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日蓮大聖人・池田大作

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陀羅尼品(第二十六章) 「広宣流布の『…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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13  豁然と「仏の力」がわく
 池田 ともあれ、「広宣流布のために」学会を守るのか、「自分のために」学会を利用するのか。根本的な違いがある。本当に、広布のために立ち上がれば、どれほどの力が出るか、どれほどの智慧と慈愛と生命力が出るか、どれほど諸天が動きに動くか。
 私が入会して、ちょうど三年目だった。戸田先生の会社が業務停止になってしまった。(昭和二十五年〈一九五〇年〉8月22日。入信は昭和二十二年〈一九四七年〉八月二十四日)
 刑事事件になることだけは免れたものの、当時の金で数千万の借金が残った。今で言えば数十億でしょう。しかし私は、働いて、働いて、全部、返しました。
 戸田先生のお酒代もなかった。私は自分のオーバーも質に入れて、先生にお酒を買ってさしあげた。半年間、一銭の給料も出なかった。靴もペチャンコ。ちゃんとした服だってない。体もひどかった。
 しかし、先生をお守りするためなら、たとえ餓鬼道に苦しもうと、地獄界に苦しもうと、かまわない。それで何の悔いもないと決意していた。戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることだったからです。
 先輩のなかには、卑怯にも、戸田先生が一番大変な時に逃げてしまった人間もいた。いざという時に、「自分中心」か「師匠中心」か、わかってしまう。なかんずく増上慢の人間は、自分を中心に師匠を見ている。高い山を下から見ているようなもので、頂上のことがわかるわけがない。それをわかったつもりでいる。
 大聖人は「日蓮が弟子等の中に・なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候」と仰せだ。
 中途半端に、仏法を知ったかぶりしているような増上慢が一番、危ないのです。そういう慢心があれば、いざという時に自分だけ嵐を避けて、第三者のような傍観者的態度になったり、いい子になろうとする。自分が傷つかないように、要領よく振るまう。そうやって、自分が苦労しないから、師匠や学会の恩もわからない。
 本当に謙虚な気持ちで、「広宣流布のために、わが身を捧げます」という信心があれば、豁然と、力がわいてくるのです。私は、広布のすべての戦いでも、いつも「日本一」の結果を出してきた。「世界」に妙法を弘めました。不可能を可能にしてきました。ならば、私の後に続く青年が、何で、力が出ないわけがあろうか。
 当時も、私より先輩の幹部は、たくさんいた。私は、ずっと後輩です。最高幹部でもなかった。しかし立場ではない。格好ではない。役職と信心は別です。役職が尊いのではない。信心が尊いのです。青年部の幹部会で「全員が会長の自覚で」と語ったのは、その意味です。
 一人立って、「私が必ず、広宣流布をいたします」と誓願の題目をあげるのです。御本尊に「阿修羅のごとく戦わせてください」と祈るのです。それで、力が出ないわけがない。勝利できないわけがない。
 たとえ今、どんな苦境にあろうとも、「広宣流布のために」本気で立ち上がった人を、諸天が守らないわけがない。その信心の大確信の「炎」を教えているのが「陀羅尼品」なのです。

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