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日蓮大聖人・池田大作

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陀羅尼品(第二十六章) 「広宣流布の『…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  ″守護の功徳″の莫大を説く
 池田 あれは昭和三十五年(一九六〇年)の七月だった。
 水滸会(人材グループ)の野外研修をした。千葉県のお犬吠埼です。それは、この地の「灯台」のように、全民衆を照らしてほしかったからです。
 戸田先生逝いて二年余。私は会長になったばかり。幹部も皆、若かった。私は、戸田先生の精神を永遠に伝えておきたかった。自分は、いつ倒れるかわからない。後を継ぐ青年に、魂を託したかった。
 夜、「かがり火」を焚いた。赤々と燃え上がる火を、青年たちが円陣で囲んだ。電灯の明かりを使おうと思えば、それもできた。しかし、私は、あえて「かがり火を焚きなさい」と言った。なぜか。この「かがり火」こそが、われわれ自身なのだと教えたかったのです。「自分自身を燃やしきって、民衆を照らしていくのだ!」と。
 指導者の──幹部の「信心の炎」が燃えているかぎり、全学会員が、その光を目指して、安心して前進できる。燃え上がる「正義の炎」を目指して、全日本の民衆が、いな世界の民衆が、希望を求めて集まってくる。必ず、その日が来る。この水滸会の「かがり火」が燃えているかぎり、学会精神の炎が燃えているかぎり、必ず広宣流布はできる。そういう意義を教えたかった。その後、期待通りに、まっすぐ生き抜いた人もいる。誓いを裏切った人間もいる。
 今、私は再び、「信心の炎を燃やせ!」と叫びたい。そこにしか、生きた仏法はないからです。「仏法」といっても「人」です。人の「信心」です。それ以外、まったくよそに求むることなかれです。「信心」の炎が、創価学会に燃えているかぎり、人類を救う「広宣流布」の聖業は進む。どれほど尊い存在か。どれほど命をかけて守るべき学会の組織か。
 「炎」が消えたならば、未来はまっ暗です。そして、「炎」を消そうとして、ありとあらゆる障魔の大風が襲ってくる。しかし「大風吹けば求羅は倍増するなり」と日蓮大聖人は仰せだ。
 求羅という虫は、風を得て大きくなり、一切を飲みこむと言われている。そのように、障害があればあるほど、いよいよ「大いなる炎」を燃やして進むのです。
 小さな火なら、風に消える。大きな火なら、風でさらに勢いを得る。
 広宣流布は、永遠に闘争です。善と悪との大闘争です。仏と魔との合戦です。
 そして、「陀羅尼品」(第二十六章)とは、仏の胸に燃える「広宣流布への大情熱」を見て、菩薩が、諸天が、鬼神までが、「私が、その大闘争を守護いたします! 広宣流布の実践者を全生命をかけて守ります! 仕えます!」と、次々と誓いを述べた。やむにやまれぬ思いの熱気が、霊鷲山を包んだ。そういうドラマです。
 では、概要を見てみよう。
2  題目の力は仏にも量り知れない
 斉藤 はい。陀羅尼品では冒頭、薬王菩薩が釈尊に質問します。「法華経を受持し、読誦し、勉強し、書写する功徳はどれくらいでしょうか」と。
 すると釈尊は、それには答えず、反対に薬王に質問します。
 「もしも八百万億那由佗のガンジス河があって、その河のすべての砂と同じ数の諸仏を供養したとしたら、その功徳はどうだろうか?」薬王は「それは、とてつもなく大きい功徳です」と答えます。
 釈尊は「いいかね、法華経の一つの偈でも受持し、読誦し、信解し、修行したら、その功徳は、これらの諸仏を供養したように、とてつもなく大きいのだよ」と教えるのです。
 須田 法華経の一つの偈を信受しただけで、無量の諸仏を供養したのと同じ功徳を得る──考えてみたら大変なことです。
 池田 それはなぜか。法華経こそが、無量の諸仏を生んだ「根源」だからです。なかんずく文底の「南無妙法蓮華経」の一句こそ、一切諸仏を生んだ根源であり、少しのまじり気もないエキス、原液そのものです。
 遠藤 本当に、すごい仏法です。
 池田 だから、題目の力を、自分の小さな境涯で、「このくらいだろう」と推し量ってはならない。その功徳は、仏でも知り尽くすことができないと言われている。
 いわんや凡夫が勝手に決めつけるのは、増上慢でしす。御本尊の無量の功力を小さく見てしまう「弱い信心」であっては、御本尊の力も小さくしか出ない。戸田先生は、よく豊島公会堂で「私の受けた功徳を、この公会堂の大きさとすると、皆さんのは小指くらいだ」と言われていた。
 今は、経済も大変だ。私は、だからこそ、今こそ、皆さんに「大功徳」を受けてもらいたい。くめども尽きない「大福徳」を得てもらいたい。
 斉藤 薬王菩薩も、問答を聞いていた人々も、法華経の大功徳に感動しました。
 薬王は、こう誓いいます。「仏さま! 私は、この尊き法華経を弘める人を断じて守護してまいります!」。そして、その人を守るために「陀羅尼呪」を贈りますと言って、呪文のようなものを唱えるのです。
 遠藤 「安爾あに一、曼爾まに二、摩禰まねい三、摩摩禰ままねい四、旨隷しれい五、遮梨弟しゃりてい六、賖咩しゃみや(後略)」(法華経六四〇ページ)云々というのですが、意味はさっぱりわかりません(笑い)。
 池田 「陀羅尼」については、後で説明することにして、薬王は、こう言うのだね。
 「もしも、法華経を弘める法師──広宣流布をする人です──を迫害し、そしる者がいるならば、これはすなわち諸仏を迫害し、そしる人間である!」と。
 須田 それを聞いて、釈尊が讃めます。
 「すばらしい、すばらしい。薬王よ、あなたが弘教者を守護することによって、実に多くの人々が、大変な利益を得るだろう!」
 遠藤 つまり、″広布の実践者″を守ることによって、″人類に大利益を与えよう″ということですね。
 池田 そうです。″広布の実践者″とは、今で言えば、創価学会です。また創価学会の同志です。学会と学会員を守るということが、人類を守ることになる。人類に大利益を与える「妙法」を弘めているのだから、「人類の宝」の存在です。独善で言うのではない。傲慢で言うのではない。法華経が、そう説いているのです。
 ありがたいことだ。じつに、ありがたい。この尊い自分の使命を「自覚」できるか否か。それで人生は百八十度、変わる。
3  二菩薩・二天・鬼女の誓い
 斉藤 陀羅尼品では、こういう誓いが五回、繰り返されます。
 薬王菩薩の次は、勇施菩薩が言います。「仏さま! 私もまた、法華経を受持する人を護るために、陀羅尼を説きます。この陀羅尼によって、悪い夜叉や羅刹などが、受持者の弱点を探して攻撃しようとしても、できないようにいたします」。
 次に、毘沙門天が、そして持国天が同じく陀羅尼を唱えて、行者の守護を誓いいます。
 池田 二菩薩の後、四天王のうちの二人が誓ったわけだ。
 須田 はい。続いて、十羅刹女(十人の鬼女)と鬼子母神はじめ、多くの鬼神が誓いを立てます。「仏さま! 私たちもまた、法華経の行者を護って、その患いを取り除きたいのです。もしも、行者の弱点を探して攻撃しようとする奴らがいても、そうはさせません!」。
 池田 すごい気迫だね。女性は強い(笑い)。
 遠藤 彼女たちは「陀羅尼」を唱えたあと、堂々と宣告します。「悪党どもよ! お前たちが、私の頭に乗って、踏みにじろうとも、それはまだいい。しかし、行者を悩ませることは許さない。夢の中でさえ、行者を悩ませはしない!」と。
 「もしも、妙法の説法者を悩ませ、乱すならば、その者の頭は阿梨樹の枝のごとく、七つに分かれるでしょう! 父母を殺す罪のごとき大罪を得ることになるでしよう!」と。
 池田 有名な「説法者を悩乱せば頭破れても七分に作る」(法華経六四八ページ)の文だ。御本尊の向かって右の肩には、厳然と「若悩乱者頭破七分(若し悩乱する者は頭七分に破る)」と、おしたためです。
 斉藤 罰論ですね。
 池田 罰論です。罰と言っても、だれかが当てるというのではなく、自分が「法に逆らった」結果です。「法に則って」生きれば、功徳があるのと裏腹です。御本尊の向かって左の肩には「有供養者福過十号(供養すること有らん者福十号に過ぐ)」(『法華文句記』)と、お認めです。(法華経を供養する功徳は、十号を具えた仏を供養する福に勝る)
 斉藤 それにしても、十羅刹女たちの勢いは、すごい。
 須田 じつは、まだ続きます(笑い)。
 「私たちもまた、説法者を護って、安穏にし、もろもろの患いを打ち払い、もろもろの毒薬も消させてみせます!」
 釈尊が喜んで、鬼女たちをたたえます。「すばらしい、すばらしい。法華経の名前を受持する者を護っただけでも、その福は量りしれない。いわんや、それ以上の修行をし、供養している者を護る功徳となれば! まさに、あなたたちは、このような行者を護りなさい!」
 こういうやりとりを聞いていた、その場の聴衆は、六万八千人が悟りを得たと説かれています。ここで陀羅尼品は終わります。
 池田 「広布の実践者を、何が何でも護り抜くんだ」という情熱が、ほとばしっている。一つの解釈として、薬王菩薩は「健康」の面から護るとも考えられる。行者を病気から守っていく。もちろん薬王は、迹化の菩薩の代表だから、あらゆる迹化の菩薩が、地涌の菩薩を護りに護るということも示しているでしよう。
 また勇施菩薩は、「一切衆生に仏法という宝を勇んで布施する」菩薩です。これは「法の布施」だが、「財の布施」も含めて、行者を支えようという意義をくみ取れるかもしれない。
 また「毘沙門天」と「持国天」は、仏法を守護する四天王の代表です。天界の王であるから、「力」がある。
 今で言えば、ありとあらゆる分野の「指導者」とも考えられる。そういうリーダーが、こぞって広宣流布の実践者を守る。
 遠藤 今、海外の指導者は、次々に学会を賛嘆しています。
4  悪鬼も善鬼に変えられる
 池田 次の「鬼女たちが護る」とは、悪鬼をも善鬼にしていけるという証拠です。
 須田 もともと鬼子母神などは悪鬼ですから──。
 池田 大聖人は御義口伝で「流転門の時は悪鬼なり還滅門げんめつもんの時は善鬼なり」と仰せだ。
 たとえば「鬼子母神」については、大聖人は″上から読めば悪鬼、下から読めば善鬼″という読み方を教えてくださっている。
 遠藤 「鬼」「子」「母」を、上から読みますと、まず「鬼とは父なり」。これは鬼子母神の夫の鬼神・般闍迦はんじゃか(パーンチカ神)のことです。宝を入れる袋を持っていると言われ、日本では大黒天になっています。
 須田 次に「子とは十羅刹女なり」。鬼子母神には一万人の子どもがあったとされますが、その中に十羅刹女もいると大聖人は捉えられています。
 遠藤 鬼というと、男性は、すごい顔ですが、女性の鬼は美人だそうです(笑い)。
 斉藤 日本でも、ふくよかな十羅刹女の像が作られたりしています。古くから信仰されていたようです。
 池田 美しくて、法華経の行者を護る女性たち──と言えば、学会の婦人部、女子部の皆さんということになるが、鬼などというと叱られてしまうね(笑い)。
 斉藤 でも「鬼神となっても、学会を護る」という執念は、まさに男性顔負けです。
 池田 女性がそこまで頑張らなくてもいいように、男性が頑張らなくてはいけない。女性に甘える男性なんか最低です。
 遠藤 そして「母とは伽利帝母かりたいもなり」。これは鬼子母神のインドでの名前です。「ハーリーティー女神」と言って、もともとはガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)で信仰されていたようです。
 須田 仏典では、「人の子を取って食う」鬼神として描かれています。釈尊がそれを見て、鬼子母神の末っ子を隠します。
 鬼子母神は嘆き悲しみ、釈尊は「たくさんの子どもの一人がいなくなっても、それほど悲しい。それならば、子どもを、お前に取って食われた親たちの悲しみは、どれほどかわかるか!」と叱ります。こうやって改心させたという有名な話です。
 池田 わが子だけを溺愛し、人の子のことはどうでもいい──鬼子母神は、母性の悪い面を象徴している。
 我が子への愛を、他の人への人間愛にまで広げれば、悲母観音であるし、菩薩です。
 大聖人は「悪鬼」の「鬼子母神」を、逆から読んで、こう仰せだ。「神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり」と。
 やさしく言えば、「九識」とは「仏界」です。
 生命の奥底にある仏界を湧現していけば、八識(阿頼耶識)が変わり、七識(末那識)が変わり、六識が変わり、五識(眼・耳・鼻・舌・身の五識)が変わる。全部、清浄となり、善の働きになる。
 妙法によって、善鬼になるのです。こちらが「断じて戦う!」という信心をもっていれば、悪鬼も善鬼になる。障魔も家来にできる。
 斉藤 釈尊のおかげで、鬼子母神たちも善鬼になったわけですね。
 池田 そして、この善鬼たちが護る相手もまた、とくに女性なのです。女性の身で広宣流布に励む人を譲るのです。
 大聖人は「別して女人を讃めたり」「別して女人を本とせり」と断言しておられる。
 総じては男女両方を護るのだが、別しては女性を護るのです。
 遠藤 そう言えば、大聖人が「必ず十羅刹女が護りますよ」と励まされた相手は、女性が多いように思います。「経王殿(四条金吾の娘)」「乙御前」「日女御前」「妙密上人と婦人」などです。
 池田 女性を護ってもらいたい。
 私は、いつも「十万の諸仏よ、諸天よ、学会の婦人部、女子部を、護りに護りたまえ。無事故で、健康で、福徳に満ち満ちて、幸せでありますよう、力を尽くしたまえ」と祈っている。いな叫んででいる。吼えるがごとき思いで、訴えています。全幹部が、同じ心であっていただきたい。
5  仏法は「善と悪との大闘争」
 池田 こうして「陀羅尼品」では、二聖(薬王・勇施の二菩薩)・二天(毘沙門天・持国天)と鬼神が、守護を誓う。彼らは代表です。全宇宙の諸天・諸菩薩が同じ誓いを立てている。
 いわば「法華経の行者」守護連盟です。それは、なぜか。なぜ必要なのか。それは広宣流布が「仏と魔との大闘争」だからです。
 この娑婆世界は「第六天の魔王」の所領です。その″悪王″に対して、改革を求めて立ち上がった革命家が″仏″であり、″法華経の行者″です。当然、悪の大軍が弾圧しにやってくる。そのままにしておいては、永遠に夜明けはない。そこで、悪の連合軍に対して、善の連合軍で守りますというのが、陀羅尼品なのです。
 大聖人は仰せだ。「汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん」″汝らは人を味方にしている。我は天を味方にしている″と。
 次元は違うが、私も、「天を相手に」生きているつもりです。
 また大聖人は「諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん」とも言われている。
 斉藤 すごい御境涯です。″今は魔王も、こりたことだろう″──。
 たしかに、どんなに日本一国の権力をあげて、大聖人を亡きものにしようとしても、できなかった。不思議なことです。考えられないことです。大聖人は″天をかたうどとして″一人、決然と戦われたのですね。
 池田 戸田先生が晩年、「創価学会は、よくぞ、ここまで来られた.諸天の加護なくしては考えられないことだ」と言われていた。
 死力を尽くして広宣流布をした人間以外、この言葉はわからないでしょう。あの大阪事件にしても、全部・学会をつぶす作戦だったのです。
 (昭和三十二年〈一九五七年〉、参議院の大阪地方区の補欠選挙において、買収と戸別訪問の教唆〈そそのかし〉という、でっちあげの罪で、若き名誉会長〈当時・青年部の室長〉が七月三日に入獄。奇しくも、その十二年前、日本の国家主義権力と戦った戸田第二代会長が出獄した日であった)
 学会があまりにも伸びたので、抑えるために、はじめから筋書きができていた。標的は私であり、戸田先生です。何でもいいから私をつかまえ、次は学会本部を手入れして、戸田先生に手出しをしようとしていた。
 戸田先生は年配です。体力的に厳しいことは、私が一番わかっていた。もし、万が一、戸田先生が牢に入れられるようなことがあったら、命にかかわったでしょう。
 先生は「大作を返せ! わしが棍棒をもって行く」「あと十五年、わしは牢に入るつもりだ」と言われていたが──。
 絶対に、戸田先生に手出しをさせてはならないし、広宣流布の牙城に権力を土足で踏みこませるようなことは、断じて食い止めたかった。
 私は、自分が矢面に立って、牢へ入りたいと祈った。戸田先生を私が盾となって護りたいと祈った。そうやって、牢へ入ったのです。
 斉藤 ……「身がわり」ですね。
 遠藤 厳粛です。
 池田 私は、創価学会の屋根になろうという決心できた。
 屋根だから、炎熱も受ける。雨も嵐も受ける。雪も積もる。しかし、それで皆が守られるなら、それでいい。
 しかし、そのために、幹部を甘やかしてしまったとしたら、これほど残念なことはない。
 私は、水の中の杭のようなものだ。
 杭が厳然としていれば、民衆の船は杭にしっかりとつかまっていられる。嵐の日にも、安心だ。
 しかし、そうやって、皆がほっとして、楽しく団欒している間にも、杭は、見えない、冷たい水の中で、一人、頑張っているのです。
 斉藤 ……これまで陀羅尼品を漠然と読んできたような気がします。
 「我が頭の上に上るとも、法師(=広布の実践者)を悩すこと莫れ」(法華経六四七ページ)という十羅刹女たちの誓いも、自分が矢面に立って、自分は踏まれてもいいから、行者を護るという誓いでした。
 これをたんに、諸天の誓いとしてとらえていました。そうではなく、その決意で自分自身が戦っていきなさいと読むべきだと思います。
 須田 「人」を守れ、それが「法」を守ることになる──と。
6  御聖訓「天下第一の法華経の奉公」
 池田 「法自ら弘まらず」です。弘法の「人」がなければ、仏法は死滅してしまう。
 遠藤 大聖人が「天下第一の法華経の奉公なり」とたたえられたのも、大聖人をお守りした兄弟子たちに対してでした。
 池田 その通りだ。「天下第一の法華経の奉公」──つまり「これ以上の『法華経への貢献』はない」ということです。
 それは、高僧を集めて、絢爛たる儀式をしたことでもなかった。多くの人々の前で、立派な説法をしたのでもなかった。当時の″法華経の総本山″ともいうべき比叡山に布施をしたことでもなかった。
 大聖人が立宗の宣言をなされた時、権力者(地頭の東条景信)の襲撃から、大聖人をかばい、義浄房・浄顕房の二人が、ひそかに脱出の手伝いをした。このことを大聖人は「天下第一の奉公なり」とたたえて、「必ず成仏しますよ」とまで言われたのです。
 報恩抄の中でですから、事件の二十年以上あとです。大聖人は、その時もなお、二人への感謝を忘れず、ここまであたたかく励ましておられる。ありがたい御本仏です。大聖人は他にも、自分を守護してくれた人に対して、「浄行菩薩が生まれ変わってこられたのでしょうか」「教主釈尊があなたの身に入りかわって、助けてくださったのでしょうか」等と、つねに感謝し、たたえておられる。自分を守って当然だというような言い方はされていません。
 「自分中心」であれば、人が支えてくれて当然という傲慢さが出てくる。しかし「法中心」であるゆえに、「法のために、ありがたいことだ」と感謝の心がわく。
 感謝と感謝で結ばれるのが、広宣流布の世界なのです。私も、一日に、何十回、いな何百回、「ありがとう」「ありがとう」と言っているか、わからない。
 斉藤 そういう美しい気持ちをなくした人間が、学会にいられなくなってしまうんだと思います。
 須田 しかし、自分が「清らかな世界から脱落した」とは認めたくない。そこで自分を正当化するために、学会のほうが悪いように言う。これが退転者・反逆者の心理でしょうか。
 遠藤 しかし、こうして大聖人の御言葉を拝しますと、「諸天善神」と言っても、具体的な「人間」として現れていることが、よくわかります。諸天善神というと、何となく、目にみえない神秘的な力が働くようなイメージがありますが。
 須田 風の力とか、自然現象のようなイメージもありますね。
 遠藤 それも当然あるでしょうが、何より、身近な人間こそが、諸天善神の働きをしてくれていると思います。
7  広布の同志こそ最高に尊貴
 池田 その通りです。なかんずく、学会の同志こそが、最も大切にし、感謝すべき諸天善神の働きをしてくださっていると言ってよい。
 大聖人も門下に対して、そういう意味のことを言われています。
 たとえば「法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざま様様に供養してたすくべしと云う経文なり」、「十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか
 (〈長年の出家の弟子たちなども逃げてしまい、訪ねてこないのに、あなたが身延まで供養を届けられるのは〉十羅刹女が人の身に入りかわって〈大聖人に〉思いを寄せられるのだろうか)
 ほかにも、たくさんあります。今で言えば、広宣流布を支え、広宣流布の団体・創価学会を支えてくださっている方々が、諸天善神です。諸菩薩です。如来の使いです。それを忘れて、何か同志以外の人だけを大切にし、同志を軽んじるような風潮が起こったならば、本末転倒です。
 学会員が大切なのです。学会員が最高に尊貴なのです。世間の地位が何ですか。財産が何ですか。
 法華経に照らせば、広宣流布をしている学会員以上に尊貴な方々はないのです。
 何度でも私は、このことを言っておきます。私の遺言と思ってもらいたい。
 学会の同志を真心から大切にして、仕えた分だけ、広宣流布は進むのです。その熱い心の「かがり火」を消してしまったなら、もはや官僚主義であり、広宣流布の炎は消えてしまう。
 須田 内部にも、増上慢の悪人はいると思いますが──。
 池田 だからこそ、真の同志と真の同志の連帯を、がっちりとつくって、創価学会を守っていただきたい。「戸田の命よりも大切な学会の組織」と言われた創価学会です。
 ともあれ、御本尊を大事にする人は、御本尊から大事にされる。三世十万の諸仏・諸天から大事にされる。鏡に、自分の姿勢そのままが映るようなものです。
 同じ意味で、妙法を広宣流布している人を大切に守れば、その人は、今度は御本尊から大切にされ、守られる。それが陀羅尼品で、釈尊が二聖・二天・善鬼に対し「善い哉善い哉(すばらしい、すばらしい)」(法華経六四九ページ)と称えた心です。
 学会を大事にする人は、御本尊から大事にされるのです。この一点さえ覚えておけば、人生は盤石です。
8  「師弟一体」の一書
 須田 戸田先生が牧口先生をお守りしたのも、それはすごい気迫であったとうかがっています。あの『創価教育学体系』を発刊された時も、原稿の整理から出版まで、戸田先生が一人で奔走されたんですね。
 池田 そうです。だから、どの巻の奥付にも「発行兼印刷者」として、戸田先生のお名前が残っている。
 もともと「創価」という名前も、牧口先生と戸田先生との語らいのなかから生まれたものです。名前を付けられたのは戸田先生です。これは有名な話だ。
 須田 はい。牧口先生と戸田先生が、二人で火鉢をかこんで、夜の十二時まで語りあった「ある日」のことです。(『戸田城聖全集』3。参照)
 昭和四年(一九二九年)か五年(三〇年)の頃のようです。場所は戸田先生のお宅です。
 牧口先生は戸田先生に言います。「戸田君、小学校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。わたくしは白金小学校長を退職させられるのを、自分のために困るのではない。小学校長としての現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」。
 戸田先生は、「よし、先生、やりましょう」と。
 「戸田君、金がかかるよ」
 「わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう」
 そして、戸田先生は牧口先生に尋ねます。「先生の教育学は、何が目的ですか」。
 「価値を創造することだ」
 「では先生、創価教育、と決めましょう」
 名前は、一分で決まったといいます。
 池田 これが「創価学会」の「創価」です。
 今、混迷する世界で、人類の希望となっている名称です。価値を創造する。美と利と善を創り出す。深い深い哲学と人格のある名前です。
 お二人の人格が反映した名前です。
 ただ、名称が決まったはいいが、それからが長い道のりだった。実際に資金を用意するというのは大変なことだ。
 須田 この時に、戸田先生が考え出したのが模擬試験の開催でした。その頃は、中学進学で「試験地獄」という言葉が一般にも言われるようになった頃です。
 当時、自分の実力と試験の水準が分からないことが、受験の苦しみをさらに大きくしていたようです。そうした時に、戸田先生は、「東京府綜合模擬試験」いう名称で、公開の模擬試験を開催したのです。そして、採点した答案を返し、受験生に自分の実力と、どこらへんの学校を志望したらいいかという目安を教えたようです。
 最初は五百人ぐらいの規模から一会場で始まりましたが、数年したら、五会場ぐらいで約三千人の生徒が集まるようになったそうです。
 戸田先生は、こうした尽力で『創価教育学体系』の出版費用を作っていかれたのです。
 池田 あと、『推理式指導算術』を書いて、ベストセラーにし、その印税を、牧口先生のために使ったのだね。
 さて、名称も決まった。資金もなんとか工面した。それでもまだ本にはならなかった。それは、牧口先生が多忙のため、原稿用紙にまとめる時間がなかったからです。
 牧口先生は、常に思索をメモにし、ホゴ紙の裏に書きとめておられた。そこには深い思想の結晶があるのだが、それをまとめる時間が思うようにとれなかった。それも戸田先生が「牧口先生、わたくしが、やりましょう」と申し上げた。
 ただ、牧口先生は、そこまで戸田先生に迷惑をかけてはと躊躇された。一口にメモの整理というが、大変な作業です。メモだって、ばらばらの状態です。はたして、できるであろうかと──。
 しかし、戸田先生は言いました。
 「先生、戸田が読んでわからないものを出版して、先生はだれのために出版するのです。先生は、世界の大学者に読ませるのですか。もし、戸田が読んでわかるものなら、わたくしが書けます」
 戸田先生は、メモで重複するものはハサミで切って除き、八畳の部屋いっぱいに、一切れ一切れ並べたそうです。そうすると、そのまま一巻の本になる。
 牧口先生の構想も緻密であれば、それを追いかけた戸田先生の執念も大変なものであった。こうして、三巻まで戸田先生が整理し、四巻まで出版したのです。
 斉藤 『創価教育学体系』は成り立ちからして、師弟一体の結晶だったのですね。感動します。
 池田 あの豪放磊落な戸田先生が、牧口先生のこと語るときは、本当に厳粛な雰囲気があった。
 戸田先生は亡くなる時まで、牧口先生のことを語っておられた。師を守る、という厳たる一念にあふれていた。まさに「天下第一の法華経奉公なり」の精神そのものでした。
9  陀羅尼は呪文か?
 池田 ところで「陀羅尼品」の「陀羅尼」という意味を、はっきりさせておかなければいけないね。あまり聞き慣れない言葉だと思っている人も多いでしょう。
 遠藤 先ほど、薬王菩薩が唱えた「陀羅尼しゅ」を見ました。
 「安爾あに一、曼爾まに二、摩禰まね三、摩摩禰ままね四」(法華経六四〇ページ)云々と。これで四句ですが、こういう感じで四十三句、続きます。
 須田 まるで「呪文」ですね。
 遠藤 「呪文」なんです(笑い)。
 斉藤 意味も一応、あるんですね。
 遠藤 ええ。一応、サンスクリット語や『正法華経』(竺法護訳)などを参考にして訳すと、大体、次のようになります。
 「仏の覚りの境地である寂滅・解脱の境地は、一切の衆生に対して平等に苦悩を除く。内なる清浄な常住の平等な相を見すえ、それに基づいて安穏である。それを教団の人々に信受させ安穏にさせる。巧みな言葉は尽きることなく、尽きない幸福を広げて、顧みることなく広大に進むであろう」
 ただし、あくまで、これは要旨だし、さまざまに研究されているようです。
 斉藤 一般的には、「呪文である」「まじないの言葉である」としてすます場合が多いようです。
 池田 鳩摩羅什が、あえて中国語に翻訳しなかったとろに、意味があるでしょう。
 須田 もともとの音を、そのまま漢字で羅列しただけですから。
 池田 「陀羅尼」という言葉そのものも、サンスクリツトの「ダーラニー」を、そのまま音写したんだね。
 斉藤 はい。漢訳だと「総持」です。「能持」「能遮」という意味があります。天台の説明(法華文句)によれば、仏の言葉を「しっかり持つ」ことで、「悪を遮り、善を起こす」ことができると。
 「ダーラニー」のもともとの言葉は、「記憶し持っている」ということです。「支える」「維持する」という語源からくるようです。
 池田 それで、「総持」──総て持つというわけだね。たしか『正法華経』では、陀羅尼品でなく総持品と訳されていた。
 遠藤 はい。「総持」とは、「総て持つ」「教えをすべて心にとどめて持つ」という意味になります。
 法華経には「陀羅尼」という言葉自体は、じつはもう十回ぐらいは出ています。
 法華経の序品(第一章)には、「法華経の会座に集った菩薩たちは、陀羅尼を得ていて、巧みな弁説で人々を不退転の境涯に導ける」と説かれています。この場合の「陀羅尼」は、「仏の教説を記憶し持っている」という意味です.
 池田 古代の文明では、大切な教えは文字に書きとどめないで、暗誦し、心にとどめていく習慣があった。「師が説いた教えを深く心に刻んで忘れない」──。これが「陀羅尼」の本義でしょう。
 要するに、「憶持不忘」です。師匠の言われた言葉を断じて忘れないことです。
 (「憶持不忘」は普賢経にある言葉。「憶持して忘れじ」と読む。御書には「此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり」とある)
 これを「聞持陀羅尼」という。それから「旃陀羅尼」というのもあったね。
 須田 それは、陀羅尼を「繰り返し唱える」という意味になります。
 「百千万億無量の旃陀羅尼」(分別功徳品〈第十七章〉、法華経四九四ページ)という、すごい回数の旃陀羅尼が出てきます。
 遠藤 題目も、これくらいあげると、すごいでしょうね(笑い)。
10  陀羅尼とは「諸仏の秘密の言葉」
 池田 大聖人は、ずばり「陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり」と言われている。御義口伝伝です。
 「其の故は陀羅尼は・諸仏の密語なり」。仏と仏だけの「秘密の言葉」だと言うことです。「題目の五字・三世の諸仏の秘密の密語なり」。「秘密の中の秘密の言葉」だと言うのです。
 秘密には、傷(欠陥)や悪を隠す「隠密」と、宝を隠す「微密」とがあるが、もちろんこれは「微密」です。一般的に、わかりやすく言えば、「陀羅尼」とは「魂をこめた言葉」の究極と言えるのではないだろうか。単に意味を伝えるだけでなく、そこに生命のエネルギーを注ぎこんである言葉です。ゆえに音律が大事になる。
 遠藤 詩のようなものでしょうか。
 池田 詩も、広く言えばそうでしょう。事実日本では古来、「和歌は日本の陀羅尼なり」と言われて、歌道が即仏道と考えられた場合があった。西行なんか、そうでしょう。この「生命のエネルギーを注ぎこみ、結晶させた言葉」は、音律そのものが、ひとつの「力」をもつと考えられた。
 須田 日本では「言霊」の思想がありました。
 (言葉には霊的な力がこもっており、言葉通りの状態を実現する力があるとする思想)
 斉藤 真実の言葉が、災いを払ったり、病気を治したりする力をもっているというのは、古代に広く世界で見られた考え方です。
 遠藤 そういう考え方が、この陀羅尼品にもあるのではないでしょうか。「陀羅尼呪」を法華経の行者に贈ることによって、その人を守るというのですから。
 池田 そうでしょう。言霊の思想を、そのまま受けとるわけにはいかないし、釈尊は本来、呪文や占いを禁じた。そのうえで、「音韻」「音律」というものが、ある意味で、言葉の意味内容以上に、大きな力をもっている面があることは事実でしょう。
 言葉には命がある。島崎藤村は「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり」(『島崎藤村抄』岩波文庫)と言った。生命の「力」は、何より「声」に現れる。だから、どういう声、どういう言葉を発するかで、心も変わり、体も変わり、命も変わる。
 「声仏事を為す」です。「声悪事を為す」場合もある。良き言葉は、良き心と体をつくる。悪い言葉は、悪い心と体をつくる。
 遠藤 陀羅尼は、最高に命のこもった「真実の言葉」ですね。
 池田 芸術の世界でも、「本物」と「偽物」は、まったく違う。本物には、何とも言えない気迫というか、訴えてくる力があるものです。それは名匠が作品にこめた「生命」の力です。
 一方、「贋作」は、どんなに見事にできていても、そこに込められているのは、これで金もうけをしてやろうという思いです.どうしても、それがにじみ出てしまう。
 言葉も、命をこめ、命を流しこんだ言葉は、名人の芸術のようなものです。
 斉藤 「陀羅尼」も、だから翻訳しなかったのですね。
 池田 南無妙法蓮華経も翻訳しない。それは「仏の言葉」だからです。英語の国へ行って、意味がわからなくても「サンキュー」と言えば、通じる。それに似て、「仏の言葉」だから、三世十方の諸仏に、そのまま通じていきます。
 大聖人は「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし」と仰せだ。
 「音」です。大事なのは。たとえば「かきくけこ」というと、何か固い感じがする。固体の感じがする。「さしすせそ」というと、風が吹いているような気体のような感じがする。「なにぬねの」というと、ぬるぬるするような、ねばり気を感じる。「まみむめも」というと、しっとりと、うるおっているような感じがする。
 斉藤 そう言えば、メニューインさん(二十世紀を代表するヴァイオリニスト)が、先生との会談で、題目の音について「本当に口ずさみやすいし、心地よい音律です」と言われていましたね。(「聖教新聞」一九九二年四月七日付)
 池田 世界一、音にうるさい人が、そう言うんだから(笑い)。
 須田 「南無妙法蓮華経の『NAM(=南無)』という音に強い印象を受けます」とも言われていました。「『M』とは命の源というか、『マザー(MOTHER)』の音、子供が一番、最初に覚える『マー(お母さん)、マー』という音に通じます。この『M』の音が重要な位置を占めている。そのうえ、意味深い『R』の音(蓮=れん)が、中央にある」と。
 池田 「南無妙法蓮華経と″唱える″ことと、歌を″歌う″こととは、深く通じ合うのではないかと思います。『声を出す』ということ自体、人間の体に、良い影響を与えます」とも言われていた。
 斉藤 アルゼンチン・フローレス大学のケルテース学長も「題目の効果の科学的実証」に興味をもたれていたそうです。(=一九九九年一月に、名誉会長夫妻への名誉博士号・名誉教授称号贈呈のため来日)
 なんでも、SGI(創価学会インタナショナル)のメンバ−の功徳あふれる姿を見て、関心をもち「仏法のことを知らない、また興味を持っていない人たちに、仏法のすごさ、題目のすごさを、わからせたい」と語っておられたそうです。
 遠藤 本当に、すごい時代になりましたね(笑い)。
 須田 「陀羅尼」について整理しますと(1)仏の教えを「憶持不忘」する力(聞持陀羅尼)(2)生命に刻んだ教えを自分と人のために繰り返すこと(旃陀羅尼)(3)仏の教えを正しく持っている人を守る短い言葉(陀羅尼呪)──になるでしょうか。このほかにも、いろいろありますが。
 遠藤 陀羅尼品では(3)の使い方ですね。その根源、実体は妙法です。
11  万物は歌うあなたの応援歌を!
 池田 妙法は、宇宙の根源の音律でもある。そもそも宇宙全体が、巨大なオーケストラです。合唱団です。
 ユゴーは歌った。
 「万物が話をする、吹きすぎる風も」
 「草の芽も、花も、種も、土も、水もが」
 「万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。
 ある考えがこめられているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには」
 「万物はうめく、おまえのように。万物はうたう、私のように。
 万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
 なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、
 木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!
        万物は魂に満ちているのだ」
 また「星から虫けらにいたるまで、広大無辺な宇宙は、おたがいの言葉に耳を傾けている」と。(「闇の口の語ったこと」、『ユゴー詩集』〈辻昶・稲垣直樹訳〉所収、潮出版社)
 詩人の直観は、じつは近年の科学でも裏づけられている。
 くわしくは、これまで論じたこともあるので略すが、従来の「もの言わぬ物質の集まり」と見るような宇宙観ではなく、ユゴーが言ったように「天空の竪琴」が鳴り響き、「万物が声を発する」にぎやかな宇宙観へと変化してきたのです。
 素粒子・原子・分子などの「ミクロ(極小)の世界」から、惑星・銀河系などの「マクロ(極大)の世界」まで、音楽的とも言うべき法則にのっとって、振動し、声を発しているのです。(=第一回SGI世界青年部幹部会〈一九九一年七月十日〉でのスピーチ〈本全集第七十七巻収録〉などに論じられている)
 斉藤 大聖人は「所詮しょせん妙法陀羅尼の真言なれば十界の語言・音声皆陀羅尼なり(中略)陀羅尼とは南無妙法蓮華経の用なり」と言われています。
 意味は、「所詮、妙法の陀羅尼の真言であるから、仏界から地獄界まで十法界のありとあらゆる語言・音声は、すべて(法華経の行者を守る)陀羅尼である(中略)陀羅尼とは南無妙法蓮華経の一分の働きである(実体は妙法である)」ということになるでしょうか。
 池田 万物が音声を発している。
 それはすべて、地獄界から仏界の音声まで、ことごとく妙法の行者への「応援歌」であり、必ず守護しますと全宇宙が誓っているのです。
 須田 すごいことですね。
 遠藤 「妙法陀羅尼の真言」と言われていますが、「真言陀羅尼」という言葉もあります。もともと発生の違う「真言」と「陀羅尼」が、だんだん習合して、ひとつになったんてすね。
 池田 そのうえで、真言は「短い呪文」、陀羅尼は「長い呪文」のような立て分けがあったようだね。
 斉藤 真言──仏の真実の言葉。それはじつは「南無妙法蓮華経」しかありません。また陀羅尼品で、二聖・二天・十羅刹女が唱える五つの陀羅尼(五番神呪)も、じつは「妙法の五字」のことであり、さらに「五番神呪ごばんじんしゅとは我等が一身なり」とも仰せです。
12  一人立つ「信心」に諸天の守りが
 池田 大宇宙も「妙法の五字」の当体です。我が身、小字宙も「妙法の五字」の当体です。
 陀羅尼品で説く「守護の陀羅尼」も、その実体は「妙法の五字」です。ゆえに、全宇宙が妙法の行者を守りに守るのであり、そのためには「我等が一身」の「妙法五字」が生き生きと躍動しているか否かで決まる。
 「信心」が燃えていれば、全宇宙がその人を守る。「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(妙楽の言葉)。
 大聖人が繰り返し、引いておられる一句です。「信心の強さによって、諸天が守る強さが決まる」と。
 信心している人間が「大将軍」になれば、その家来である諸天善神は、元気いっぱいに働く。将軍が──信心が弱ければ、家来は働きません。「つるぎなんども・すすまざる不進人のためには用る事なし」です。
 諸天善神は、広宣流布に「一番戦っている人」を、「一番大切に」守るのです。
 遠藤 諸天に頼ったり、すがったりするのではなく、自分が諸天を動かしていくということですね。
 池田 そうでなければ、弱々しい惰弱な人間をつくってしまう。それでは何のための信仰か。「強き信心」とは、一人立つ精神です。
 大聖人が「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と言われた。諸天の加護などいらない、命をも捨てようという、その信心にこそ、厳然と善天の加護があるのです。
 広宣流布のためなら、何もいらない。その信心に立てば、一切が必ず開けます。仏法は勝負です。勝たねば無意味です。
13  豁然と「仏の力」がわく
 池田 ともあれ、「広宣流布のために」学会を守るのか、「自分のために」学会を利用するのか。根本的な違いがある。本当に、広布のために立ち上がれば、どれほどの力が出るか、どれほどの智慧と慈愛と生命力が出るか、どれほど諸天が動きに動くか。
 私が入会して、ちょうど三年目だった。戸田先生の会社が業務停止になってしまった。(昭和二十五年〈一九五〇年〉8月22日。入信は昭和二十二年〈一九四七年〉八月二十四日)
 刑事事件になることだけは免れたものの、当時の金で数千万の借金が残った。今で言えば数十億でしょう。しかし私は、働いて、働いて、全部、返しました。
 戸田先生のお酒代もなかった。私は自分のオーバーも質に入れて、先生にお酒を買ってさしあげた。半年間、一銭の給料も出なかった。靴もペチャンコ。ちゃんとした服だってない。体もひどかった。
 しかし、先生をお守りするためなら、たとえ餓鬼道に苦しもうと、地獄界に苦しもうと、かまわない。それで何の悔いもないと決意していた。戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることだったからです。
 先輩のなかには、卑怯にも、戸田先生が一番大変な時に逃げてしまった人間もいた。いざという時に、「自分中心」か「師匠中心」か、わかってしまう。なかんずく増上慢の人間は、自分を中心に師匠を見ている。高い山を下から見ているようなもので、頂上のことがわかるわけがない。それをわかったつもりでいる。
 大聖人は「日蓮が弟子等の中に・なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候」と仰せだ。
 中途半端に、仏法を知ったかぶりしているような増上慢が一番、危ないのです。そういう慢心があれば、いざという時に自分だけ嵐を避けて、第三者のような傍観者的態度になったり、いい子になろうとする。自分が傷つかないように、要領よく振るまう。そうやって、自分が苦労しないから、師匠や学会の恩もわからない。
 本当に謙虚な気持ちで、「広宣流布のために、わが身を捧げます」という信心があれば、豁然と、力がわいてくるのです。私は、広布のすべての戦いでも、いつも「日本一」の結果を出してきた。「世界」に妙法を弘めました。不可能を可能にしてきました。ならば、私の後に続く青年が、何で、力が出ないわけがあろうか。
 当時も、私より先輩の幹部は、たくさんいた。私は、ずっと後輩です。最高幹部でもなかった。しかし立場ではない。格好ではない。役職と信心は別です。役職が尊いのではない。信心が尊いのです。青年部の幹部会で「全員が会長の自覚で」と語ったのは、その意味です。
 一人立って、「私が必ず、広宣流布をいたします」と誓願の題目をあげるのです。御本尊に「阿修羅のごとく戦わせてください」と祈るのです。それで、力が出ないわけがない。勝利できないわけがない。
 たとえ今、どんな苦境にあろうとも、「広宣流布のために」本気で立ち上がった人を、諸天が守らないわけがない。その信心の大確信の「炎」を教えているのが「陀羅尼品」なのです。

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