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日蓮大聖人・池田大作

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常不軽菩薩品(第二十章) 「増上慢」の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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15  斉藤 幹部は、よくよく振る舞いに注意しなければいけませんね。人を無礼に待たせたり、威張った態度では、法華経ではありません。
 池田 相手の態度がどうあれ、不軽菩薩は、ただひとすじに信念を貫いた。そして勝った。表面だけ見れば、「常にバカにしていた」有力者たちのほうが勝っていたように見えるかもしれない。しかし、じつは「常にバカにされていた」不軽菩薩が勝っていたのです。境涯には天地雲泥の差があつたのです。
 思えば、大聖人は、あの流罪の地・佐渡で、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」と言われた。
 何と崇高な御言葉か。幾万年の人類史の頭上、その天空高くから、雷鳴のごとく、天の交響曲のごとく、鳴り響き、とどろきわたる一言です。
 斉藤 大聖人のその深きお心も知らず、迫害に狂奔していた彼らの心は、本当に無慙です。今もいます。そういう人間について、大聖人は″長らく地獄に堕ちて苦しんで、そのあとまた日蓮に会って救われるのだ″と言われています。(御書七六六ページ、一一二三ページ等)
 池田 「善悪不二」とは、悪をそのまま認めることではない。悪と断じて戦い、打ち破って、悪をも善の味方にしていくことです。
 仏法は勝負だ。負けたのでは、現実には、善悪不二ではなく、善が悪の奴隷になってしまう。断じて勝ってこそ、悪知識をも善知識にしていけるのです。
 遠藤 大聖人は「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」と言われています。
 大聖人を流罪した相模守(北条時宗)こそ「善知識」である。そして迫害の中心者・平左衛門尉こそ、釈尊の「悪知識即善知識」であった提婆達多と同じである、と。
 池田 法華経には「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」(授記品、法華経二五七ページ)とある。敵をも味方に変えてこそ広宣流布です。
 そのためには、自覚した人間が猛然と「一人立つ」以外にない。そして民衆が鉄の団結で進む以外にない。
 この章の冒頭、桜の花の話をしたが、国家主義という転倒の思想によつて、何百万、何千万という尊き、かけがえのない命が散らされた。
 その暴虐を「やめろ!」と叫んだのが牧口先生、戸田先生です。それは最高の″愛国者″の行動であった。
 そして「人間宗」というべき法華経への殉教であつた。国家のためでなく、人間のために命を捨てたのです。この歴史を、両眼をしっかと開いて見つめなければならない。そして今こそ、新たな国家主義、権力主義の動きに対して、立ち上がるべきです。
 それこそが「不軽品」を読むことになるのです。

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