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日蓮大聖人・池田大作

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4 深層心理の探究  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人間の精神に関する考察のうち、自我の意識的な部分は古くから知覚、思考、意志等として、哲学的研究の対象となってきました。私のみるところでは、西洋の哲学は主に意識を研究対象とするところから築き上げられたものです。しかし、人間の精神は意識だけで成り立っているものではなく、むしろ人間の意識は人間精神の一部にしかすぎません。
 トインビー その点、私も同感です。意識は精神のうちの顕在している表層部にすぎません。それはあたかもその大部分を水面下に没した氷山の、日に見える一角のようなものです。
 池田 したがって、人間の行動や思考や欲望の内奥にある無意識の領域にメスを入れないかぎり、人間精神の、したがって当然、生命の全体像は浮かび上がってきません。そこで、では潜在意識にはどのような働きがあり、人間の生活とどう関わり合っているのかということを考えてみたいと思います。
 トインビー 潜在意識は直観の源泉であり、合理的思考もそこから生まれてくるわけですが、頭脳の活動が意識のレベルにとどまっているかぎり、知性は直観に達することができません。科学上の諸発見は、論理的な用語による表現や実験による検証が可能なものであり、事実、最終的にはその形をとってきました。しかし、そうした諸発見のいくつかは、元をただせば、意識下から意識上に湧き上がってきた直観――未検証で非論理的な直観――によってなされたものであることが認められています。
 池田 おっしゃる通りです。科学における偉大な発見が、偉大な芸術家における創造のひらめきと同様、直観によるものであるのは不思議な事実です。
 トインビー 潜在意識はまぎれもなく詩情や宗教的洞察の源泉ですが、それはまたあらゆる情動、衝動の根源をなしています。
 これに対して、われわれが意識レベルにおいて下す倫理的判断は、情動や衝動の善悪を識別します。そのため無意識の領域内にわれわれの意識を及ぼす度合いが深まれば深まるほど、情動や衝動を意識的にコントロールする程度も大きくなります。意識的なコントロールは、こうした潜在意識の産物のうち、われわれが悪と判断するものを抑制し、善と判断するものを育成します。
 したがって私は、できるだけ多くのこれらの情動、衝動をできるだけ意識の支配下におくために、人間精神の潜在意識の深層部を探究していくことが、人類の福祉にとって最も重要なことであると信じています。これは一つのやりがいのある精神的作業ですが、同時にきわめて困難でもある仕事です。潜在意識は、あのギリシャ神話の海神プロテウスに似ています。それは常に支配から逃れようとしており、いったん支配下におかれるとそのことを怒ります。しかも巧妙な手段をもっており、意識が支配しようとするとそれに対して仕返しをし、いったん支配力が及んでもするりと逃れてしまいます。
 池田 深層意識とはいかなるものかについて、博士はじつにわかりやすく説明されました。
 ところで、この領域に自然科学のメスを入れたのは、フロイトをはじめとする深層心理学者たちでした。私は十九世紀後半に西洋で起こった無意識界ヘの探究を高く評価します。しかし古代インドでは、すでに無著、天親らの仏教学者が論じた唯識論において、意識の世界を超えて深く精神の内奥が見つめられていたことが知られています。
 トインビー おっしゃる通り、人間精神における意識下の深層の発見、探究が西洋で始まったのはそんなに古いことではなく、フロイトの世代が初めてですが、インドにおいては仏陀や彼と同時代のヒンズー教徒たちの世代にすでに先鞭がつけられていました。これはフロイトに先立つこと、少なくとも二千四百年も前のことです。
 潜在意識を探究し征服しようとする近代西洋の試みは、まだ単純未熟な初期の段階を出ていません。ヒンズー教徒や仏教徒は、この探究をはるかに長期にわたって続けてきており、その進歩の度合いも西洋をはるかに上回っています。西洋人は、この分野ではインド人や東アジア人の経験から学ばねばならないことがたくさんあります。
 私はこれまでに出版した著書や論文を通じて、再三再四、この歴史的事実に西洋の読者の眼を向けさせようとしてきました。これは現代西洋人の滑稽なまでに誤った信念――現代西欧文明が他の文明をことごとく追い抜いて頂点に立ったという信念――を揺るがし、振り捨てさせる一助になりたいという、私の生涯にわたる努力の一環なのです。
 池田 博士の誠実な努力に対し、私は尊敬の念をいだいております。
 さきほど申し上げた無著、天親らの仏教学者は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という五つの感覚的意識や、これらの器官の作用を司り統合する意識である第六識の意識のほかに、第七識として末那識、第八識として阿頼耶識を考えていました。
 第七の末那識は思量識ともいい、深い思考を行う理性的な意識を指します。デカルトの唱えた″考える自我″は、ここに含まれるでしょう。第八の阿頼耶識とは、その奥にあって人間生命の法理を観照する精神の働きを指します。
 ところが、その後西暦六世紀に中国に出現した天台(智顎)は、第八の阿頼耶識のさらにその奥に、これらのあらゆる精神の働きを生ぜしめている本源としての、心の実体に到達しています。これが第九識の阿摩羅識(根本浄識)であり、ここから天台の仏教理論が展開されるわけです。仏法ではこのように、古くから意識的自我の領域を超えて、生命の奥底を解明しようと試みてきたのです。
 トインビー たしかに、そうした人々の努力は大きな成果となって実を結んでいます。しかし、私の信じるところでは、比較的理解しやすいはずの精神の意識的表層部でさえ、それを不可分の精神全体の一部にすぎないものと考えないかぎり、完全かつ真実に理解することはできません。この不可分の精神全体にあって、潜在意識の深層は、知覚されず放置されているかぎり、常に意識の表層部を左右しています。こうした潜在意識の深層、ないしはせめてその深層の上層部を発掘し、意識の上にのせることは価値あることです。それによってわれわれは意識下の深層を意識することになり、もはや無意識のうちにこれに支配されることがなくなり、逆にこれを支配することができるわけです。
 インドの仏教哲学者天親にしても中国の仏教哲学者智顎にしても、彼らはこうした自らの意識を用いてその潜在意識の下層部を洞察したものと私は考えます。ここで(下層部の)「下」という空間を示す用語を使うのは、不適当で誤解を生みやすいかもしれません。しかし心的な現象を述べるさいには、空間を示す比喩的な用語だけがわれわれのもつ唯一の語彙なのです。
 ところで私はまた、人間精神の意識下にある淵底の究極層とは、じっは全宇宙の底流に横たわる″究極の実在″とまさに合致するものであるとも信じております。
 池田 まことにおっしゃる通りで、第九識の根本浄識とは、個々の生命の本源的実体であるとともに、宇宙生命と一体になったものであるとされています。また、前にもふれましたが、博士のいわれる″究極の精神的実在″は、仏法でいう宇宙の森羅万象の根源たる大生命――宇宙生命――にあたると考えられます。
 トインビー 近代西洋で人間心理の研究が始められたのは、同じ西洋での、現象世界における無生物の分野、物理的な分野の研究に比べて、はるかに最近のことです。
 諸現象の物理的側面を研究すべく考案された西洋の科学的手法は、それ自体の分野ではめざましい成功を収めました。ところが、その威信があまりに絶大だったため、諸現象における心理面の研究がやっとのことで着手されるや、西洋ではこの科学的手法が何の疑いもさしはさまれることなく、この方面にもそのまま応用されてしまったのです。
 さきにもみてきた通り、インドではすでにヨーロッパ人よりも二千四百年も前から、ヒンズー教徒や仏教徒によって、心理の研究が着手されています。しかもインドでは、それに先立って物理的現象の研究が基礎づくられ、その成功ののちにこの研究が着手されたというのではありません。私には、あくまでも物理学的手法によらずに心理現象を研究する、このインド的アプローチのほうが将来性があるように思われます。
 こうした、心理学を既存の物理学の線に沿って組み上げていこうとする西洋の試みは、誤った類推によって導かれるという危険に、西洋の心理学を追い込む可能性があります。心理現象の研究は、むしろインド的手法によって、その対象としての心理の本質に合致した、独自の線で行ったほうが、たぶん真理に近づくことになるでしょう。
 池田 たしかに、その通りだと思います。人間精神の意識下にある深層の生命は、表面に現れる意識現象とは違って、時間とか空間の次元を超えたものです。
 したがって、時間、空間のものさしで計測しようとする試みによっては、その生命自体の本質に容易に近づくことができないのは、明らかなことです。表面上の、意識現象の検討から下される深層心理への類推よりも、インド的な、内観的な方法のほうが、正しい認識をもたらす可能性があるというのは、十分に説得力のある主張です。
 ところで、心理学の方法については、近年、さらに新しい考え方がいくつか現れて、従来の心理学の枠を超え、その先まで手を伸ばしていこうとする動きがみられます。その一つは超心理学であり、これは、テレパシー(遠隔感応)、遠隔認知、透視、精神的遠隔操作、予知などといった、いわゆる″超常現象″を扱うものです。
 そのなかには良心的な科学者たちの検証に十分耐えうる例も少なくありませんが、明らかにまやかしといわざるをえないものもあります。また、特別に超常機能を設定するまでもなく、無意識層を掘り下げるだけで十分説明のつくものも含まれていると思いますが、いかがですか。
 トインビー たしかに、心理現象を描出し観察するという近代西洋の実験には、多くのごまかしがありました。たぶん物理の研究よりも、心理の研究のほうがごまかしやすいのでしょう。
 しかし、私の信じるところでは、大多数の研究者や観察者は誠意をもってことに当たっていたはずです。たとえ諸現象に関する彼らの説明が説得力に欠けていた場合でも、それは同じだったでしょう。私は、このことは近代西洋における潜在意識の探究にかぎらず、インドのコガやシベリアのシャーマニズムについても、当てはまると思うのです。
 池田 欺瞞的で不適切な例は除いたとしても、なお特異現象を引き出さなければどうしても説明できないものもあることは事実です。この意味から、私は、超心理学を一概に否定し去ることはできないと思っています。かつてはサギであって科学ではないといわれた催眠術が、今日では心理療法の有力な武器となっていることなどは、その一つの実例です。ただし、超心理学の所説を受け入れるにあたっては、厳密な検証を加えることを忘れてならないのは、いうまでもありません。
 この超心理学からさらに進んで、いわゆる霊魂の存在を考える心霊論があります。これは、もはや実証的な科学の行き方とはまったく違って、一種の信仰ともいうべきものになっています。
 このような人間心理へのアプローチについては、博士はどうお考えでしょうか。
 トインビー 私は、観察しうる現象は、すべて常態現象であると信じています。いわゆる超心理学の研究対象として超常現象と呼ばれているものも、実際には常態現象にすぎないと私はみています。ただ、この類のものは、きわめて稀有な現象であるか、さもなければ、ありふれてはいても西洋では最近まで看過され、無視されてきた現象であるかのどちらかなのです。
 私自身、これまでにテレパシーの例を直接に見たことがありますが、これはたしかに本物でした。私の想像では、あらゆる生物はみな、互いにテレパシー的な方法で交感じ合って生きてきたのでしょう。また、人類についても、言語が発明されてよりこのかた、話し言葉や書いた言葉だけではなしに、テレパシー的な方法によっても互いにコミュニケーションを続けているのではないかと思うのです。
 池田 超常現象についての結論は、もちろん慎重に下されることが要請されます。それをあまりに神秘的な超能力として賛美しすぎることは、誤った認識や詐欺行為を生む土壌になり、さらにその現象に対する正しい認識への道と開発の余地を開ざしてしまうことになります。また逆に、あまりにもこれを排斥することに固執すると、隠れた人間の能力、あるいは可能性を踏みつぶしてしまう危険性があります。
 博士は、超常現象は本来、常態現象であるといわれました。現在でこそ、超心理学等でみられる実験の結果は超常現象であると理解されていますが、いずれ原因と結果の糸が発見された後は、徐々に常態現象として理解されることになるでしょう。動物の帰巣本能や渡り鳥の移動などにみられる、自然界における超能力の多くについては、現在では科学的な説明がなされています。注意深く慎重に観察、実験していけば、超常現象も同じように説明が可能になると思います。
 また、人間は現在、意志伝達の多くを、言葉を媒介として行っていますが、言葉という手段を用いないで行う意志伝達の方法もあります。東洋においては、とくに「以心伝心」という言葉に象徴されるように、精神と精神が何物をも媒介としないでコミュニケートする現象を重視してきた、という特色をもっています。これなどは、博士のいわれる精神感応によるコミュニケーションの一種でしょう。
 こうした人間が本来もつ隠れた能力も、その開発の仕方の誤り、あるいは軽視によって、発揮されずに終わっていることが多いのではないでしょうか。これは超常現象にかぎらず、理性に比べて直観のもつ機能が正当に評価されていない面があるからです。直観がもたらす類推が不幸にして誤っていると、その例を拡大してたちまち直観を排斥しようとする性急さ、さらにその類推の方法や経過が不明瞭であると、ただちに非科学的であるときめつける性急さは、直観の立場を不当なものにしてしまいます。そして、その延長として理性万能主義に陥る人間の直観能力を犠牲にする恐れさえあります。
 深層意識は、理性を超えた、非常に鋭く、敏速な、しかも正確な働きをすることができます。しかし、人間は、文化の発達にともなって、そうした本来の能力を弱めてきたのではないでしょうか。これには、文化がこれらの深層意識の能力を、それが働かなくてもすむように補ってきた面と、人間の意識――とくに理性――の発達がこの深層意識を抑圧してきた面とがあると考えられます。
 トインビー 一般に、新しい能力が古い能力を補足するようになると、古い能力は退化するという傾向があります。これは残念なことです。なぜならば、たしかに新しい能力が、古い能力の機能の一部をより効果的に果たすということはあるでしょう。さらに、古い能力が発揮したこともなく、発揮しようにもできなかった新たな機能を発揮するということもありえます。しかし、新しい能力が古い能力の機能をことごとく代行するということは、まずありえないことだからです。
 たとえば、読み書きのできるようになった諸民族には、記憶力の減退が起こりました。そして、ラジオやテレビがコミュニケーションの手段として使用されると、今度は読み書きの能力が衰えようとしているようです。同様に、人間が自意識をもつようになった結果、理性と文化がもたらされたわけですが、私は、これによって人間の潜在意識の一部は退化したと思っています。
 われわれは、交通・通信技術の領域でも同じことが起きているのを見ることができます。運河は鉄道によって、鉄道は高速道路によって、また船舶は航空機に、郵便は電話に、それぞれ機能を奪われてきました。しかし、これらの新しい手段も、それぞれがすたらせた古い手段の機能をすべて果たしているわけではありません。
 物質面においても精神面においても、進歩というのは、実際はわれわれには耐えかねるような損失のうえに、なされているようです。

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