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日蓮大聖人・池田大作

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観世音菩薩普門品(第二十五章) 指導者…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  「世音を観ずる」慈愛と智慧を
 池田 人の心を一番深くとらえるものは何だろうか、さまざまに言えるだろうが、やはり「慈愛」であり「優しさ」ではないだろうか。
 「あの人は、自分のことを、本気になって心配してくれた」
 「わがことのように祈ってくれた!」「大事にしてくれた!」「目に涙して叱ってくれた」「優しかった」
 その思い出は、生命に刻みつけられて離れない。指導者の根本条件も「慈愛」です。これしかない。大事に大事に、皆を守っていくことだ。
 私は観音品(観世音菩薩普門品)というと、この「慈愛の指導者」を思い浮かべる。
 斉藤 はい。観音の姿も、慈母のような優しさに、あふれています。
2  一生を支えた母の一言
 遠藤 「悲母観音」というのもありますね。
 池田 お母さんは、だれにだって懐かしい。
 昔、ある壮年からこんな話を聞いた。
 小さい時、父は毎日、酒ばかり飲んでいた。「兄弟は多いし、貧乏も貧乏。乞食のような暮らしでした」と。
 お母さんが細々と働いて、父の酒代まで工面していた。父は、母や子どもをよく殴った。酒を買いにやらされるのは、いつも男の子。ある寒い日の夕方、一升ビンに酒を入れてもらって、七、八歳の少年は日の暮れた道を一人たどっていた。
 父親のことは大きらいだったが、「母ちゃんの苦労が、しみこんだ酒だ」と思って、大事に抱えて歩いた。しかし、ビンは重いし、だんだん手がかじかんできた。もう少しで家に着く。明かりが見えた。ほっとしたのでしよう。しびれた手から、するっと、酒ビンが落ちてしまった。
 ガチャン! ビンは割れて、酒はみるみる流れていく。「しまった! どうしよう」。
 少年は泣きながら、玄関まで着いたが、家に入れない。中では父親が「酒はまだか!」と、どなっている。その時、少年の声を聞きつけたのか、お母さんが血相を変えて、表に出てきた。
 少年は「怒られる!」と思って、びくっと一歩下がった。
 ところが、お母さんは、少年を見るなり、抱きしめて、「足に当たらんかったか。けがはなかったか。お前に、けががなかったんなら、なんも泣かんでええんよ」と、背中をさすってくれたのです。その温かい一言が、その後も苦しいことがあるたびに自分の一生を支えてくれたと振り返っておられた。
 「あのとき、叱られていたら、心がねじけてしまっていたかもしれません」と。
 自分のことを無条件に愛し、大事にしてくれた人がいる──その自覚が人間に「生きる力」を与えてくれるのではないだろうか。
 遠藤 そう思います。観音菩薩が、どうしてこんなに人気があるのか。その秘密も、母のような慈愛にあると思います。
 須田 創価学会も、ある意味で、親もおよばないほどの優しさで、一人一人を大切にしてきました。どんな悩みにも寄りそって、親身に、一緒になって励ましてきました。
 遠藤 その実例は、文字通り「無数」にあります。
 斉藤 だから強いんですね。
 池田 組織の機構上のつながりではないから強い。人間と人間の心のつながりだから強い。観音──観世音菩薩。観世音とは「世音を観ずる」という意味です。
 世の中の、ありとあらゆる音声を、悩みの声を、大きな慈愛で受けとめ、抱きとって、その声に応えてあげる。一人一人の切実な思いを「聞いてあげる」「わかってあげる」「駆けつけてあげる」。その「限りない優しさ」が、観音菩薩ではないだろうか。そこに慕われる秘密もある。
 斉藤 たしかに、法華経を知らなくても、観音菩薩を知らない人はいない──それくらい有名です。
 須田 インドで、中国で、朝鮮半島で、日本で、アジア全域で、観音菩薩くらい人気のある存在もありません。祀られている数も圧倒的に多いのではないでしょうか。人々はつねに、思い思いの自分の願いを観音菩薩に訴えてきました。
 遠藤 「いつでも、どこでも、あらゆる危難から救ってくれる」とされていますから。
 須田 ″観音さま″は、いわば仏教界の″スーパースター″ですね(笑い)。
 斉藤 いや、中国では道教の神さまとして信仰されているくらいです。宗教の枠さえ超えて、人々を引きつける「魅力」が、観音菩薩にはあるようです。
3  優しさが胸に明かりを灯す
 遠藤 魅力は、やはり「優しさ」でしょうか。
 須田 顔も実に優しいですね。
 池田 優しさほど、強い力はない。優しさほど、人の心を征服するものはない。優しさほど、強く、明るく、永遠性の光はない。人の胸に明かりを灯す光明です。希望の光を与える。
 真の「ソフト・パワー」です。
 須田 たしかに、そうです。(ハード・パワーのように)力ずくで人を引き寄せるのではありません。
 池田 「ソフト」は慈愛、「パワー」は力。慈愛の力です。文化も平和も教育も、その根底は慈愛です。人間への厳しさです。
 「ソフト」は「限りない優しさ」であり、それが「限りない強さ」のパワーを生むのです。
 また「優しさ」の真には「強さ」がある。強くなければ、人に優しくなんかできない。
 観音菩薩の優美の裏には、妙法を求めに求め、不惜身命で弘めていく「勇猛心」がある。
 斉藤 大聖人は「観音法華・眼目異名」という天台宗言葉をあげておられます。
 観音と法華は名前は違っているが、その眼目は同じであり、妙法そのものであるということです。
 池田 じつは、観音菩薩とは、寿量品で示された久遠の本仏の生命の一分です。宇宙と一体の本仏の「限りない慈愛」を象徴的に表したのが観音です。だから久遠の本仏を離れては、観音菩薩の生命はない。魂のない抜けがらのようなものです。
 遠藤 妙法を信受しないで、観音を拝んでも本末転倒であるということですね。
 池田 久遠の本仏の生命──御本尊のなかに、観音菩薩も含まれている。
 御本尊の──妙法の功力の、ごく一分が観音菩薩の働きなのです。
 古来、観音品ほど多く論じられてきた品もない。「観音経」として独立して信仰されてきた歴史もある。今なお、各地で「観音菩薩像」が次々に、建立されている。また日本ではとくに人気のある「般若心経」も、観音が説法する経典てす。しかし、その割には、「観音」の力の源を多くの人が誤解している。その「力の源」とは「妙法」です。妙法を釈尊滅後に弘めていきなさいというのが法華経の「流通分」であり、観音品もその一つです。
 観音品は、あらゆる仏典の中で、観音菩薩が登場した一番古い経典です。ここで、ちゃんと位置づけられている。観音菩薩も妙法──寿量文底の南無妙法蓮華経──によって、人を救う「力」を得ているのです。
 遠藤 根源の「妙法」を離れて、「観音」を拝んでも、意味がない。かえって観音の願いに背いてしまうということですね。
4  迹門は「光」本門「音」
 須田 では概要を見てみます。
 前章の妙音菩薩が「東方」にいたのに対し、古来、観音菩薩は「西方」にいるとされています。また妙音が「声を発する」のに対し、観音は「声を聞く」ほうです。両方でセットになっていると思われます。
 池田 本門では「音声」に関する名前が多い。にぎやかです。妙音、観音のほか、次の陀羅尼品も、声を出すことに深く関わっている。
 「威音王仏(不軽品〈第二十章〉)」とか「雲雷音王仏(妙音品〈第二十四章〉)」とか「雲雷音宿王華智仏(妙荘厳王品〈第二十七章〉)」とか。
 これに対し、迹門には「光」に関する名前が多いとされている。
 斉藤 「日月燈明仏(序品〈第一章〉)」「燃燈仏(同)」「華光如来(譬喩品〈第三章〉)」「光明如来(授記品〈第六章〉)」「普明如来(五百弟子受記品〈第八章〉)」「法明如来(同)」「具足千万光相如来(勧持品〈第十三章〉)」などでしようか。
 池田 「光」は諸法実相の「真理」を表す。「不変真如の理」です。
 「音声」は久遠本仏の使いとしての「行動」を表す。「随縁真如の智」です。
 また観音の「西方」とは、観音のルーツが、インドの西方にあたる舌代オリエントのが女神にあることを暗示しているという説もある(彌永信美『観音変容譚』法蔵館。参照)。それはともかく、序品からずっと説法の座にいた観音菩薩の「由来」を尋ねるところから観音品は始まる。
 遠藤 はい。無尽意菩薩が立ち上がって、釈尊に質問します。「観音さまは、どうして『観世音』という名前なのですか」と。
 釈尊は答えます。「いかなる衆生であれ、どんな苦悩であれ、この観世音菩薩の名を聞いて、その名を一心にたたえれば、観世音菩薩は即座にその音声を観じて、すべての苦しみから解放するであろう」と。
 観音の名前をたたえただけで救われるという。この「易行(やさしい行)」であるところが、観音信仰の広まった理由の一つと思われます。
5  「天地雲泥」の大功徳
 池田 もちろん、文底から見るならば「観音の名を称える」とは、観音の力の根源である久遠の本仏「南無妙法蓮華経如来」の名前を唱えるということです。唱題行です。
 須田 題目を「一心に」唱えるという意味ですね。
 池田 一心に、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く」祈るのです。
 甘えた、観念的な祈りでは、御本尊への本当の感応はな全生命をもって、ぶつかって、打開の道が開けないわけがない。
 日蓮大聖人は「薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり」と仰せだ。(「薬王菩薩本事品(第二十三章)以下の六品で得道した者は、寿量品の自我偈の功徳の残りなのである」)
 戸田先生は、この御書を引いて、よく「観音品と言っても、寿量品の残りカスだ」と言っておられた。
 南無妙法蓮華経が電力源であり、観音の力はそこから電気を分けてもらっているにすぎない。ゆえに大聖人は「今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」と断言なされている。
 須田 観音品に説かれる功徳も、ものすごいものですが、それより「天地雲泥」と。大変なことです。
 遠藤 観音品では、まず「七難」から救われる功徳を説きます。
 七難とは火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖かさ難・怨賊難の七つです。
 大火に入っても焼けない(火難)。大水に漂流しても溺れないで助かる(水難)。
 宝を求めて大海に入り、暴風のため船が食人鬼の国に流されても、船に乗った一人でも観音の名を唱えたら、他の人々も無事に助かる(羅刹難)。
 池田 たった一人でも、本気で立ち上がり、「一心に」信心する人間が現れたら、運命共同体である全員が助かる。一家、一族、会社、地域、団体、全部、救っていける。この「一人立つ」方程式を教えている。
 須田 刀や棒で危害を加えられそうになっても、刀や棒が折れて助かる(王難あるいは剣難)。
 池田 日蓮大聖人の竜の口の法難が、これです。どす黒い権力は、大聖人を頸の座にまで置きながら、どうしても処刑することができなかった。
 また松葉ケ谷の法難にせよ、伊豆流罪にせよ、小松原の法難にせよ、不思議にも、いつも危機を脱しておられる。
 もちろん大聖人には、弟子に指導された通り、御自身に「前前の用心」があられた。世音を観じ、「師曠が耳・離婁が眼」のように、鋭く情報もキャッチしておられた。
6  「油断」は「慢心」
 池田 ともかく″信心しているから大丈夫″″何とかなる″というのは油断です。慢心とも言える。
 ″信心しているから、何とかするんだ。勝つんだ″″信心しているからこそ、用心して絶対に、無事故にするんだ″その自覚がなければ危険です。
 たとえば女子部・婦人部は、夜遅く一人で歩いたりしてはならない。荒廃した世の中です。用心に用心を重ねて、なるべく早く帰宅する。どうしても遅くなる場合は、電話をしてに来てもらうとか、工夫してもらいたい。
 留守番をしている家族にも心配をかけてはならない。また男性も、女性の帰宅のことをよく考え、だれかが送るとか、こまかに配慮していただきたい。
 斉藤 諸天に守られるというのも、根本は「自分で自分を守る」ということです。
 妙楽大師が「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」と言っているように、何ものも恐れない「固き心」が諸天を動かす。その獅子王の一念が諸天を働かせます。
 須田 観音品にも「是の菩薩は、能く無畏を以って衆生に施したもう」(法華経六二五ページ)とあります。「無畏」「畏れなし」の勇気を与えると。
 池田 そうだ。諸天が、また観音がわれわれを守ってくれるのではない。
 「何ものも恐れない」無畏の信心によって、自分で自分を守るのです。
 自分の生命の観音菩薩の力で守られるのです。それを引き出すのが信心です。唱題です。広宣流布への行動です。
 戸田先生は、よく言われた。「御本尊様に、ご奉公もしないで、功徳だけを願うのは横着だ」と。
 一心に広布を願って、戦っていく人は、生命に「無事安穏」への防波堤が築かれていく。学会活動には絶対にむだはない。後になって、それがわかる。死ぬ時にわかる。それが日蓮仏法です。
 須田 観音品では、次に「悪鬼が害を加えようとしても加えられない」(鬼難)と説きます。
 また「罪があるにせよ、ないにせよ、足かせで縛られたり、鎖でつながれるときに、これらから解放される」(伽鎖かさ難)と。
 そして「商人の行列が、宝物を持って危険な路を通過しようとしたときも、宝をねらう盗賊から逃れられる」(怨賊難)と説きます。
 斉藤 偈文のほうには、他にもいろいろの功徳が記されています。
 「高い山から突き落とされても、助かる」とか、「呪いをかけられたり、毒薬で危害を加えられそうになったとき、かえって相手がその苦しみを得ることになる」ともあります。
 遠藤 有名な「還著於本人(還って本人に著きなん)」の原理ですね。
7  「無事安穏」の人生
 池田 全部、「無事安穏」の功徳です。観音品が「息災延命の品」と呼ばれているゆえんです。
 戸田先生は、観音品の内容に従い、分かりやすく、こうまとめて言われたことがある。
 「一、おおいに事業商売をして、金もうけをするときに、災難が起こる。そのとき、御本尊様を頼りまいらせると、その災難をのがれることができる。
 二、相手がひどい目にあわせてやろうと考えたり、また、大きな損が起こってくるような場合、反対に、相手がひどい目にあうようになったり、損が得になったりする。
 三、煩悩および病気の苦しみにあうとき、御本尊様を信ずるならば、煩悩も悟りとなり、病魔もこれを冒しきることができない。
 四、ガケから落ちたり、乗り物の事故にぶつかったりするとき、御本尊様を信じているときは、けがをしないですむ。
 五、自分の職業の位置から落とされようとしたとき、御本尊様を信じている者は、逆に相手がやめなくてはならなくなったりして、落とされないですむ。
 六、相手が憎んだり、害を加えたりするときに、信心が強いと、相手の心が変わってしまう。
 七、(=不当に)死刑にならなければならぬような運命も、信心の強き者は死刑にならなくてすむ。このことは刀尋段段壊とうじんだんだんねといって、大聖人様のお示しくださったお姿である。
 八、(=不当に)牢獄へ入らなければならない宿命の者でも、信心の強い者は入らないで、帰されてくる。
 九、毒薬を飲まされようとしたり、悪口を言われたりすれば、かえって相手が悪口を言ったような目にあったり、毒薬を飲まされたりする。これは還著於本人というのである。
 十、大アラシのときでも、信心の強い者は、その害を受けなくてすむ」(『戸田城聖全集』3)
 遠藤 分かりやすいですね。
 池田 「やさしく」言うのが「優しさ」です。
 皆の話は、難しくてしかたがない(笑い)。難しく言うことは、だれにでもできます。それでは、大勢の人には、わからない。「世音を観じた」ことにならない。それでは法華経ではありません。
 これらは全部、「現世利益」の文証です。妙法を行じれば、必ずそうなるという御本仏の御約束です。ただし、これは「顕益」です。いざという時に、ぱっと現れる功徳です。
 これに対し、末法は「顕益」ももちろんあるが、「冥益」が中心となる。種子が一年、二年、三年と、歳月とともに大樹になるように、だんだん、だんだん福徳の枝が繁り、花を咲かせ、実をならせるのが「冥益」です。そうやって生命の大地に根を張った「福徳の大樹」は倒れない。嵐にも、びくともしない。
 須田 それが、妙法の「天地雲泥」の利益ということでしようか。
 池田 天地雲泥とは「成仏する」という大利益のことと拝してよい。
 成仏について、戸田先生は「絶対的幸福」とも言われ、「大生命力」とも言われた。つまり、先ほどのような顕益の功徳は必ずある。
 とくに「初信の功徳」といって、入会後、当座の悩みが必ず解決する。それで確信をもって、さらに信心が進めば、今度は前と比較にならない大功徳がある。それは「生命力が絶対的に旺盛になる」ということです。
 遠藤 人間革命ですね。
 池田 自分が革命されていく。自分が、たくましく変わっていく。「悩み」に左右され、引きずられていた自分が、「悩み」をにらみつけ、引きずり、悠々と乗り越えていける自分に変わる。たとえば、生命力が「一」しかない人は、ちょっと何かあると、「二」か「三」の」悩みでも、あわてふためいてしまう。しかし、そんな」悩みは、生命力「百」になり、「千」になり、「一万」になっていけば、ケシ粒のようなものです。軽々と手の上で転がしながら、楽しんで歩いていける。
 戸田先生は言われた。
 「われわれは、いろいろな条件にしばられている。親子の関係だとか、兄弟だとか、友だちだとか、着物だとか、住居だとか、交際だとか、税金だとかというものに拘束された世界が、われわれの生活である。しかし、偉大な生命力を把持するならば、これらを苦縛とせず、楽しみとすることができる。すなわち、これを解脱というのである」(同前)
8  「解脱」とは「大生命力」
 遠藤 「解脱」といっても、何も神秘的なものではないんですね!
 池田 悩みの鎖を吹き飛ばす大生命力のことです。大生命力の中には「慈悲」も「智慧」も「福徳」も含まれる。
 「限りない明るさ」と「限りない優しさ」の人格です。くめどもつきぬ智慧の生活です。生命力が全身にあふれていれば、この苦しい娑婆世界が、明るく楽しい世界に変わるのです。そこが雲鷲山です。また、そこが補陀落山です。
 観音の住んでいるところは「補陀落山ふだらくさん」と言われ、古来、各国で「ここがそうだ」という場所が定められてきた。
 須田 チベットのポタラ宮殿も、「補陀落」から来たものです。歴代のダライ・ラマは観音の化身とされています。それはそれとして、観音品の元意から言えば、妙法の「限りない生命力」で行動するところ──それがどこでも補陀落山ですね。
 池田 その「大生命力」こそが、真実の「現世安穏」なのです。また「後生善処」の証明にもなる。
 大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せだ。「現世安穏」とは、どんな試練が押し寄せようとも、敢然とそれと戦い、乗り越え、その前よりもさらに威光勢力を増していける「信心」の境涯のことです。
 斉藤 本当に「天地雲泥」の利益です。
 池田 こんなすばらしい境涯があるのに、どういうわけか、皆、ほしがらない(笑い)。小さい、目先の利益で満足してしまう。ふだんは、あんなに欲張りなのに(笑い)。
 そして何かちょっと悪口を言われたくらいで御本尊を疑ってしまう。疑いながら祈ったって、お風呂の栓を抜いて水をためようとしているようなものだ。福運は流れていってしまう。
 観音品に「念念に疑いを生ずること勿れ」(法華経六三七ページ)とある。大確信の祈りこそが、力強く、全宇宙に轟くのです。
 「初信の功徳」は小さな山です。「仏界の大生命力」は大きな山です。「小さな山」から「大きな山」に移る途中には、いったん「谷」を通らなければならない。それが三障四魔であり、さまざまな障害です。
 これを越えて、初めて成仏の「大きな山」に登れるのです。
9  「普く」開かれた「門」に入れ
 斉藤 観音品は、正式には「観世音菩薩普門品」。
 「普門」とは「あまねく」開かれた「門」です。だれでも入れる。だれでも受け入れてくれる。狭き門ではない。広々と開かれた門です。
 池田 一切衆生だれでも、悩んでいる人がいれば、その悩みの「世音」を「観」じるのが観世音です。
 指導者は、人の話をよく聞かなければならない。
 とくに男性は、女性の話を丁寧に聞かねばならない。「そうですか、そうですか」「よかったですね」「すばらしいですね」と謙虚に聞かなければ幹部失格、男性失格です。
 「聞かない」「うるさい!」じゃ、だめなんだ。なかには、話し出したら止まらない女性もいるけれども(笑い)。
 遠藤 女性にかぎらず、男性の話でも、グチとしか思えないこともありますが……。
 池田 末法は「愚癈の衆生」です。
 聞いてあげるしかない。「聞く」ことが修行です。また皆が何でも言いやすいような「雰囲気」をつくることも大事だ。″鬼も近づかない″ような恐い雰囲気では、どうしようもない。
 須田 政治家でも経営者でも、優れたりーダーは、人の意見に耳を傾けていますね。
 池田 日本で言えば、松下幸之助さんを思い出す。
 「自分は学問がないから」と言われて──じつは大変、博学な人だったのだが──よく人の意見を聞かれた。
 それも現場で苦労している人の意見に耳を傾けたことで有名です。
 須田 たとえば新製品を発売して「不評だ」と知ると、直接に工場に出向いて原因を技術陣とともに検討した。品質に問題がないとなると販売店に出向き、さらに消費者にまで会って、原因をみずから追究したということです。
 人から「あなたの地位ならば、担当の技術者や販売責任者を呼べばよいではないか」と言われると、「私が部下を呼んだら、部下は恐れて、私のところに来る前に解答を用意してくるでしょう。私のご機嫌を取るために、飾った報告をするかも知れない。私は予備知識がないから、その解答をうのみにする以外にない。それを恐れる。だから自分のほうから出かけるんです」(三鬼陽之助著『決断力』光文社。引用・参照)と。
 斉藤 さすがですね。人の意見でも、都合のいい話は聞きやすいですが、いわゆるマイナスの意見を聞くことはむずかしい。自分にとって苦い意見は遠ざけがちです。
10  「マイナス情報」を聞く
 池田 「マイナス情報」を喜んで聞けるかどうかが、指導者か独裁者かの分かれ目ではないだろうか。
 独裁者というのは、威張っているが、じつは気が小さい場合が多い。だから人の意見が聞けない。
 遠藤 「マイナス情報」に耳を貸さずに失敗した例は歴史上、数え切れません。
 須田 それだけで何百冊もの本になるでしょうね(笑い)。
 須田 優れたりーダーは共通して、マイナス情報が耳に入るように留意しています。
 中国の唐の第二代皇帝・太宗は優れた政治を行い、彼と臣下との問答が「貞観政要」という本にまとめられています。
 池田 有名だね。指導者の必読書といわれた。
 須田 どうして、そんな善政ができたかというと、要因のーつとして、「マイナス情報を積極的に集めるシステム」を作ったからと言われています。「諌議大夫」といって、皇帝や政府の過失を積極的に指摘するポストを作り、人々が安心して厳しい意見が出せるようにしたのです。(布目潮風『「貞観政要」の政治学』岩波書店。参照)
 池田 マイナス情報は、黙っていたのでは、リーダーの所まで上がってこない。だから、リーダーのほうから、それをさがすくらいの姿勢が必要です。
 斉藤 日本の歴史でも、九州・博多の「黒田藩」は有名です。黒田藩には「異見会」という非公式の会議があって、この場に限っては、たとえ藩主に対しても何を言ってもよいという慣習があったそうです。(童門冬二『情の管理・知の管理』PHP研究所。参照)
 封建時代に、こんな制度があったことは驚きですが──。
 池田 もちろん、意見の中には、見当はずれのものも多いかもしれない。しかし、この人がこういう考えを持っているという事実自体が、貴重な判断の要素となる。
 たとえ厳しい意見でも、喜んで聞いていく度量がなければ、指導者失格であるということを確認しておきたい。
 その意味では、観音品は指導者論としても読むことができると思う。
 斉藤 「聞き上手」の指導者ですね。
11  「聞く」「語る」ことで健康に
 池田 悩んでいる人は「聞いてもらう」だけで、ぐっと心が軽くなるものです。自分の話を親身になって「聞いてくれる」。そのこと自体が、生きる励ましになっていく。
 精神医学の統計でも、そういう結果が出ている。ストレスや、愛する人の死、その他の出来事で、心に深い傷を受けた人も、だれかそれを打ち明ける人がいた場合には、健康に生きられる率が極めて高いという。
 反対に、自分の苦しみについて、だれにも言えなかった人は、頭痛とか内臓疾患とか、さまざまな病気にかかる率が高くなる。
 ハーバード大学の心理学者(デビッド・マクレイランド氏)は、「最も深い感情を自分自身の心の中にしまっておく性向のある人は、″危機″に直面した際に、免疫系統の力を弱めるホルモンを放出する」ことを明らかにしたという。
 またヘブライ大学の精神科医(ジェラルド・カプラン氏)は、「強いストレスに対して心理的なサポートのない人たちは、サポートに恵まれた人たちに比べて、身体や心の病気にかがる率が10倍も高い」と結論しているそうだ。(ジュリアス・シーガル著『生きぬく力』小此木啓吾訳、フォー・ユー)
 遠藤 [人々のつながり」こそが、文字通り、「生命線」だということですね。
 須田 それも「直接会う」ことが大事だと思います。ある調査では、「インターネットの利用時間が長くなればなるほど、憂鬱になったり、孤独感を覚えがちになる」という結果が出たそうです。(米カーネギー・メロン大学の調査「読売新聞」一九九八年八月三十一日付夕刊。参照)
 斉藤 インターネットと言えば、本来は、世界中と情報交換でき、コミュニケーションできることが″売りもの″のはずですが。
 須田 ええ。アメリカでのこの調査も、その素晴らしさを証明するのが、目的だったようです。
 遠藤 ところが、予想外の結果が出てしまった。
 池田 やはり、人間は人間に直接、会わなければ、生命の触発はない、ということだね。
 斉藤 学会の組織が、どれほどありがたいところか──。
 池田 「孤独」になってはいけない。人を「孤独」にしてもいけない。悩みに寄りそって、その苦しい「心音」に耳を傾けてあげなければ。そうすることによって、じつは自分自身が癒されていくのです。
 人を受け入れ、励ますことによって、自分の心が励まされ、開かれていくのです。
 須田 たしかに、元気が出ないときでも、人を励ましているうちに、いつのまにか元気になっていることが、よくあります。
 池田 自他不二だから──。
 はじめ入会したころは、だれもが自分のことで精一杯であった。それは、ある意味で、観音にすがるような気持ちに通じるかもしれない。もちろん信じる対象が御本尊であることは根本的に違うが。
 自分の「悩みの声を聞いてもらう」──そうゆう境涯だった。それが次第に、今度は自分が人の「悩みの声を聞いてあげる」境涯に変わっている。観音にすがっている姿から、自分が観音菩薩に変わってしまう(笑い)。
 遠藤 すごいことです。
 池田 すごい妙法です。
12  「苦悩」の泥沼から「仏界」の蓮華
 池田 なぜ、そうなるのか。
 じつは、「幸福になりたい!」という切実な苦悩の声の中に、すでに「仏界」への芽ばえが含まれているのです。それを見抜くのが「観世音」の本義でもある。
 日蓮大聖人は「観世音」について、「観とは円観なり世とは不思議なり音とは仏機なり」と仰せだ。「世」とは十界の衆生です。「諸法実相の観世音なれば地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見するなり
 地獄の衆生のうめき声。その音声も「不思議世界」妙法の世界の音声です。十界互具だから、地獄は地獄そのままの姿で十界の当体であり、仏界の当体なのです。
 そう観るのが、観世音の「円観」です。「音とは諸法実相なれば衆生として実相の仏に非ずと云う事なし
 どんな人の、どんな悩みの音声であれ、「実相の仏」を、そこに観じなければならない。「諸法」という現実の泥沼の中からこそ、「実相」の美しき蓮華が咲くのです。すべての衆生が蓮華仏です。妙法蓮華経の当体です。そう観るのが「観世音」なのです。
 遠藤 そう言えば、観世音の像は手に蓮華を持っていることが多いです。
 池田 蓮華は「慈愛」の象徴とも言える。
 観音品に「慈眼をもって衆生を視る」(法華経六三八ページ)とある。「慈眼」で視るとは、単なる憐れみではない。「この人がじつは仏なんだ。それを自分で知らないで苦しんでいるんだ」と観る眼です。
 人はつねに苦しむ。「もう、だめだ」「おしまいだ」「自分は最低だ」「生きていても、しかたがない」──そう苦しんでいる。
 苦しんでいるのは、幸福を求めているからです。「幸せに生きたい!」というのは万人の本源の叫びなのです。その声を無視したり、差別しては、何のための宗教か。
 観世音とは、たとえば、商売が挫折しそうになって苦しんでいる時、救いを求める必死の「世音」に応えてくれる。助けてくれる。そうすることによって、より深い絶対的幸福──仏界へと導き入れてくれる。そういう久遠の本仏の慈悲を表している。
 斉藤 商売繁盛を願う心を「卑近」だとか「現世利益」だとか見くださないのですね。
 池田 見くださない。その「煩悩」を使って、仏界の「菩提」へと進ませる。向上へのエネルギーに変えていく。苦しい「煩悩」の必死の叫びの中にこそ、「菩提」への芽があると、本質を「円観」していくのです。
 斉藤 観世音──世音を「聴く」のではなく「観ずる」とされている意味が、よくわかりました。
 遠藤 耳で聴くだけでなく、生命全体の智慧で観ていくということですね。
 池田 観音菩薩には「真の観・清浄の観広大なる智慧の観悲の観及び慈の観あり」(法華経六三七ページ、趣意)と説かれている。これらがあるから、どんな人の声も軽視しないで、真剣に受けとめるのです。
 須田 その声に「仏機」──仏になる機根を観ずるわけですね。
13  「責任」とは「応答」すること
 池田 ともあれ、「聞く」ことはむずかしい。虚心に「聞く」ことを知っている人は、それだけで賢者です。
 「聖」という字も、耳をすませて宇宙の語る音声を聞くことを示している。そうできる徳を「聡」という。字に″耳″が入っている。「聞ける」人が聡明であるということです。
 とくに、リーダーは会員の皆さんの「声」に敏感に反応しなければならない。鈍感ではいけない。迅速に応じなければ。
 「責任」を意味する英語の「レスポンシビリティ」は、「レスポンド」すなわち「応答する」に由来する。民衆の声に、大誠実で「応答」してこそ「責任」者なのです。
 遠藤 その意味では、あまりにも「無責任」な政治家が多すぎます。
 須田 ″耳″が、もともと塞がっているとしか思えません。
 池田 だからこそ、民衆が大音声を上げなければならない。
 本来、民衆の声ほど、強きものはない。民衆の叫びほど、正しいものはない。民衆の怒りほど、恐ろしきものはない。
 観音菩薩は「三十三身」の身を自在に現すとされている。「梵王」「帝釈」の身にもなれば「小王」の身にもなると説く
 (観音は、次の三十三身をもって、世を救っていくと説かれている。仏身、辟支仏の身、声聞の身、梵天の身、帝釈の身、自在天の身、大自在天の身、天大将軍の身、毘沙門の身、小王の身、長者の身、居士の身、宰官の身、婆羅門の身、比丘、比丘尼、優婆塞(在家の男性信者)、優婆夷(在家の女性信者)の身、長者、居士、宰官、婆羅門の婦女の身、童男、童女の身、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩喉羅伽、執金剛神〈法華経六二八ページ〉)
 我ら民衆の声を聞き、声を観じ、観世音の慈愛をもった政治家が必ず出現するという依文です。また、そうさせていかねばならない。「民衆の叫び」が社会を揺り動かし、左右してこそ、「民主主義」なのです。

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