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日蓮大聖人・池田大作

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4 知識人・芸術家の政治参加  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 よく知識人、文学者、芸術家が、広く政治一般に関心を示すことを、何か悪いことのようにいう人がいます。むろん私はこのような意見に反対ですが、彼らの考えにも一理はあります。いわゆる政治の世界に巻き込まれてしまうと、純粋であるべき芸術や学問までが汚されてしまう恐れが多分にあるからです。
 しかし、およそすべての人間は、それぞれ政治的社会から隔絶して生きることはできません。何らかの意味で″政治″と関係をもち、社会からの影響を受けて生活しているからです。そうした一切の社会的関係を断ち切って、仙人のようにして生きることなどできないのが、現代人の宿命でもありましょう。とすれば、学者や芸術家が社会との関係を断ち切って、書斎やアトリエに閉じこもり、著作や制作に専念したとしても、そこからは生き生きとした作品が生まれるはずはありません。
 トインビー どんな人もまず何より人間であり、人間である前に知識人や芸術家ではありえません。しかも、人間はすべて社会的な動物です。つまり、知識人にしろ芸術家にしろ、すべて人生の諸問題には関わり合いをもっているわけです。そして、そこには普遍的で恒久的な問題もあれば、また自分のおかれた時代や場所だけに特有の問題もあるはずなのです。
 知識人なり芸術家なりが、もし普遍的、恒久的な問題を無視するとすれば、それはその人の愚かさをさらすようなものです。そういった問題を無視する理由が、もし無関心や無知によるものだとすれば、その人の精神はまだ啓発されていないということであり、したがって人々の心を啓発することもできないわけです。
 最大の思想家、芸術家のなかには、普遍的、恒久的な問題には自己のエネルギーを集中させながら、自分のおかれた時代や場所に関する問題には反応を示さなかったという人もいます。たとえば、プラトンは、故国アテネにはあまり精神的な親密感をいだいていませんでした。ゲーテも、母国ドイツとナポレオンの出会いには、政治的にも心情的にもかかわろうとしませんでした。といっても、この出会いが、ドイツの歴史上、一つの転機であることをゲーテが知らなかったはずはありません。
 これらとはまったく対照的に、マルクスやレーニンは、自分のおかれた時間や場所の問題に、非常に情熱的に関わり合いをもちました。マルクスは自らの思想を政治活動の計画へと転化させましたし、レーニンは、ロシアの支配権を握って共産革命のためにその権力を行使し、それによってマルクスの政治計画を遂行しました。
 池田 ソクラテス、プラトン、ルソー、ゲーテ、マルクス、レーニン、ドストエフスキーなどの哲学者、作家にしても、そのとった方法や形式こそ違え、彼らはすべて、自らの思想や著作を通して人類史を変えてきました。私は、やはり、彼らの多くが、自らの生きる時代の状況に関わり合いをもちながら、当時の時代を批判し、かつ乗り越える理念を提示してきたのだと考えます。
 同様に、学者が論文を書き、教壇に立って学生に講義をし、芸術家が言語や抽象をもって作品を発表する行為は、たとえばそれが直接的には現実の時代状況にかかわるものでなくとも、そのまま社会への意思表示であり、それは当然、政治や社会に何らかの影響を与えていきます。そして、それが優れたものであればあるほど、時代の動向を左右し、ときには政治的な大変革さえも可能とするわけです。
 したがって、私は、すべての知識人や芸術家が、各自の信念に基づいて″政治″に強い関心をもち、時代状況の変革に積極的に取り組んでいくことは当然のことであると信じます。ただ、そこで大切なことは、あまりにも深く政治問題にかかわり過ぎてしまって、自身も権力のもつ魔性に心を奪われ、その結果、自滅することのないように気をつけることでしょう。
 トインビー 知識人や芸術家にとって、自らが生きる時代と場所をめぐる諸問題との正しい関係とは、中庸の道であるということですね。それについては、私も同感です。知識人、芸術家は、そうした時事的な問題からまったく超絶してしまってはなりませんし、また完全に没入すべきでもありません。文学者のうち、この中道を歩んだ人々として、私は、十九世紀ロシアの小説家たち、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイをあげたいと思います。また、哲学者でこの中道を見いだした人々としては、ストア学派の創始者ゼノン、それにエピクロスがあげられます。この二人のギリシャの哲学者は、ちょうど都市国家そのものが、ギリシャ人の生活にとって、もはや社会的にも倫理的にも満足できる機構でなくなった時代に生まれ合わせています。当時のギリシャ人は、精神生活の目標を見失っていました。このとき、ゼノンとエピクロスが、同時代のギリシャ人のために新しい人生観を打ち立て、それによってギリシャ人の生活は、伝統的な支配的制度としての都市国家が崩壊した後も、なお存続することができたのです。
 池田 しかし、この中庸の道は、実践するとなると、まことに微妙で困難なこともまた事実です。歴史を振り返ってみても、知識人や芸術家が権力の下僕となってしまって、文学や芸術の自由な芽を摘みとってしまった事例は、枚挙にいとまがありません。いわゆる政治と権力悪の関係が問題にされるようになったのも、そのような悪例によるわけです。
 トインビー フランスの格言に「高い身分には(道義上の)義務がともなう」というのがありますが、この″高い身分″を″貴族出身者″という意味にとらずに″人間″と解釈してみるなら、この格言は、知識人や芸術家の行動規範としても有効になるのではないかと思われます。人間には生まれながらにして道義上の義務がある、という意味になるからです。
 ソクラテスは平民でしたが、彼は貴族出身の弟子プラトンの場合と同じく、主として普遍的、恒久的な問題に関心を寄せていました。しかし、彼がプラトンと違うところは、故郷の都市国家アテネの政治にも関与したということです。
 ソクラテスは、ふだん、論争の絶えない政治にわざわざ介入するようなことはありませんでした。しかし、ひとたびある政治手段をとることが――たとえそれが一般には不人気なことであっても――必要であると判断した場合、彼は、そうすることが市民としての義務の一部であると考え、ためらうことなく実行しています。彼は、少なくとも一度、道義上きわめて悪法でありながら一般市民の間では非常に人気の高かった発議に対して、ア一イ不議会において公然と反対投票をしました。その結果、ソクラテスは、自己の所信に反し真理に背いてまで、自説が道義上退廃的であると言明させられるくらいならむしろ死を選ぶとして、甘んじて死刑の宣告を受けることにしたわけです。宣告後も、国外逃亡の機会はあったのですが、彼はそれをも拒んでいます。
 政治への関与を求めもせず、避けもしなかったこのソクラテスの実践は、私には、知識人や芸術家のとるべき正しい態度を示すものであると思われます。
 池田 政治への関与を求めもせず、避けもしなかったソクラテスの実践は、たしかに立派なものであったと思います。そこで、これと対比して考えてみたいのは、インドのゴータマ・ブッダの生き方です。
 ブッダの場合、彼は政治上の権力者としての王家に生まれました。彼は非常に感受性の強い青年でしたから、出家をしないで王官にとどまっていたなら、あるいは慈しみ深い善政を敷いたかもしれません。しかし、彼は、政治や経済だけでは真に人間の苦悩を救えるものではないと悟って、修行の道に入りました。
 むろん彼とても、政治に無関心であったのではありません。悟りを開いた後も、自分の親族はもちろん、多くのインド古代都市国家の支配者や長者、またそれに連なる人々を教化し、政治の根底に仏教の理念を反映させようとしています。つまり、ブッダの理想は、政治の次元を超えた分野を基盤としながらも、この現実世界に、真に人間を幸福にしうる道を確立することにあったわけです。
 ところで、ブッダの時代にも、またその後の仏教の歴史においても、しばしば政治的弾庄が加えられました。しかし、仏教者は、そうした政治上の権力と同一次元で対決するのではなく、もっと精神的に高い次元から対処しようとするところに特徴があるようです。したがって、仏教者においては、政治上の信念に殉教するということはあまり歓迎されません。ブッダの涅槃も、安心立命のものでありました。
 ところが、ソクラテスの場合、自己の信念を守るために、都市国家の政治権力と正面から対決して、自ら毒杯をあおいでいます。たしかに、彼の後世に対する影響力は、その死によって、大きく、強いものがあるようです。しかし、影響力のうえからいえば、ブッダは悲劇的な死を選びませんでしたが、ソクラテスやイエスと並ぶものをもっています。悲劇的な死は、政治や人間に対して憎悪を植えつける作用があり、私には感心できません。
 トインビー ご指摘の点、よくわかりますし、お気持ちもわかります。しかしながら、私は、やはりどうしても中庸の道をとらざるをえない場合がままあることを感じていますので、今度は私の個人的な体験を一、二あげて、これについての私の見解を補ってみたいと思います。それは、少なくとも実際に証明できるということが利点です。
 かつて私は、学問の自由という倫理上の原則を守るため、大学での地位を辞さざるをえなくなったことがあります。第一次大戦後、私はビザンチン研究と近代ギリシャ研究で教授の地位にありましたが、現代ギリシャ人の生活を研究するために、一九一九年から一九二二年にかけてのギリシャ・トルコ戦争を視察に行きました。ところが直接に観察した結果、私は、この戦争はギリシャ側が間違っており、トルコ側が正しいという結論に達したのです。戦争では、ことの真偽のほかに、正邪ということが問題になります。私はそのとき現に教授職にあり、実情をこの眼で確かめてきた以上、ありのままに事実を発表することはもとより、この問題の正邪についての私見を表明する道義上の義務があると感じました。その結果、私は教授職を辞さざるをえなくなったのです。
 池田 その勇気、その正義感には、私は心から敬服します。
 トインビー その後の三十三年間というもの、私は、イギリスの民間学術協会である「王立国際問題研究所」で、国際事情に関する年報を執筆して生計を立てました。委託の条件は、調査はすべからく科学的であること、つまり、感情をまじえず、一党一派に偏せず、公平無私でなければならないということでした。私は、これはよい指示だと思いました。つまり、その指示さえ守れば、私は、国際情勢一般や、その当事者たちの立場なり動機に関して、有用な情報を読者に提供できると考えたのです。私は、できるかぎりこの指示に従いました。しかし、なかにはそれが不可能な場合も出てきました。
 たとえば、スケルト川河日の領土権、航海権をめぐるベルギー・オランダ間の紛争を調査したさいなどは、科学的な報告も可能でした。そこでは法律上の問題がほとんどを占めており、道義上の問題は、あまり絡んでいなかったからです。
 ところが、ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。道義的な問題を無視して、ユダヤ人虐殺を黙認したことになってしまうからです。
 これと同じ問題にぶつかったのは、ムッソリーニによる一方的なエチオピア不法侵攻について論述したときです。そして、このとき私自身に直接面倒が起きたのです。というのは、この問題に関してイギリス政府が演じた役割は、私には道義上恥ずべきものに思われましたので、論評のなかで、私は自分の道義的判断を包み隠さずに述べたのです。エチオピア事件について、道義面を無視して書いたとしたら、それはこの問題を真実に論述したことにはならないでしょう。
 当然のことながら、私はイギリス政府の立場をまずくしたということで、国内から非難を浴びました。このとき、もし、私の勤務先である国際問題研究所の評議会議長が、国際問題について見たままに書くのは当然の義務であり権利である、という裁定をしてくれなかったら、私は学問の自由をめぐって再び辞職を余儀なくされていたことでしょう。
 私の結論を総括的に申しますと、人間事象の論述にあたっては、完全に感情を抜きにして不偏不党になることは不可能だということです。なぜなら、そこでは道義的な問題が顕著にあらわれやすく、事実そうなりますから、そのような場合に道義的判断を抜きにして出来事を記録するということは不可能になるからです。完全に科学的な記述ができるのは、人間が介在していない事実や事象の場合に限られるのです。
 以上二つのケースでは、私はいずれの場合も自らすすんで関与を求めたわけではありません。しかし、道義的にどうしても避けられないと感じたからこそ、私は心に正しいと感じたままの立場をとったまでのことです。これが、私にとっての中道でした。
 池田 その点は、たしかに博士のおっしゃる通りだと思います。自然科学においては、客観的で公正な方法論が尊重されても、人間事象にかかわる社会科学や人文科学においては、倫理的判断を無視することはできません。
 現代の学問は、すべてを科学的に分析しようとして、そこに人間性の、もっと大切なものを忘れているように思えます。私は、人間とは、思想により理念を形成し、理想を設定し、それへ向かって努力する存在であり、ここに人間の尊さがあると思うのです。いま現実にどうであるかという分析、真偽の判断も、もちろん大事です。しかし、それらも、これからどうあるべきかという理想があり、それを実現するにはどうすべきかの判断基準にするために必要なのです。私は、人間とは理想を追う存在であるということを踏まえ、しかも現実性を重んじていく――この両方を包含していくのが中道であり、正しい考え方であると考えます。

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