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日蓮大聖人・池田大作

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1 人間と自然  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 仏法では、自然界そのものが独自の生を保つ生命的存在であると説いています。そして、人間は環境である自然と融和して初めて、ともに生を営み、享受できるのであって、それ以外に自己の生を創造的に発揮させる方途はない、と教えています。
 仏法の″依正不二″の原理は、このような自然観に立って、人間と自然とが互いに対立する関係にあるのではなく、互いに依存じ合う関係にあることを明らかにしているわけです。主体と環境の関係を分離して対立的に考えるならば、両者の真実の姿をとらえることはできません。しかも、環境とは一定不変の固定的なものではありません。たとえ同じ自然、同じ土地であっても、そこに存在する生命の主体によって、環境の存在意味がまったく違ってきます。たとえば、人間には人間の、鳥には鳥の環境があります。また同じ人間でも、環境は一人一人にとって独自のものです。その意味において、生命主体とその環境とは、一体不二の関係に立っているわけです。
 仏法は、この渾然一体となった主体と環境の関係を追求していって、ついに、その原動力を宇宙に脈動する生命力に見いだしています。
 トインビー なるほど。しかし、ギリシャ語やラテン語の教育を受け、キリスト教以前のギリシャ・ローマ文学を学んだ西洋人にとって″依正不二″という概念は、馴染みのないものではありません。なぜなら、その理念は、やはり、キリスト教以前のギリシャ・ローマ世界における世界観だったからです。
 池田 それは興味深いことです。またそれは、十分ありえた事実だと考えられますね。かつて日本人は、そうした優れた精神的規範を先祖から受け継ぎ、人間と環境の調和を保とうとする信念をもっていました。そのために近代に入る以前まで、日本の自然は美しく保たれていたわけです。ところが、近代に入って、欧米先進諸国に追いつくことを理想としたため、伝統の宗教や自然に対する態度、さらには人間同士の間の倫理さえも捨て去って、物質的欲望の追求に狂奔するようになってしまいました。
 ここで、われわれ現代に生きる人間が、何よりも鋭く見抜いていかなければならないことは、近代科学技術文明が、人間の物質的欲望の解放のうえに成り立つ文明であるということです。この点を正しく認識し、判断していかないかぎり、自然の破壊から、ひいては人間の破壊へと至る、現代文明の誤りを是正していくことはできないのではないでしょうか。
 トインビー われわれの祖先が人間として歩み始めて以来、人類は、自然環境を自分たちの要求によりよく応えてくれるものにしようと、絶えず改変してきました。これはべつに人類に限ったことではありません。人間以外の多くの生物も同じことをしてきたわけですが、ただ、人間と違って、環境に対して意識的、計画的に働きかけなかっただけのことです。ともあれ、いまから二、三百年前までは、人類も、また地球上のその他の生物も、人為的な環境を押しつけてまで自然環境を抹殺するようなことはなかったのです。
 もちろん、すでに産業時代に入る以前から、元来肥沃であった地域のいくつかが、放牧や耕作や伐採などのやりすぎのために、不毛の砂漠に変わってしまったことは事実です。当時のこうした″依正不二″への侵害は、産業時代に入ってから人間が自然に対して行った所行の、不吉な前兆だったわけです。とはいえ、自然に対する人間のこのような初期の冒漬も、まだ局地的、部分的なものにすぎませんでした。当時はまだ人間の技術力に限界があったため、自然に対する侵害も、半ば無意識のうちに制約されていたわけです。もっとも、この段階では、人間はある程度意識的にも、人間以外の自然の汚損に制限を加えていました。つまり、″依正不二″の概念によって制約を受けていたのです。
 この理念、理想は、東アジアやギリシャ・ローマ世界に限られたものではありません。私の考えでは、もともと、人類に共通するものであったと思います。
 池田 おそらく、そうであったはずです。ところが現代の科学文明は、自然と人間とを対立関係でとらえ、人間の利益のために自然を征服し、利用しようという発想をその底流にもっていたのではないでしょうか。科学は、まさにこの発想を基盤とし、原動力として発達してきたといえないでしょうか。私は、ここに現代の自然と人間の調和が崩れた一因があったと考えています。
 トインビー ″依正不二″を意識的に、しかも全面的に侵害する端緒となったものは、ユダヤ一神教という革命的な理念です。″宇宙の中および背後にある精神的実在″と私が呼んでいるものが、ユダヤ教では、人間の姿をした、ただ一人の超越的な神に凝縮されていると信じられていました。そしてこの信念には、宇宙にはその神以外に神性をもつものはないという、もう一つの信念が含まれていたのです。人間も、人間以外の自然も、この仮想の神によって創造されたと考えられました。これは、人間が道具や芸術作品や制度をつくるところから類推されたものです。
 この創造主は、自ら創造したものを自由に処分する力と権利をもつものとみなされました。『創世記』第一章第二十六―三十節によれば、神は、自ら創造したもののうち、人間以外の一切を人間の自由に任せ、人間が好きなように利用することを許したとされています。
 この革命的な教義が、結果としては″正報″と″依報″の″不二″性を破壊することになったのです。人間は自然環境から切り離され、自然環境はそれまでもっていた神聖さを剥奪されました。そして、もはや神聖不可侵でなくなった環境を、人間は勝手気ままに利用することを許されたわけです。人間は、元来、自分の環境を畏敬の念をもって見ていたのであり、そのほうが人間にとってはむしろ健全でした。ところが、この畏敬の念が、イスラエルのユダヤ一神教創始者たちだけでなく、キリスト教徒やイスラム教徒によっても、放逐されてしまったのです。
 池田 人間が自然を征服し、さらに破壊へと進むにつれて、自然界の根本的な一定のリズムが狂い始め、そこから、いわば痛めつけられた自然が人間に対して反逆を始めたといってよいでしょう。
 現代文明が、そのように自然の破壊にまで進んだ根本原因は、所詮、次の二つに尽きると思います。一つは、自然界は人間とは異なる別の世界だという考えがあったことでしょう。自然もまた、たとえ人間生命とは異なるにしても、本質的には人間生命と相互に関連しながら、一定のリズムを保っている″生命的存在″だということを忘れてしまったわけです。
 もう一つの原因は、博士が指摘されるように、人間は神に最も近い存在であるから、他の生物や自然界を征服し、人間のために奉仕させるのは当然だという、ユダヤ一神教的な考えが現代思想の底流にあったからだと思います。
 この二つの思考が重なり合いながら、現代科学文明の底流を形づくってきたと考えます。
 トインビー ユダヤ的思想が初めて系統立てられたのは、遠く紀元前九世紀の昔、パレスチナにおいてでした。しかし、この思想が遠慮会釈なく実行され始めたのは、十七世紀に入ってからのことです。本来、ユダヤ的思想は、それを理論として受け入れてきた人々の間では、実際的に活用するということはまれだったのです。たとえば、イスラム教徒の場合、彼らは近代技術の導入、ならびに近代技術を役立たすべき理念と目的の採用については、他のいかなる文化的民族よりも躊躇してきました。
 イエスは正統のユダヤ人でしたが、彼の教説を記録したものによれば、彼は、経済的な欲望は神への奉仕とは相容れないものであると説いています。したがって、イエスは、経済の計画化、資本の蓄積、技術などを非難しています。また、総じて経済的に報酬を得る仕事を賛美することを非難したわけです。
 イエスが貪欲性という悪に対して敏感であったのは、注目に値することです。というのは、イエスはパレスチナに住んでいたのですが、それは当時まだパレスチナのユダヤ人のほとんどが農民で、″依正不二″の精神そのままに、自然環境との調和を図りながら生活していたころの話だからです。イエスの時代、パレスチナのユダヤ入社会には、現代人のような考えをもつ資本家や工場主はいませんでした。したがって、イエスを取り囲む社会環境には、際立った貪欲というものはまれにしかなかったのです。にもかかわらず、イエスは、いっの時代、どこの場所にあっても人間性に本来そなわっている貪欲性というものを見抜き、これを弾劾したわけです。
 さらに、十二世紀西欧のキリスト教の聖者、アッシジのフランチェスコの生涯と教説と実践には、もっと意義深いものがあります。フランチェスコの父は衣類の卸売業者で、経済的に成功を収めた最も初期の西欧資本家経営者の一人でした。フランチェスコは、こうした父の生き方に反逆しました。ちょうど一小国の王子だった仏陀がそうしたと同じく、フランチェスコも財産を棄てて、わざわざ清貧の道を選んだのでした。そして、これもまた仏陀と同様に修道僧団を創設し、それによって自らの理想を広め、その理想を実現するための教戒を広めました。
 フランチェスコは、イエスからの感化を受けています。しかも、イエスもフランチェスコもともにュダヤ的伝統の中で育ちましたが、両者の″依報″に対する態度は、ユダヤ的思想に内在するものとは正反対のものだったのです。彼らはともに、人間による自然界に対する搾取を認めませんでした。イエスは、小鳥や野花に経済的な打算のないことを賛美し、人間である彼の弟子たちもそれらを見習うべき手本であるとしています。
 フランチェスコは、人間と他の生物、無生物を含む自然とが親密な間柄にあることを知り、そこに喜びを見いだしました。彼は、仏教用語でいえば″依正不二″の熱烈な信奉者であり、賛嘆者だったのです。どうも私には、フランチェスコが、科学技術によって助長されたその後の西洋における貪欲の崇拝を、直観によって予知していたように思われるのです。
 池田 イエスとフランチェスコが、ともに″依正不二″の信奉者であり、賛美者であったとのご見解は、じつに興味深いものです。というのも、私は、公害を絶滅する方途は″依正不二″の理念による以外にないと信じているからです。この理念に基づく運動をどのように展開していくか――これによって初めて、種々の住民運動にみられる庶民大衆のエネルギーが、さらに大きな潮流にまで高められるものと考えるのです。現代文明の思考法自体を変革することが、どうしても要請されますね。
 トインビー もし人類が自滅を回避しようとするのなら、いまこそ自らが生み出した汚染を一掃し、もうこれ以上発生させないようにしなければなりません。私は、これは世界的な規模での協力によってのみできることだと信じています。土地や湖沼や河川の純度を回復させるだけなら、一国による汚染防止対策でこと足りるかもしれません。しかし、人類の環境を居住可能にしておくことへの最大の脅威は、大気と海水が汚染してしまうことです。たとえば、飛行機が成層圏に有毒ガスを振りまき、船が海洋中に有毒廃棄物を捨てることによって、病気が蔓延する恐れもあります。
 今日われわれは、汚染が人類の生存を脅かすことに気づき、貪欲を規制せずにはこれを解消できないことにも気づきました。しかし、その場かぎりの便宜主義をもってしては、その解消をうながすに十分な刺激とはなりません。欲望の中毒にかかっている人々は、近視眼的な考え方をしがちです。諺にいう「あとは野となれ山となれ」なのです。
 もちろん、そのような人々でも、自分の貪欲を規制できなければ、結局は子供たちを滅亡に追いやることを承知しているでしょう。彼らも、自分の子供は可愛いでしょう。しかし、そうした愛情があってもなお、彼らは子供の将来を守るために現在もっている富の一部を犠牲にしよう、という気にならないかもしれません。
 私は、現代の先進諸国の人々に、″依正不二″のため、いますぐにでも犠牲を払おうという気を起こさせるものは、もはや宗教的回心以外にないと信じます。ただし、ここでいう″宗教″とは、最も広い意味での宗教です。私は、″依正不二″の理念が、道義上の義務をともなう宗教的信念として、全世界に受け入れられるよう期待しています。また逆にいえば、フランチェスコが神道の信者からは神として、仏教徒からは菩薩として迎え入れられるよう望むものです。
 池田 私は仏教の信奉者ですが、フランチェスコは十分に尊敬に値する聖者であると感じています。イエスやフランチェスコは、仏法の概念でいうと、菩薩界に位置する人々です。すなわち、菩薩とは、慈悲をもって世のため、人のために奉仕する、人間生命の状態なのです。
 トインビー 貪欲を動機として技術が生み出した諸々の結果から人類を救うには、私は、あらゆる宗教、哲学の信奉者たちによる世界的な協力が必要だと信じています。また、そこではヒンズー教徒、仏教徒、それに神道信徒がイニシアチブをとることを望みます。
 ユダヤ系宗教の信徒たちは、その排他性、不寛容性という身動きのとれない伝統によってハンディキャップを負っています。これは、一神教であることからくる報いの一つです。これに対して、ヒンズー教徒や東アジア諸国民の間では、互いに異なる宗教の信者同士が包容し合い、尊敬し合うという伝統があります。日本でも、仏教徒と神道信者の間に積極的な協力がみられました。これこそ、貪欲という根を断ち切って汚染を取り除く、協調的な世界的努力に必要とされる実践であり、精神です。

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