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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 地涌の菩薩へ…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  池田 地涌の菩薩でなければ、できないことです。その地涌の菩薩に、末法の広宣流布は頼むよ、と託したのが神力品です。
 斉藤 「付嘱」の儀式ですね。
 須田 付嘱とは、仏が教えを弟子に託し、この法を弘めていけ、と使命を与えることです。
 池田 「付嘱」がなければ、仏法は師匠の一代限りで終わってしまう。それでは、どんなに偉大な「法」があっても、何にもならない。人を救うことはできない。
 生きとし生けるものを慈しめ、と言っても、苦しみを救えないのでは観念論です。「法」を教えて、「人」を救うのが仏法です。
 戸田先生は、牢獄から出られて、恩師を偲びつつ、一人、星空を仰ぎ、歌われた。
  如意の宝珠を我もてり
  これでみんなを救おうと
  俺の心が叫んだら
  恩師はニッコと微笑ほほえんだ。
 獄死した師匠・牧口先生の「心」を受け継いで、一人、「広宣流布」に立ち上がったのです。しかも、牧口先生から戸田先生へのバトンタッチは、獄中であった。
 昭和十八年(一九四三年)九月、牧口先生が警視庁から巣鴨の東京拘置所へ行かれるときが、最後のお別れとなった。
 お二人とも囚われの身です。自由に、口をきくこともできなかつたでしょう。
 戸田先生は「『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでごぎいました。あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました」(『戸田城聖全集』3)と述懐されている。
 斉藤 獄中のバトンタッチ──あまりにも崇高であり、厳粛です。
 戸田先生から池田先生へのバトンタッチとなった「3・16」(昭和三十三年〈一九五八年〉三月十六日)の儀式も、炭労事件、大阪事件とその後の裁判という「権力の魔性」との壮絶な戦いの渦中でした。
 須田 厳粛です。
 池田 もちろん、それは神力品の付嘱の儀式とは次元が違う。ただ、「師弟」がなければ「仏法」はないということは言えるでしよう。
 斉藤 はい。釈尊も、自分は「妙法」を悟った。わが生命の底にある「宇宙大の生命力」を覚知し、「歓喜の中の大歓喜」を味わいました。
 しかし、それを、どう全人類に伝えていくのか。
 自分はいい。自分が生きている間も、まだいい。しかし、自分なき後はどうするのか。ここに仏教そのものの重大テーマがあったと思います。
 仏教は徹頭徹尾、「人間の宗教」です。人間を離れた超越神とか、宇宙を一人で創造した創造神とかを説きません。どこまでも「人間」から離れず、人間に「汝自身に目覚めよ!」と、訴え続けるのが仏教です。
 だから、神の意志とかは問題にならない。すべて人間自身の意志で決まる。
 ゆえに、人間から人間への「師弟の継承」がなくなれば、仏法は生命を失ってしまいます。「付嘱」が重要なゆえんです。
3  遠藤 師弟がなくなれば「法滅」です。
 池田 そう。「法滅」と言つても、本来、「法」そのものは永遠です。実際には、教法を正しく継承した「人」がいなくなったときが「法滅」なのです。
 斉藤 今の宗門が、まさにそうです。
 須田 師弟がなくなった。ゆえに仏法もなくなってしまいました。正法がなくなったのに、ある格好をして、威張っているのだから「魔もの」です。
 池田 釈尊は、自分の死後の人々の幸福を考えたとき、「いかにすべきか」と悩んだと思う。そして結論として、釈尊は、自分の死後は、自分自身を仏にしてくれた「釈尊の師匠」である「永遠の妙法」そのものを師匠として修行せよと弟子に教えたのではないだろうか。前に「発迹顕本」のところで論じたことだが。(本全集第三十巻参照)
 その″遺言″を晩年、折にふれて釈尊は語った。それが後に、現在のような「法華経」としてまとめられたのではないだろうか。
 遠藤 釈尊の師とは「永遠の妙法」即「永遠の本仏」ですね。私たちは現代的にわかりやすく「宇宙生命」と呼ぷ場合もありますが。この「永遠の法」を師として修行すれば、だれでも自分と同じように仏になれるはずである。
 「生きとし生けるもの」を幸福にする「大良薬」が、この「永遠の妙法」即「永遠の仏」である。これを教えておくから、この大良薬を服し、これを弘めなさい──これが法華経であり、寿量品の心でした。
 池田 焦点は完全に、釈尊の入城後にある。未来にある。未来の「広宣流布」にある。この一点を見失っでは、法華経の心はわかりません。
 斉藤 神力品も──いな法華経の全体が、「付嘱」を中心テーマにしています。とくに虚空会の儀式では、そうです。宝塔品(第十一章)で、巨大な宝塔が出現したのも、涌出品(第十五章)で無数の地涌の菩薩が大地を割って躍り出てきたのも、寿量品(第十六章)で「永遠の仏」が説かれたのも、全部、付嘱のためです。
 須田 御義口伝には「妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事おわるなり」と仰せです。
 付嘱の意義がわからなければ、この途方もない虚空会の儀式は、おとぎ話になってしまいます。
4  地涌の菩薩──境涯は仏、行動は菩薩
 遠藤 それでは、神力品のあらましを見ていきます。「如来神力品」という名の通り、如来が宇宙を揺るがすような十大神カを示します。
 まず、章の冒頭ですが、地涌の菩薩の「誓い」で始まります。
 「釈尊滅後の娑婆世界」で、また「他の諸仏の入滅後の国土」でも、法華経を弘めていきます! こう誓うのです。
 池田 あらゆる仏の「入滅後」に広宣流布をしていきますという誓いです。
 ここに「地涌の菩薩」の重大な、また不可思議な意義がある。結論を先取りした言い方になるが、仏という「一人」から「全民衆」への正法広宣流布を担うのは、いかなる国土であってもつねに「地涌の菩薩」なのです。それはなぜか。
 「地涌の菩薩」とは、内証の境涯が「仏」と同じでありながら、しかも、どこまでも「菩薩」として行動していくからです。いわば「菩薩仏」です。境涯が「仏」と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。
 しかも現実の濁世で、世間の中へ、人間群の中へと同化して入っていかなければ広宣流布はできない。この両方の条件を満たしているのが「地涌の菩薩」なのです。だから神力品の最後に「斯の人世間に行じて」とあるでしよう。「世間に」です。人間の中へです。
 須田 こうあります。
 「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し無量の菩薩をして畢竟して一乗に住せしめん」(法華経五七五ページ)
 つまり、太陽と月の光明が、もろもろの暗がりを消してしまうように、この人──地涌の菩薩は世間の中で行動し、生きとし生けるものを照らして、彼らの苦悩の闇を取り除く力がある。そして無量の菩薩を奮い立たせて、最後には成仏させる。すなわち広宣流布を実現していく──こういう姿が描かれています。
 池田 地涌の菩薩は「太陽」なのです。また、「如蓮華在水」と言われるように、世間の中にあって、しかも世間の悪に染まらない「蓮華」でもある。
 斉藤 「太陽」と「蓮華」ですね。大聖人の「日蓮」という名前には、深い深い意義がありますね。
 池田 じつは、法華経においては「太陽」と「白蓮華」は「仏」のシンボルでもある。そういう研究をした人もいます。
 遠藤 インド学者の松山俊太郎さんは、サンスクリット語の法華経の研究を通して、宝塔品以後の釈尊は″正法の体現者としての白蓮華″であり、しかも「日輪」と同一視されていると論じています。(『蓮と法華経』第三文明社。参照)
 斉藤 大聖人御自身が「法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」と仰せです。
 池田 甚深だね。
5  十神力──「広宣流布の世界」を象徴
 須田 神力品の続きですが、冒頭の「誓い」に応えて、仏が、集っている文殊菩薩はじめ無量の菩薩などの前で、神通力による不思議な現象を現します。これが、いわゆる「十神力」です。
 池田 十神力の説法を聞くと、あまりにも荒唐無稽な感じがするかもしれない。しかし、あくまでも「生命の世界」の真実を象徴的に示そうとしたものです。
 須田 はい。まず「(1)仏が広く長い舌を出すと、天まで届いた」。
 これは古代インドでは、舌を出すことは「うそを言ってません」という意味だったことをふまえています。法華経がすべて真実だという意味です。
 池田 大聖人は、舌が「広い」のは十界のすべての衆生を広く救えるという意味であり、舌が「長い」のは久遠以来の妙法であるという意味を和すと言われているね。(「御義口伝」では、「神力品八箇の大事」のうち「第二出広長舌の事」、御書七七〇ページ)
 斉藤 続いて「(2)釈尊の全身の毛穴から光が出て、あらゆる色の光を放ち、十方世界を照らした。諸仏も、同じように『広く長い舌を出し』『無量の光を放った』」とあります。
 池田 宇宙中に、光と光が燦爛として、あまねく満ちていった。壮麗です。
 広宣流布の世界です。
 我らも光っていくのです。「信心」の心を本当に燃やせば、全生命が光るのです。
 人格が光るのです。智慧が光るのです。智慧が光るのです。
 そして、人をも照らせるのです。
 遠藤 次は、釈尊と諸仏が舌を収めて、「(3)一斉に咳払いし、(4)一斉に指を弾いて鳴らした」です。指を丸めて弾き、鳴らすのは、やはりインドの風習で「真実のあかし」とされています。
 須田 諸仏の「声」と「指の音」が全宇宙に響きわたります。
 するとその音で「(5)十方の諸仏の世界の大地が六種に震動」します。
6  池田 大宇宙が歓喜に打ち震えたのです。国土までも成仏するということです。一念三千です。広宣流布の大いなるドラマを象徴している。
 斉藤 国土が喜びに震えると、今度は「(6)そこにいる、生きとし生けるものが、娑婆世界の仏の姿を見ることができた。釈迦仏と多宝如来が宝塔の中におられるのも見えた。諸仏は皆、師子座に座り、釈迦仏を無量の菩薩や出家・在家の人々が取り囲んでいた。これらを見て、皆、いまだかつて味わったことのない大歓喜を得た」。
 池田 彼らの眼前に諸仏が満ちている。しかも「師子座」に座っている。師とは「師匠」、子とは「弟子」。師弟不二があれば、いかなる世界でも、寂光土に変えていけるということです。
 須田 法主が座る「猊座げいざ」も本来「師子座」の意味です。いわば「師弟不二」の実践者の座です。先師に違背する人間に座る資格はありません。
 斉藤 このように十方世界が──十界の衆生すべての住む世界と言ってよいと思いますが、すべて大歓喜に満たされたとき、「(7)空中から大きな声が響きわたる」という不思議が起こりました。
 諸天が、こう呼びかけたのです。
 「娑婆世界というところに、釈迦牟尼仏という仏がおられて、今、菩薩のために妙法蓮華経を説いておられる。お前たちは、深く随喜して、釈迦仏を礼拝し供養しなさい」と。
 遠藤 その呼びかけに応じて「(8)もろもろの衆生が合掌して、釈迦牟尼仏に帰命」します。
 池田 大聖人は、この「釈迦牟尼仏」とは「忍辱の心」のことであると仰せだ。すごい生命論です。
 娑婆世界は「堪忍の世界」です。耐え忍ぶ世界です。悪い機根の衆生が集まった国土であり、正しいことが正しいと受けとめられない。かえって迫害に遭ってしまう。
 須田 日本は、その典型です。
 池田 我が身を捨てて民衆を救う人が、かえって、いじめられる。「転倒の世界」です。その「難」を、また「侮辱ぶじょく」を耐え忍んで、なおかつ妙法を弘めるのが「忍辱の心」です。迫害されても、迫害されても、それにまさる不屈の執念で、魔軍を押し返し、押し返して戦い続けていくのです。
 その「忍辱の心」こそが「仏界」であり、「釈迦仏」なのだと大聖人は教えてくださっている。十方世界の衆生が、その「仏界」を礼拝した。すなわち「広宣流布しきつていく心」を礼拝したのです。
 今、広布に戦う私どもを、その「信心」を、必ずや大宇宙の仏菩薩が、賛嘆しきっておられるに違いない。
 須田 法華経が説かれるまで裟婆世界は、救いがたき極悪人の集まりのはずだったのに、このようにして、まったく変わつてしまいます。「(9)十方世界から種々の華や香や、ありとあらゆる宝物が娑婆世界に届けられ、雲のごとく集まって、一つの大きな宝の帳となった──カーテンとか、しきりとか、あるいは天蓋、大きな傘のようなものを想像してよいかと思います──それが十方の諸仏を覆った」と言うのです。
 そして「(10)十方の世界の隔てがなくなり、一つの仏土になった」と説かれています。
 遠藤 すでに寿量品で、「裟婆世界」こそが、久遠の昔から釈尊の「本国土」であると説かれていますね。その″娑婆即寂光″が現出したのです。
7  「忍辱の心」で戦う人が「仏」
 池田 娑婆世界──一番苦しんでいる人のところへ行くのが「仏」です。皆と苦しみをともにしていくのが本当の「仏」なのです。それ以外にはありません。
 坊主が偉いのか。断じて、そうではない。政治家や有名人が偉いのか。断じて、そうではない。役職が高い人が偉いのか。絶対に、そうではない。一番苦しんでいる人のもとへ走る人が、一番偉いのです。
 ご主人に信心を反対され、いじわるされ、皆に悪口を言われ、それでも耐えに耐えて、皆の幸福を祈って広布へ動いている──そういう最前線の婦人部の方が偉いのです。
 「仏」とは、その方の「忍辱の心」のことなのです。
 ともあれ、戸田先生は″娑婆即寂光″について、「ここへきて仏法が、ひっくり返ってしまったのです」と言われていた。それまで説かれていたような、どこか速い「浄土」が理想なのではない。いつかすばらしい「別世界」に到達するのでもない。
 永遠に、この苦悩うず巻く世界で生き抜き、「広宣流布へ」「広宣流布へ」と永遠に前進していく。その「忍辱の心」以外に「仏」はないということです。
 娑婆即寂光は「国土」に即して言ったことです。それを「人」に即して言うと、じつは仏とは、現実には「菩薩仏」以外にないのです。
 釈尊もじつは「菩薩」であり、同時に「仏」であった。そもそも「菩薩」とは、釈尊の修行時代の姿がモデルになつていると言われる。しかし、修行時代だけが菩薩だったのではない。いわゆる成道後も、釈尊は、みずからの悟った大法を弘めるために菩薩の行動を続けた。
 内にあふれてくる「永遠の生命」を自受法楽しつつ、人々にその法を弘めるために行動したのです。「菩薩仏」です。
 「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」というのは、ここです。
 要するに、成道後も、どこまでも「人間」であり続けたということです。
 「人間に帰れ!」というのが法華経なのです。
8  「凡夫こそ本仏」の大宣言
 斉藤 考えて見れば、寿量品で否定された「始成正覚」という考え方には、きわめて危険な要素があったのではないでしようか。
 つまり、釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で「始めて」悟った──この始成正覚の「前は凡夫」「後は仏」と考えてしまうと、「人間・釈尊」が見えにくくなります。
 実際のところは、「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ「わが仏界」に目覚めた。そうやって目覚めたからこそ、「人間として」最高の生き方ができた。
 つまり「人間・釈尊」として一貫しているわけです。この一貫性を「始成正覚」は切断してしまう危うさがある気がします。
 遠藤 始成正覚以後は「人間を超えた」何か特殊な存在になった、そんな錯覚に陥りやすいですね。釈尊という人格を、目の当たりにできた釈尊在世の人々はいいとして、釈尊滅後の人には、どうしてもそう思われがちだと思います。
 須田 そこから釈尊を神格化したり、自分たちは「凡夫でしかない」と卑下してしまった。これは謙虚なようで、じつは傲慢の裏返しですね。「人間(凡夫)」の尊貴さを知りもしないのに、知ったつもりで人間不信になっているわけですから。
 池田 「凡夫でしかない」──そういう言い方は、とんでもない間違いです。
 そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそが仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
 「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその″影″である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。″仏があって凡夫がある″と思っていたら、そうではなく、″凡夫があって仏がある″のだと。
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、じつは凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない──こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。そう言えるのではないだろうか。
9  須田 聖職者が、「普通の人間よりも上」とされてしまう構造も、そこから生まれると思います。神仏が人間よりも「上」にいるから、神仏の「そば」にいるはずの聖職者は、一般の信徒より「上」にいるように錯覚してしまう。
 斉藤 その意味では、大聖人の仏法では、本来、「出家が上、在家が下」などという発想が出てくるはずがありません。
 池田 それはそうだが、「思想」と言っても、すべて「人」で決まる。
 日蓮大聖人の仏法といえども、「人」が師弟の心を忘れれば、「人間のため」どころか、「人間抑圧のため」に使われてしまう。それは皆がよく知っている通りだ。
 ともあれ、大聖人の御言葉が、全宗教史上、画期的な宣言であることは、いくら強調してもしきれない。仰ぎ見る対象であった「仏」が「迹」にすぎないというのだから──。
 では、なぜ、そう言えるのか──。じつは、ここに神力品の″急所″もある。
 釈尊から「地涌の菩薩」への「付嘱」とは、「凡夫こそが本仏」という意義を含んだ儀式なのです。しかし、あまり先走っても、皆よくわからないから(笑い)、段階を追って、学んでいこう。
 ともあれ、「十神力」のような、″人間ばなれ″した説法も、日蓮大聖人はすべて、「人間生命」の現実に即して説明してくださっている。
 生命論で言えば、「如来神力」の「如来」とは「宇宙生命」そのものであり、したがって「一切衆生の生命」そのものである。「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」です。そして「神力」とは「神の力」であり「生命の力」である。なかんずく「仏界の大生命力」のことです。生きとし生けるものに本来、具わっている宇宙大の生命力を「如来神力」と言うのです。
 この大生命力を地涌の菩薩が発揮して、「広宣流布」をしていく。その広宣流布というのも、この「如来神力」という大生命力を一切衆生に自覚させることです。
 すなわち「地涌の菩薩」の拡大であり、「人間革命の連鎖」であり、「幸福拡大運動」です。その広宣流布の姿を先取りして示したのが、この「十神力」の説法です。
 斉藤 たしかに、最後に十方世界が一つになり、すべての衆生が仏に帰命していくというのは「広宣流布」の姿ですね。
 須田 「大事には小瑞なし」と言われますが、十方世界にわたる「瑞相」というのは、他に例がありません。
 遠藤 大聖人は「此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入つて法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり」と明快に示されています。
 池田 それを今、私どもが現実にやっているのです。すごいことです。不思議です。大感激の人生だ。まあ、一般には「神通力」と言うと、超能力のようなものを連想するだろうが、そうではありません。大聖人は「利根と通力とにはよるべからず」と戒めておられる。
 超能力などを基準にすると、″人間ばなれ″した特別な人を大事にすることになる。それは危険です。また、どんな超能力を示しても、問題はそれで幸福になれるかどうかです。
 一般的にも、″特別な能力″に頼った人は、人間としての修行がおろそかになり、かえって不幸になる場合が多いものです。
10  遠藤 そう言えば、昔、「スプーン曲げ」の超能力が話題になりました。次々と、スプーンを曲げていく″超能力″をテレビで見ながら、ある友人が「あれが一体、何になるのか」と言っていました。「曲がったスプーンを、もとに戻すのなら、まだ価値があると思うが」と(笑い)。
 須田 人間は何ごとも、″何のため″と考えるのを忘れがちですね。
 池田 何のため──一番大切な目的は「幸福」です。人を幸福にできない超能力など、何の意味もない。
 大聖人は「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」と仰せだ。(「如来秘密神通之力」についての「御義口伝」)
 成仏という絶対にして永遠の「幸福境涯」を得ることこそが、仏の「神通力」なのです。これこそ、最高に「生命(たましい)の法に通じた力」だからです。
 斉藤 神力品は、この「十神力」のあと、いよいよ地涌の菩薩への「結要付属」へと続きます。
 池田 その深義については、次回以降に論じることにしよう。あんまり、いっペんにやると、皆、″消化不良″で倒れちゃうから(笑い)。
 この項で、あらあら神力品を学んだが、要点は「全民衆よ、汝自身の尊貴さに目覚めよ!」という呼びかけです。全宇宙を揺り動かす大音声で、そう叫んでいるのが如来神力品なのです。広宣流布へのうながしです。人間・釈尊の悲願であった「生きとし生けるものよ、幸福になれ!」の実現を呼びかけているのです。
 今、日本も、人々の心は「何も信じられない」という危険な状態に陥っている。
 世論調査では、日本が今、「悪い方向に向かっている」と思う人が七二・二%──四人に三人という結果が出ている。過去最高です。
 斉藤 総理府の調査ですね。「よい方向に向かっている」と思う人は、過去最低の一二・六%でした。(「社会意識に関する世論調査」一九九七年十二月)。
 池田 世界的にも、心に、ぽっかりと空洞があいてい──そんな荒廃が広がっているようだ。
 百年前、ニーチェは「神は死んだ」(『ツァラトゥストラ』、『ニーチェ全集』9,吉澤傳三訳、理想社)と言ったが、信じられなくなった「神」の代わりに、今世紀は、他の偶像がその「空席」に座ってしまった。
 遠藤 不軽品(第二十章)で論じていただいた「国家崇拝」もそうですね。
 須田 ほかにも「科学信仰」もあります。「富の崇拝」なども「拝金宗」といわれるように、一種の」信仰ですね。「金があれば幸福になれる」「経済が豊かになることが幸福への道だ」と信じきって進んだ結果、日本が、どうなったか、論じるまでもありません。
 斉藤 ある識者が言っていました。戦後の日本においては、お金とは「安心立命のためのお金」であった。自分を「安心」させてくれるものは他に何もなかった。
 だからこそ、これだけ皆がお金に執着してきたのだ──と。お金が「宗教」の役割を担ってきたと言うのです。
11  ″国家の奴隷になるな!″──ユング
 池田 「神は死んだ」その結果、「人間も死んだ」。これが二十世紀の実相かもしれない。それは内面の「死」だけではない。国家崇拝と相まって、肉体的にも、歴史上最大の「メガ・デス(巨大死)」の悲劇を味わってきた。二十世紀は、最大の″殺人の世紀″であった。これを、ひっくり返して、最大に「人間を生かす」二十一世紀にしなければならない。そのための広宣流布運動です。
 全民衆に、汝自身の偉大なる「如来神力」の大生命力を開けと呼びかけていくのです。恐ろしいのは、今のような「何も信じられない」という空虚感のスキにこそ、魔性の国家主義がつけ入ってくるということです。
 遠藤 ナチスの勃興の前も、民衆の中にニヒルな空虚感が広がっていたと言われていますね。
 池田 有名な心理学者・ユングは、「人間とその未来」(アンソニー・ストー編著『エセンシヤル・ユング──ユングが語るユング心理学』山中康裕監修、創元社。以下、同書から引用・参照)というエッセーで、こんなふうに書いていた。
 「人生の意味の喪失を一度でも感じるなら、もはやその個人は国家の奴隷への道に乗」ってしまうと。そういう人は、国家主義の巨大な力に「抵抗」する力をもたないからです。悪に抵抗しない──それは、悪の奴隷への道にすでに乗っていることです。
 ユングは言っている。″国家こそ尊い″ということを民衆に吹きこみたい権力者にとって、一番邪魔になるのは「国家に妥協せず独自の道を歩む」宗教であり、彼らは必ず、そういう宗教を「足元からすくおうとする」と。
 そういう宗教は、「『この世』の権威に対立するもう一つの権威を教える」ゆえに、人々を国家の奴隷にするのに都合が悪いからです。
 ユングは、ずばりと言った。
 「独裁国家は個人だけでなく、個人の宗教的な力をも吸い上げてしまうのである。かくして国家は神の位置に取って代わる」
 須田 「国家は神の位置に取って代わる」……。まさに国家崇拝です。
 遠藤 しかも、多くの人々は、自分が国家主義に取りこまれていることに、気がつきません。無関心でいるうちに、いつのまにか、その道に「乗せられて」しまっている。気づいた時には、引き返せない地点まで来ている。ここに問題があります。
 池田 ユングの結論は、国家主義の魔性に抵抗する唯一の力は、個々人が「人間は小宇宙であり、偉大なる宇宙を小さな世界のなかに映し出している」という人間尊厳の自覚をもつことであると言うのです。
 斉藤 そうですか! これは、まさに法華経です。
 池田 その反対に、現代は「一人では何もできないといった個人の無意味さが、一人ひとりの人間に完全に染み込んでおり、誰かに自分の気持ちを伝えようなどという望みはまったく失っている」と彼は嘆いている。
 須田 たしかに「自分一人が何をしたって、どうしようもない」という″無力感″は、今、蔓延しています。自分の考えや、怒りを人に伝えても、しかたがないという孤立化もあります。連帯がありません。
 遠藤 そうやって、皆が内にこもり、沈黙することが、権力者の″思うつぼ″なのですね。私たちの運動が、どれほど大切かと確認できました。
12  タゴール「私の生命はほとばしる!」
 池田 神力品では、宇宙大の「広宣流布の瑞相」が示されたが、「人間革命」とは、一人の人間という「小宇宙」における「広宣流布」です。
 自分の中の「大生命力」を噴出させるのです。大地をたたき破って出現した地涌の菩薩のように。仏典とはもちろん次元が違うが、タゴールの有名な話を引いて、ひとつの参考にしてもらいたい。
 彼は二十歳をこえたばかりのころ、ある朝、たまたまベランダから外を見ていて、「突然に私の眼から覆いが落ちた」体験をした。「美の波と喜びを四方にあふれさせて、世界が不思議な光輝を浴びているのを見出したのだった」(「わが回想」山室静訳、『タゴール著作集』10所収、第三文明社)
 その体験を彼は詩に綴る。有名な「滝の目覚め」という詩です。
 「おお、なぜか わたしにはわからない。 幾多の歳月をへたのちに
    わたしの生命は 眠りから目覚めたのだ。
    わたしの生命は いま眠りから目覚めたのだ、
  ああ、大水が 波立ち 高まる、
  ああ、生の憧憬 を生の情熱を
    わたしは 閉じこめ 抑えることはできない。
  山が ごうごうと 地響きを立てて 震動する、
  石が ごろごろと 転がり落ちる、
  泡立つ波が どうどうと うねり
  烈しい怒りに 咆哮する」(「初期詩集」森本達雄訳、『タゴール著作集』1所収、第三文明社)
 遠藤 世界が地響きを立てて揺れ動く──何か神力品の内容を思い出させますね。
13  池田 生命の激震です。
 ただし神力品では「大歓喜の激震」であったが、タゴールがここで歌っているのは、大我が目覚め、ほとばしり出ようとして出られない、一種の″もがき″でしよう。しかし詩の後のほうでは、彼は歓喜にうながされて、こう歌っている。
 「こころの言葉を語り告げ、
     こころの調べを歌つて聞かせよう、
  生命をふんだんにほどこすほど 生命はますますほとばしり、
    もはや 生命は尽きないだろう、
  わたしには 語るべき多くの言葉が 歌うべき多くの歌がある、
    わたしの生命は ありあまるほどだ、
  わたしには 多くの歓喜が 多くの願望がある。
    生命みち 恍惚としている。
  これほどの歓喜はどこにあるだろう これほどの美はどこにあるだろう」(同前)
 斉藤 文字通り、″汝自身に目覚めた″歓喜の描写ですね。法華経とも響き合う″インドの心″を感じます。
 池田 だれもが、タゴール以上の目覚めをできるのです。
 壮大な「如来神力」といっても、その「本体」は「南無妙法蓮華経」です。
 ゆえに、御本尊に題目をあげることは、わが小宇宙の生命に、毎朝、毎夕、神力品のごとき壮麗なドラマを起こしているのです。その変革のドラマを今度は、現実社会にも広げていってこそ、神力品を読んだことになる。
 そのためには、勇気です。打って出ることです。それで自分が変わる。社会が変わる。
 大我に目覚めた、タゴールは叫んだ。
 自己の小さな限界を「打ち破れ、打て 打ち破れ!」(同前)と。

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