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日蓮大聖人・池田大作

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2 遺伝と環境について  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 遺伝学には大別して二つの流れがあるといえましょう。一つはメンデル、モルガン等によって打ち立てられた純正遺伝学の流れ、もう一つはソ連のルイセンコ学説です。
 いまさら申すまでもないことですが、確認のため、この二つの学説について簡単にふれながら話を進めたいと思います。まず、メンデルの流れを汲む学派は、基本的には、生物体自体の中に遺伝子を見いだし、遺伝現象の基盤を、親から子へと伝えられる遺伝的要素においています。遺伝子が細胞核の中にある染色体の中に一定の順序で配列され、それが一定のメカニズムのもとに遺伝していくことは、最近の生化学や分子生物学の進歩で証明されている通りだと思います。また、分子生物学は、遺伝子の本体をDNAであるとして、その複雑な構造もワトソン、クリック等によって解明されています。
 一方、ルイセンコ等は、遺伝における環境の役割を重視し、遺伝性とは「生物体が自分の生活と発育のために一定の条件を要求し、かつ様々な条件に一定の反応をしめす特質」(『農業生物学』第一巻、大竹博吉・北垣信行訳、ナウカ社)であるという、新しい概念を打ち立てています。そしてさらに、遺伝性を生物体における新陳代謝の様式として把握すべきであるとも主張しています。
 メンデル学派が、遺伝を主として生物体の内的要因に求めたのに対し、ルイセンコ学説が、環境との関係から遺伝現象を考えようとした点は、十分に評価してよいと思います。しかし、この学説がマルクス主義のイデオロギーと結びつき、環境決定論に走るあまり、遺伝子そのものの存在を無視するに至った過程は、科学のあり方という面からいっても、非難されて当然であったと思われます。スターリン亡き後、ルイセンコが「プラウダ」紙上で「ルイセンコが指導する一団の科学者の独断は生物学の発展を妨げている」と非難されたのも当然といえましょう。
 私は遺伝を考える場合、遺伝子の存在および役割も、環境からの働きかけも、ともに無視してはならないと考えています。
 トインビー おっしゃる通り、私も進化とか創造とかの本質――ないし、本質とまではいかないにせよ、せめてその働きのありさま――を説明しようとするなら、そのいかなる試みにおいても遺伝子と環境の両面が考慮されなければならないと考えます。
 進化、創造の二概念のうち、どちらかが変化の真の実態をより明確に示し出しているように見えても、これは変わりありません。
 池田 現在までメンデル学派とルイセンコ学派が、それぞれの立場で遺伝現象の解明に努めてきた努力と、その科学的成果は、たしかに正当に評価すべきでしょう。しかし、遺伝現象をより深く、より正しく解明するためには、生命それ自体と環境との相互関係に着目し、そこに視座をおいて遺伝という現象をみていくことが必要であると思います。もしこのような生物体と環境条件との関連性に着目するなら、メンデル学派やルイセンコ学派が今日まで解明してきた遺伝現象に関する成果を踏まえながら、なお一層広い視野からの、遺伝現象に関する全体的実像が浮かび上がってくると考えるのです。
 トインビー 菫退伝と環境という区別も、おそらく実際には区分できない″実在それ自体″に対して、人間がやむをえず行っている知的分析のうちの一つなのでしょう。人間がそうせざるをえないのは、その知的理解力に限界があるからです。
 一個の生物体において特定の遺伝子の組み合わせが確立され、それが生殖作用を通じて種の一員から次の一員へと遺伝されるということは、全宇宙を包含する一個の有機体中に一つの中心が設定されることをも意味します。ただし事実上は無数の生物がそれぞれ局部的、暫時的な中心として競い合うわけですから、そのうちの一個のまわりに宇宙全体を方向づけようとするこの企ても、当然、部分的・暫時的なものにすぎません。
 池田 つまり、生物の各種に属する個々の成員が、いずれも自らを宇宙の中心に据えようとする、ということですか。
 トインビー その通りです。一つの種における個々の成員は死んでいきます。これに対して、安定した遺伝子の組み合わせによってなされる繁殖というメカニズムは、一つの種を何代にもわたって確実に存続させようというものですが、しかし、ついには種そのものが絶滅するということもあります。たとえば、地球上に初めて生命が誕生してよりこのかた、おそらく今日までに現れた生物種の大部分はすでに絶滅しており、現存している種はおそらくほんの少数にすぎないはずです。
 とはいっても、ある種に属する個々の成員自体の短い生存期間をとってみるなら、この一見とるに足らない宇宙の一部分、すなわち成員自体は、まぎれもなく全宇宙と同じだけの広がりをもっています。つまり、この一個の生物を中心として、そのまわりに全宇宙を体系づけようとする企てが、常になされているのです。そして、この一個の生物が生き続けようとする努力によって、宇宙全体がごくわずかですが実際に影響を受けています。こうしてみますと、ある生物の環境というものは、宇宙全体を包含しているだけでなく、その生物自体にとって不可欠の一部をなしてもいるわけです。
 結局、生物とその環境とが人間の知性によって区分されるにしても、″実在それ自体″にはそうした知的区分はありえないだろうと私は考えます。ただし、これも″実在それ自体″が万一、人間の知力で理解できると仮定したうえでの話ですが――。
 池田 いま博士がおっしゃった、生物と環境が一体不可分であるということは、仏法において″依正不二″として説かれている概念とまったく一致します。″依正″とは″依報″(すべてを含んだ環境)と″正報″(生命主体)のことです。一言でいえば、生命主体とその環境は、現象世界においては二つの別個のものとして認識できても、その実在においては一体不二に融合して脈動しているということです。
 トインビー その″依正不二″という概念は、私が考えている事物の真のありさまを簡潔に説明するもののようです。
 宇宙を自分のまわりに体系づけようとする一生物の利己的な企ては、その生物が生き抜くうえでの条件であり、その生命力の表れです。実際、生と利己性とは、互いに置き換えられる言葉です。これが真実であるなら、利他性の代価が死であることもまた真実のはずです。利他性すなわち愛とは、自己を中心に全宇宙を体系づけようとする一生物の生来の努力を、逆転させようとする企てです。愛は、その生物にしてみれば、宇宙を搾取することの代わりに宇宙に献身するという、逆の企てになります。自己献身ないし自己犠牲とは、自分以外の何らかの宇宙の中心に自分を向かわせることを意味します。
 池田 自己と宇宙の関係をどうとらえるか、いかにして自己を主体的に宇宙と関係づけるか――そこに哲学、宗教の課題があるといえましょう。
 トインビー 偉大な宗教、哲学は、すべて生きとし生けるもののめざすべき正しい目的は、その生来の自己中心性を克服し、消滅させること、すなわち自らを捨て去ることにあると説いています。それらはまた、こうした努力は自然に逆らうことであるから困難なことである、しかし、同時にそれ以外に真の自己充足の道はなく、したがって自らの満足と幸福を得る道もない――と一様に説いています。自己克服とか自己犠牲によって自らの充足を得るというのは、一つのパラドックス(逆説)です。もしこのパラドックスが真に正しいとすれば、一個の生物を宇宙から分離した存在として確立しようとする試みは、自己の独立と優位を主張しようとするその生物自体からみれば自然なことではあっても、宇宙全体からみれば不自然なことになるわけです。自己中心性(利己性)も愛(利他性)も、ともに″実在それ自体″――明らかに遺伝によって決定される個体とその環境の両方を含む実在そのもの――が、一体不可分であることを証明しています。自己中心性とは、特定の生物を中心としてその周囲に宇宙を方向づけ、それによって一時的、局部的に分離していた実在の再統一を図ろうとする企てです。これに対して愛とは、自己中心性の追求を放棄することにより、また特定の生物を不可分の宇宙に再融合させることにより、実在の再統一を図ろうとする企てです。
 このように、愛と自己中心性とは、目的、倫理の面からみればまったく対立するものでありながら、宇宙全体を共通の活動の場とする二つの衝動であるという点では、互いによく似ているのです。このことは、知性による生物体と環境との区分が″実在それ自体″においては存在しないことを示しています。
 池田 おっしゃることの意味はよくわかります。そこで、さきに述べた″依正不二″の原理からいえば、宇宙生命それ自体に内在する力と法が宇宙の内奥から徐々にその働きを顕在化するにつれて、″正報″としての各生命主体が個別化し、同時に″依報″としての環境が形成されるということになります。
 遺伝現象においても、このような観点から生物体と環境条件との相互関係に着目して研究を進めるならば、新しい方向が見いだせるのではないかと考えられます。
 そうした新しい遺伝学を考えるための先例としては、精神身体医学などがあげられるでしょう。周知のように、従来の医学は物質(身体)と精神を分離する二元論を基本的な立場として発達してきました。しかし、精神身体医学は物質と精神との相互関係に目を開くことによって、まったく新しい人間生命の像を浮かび上がらせようとするものです。同様に、遺伝学にあっても、生命主体が――もちろん遺伝子の働きによる影響を受けながらも――その環境と密接な関係にあるという事実に立脚するとき、新たな貢献をすることになるのではないかと考えるのです。
 トインビー そうした新しい遺伝学が発達することは、今後十分に考えられることですね。

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