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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 「凡夫こそ本…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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16  「仏とは人間」への大転換点
 池田 話は、まだ終わらないんだ(笑い)。
 読者も大変だけれども、むずかしいところは、飛ばして読んでもいいから──。
 仏教史の流れを、ごく大づかみに言うと、こう言えるでしょう。
 いわゆる「原始仏教」は、生身の人間・釈尊が出家者に遺した戒法を持つことに、力を注いだ。いわば「保守」です。その結果、かえって、釈尊の真意──みずからの「仏因」を示して、皆を仏にしたいという──を見失いがちであった。
 一方、大乗仏教は、釈尊の「仏因」を探究し、「永遠性の仏」を追究した。いわば「革新」勢力です。その結果、阿弥陀仏とか盧舎那仏とか、真言の大日如来とか、多くの「長遠の寿命をもつ仏」が説かれた。
 これらは、法華経の眼から見るならば、「無始無終の無作三身如来(南無妙法蓮華経如来)」の一面、一面を説いているとも言えるでしょう。
 しかし、「永遠性の仏」を追究するあまり、原点の「人間・釈尊」と切り離されてしまった。否、「人間」そのものから離れてしまった。
 須田 たしかに、阿弥陀仏はこの娑婆世界にいない「他土」の仏だし、大日如来は法身仏であり、身相をもたない仏です。人間とは隔絶しています。盧舎那仏も、広大な智慧身(他受用報身)として説かれ、凡夫とは、はるかにかけ離れた存在になっています。
 池田 小乗と大乗には、それぞれ、こういう限界があった。この両者を統合し、両方の限界を打ち破ったのが「法華経」です。
 すなわち「人間・釈尊」が、その「本地」を「久遠実成の仏」であると明かす。そのことによって、″身近でありながら、永遠性にして偉大な仏″を示す道を開いたのです。それは、釈尊その人の原点に戻ったとも言える。
 須田 「発迹顕本」は「人間・釈尊に返れ」という意義があるということは、以前にも語っていただきました。
 池田 「人間・釈尊に返れ」とは、「人間に返れ」ということです。「人間の尊貴さに目覚めよ」ということです。
 斉藤 法華経は、小乗と大乗の両方を「統合」した経典ですね。
 池田 そうです。発迩顧本によって、すべての諸仏を「久遠実成の釈尊が教化してきた仏」として統一した。これが本門です。諸大乗経を統一している。
 迹門では、小乗の担い手であった二乗の成仏を説いた。その根拠は、一切の諸法を「実相」の一理のもとに統一したからです。
 遠藤 諸法実相です。
 池田 しかも、逆門の「諸法の統一」と、本門の「諸仏の統一」は対応している。
 どちらも「妙法」のもとに統一されたのです。
 斉藤 それまでの仏教史の進歩の「頂点」にあります。まさに「経王」ですね。
 池田 その進歩はしかし、まだ止まらない。それが法華経の「文底」の仏法です。
 いよいよ、次回は「なぜ文底仏法が必要なのか」を論じよう。
 「凡夫こそ本仏」──仏教史を画する、根本的な転機(ターニング・ポイント)は、文底仏法によって、初めて現実となるのです。

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