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日蓮大聖人・池田大作

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妙荘厳王本事品(第二十七章) 盤石な「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  「子を、妻をかわいがりなさい」──戸田先生
 池田 戸田先生の質問会でも、「家族に信心を反対されている」という悩みが多かった。先生は、子どもが信心に反対の人には、「本当に真剣に、子どもをかわいがっておあげなさい」と教えておられた。
 「親が子どもを献身的にかわいがって、それで、その親に、はむかうはずがありません。親の慈悲には勝てません。子どもを愛する情熱にとぼしいから、家庭にそういう争議が起こってくるのです。子どもが悪いのではない。親が悪いのです。それを御本尊が悪いように、なんくせをつけると、災難は大きいのです」と。
 また妻が信心に反対する人にも、「主人としての務めをきちんとしなさい。かせぎが足りないのです。女房をかわいがってやり、たまには、着物の一枚でも買ってやれない主人では困ります」と。
 「まずあなたから解決しなさい。問題は女房にあるのではない。あなたにあるのです。まず自分自身が変わることです。立派になることです。あなたは反対されることで、女房の家来になっているのです。自由奔放になりなさい。それぐらいの境地を開きなさい」
 「女房に文句を言ううちは、まだまだ信心ができていません。女房を仏さまみたいに、ありがたいと、このようになると、女房が文句言うわけがありません」
 「大体、女房に不足を言う理由がないのです。みんな、女房に月給なんか払ったことないでしょう(笑い)。
 着物なども買ってやったことないではないですか。だから、あんまり、ぐずぐず言わず、女房を大事にしなさい。それが信心の始まりです。自分がろくなこともやらないで、女房が信仰しないとか、女房を責めてばかりいるのは、私はきらいです」。大体、こんなふうに、指導しておられた。
 遠藤 明快ですね。
 須田 創価学会の指導の在り方は、一貫していますね。
 斉藤 「妙荘厳王品」を勉強する前に、結論が出てしまったみたいですが(笑い)。
 池田 いやいや、きちんと裏づけをもっていることが大事です。
 本当に立派な「一家和楽の信心」ができるためにも、しっかり学んでおこう。また、この品には、さまざまに大切なことが、ちりばめられている。
 遠藤 「妙荘厳王本事品」。本事とは由来のことですから、妙荘厳王という王様がどういう人であったか、どんな物語、体験があったか、それを説いています。
 池田 内容は有名だね。
 須田 はい。王様だけが「未入信家族」で、夫人と二人の子どもは仏法を信仰していました。三人が、どうやって王を入信させたか──その物語です。
3  旧い「しきたり」と「進歩」の相克
 遠藤 はるか昔、妙荘厳王という王がいました。后の名前は浄徳夫人。二人の王子は浄蔵と浄眼。三人とも「浄」の字がついています。
 三人は、雲雷音宿王華智如来という仏が説いた正法を信仰しました。しかし、家族のなかで、父の王だけが、バラモンの教えに執着する「邪見の人」でした。
 斉藤 バラモン教というのは、その当時、すでに社会の体制となっていた「古い教え」と考えられます。
 これに対し、仏法は、仏が出現して説いたばかりの「新しい教え」です。
 池田 父親というものは、保守的なものです(笑い)。
 青年には進取の息吹がある。「正しいものは正しい」と、素直に真理を求めていく。しかし、おやじのほうは、「正しかろうが間違っていようが、これが昔からのしきたりだ!」となりやすい(笑い)。新旧の世代の問題でもある。
 須田 「子どもや女房の言うことなんか、聞いてたまるか」と。″沽券にかかわる″と、意地を張ってしまう。
 遠藤 案外、気がちっちゃいものです。自分も男だから、よくわかります(笑い)。
 池田 学会でも、ほとんどが、まず「母と子」が信心して、父は一番後から(笑い)──法華経と同じだ。不思議です。
 斉藤 仏教が広まったころのインド社会では、基本はバラモン教的な「家父長制」でした。父親が家族全員に対して支配権をもっていたわけです。そういうなかで、新しい仏法の教えに、青年や婦人が、どんどん引きつけられていった。
 多くの家庭で″家庭争議″がもち上がったものと思われます。実際、それをうかがわせる仏典も残っています。
 この妙荘厳王品にも、そういう背景があったのではないでしょうか。
 池田 新旧の思想の衝突だね。家庭で波が起きるからこそ、その思想は本物だとも言える。青年の頭のなかだけの観念的なものであったり、気休めや、一時の流行であったりしたら、生活の場である家庭には「新旧の対立」は、あまり起こらない。
 遠藤 たしかに、「お地蔵さんを拝みに行きます」と言って、大問題になることはありません(笑い)。
 須田 むしろ「信心深い、珍しい青年だ」と、ほめられるかもしれません(笑い)。
 斉藤 しかし、現実を根底から変えゆく、生きた、革命的な宗教は、どうしても旧いものから反対されてしまいます。本物である証拠です。
 池田 もちろん非常識で、反社会的な運動に反対するのは当然です。そうではなく、一家の幸福のため、社会の幸福のために、道理をもって行動しても、何らかの波乱が起きる。これが「新時代を創る波」の宿命です。そして、一つ一つの家庭において、この対立の小さな波を乗り越えて、「一家和楽」を確立しきっていってこそ、社会の変革も磐石なものになる。
 広宣流布という「社会革命」は、一つ一つの「家庭革命」という巌の上に、盤石に建設されていく。
 斉藤 妙荘厳王品は「息子が父を教化する」というストーリーです。これは当時の人々にとっては、画期的なものだったと思います。
 中村元博士は、「従来のバラモン教の家父長制的な『家父長に対する一方的な絶対服従』の観念が、仏典では排除されている」と指摘しています。(『原始仏教の生活倫理』、『中村元選集[決定版]』17、春秋社)
 池田 仏法では、家族のだれであれ、「すべて個人として平等に尊厳」と見る。非常に進歩的です。だからこそ、「先祖の宗教に従え」といった「家」中心の思想とは相いれない面がある。
 須田 仏法の考え方は、近代の人権思想と共通しています。人権思想の結晶である日本国憲法でも、個人の「信教の自由」を完璧に保障しています。
 池田 その意味では、「先祖の宗教」等と「仏法」がぶつかっているのではなく、「(個人の人権を認めない)旧いしきたり」と「人権」とがぶつかっている──それが実相かもしれない。ちょっとむずかしい表現になるが。
 遠藤 自分の信仰を貫いていくのは「人権闘争」なんですね。
4  権力者の「邪見」を破る戦い
 池田 じつは、妙荘厳王品は「一家」のことのようだが、それだけではない。
 「王の一家」「権力者の一家」です。権力をもった人間を信仰させて、一国を救うという物語なのです。
 これがないと、民衆の苦しみが続く。「生活の多くの問題の七割、八割は政治の在り方に関わっている」と言う人もいるくらいだ。
 斉藤 そう思います。妙荘厳王品でも、王を仏法に導こうと、はじめに決意したのは、仏その人でした。
 須田 「爾の時に彼の仏、妙荘厳王を引導せんと欲し、及び衆生を愍念したもうが故に、是の法華経を説きたもう」(法華経六五二ページ)
 仏法の最高の教えをもって、「邪見の国」を救おうとしたのです。
 達藤その仏の心を知ったゆえに、浄蔵と浄眼の二人は、父母に法華経を聴かせようと決意します。
 池田 「師匠の心に応えよう」という決然たる行動であった。
5  「父を思いやるゆえに」
 遠藤 二人は、まずお母さんの浄徳夫人に相談します。すると母は「お父さんも一緒に、仏の説法を聴きに行きましょう。お父さんに、そう言いなさい」と答えます。
 二人は嘆きます。「私たちは『正義の王者(法王)』の子ども(仏弟子)であるのに、こんな邪見の家に生まれてしまった!」と。
 池田 しかし母は強い(笑い)。「嘆いていて、どうなるのか! グチはやめなさい! 現実を変えなさい!」と、励ます。
 須田 はい。「あなたたちは、お父さんのことを思いやってあげなさい」と。
 池田 ここが大事だ。相手の幸福を願う強い強い思いが根本です。その慈悲がなければ、不平不満であり、グチです。現実に引きずられ、負けているのです。
 二人の兄弟も「こんなに信心しているのに、どうして!」と思ったかもしれない。しかし、それは感傷です。「こんなにやっているのに」などと、後ろ向きになっていれば、その一念のせいで結果が出ないのです。
 信心は感傷ではない。信心は勇気です。幸福になるには、勇気が必要なのです。
 母の浄徳夫人には、慈愛から出る智慧があった。
 ゆえに、「王様に、いきなり仏法の話をしても、聴く耳をもたないだろう」と知っていた。そこで、父の″攻略法″を教える。
 斉藤 こう教えます。「神変(神通変化)を現して見せなさい。お父さんが、それを見たら、きっと心が晴れ晴れとして、すばらしいと思われるでしょう。皆で、仏様のもとへ行くことを許してくれるでしょう」
 池田 さすがに夫の心理をよく知っていた(笑い)。偉大なことの起源には、必ず、だれか女性がいる」という言葉があるが、この母ありて、父が変わり、一国も変わった。つまり、母は、「お父さん、どうか変わってください!」と言ってもむだだと思っていた。
 反対に、「お父さん、私たちは、こんなに変わりました!」と言って、見せなさいと教えたのです。
 須田 二人は、さっそく父のもとに行って「神変」を見せます。空中に高く登ったまま、自由自在に歩き回ったり、寝て見せたり、体から水を出し、火を出し、大空に満ちるような巨大な姿になったり、小さくなって見せたり。
 遠藤 空中で消えたかと思うと、たちまち地上に現れ、水に飛びこむみたいに地面に飛びこみ、あるいは水の上を大地を歩くように歩いて見せました。
 斉藤 それらの「種種の神変」も、すべて「父を念うが故に」と説かれています。
 梵本(サンスクリット語本)には、夫人が兄弟に「あなた方が慈愛の心で、お父さんに対すれば、お父さんもまた慈愛の心を起こして、あなた方の心をわかってくれるでしょう」(趣旨)と言ったと説かれています。
 池田 事実、妙荘厳王は、二人の神変を見て、「大いに歓喜」した。子どもが立派に成長して喜ばない親はいません。
 遠藤 王は、子どもに合掌して、こう言います。「一体、お前たちは、だれを師匠にして、こんな力を得たのか。一体、だれの弟子になったのか」。
 二人は、「今、法華経を説いておられる、彼の如来こそ、私たちの師匠です。私たちは、その弟子です」と胸を張ります。
 須田 そこで、父は「そなたたちの師匠に、ぜひ、お会いしたい。一緒に行こう」と、みずから申し出ます。
 遠藤 もう「入信一歩手前」です(笑い)。
 斉藤 いや、心では、すでに仏法を受け入れていたと言えるでしょう。
 須田 作戦は見事に成功し、王の心は″落城″したわけです。
6  「不可能を可能にする」信心
 池田 「実証」の力です。「現証」ほど強いものはない。目を見張るような「人間革命」の実証を示したのです。「一切は現証には如かず」「道理証文よりも現証にはすぎず」と、大聖人は仰せです。
 とくに、家族は、その人のことを一番よく知っている。外で、どんな偉そうなことを言っても、事実の姿を、じっと見ているものです。もちろん「家族が一番、わからない」本人の一面というのもあるかもしれない。
 しかし、いずれにしても、「ああ、この子は変わったな。成長した」「夫は何だか立派になった」──そういうふうに感じ、わかっていくものです。その「人間革命」こそ「神変」です。大聖人時代の池上兄弟が、猛反対する父を入信にまで導けたのも、兄弟が父の迫害にも、びくともしない人間的立派さを示しきった結果ではないだろうか。
 斉藤 神変とは、単に超能力のようなものではなく、人間革命するということですね。
 大聖人も「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」と言われています。
 須田 そうしますと、浄蔵・浄眼が「神変」を現したというのは、当時の民衆の機根に合わせた表現ということでしょうか。
 池田 そうも言えるでしょう。天台も、これは「世界悉檀」(世間の人々の機根や志向性に合わせて法を説くいき方)であると言っている。
 そのうえで、神変とは「不可能を可能にする」信心を教えているとも言えないだろうか。一口に「実証」といい、「人間革命」と言っても、並大抵のことではない。信心をしている人は多くても、「本物の信心」をしている人は少ない。生半可な、惰性の信心では、成仏はできません。自分勝手な、わがままな仏道修行などない。それでは「如説修行」ではなく「我説修行」だ(笑い)。
 御書の仰せの通りに、「広宣流布一筋に」信心し抜いてこそ宿命転換ができる。
 一国の王を改心させるカギも「不可能を可能にする」ひたぶるな祈りと戦いで、民衆の「実力を示す」以外にない。なまやさしい考えでは、ケガをしてしまう。その厳しさを感じとるべきだと思う。
7  信心猛反対の夫をもって
 須田 はい。一家の宿命転換ということで、すばらしい体験をうかがいました。
 以前に聖教新聞でも紹介された千葉の婦人部の方です。約千坪の駐輪場を経営する会社の社長さんです。ご本人は「とんでもない。あくまで″駐輪場のおばちゃん″ですよ」と笑っておられるようですが。
 池田 あ、あの個人会館の方だね。
 須田 そうです。念願の個人会館ができて、池田先生から苗字を冠して「栄光会館」と揮毫をいただきました。彼女には「会館」という字が「宝の館」と見えて、先生の慈愛を感じ、震えるほど感激されたそうです。
 遠藤 ご主人が信仰に反対だったんですか
 須田 そうです。しかも並大抵の反対ではなかった。
 結婚は戦後の混乱期。ご主人は事業に失敗して、ギャンブルと酒にのめりこんでいきました。住む家もなく、一家四人が知人の台所の片隅で雨露をしのぎ、昼間は小さな公園で、赤ん坊は地べたを這いずり回っていた──と述懐されています。
 親切な友人のおかげで四畳半のアパートに入ってからも、極貧です。夕食の支度をするにも、十円玉二つを握って、一山十円のイワシと、十円のホウレン草を買う。そのとき、背中の子どもが「お菓子がほしい」と騒いだ。「買ってやりたい。何とか、あと十円あれば」と夢中で商店街の雑踏のなかを探して歩いたそうです。「十円のない悲痛な思いを忘れることはできません」と言われています。
 池田 もともとは名家のお嬢さんだったね。
 須田 はい。鹿児島で生まれ、生活は何不自由なかったそうです。ただ家庭不和の悩みがあり、そんな両親に反発して、人一倍、結婚には慎重でした。それなのに「結局、母と同じ宿命に泣くようになったのです」と。彼女は、自立しようと離婚を決意して単身で飛び出しました。
 子どもをかかえていては働くこともできません。終戦のころ、両親を相ついで亡くしていて、子どもを実家で預かってもらうこともできなかったのです。
 結局、幼い姉と弟は、施設に入れられることになってしまった。しかも別々の施設です。それを聞いて、子どもいとおしさに胸がつぶれるような思いで、ご主人のもとへ戻ってきたのです。前にもまして暴力に脅える毎日が始まりました。
 遠藤 今なら別の選択肢もあったでしょうが──。
 斉藤 まだ入会されてなかったんですね。
8  自分の不幸を夫のせいに
 須田 人会は昭和四十年(一九六五年)です。失業中のご主人を支えて、保険の外交をしていました。ご主人も形だけは入会したものの、異常なほどの猛反対。
 創価学会をやめろと、毎晩、手当たりしだいに、つかんだ物でなぐる。酒の乱れが全部、信心の反対に向けられました。ある時は仏壇を鉈で叩き壊され、石油をかけて燃やされたそうです。御本尊を懐に抱いて、はだしで飛び出したり、締め出されて、題目をあげながら夜を明かしたこともありました。
 泣きながら先輩に訴えると、あたたかくも厳しい指導をされたそうです。「一つ反対されたら、一つ罪業が消えたと喜んで、明日からまた折伏に行ってらっしゃい!」と。
 やがて、ご主人は大手ガラス会社の下請け業者になれたんですが、金づかいが荒く、貧乏は続きました。彼女は、そのなかで、いつか家を持ちたいと思って、家計をやりくりし、こつこつお金を貯めていました。
 しかし、やっと四百万円貯まったとき、喜んで通帳を主人に見せると、引ったくるように取り上げられてしまったのです。二日後には、部屋に通帳が放り出されていました。残高はゼロでした。全部、競馬ですってしまったのです。
 その方は言います。「夫を恨み、考えることは離婚することばかりでした。でも先輩から『自分の不幸を夫のせいにしている、あなた自身が変わらなければ福運はつかないわよ』と言われ、その一言で腹が決まりました。
 『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』です。生活の上に表れた影の乱れに一喜一憂して、主人がああだこうだと愚痴るのはやめよう。自分の宿命なんだから、自分の責任で乗り越えよう。そして福運をつけるんだ、と。人ではない。全部、自分自身の境涯なんだ、と。依正不二の原理を深く確信したんです」。
 池田 その一念だね! 「全部、自分が一生成仏するための勉強なんだ」と思えたら、すべては解決する。
 人のせいにする愚痴の心がある分だけ、宿命転換は遅れる。「自分の宿命だ。自分の人生だ。まず自分が人間革命していこう」と決めて、苦しくとも、悲しくとも、御本尊に祈りきっていけば、必ず道は開ける。
9  泣いても福運はつかない
 須田 本当に、そう思います。山下さんは「泣いても福運はつかないんだ」と、たゆむことなく学会活動に励みました。そのうちに、思いがけなく、駅前の土地を管理する話が舞いこんできました。そして入会して七年目の昭和四十七年(一九七二年)に、駐輪場を開くことができたのです。そして何より山下さんの心境が変わっていきました。
 信心の喜びを知らない夫が、心からかわいそうに思えてきたのです。夫の発心を真剣に祈る毎日に変わりました。そして「自分の信心を深めてくれるために、夫は最高の″善知識″なんだ」と感じられるようになったのです。
 「不思議なんです。夫への思いが感謝の一念に変わった時、夫のギヤンブル狂いが、ピタッと止まったんです。そして御本尊に掌を合わせる夫になったんです」
 昭和五十一年(一九七六年)、ご主人が食道ガンで倒れました。彼女は「私の寿命を半分にして、主人に与えてください。ともに広布のために戦わせてください」と祈りました。
 「今まで感じたこともないような主人への愛情と感謝の思いに涙を流していました。私は初めて、これまで無慈悲だった自分の生命に心から気づくことができたのです」
 病院へ飛んで行くと、ずっと寝たきりだったご主人が、ベッドに起き上がっていたそうです。ベッドから自力で降りられるようにもなり、「そして初めて、広布のこと、学会のこと──何でも話し合える、心の通い合った本当の夫婦になることができました」
 ご主人は貪るように仏法を学び、翌年、使命を終えたよぅに霊山に旅立っていかれました。その見事な臨終の相を見て、親しい二人の人が入会したそうです。
 「主人は、さまざまな功徳と罰の現象を見せながら、私に信心を教えてくれたんだと思います。最高の善知識だったのです。今、私は、『あのすさまじい苦難の道があったればこそ』と、心から感謝できる自分になれたんです」
 そして境涯の革命は経済革命ともなり、「お金が、どんどん寄ってくるようになりました」と言われています。
 念願の個人会館を建設しました。かつて山下さん一家を見るに見かねて、四畳半のアパートを借りてくれた友人は、しみじみと言ったそうです。「あなたは創価学会に入って、本当に幸福になったわねぇ」と。
 池田 うれしいお話です。ご一家のことは、よく知っています。創価大学でもお会いした。
 何がうれしいと言って、「こんなに幸せになりました!」と会員の皆さんが喜んでいる姿ほど、うれしいものはない。そのためにだけ私は生きているんです。ほかのことは全部、枝葉末節です。
 本来ならば、まじめな学会員さん全員に、一人一人お会いして、御礼も言い、励ましも贈りたい。それが私の本当の気持ちです。生身の体だし、それは不可能だが、全部、その思いを御本尊に祈りきって、生きています。だから幹部の皆さんは、私の代わりに、大切な会員の面倒を優しく見てあげていただきたい。皆、仏様の子どもです。
10  民衆に仕える「無冠の王者」
 池田 幹部に会員を叱る資格なんかありません。大事に大事に仕えていくべきです。
 威張るんなら、権力者に対して、威張りなさい。叱るんなら、魔を叱りなさい。弱い立場の後輩を苦しめる幹部は卑怯だ。後輩を思いやれない無慈悲な幹部は成仏できません。意地悪したり、仏子を苦しめたら、罰を受けます。
 私だって毎日、朝から晩まで「民衆の奴隷」のようなものだ。それでいい。それが本当の「王者」だと思っている。
 「妙荘厳王」。「妙法の功徳で荘厳した王」です。(御義口伝に「妙法の功徳を以て六根を荘厳す可き名なり」と)権力で自分を飾っていくのではない。権威や財産や栄誉や名声で、自分を荘厳している限り、それは悪の、入信前の「妙荘厳王」です。それらをかなぐり捨てて、「妙法以上の宝はない」と、信心に徹したとき、善の「妙荘厳王」となる。無冠の王者が一番尊いのです。
 幹部となり、学会のおかげで有名人となった人間が、増上慢になって、「信心」以外のもので自分を飾ろうとし始める。そうなったら、もはや魔の存在です。
 斉藤 本当に、「見栄」が信心の「敵」だと思います。
11  どんな人にだって悩みはある
 遠藤 たとえば、幹部であるほど「自分がこんなことで悩んでいるのは恥ずかしい」と思って、素直に指導を受けられない場合がありますね。
 須田 実際、「あの人は幹部のくせに」と、冷たい目で見る人もいるようですから……。
 池田 どんな人にだって、悩みがある。凡夫なんだし、悩みがあるから信心しているのです。子どもが学校に行かない。主人が頑張らない。家族が寝たきりになってしまった。そういう悩みがあるから前進もできる。煩悩即菩提です。
 幹部だからと言って、完全な人間なんかいるわけがない。それを背伸びして、自分をよく見せようとしても、自分も苦しいし、周囲だって納得できるわけがない。ありのままの自分でいいんです。「私には、こんな悩みがあります。でも、最後には必ず解決してみせます。活動をやりきって、人間革命してみせます。こんな自分ですが、広宣流布のために一緒に頑張ってほしいのです」と謙虚に言っていけばいいのです。
 最後に幸福になればいいんです。途中には、いっぱい、いろんなことがある。当たり前です。子どもに問題がある。安心できない。まだ死ぬわけにはいかない──だから頑張れるんです。煩悩即菩提です。
 「信心しているくせに」とか「幹部のくせに」とか、言いたい人には言わせておきなさい。言ったほうは、その報いを受けるし、言われたほうは、その分、罪障消滅できるんです。
 明るく、伸び伸びと、自分らしく活躍していけばいいのです。それが自体顕照です。自分の生命そのものを光らせていくのです。見栄っ張りは、体にネオンをつけて歩いているようなもだ。そのおかしさが自分ではわからない。それくらい狂ってしまっている。
 他人をうらやんで生きるのは爾前の生き方です。「自分はこれで行くんだ」と決めて生きるのが法華経です。虚像ではなく、実像の自分で勝負していくのが信心です。それが「妙荘厳王」の意義なのです。
12  感激があれば、功徳は大きい
 斉藤 この品では、話がまだ続きます。妙荘厳王が仏のもとへ行こうと決意したのを見て、兄弟は王子の位を捨てて、仏道修行に専念したいと申し出ます。「仏に会えること」は、はなはだむずかしいからですと。
 須田 「一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」(法華経六五七ページ)という有名な一句も出てきます。(大海に住む亀が、千年に一度、海面に浮上する機会に、自分を癒してくれる栴檀の浮き木にめぐりあうこと。しかし、その木には、自分がはまりこむ穴が開いていなければならず、亀は目が片方しか見えないために遠近感がつかめず、間違った方向へ行ってしまう。妙法にめぐりあうことの難しさを譬えている。「松野殿後家尼御前御返事」〈御書一三九一ページ〉等)
 池田 この大宇宙には無数の生命がある。地球にも、いな小さな庭ひとつとってみても、そこには数えきれないほどの「生命体」がある。そのなかで、幸運なことに人間に生まれることができた。また、千年、万年、億万年にもあいがたき御本尊を拝することができた。
 しかも今、世界広宣流布のまっただ中に生を受けたのがわれわれです。どれほど宿縁が深いか。どれほどの使命があるか。仏法に偶然はないのです。まさに「我等宿福深厚にして、仏法に生まれ値えり」(法華経六五七ページ)です。この厳粛な事実を自覚すれば、欣喜雀躍です。歓喜がほとばしり出る。
 一日一日を宝として、信心一筋に生きるはずです。その感激があれば、すみやかそのに功徳が出てくる。その「信心一筋」の決意を兄弟は述べているのです。
 使命を自覚しもしないで、漫然と一生を終わるなんて、生ける屍のようなものだ。「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」です。
13  「婦人と青年」の力で広宣流布
 遠藤 妙荘厳王は、群臣を引き連れて、仏のもとへ行きます。浄徳夫人も二人の王子も、それぞれ眷属を引き連れて行きます。王宮をあげての帰依です。王は、すばらしい仏の説法に「大いに歓悦」して、仏に真心の供養を捧げ、仏を讃えます。
 すると仏は、「この王は未来に成仏して沙羅樹王仏となるだろう」という授記を与えます。これを機に、王は国を弟に譲り、一族ともに仏道に専念します。
 斉藤 一国あげて、「邪見の国」から「正義の国」に変わったと考えられます。
 須田 広宣流布ですね。
 池田 「母」と「子」が、権勢ある「父」を改心させたのです。「婦人」と「青年」が立ち上がって、広宣流布したのです。
 権力や財力をもって、正法に反対している「邪見」の指導者は、悪の妙荘厳王です。それに対し、なんの権力も財力もない学会員は浄徳夫人であり、浄蔵・浄眼です。
 学会も猛反対の嵐のなか、何にもないところから出発して、ただ妙法の力によって、実証を示し、民衆の力を示し、団結の力を示して、社会の「邪見」を改めさせてきた。
 遠藤 これこそ「奇跡」だと思います。
 須田 「神変」ですね。
 池田 だれがやってもできることならば、何も信心はいらない。できないことを可能にするのが信心なのです。
 遠藤 王は、その後、八万四千年にわたって法華経を修行します。八万四千の煩悩を乗り越えたという意味かもしれません。煩悩即菩提の妙法の功徳で、わが身を荘厳しきったということだと思います。そして、仏に対して、王は言います。
 「この二人の子は、私の善知識です。私を救いたいと思って、私の家に(子どもとして)生まれてきたのです」
 池田 自分の子どもに心から感謝できる境涯にしたのです。
14  家族は皆「善知識」
 斉藤 家族は「善知識」なんだというのが、法華経の家庭論のポイントではないでしょうか。自分の信心を磨き、人間として向上していくための「善き友」です。初期の仏典にも「妻は最上の友である」「わが家の友は母である」等とあります。
 池田 家族になるのも深い宿縁です。「父母となり其の子となるも必ず宿習なり」と。
 夫婦についても「是れひとえに今生計りの事にはあらず」と仰せだ。深い縁のもとに、せっかく家族になったのだから、互いが互いの幸福を増進させる「善き友」でありたいものです。
 広宣流布という高い目標に向かって、支え合い、補い合い、磨き合っていけば、それは「創造家族」とも言えるし、「成長家族」とも言える。決して、閉ざされた「城」のような家庭ではなく、理想に向かって、地域と社会に貢献しゆく「開かれた家庭」です。城ではなく、飛行機です。
 遠藤 宿縁ということで、この「妙荘厳王一家」には面白い話があります。(天台の)『法華文句』に説かれています。
 昔、ある仏の末法に四人の仏法者がいて仏道修行をしていました。しかし、食べるものもなく、四人とも行き詰まってしまった。その時、一人が「このままではだめだ。君たち三人は仏道修行に専念しなさい。私一人は皆の食事係をやろう」と言い出して、「そうしよう」ということになった。
 そのおかげで三人は、仏道を得ることができ、無量世にわたって功徳は消えませんでした。もう一人は、三人を助けた功徳で、生まれるたびに王になれたが、その功徳もいつまでも続くものではない。やがて苦しみの境涯に堕ちてしまうであろう。
 三人は「彼のおかげでわれわれは悟りを得たのだから、救わねばならない。しかし今、彼は欲望に執着して『邪見』である。彼を救い出すには『家族の愛情のかぎ』で引っ張り出すしかない」と相談しました。そして「一人は美人の奥さんになり、二人は聡明な子となろう」と決めて、王の家族となり、王を救ったと言うのです。
 池田 おもしろいね。さらに、その浄徳夫人が、じつは釈尊の法華経の会座に集った「妙音菩薩」であり、二人の子は「薬王菩薩と薬上菩薩」である。王は「華徳菩薩」である。こう明かされる。
 三世を貫く生命の一族です。善友の連帯です。生命は不可思議です。人間は、いずこから来て、いずこへ行くのか。これは科学でも、政治、経済でも解決できない。これを解決できるのが仏法です。
 本当に、いい家族、いい恋人に会った。幸せだ──しかし、生老病死がある。いつかは別れなければならない。「愛別離苦」がある。しかし妙法を信じていれば、生々世々、一緒に生まれてこられるのです。ある場合は親子、ある場合は夫婦、あるいは弟に、妹に、親友に、いろいろ姿は変わるけれども、生々世々、ともかく近くに生まれてこられる。そして「ともに宝所に至る」(法華経三二〇ページ)のです。だから妙法はすばらしいのです。その原理を、妙荘厳王一家は教えているのです。
 もちろん「二度と会いたくない」(笑い)というような場合には、一緒に生まれてこない。自在です。
15  離婚について
 須田 「会いたくない」ほうは「怨憎会苦」ですね。はじめ愛し合って結婚したはずの二人も、いつしか「顔も見たくない」となる場合もあります(笑い)。
 そこで「離婚」の問題ですが、やはり自分の宿命転換に打ち込んで、離婚しないよう頑張るべきなのでしょうか。
 池田 これは本人が決めるしかない。周囲が別れなさいとか、別れてはいけないとか言う資格もないし、離婚したから信心がないなどと言ってはならない。全部、本人の自由です。離婚しようがしまいが、最後に幸福になればいいのです。人間革命できれば、それでいいのです。結婚しようがしまいが幸福。子どもがいようがいまいが幸福。これが信心です。幸福は自分の胸中にあるものだから。
 人間は一人で生まれ、一人で死んでいく。その一人の「自分自身」を変革しきっていくための今世です。だから、周囲を「善知識」にして、一切を仏道修行と思って頑張りなさいと言うのです。
 戸田先生も、「主人とうまくいかないが、このまま我慢してやっていったほうがいいでしょうか。別れたほうがいいでしょうか」と質問されて、「夫婦の仲にまで入るわけにはいきません」と答えておられた。
 「別れるなと言うのでもありません。別れろと言うのでもありません。ただ、そういう夫をもたなければならないあなたの宿業が打破されないかぎりは、その人と別れても、また同じようなことで苦しむのです。同じく苦しむなら、今の亭主で間に合いそうなものではないか」と教えられたのです。
 遠藤 子どもの問題もありますから、少なくとも、まだ成人していない子どもが苦しむような選択は慎重であるべきだと、私個人は思います。
 斉藤 かつて池田先生は「離婚する、しないは、プライベ−トな問題で、当然、本人の自由です。しかし″他人の不幸の上に自分の幸福を築く″という生き方は仏法にはない。それを基準に考えてください」と答えておられましたね。
 池田 両親の仲がよければ、それにこしたことはない。しかし両親が離婚したから必ず子どもが悪くなるとも言えない。むしろ、そういう苦難のなかから、より立派に成長した人も、たくさんいます。
 須田 再婚して、見違えるように幸福になった人もいます。
 池田 要は、自分自身が、自分の立場で、自分を見つめきって、人間革命に挑戦し抜いて、そのうえで自分で決めることです。その「強盛な信心」があれば、最後は必ず幸せになる。何があっても、退転せず、前へ前へ、広宣流布しきっていく「信心」があれば、最後は勝利する。それだけわかっていればいい。
 須田 よくわかりました。
 池田 もしか離婚した場合は、くよくよしないで、貴重な勉強だったと思って、前以上に広布に頑張っていけばいいんです。また、そういう人を周囲があたたかく応援してあげてほしい。そして、母と子、父と子だけであっても、寂しがらないで「そのぶん、たくさんの友だちをつくろう!」というくらいの大きな気持ちで生きていただきたい。
 そもそも完全に成功した結婚なんて、ほとんどないと言われている。「99%は失敗だ」という人もいる(笑い)。外からは、うらやましいような家庭に見えても、内じつは悩みがいっぱいというのが現実でしょう。
 モンテーニュだったか「王国を統治するよりも、家庭内を治めることのほうがむずかしい」と言っている(笑い)。
 遠藤 夫婦げんかなんかも、あっていいんですね(笑い)。
 池田 けんかできる元気があるだけ、「健康な証拠」だ(笑い)。
 大体、夫婦とも同じくらいの境涯だから、けんかになる。妻や夫を、自分の子どものように思えるようになったら、境涯が段違いだから、けんかになりません。がみがみ言われても「おっ、まだ元気だな」(笑い)、「生きてる証拠だ」(笑い)というくらい、楽しく、朗らかに生きればいいんです。
 大境涯になれば、ギャーギャー言われても、小鳥のさえずりのように聞こえる(笑い)。
16  「幸福」には「忍耐」の裏づけが
 池田 ともあれ大事なのは愛情です。慈悲です。そのうえで、一番高いものを目指して、幸福を目指して、一緒に題目を唱える以外にない。
 夫婦といっても、もとは他人です。他人なんだから、忍耐して、「理解しよう」と努力しないと、うまくいかない。一緒に生活しながら、家庭を守り、仕事をし、子どもに教育を受けさせていく。二人で「人のためにも尽くしていこう」とする。その「忍耐」の二字が必要です。
 「幸福」の裏づけには「忍耐」が要るのです。忍耐のない幸福を夢みる人が多い。しかし、それは夢です。夢はどこまでいっても夢であり、おとぎの世界です。幼稚な、イージー(安易)な人生です。それで、多くの夫婦が破綻してしまう。幸福を追い求めていながら、不幸になってしまう。
 淡々と「一緒に建設しよう」という努力。「一緒に進んでいこう」という忍耐。それがあって、本当の愛情になっていくのです。
 本当の愛情は「永遠に一緒に生きたい」ということです。結婚して、二十五年たって、より以上に深い愛情をもてるのが、本当の結婚です。
 愛情は「深まる」ものです。深まらない愛情は、単なる「好き嫌い」の次元なのです。
 須田 幸福の裏づけには忍耐が要る──大切なお話だと思います。
 池田 生活は現実です。だから、男性は経済力がなければならない。そして、女性の話を、我慢して聞いてあげること(笑い)。
 あとは、家族の間であっても、こまめに「ほめる」ことです。何でもいいから、ほめる。欠点だけ暴いていても、きりがない。愚かです。
17  一人の「太陽」さえあれば
 池田 女性も、家庭を「明るく」することです。自分がいれば、どんな時も「明るく」する。そう決めることだ。自分が「太陽」になれば、この世に闇はないんです。一人が「太陽」になれば、一家全部が照らされるんです。
 夫に、お子さんに、お孫さんに、自分のあふれる功徳を回向してあげられる、福徳に満ち満ちた自分になればいいんです。
 その決意でいけば、必ず家族も信心するようになります。
 かりに自分一人しか信心していない場合でも、信心ある人の前後左右には四菩薩が守ってくださっている。十方の仏・菩薩が、諸天善神が、雲のように集まって、その人を、一家を守っていくんです。寂しいなんて思ってはいけない。そして、あせることなく、心から相手を思いやって、信仰に目ぎめさせてあげることです。
 「決めつけ」はいけない。「どうせ、こういう人なんだ」と決めつけたら、その一念で、相手の成長を止めてしまう。自分の成長も止まる。「必ず変わるんだ」「仏界があるんだから、必ずいつか開花するんだ。させてみせる」と決めて祈りきっていくことです。たとえば親が信心しなくても、くよくよしないで、「父が題目をあげない分、私がかわって唱題してあげよう」と決めればいい。
 父母については大聖人は「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん」と仰せだ。別の解釈もあるが、″親が生きている間に、信心させたい″という心を教えてくださっているとも拝される。
 遠藤 もし信心しないうちに亡くなった場合には──。
 池田 死んでもすぐ生まれてくるから、心配ない(笑い)。生命は永遠だし、題目は必ず通じていく。
 カラッと、よい方向へ、よい方向へと解釈していったほうがいい。
18  「創価学会が大好」きな子に!
 須田 子どもに、しっかり信心させるポイントは何でしょうか。
 池田 あんまり、口やかましく言わないで、学会を尊敬し、好きにさせることが根本です。信心は一生なんだから、だんだんわかっていけばいい。杓子定規になって、「これだけやらないとダメ」みたいな押しつけは賢明でない場合が多いでしょう。
 創価学会を愛し、大事にすること、その心を教えていくことだ。創価学会が好きで好きでたまらないという子どもに育ててもらいたい。その心があれば、最後は必ず立派になっていく。それなくして、子どもに関して見栄っ張りなのは鬼子母神の心です。
 斉藤 残念なことに、幹部や有名人の子どもが学会活動をあまりしない場合があります。
 親が表面では頑張っているように見えて、家庭では同志の悪口を言ったり、批判をしたり、いわんや学会を下に見ているような増上慢があれば、子どもに鋭敏に反映されますね。
 須田 ある高校生は「うちのお母さん、活動の連絡なんかの電話のあと、必ず、ふーって、ため息をつくんです」(笑い)。「どうも喜んでやっていないようなんです。そういう信心でいいんでしょうか」と。この子の場合は、昔はお母さんも生き生きとやっていたのを知っているので、まだいいんですが。
 池田 もちろん、今、子どもが頑張っていないから、親の信心に問題があるとは言えない。子どもは長い目で見てあげなければならないし、「問題児」などと言われている子ほど、案外しっかりと、いろいろ考えている場合も多い。ただ根本は、最後は、親の信心で全部、決まる。なかんずく、何十万という体験のうえから言って、お母さんの信心が大事です。
 「本末究竟等」です。「本」は親の信心、「末」は子どもの信心。究竟して──結局のところ「等しい」のです。御本尊と、御本尊を広宣流布している創価学会を大事にする「心」を、わが身で示しきっていくことです。それさえあれば、最後は良くなるに決まっている。
 親が生き生きと随喜し、「随喜功徳」を受けて前進していけば、子どもには自然のうちに伝わっていきます。どんなに大事にし、かわいがって、なめるようにして育てても、その「心」を教えないと、だめになる。人間を育てるのは甘いものではない。仏意仏勅の創価学会を、心の底で馬鹿にしていれば、やがて自分が妻や子どもに馬鹿にされ、人々から馬鹿にされるようになってしまう。
 「善知識」の話が出たが、要するに「つくべき人を、間違ってはいけない」ということです。「正しき法を求めるならば、正しき人を求めよ」ということです。つく人を間違うと、どんなに頑張っても功徳は出ない。ここに創価学会出現の不思議さがある。
 ともあれ、信心については、親が賢明にリードしてあげることだ。未来部の担当者の人に「よろしくお願いします」と応援してもらうことも大事でしょう。そして、信心以外のことについては、全部、子どもの味方になって、よく聞いてあげること。
 とくに、お父さんは、やかましく叱ってはいけない。お母さんは、少々、うるさく言っても大丈夫だが。また、父母の両方が一緒になって叱ってしまっては、子どもは行き場がなくなってしまう。
 遠藤 話を聞いてあげることは大事ですね。多忙な場合、そういう心の余裕がなくなっている場合があって、反省しますが──。
 池田 「一家で自分だけが信心している」という婦人がいた。いつも、主人に学会の悪口を言われる。しかし、彼女は全部、受けとめて胸にしまった。絶対に子どもには愚痴をこぼさなかった。こぼしたら、子どもは「信仰のことで、けんかしている」としか思えないかもしれない。
 お母さんは、苦しい思いは全部、御本尊にぶつけようと、一人、しんしんと祈る毎日だった。やがて子どもたちは成長し、信心に目覚めた。そして、「私たちが信心できたのも、母のけなげな祈りのおかげだったんだ」とわかったのです。実際の話です。
19  心かつながっているかどうか
 遠藤 「お母さんが、いつも家にいなくて寂しい」という子どもには──。
 池田 大事なのは「子どもに尊敬されているかどうか」です。″うちのお母さんは、人のため、社会のために、毎日、頑張っているんだ″と、誇りをもてるよう、子どもに語ってあげてもらいたい。そして「愛情が伝わっているかどうか」です。″お母さんは、私たちを愛しているからこそ、一家の幸せのために頑張っているんだ″と。
 「優しいお母さん」であってもらいたい。時間がない分、メモや電話で連絡をマメにとるとか、時には、たっぷりと一緒に過ごす日をつくるとか、工夫できるはずだし、智慧が出るはずです。「心」が通じる工夫をするんです。毎朝、目を見て、きちんと「あいさつ」をかわすだけでも、ずいぶん違う。
 遠藤 時間があればいいというものではありませんね。いつも一緒にいても「心は遠い」という親子もあります。
 池田 なかなか会えないからこそ新鮮で、劇的とも言える。
 須田 ご主人も「奥さんが家にいないので寂しい」と言う人がいますが(笑い)。
 斉藤 未入会のご主人には「妻や子どもを、学会に取られてしまった」という気持ちがあると思うんです。「こっちを向いてほしい」と。
 遠藤 だからこそ冒頭に、先生が言われた「お父さんを大切に」ということが大事なんですね。
20  未入会家族に敬意と感謝を
 池田 ちょっとした心づかいが、大きな違いになる。周囲も、未入会家族に、礼儀正しくごあいさつし、小さなことにも心を配っていくことだ。訪問のときとか、電話のときとか。
 須田 電話をしたとき、未入会家族が出たら、どきっとして(笑い)、その緊張感が相手に伝わって、ますます気まずくなる場合があります。「いつもありがとうございます」とか、きちんとあいさつすべきですね。
 池田 未入会であろうが、家族は家族です。信心しているからいいとか、戦っていないからダメだとか、形のうえだけで決めつけてはいけない。そんな垣根なんか全部、取り払って、だれに対しても誠実に、礼儀正しく、常識豊かに接していくべきです。
 未入会家族と言っても、そのご主人がいるからこそ、奥さんは学会活動できるんだし、両親、舅、姑、そういう人が支え、留守番してくださっているからこそ、安心して出かけられるのです。周囲も尊敬し、感謝していくべきです。
 妙荘厳王一家の過去世のように、だれかが一家の経済を担当したり、留守番を担当して支えているんだと思えば、おのずと尊敬と感謝がわくでしょう。もちろん、支えた未入会家族にも功徳はあります。仏法の世界は大きいのです。
 斉藤 そう言えば、先生が、青年部員の未入会のお父さんに対して「名誉支部長」とか「名誉本部長」とかの栄誉を贈られたことがありました。
 はじめは、びっくりしましたが──。
 「学会の支部長、本部長が、どんなに激務で、どれだけ大勢の人の面倒を見ているのかを、きちんと伝えたうえで、(名誉支部長、名誉本部長に)なっていただきなさい」と。青年のほうも驚いたようですが、「先生が『父への尊敬の心』を教えてくださったんだ。ここまで育ててくれた父に、人間として『感謝する心』を教えてくださったんだ」と感激していました。
 池田 家族は家族です。内部とか外部とか、垣根があってはいけない。また家庭の中にまで、組織の役職をもちこむのも愚かです。検事が家の中まで検事の肩書をもって帰ったら、家族は窒息してしまう(笑い)。
 須田 前に先生が英国に伝わるヴィクトリア女王の話をスピーチしてくださいましたね。
 女王とご主人が何かのことで争って、ご主人は部屋に閉じこもってしまった。あやまろうと思って、「女王です。開けてください」と、ドアを叩いても開けてくれない。行くたびに「どなたです?」「女王です」──開けてくれない。それが「どなたです?」「あなたの妻です」と話したとき、ドアは、さっと開かれた。(リットン・ストレイチイ『ヴィクトリア女王』小川和夫訳、冨山房。参照)
 人間の機微をつかんだエピソードだと思います。
 池田 家庭訪問の際なども、ご主人が未入会だったり、役職がないなどの場合には、とくに心がけて、誠実に、敬意をもって、ごあいさつするのが賢明な信仰者でしょう。「小事」が「大事」なんです。
 たとえば、さっき「ご主人がおいてきぼりにされる」という話が出たが、ご主人の食事の準備中に、婦人部の同志から電話があったとする。緊急のことでなければ「ちょっと今、大事な用事で、手がはなせないので、十五分したら、こちらから電話しますから」と言って、食事の準備をしてから電話すれば、ご主人だって納得するでしょう。
 それが電話を優先して、ご主人は二の次では、ご主人が味けない思いをするのも無理もないでしょう。そういうことが重なると、溝ができてしまう。ちょっとした心配りが大事なのです。
 須田 会合から帰ってくるなり、「ああ疲れた」とか「まだ、これから連絡が残ってるのよ」とか、一方的に、自分が感激した話をするだけだったり、ともすれば自分中心で、「留守番をしてくれていた家族の気持ち」に配慮が足りない場合もあるようです。
21  「何とかなるだろう」は信心利用
 池田 周囲も、ひとつひとつの家庭を、こまやかに大事にしてあげていただきたい。たとえば、今は不況の時代です。
 ご主人が、仕事に専念しなければならない場合もある。
 「あなたは今は仕事に頑張ってください」と、しっかり題目を唱えるように言ってあげたほうがいい場合がある。しつかり活動して、福運をつけるようにしたほうがいい場合もある。聡明に、価値判断しなければならない。
 現実は厳しい。一番いけないのは無責任です。「御本尊を拝んでいるから何とかなるだろう」というのは信心利用です。祈ったならば、全力をあげて、全身全霊で、それを実現していくために戦うのが、まことの信心です。
 社会で勝ち、「実証」を示してこそ、一家の勝利もあるし、広布の進展もある。不可能を可能にする信心で、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に」祈って、祈って、勝つのです。これが「神変」です。それによって、社会の信頼を勝ち取っていくのです。
 妙荘厳王品の終わりのほうで、王は仏に対して、こう誓っている。「我今日より、復みずから心行に随わず。邪見、僑慢、瞋恚、諸悪の心を生ぜじ」(法華経六六三ページ)
 (「きょうよりは二度と、自分の心の言いなりにはなりません。二度と邪見、僑慢、瞋り、諸悪の心を起こしません」)
 権力者が、このように変わった。自分勝手で、わがままで、増上慢で、焼きもちやきで、正義を正しく見られない悪人が、「母と青年」の戦いで正義に目ざめた。ただ「自分のため」に生きていた人間が、「民衆のため」の人生に変わった。
22  二十一世紀は「哲学の時代」
 池田 「王」というのは、政治を象徴し、広げれば経済などの社会の営みを象徴している。しかし「それだけでは幸福はない。正しき哲学が必要だ」というのが、妙荘厳王品なのです。
 政治も経済も「手段」です。「目的」は人間の幸福です。その目的を達成するには、人生とは何か、幸福とは何か、どうすれば実現できるのかという「哲学」が、どうしても必要になる。
 二十一世紀は、政治だけ、経済だけでなく、一歩深い「生命の時代」であり、「哲学の時代」となっていかざるをえないと、私は見ています。その先駆けが私たちです。
 日本という悪王を、善の「妙荘厳王」に変え、世界をその方向に引っ張っていく軌道を今、つくっているのです。

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