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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 上行菩薩への…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  諸仏を生んだ「根源の師」
 池田 前回、神力品の「十大神力」を学んだが、その続きを見てみよう。
 遠藤 はい。十神力とは、(1)仏が舌を天まで伸ばし、(2)体から無数の光を放ち、(3)諸仏が一斉に咳払いし、(4)一斉に指を弾いて鳴らし、(5)その咳払いと指の音で、十方の諸仏の世界の大地が震動し、(6)十方の世界の衆生が裟婆世界の仏の姿を見て歓喜し、(7)空中から大きな声がして「釈迦仏を礼拝せよ」と呼びかけ、(8)その呼びかけに応じて、もろもろの衆生が合掌して、釈迦仏に帰命し、(9)十方世界から、種々の華や香、あらゆる宝物が娑婆世界に届けられ、それらが集まって宝の帳となって十方の諸仏を覆い、(10)十方の世界の隔てがなくなって、一つの仏土になつた。
 要するに″娑婆即寂光″の姿であり、広宣流布の姿です。
 今回は、その続きですが、釈尊はここで驚くべきことを言います。
 「諸仏の神力は、このように無量無辺であり、不可思議である。しかし、付嘱のために、この神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祗劫の間、この経の功徳を説いても、説き尽くせないのだ」(法華経五七一ページ、通解)と。
 斉藤 ある意味で、十神力は、このことを言わんがために説いた面があると思います。
 池田 これは単に、法華経の功徳を賛嘆しているのではない。
 じつは、仏の滅後に、この経を持つ人、すなわち上行菩薩の功徳を賛嘆しているのです。それがポイントです。
3  須田 そのことは、神力品の「偈(詩)」の部分に示されています。
 「是の経を嘱累せんが故に
 受持の者を讃美すること
 無量劫の中に於いてすとも
 猶故尽くすこと能わじ
 是の人の功徳は
 無辺にして窮りあること無けん
 十方の虚空の
 辺際を得べからざるが如し」(法華経五七四ページ)
 遠藤 この直前に「仏の滅度の後に能く是の経を持たんを以っての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じたもう」(同ページ)とあります。ですから、仏の滅後の「受持の者」すなわち地涌の菩薩なかんずく上行菩薩のことを賛嘆しているわけです。
 須田 その功徳は「無辺」にして、限りがない。宇宙に限りがないのと同じである──と。
 池田 全宇宙を揺るがす仏の大神力をもってしても、上行菩薩の功徳を驚嘆しきれない──という。これは、ただごとではありません。
 しかも、諸仏が「無量の神力」を現じたのも、将来、仏の滅後に、上行菩薩がこの経を持っていくことに対して、歓喜したからだという。いわば、上行菩薩の未来での活躍を祝福しての十大神力です。
 斉藤 これだけを見ても、上行菩薩が、仏法上、特別な、なみなみならぬ存在であることがわかります。しかも、宝塔品で、多宝の塔が出現して以来、すべての説法が、この「上行菩薩への法の付嘱」という一点を目指して進んでいるわけです。
 「法華経とは何か」を解く「鍵」は、この上行菩薩にあると考えられます。
 遠藤 釈尊が「仏の神力でも賛嘆し尽くせない」と言ったのは、長行では「此の経の功徳」であり、偈文では「受持の者(上行菩薩)」です。
 一方では「法」であり、他方では「人」ですが……。
4  池田 飛躍した言い方になるが、緒論から言えば、人法一箇の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。
 南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。
 同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。だから、ここでは南無妙法蓮華経如来を賛嘆してもしきれないと言っていると拝してよい。南無妙法蓮華経如来は、諸仏を生んだ「根源の師」ですから、師匠を讃えていることでもある。
 須田 そうしますと、大宇宙を揺るがす神力をもってしても、讃えきれないのも、道理です。「如来の神力」といっても、「神力」は用(働き)、「如来」は体(本体)であり、その如来を生んだ根源が、南無妙法蓮華経如来なのですから。
 池田 しかも、宇宙と一体の仏であるゆえに、私ども一切衆生もまた南無妙法蓮華経如来の一部である。われわれ十界の衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来なのです。これを教えてくださったのが、日蓮大聖人です。教えてくださったのだから「教主」です。ゆえに、日蓮大聖人の仰せの通りに題目を唱えれば、その声は全宇宙に轟く。
 「小さな声であっても、優秀なマイクを使えば、大きな声になる」ように、私ども凡夫の一念を南無妙法蓮華経に込めて放てば、宇宙の一切が揺り動かされていく。
 「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」とある通りです。(日寛上人「観心本尊抄文段」文段集四四三ページ)
 日蓮大聖人は、題目を唱える人は、「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せだ。なみなみならないお言葉です。妙法は「諸仏の根源」であるゆえに、そう断言されているのです。だから、絶対に、「祈り」はあきらめてはならない。
 「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」です。「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く」祈ることです。
 遠藤 「祈ってはいるのですが、なかなか叶わない」という人には……。
 池田 大事なことは、日寛上人が仰せのように、題目には「信の題目」と「行の題目」があることだ。同じように題目を唱えていても──唱えるのは「行の題目」に当たる──御本尊の功徳を「確信」しているかどうかで、結果は変わってくる。この「信の題目」が大切なのです。
5  ″妙法に限界はない!″
 須田 神奈川の白樺会の方の体験が、ちようどいい例になるかもしれません。
 大学の付嘱病院で師長をしておられる白樺会の方が、東京のTさん夫妻について相談を受けました。そのご主人は、建築会社に勤務する四十代の男性で、一九九六年(平成八年)秋に、脳幹部の腫瘍で手術を受けたのですが、腫瘍を全部、摘出することは不可能だったようです。
 彼の発病をきっかけに奥さんが入会し、回復を祈りました。ところが九七年の夏ごろから、頭痛と吐き気がひどくなり、痙攣が続くようになったのです。医者は「腫瘍の転移はないが、頭に水がたまっているためにそうした症状が起きている。水をとる手術が必要です」と奥さんに告げました。
 ご主人は、支えられてやっとの歩行で、「お父さん」と呼びかけても「アー、ウー」と会話にならない状態でした。そして、奥さんは地区婦人部長さんに、「一年間、お題目を唱えたけれども夫はよくなっているのだろうか……」と語ったと言うのです。それで地区婦人部長さんは、前出の白樺会の師長に相談しました。師長は、こう答えました。
 「転移がなかったということが、題目の功徳なんです。すごいことです。治るだろうか、通じるだろうか、というのは奥さんが自分の生命に作った壁にすぎません。ご主人の生命の限界ではないんです。今こそ強い祈りが大事ですよ! 迷いの生命ではなくて、どれだけ一念をこめられるかの戦いです。ご主人の病巣に、お題目を注ぎ込むような祈りが必要なんです!」
 遠藤 明快な指導ですね。
 白樺会の方が、体験に基づいて語る指導は、説得力があります。
 須田 ええ。地区婦人部長さんは、さっそくTさんの奥さんに伝えました。奥さんの祈りがますます真剣になりました。
 すると、その夜、ご主人の体に変化が起きたのです。突然、尿が増え、涙と鼻水が止まらず、枕がダメになるくらい、ぐっしょり濡れました。これが三日間続き、四日目には、驚くほど回復され、ご家族と普通に会話ができるようになり、足どりもしっかりと歩行できるようになったと言うのです。
 主治医も驚いて再検査をしましたが、見事に回復し、手術も必要ありませんでした。
 すっかり元気になり、中一の息子さんは「題目はすごい! だからぼく、創価学会に入りたい。今すぐ入りたい」と言って、小学生の妹にも仏法を勧めて、兄妹いっしよに入会しました。
 斉藤 すばらしい体験ですね。同じ祈りでも、「確信」が大事だということを改めて教えていただきました。
6  「師弟の勝利!」「信心の勝利!」
 遠藤 たしかに題目の功徳を、いつのまにか自分で区切ってしまっていることが、あります。「祈りとして叶わざるなし」の仰せを、文字通り、そのまま「確信」することが大事ですね。
 池田 その通りだ。いわんや、広宣流布を目指して戦っている人の祈りが、かなわないわけがない。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と、大聖人は言われている。
 「同意」とは「広宣流布」です。広宣流布のため働き、広宣流布のために「信心の勝利」の実証を示そうと立ち上がるとき、言うに言われぬ大功徳が身にあふれてくるのです。
 会社だって、会社のために働くから「給料」をくれるのです。御本尊の願いである広宣流布のために働くことによって、その結果、「功徳」がある。これが道理です。
 あれがほしい、これがほしい、と、まるで御本尊に功徳を与える「義務」があるみたいにいう信心を、戸田先生はよく「乞食信心」と言われた。勇んで、「広宣流布のために、私は命をかけて戦います!」と立ち上がれ、と。
 御本尊を、妙法を、命がけで守ろうとする信心によって、自分が三世十方の仏菩薩から守られるのです。妙法を広宣流布している創価学会を勝利させようという信心の真剣さに応じて、無量の諸天が、仏菩薩が、真剣にその人を守るのです。
 戸田先生は、師匠の牧口先生とともに牢獄へ行ったとき、何と祈られたか。
 「わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く、出られますように、わたくしは、いつまで長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように」と、朝夕、祈られたのです。何と崇高な祈りか。
 仏智の広大無辺でしょう、牧口先生は獄死されたが、不二の弟子は生きて、牧口先生の偉大さを顕彰した。牧口先生の死を賭しての国家主義との闘争が、今、アジアで、世界で、どれほど創価学会の信用になっているか、計り知れない。
 斉藤 全世界が牧口先生を讃えています。ブラジルでは、創価教育学を実践する学校が広がり、また「牧口常三郎公園」(クリチバ市)、「牧口常三郎先生通り」(サンパウロ近郊)、「牧口常三郎通り」(サンジョゼ・ドス・カンボス市)も設置されました。
 池田 牧口先生は勝った。戸田先生の祈りは勝った。生死を超えて、勝ったのです。島国根性で狭い心の日本は、偉人を狭い三畳間の独房に押しこめた。
 しかし、牧口先生の偉大さは、そんな黒い鎖を断ち切って、全世界に広がっていったのです。戸田先生の一念によって──これが本当の師弟の戦いです。
 仏法は、どこまでも師弟なのです。神力品においても、「師弟の儀式」になっている。
7  遠藤 はい。地涌の菩薩は、釈尊が「久遠以来、教化してきた」弟子となっています。この「弟子」に「師匠」が、法華経の末法広宣流布を託すという儀式をとっています。
 斉藤 問題は、ここですね。この文上にとらわれると、日蓮大聖人が、「上行菩薩の再誕」として、釈尊の「法華経二十八品」を弘めた──という解釈に陥ってしまいます。
 須田 ほとんどの解釈が、そうです。
 斉藤 しかし、日蓮大聖人はこう仰せです。「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり
 「″釈尊の妙法″を弘めるのではない」と明確に言われています。
 遠藤 ただ、これも、″釈尊の妙法″を上行菩薩が譲り受けたのであって、父子の家督相続のように、「もう父の代は終わって、自分の代になったんだから(家督を譲られたんだから)、すべて自分のものであって、父のものではない」と、こういう解釈をする人もいます。
 斉藤 どう説明すれば、分かりやすいのか──。
 池田 「家督相続」の譬えは、一面の真実を突いている。それは、末法は「上行菩薩の時代」であって、「釈尊の時代」ではないということです。
 「後は頼む」と、すべて神力品で譲ったからです。経文を見てみよう。
 須田 はい。こうあります。「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」(法華経五七二ページ)
 有名な結要付嘱の文です。
 斉藤 要するに、「如来のすべて」が法華経には説き示されている。
 それを上行菩薩に付嘱すると。天台は、ここには法華経の全体をまとめる「枢柄すうへい」(中心となる肝心要)があるとしています。
 そして、この経文に則って、法華経の意義を説明しようとしました。いわゆる名・体・宗・用・教の五重玄です。
 (「名」は「如釆の一切の所有の法」〈如来の所有する一切法の総称であり、妙法蓮華経〉、「体」は「如来の一切の秘要の蔵」〈如来が証得した法そのもの〉、「宗」は「如来の一切の甚深の事」〈如来が成仏した因果〉、「用」は「如来の一切の自在の神力」〈如来が現す衆生救済の力、働き〉、「教」は「皆此の経に於いて宣示顕説す」に、それぞれ対応している)
 法華経に無限の功徳が備わっている「ゆえん」というか、無限の功徳が発生する「根本」を指し示していると思います。
 須田 つまり「如来の生命そのもの」でしょうか。
 遠藤 それを上行菩薩に付嘱した、と。
8  上行菩薩は「菩薩仏」
 池田 さあ、そこで、「如来のすべてを受けとり、身に体している菩薩」とは、一体、いかなる存在なのかということです。通常、「菩薩」と言えば、成仏を目指して修行している存在です。
 しかし、明らかに「上行菩薩」は、そうではない。「如来のすべて」を全身に体していて、なおかつ「菩薩」と呼ばれている。
 上行菩薩は「菩薩仏」なのです。父子相続の話があったが、父子は一体であり、父が仏であれば、家督のすべてを譲られた子もまた仏でなければ、話がちぐはぐになる。
 遠藤 たしかに国王から国を譲られたら国王です。
 池田 上行菩薩はじめ地涌の菩薩は、出現の時から、すでに「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」(法華経四五二ページ)と説かれていた。
 須田 「三十二相」というのは「仏」の特徴です。地涌の菩薩が仏であることを示していると思います。
 斉藤 しかも、釈尊よりも立派に見えた。釈尊が、まだ青さの残る二十五歳の青年とすれば、荘厳な百歳の翁に見えたと説かれています。
 池田 だから神力品の結要付嘱の儀式は、本来は「仏」から「仏」への儀式なのです。唯仏与仏(ただ仏と仏と)の境涯です。
 ではなぜ、上行は菩薩として現れているのか。
 それは、ひとつには、「一世界には一仏」という原則を破らないためとされる。二仏が並び立つと、皆に混乱を起こさせるからです。
 斉藤 上行菩薩は″釈尊の説法を助ける″ために弟子の立場をとっているということですね。
 遠藤 地涌の菩薩が出現したことによって、弥勒菩薩をはじめ皆が驚いて、そこから寿量品の説法が始まるわけですから、たしかに説法を助けたわけです。
9  池田 しかし、上行菩薩がどこまでも「九界の立場」で出現したことには、さらに重大な意義がある。
 これは全仏教史を大転換させる重大事です。それは、「因行(仏因)」の中に「果徳(仏果)」を認めるということです。それまでの仏教は、どこまでも「仏果」が勝れ、「因行」は劣っているとした。ある意味で当然でしょう。
 遠藤 「九界」よりも「仏界」が上とするのは当然と思います。
 池田 しかし、上行菩薩の出現によって、「因行(九界)」に「果徳(仏界)」を含むことになってしまった。これがなぜ大切なのか。
 寿量品の説法を思い出してみよう。釈尊は五百塵点劫の太古に成仏したと説いた。これは、全宇宙のすべての仏は、その久遠実成の釈尊の弟子だということです。それでは、「その前」はどうだったのか。
 斉藤 「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
 池田 すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
 須田 たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。
 遠藤 始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。″根無し草″のようなものだと。
 しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。
 厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。
 斉藤 「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。
 池田 今回は大事なところだが、それだけに難解だね。「むずかしい」と思う人は、飛ばして読んでもいいし(笑い)、一生かかって、ゆっくり勉強すればいいのです。
 理屈がわからなくても、要は、お題目をあげる大事さがわかっていればいいのだから。
 須田 そう言われると安心します(笑い)。
10  池田 もとに戻ると、「宇宙と一体の無始無終の根本仏」を説くためには、二つの方法しかない。
 一つは、因果を無視することです。因とか果とか言わなければ、単に「無始無終の仏」と言っておけばすむ。因果を言うから、「仏果を得る前」が問題になるのだから。
 しかし、因果を無視したのでは仏法ではなくなってしまう.因果を鋭くからこそ仏法なのであって、因果を無視すれば外道です。なかんずく「仏因」「仏果」が、仏法のメーンテーマです。大乗仏教そのものも、釈尊滅後、釈尊を仏にならしめた「仏因」は何だったのか、その探求がテーマだったと言えるのではないだろうか。
 斉藤 はい。もはや釈尊がいない以上、釈尊を仏にした「仏因」をつかむことで、自分たちも仏になろうとしたと考えられます。
 池田 言い換えれば、釈尊の生命の「本質」の探究です。その結果、さまざまなかたちで、″永遠性の仏″を説くことになった。
 須田 「生身」の釈尊に対して、永遠性の「法身仏」を説いたのもそうですね。そこから、三身論(法身・報身・応身)をはじめ、さまざまな「仏身論」が議論されていきます。
 遠藤 大乗仏教のさまざまな仏──華厳経の盧舎那仏、浄土経の阿弥陀仏(無量寿仏)、大日経の大日如来なども、「無始無終の根本仏」を志向しながら、その一面、一面を説いたと言えるかもしれません。
 池田 しかし、どんなに″永遠性の仏″を説いても、そこには大きな限界があった。一つは、壮大で華麗な仏の世界を説く結果、「人間・釈尊」から大きくかけ離れてしまったこと。これは「人間」そのものからかけ離れてしまったことを意味する。
 もう一つは、今、論じている「因果」の問題です。「仏因」が先にあって、「仏果」が後に来るというのでは、どうしても、″何らかの時点で″仏が出現することになる。
 要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(囚行)」に「仏果(果徳)」を認めなくではならないのです。これが、三世常住の本仏を示すうえでの第二の道であり、「唯一の道」です。
 斉藤 理論的には、どうしてもそうなります。
 池田 この「因位(仏因の位)の仏」──それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。
 上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始無終の久遠の本仏」を指し示しているのです。
 須田 これまで、わかったつもりで、あいまいだったことが、かなりはっきりしてきました。この「無始無終の本仏」とは、私たちが「久遠元初の自受用報身如来」と呼んでいる「南無妙法蓮華経如来」のことですね。
11  「毎日」が「久遠元初」
 池田 もちろん、その通りです。
 須田 そうしますと、この「久遠元初」というのは、もはや「はるかな昔」という意味ではありませんね。時間の枠を突破しているというか、もう「時間の概念」ではないということになります。
 池田 そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。
 時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実──無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。
 大聖人は「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」と仰せだ。
 「はたらかさず」とは、途中からできたのではない、本有ということです。「つくろわず」とは、三十二相八十種好を具足していない、凡夫のありのままということです。
 本有常住であり、「もとの儘」です。これを「久遠」という「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことです。御本尊のことです。だから、御本尊を拝する、その瞬間瞬間が「久遠元初」です。
 私どもは、毎日が久遠元初なのです。毎日、久遠元初の清らかな大生命を全身に漲らせていけるのです。毎日が久遠元初という「生命の原点」から新たな出発をしているのです。
 斉藤 それこそ「本因妙」ですね。
 池田 だから「今」が一番大事なのです。「過去」を振り向いではいけない。振り向く必要もない。未来への希望を大いに燃やして、この「今」に全力を注いで生きる。その人が、人生の賢者です。
 上行菩薩への付嘱──末法広宣流布を託したのです。だから「久遠の妙法」の広宣流布へ本気で立ち上がれば、そのとき、生命に「久遠元初の夜明け」が訪れる。
 戸田先生はいつも「広宣流布は戸田がやる」と言われていた。「私がやる」と。「人には頼まない」と。そして青年にも同じ大信心に立てと願われていた。
 ある時は、二十人ぐらいの青年の集いで、突然、力強く、「広宣流布はおれがやる」と叫ばれた。そして「君たちも一人ずつ言いたまえ」と、一人一人を指さされた。
 皆、夢中で「広宣流布は私の手でやります」と申し上げた。なかには弱々しい声もあった。何だろうという驚いたような声もあった。後に退転した人間もいた。
 ただ戸田先生は、青年たちに、ご自分と同じ決意に立たせたかったのです。戸田先生の厳愛です。今、私も青年部の諸君に対して、まったく同じ気持ちです。
 ともあれ、「上行菩薩」論は、非常にむずかしいが、法華経の要の中の要だから、頑張って、もう少し、探究を続けよう。
12  斉藤 はい。確認しますと、法華経では、「久遠実成の仏」から「上行菩薩」へと結要付嘱されますが、その渡された法とは、「法華経二十八品」ではなく、文底の「南無妙法蓮華経」ということになります。
 池田 その通りだが、「渡された」というところが、誤解を招きやすい。上行菩薩は本来、もともと、南無妙法蓮華経の当体です。
 もともと持っておられる法であるが、末法に南無妙法蓮華経を弘めていく資格というか、立場をたしかに認められているという「証拠」を示す儀式なのです。
 遠藤 そうしますと……また「家督相続」の譬えで恐縮ですが(笑い)、親から財産をたしかに受け渡されましたよという「証文」のようなものでしょうか。
 池田 そう言ってもよいと思う。神力品の文は「証文」です。「証文」であるということは、妙法そのものから見れば「迹」です。
 たとえば、一千万円を親から受けついだとする。それも、一つの「付嘱」です。この一千万円それ自体は「本」です。受け継いだという「証文」は「迹(影)」です。「本」と「迹」には、天地の差がある。
 百六箇抄には、こう仰せだ.(「本門付属の本迹」)
 「久遠名字の時・受る所の妙法は本・上行等は迹なり、久遠元初の結要付嘱は日蓮今日寿量の付属と同意なり」むずかしいが、要するに、久遠以来、名字即の凡夫のまま日蓮大聖人が南無妙法蓮華経の本法を所持しておられる。
 それが「本」。それから見れば、法華経の経文上の上行菩薩等の儀式は「迹」になる。経文は、大聖人が事実として妙法を広宣流布されるための「予証(あらかじめ出す証拠)」であり「文証」です。
 「南無妙法蓮華経如来」が、法華経二十八品というスクリーンに「影」を映した結果、久遠実成の釈尊(仏界)や上行菩薩(九界)の姿になったのです。だから、どこまでも妙法が「本」、上行菩薩は「迹」です。
13  「人間」以外に「仏」はない
 遠藤 そうしますと、付嘱の儀式は、「仏界から九界へ」の付嘱となりますが、これは何を意味するのでしょうか。
 池田 そこに、「凡夫こそ本仏」という意義が含まれているのです。
 斉藤 前の項(地涌の菩薩への「付嘱」)で、諸法実相抄の文(「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」)を引いて、強調してくださったところですね。
 池田 これについては、また論じたいが、今回、一つだけ言っておくと、三十二相の「完成された仏」と言っても、冒頭に引いた「ユートピア」のように、近づけば、近づくほど、その分、遠ざかる理想像だということです。
 「完全なる仏」というのは想定はできるが、現実には「目標」にすぎない。つまり、凡夫という「九界」を離れた「仏」は実在しない。三十二相の″仏様らしい″仏は、実在しないのです。仏とは現実には「菩薩」の姿以外にない。「菩薩仏」以外の仏はないのです。
 「因行のなかに果徳がある」すなわち「因果倶時」が、宇宙の根本仏の成仏のすがたです。本仏の成仏が「因果倶時」であるゆえに、それ以外の成仏はありえないのです。
 大聖人は、これを「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せになっている。
 斉藤 そうしますと、何のために、そういう、三十二相の「完全なる仏」が説かれたのか──。つまり、ユートビアが、人間を「前進させるため」にあったように、人間を修行させるためでしようか。
 池田 修行させるためです。すばらしい荘厳な仏身を説き、皆が憧れることによって、その「仏果」を目指して、修行しようという気持ちになる。
 「前進」させ「向上」させるために、三十二相の色相荘厳の仏を説いたのです。
 もちろん、実在しないといっても、それは凡夫が目の当たりに拝することはできないという意味です。生命には厳然と「仏界」がある。しかし、仏界は「九界」を離れては現れないのです。伝教大師が言った通り、「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏なり」(『守護国界章』)です。
 須田 「有為」とは「無作」ではない、つくろっているということですね。報仏は報身仏。修行の報いとしての仏身です。
 「無作の三身」以外の、つくろった色相荘厳の仏とは「夢の中」の権の仏果である──。
 遠藤 「無作の三身」だけが「実仏」である。「覚前」の実仏は、歴劫修行の結果、覚りを開いて成仏したのではなく、もともと本有常住の仏なのです。
 斉藤 御書(五六〇ページ等)にも引かれていますし、何度も読んだ一文です。しかし、今は新鮮な感じがします。
 池田 立派そうな格好をしている仏は「夢の中」の存在だと言うのです。実在しないのです。本当は、ありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身にわき立たせていくのが、唯一、実在の「仏」なのです。
 「人間」以外に「仏」はないのです。「人間以上」の「仏」は、にせものなのです。方便なのです。だから、人間らしく、どこまでも人間として「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が「仏」です。
 それを教えているのが、法華経であり、神力品の「上行菩薩への付嘱」には、そういう「人間主義の仏法」への転換の意義が含まれているのです。
 「日蓮と同意ならば」と大聖人が仰せのように、広宣流布を目指して進むわが同志こそ、現代における「仏」です。
 それ以外に、「仏」はない。ゆえに学会員を己のために利用する仏罰は限りなく大きい。学会員のために、学会員の幸福を目的として尽くしていくときに、無量の功徳が花開いていくのです。

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