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日蓮大聖人・池田大作

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普賢菩薩勘発品(第二十八章) 広布の同…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  魂魄をとどめる思いで
 遠藤 かつて先輩から、こんな思い出をうかがったことがあります。
 池田先生が、会長就任後、会長室で、ある人を指導しておられた。その人は肺病で、信心して数年。なかなか良くならないので、夫妻で指導を受けに来られた。話の最中に電話が鳴ったので、北条さんが出ました。北条さんに用事でした。小さい声で話を続けていると、突然、先生が「うるさい、やめなさい!」と大喝された。
 びっくりして受話器を置くと、先生は静かに、「この人は肺病で苦しんでいる人だ。私は指導する時は御本尊を胸に浮かべて、体当たりで指導している。その中に雑音を入れることは、魏延ぎえんだぞ。あれと同じだ」と、諭すように言われた。
 『三国志』で、諸葛孔明が病魔と戦いながら、最後の祈りをこめていた。六日間、燃えていた火が、あと一日、燃え続ければ活路が開ける。その時、魏延が突然、入り込んできて場を乱し、大切な火を消してしまう。そして、やがて孔明の命の火も燃え尽きてしまった──という、あの話です。
 先生が一人の人を激励するときの「真剣さ」が衝撃的だったと、言われていました。
 池田 あの時は怒って、悪かった(笑い)。その方は厳しく言っても大丈夫な方だったからです。今は、本当に厳しくすると、だれもいなくなってしまう(笑い)。しかし、時代が変わっても、信心の峻厳さだけは、忘れてはならない。
 私は、だれに会っても、「もう、この人には二度と会えないかもしれない」と思って、魂魄をとどめる思いで接してきた。
 海外広布にしても、草創期、だれも「世界広宣流布」なんて信じていなかった。しかし、これは法華経の予言であり、日蓮大聖人の御命令である。今、「一歩」を始めなければ、道はできない。
 今、私が世界を回って、その国に、妙法という平和の「種子」を植えておけば、いつかは芽が出る。今、私が「道」を開いておけば、その後に必ず、後輩が誇りをもって続いてくれるに違いない。そう思って、私は「私の後を、青年が胸を張って続いてくれる。『ああ、SGI会長はここまで足跡をとどめていたのか』と励みに思ってくれるに違いない」。そう信じて、行動した。金もない、応援もない、人材もない、時間もない、何もないなかで、道なき道を開いてきました。今、その確信通りに、世界百二十八ヵ国(=二〇〇七年七月現在、百九十ヶ国・地域)で、地涌の友が舞っている。
 「普賢」とは「普く」「賢くする」すなわち「一切の人を」「智慧を開かせ、幸福にする」という意味にもとれる。自分が接する一切の人を幸福にしていこう! その気迫が「普賢」の心です。
3  法華経の「要点」を説く
 池田 ところで、冒頭、「会合に遅れた人」の話をしたが、それを思い出したのは、ほかでもない。普賢菩薩自身が会合に遅れてきたんだね(笑い)。
 斉藤 そうなります(笑い)。霊鷲山の説法が全部、終わろうかというころに駆けつけてきたわけですから。
 須田 「普賢菩薩勧発品(第二十八章)」は、いよいよ法華経の最後の章ですが、冒頭、いきなり「普賢菩薩が、東方の別世界から霊鷲山に駆けつけてくる」シーンから始まります。
 遠藤 東方の「宝威徳上王仏の国」にいたところ、娑婆世界で釈尊が法華経を説いておられるのを知って、「無量無辺百千万億の諸の菩薩衆」とともに、やってきたわけです。
 斉藤 日蓮大聖人は、そこのところを、実に面白く描写されています。
 「(普賢菩薩は)遅れてやってこられたものだから、『これは仏様のご機嫌が悪いのではないか』と思ったからでしようか、真剣な面もちになって『末法に必ず法華経の行者を守護いたします』と真心から誓われたのです。すると釈尊も、『法華経を閻浮提(世界)に流布することを、とくに真剣にやります』と誓う姿を、よしと思われたのでしょう。かえって先の上位の菩薩よりも、とくに手厚く普賢菩藤をほめられたのです」(「日女御前御返事」、御書一二四九ページ、通解)
 池田 じつに、よくわかる説明です。もちろん経文には、こういう「心理描写」が書いてあるわけではない。法華経の心をくんで、わかりやすく婦人門下に教えてくださったのです。
 ありがたい御本仏です。いつも心をくだいてくださっている。
 須田 普賢菩薩は、釈尊に嘆願します。「どうか教えてください。どうすれば、仏様の亡くなった後、この法華経を体得できるでしようか」と。
 斉藤 大事な質問ですね。
 もちろん、薬王品(第二十三章)以後、妙音品(第二十四章)、観音品(第二十五章)、陀羅尼品(第二十六章)、妙荘厳王品(第二十七章)と、一貫して「滅後の法華経実践」について説かれてきたわけです。そのうえで、普賢菩薩のこの質問によって、釈尊が法華経実践の「ポイント」を述べるわけです。
 池田 だから普賢品のことを「再演法華(再び法華を演べる)」という。いわば全体の「復習」です。
 ″ここがポイントだよ! これだけ覚えておけば大丈夫だよ!″という法華経の要点が、まとめられているのです。
4  「四法」は全て創価学会に
 遠藤 はい。釈尊はまず「四つの条件」を説きます。(「四法を成就せば、如来の滅後に於いて、当に是の法華経を得べし」(法華経六六六ページ))
 四つとは「一には諸仏に護念せられ、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救わんとの心を発す」(同ページ)です。
 池田 結論を端的に言えば、(1)「諸仏に護念される」とは、三世の諸仏を生んだ根源であられる御本尊を受持することによって、御本尊に護られることです。(2)「諸の徳本を植える」とは、御本尊を信じ、自行化他にわたって、題目をあげることです。そこに一切の善根は含まれる。(3)「正定聚(成仏することが定まった人々)に入る」とは、不退転の決意で「前進また前進」する人々の一員になることです。
 具体的には、正しき和合僧団に連ならなければ、それはできない。現代で言えば、誉れある創価学会員として生き抜くことであると私は確信しています。
 戸田先生は言われた。「創価学会は、大聖人が召し出されたのである」と。正法がまさに滅びようとした時に、学会の出現によって、広布の大興隆が始まった。
 須田 それは、だれにも否定できない「眼前の事実」です。
 池田 戸田先生は、大確信をもっておられた。
 「将来のためにも、はっきりと断言しておきます。この学会の信心以外に、大聖人のお心に適う信心などありません。御本尊の本当の功力もありません」
 「仏法の勝負は厳しいぞ。やがて、すべては明確になる。学会に敵対するならば、いかなる者であれ、大聖人様が許しませんよ。その確信がなければ、学会の会長なんてできません。まあ、ゆっくり見ていてごらんなさい」
 なぜ、こう断言できるのか。それは(4)の「一切衆生を救う心を発す」──すなわち広宣流布を断行しているのは、創価学会だけだからです。
 斉藤 つまり、釈尊が教えた「法華経実践のポイント」が全てそろっているのが創価学会ということですね。(1)御本尊(2)題目(3)和合僧(4)広布前進──と。
 池田 こまかい論証は省かせてもらったが、そういう結論になる。
 遠藤 天台大師は、この四つを、それぞれ仏知見の「開示悟入」に当てはめています。仏界(仏知見)を「聞かせ」「示し」「悟らせ」「入らしめる」ことです。
 須田 その全部が、学会とともに、広布に前進する人生に、含まれている。すごいことです。
5  「法華経の行者を死守します!」
 池田 広宣流布の苦労に、むだはない。全部、大福徳に変わります。全部、生かされていく。
 御本尊中心の活動であれば、矛盾や行き詰まりがあるわけがない。御本尊は「事の一念三千」の御当体です。十界の衆生が、すべて妙法に照らされて、仏の働きをするのが、御本尊中心の世界です。
 私は、ある時は「地獄界の衆生も、餓鬼界の衆生も、畜生界の衆生も、全部、広布の法戦に参加させたまえ! 全部、味方とさせたまえ!」と祈って、戦った。
 十界の衆生が「普く(すべて)」、「賢き」価値創造者となるのが「普賢」です。また、いつだって、魔軍を叱りとばしながらの闘争だった。「大切な、清浄な学会に、指一本、触れさせてたまるか」という決心できた。
 皆も、そうあってもらいたい。これが普賢菩薩の精神のはずです。
 斉藤 はい。「四つの条件」を聞いた普賢菩産は、「悪世で法華経の行者を死守します!」と誓いを立てます。
 「その人が苦しんでいたら、必ず苦しみを取り除きます!」「魔や悪鬼がつけ入らないように、この人を守ります!」「その人を守護し、心を慰め、もしその人が法華経の一句一偈でも忘れたら、教えてあげて一緒に読誦します!」「その人が命を終えた時は、千仏の手を授けて(千仏授手)、恐れさせず、悪道に堕ちないように、いたします!」
 「世尊よ、こうして世尊の滅後に、私は法華経を守護し、全世界に広宣流布させて、断絶がないようにいたします!」
 池田 そうだ。この誓いを聞いた人は、どれほどの「勇気と希望」を得たことか。「励まし」を与えたのです。
 普賢菩薩は、遠くから駆けつけて、「私が守るから、頑張れ! 負けるな!」とエールを贈ったのです。
 それが(普賢菩薩勃発品の)「勧発」です。
 須田 人に仏法を「勧めて」、信心を「発させる」ことですね。
 池田 激励です。鼓舞です。「励まし」という字は、「万の力」です。これほど偉大な力はない。
 法華経の最終章は、「普賢菩薩の励まし」の章なのです。ここに意味がある。
 創価学会が、ここまで広宣流布できたのも、「励まし」に徹してきたからです。人間は、ロボットではない。どんなに決意していたって、くじけそうになることもある。だから、ありとあらゆる方法を使って、「元気づける」ことに、私は徹してきた。
 如来の滅後──それは悪世です。
 悪世とは「正しい者が少なく、悪人が多い世」です。悪人が多いのだから、当然、少ない善人が迫害されてしまう。だから「団結」が大事です。だから互いの「応援」が大事なのです。
 遠藤 池田先生が、会員の一人一人に贈られた「メッセージ」「和歌」「俳句」「贈言」「揮毫」をはじめ、形に残っているものだけでも何十万あることか、わかりません。
 目に見えない励ましも含めて、本当に無量の「勧発」をしてくださっていると思います。「負けるな! 頑張れ」と行動を勧め、皆を発奮させてこられました。
6  誠心誠意で、人の心を満たす
 斉藤 世間の人は、創価学会を「強固な組織」のように見がちですが、じつは「組織が強固」なのではなく、池田先生と会員一人一人の「心の絆」が強靭なんですね。その一点を見ないと、学会はわからないと思います。
 また、悪人のほうが、そのことをわかっていて(笑い)、この絆を断ち切ろうと、そこに焦点を定めてくることも事実です。
 池田 私のことはともかく、現代において、組織の命令だけで、人がついてくるなんて考えるほうが、おかしい。
 何の強制力があるわけではなし、いやいややっていて、力が出るわけもない。
 「一人の人を大切に」。これしかない。これに徹したところが勝つ。このことは、何度でも言っておきます。
 たとえば、幹部がだれかを指導してきたとする。「次、いつ会うことにしたのか」と聞くと、約束をしていない場合がある。それでは、相手は目標をもてない。「二ヵ月後に会いましょう」とか、「三カ月後に会うまでに、こう頑張ろう」とか、目標を一緒に決めることによって、一念が定まっていく。これが「勧発」です。
 そして、約束したら、こちらも、どんなことがあっても実行しなければならない。そのために、どんなに苦労しようとも。この「誠心誠意」の積み重ねによって、広宣流布は進んできたのです。
 須田 だいぶ前ですが、先生が、ある人材グループの会合一人の青年をずっと激励しておられたのを覚えています。
 「○○君、頑張れ!」と、何度も何度も、名前を呼んで。
 じつは、彼は信心から遠ざかっていました。先生の励ましで、がぜん元気になったのですが、驚いたのは懇談会の最後に、先生が言われたことです。「彼がきよう参加した裏には、必ず、だれかが激励に行ったはずです。だれですか?」と。
 さっと何人かが手を挙げました。じつは、彼らは忙しい合間をぬって、交代で激励に通っていたのです。だれも知らないところで頑張っている人のことが、どうして、先生には、ぱっとわかるのか──と自分を反省したものです。
 斉藤 先生ご自身が「陰で」苦労してこられたからなんでしようね。
 (=会長時代、名誉会長は語った。「久しぶりに自宅に帰り、床についても、電車の音を聞いては登山列車の安否を思い、車の音を聞いては、バス登山者の無事を祈らずにはおれなかった。さらに、幹部の健康、きのう指導を受けにきた人の無事安穏を祈っての唱題──かたときも心の休まることはなかった」と)
 池田 私が願うのは、私に代わって、幹部の皆が、会員の面倒を優しく見てもらいたいということです。
 ″気がきかない″幹部ではいけない。昔の日本ではおうように、大ざっぱなのが大物のような風潮があったが、とんでもない時代錆誤です。
 仏法は、徹頭徹尾、「人間の世界」だ。だから、「人間が人間を満足させる」ことが、仏法の修行なのです。
 皆が何を今、求めているのか。疲れていないか。おなかはすいていないか。何か言いたいこと、聞いてもらいたいことがあるのではないか──敏感すぎるくらい敏感でなければならない。
7  「実質主義でいけ!」──戸田先生
 池田 会合にしても、むだな会合は悪です。
 昭和三十一年(一九五六年)の参院選で、大阪は勝ったが、東京は敗れた。その時、戸田先生は「形式主義を排して、実質主義でいけ!」と、厳しく指導された。(当時、会合の数が、あまりにも多く、実質的な個人指導などが十分にできていなかった。そこで少人数の「組座談会」一本の方針が打ち出され、皆が第一線に飛び出した)
 悩める人を救うための学会です。会合は手段です。それが会合をこなすだけの組織になっては本末転倒です。
 苦しんでいる人がいないか、行き詰まっているところはないか、サーチライトを当てて、探し出すのです。
 問題は必ずある。そこへ直ちに飛んでいって指導し、「励まし」を贈ることです。
 私は、一度会った人は、最後まで励まします。その人が、千里の果てに行こうとも、信心を少々休んでいようと、どんなことがあっても守ってあげたい。退転しそうな人は、背負ってでも、抱いてでも、引っ張ってでも、一緒にすばらしい妙法の功徳に浴させてあげたい。
 「戦った功徳は、こんなにすごいのか!」ということを実感させてあげたい。相手を幸福にしたいという真心が通じれば、「はっぱ」などかけなくとも、皆、立ち上がるのです。また「真心が通じますように」と祈っていくことです。
8  「むだな会合や報告」はないか
 池田 そして、会合で人を集める時は、覚悟して集めなければならない。それぞれ予定をもっている人、忙しい人を集めるのだから、皆が「来てよかった!」「行かなければ損だ!」という会合にしなければならない。
 幹部が話す内容や順番も、よく検討して、たとえ一人でも「つまらなかった」と言わせない決心で臨むべきです。何も、長くやらなければいけないというわけでもない。短時間で終われたら、そのほうがいいのだし、一番価値的にやるべきです。「価値創造の団体」なのだから。それが「一人の人を大切に」ということに通じる。
 会合ひとつでも「勝負」なのです。また、皆を消耗させるだけの、不必要な報告も、「実質本位」とは言えない。数字をいじくっても、何にも出てこない。少ないお金を何回、計算しなおしても、それでお金が増えるわけではない(笑い)。そんなひまがあるなら、稼いだほうがいい(笑い)。
 報告や集計や書類づくりのために、大切な皆が疲れては本末転倒です。座談会に行った後、「あまり盛り上がっていませんでした」などと報告したって、何にもならない(笑い)。報告するために行ったわけではない。集まった人を満足させるために行ったのです。しかも、いやいやながら報告させても、うそが多くなる(笑い)。それでは組織が、よどんでしまう。
 もちろん、機構上、必要な報告をとるのがいけないというのではない。皆が喜んで行動し、喜んで報告してくるような雰囲気をつくることです。そのためには、入魂の「励まし」であり、「勧発」です。弘教ができたら、皆、喜んで「できました!」と報告したくなるでしよう。
9  妙法を「恋慕」する信心
 斉藤 よくわかりました。この「勧発」について、天台は「恋法れんぽう(法を恋う)」のことであると言っています。これは、妙法の素晴らしさを恋慕し、渇仰しているゆえに、人にも勧めないでいられない心を指していると思います。
 遠藤 仏法の偉大さを知った学会員が、語らずにいられなくなる姿も、これですね。
 池田 「御本尊が大好きだ」「勤行が大好きだ」「学会活動が大好きだ」という信心です。そうなれば、「生きていることが楽しい。人生が大好きだ」という生活になるのです。
 速藤御書にも仰せです。「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたち形容よき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし
 (飢えた時に食べものを願い、のどが渇いて水を欲しがるように、恋しい人に会いたいように、病気になれば薬を頼るように、きれいな人が紅や白粉をつけるように、御本尊には信心をしていきなさい。そうでなければ後悔しますよ)
 池田 信心は「心」です。形式ではない。時間の長さでもない。法を求める「心」に「功徳」はある。
 たとえば、忙しくて、なかなか活動できない。しかし、三十分でも会合に出よう。週に半日でも活動しよう──その「心」に大いなる功徳がある。
 また周囲も、そういう人を理解し、励ましてあげることだ。いつも出てきていないと相手にしないというのでは無慈悲です。むしろ、いつも会合に来ている人は安心だ。来られない人をどう励ましていくかを考えなければならない。これができれば、広宣流布は今の何倍も広がっていくに違いない。
10  「母と子の絆」のごとく
 遠藤 「恋法」について、大聖人は「妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに」とも言われています。(妻が夫を、こよなく大切にするように、夫が妻のためには命を捨てるように、親が子を捨てないように、子どもが母親から離れないように)
 「信心と申すは別にはこれなく候」と。
 「特別なこと」は何もない、人間としての自然な感情の延長線上にあるのですね。
 池田 「子の母にはなれぎるが如く」とあったが、こんな話がある。
 未熟児(超低出生体重児)で生まれた赤ちゃんがいた。
 生後一週間で容体が急変し、看護婦さんが、どんなに刺激を与えても反応を示さない。ところが、急いでお母さんに集中治療室に来てもらい、お母さんがその子の名前を呼びかけたら、たちまち心拍数が増えたという。生命は不思議です。
 そのお母さんのような大慈悲で、仏はいつも衆生のことを思っている。それを信じて、素直な心で、「お母さーん」と飛びついていくような気持ちで、御本尊に題目をあげていくことです。自分自身に、その「恋法」の一念が強い人ほど、人に対する「勧発」の説得力も強くなるのです。
 斉藤 たしかに、多宝会(壮年・婦人の高齢者グループ)の人の一言は、若い私たちの何万言よりも、心を揺さぶることがあります。
 須田 「確信」と「思いやり」の深さが違うんですね。
 池田 その「思いやり」こそが「普賢菩薩」の心なのです。あたたかく、また熱い心です。もともと、サンスクリット語の「普賢(サマンタ・バドラ)」は、菩薩行そのものを賛嘆する言葉だったね。
 須田 はい。「普く賢れる」「だれよりもすばらしい」「だれもが賛嘆せざるを得ない」という意味合いがあるようです。「遍吉(だれよりもすばらしい)」という漢訳もあります。
 「普賢行」と言えば、「最高にすばらしい実践」のことであり、利他行のことです。仏の利他行である「普賢行」を人格化したのが「普賢菩薩」であるという説もあります。
11  文殊の「智」普賢の「行」
 池田 だから、ポイントは「行」にある。普賢菩薩が象徴しているのは「行」です。これは序品で、文殊菩薩が登場し、「智」を象徴しているのと対応している。
 文殊の「智」は、世間でも″三人寄れば、文殊の智慧″というくらい有名だ。「智」を表す文殊から始まった法華経は、最後を「行」の普賢が飾るのです。法華経に説かれた「妙法」を、これから世界に広めていくのは「行」だからです。
 文殊と普賢と言えば、大乗仏教を代表する二菩産です。その二人が「門番」のように、「法華経を守護」している。
 じつは、文底の妙法を弘める「上行菩薩を守護」しているのです。そのことによって、どれほど末法に法華経を弘める人(上行菩薩)が尊貴なのかを、人々に、わかりやすく教えているとも言える。
 遠藤 二菩薩とも、大乗仏教のヒーローですから。
 池田 それが、この後、釈尊が説いた「普賢、若し是の経典を受持せん者を見ては、当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(法華経六六七ページ)との一文です。
12  御聖訓「最上第一の相伝あり」
 斉藤 日蓮大聖人が「最上第一の相伝あり」と言われた経文です。
 (「釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎とうきおんごう当如敬仏とうにょきょうぶつの文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」)
 八年間、説き続けてきた法華経を、たった一文で要約すると「未来に現れる法華経の行者を『仏の如くに』敬いなさい」になるのだ、と。
 「仏の如くに」というのは「仏として」という意味です。末法の法華経の行者は「仏」だというのが真意です。
 池田 その一点こそが、法華経全体の「魂」なのです。ゆえに「最上第一の相伝」と言われた。
 末法において、日蓮大聖人を「仏」と仰がずして、法華経は無意味だということです。そのうえで、総じては、日蓮大聖人に直結して広宣流布に生きる門下をも、「その姿を見たら、遠くからでも立ち上がって、仏に敬意を表すように、恭しく迎えるべきである」と言い遺してくださっているのです。
 須田 すごいことですね! 大聖人の「最上第一の相伝」を踏みにじった宗門は、大聖人に弓を引いたことになります。
 遠藤 日願宗でいう「相伝」なるものが、大聖人と全く無関係であることが、この一点からでも明々白々です。
 斉藤 大聖人から相伝を受けられた日興上人も、最後の″遺言″(「遺誠置文」)のなかで、この一点を述べておられる。この一点が、大聖人との師弟不二の魂の叫びであったことが明瞭です。
 「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」──「身は軽く法は重し、とする弘教の実践者」に対しては、たとえ、その人が、位や立場が低い法師であっても、「当に仏を敬うが如くすべし」との道理のままに、信じ敬っていくべきである──。
 遠藤 まさに学会精神そのものですね。
 須田 折伏する人が、どんな高位の人よりも尊いのだ、と。
13  「初め」と「終わり」の「一字」で「生死」
 池田 そうです。たとえ弘教がなかなかできなくても、人から尊敬されなくても、支部員のこと、学会のこと、御本尊様のことを心から思い、広宣流布を願って活動しきっている人は、黄金の人です。「仏の使い」です。
 どんな誹謗を受け、迫害を受けても、最後は必ず成仏の境涯になる。少し長く見れば、わかります。五年、十年、二十年、三十年、そして一生を見れば絶対にわかる。
 反対に、どんな幹部になり、有名人になろうとも、信心をなくしたり、後輩への思いやりがなければ、成仏はできない。仏さまの子どもである学会員を、自分の思いやりのなさから苦しめるようであれば、その報いは当然あります。
 普賢品で忘れてならないのは、その「最後の一字」です。
 「去」の一字です。これは「死」を意味する。
 斉藤 はい。普賢品では、普賢菩薩が「末法の行者を守ります」と誓いを述べた後、今度は釈尊が、普賢菩薩をたたえます。自分も、滅後の行者を守るから、「普賢菩薩よ、その人を仏のごとく敬え」と、先ほどの説法がなされます。
 須田 そこまでで、法華経二十八品の実質の説法は終わるわけですね。
 斉藤 その後、霊鷲山の大衆は、皆、大いに歓喜し、仏の言葉を抱きしめて、仏に礼をして去ります。これで、しめくくりとなります。この最後の一句が「作礼而去(礼を作して去りにき)」(法華経六七八ページ)です。
 大聖人は、二十八品の最後の「去」の字は「死」を意味すると仰せです。そして、二十八品の最初の一字である(「如是我聞」是の如きを、我聞きき)」の)「如」の字は「生」を表すと。
 須田 「如」で始まり、「去」で終わる。もちろん、これは鳩摩羅什が漢文に翻訳した時に、意識して、そうしたのだと思います。
 斉藤 それは何を表しているのか。「生死」の二法であるというのが、大聖人の仰せです。
 池田 すばらしい翻訳だね。(寿量品〈第十六章〉の)自我偈も、「自」で始まり「身」で終わる。「自身」です。
 「始終自身なり」と大聖人は仰せだ。″自分自身″の生命が、三世永遠に仏として続くというのが、自我偈の本旨です。その元意を端的に表現している。
 二十八品全体でも、始めの一字と終わりの一字が「如」と「去」で、「生」と「死」を表している。
 須田 羅什三蔵は天才ですね。
14  大宇宙を縮めて「生」、大宇宙に開いて「死」
 池田 では、なぜ「如」が「生」なのか。
 斉藤 「法界を一心に縮むるは如の義なり」の仰せがヒントになります。わかりやすく言えば、宇宙に一体となって溶けこんでいた生命が、個別の「一心」に縮まって、大宇宙即小宇宙として、この世に生を受けることだと思われます。
 須田 「如」というのは、大宇宙の「如し」ということでしようか。「如」には「なぞらえる」とか「したがう」の意味もあります。
 遠藤 キリスト教でも、人間は「神の似姿」であり、「神の形の如く人間は創られた」と説きます。
 この「神」を「宇宙生命」とすれば、通じる点があるかもしれません。
 斉藤 「去」というのは、「(一心を)法界に開くは去の義なり」で、今度は、一個の小字宙を大宇宙へと開いて、溶け込んでいくのが「去る」ということです。すなわち「死」です。
 もちろん、ここで大宇宙と呼んでいるのは、物理的宇宙のことではなく、それも含めた生命的宇宙です。地獄界から仏界までの十法界のことです。
 池田 地獄界の生命で、この世を「去」った場合には、そのまま宇宙の「地獄界」に溶け込んでいく。その生命にとって、全宇宙が地獄界になるのです。宇宙のどこかに、地獄界など(の十種の場所)が定まって在るわけではない。
15  アインシュタインの直観
 池田 「如」について言えば、妙楽大師は「此の身の中に具さに天地にならうことを知る」と言って、「人体」と「日月や山河」などを対応させている。「総勘文抄」にくわしく述べてある通りだ。(御書五六七ページ)
 また五行御書(御書六九三ページ)にも少し記されているが、我が身を「地・水・火・風・空」と見て、それぞれ天では「土星・水星・火星・金星・木星」の五星に対応し、内臓では「脾臓・腎臓・心臓・肺臓・肝臓」の五臓に対応する等と論じる。そして、これらを貫く根本が「妙法蓮華経の五字なり」とされている。大宇宙も小宇宙も妙法の当体なのです。ゆえに一体です。
 大宇宙と小宇宙が対応しているという思想は西洋の古代や中世でも見られる。近代においては、少し角度は違うが、アインシュタインは、直観的に、宇宙には厳然たる調和の法則があることを信じていたようだ。こうも言っている。
 「科学という営みに真剣に取り組んでいる人ならだれでも、宇宙の法則にはある精神があらわれていると確信しています。人間の精神にはるかにまさる精神です。──このように、科学の営みは、宗教的な気持ちにつながります」
 「いっさいのものが──私たちには制御できないもろもろの力で決まっている。昆虫についても、星についても決まっている。人間も、野菜も、宇宙の塵も、すべて神秘的な旋律に合わせて踊っている。見えない笛吹きが、かなたで奏でる旋律に」(A・カラプリス編『アインシュタインは語る』林一訳、大月書店)
 斉藤 示唆的ですね。
 池田 アインシュタインは「人格神」という概念を捨てるべきだと考えていた。人格神などと言うから、科学と宗教が「衝突」するのだと。
 ともあれ、法華経は、序品と最終品で「生死」を表している。「生と死」こそ法華経の根本テーマである証左です。
 じつは、同じことは二十八品の各品についても言える。各品の初めの題号が「生」であり、各品の終わりは「死」である。各品ごとに「生死」「生死」を繰り返している。その「生死の二法」もすべて、妙法蓮華経の生死なのです。「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」(『摩訶止観』)です。
 ゆえに、妙法を行じ、妙法と一体になるとき、初めて「生も自在」「死も自在」の境涯になる。「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯になる。そのために法華経は説かれたのです。「如」と「去」については、他にもたくさんの深義があるが、また勉強してもらいたい。
16  人類に欠けているのは「慈愛」
 須田 こうして普賢品を学んでみますと、これまで何か「知性の力」だけをイメージしていた普賢菩薩が、じつは「励ましの力」であり、「行動の力」であることがはっきりして、イメージが一新しました。
 池田 もちろん「普賢」は「知性」も含む。「行動する知性」とでも言おうか。
 単なる「知識」や「頭のよさ」ではなくて、「人を救う知性」の光です。それでこそ普賢「菩薩」になる。具体的には、「信心を根本にした知性」です。「知性なき宗教」は独善になる。その害毒の例は、枚挙に暇がない。しかし、単なる「知性」だけでは、「幸福」を生めない。
 韓国の独立の闘士・金九先生の忘れ得ぬ言葉がある。
 「わたしは、われわれの国家が、世界で最も美しい国となることを願っている。最も富強な国となることを願うものではない」
 「現在の人類に不足しているものは、武力でもなければ経済力でもない」
 「現在の自然科学だけでも、楽に暮らしていくためにはじゅうぶんである。人類が現在において不幸であることの根本理由は、仁義が不足し、慈悲の心が不足し、愛が不足していることである。このような心を発達させることさえできれば、現在の物質力をもって、二十億がみな満ち足りた生活をしていくことは可能であろう」(『白凡逸志──金九自叙伝』梶村秀樹訳注、平凡社)
 独立を達成した後の言葉です。韓国には、これほどの政治家がいるのです。
 「知性」が人類に欠けているのではなく、欠けているのは「慈愛をもった知性」です。つまり「智慧」です。これを広げるのが広宣流布です。
 斉藤 最近、アメリカSGIを学問的に研究した本が、アメリカで発刊されました(一九九九年)。『創価学会 イン アメリカ』(オックスフォード大学出版会)という本です。(著者は、著名な社会学者である、カリフォルニア州立大学のフィリップ・ハモンド教授と、デビツド・マハチェク講師)
 その論点は、こうです。──一九六〇年代からアメリカに東洋の諸宗教が急速に広まりだしたが、そのなかで「反社会的なもの」として危険視されて広まらなかったものと、危険視を免れて大きく広まったものとがあった。後者の広まったものも、ほとんどが急速に衰えたが、そのなかでSGIだけは着実に増えてアメリカ社会に定着した。それは、なぜか。
 この点を、アメリカSGIのメンバーヘのアンケート調査を通して、さまざまに分析しています。そのなかで、入会動機を見ますと、「SGIの目的と哲学」に魅力を感じたのと、紹介者の「人間的魅力」の二つが最大の動機で、合わせて八六%にもなります。
 須田 哲学と人格──「知性」と「慈愛」でしようか。
 池田 その両方があって、光るのです。「自分」も光る。「法」も光る。
17  責任感から「智慧の嵐」が!
 池田 私は世界広宣流布を、一宗一派を広めようとか、そういう小さな考えでは、やっていません。地球上で妙法を唱える人が増えれば増えるほど、必ず平和の方向へ行くのです。長い目で見ればわかります。もしか核戦争が起きれば、地球は破滅です。とくに、冷戦時代、第三次大戦が起きないとは、だれも保証できなかった。
 口はばったいような言い方になるが、私は「法華経」という「生命の宝塔」の教えを、世界に広めてきました。まだまだ緒についたばかりだが、流れはできあがった。戸田先生は「二百年先のために今、戦っている」と言われたが、私も同じ気持ちです。
 今の人類を、その子孫を、どう幸福と安穏の方向にもっていけるのか──。地球を背負っているような気持ちで、行動してきた。その「青任感」に立った時、頭の中に「智慧の嵐」が吹き荒れてきた。次々と先手を打つこともできたのです。
 遠藤 中国・ソ連(=現・ロシア)との友情、数々の対談集、民音、富士美術館、創価大学──その他、先生の「智慧」から生まれたものが、どれほど人類に貢献してきたか、計り知れません。
 池田 頭のいい悪いんじゃないんだよ。
 「真剣」であれば、必ず「智慧」はわいてくる。法華経の一句一偈を忘れたら、普賢菩薩が「私が、必ず教えに現れます」と誓っていたでしよう。これは、このことです。智慧が出なかったら、普賢品は、法華経はウソになってしまう。
 「自分は真剣にやっているが、智慧が出ない」という人もいるかもしれない。しかし、たいていの場合、そういう人は、内心では自分は頭がいいと思っているのです。
 本当に頭が悪いと思ったら、「これでは皆に申しわけない」と思ったら、必死で題目を唱えるはずです。それで変わらないわけがない。「だれかがやるだろう」とか、「自分には関係ない」という一念が、奥底にあるのです。それがあるかぎり、「普賢菩薩の威神の力」は出てこない。「自分がやるんだ!」と信心で立ち上がった時、世間的な頭のよしあしを超えて、最高の「智慧」に適った行動になるのです。
18  「如」「去」は師弟不二の信心
 池田 戸田先生は生前、さまざまな指導をなされた。多くの人が「そうは言うけれども、現実は──」という聞き方をしていた。私は全部、「その通りです」という聞き方をしてきました。全部、「その通りです」と実践してきました。
 ある時は、先生は私に「どんな立場にあっても、学会を守れ」と一言おっしゃった。
 師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに、私はそのことを胸に堅く秘めながら、いついかなる時も「その通りに」やってきました。
 会長を勇退して二十年。名誉会長なのだから、本来ならば、責任はない立場かもしれない。しかし、役職は仮のものだ。信心は一生涯、自分自身の「心」の問題です。
 「どんな立場にあっても、学会を守れ」。師匠の一言を、私は「その通りに」全力で実行してきたつもりです。「その通り」に実行するから「師弟不二」なのです。これが法華経です。これが「如説修行」です。これが「如是我聞」の本義です。
 法華経の冒頭の「如」の一字は、師弟の不二を教えているのです。この「不二」の境地を目指しての行動があって初めて、自分自身の無明の闇から「去る」ことができる。
 煩悩の病から「去って」、仏界の太陽が赫々と昇るのです。それが法華経の最後の「去」の一字です。
 法華経二十八品は、全体を通して、師弟不二の行動を、炎のごとく呼びかけているのです。

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