西洋医学のこの専門化の傾向が、いまやその極に達した観があります。この国では、一般医がほとんど姿を消してしまいました。多くの専門医が、同じ屋根の下に診療室をかまえ、患者は一人の専門医から他の専門医へとタライ回しにされるのです。これでは、困るのは患者のほうです。まず、最初にどの専門医に診てもらったらよいのかわかりません。診断を下してくれる一般医がいないからです。
 かつて、アメリカで、私ども夫婦がある大学の構内に着いたとき、妻は悪性の咽喉カタルにかかっていました。ところが、そこの学長の奥さんは、いったいどの専門医に診せたらよいのか、思案投げ首の様子でした。
 池田 それが生命にかかわる病気の場合だったら、大変なことでしたね。
 たしかに専門医にはそれなりの存在価値があるわけですが、問題は、病人はその患部だけで苦しむのではなく、生命全体で苦しんでいるということです。もちろん、臓器や細胞組織の病的変化が原因であることは間違いありませんが、そのような物質的、肉体的変化が、そのまま生きている人間の苦悶に直結するわけではありません。また、そのような病変が、病人という人間のすべてであると考えることもできません。
 西洋医学は、病気の人間の一部でしかない病的変化に執着するあまり、苦悶する人間生命そのものを放置し、かえって病状を悪化させるという愚行をさえ犯してきたように思えてなりません。極端な例をあげれば、外科的、薬学的方法によって、病気そのものは治ったけれども、そのときすでに病人は死亡していたという、常識では考えられないことも起こりうるわけです。
 トインビー そういった事態が起こりうるからこそ、私は一般医の役割というものを重視したいのです。
 一般医は、普通、″かかりつけの医者″という名で親しまれていますが、これはまことに当を得た呼び名です。一般医は、たんなる技術屋ではありませんし、たんなる科学技術者にとどまるものでもありません。彼は、自分が診察している家族全員の友人であり、信頼できる友なのです。また、一般医は、患者を人間として理解しており、互いに敬意をもち信頼し合うという人間的な関係にあるため、その技量を効果的に用いることができるのです。
 一般医は、専門家によくある、自己過信がわざわいして職業上の危険を冒す、といったことはありません。彼は、自分の一般医としての知識と技量の限界をよくわきまえていますから、自分では手に負えないと判断したときには、適切な専門医を呼びます。そうした、専門医の助けが必要な場合、誰が適切な医師かをよく知っていなければならないのは、一般医として当然のことです。
 医療においては、診断が何よりも大事です。その最初の診断を下すのが一般医です。その診断は不完全かもしれず、もしかすると誤診の場合もありましよう。しかし、これは必要不可欠な第一歩です。そのうえ一般医の仕事は、最初から最後まで必要とされます。それは、一般医が、専門医と違って、患者やその環境を個人的によく知っているからです。専門医としては、そうした、かかりつけの医者だけが提供できる知識を参考にして措置を講じないかぎり、自分の技術をめくら滅法に使うことになります。その結果、患者にとっては百害あって一利なしということにもなりかねません。
 池田 日本でも、そうしたかかりつけの医者といった存在は、しだいに影が薄くなってきました。これは悲しむべき現象だと思います。
 ところで、こうした専門分化の方向は、近代以後の西洋医学が必然的にたどってきた道でしょうが、そのような西洋医学の動向を見つめて、その弊害を克服し、人間生命を全体的にとらえようとした試みに、ハンス・セリエのストレス学説や、精神身体医学があります。私は、これらの新しい方向を、人間のための医学をめざす医学者の努力の成果として、高く評価したいと思います。
 それと同時に、私は、東洋民族の英知と経験によって形成され、発展してきた東洋医学の存在価値を、再び見直すべき時がきているように思うのです。東洋医学は、人間に対する総合的診断を重んじ、この一貫した考え方のもとに長い歴史を経て蓄積されてきた知識の体系であるからです。
 すでに、今日の中国では、西洋医学を学んだ医師と東洋医学に熟練した医師とが、ともに協力し合って、患者の診療にあたっています。また、日本でも、東洋医学の思考法が再評価されようとしています。まだ全体的な流れにはなっていませんが、医学者のなかから、東洋医学を身につけようとしている人が出てきております。
 このように、東洋医学が再び注目されている理由は、一つには近代西洋医学の弊害が顕著になってきたからでしょう。もう一つの理由は、東洋医学のなかに、病人から病気を切り離すのではなく、病人をあくまでも全体像としてとらえようとする姿勢があるからでしよう。つまり、肉体的な病変を追究しながら、それだけにとらわれず、人間に視点を当てて、健康体笙戻そうとする姿勢が貫かれているためでしょう。
 西洋医学では、肉体的な病変を主として追究し、その病変を治すために外科的方法や薬物を使います。ところが、東洋医学では、あくまでもこのような病変をもった病人自体が問題なのであって、病人の状態を精密に観察したうえで、病人を健康体に戻そうと努力します。いいかえれば、個人のさまざまな病状を″症″――これは症状群と考えられるのですが――として把握し、それを分析し、生命全体の観点から治療法を決めるのです。
 しかも、その″症″自体の把握にあたっては、環境や宇宙自体のリズム、たとえば気候、風土等との相関関係のうえで位置づけようとします。そのためにとられる原理を体系化したものが″陰陽五行説″であるわけです。″陰陽五行説″は、宇宙と人間の関係を″大宇宙対小宇宙″の関係としてとらえようとするもので、私は、その方向は大体において正しいと考えています。ただ、″陰陽五行説″は、数の配合にとらわれて形式主義に走った結果、東洋医学もしだいにその影響を受けて現実から離れ、観念的になっていったことは事実です。東洋医学のもう一つの欠陥は、西洋医学の特徴である、合理的な科学的思考法に欠けることです。私は、そうした欠陥が是正されるならば、大いに有効性を発揮できるだろうと考えています。
 トインビー そうした東洋医学の手法は、紀元前五世紀のギリシャ医学の方法、つまリヒポクラテスとその同僚・弟子たちの著書に示されている手法と、同種のものであるように思われます。ギリシャ医学も、患者を精神と肉体とを兼ねそなえた一つの統一体としてとらえ、社会的、物質的環境のうえから考察し、治療を加えていました。近代西洋医学も、歴史的にみれば、もともとこのギリシャ医学から派生したものです。このため、現代の西洋においても、一般医の間では、こうした本来のギリシャ的手法がいまなお踏襲されています。
 西欧諸国のなかでもまだ一般医がいる国々では、専門医と一般医の間に歴然たる役割上の区別があるわけですが、この区別は、ちょうどお話の東洋医学と西洋医学の間にみられる相違に、ぴったり符合しているようです。この二つの異なるアプローチは、まぎれもなく互いに補い合うものであって、排斥し合うものではありません。患者にとっては両者が必要なのです。ただし、私自身、もし選択を迫られるとすれば、むしろまだ一般医が存在する国に住みたいと思います。私にとっては、専門医はいなくともべつに困らないでしょう。専門医は貴重な存在、一般医は不可欠の存在というところです。
 池田 そうした東洋にも西洋にもある伝統的医学と現代医学とが、互いによい特徴を生かしながら融合し、一体となれば、そこに画期的な新しい医学が誕生するのではないでしょうか。現代医学の科学的思考法を駆使し、生かしながら、しかも伝統的医学の特徴である全体観を失わない医学、真実の″人間の医学″が生み出されることを期待したいと思います。

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