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日蓮大聖人・池田大作

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観世音菩薩普門品(第二十五章) 「広宣…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  観音信仰とマリア信仰
 池田 だから男性にもなれば、女性にもなる。そのうえで、もともとの女神の特徴をもち続けたことが、観音の人気の秘密でしょう。
 ゲーテは「永遠の女性的なるものこそ/われらを高みのかなたにひいていく」と言った。(『ファウスト』山下肇訳、『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 東洋でも西洋でも、人間性は共通していますね。
 須田 キリスト教のマリア崇拝と観音信仰は共通している点が多いと思います。
 池田 そうだね。マリア信仰も、民衆の身近な願いと結びついている。
 須田 病気の治癒、安楽な出産、臨終の安心など、人生のさまざまな局面での祈りが、マリアに向かって捧げられています。
 遠藤 イエス・キリストヘの信仰が、キリスト教の主柱のはずですが、やはり″マリアさま″のほうが親しみやすいんでしようね。
 須田 マリアは、絶対的な神の世界と人間の世界をつなぐ「架け橋」のような存在という人もいます。罪深い人間であっても、誠実に祈っていけば、マリアは裁くことなく、一緒になって神に祈ってくれるともされていたようです。
 斉藤 不良の子どもの不始末に、一緒になってお父さんに謝ってくれる(笑い)。そんな優しいお母さんを思い出しますね。
 池田 母は偉大だ。母の懐に抱かれると、子どもは絶対に安心する。父親は、こうはいかない。よけいに泣かせてしまう(笑い)。
 宗教学では、マリアも「大地母神」への信仰を反映していると言われているね。ただ深層心理学のユング派の研究によると、「グレート・マザー」には、″産み、養い、包容する″良い面と、″抱きすくめて放さない、子を飲み込んでしまう″悪い面があるとされる。後者は仏教の鬼子母神に通じるかもしれない。永遠の「女性的なるもの」といっても、観世音の面が出るか、鬼子母神の面が出るかで正反対になる。
 須田 信者の側でも、安易な「おすがり信仰」になると、幼児的退行と言わざるを得ません。あるマリア信仰の研究者は、近世において、マリアの像が、かつてのかよわい少女から、自信と威厳に満ちた大人の女性となっていくとともに、信仰者のほうが少しずつ幼児的退行をし、「雛のように聖母のマントの中に身を寄せ合い、ただロザリオの祈りを唱えて奇跡を待つセンチメンクルな関係にはまっていった」(竹下節子著『聖母マリア』講談社)と指摘しています。
 池田 観音とマリア信仰の親近性を劇的に表しているのが、「マリア観音」でしようね。日本の″隠れキリシタン″の人々が、マリア信仰を隠すために、観音と呼んで崇拝したと言われている。
 ともあれ、観音信仰もマリア信仰も、聖職者が率先して広めたというよりも、民衆からの自発的な要望が高まって、広まっていったという歴史があるようだ。
 斉藤 法華経に観世音菩薩が採り入れられた背景にも、当時すでに「観音の原形に当たる女神」が広く人気を博していたということがあると思います。
 池田 当時の民衆が大切に信仰していた女神を法華経が積極的に採り入れ、生かしていることは面白い。それ自体が「世音を観ずる」慈悲の現れです。
 時代や民衆の「現実」を離れて、仏法はないのです。
 斉藤 観音品が明快に「現世利益」を説くことも、同じ精神だと思います。
 池田 現実は現実です。観念は観念です。
 人生は「現実」です。ゆえに、仏法の焦点も「現実」です。信心は「現実」を勝つためにある。娑婆即寂光です。「現実」から逃避するのは法華経ではない。「現実」を理想的なものに変革するのが法華経です。仏法は勝負です。
 「現世利益」というと、低次元のように聞こえるが、現実の生活を変革できない宗教では、「力がない」と言わざるを得ない。「現世安穏」「後生善処」と言って、今世も未来世も、楽しく人生をエンジョイするための妙法です。現実生活のうえの「価値創造」が法華経の魂なのです。
3  現世利益も「世界宗教の条件」
 遠藤 かつて先生がスピーチで紹介してくださいましたが、南山大学のヤン・ヴァン・プラフト教授は「世界宗教の条件」として、こう論じています。
 「人間社会に奉仕する宗教」「社会的力を有する宗教であり、世界平和に貢献できる一大勢力になりうるもの」「人間主義に貫かれた宗教」そして「民衆の現世利益的な期待に対応できる宗教」と。(「聖教新聞」一九九四年四月二十二日付)
 池田 現実です、大事なのは。
 ガンジー は、こう喝破している。「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」(「私にとっての宗教」浦田広朗訳、『私にとっての宗教』所収、新評論)と。
 民衆が今まさに直面している「現実の問題」「現実の悩み」──それに応えられない宗教は、もはや宗教ではない。これが彼の叫びでした。たしかに、民衆の宗教的無知につけこんで、子どもだましの「現世利益」を説く宗教が後を絶たないのは事実です。
 草創期から、そうした他の宗教と一緒にされて、「創価学会は現世利益の宗教屋である」などと批判されてきた。しかし、この人類最高の精神遺産である法華経がまさに「現世利益」を厳然と説いている。それは、民衆の幸福を実現するうえで、避けて通れない課題だからです。
 病に苦しむ人、経済苦に悩む人、家庭不和で人生に絶望している人──ありとあらゆる人間の苦悩と戦ってきたのが学会です。それこそが法華経の精神なのです。
 苦しんでいる人、貧しき人の最大の味方になってきたのはわれわれです。その自負が私にはある。
 現実に苦しむ人を眼前にして、その人をどう励まし、どう救いの手を差し伸べるのか。その重い課題を避けては、宗教の存在意義はありません。
 この点は、ブライアン・ウィルソン博士とも、種々語り合ったが──。(=同博士はオックスフォード大学名誉教授。国際宗教社会学会初代会長。池田名誉会長と対談集『社会と宗教』〈本全集第六巻収録〉)
4  「祈り」は人間の崇高な証
 斉藤 たとえば、我が子が病気で死にそうになっている。医者に頼るとともに、「子どもを助けてください」と祈らずにはいられません。
 宗教をもっていない人でも、何ものかに向かって祈るでしよう。その心は絶対に″低次元″のものではない。人間の本然の叫びです。
 須田 そういう思いまで否定したら、あまりにも冷たい。非人間的です。
 池田 祈りは人間しかできない。動物に祈ることはできない。祈りは、人間の人間たる崇高な証です。
 古来、偉大な大自然を前にして、人間はその広大さ、無限さを畏敬した。人知では計りしれない大いなる存在を敬い、自然のうちに「祈る」という心が芽ばえたと考えられる。
 とくに、観音品の七難のように、危急の時には、必死になって「何とか守ってもらいたい」と願った。その切実な思いを凝縮させると「祈り」になる。
 この「祈り」があって、それに応じて「宗教」が生まれた。
 遠藤 「宗教があって、祈りが生まれた」のではなく、「はじめに祈りありき」だったのですね。
 池田 その「祈り」を現実に叶えるには、どうしたらよいのか。それを生命の法則のうえから明快にしたのが仏法です。小宇宙と大宇宙を交流させ、ギアをかみ合わせる秘術を「妙法」として説いた。
5  子どもで悩む
 斉藤 たとえば観音品では、「もし女性が、男の子がほしいと思い、観世音菩薩を礼拝し、供養すれば、福徳と智慧の男の子が生まれる。女の子がほしいと願えば、美しく、かつて善根を植えたので人々に愛され大事にされる女の子が生まれる」(法華経六二六ページ、趣意)と説いています。
 池田 必ず「福子」が生まれるという依文です。また父母の信心によって、子どもが必ず、そういうふうに立派に変わっていくということです。実際、子どもで悩む親は数しれない。
 大聖人も「子はかたきと申す経文もあり」「子は財と申す経文も・はんべり」と、両面あることを教えておられる。
 子どもがない人は、子どもがほしいと思うものだが、良い子でなければ苦しむだけです。また学会の後輩・同志を「わが子」と思って接していただきたいし、″血のつながり″以上に、″思想のつながり″″精神の後継″が尊いのです。
 子どものことで悩んでいる人も、それによって信心が強盛になれるのです。そうなるために、子どもが悩ませてくれていると言ってもよい。親が成仏すれば、子どもも必ず幸福になります。
 須田 よくわかりました。
 池田 観音品では、「観音を礼拝し、供養する」功徳を説くが、もちろんこれは、御本尊を礼拝し、供養するということです。その証拠に、観音自身が、自分への供養を釈迦・多宝の二仏に供養している。
 遠藤 無尽意菩薩が、身につけていた宝の頸飾りを観音菩薩に供養します。しかし観音は受け取りません。そこで釈尊がとりなして観音に供養を受けるよう勧めます。観音は受け取った頸飾りを二つに分けて、「釈尊」と「多宝の宝塔」に供養したと記してあります。
 須田 ″釈尊と宝塔″というのは、その元意は文底の妙法であり、御本尊です。法華経そのものが、「観音ではなく、妙法を根本にせよ」と強調しているのですね。
 遠藤 観音を信仰している多くの人は、ぜひ、この経文に注目してほしいですね。
 斉藤 日蓮大聖人は報恩抄で仰せです。「南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用皆ことごとく妙法蓮華経の用に失なはる、彼の経経は妙法蓮華経の用をからずば皆いたづらものなるべし
 観音の功力といっても、根源は題目の功力なのだということです。
 池田 御本尊を持ったということは、全宇宙を持ったと同じです。宇宙の根源の力を得たのです。最高に尊い人です。
 神仏のように尊敬されている諸宗の教祖なんかより、百千万億倍、尊い人なのです。皆、それがなかなかわからない。
 広宣流布の同志を尊敬し、大切に大切にし抜いていくことです。それが創価学会の根本精神です。その実践があるかぎり、行き詰まりはない。
6  「祈っていると雑念がわくが……」
 達藤 「祈り」ということで、「祈っていても、雑念がわいてきて困るのですが」という質問があるのですが。
 池田 雑念がわいたってかまわない。人間だから当然でしよう。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいんです。
 雑念だって、一念三千の生命の働き以外のものではない。ゆえに、そういう雑念でさえも、題目によって、功徳に変わるのです。
 祈りかたに「こうあらねばならない」という形式はない。無作でいい。かしこばって、こちこちになって拝んだって、心の動きは、どうしようもない。信心が強くなれば、自然のうちに一念が定まってきます。
 また、祈っていて浮かびあがってくる雑念とか思いとかは、その時の自分が気になっている課題なのだから、雑念などと言わないで、何でも、きちっと祈りに変えたほうがいいでしよう。
 大きなことだけを祈るのではなく、小さな小さなことも、ひとつひとつ、きちっと祈りを込めて勝ちとり、固めていくことです。
 もちろん神経質になる必要はない。ともかく、ありのままの姿で、題目を真剣に唱えていくことだ。
 遠藤 もうひとつ、「願いは、いっぺんに、たくさんあってもいいのでしょうか。一つずつ解決していったほうがいいのでしようか」という問いもあります。
 池田 祈りは、いくら多くてもいい。たくさん願いがある人は、その分、真剣に、たくさんやればいいのです。たくさん買い物をしたければ、たくさんお金がいる。それだけのことです。また、それが道理です。
 斉藤 そういう質問は、何か「御本尊が祈りを聞きとどけてくれて、超能力で解決してくれる」というような錯覚があるのではないでしょうか。
 池田 だれが願いを叶えるのか。自分です。自分の信心と努力です。他のだれでもない。自分の買い物に、自分のお金を使うのと同じです。自分のお金がなければならない。自分の信心の実践が「お金」です。
7  「祈りがなかなか叶わない」
 須田 「祈りが、なかなか叶わない」と悩んでいる人もいますが……。
 池田 「祈りとして叶わざるなし」の信心です。まず、そう決めることです。そのうえで、ある時点だけを見れば、祈りが叶う場合も、叶わない場合もある。しかし、それでも祈りを「続ければ」最後には必ず一番いい方向に行く。あとから振り返ってみると、それがわかるものです。
 何より、そうやって苦労することで自分が強くなっている。祈って、何でもすぐに、パッと叶ったのでは、人間が堕落してしまう。
 努力も苦しみもない安易な人生になってしまう。薄っペらな人間ができます。それでは何のための信仰か。
 次々と、いろんな出来事がある。いろんな悩みが出てくる。その連続です、人生は。いろんなことがあるから、人生は充実するし、楽しい。成長もできる。広々とした、強い境涯が開ける。
 遠藤 たしかに、全員が「宝くじに当たりたい」と祈っても、叶うわけがありません。
 池田 何でも祈って、すぐに叶ったのでは「手品」です。「道理」に反する。お米も入れないで、炊飯器のスイツチを入れて、ご飯ができるわけがない。
 仏法は道理であり、信心即生活の正しい「軌道」を教えている。「現実」を無視した信仰はない。現実のうえで努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。
8  「祈りに応えない宗教は無益」──牧口先生
 遠藤 よく「現世利益を説く宗教は低級だ」という批判がありますが、こういう安易な「おすがり信仰」は、たしかに否定されるべきだと思います。
 須田 いわゆる「呪術」的な祈りですね。神秘的な力を動かして、利己的な願いを叶えようという……。
 斉藤 一方には、「宗教は内面の幸福だけを目指している」という宗教観があり、一方には「呪術的な現世利益を説く宗教があります。どちらも、色心不二という人間の現実の「生活」から遊離している。その点で共通するのではないでしようか。
 遠藤 一方は観念的であり、一方は荒唐無稽です。
 須田 一方は無慈悲であり、一方は智慧がないとも言えると思います。
 池田 真実の宗教は、そのどちらでもない。「生活」に即して離れず、「生活」を向上させる根本の法則を示している。
 牧口先生は、これを「価値創造」と呼んだ。「祈りに応じて価値を与えない宗教は″無益″な宗教だ」と言われている。(「幸福生活の祈願に応ずる価値の供給によってのみ宗教の存在があり、無益の宗教は人の信を繋ぐに足らぬものである」〈『牧口常三郎全集』第九巻〉)
 これは当時の著名な科学者の宗教論に対する反論の中の言葉です。この学者は″自然の驚異的な摂理には神を感じる″が、自然科学によって知ることができない未知のものは未知としていくべきであり、″自分の利益のために神に祈ったりするのは、おかしい″という主張であった。
 須田 典型的な「現世利益批判」ですね。
 池田 それに対して、牧口先生は″人間生活の価値創造に関わらない宗教は、無益の宗教である″という立場です。
 「生活」を無視することは「人間」を無視することです。
 驚異的なのは自然だけではない。人間の生命、生活、人生も驚異であり、いかなる状況でも価値を創造して勝利していける人間の生命力の驚異を探求すべきであると考えておられた。
 先生は、「自然科学」だけあっても、人間をどう幸福にするかという「価値科学」がなければいけないとも言われた。卓見です。現代文明の根本的欠陥を突いている。
 斉藤 牧口先生は、外国の有名な哲学者が、宗教だけの「聖の価値」を主張したことにも反対しておられますね。宗教のための宗教では意味がない、と。
 「聖」の価値とか、「安心立命の境地」とか言っても、それは個人的には自分の生命を伸ばす「利の価値」であり、社会的には「道徳的価値(善の価値)」である。「人を救い、世を救うことを除いて、宗教の社会的存立の意義があろうか。人を救うことは利的価値ではないか。世を救うことは道徳的価値ではないか」(『牧口常三郎全集』五)と。
 池田 要するに、「人を救い、世を救う」という現実の闘争を避けて、そのほかに「聖」などという別次元の高尚な価値があるかのようにいうのは偽善です。
 人を救い、世を救う──広宣流布です。現実と四つに組んだ、この大闘争こそが価値創造であり、真の宗教です。「聖」というなら、この大闘争のまっただなかにしか「聖」なるものはない。「平和」だって「現世の利益」ではないですか。
 観世音菩薩の「世」の一字には、深い意味がある。現実の「世」から離れないのです。「世」とは社会です。「社会の幸福」への挑戦なのです。
 「世」と対比すれば、「音」とは、個々の生命の叫びであり、「個人の幸福」への希求です。″社会の繁栄″と″個人の幸福″を一致させていこうというのが観世音であり、法華経なのです。
 遠藤 たしかに、個人の幸福だけに偏ると利己主義になり、社会の要請だけに偏ると全体主義や国家主義に近づきます。その調和は実にむずかしい。
9  個人と社会、自由と平等の調和
 須田 池田先生はインドのデリー大学の「名誉文学博士」になられましたが、来日されたメータ副総長も「中道」を強調されていましたね。
 池田 そうだね。まれにみる大哲学者です。
 政治学の大家の副総長は、こう言われていた。
 「近代の西洋の伝統的な考え方は、『個人主義』と『集団主義』の間を揺れ動いてきました。その結果、不幸にも、もたらされたのは『自我の喪失』でした。
 ガンジーをはじめインドの思想家は、この二つの″主義″に対して、古代からの伝統に立ち返ることで応えようとしました。それは、ものごとを相互の関係性でとらえる『法(ダルマ)』の思想、そして超越した究極の理想である『涅槃』の思想です。
 牧口氏、戸田氏が強調したのも、一人一人が社会との関わりの中で価値を創造することです」と。(「聖教新聞」一九九九年一月十日付)
 価値創造の思想から見れば、「個人の幸福」と「社会の繁栄」は決して対立するものではない。自転と公転のような関係です。
 社会に尽くすことによって、個人が幸福になり、社会は「一人の人」の幸福を目的としなければならない。
 須田 ″一人は皆のために、皆は一人のために″ですね。
 池田 メータ副総長は言われた。「宇宙は、有機的な関係で結ばれている。すなわち、人間と自然、人間と人間、そして人間とコスモス(宇宙)です。
 これは『部分』と『全体』という関係ではない。人間も自然も、宇宙も、それ自体が『全体』であり、それ自体が『目的』をもつ『かけがえのないもの』なのです」(同前)
 深い生命観です。この「法(ダルマ)」という正しき軌道に則って進むのが「中道」です。
 遠藤 ″真ん中の道″という意味ではありませんね。
 池田 ″道にあたる″と読む。命中とか、的中の中です。正しき「人道」に即して離れない──いつも「道に中っている」「正道に適っている」、それが中道です。人間主義のことです。
 副総長は、19世紀は「自由を追求した世紀」であり、二十世紀は「平等を追求した世紀」であった。二十一世紀は「正義を追求する世紀」でなければならないと言われた。
 自由と平等、個人主義、その両方を調和させるのが「正義」です。「法」です。「中道」です。「第三文明」です。
 遠藤 明快な二十一世紀論ですね。
 池田 先ほどの「祈り」の話に戻ると、生活即信心、信心即努力という「正道」を、徹底的に進むのが「中道」です。観念的な″気休め信仰″でもなければ、安易な″手品の信仰″でもない。
 斉藤 祈りが叶うまで「祈り続ける」「努力し続ける」。その結果、最後は所願満足になっていく──。その戦いですね。
 池田 祈りが叶う叶わないは、信心による。また、それぞれの宿業的な根の深さも違うし、時間がかかる場合もある。いろんな意味がある場合がある。しかし「祈り」というエンジンによって、必ず、祈った瞬間から「良い方向へ」「良い方向へ」と変化が始まっていることは間違いない。
 須田 「自分中心の祈り」でもよいのでしようか。
 池田 それは仕方がない。自分中心が凡夫の常です。凡夫のありのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばよい。無理に高尚な格好をしても、それは、「うその自分」です。うそは御本尊に通じない。
 自分が一番悩んでいること、一番願っていることを唱題に託していけば、自然のうちに境涯が開けていく。だんだんと、自分のことだけでなく、友の幸せのこと、広宣流布のことを祈れる自分になってくる。また、そういう大きい祈りに挑戦することも大事でしょう。全部、自分の自由です。
10  「前も敵でした。後ろも敵でした」──鄧穎超とうえいちょう夫人
 池田 私は毎日、ただ「広宣流布」と、会員の皆さまの「健康」「長寿」「繁栄」「多幸」を、それだけを祈っている。これが私の根本的責任であり、使命であると自覚しています。
 責任者というものは、簡単なものではない。(中国の周恩来総理夫人の)鄧穎超とうえいちょうさんの言葉は忘れられない。「前も敵でした。後ろも敵でした。毎日、毎日が、そうでした。何十年間、そうでした。私たちは戦いました」と。
 創価学会も同じです。すべてが敵だった。政治家も、坊主も、マスコミも、反逆者、全部が連合軍になって、民衆の行進を弾圧し、私を狙い撃ちにしてきた。
 ありとあらゆる卑劣な手段を使って。それを一人、戦い、乗り越え、会員を守って私は生きてきた。
 来る日も来る日も、一瞬の油断もしなかった。できなかった。そして晴れ晴れと、創価学会を世界的な王者の団体にしました。
 ただ御本尊に「広宣流布の希望の道を無限に開かせたまえ」と祈ってきた。幹部も、同じ心であっていただきたい。その「心」がなくなったら官僚主義です。
 わが地域の学会員は一人のこらず、絶対に幸福にしてみせる! その祈りで、一生懸命、尽くしていきなさい。
 自分のエゴなんか、かなぐり捨てなければ、戦いはできない。勝つか負けるか。死ぬか生きるか、それが勝負です。甘く考えたら、とんでもないことになる。
 私の母校・富士短期大学(=当時は大世学院、現・東京富士短期大学部)の創立者・高田勇道ゆうみち先生は、亡くなる一カ月前に、こう遺言された。「教育とは学生に生命を与えてゆくことである」
 崇高です。教育とは学生に我が生命を捧げることだと決めておられた。学生・生徒を「わが子」と同じように、否、わが子を後まわしにし、犠牲にしてでも、最大に大切にし、愛し、尽くしていけるか否か。それで、まことの人間教育者か否かが決まる。
 広布の指導者も同じです。
 「広宣流布」をしているのは、この地球では創価学会しかない。唯一の仏意仏勅の団体です。学会の広宣流布の組織が、どれほど尊いか。
 広宣流布に進む学会の軌道は、ある意味で「法」です。この法に則って進むことによって、自分の成仏、人間革命がある。「公転」と「自転」の関係てす。
 自分中心は、自転だけあって、公転がないようなものだ。いいように見えて、宇宙の軌道から外れ、寂しき生命の孤児になってしまう。自分中心でなく、法が中心でなければならない。「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」です。
11  広布の行動で自身が開花
 池田 わが身は華です。「妙法蓮華経」の当体だ。その蓮華を咲かせるのは、広宣流布の活動しかないのです。
 自分が拝んでいるだけで広宣流布をしないのは、「水」だけあって「太陽の光」がないようなものだ。
 本当の自分自身の開花はない。広宣流布のために尽くしていけば、必ず、自分が守られる。陣列から離れてはならない。創価学会自体が「安穏城」であり「宝処」なのです。どれだけ皆、守られていることか。
 戸田先生が「戸田の命よりも大事」といわれた学会の組織なのです。
 もし、広宣流布の組織を軽く見たら、その人自身が梵天帝釈、諸天善神に軽く扱われてしまう。相手にされない。ともかく、どんな有名人よりも、地道に学会活動する無名の同志が宝なのです。
 遠藤 先生が、デリー大学一行との語らいで話されていたアショーカ大王のエピソードを思い出します。
 ある時、アショーカ大王が、仏弟子たちの塔(ストウーパ)を供養して回りました。大王は、舎利弗や目連、迦葉、阿難などの塔には、たくさんの供養をして合掌しました。しかし、薄拘羅はくらという仏弟子の塔には、わずかな供養しかしなかった。
 おつきの人間が不思議に思って、大王に尋ねました。「この人も等しく仏弟子であります。どうして差をつけられるのですか?」。
 大王は答えました。「彼は、自分自身は一生懸命に修行していたようだが、人のために法を説かず、世間のために貢献しなかったからだ」と。仏法の広宣流布に尽くしたかどうか。人と社会に尽くしたかどうか。それが基準でした。
 須田 その話を受けて、アショーカ大王の研究者のラナ教授が「知識を自分の中にとどめるだけで、(=人のために)分かち合い、役立てていかないと、知識は、(=かえって)″毒″になる」(「聖教新聞」一九九九年一月九日付)と言っておられた。印象的な言葉でした。
 遠藤 日本は″毒薬″のニュースが続いていますが──″慈悲なき社会″の象徴ような気がしますね。
 池田 ″毒″は、冷酷な地獄の心の象徴です。
 地獄界・餓鬼界の人間は、人の幸福を恨み、嫉み、人をも地獄に堕としたくてしかたがない。
 反対に、仏界・菩薩界の人間は、人をも幸福にしたくてしかたがない。
 創価学会は、自分も幸福になり、人をも幸福にしていく、慈悲の団体です。広宣流布とは、今の社会に一番欠けている、この「慈悲の生命流」を拡大して、潤していく運動なのです。
 自分の存在は小さく見えても、何か動けば、波ができる。一波、二波、三波と波が続けば、その「流れ」それ自体が「広宣流布」なのです。
 遠藤 それが無慈悲で残酷な社会の″毒″を浄化する根本だと思います。
12  国家主義の″毒″を見破れ
 斉藤 ″毒″というと、思い出すのは、ユダヤ人への迫害の歴史を探求した学者の言葉です。
 どうして文明国ドイツで、ヒトラーのような人間が首相になれたのか? どうして「ユダヤ人こそ一切の悪や不幸の根源で、迫害するのが当然」などという荒唐無稽な思想に人々が染まってしまったのか? それは「反ユダヤ主義の毒を少しずつ服用させられていたおかげで、ヒトラーという致死性薬物にまで免疫になっていた、ということなのだろうか」「何世代もつみ重なった激しいユダヤ人排斥主義の効果のせいで、彼らの倫理感覚、少なくともユダヤ人に関する倫理感覚が退化してしまっていたからなのだろうか」(ルーシ・S・ダビドピッチ『ユダヤ人はなぜ殺されたか・第1部』大谷堅志郎訳、サイマル出版会)
 ″少しずつ毒に慣れさせていく″というお恐ろしさを強く感じます。
 池田 日本も同じです。人権感覚がますます狂ってきている。民衆を国家の犠牲にして恥じない国家主義が強まっている。危険です。だからわれわれが立ち上がる以外にない。
 遠藤 日本国憲法の根底には、いわば「ソフト・パワーで平和を創造していこう」という理想があると思うんですが、それが踏みにじられようとしています。
 須田 侵略戦争の正当化も、すごい勢いで進められていますね。とくに、若い世代に対して影響力の強いメディアでも、それが顕著で、危険な限りです。
 斉藤 その一方、″抵抗の精神″がなくなり、いよいよ「長いものには巻かれよ」という雰囲気になっている。マスコミもそうです。現状追随の卑劣な国民性が、つくづく、なさけなくなります。
13  日本の宗教は「権力の奴隷」
 池田 日本人に「権力に抵抗する精神」が弱い根本は、宗教が骨抜きにされてきたからです。これは福沢諭吉が明快に論じている。
 遠藤 『文明論之概略』の中の「僧侶は政府の奴隷」なりという強烈な言葉を覚えています。(以下、同書より引用・参照。引用は現代語訳)
 池田 彼は「宗教は人間の心の内部で働くものであるから、最も自由、最も独立してあるべきで、微塵も他から制御されず、微塵も他の力に頼らないで、社会に存在すべきはずであるのに、我が日本においてはそうではない」と嘆いている。(現代語訳)仏教も、はじめから権力者の庇護を頼み、権力者にすり寄り、権力の余光を借りようとし、はなはだしいのは政府から爵位(貴族の階級)をもらって喜んでいる僧侶がいる、と。寺がいっぱい建って、仏教が栄えているように見えても、それは「権力の威光」を借りたものであって、独立した「宗教の威力」によるものではない、と。
 近年(明治五年)は、政府が僧侶の肉食妻帯を許した。これはつまり″宗旨を守って肉食せず妻帯しなかった″のではなく、″政府が禁じていたから、しなかった″──実際は陰で相当していたわけだが──ということであろう。これでは「僧侶が政府の奴隷であるだけでなく、日本国中、すでに宗教はないと言ってよい」と、痛烈です。
 斉藤 人間の「心の独立」の支柱となるべき宗教が、こうですから、日本人に″権力と戦う精神″が弱いことも当然です。
 池田 だからこそ、私たちの運動が、日本の根本的な文化革命、人間革命、精神革命なのです。日蓮大聖人は、″権力の奴隷″の僧侶たちから総攻撃を受けながら、権力者自身をも「わづかの小島のぬしら主等」と見おろしておられた。世間は有上道、仏法は無上道。どんな権力者といえども、妙法にはかなわないし、謙虚に正義を求めていくべきだという信念であられた。
 先ほど牧口先生の価値論の話が出た。「人を救い、世を救ってこそ宗教だ」という牧口先生の叫びは、まさに日蓮大聖人直結です。宗教の源泉から、社会へ社会へと精神的水流を送り続けていく。社会とかかわり続けていく運動です。それが観音菩薩の三十三身の精神でもある。
 斉藤 経文に挙げられていない姿も含めて、「あらゆる姿で」ということですね。
 池田 だから、どんな立場の人でも、尊敬していかねばならない。その人が仏菩薩の現れかもしれない。仏菩薩の働きをする場合がある。立場や職業や見かけで、人を判断しては絶対にならない。
14  「宗教なき政治は『死体』」──ガンジー
 須田 法華経は「社会に向かっていく」経なんですね。
 池田 「向かっていく」のです。宗教という根源的次元から、社会を常に浄化し、リフレッシュし、蘇生させていく。
 宗教と政治についても、ガンジーはこう言っている「宗教の欠如した政治は、国家の首を吊るロープであります。いつの場合でも、政治は宗教の説く真理の道にしたがって進むべきであり、一方、政治を忌み嫌う宗教は、宗教の何さえ値しないものです」(ハリーバーウ・ウパッデャイ『バープー物語』池田運訳、講談社出版サービスセンター)
 斉藤 その通りだと思います。
 池田 福沢諭吉は、日本の宗教は「政府の奴隷」と言ったが、ガンジーは反対に、宗教的精神によって政治を道徳的な慈愛あふれるものに変えよと言っているのです。
 日本でも聖徳太子の十七条憲法には「篤く三宝を敬へ」とある。政治的権威も、普遍的な真理に従っていくべきだという思想があった。
 宗教の中には、権力に協力し、「権力の奴隷」になる宗教がある。また「政治とは一切、かかわらない」と閉じこもる宗教もある。これもまた消極的に、権力の悪を助長し、野放しにすることになる。
 「権力と一体化して権力者を助ける」のでもなく、「政治から身を引くことによって権力者を助ける」のでもない。第三の道。
 それが日蓮大聖人の「立正安国」です。
 正法という″永遠の真理″の側から、現実へ常に「向かっていく」「かかわっていく」「変革していく」。これこそが、権力の奴隷にならない唯一の宗教の道なのです。だからこそ、この道には弾圧がある。難がある。だから本物なのです。
15  「経済にも倫理を」──アマーティア・セン氏
 斉藤 観音品ということで「現世利益」が話題になったわけですが、″現実生活上の価値″を否定する観念的な宗教観では、社会へ脈動はありません。かといって、安易な「ご利益信心」もまた、民衆の内面を開拓することはなく、「わが身を犠牲にしてでも、社会を変革していく」という力を与えることはできません。
 両者は、両極端のようでいて、ともに権力者にとって都合のよい宗教になっていると思います。
 池田 日本では、僧侶だけが「権力の奴隷」になってきたのではない。ほとんどの知識階層も、財界人も、民衆も、同じであった。
 本来は、権力者・指導者は「民衆の手足」です。民衆の手段です。民衆の公僕です。僕です。それが反対になっている。
 遠藤 口では「公僕」といっても、その「公」とは「民衆」のことではなく、「国家」とか「現体制」のことになってしまっている。民衆に仕えるのではなく、体制に仕えるのが「公僕」だという恐るべき錯覚です。
 須田 やはり「国家は手段であり、国民の幸福こそ目的なのだ」という民主主義の基本を、徹底的に、日本人の腹の底に叩きこまなければ、何も変わりませんね。
 池田 目に見えない精神的権威(宗教)をもたない人間は、目に見える権威(体制)に従いやすいものです。
 「社会へ向かっていく」「脈動していく」という創価の仏法の舞台は、政治だけではない。三十三身とあるように、社会のすべての領域にわたる。
 たとえば経済もそうです。
 ガンジーは「正義の経済学」を論じた。「拝金主義を教え込み、強者が弱者の犠牲の上に富を増やすことを容易にする経済学は、誤った、荒涼とした科学である。それは死を意味する。これに対し、真の経済学は、社会的正義を象徴し、弱者を等しく含む万人の幸福を促進する」(「私の宗教の目標」梅田徹訳、『私にとっての宗教』所収、新評論)
 「拝金主義」は強者を傲慢にし、弱者を卑屈にし、両者の魂をからっぽにする。
 貧しき人々をはじめとする「万人の幸福」をどうするか。そこに智慧をしぼるのが経済学の真髄です。「正義の経済学」です。「経世済民(世を治め、民を済う)」という「経済」の本義にかなう道です.
 斉藤 池田先生とともに今回、デリー大学の名誉博士になった方に、アマーティア・セン氏(英国ケンブリッジ大学教授)がいます。(一九九八年十二月十三日)
 教授も「正義の経済学」を提唱しています。
 池田 アジア人初のノーベル経済学賞を受けた方です。幼少期はタゴールの学園のある町で生まれ、タゴールが名づけ親だという。
 斉藤 セン教授は九歳の時に、ベンガルの大飢饉を体験しました。約三百万人が餓死。その体験から「貧しき人々を救う」ための経済学を志したといいます。「経済に倫理を」と主張されています。
 池田 すばらしいことです。
 牧口先生の価値論も「美・利・善」というように、「利」を価値体系の中に、きちんと位置づけておられる。「善(公共の利益)」に背く「利」は「悪」であり、反価値であることを、はっきりさせている。
 こういう「何のため」という価値観がなければ、経済活動も″金もうけのための金もうけ″″経済成長のための経済成長″というように、野放図に暴走してしまう危険がある。
 遠藤 バブル経済が、まさに典型でした。
 池田 その意味で、価値論は「正義の経済学」を志向しているといってよい。
 須田 今、日本では″景気の回復″だけが論じられています。まるで景気が回復しさえすれば、すべて問題は解決するかのように。もちろん、それも極めて大事です。しかし社会の根底の価値観が変わらないままで、いまだに経済至上主義の夢を追っているとしたら、こんな不毛なことはありません。
 斉藤 「第二の敗戦」と言われるバブル崩壊から″何も学んでいない″ことになります。
16  日蓮仏法は「誓願の仏法」
 池田 そういう「哲学なき非文化国家」日本を、心豊かなヒューマニズムの国に変えていくのが、広宣流布の運動です。
 ともあれ、日蓮仏法であっても「広宣流布」への戦いを忘れれば、これまでの利己主義の宗教と同じになってしまう。
 須田 宗門がその典型です。
 池田 広宣流布への不惜身命の「行動」があってこそ、わが小宇宙の生命が大宇宙と冥合し、祈りも叶うのです。と大聖人は「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」と仰せだ。ならば、自分が法華経の「実践者」であるかどうかだけが問題になる。
 日蓮仏法は「誓願の仏法」です。自分が自分の立場で、御本尊に「私は、これだけ広宣流布を進めます! 断じて勝利します!」と誓願することです。その「誓願の祈り」が出発点です。
 観音品には、観世音菩薩の由来について述べたなかに「弘誓の深きこと海の如し」(法華経六三四ページ)とある。(広宣流布しようという誓いは海のように深い)
 その結果、観音は「福聚の海無量なり」(法華経六三八ページ)という大境涯を得たのです。(無量のの福が聚まった海のごとき境涯)
 日蓮大聖人は、この経文について「依正福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」と言われている。依正──周囲の境涯も自分自身も、無量の「福徳」と「智慧」にあふれてくるのだと。
 人間には「智者タイプ」の人と、「福者タイプ」の人がいる。それはそれで個性なのだが、智慧があっても福運がなければ、努力は実らず、幸福な人生は創れない。
 福運があっても、智慧がなければ、多くの人に信頼されることはむずかしいし、多くの人々を救っていくこともできない。両方、兼ね備えた人生が最高です。
 広宣流布という人間性の真髄の軌道を生ききるときに、そういう「無上道の人生」になっていくのです。ゆえに一歩も退かず、押して押して押しきっていくことだ。遠慮してはならない。
 全幹部が一兵卒になって、コマネズミのように動いて動いて、獅子王のごとく語って語って、魂魄をとどめた広布勝利の歴史をつくっていくことだ。その分だけ、自分自身の三世永遠の旅路が黄金に輝いていくのです。

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