Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

如来神力品(第二十一章) 「文底」仏法…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  本当の「仏」はどこにいるか
 池田 ともかく「広宣流布に働いている人」を尊敬することです。
 どんな気どった有名人よりも、庶民まる出しで、わき目もふらず、広布に働いている人が尊貴なんです。何千万倍も尊貴です。
 格好ではありません。地位ではない。学歴ではない。
 「不幸な人を幸福にしていこう!」「広宣流布をやっていこう!」
 その「心」の強さが尊いのです。「心」は「心法」であり「法」です。宇宙も「妙法」の当体です。宇宙全体が「妙法」という大生命だ。
 我が「心法」を「妙法広宣流布」に向け、その一点に帰命していくとき、色心ともに妙法と一体の自分になっていくのです。広い意味で、「人法一箇」の軌道に入っていく。
 斉藤 「妙法」の軌道といっても、具体的には「広宣流布」の軌道ということですね。
 池田 もっと具体的に言えば、広宣流布をしているのは創価学会だけなのだから、「学会活動」の軌道ということです。
 広布の組織で、本当に苦労している人が、「人法一箇」の軌道に入っているのです。
 この項の冒頭の話にもあったが、社会で懸命に働いて疲れているのに、法のため、世のため、人のために、我が身に鞭うって行動している。尊いです。「外用」は、それぞれ会社員であるとか、主婦であるとか、いろいろです。しかし、その「内証」の資格は「地涌の菩薩」なのです。地涌の菩薩であるということは、「仏」だということです。
 「仏」と言つても、他には絶対にないのです。この一点が皆、なかなか、わからない。
 斉藤 今、お話ししていただいたなかに、私は法華経の「文底」の仏法のすばらしい特長が示されているような気がするのです。それは、ひとつには「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(「御義口伝」「神力品八箇の大事」の第一から)と言われる。″一切衆生こそが如来なのだ″という観点です。これは「文上」の寿量品では、はっきりとは示されていません。
 もうひとつは、内なる仏界の生命を原点として、九界の現実の中へ飛びこんでいく──そういう「従果向因(果=仏界より、因=九界へ向かう)」の仏法が可能になったことです。
 須田 それまでの仏教は、ひたすら成仏を目指して進む「従因至果(因=九界より、果=仏界へ向かう)」の仏法でした。これでは、どうしても「まず自分が仏になることが先決」ということで、社会の変革に″打って出る″という勢いは、なかなか出てきません。
 遠藤 実際の歴史のうえでも、仏教は「静的」で「消極的」な傾向をぬぐえなかったと思います。
 池田 「従因至果の仏法」というのは、わかりやすく譬えれば、「自分が大金持ちになったら、皆を助けてあげましよう」「自分が博士になったら、皆に教えてあげましよう」という仏法です。しかし、いつになったら、その日が来るのかわからない。本当に来るのかどうかもわからない(笑い)。これに対し、「従果向因の仏法」というのは、「最高の福徳」と「最高の智慧」を、ただちに相手に与えるのです。
 遠藤 南無妙法蓮華経に全部、含まれている──ということですね。
 池田 含まれている。″種子″だから。大聖人は「福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」と仰せです。
 須田 「文底」の仏法は、それまでと全然、違いますね。
 池田 全然、違う。その違いは、ほかにも、さまざまな観点から言えるが、今、教学部長が挙げた二点は大切です。もちろん、この二つは裏表の関係にあるわけだが。
3  「事顕本」と「理顕本」
 斉藤 はい。「一切衆生が如来である」という点についてですが、まず寿量品の「発迹顕本(迹を発いて、本を顕す)」をふり返ってみます。
 釈尊が今世の修行で成仏したという「始成正覚」を否定して、じつは五百塵点劫の昔から娑婆世界で説法し続けてきたと明かします。これを「事顕本」と呼ぶ場合があります。
 池田 「理顕本」に対する言葉だね。御義口伝にある。
 須田 はい。「随喜功徳品(第十八章)」の「随喜」について「随とは事理に随順ずいじゅんするを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百塵点の事顕本に」とあります。
 遠藤 「法師功徳品(第十九章)」の御義口伝にも「寿量品の事理の顕本」と仰せです。
 池田 事理の顕本については古来、天台宗等でも、いろいろな議論があるが、端的に言うと、どうなるだろうか。
 斉藤 はい。一般に、「事」とは現象として現れたものであり、「理」とはその現象の奥にあって目に見えない理法とか理体を指します。
 今の場合、「事顕本」とは、寿量品の説法そのものです。「五百塵点の事顕本」とある通りです。これに対し、「理顕本」とは、文上には、はっきりと説かれていないけれども、「事顕本」が内々に示している「久遠元初の自受用報身如来の顕本」を指すと言ってよいと思います。
 池田 結論的には、そう言えるでしょう。「分別功徳品(第十七章)」の「御義口伝」に、(一念信解の)信解について、こうあった。
 「信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり」云々と。
 理顕本は、はっきり説かれていないから「信ずる」しかない。それは、とりもなおさず事顕本の本義を「解した」ことになるのです。
 須田 寿量品の説法(事顕本)を聞いて、人々は何を悟ったのか。それは「理顕本」だということですね。
4  池田 「顕本」などというと難しく感じるが、「自分の本領を発揮する」ということです。日本の時代劇で言えば、「水戸黄門」です(笑い)。最後に「正体」を現すでしよう。あれは一種の顕本と言ってよい(笑い)。
 遠藤 ただの「隠居じじい」だと思っていたら(笑い)、じつは「前の天下の副将軍だった」と。たしかに顕本です。
 須田 悪人はぎよつとして腰を抜かし(笑い)、善人は大喝采。これは「顕本」の功徳ですね(笑い)。
 池田 もちろん譬えていえば、です。外国の小説でいえば、巌窟王として有名な「モンテ・クリスト伯」。博学で大富蒙の伯爵が、「正体」はエドモン・ダンテス青年の変わった姿だと明かすシーンです。これも一種の「顕本」と言えるかもしれない。まあ、復讐のためのドラマではあるが……。
 斉藤 水戸黄門を、それまで軽く見ていた人が、「えっ」と驚く(笑い)。
 法華経でも、はじめ文殊菩薩とかの大菩薩ほ、釈尊の弟子ではなくて、他の仏の弟子ということになっています。そこで釈尊を「成仏したばかりの新仏」のように見ているわけです。それがじつは久遠からの仏なんだと教えられ、そういう迷妄を打ち破られます。
 遠藤 そうすると、例の「助さん」「格さん」というのは、「脇士」ということですね(笑い)。
 池田 だから「黄門さま」の正体を知っている人は、「脇士」を見ただけで、どきっとする(笑い)。
 須田 「あっ、これは裏に″親分(黄門)″がいるんだな」と(笑い)。
5  斉藤 事顕本と理顕本の関係も、それに似ているかもしれませんね。釈尊の「事顕本」を見て(聞いて)、わかりの早い人は、その裏にある「理顕本」までわかってしまったということです。
 池田 御本尊の相貌は、中央の「南無妙法蓮華経日蓮」の脇士として、釈迦如来と多宝如来が示されている。そのまた脇士として地涌の四菩薩が示され、重々の脇士になっている。
 事顕本は、この脇士の「釈迦如来」の一身のことです。五百塵点劫という、はるかな昔に成仏しましたという「本果」を示した。
 また、その本果の功徳として、長遠の寿命と、あらゆる衆生を救う無限の智慧と慈悲を示した。その説法を聞いて、では、その偉大な「本果」とは、いかなる「本因」から生まれたのか、本果の功徳が帰する「根源」は何か──それがわかったのが、理顕本を悟ったことになる。
 遠藤 久遠の成仏の原因については、寿量品に「我本行菩薩道(我本、菩薩の道を行じて)」(法華経四八二ページ)とだけありますが、その文の「文底」に、成仏の「本因」ある。これが「文底」の意味です。
 須田 天台宗でも、文上・文底という言葉こそありませんが、これに通ずる考え方は、すでにはっきりあります。それが「事用顕本(事顕本)」「理体顕本(理顕本)」です。
 また「教相顕本」「観心顕本」という立て分けをする門流もあります。示そうとしている方向性は同じです。
 斉藤 経文の表面に現れていない″真実の顕本″がある──ということですね。
 池田 それは何か。
 寿量品での説法は、釈尊個人についての「顕本」です。
 「人間・釈尊」が自分の「生命の本質」を示したといってもよい。これは、あくまで「個人としての」顕本です。
 しかし「文底」の顕本は、これとまったく違う。けたはずれに違う。それは全宇宙的な顕本です。凡夫から仏まで、十界の一切衆生の全体の顕本なのです。
 「文上」では、五百塵点劫の昔から説法教化し続けている「永遠性の仏」が示された。
 須田 「久遠実成の釈尊」です。
 池田 しかし永遠性といっても、完全に永遠ではない。どこまでも「有始(始めがある)」の仏です。だから無始無終の宇宙即妙法と一体とは言えない。″すき間″がある。ゆえに、文上の仏は「法勝人劣(法が勝れ、人が劣る)」です。
 寿量品の真意は、この「永遠性の仏」を通して、完全なる「永遠の仏(久遠元初の自受用身)」を示唆するところにあったのです。この「永遠の仏」は無始無終の妙法と一体です。宇宙の大生命そのものであり、「人法一箇」です。
 遠藤 ということは、宇宙の一切衆生が、そのまま「永遠の仏」だということになります。
 池田 生きとし生けるものが本来、仏なのです。これが寿量品の叫びです。これに目覚めよと法華経は訴えているのです。
 斉藤 整理しますと、文上の顕本は「釈尊個人の顕本」、文底の顕本は「全法界(十界)の顕本」──こうなります。
 須田 スケールも深さも、全然、違いますね!
 池田 まるっきり次元が違う。本門と迹門の違いが「水火天地の違目」と言われている真意は、文底の顕本を知って初めてわかるのです。
 遠藤 「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」と大聖人が言われた本義も、文底の次元から言われているわけですね。
6  「文底」が説かれて仏法は完結
 斉藤 前項で、仏教の歴史を「仏因の探求」という観点から語っていただきましたが、その探求の究極が「寿量品の文底」にあるという結論になります。
 ここまで至らないと、「生きとし生けるものを仏にしたい」という釈尊の願いも完結しません。
 池田 寿量文底の「仏因」とは、言うまでもなく無始無終の妙法であり、南無妙法蓮華経です。
 これは「仏因」であると同時に「仏果」です。「因果倶時・不思議の一法」です。これを寿量品の説法を聞いて覚知したのです。
 寿量品を、虚空会上の″三十二相の、きらびやかな釈尊の話″と思ったら間違いです。その色相荘厳の仏を見上げているだけなら、所詮は″他人ごと″になってしまう。
 そうではなく、五百塵点劫の説法で、どんどん過去にさかのぼっていったあげく、自分の究極の″原点″は、釈尊の″原点″と同じであったと分かったのです。″虚空″を見上げていて、はっと″足もと″に気づいたのです。
 これが「等覚一転名字妙覚」です。
 (成仏の本因が南無妙法蓮華経如来であることを述べた文。等覚という最高位の菩薩でも、久遠元初の妙法を覚知して、「等覚」から一転して「名字即」という凡夫の位になり、そこから直ちに仏の位である「妙覚」になること)
 須田 一段一段、成仏を目指して階段を上った果てに、じつは「出発点」に戻った。自分を生み、支えている宇宙生命そのものを自覚したということになります。
 遠藤 「具騰本種」というのも同じ意味ですね。
 (「つぶさに本種をぐ」と読む。妙楽大師の言葉。成仏の根本原因=本種は、寿量品の文底に蔵されており、この本種を覚知したがゆえに法華経の会座の衆生も、成仏したとする)
 斉藤 その「本種」が「南無妙法蓮華経」である。それを目覚した。
 池田 文上を聞いただけで文底がわかった。そういう機根の衆生は、それでいい。しかし、わからない機根の衆生は、どうするのか。これが「滅後の弘教を上行菩薩に託した」理由です。
 上行菩薩という「菩薩仏」──すなわち「因果倶時・不思議の一法」を、その身に体現している人が、「因果倶時・不思議の一法」を弘めるのです。
 仏法では必ず「説かれる法」と「説く人」が一致しているのです。
 斉藤 「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」ともあります。
 (中国・唐時代の天台僧・道暹の『法華文句輔正記』の言葉。大聖人も観心本尊抄〈御書二五〇ページ〉などで引用されている)
 池田 日蓮大聖人は「本果妙の釈尊・本因妙の上行菩薩を召し出す事は一向に滅後末法利益の為なり」と仰せです。
 末法の機根の衆生には、まっすぐに、そのまま、成仏の「本因」を、久遠元初の妙法を説くのです。そのための如来神力品の付嘱です。ゆえに如来神力の「如来」の元意は、釈尊だけのことではなく「一切衆生」のことになる。
 「神力」とは「生命の力」です。凡夫を代表とする「一切衆生」の本当の「生命の力」を示したのが如来神力品なのです。それを示すために、全宇宙的儀式の「十神力」が説かれた。
 遠藤 三十二相の「色相荘厳の仏」は、そのことに気づかせるための「仮の仏(権仏)」だということですね。
7  「釈尊程の仏に、やすやすと」
 池田 三十二相というのは、インドの民衆が尊敬する条件というか、理想像を集めたものです。″まず、仏への畏敬と恋慕の心を起こさせる″ために、そう説いたのです。それ自体が実在なのではない。凡夫が仏だと自覚させるためです。
 「我が身の上」と、「十如是事」にもあったでしよう。
 (「此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり」)
 ″青い鳥″の話ではないが、「幸福」を遠いところに求めて、さがしあぐねたはてに、自分の家という一番身近なところにあったのです。幸せは、どこか遠いところにあるのではない。自分が、自分らしく、本然の仏界の生命力を燃やしていくのが「幸福」です。
 何があろうとも、前へ前へ、「自分の今世の使命を果たすのだ!」と進んでいく。その「信心」が「仏界」であり、永遠の「幸福」なのです。
 三十二相とかは、今でいえば、「学歴」とか「名声」とか「地位」とかに当たるかもしれない。それらは、ある場合は、妙法の偉大さを人に教えるために、役に立つことがあるかもしれない。そういう姿を見て、尊敬の心を起こす人もいるからです。しかし、絶対にそれらが「目的」ではない。
 自分をそういうもので″飾っている″限り、本当の″人間としての力″は鍛えられない。本当の信心はわからない。仏法はわからない。そういう「見えっぱり」は「提婆達多の心」です。御書に、提婆が自分も三十二相で飾ろうとする話があったでしよう。(御書一〇四四ページ)
 須田 はい。
 提婆達多には三十二相のうち三十相まであって「二相」が欠けていた。「白毫」相と「千幅輪」の相です。そこで、″これでは釈尊より劣っているので、軽く見られてしまう″と思い、一計を案じます。「螢の火を集めて眉間につけて」白毫だといい(笑い)、「鍛冶屋に菊の形をつくらせて足につけ」千幅輪の代わりにしたのです(笑い)。
 池田 ところが足をやけどしてしまった(爆笑)。面白い話だね。提婆の本質がよく出ている。それは釈尊に対する「焼きもち」であり、自分を飾ろうとする「虚栄」です。多くの退転者・反逆者も、皆、これだった。また「身はをちねども心をち」ている人も、たくさんいます。
 本当の仏法者は、飾りません。ありのままの姿でいくのです。信心の世界に、学歴とかそんなことは何の関係もない。そんなものにこだわる慢心があれば、かえって信心の邪魔になる。本当の信心は捨て身です。自分をかばうのではなく、不惜身命で「難」に向かって進んでいくのが、本当の日蓮仏法だ。
 ″凡夫こそ本仏なり″と説く本因妙の仏法をそのまま行じたならば、創価学会の一大民衆運動になる。″自分を飾り立てた権威・権力″と戦う「民衆仏法」こそが、法華経の真意なのです。
 斉藤 はい。三十二相というのは「世情に応じた」姿とされています。随他意です。文上の釈尊が自受用身でありながら「応仏昇進の自受用身」と言われる理由のひとつも、そこにあります。(応仏昇進とは、小乗の劣応身から、大乗の勝応身、別教の他受用身、法華経本門の自受用身へと順に昇進したという意味)
 池田 同じ自受用身でも、「久遠元初の自受用身」とは、まったくスケールが違う。一方は個人性を引きずった仏、一方は全宇宙を体とする仏です。
 遠藤 こうして学びますと、あらためて文底の仏法の素晴らしさに圧倒される思いです。かりに「進歩」という言葉を使うとすれば、仏教の進歩の頂点です。
 池田 どんなに機根の悪い衆生でも救える大仏法です。「病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし重病には仙薬をあたうべし」。また「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」と、御書にある。少しも″薄めていない″灘の生一本の(笑い)、久遠そのものの妙法です。三世十方の一切の諸仏を「仏」にした「本種」です。
 だから大聖人は、この本種を持てば「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と言われている。なみなみならない御言葉です。この一言を本当に確信したならば、人生、行き詰まるわけがない。仏です。勝てないわけがない。
 ″落ちこんでいる″仏なんかいません(笑い)。苦悩に負けて、希望をなくした仏もいない。何があろうとも、「そうだ、自分には妙法があるんだ。乗り越えられないわけがない!」と勇気を奮い起こして進むのです。その″戦う心″さえあれば、煩悩即菩提で、必ず、大きく人生が開けてくる。
 「種子」は小さい。しかし何十メートルという巨木でも、ひとつの「種子」の中に全部、要素が入っている。″種子の神秘″です。「南無妙法蓮華経」という成仏の本種を心田に植えて、育てれば、福智ともに限りがないのです。
 戸田先生はよく御書講義で「皆さんのもらった功徳は小指くらいだ。それに比べて私は、この会場一杯の功徳をいただいている」と言われていた。私も同じ気持ちです。
8  「心」がどうかで全ては決まる!
 斉藤 池田先生は、世界の大学からの名誉博士号(名誉教授称号を含む)だけでも六十近いわけですが、普通では考えられないことです。(=二〇〇一年二月現在、二百四)
 池田 全世界の学会の同志の福徳の象徴として、受けとめてもらいたい。
 私は大学に行けなかった。青春を戸田先生に捧げました。先生の事業が失敗したゆえに、私は大学へ行く予定を変更した。「先生、何も心配なさらないでください。私が働いて、全部、立派に立て直します。どうか、ご安心ください」と言いました。言った通りに、全部やりました。どん底であった創価学会を、世界の創価学会にしました。戸田先生、牧口先生を世界の偉人として宣揚しました。
 戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることであり、仏法を守ることであった。それ以外に道はなかった。自分中心ではなく、戸田先生中心に私は生き抜き、尽くしきった。「師弟の道」に私は徹しました。
 先生を支えるために、喜んで進学まで断念したその「心」が今、世界の大学の名誉博士号となっていると私は信じている。因果の理法は、厳然としています。
 須田 後世永遠に残る仏法証明のドラマだと思います。
 池田 「心」です。徳勝童子は、砂の餅を釈尊に供養した「心」によって、アショーカ大王と生まれたのです。
 遠藤 先ほど″飾らない″というお話がありましたが、「心」がどうか、本当に「人間としての力」があるかどうかですね。
 池田 日蓮大聖人が社会の″最底辺″の庶民としてお生まれになった意義を、よくよく考えなければならない。
 「世情に応ずる」随他意の仏法を説くのであれば、貴族とか名家に生まれたほうがよかったかもしれない。しかし「民が子」(御書一三三二ページ)として、お生まれになった。あれほどの大難が続いた理由のひとつは、大聖人が貴族の家のご出身でなかったことがあるでしよう。
 遠藤 大聖人は御自身のことを「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり」と仰せです。
 池田 逆縁の仏縁を結ぶためにも、あえて大難を受け、大難を忍ばれた。その大慈大悲を忘れて、門下生までもが大聖人を小バカにした。
 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん」がいたのです。
 (「日蓮を信じているようだった者どもが、日蓮がこのように〈流罪の身に〉なったら、疑いを起こして、法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、「自分のほうが賢い」と思う、心の曲がった人間ども」)
 情けないことだ。師弟の道をなくしたら、仏法はもはやない。
 斉藤 そういう増上慢の人間の末路を、こう仰せです。
 「念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」(「念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちているであろうことは不憫としか言いようがない」)
 これは現在も未来も変わらぬ法則です。
 池田 ともあれ、凡夫だからこそ凡夫の心がわかる。庶民だからこそ庶民の心がわかる。日蓮大聖人は、あえて一番、虐げられた庶民──「旃陀羅が子」として誕生なされたのです。
 この夏(一九九八年)で終戦から五十三年になる。あの沖縄戦で、こんな話があった。それは″沖縄にいた日本軍の将校や兵士の多くが、沖縄の人々への差別意識をもっていた。しかし、アイヌ出身の兵士だけは、そうではなかった″と言うのです。
 斉藤 私も「日本軍は、自分たちのわからない沖縄の言葉で話している県民を、スパイ呼ばわりして殺した」とか、信じられない、ひどい話を聞いたことがあります.
 池田 アイヌ民族の兵士は、違った。どうして違ったのか。それは自分たちも差別を受けていたからだと思う。
 軍隊のなかでも差別され、虐待もあったようだ。だからでしょう、沖縄の人々に対して親切であったし、たくさんの住民の命を救ったと伝えられています。崇高です。
 須田 すばらしい話ですね。永遠に「民衆の側に立つ」、永遠に「虐げられている人の側に立つ」──これが本当の人間性だと思います。
9  周総理「皆がいるから私もある」
 池田 本当の人間性が、本当の仏法です。それ以外にない。あの周恩来総理は、「部落解放同盟」の代表が中国を訪問されたとき(一九六二年)、何と言われたか。団長が、多忙な総理が時間を割いてくれたことに感謝を述べると、こう言われたのです。
 「何をいいますか。日本の中でいちばん虐げられ、いちばん苦しんでいる人たちが中国に来ているのに、その人たちと会わない総理だったら、中国の総理ではありませんよ」(『人権は世界を動かす──上杉佐一郎対談集』解放出版社)
 また総理は、あの長征のとき、自分の食糧まで兵士に分け与えてしまった。これは、日中友好の先達のお一人が、総理の護衛兵の回顧談として紹介されたことです。
 それによると、総理の一団は、四川省(スーチョワン)の湿地帯を進まねばならなかった。そこを通過するまで、人家もなく、何日も食べるものもない。非常食として「牛肉を煮て乾して、それをほどいたものを一袋」と、「麦を炒って粉にしたものを一袋」持っていった。どこでも、水かお湯に浸せば食べられるものです。
 一団は皆、食べられる野草などを見つけながら、しのいだが、そのうち栄養失調になってきた。すると総理は、牛肉をあげなさい、と自分の分をみんなに分けてしまった。
 状況はさらに過酷になり、夜は元気だった同志が、翌朝には冷たくなっている、という厳しさだった。総理は護衛兵に、麦焦がしをあげなさいと命じた。
 ところが、護衛兵は皆に与えようとしない。「なぜ、やらないんだ」と総理が責めると、護衛兵は「これをやってしまったら、あなたは何を食べるんですか」と抗議した。
 総理は護衛兵に近寄って、諭すように言った。「みんながおるから私もあるんだ。一人でも生き残るものが多ければ、それで革命の大義ができるんだ。是非やれ」。護衛兵はやむなく皆に与えたが、数日たって湿地帯を抜け、やっと人里にたどり着いたという。(伊藤武雄・岡崎嘉平太・松本重治『われらの生涯のなかの中国──六十年の回顧』阪谷芳直・載國煇編、みすず書房。同書の岡崎氏の発言を引用・参照)
 これが本当の指導者です。本当の同志愛です。同志の絆は、親子、兄弟よりも尊い。「血のつながり」ではなく、目的を同じくする「正義のつながり」です。これが人間の人間たるゆえんです。
 指導者は″皆がいるから自分がいる″のです。自分中心ではなく、だれよりも率先して、目的のために、わが身を捧げていくから指導者なのです。それが反対に、自分のために民衆を利用する指導者が多すぎる。そういう悪と戦うために創価学会はある。
 そういう「民衆の敵」と戦わずして、成仏はない。仏敵という「一凶」と戦わずして、広宣流布はない。
 「万事をさしおいて謗法を責むべし」と、大聖人は厳しく言われている。
10  斉藤 とくに「法華経の行者」を誹謗する罪は、あまりにも大きい。
 法華経には釈尊滅後の「法華経の行者」を謗ずる罪は、仏を一劫の間、誹謗し続ける罪よりも大きいと説かれています。″凡夫″である行者を誹る罪のほうが、″仏″を誹る罪よりも大きい。ちよつと聞くと不思議です。
 一切諸仏を仏にした「根源」の妙法を、そのまま弘めるのが「末法の法華経の行者」なのだということがわからないと、理解できないことです。
 池田 その通りです。もちろん、別しては日蓮大聖人の御ことであるが、大聖人に連なる私どもも、最高に尊貴な人生を生きているのです。
 戸田先生は言われた。
 「必ずやこのとき、大聖人様の命を受けたる折伏の大闘士が現れねばならぬ、と余は断ずるのである。この折伏の大闘士こそ、久遠元初においては父子一体の自受用身であり、中間には霊鷲山会において上行菩薩に扈従こしょう(=お供)して、主従の縁を結び、近くは大聖人様在世のとき、深き師弟の契りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親三徳の御本仏を妄語の仏ならしめずと固く誓って、不自惜身命の行を励むにちがいないと固く確信するものである。わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである」(『戸田城聖全集』3)
 人間として生まれて、これほどの誇らしい「最高善」の人生はない。
 遠藤 私たち学会員は、皆、すごい使命をもって生まれたのですね、神力品のなかで、上行菩薩の活躍の姿をこう描いています。「太陽と月の光明が、もろもろの闇を除くことができるように、この人は世間の中で行動して、衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必ず妙法に到達させることができる」(法華経五七五ページ、通解)
 今、日本も、世界も、先が見えないような闇が覆っています。だからこそ、私たちの出番だと思います。
 池田 そうです。闇が深ければ深いほど、「太陽の仏法」が光り輝くのです。
 須田 チャンスですね。
 池田 大勢の人々を救っていくチャンスです。
 「畢竟して一乗に住せしめん(最後に必ず妙法に到達させることができる)」というのは、「広宣流布」のことです。(「御義口伝」に「畢竟とは広宣流布なり」と)
 そのために私どもは、願って、この世に生まれてきた。その今世の使命に向かって、生きて生きて、生き抜くのです。その「勇猛精進」の心が輝いていれば、不老不死の生命力がわく。
 「勇猛」とは、最高の勇気です。「精」とは無雑。精米というように、純白な、汚れない信心の心です。「進」とは無間。間断なき行動です。たゆむことなく前進また前進することです。「精進」です。「南無妙法蓮華経は精進行なり」です。間断なく戦い続ける、その信心に「如来神力」は湧現する。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」です。
 ″億劫の辛労″です。一年や二年分の辛労ではない。
 心をくだき、身を粉にして、広布のために苦労することです。「世間に行じて」です。「社会の中で行動する」のが神力品の付嘱を受けた地涌の菩薩です。
 日蓮大聖人直結の「広宣流布の組織」で、気どらず、飾らず、苦労に苦労を重ねて生き抜いている人。その人こそ、いかなる有名人よりも尊き、末法における″如来の使″なのです。また″如来″なのです。

1
2