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日蓮大聖人・池田大作

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法師功徳品(第十九章) 「法師=弘教の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  須田 はい。私は(東京の)墨田に住んでいますが、墨田区の地区副婦人部長の先輩は、今日まで百六世帯の個人折伏をしておられます。昭和三十一年(一九五六年)の入会です。九七年は三世帯、九八年も二世帯の弘教を実らせ、支部の弘教拡大の突破口を開かれました。しかも、入会した人が皆、着実に成長していて、支部幹部・地区幹部として活躍している人が少なくありません。
 池田 百人もの人の人生を根本から救う──。これは、どんな大学者も大実業家も、遠く及ぶことのない大偉業です。また、そう見ていくのが、「六根清浄」のうちの「眼根精浄」に当たる。世間の「位」などに目を曇らされないということです。
 須田 その婦人は東京の下町で、靴材料の卸業を営み、六十歳を過ぎた今でもみずから車を運転し営業に飛び回っています。元気な彼女も、入会した当時は重い脊椎カリエスを患っていました。五歳の時に母親を亡くし、貧困に苦しんでもいました。
 「宿命を転換するには折伏以外にない」との指導に触れて、弘教の実践を決意したのです。仏法対話の初めは、自分が入院した病院でお見舞いに来る人に話すことから始まったのです。その結果、何年かかるかわからないといわれた入院生活から半年ほどで退院。その四日後には仕事を再開するほど見事に回復しました。その体験から仏法への強い確信を、つかまれたのです。
 斉藤 「確信の人」には誰もかないませんね。
 須田 彼女は「一年、三百六十五日、折伏です」と言っておられます。
 毎朝毎晩「私の眷属に会わせてください」と祈っていると言うのです。すると仏法の話を聞く人が不思議に現れてくる。九八年に弘教した人も、何年ぶりかで偶然に道で再会した人だそうです。
 また″あの人に仏法を教えてあげたい″と思う人の名前を書き出して毎日、祈念しておられます。″あの人が信心すれば、どれほど幸せになるだろうか″という思いで。
 遠藤 慈悲の祈りほど強いものはありません。本当に自分のことを思ってくれる人の言うことは聞かぎるをえません。幸せを祈ってくれている関野さんの強い心を友人も感じるのでしょうね。
 須田 彼女の弘教は、あまりむずかしいことは言わないそうです。短い言葉で十分(笑い)。たいてい素直に友人が入会決意する。理屈ではなく「人の命を動かす言葉」なんですね。
 池田 折伏は「真心が通じますように」と祈っていくのです。
 そうしていけば、たとえその時はどういう結果であれ、「自分の幸せを、これほど真剣に思ってくれた」という信用が残る。感動が残る。それが大事です。
 次元は違うが、一九九八年に「生誕百周年」の周恩来総理が、なぜ今なお中国十数億の人民の胸に赤々と生きているのか。
 「総理のことを思うと、涙が出てくる」と言う人は少なくない。それは、総理が誰よりも中国人民の幸せのために身を粉にして働いたからです。
 「一死尽くしし身の誠」(土井晩翠の詩「星落秋風五丈原」にうたわれた諸葛孔明の心境)です。総理の心には人民の幸福のことしかなかった。その思いが、逝去(七六年一月)から二十年以上たった今も、人々の胸を熱くするのです。
3  遠藤 「生誕百周年」記念に、池田先生が招聘された「中国中央民族歌舞団」の公演に関して、松山バレエ団の清水正天さん(理事長・団長)が、こう書かれていました。
 「周恩来総理は芸術に特別な感情を持っていました。それは感性の豊かさと人一倍の愛の心を持っているからです。人はいつかはこの世から去るが、愛はいつまでも人の心の中で消えません。中国の十四億の人々がなぜ周総理が好きなのかは、ここにその根源があります」(「民音創立三十五周年記念公演 中国中央民族歌舞団」のパンフレットから)
 斉藤 弘教も、慈愛の心が通じるように祈っていくことが大事ですね。
 池田 慈悲の一念が強ければ、相手が、どういう悩みを持っているのか、どこで行き詰まっているのかも、わかってくる。
 名医が患者の「急所」をわかるようなものです。これが「六根清浄の功徳」です。
 須田 先ほどの婦人の方は、入会して四十年余、病気も貧乏も、すっかり飛んでいってしまいました。彼女の口癖は「強いほうが勝つ」ということです。だから生命力を強くするために、必ず真剣な唱題をして弘教に臨むそうです。
 商売のうえでも不渡り手形を受けたり、いろいろなことがあったそうですが「何があっても前に進んでいける強さが身につきました」と語っておられます。
 斉藤 この「強さ」こそ、法師の「功徳」ではないでしょうか。
4  環境に負けない生命力
 池田 そう言えるでしょう。「強い」人は「幸福」です。ただし、「強さ」というのは相対的なものです。環境と、自分の生命力との「関係」です。
 生命力が弱く、しぼんでいると、つまらないことにもイライラし、左右されて、行き詰まり、不幸を感ずる。少し生命力が拡大して、家庭内のことなら解決できるだけの生命力になる。これなら家庭内のことでは行き詰まらない。
 しかし一歩、地域のこと、町内・市内の問題となると行き詰まる。また、かりに一国を悠々と繁栄の方向へ軌道に乗せていける生命力をもつ人がいても、いぎ自分自身の生老病死の問題になると行き詰まってしまう。
 法華経とは、何があっても行き詰まらない宇宙大の生命力を教えた経です。無限にわきくる大生命力を全人類に与えるのが、この仏法なのです。ゆえに、妙法への「信心が強い」人こそが、最高に「強い」人であり、最高に「幸福」な人であると結論できる。
 幸福とは、環境だけで決まるのではない。大邸宅の中で泣いて暮らしている人もいる。しかし、幸福とは、環境と無関係に決まるものでもない。子どもに食べさせるものもなくて「私は幸福だ」と言っても、それはうそです。
 幸福とは、環境(外界)と自分の生命力との「関係」で決まる。悪い環境に支配されたら不幸。悪い環境でも、こちらが支配し左右していけば幸福です。
 遠藤 だから「生命力の強い人が幸福」と言えるわけですね。
 池田 それを「六根清浄」という。現代的には「人間革命」です。
 広宣流布に励む人──すなわち「法師」は、生命が浄化され、強化される。「生命の偉大化」です。これが「法師の功徳」です。法師功徳品では、冒頭、釈尊が「常精進菩薩」に呼びかけます。
 斉藤 はい。対告衆は、この菩薩です。
 池田 日蓮大聖人は、この菩薩について「末法に於ては法華経の行者を指して常精進菩薩と心得可きなり此の経の持者は是則精進の故なり」と仰せだ。別しては大聖人、総じては大聖人の真の門下である私どもこそが対告衆なのです。それは広宣流布へ向かって「常に精進している」からです。
 遠藤 次のように始まります。「爾の時に仏、常精進菩薩摩訶薩に告げたまわく、
 『若し善男子、善女人、是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。是の人は、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳。八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以って、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん』」(法華経五二七ページ)
 須田 六根の「根」とは能力を意味するようです。さらには、能力を持つ「器官」を指します。
 斉藤 たとえば「見る」という能力(視覚)ならびに器官が「眼根」ですね。
 具体的には「眼球」と「視神経」、その能力が眼根です。
 遠藤 ちなみに「六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)」の対境を「六境(色・声・香・味・触・法)」といいます。また「六根」を働かせている主体を「六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)」といいます。これらを合わせて「十八界」です。
 斉藤 ここで、法華経を「受持し」「読み」「誦し(暗唱し)」「解説し」「書写する」という五種の修行が出てきます。いわゆる「五種の妙行」です。これを修行する人を「五種法師」というわけですが、法師品でも確認しましたように、日蓮大聖人の仏法では「御本尊の受持」という一つの行に「五種の妙行」が全部、含まれます。
 (「日女御前御返事」に「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり」とある)
 池田 「受持」とは不惜身命の信心です。御本尊を抱きしめ、広宣流布に生ききっていくのが「受持」ということです。それが「常精進」です。「日々、広宣流布」であり、「生涯、広宣流布」です。その信心によって、六根清浄になっていく。
 まず「眼の功徳」から見てみよう。
5  眼根清浄──見えない心を″見抜く″
 遠藤 はい。「是の善男子、善女人は、父母所生の清浄の肉眼をもって、三千大千世界の、内外のあらゆる山林、河海を見ること、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至らん。亦其の中の一切衆生を見、及び業の因縁、果報の生処を悉く見、悉く知らん」(法華経五二七ページ)とあります。父母からもらったこの「肉眼」で、宇宙のどんな山林も河も海も見えるし、下は無間地獄から上は有項天(天界の最高位)までのすべての衆生を見て、その過去世、未来世まで見抜けると言うのです。
 池田 「洞察力」ということです。決して神秘的な超能力とか千里眼ということではない。
 須田 あらゆる山河や海を肉眼で見るというのは、実際、科学の発達で現実になっています。科学も「生命と宇宙の法則の探究」ですから、仏法の一部であるという見方も可能かもしれません。
 その結果、たしかに人間の眼も耳も、すさまじい能力を得ることができました。
 斉藤 しかし問題は、それがイコール幸福ではないということです。科学は「外へ外へ」と探究していきましたが、「内面」の深化が伴わなければ、かえって「不幸」を生み出してしまいます。
 池田 その「幸福への道」を見いだすのが「眼の功徳」なのです。
 自分だけでなく、相手が何を求めているのか。どうしてあげれば開けるのか。名医のように見のがさない。戸田先生も本当に鋭かった。歩き方や、ドアの開け方ひとつで、その人の悩み、状態を見抜かれたものです。
 斉藤 池田先生も若いころから「レントゲン」と言われたそうですが──。
 池田 「心」は見えない。見えないその「心」を察知し、「心」の地図に精通していけるのが仏法です。仏法は、心の科学であり、心の医学と言ってよい。
 見えない心の法則や動きを、レーダーのように鋭く感知できなければ、仏法の指導者とは言えない。むずかしいことではあるが──。
 須田 かつて、ある会合で役員をやった青年が言っていました。壇上いっぱいに大きな垂れ幕をつくって、友人の役員と会合中も、ずっと幕の裏にいた。池田先生の姿を見ることもできないし、もちろん、そんなところに自分たちがいるなんて、みんなは知らない。
 ところが、会合が終わる時、池田先生が突然、「垂れ幕の後ろの人も、ご苦労さま」と言われた。驚くやら、感激するやらで、生涯の金の思い出ですと語っていました。
6  池田 別に超能力があるわけではない(笑い)。ただ私は、いつも「陰の人」を見のがすまい、「陰の人」に光を当てようと心がけているだけです。
 沖縄研修道場でも、水槽に珍しい熱帯魚が泳いでいた。(一九九八年二月下旬、フィリピン・香港訪問のあと、沖縄を訪問)
 私は、熱帯魚をとってきた人は、さぞかし大変だったに違いないと思って、さっそく感謝の伝言をしました。
 皆、「きれいだなぁ」と言うだけで(笑い)、それを準備した人のことは考えない。否、「きれいだ」とも何とも心を動かさない人もいる(笑い)。心がまるで「石」みたいに動かない(笑い)。それではいけない。私はいつも「淵源」を見ようと思っている。目に見えない土の下の「根っこ」を見ているつもりです。
 遠藤 先生が会館に行かれた時も、着かれたとたん、玄関から入らずに、すぐに裏側から回られて、皆、びっくりしたことがよくありました(笑い)。
 池田 あらさがしをしているわけではない(笑い)。目立たないところから見ていけば、全体がよくわかるものなのです。
 たとえば、雑誌だって、表紙とか初めのほうは、誰だって力を入れて作る。
 「大白蓮華」でもそうでしょう(笑い)。だから、むしろ後ろのほうから読むと、どれくらい本気で力を入れて編集しているかがわかる。そういう傾向性を見るのも「眼力」です。
 須田 よく先生は、車の陰にいる役員とかを、誰よりも早く見つけて、激励されていますね。
 池田 私のことばかり言っていないで、自分がそうならなければいけない(笑い)。
 私は自分自身が陰で戦ってきたから、陰の人の苦労がわかるのです。華やかな檜舞台の人だけでなく、「縁の下」にこそ「力もち」がいるものです。私は、いつもその人たちのことを思っているし、朝から晩まで、激動につぐ激励をしています。
 斉藤 ある人が「名誉会長は宗教家であり、社会運動家であり、著述家で、写真家で、教育者でと、さまざまな顔をもっている。一言でいうと、どういう仕事と言えるだろうか」と言うので、僭越ですが、私は「人生励まし業」ではないでしょうかと答えました。「人材育成業」と言ってもよいかもしれませんが──。
 遠藤 そういう日常の「常精進」によって、初めて「眼根清浄」へと磨かれていくということですね。
 池田 「眼根清浄」について、重ねて釈尊が説いた偈に、こうある。「若し大衆の中に於いて無所畏の心を以って是の法華経を説かん汝其の功徳を聴け」(法華経五二八ページ)
 大衆の中に飛びこみ、畏れるところ無しの心で、弘教していく時に、眼根清浄の功徳を得るのです。必ず「智慧の眼」が開けてくる。「開目」です。「天晴れぬれば地明かなり」です。
 自分の生活においても、どうしたら一番いい方向に開けるのか、はっきり見えてこなければならない。愚かであっではいけない。あせることなく、粘り強く、信心根本の工夫と努力を重ねていけば、必ず、自分にとって「無上の道」が見えてくる。
 また自分のことだけでなく、一家の未来、地域の未来、社会の未来までも洞察していけるのです。日蓮大聖人は末法の御本仏であられ、三世を見通しておられる。私どもは凡夫であるが、修行に応じて、必ずや、「智慧の眼」が炯々けいけいと輝いてくるのです。
 須田 池田先生が、大聖人の未来記の実現のために、着々とアジア広布、世界広布の手を打たれてきた。今になって、その先見性がわかりますが、初めは誰もわからなかったと聞いています。
 斉藤 また、教育・文化に貢献する創価大学にしても、民音や富士美術館にしても、創立に対して、誰もが反対したそうですね(笑い)。
 池田 文化祭だって、鼓笛隊だって、研修道場だって、みんな反対したんだよ(笑い)。仏法の素晴らしさを、より多くの人々と分かち合うには、文化・教育・平和という普遍的な広場をつくらなければいけないのです。
 昔の学会は、色でいえば「灰色」です(笑い)。それを、私がカラフルな彩りに変えたのです。
 遠藤 本当に「先見」だと思います。
7  真剣であれば「智慧の眼」が
 池田 真剣かどうかです。真剣ならば「智慧の眼」が開目する。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」です。
 たとえば、わが地域に人材がいないと嘆く前に、まず祈るのです。広宣流布は御仏意です。仏事です。仏の業です。ならば、どの地にも「地涌の菩薩」を大聖人が派遣してくださらないわけがない。人材がいないのではなく、「見えない」だけです。本気になって祈るのです。
 また「自分が全責任を担っていくのだ」と一人立つことです。その一念に呼応して、人材が現れてくるのです。
 誠実一途でいくんです、創価学会は。信心は。それが六根清浄です。濁りきった、この社会にあって、信心だけは、純白に、誠実一途でいく人を裏切らない。その人が勝つのが信心の世界です。こんなありがたい世界はない。「如蓮華在水」です。汚泥にあっても濁らない。それが蓮華です。地涌の菩薩は蓮華です。その姿を六根清浄という。
 六根とは「小宇宙」のわが生命と「大宇宙」との″接点″です。大宇宙と小宇宙が「関係」する入り口であり、また出口です。この六根が清浄になるということは、自分の生命が大宇宙と完全に「調和」し、そのリズムに合致していくということです。
 妙法のリズムと周波数が合う。
 だから、悠々と行き詰まらない力がわいてくる。大宇宙に闊歩していく自在の大生命となる。これが「即身成仏」であり、「人間革命」であり、「六根清浄」です。
 斉藤 「父母所生の眼」とありますが、この現実のわが身が変革されるという点が大事ですね。
 池田 現実です。現実を離れて仏法はない。信心したからといって、悩みの「汚泥」が無くなるわけではない。「悩みに負けない生命力」が出るということです。
 むしろ、悩みをいっぱいもっていくことだ。それらの悩みにどれだけ挑戦できるかを楽しみにできるような境涯になることです。
 また、「眼根清浄」といっても、目が見えない人もいる。その人は「心眼」が開いていくのです。必ず開ける。反対に、視力が二・〇であっても、肝心なことは何も見えない人もいる(笑い)。
8  遠藤 ヘレン・ケラー女史は、三重苦を克服した「奇跡の人」として有名ですが、マーク・トウェイン(アメリカの作家。『トム・ソーヤの冒険』などで有名)が彼女に言ったそうです。
 「ヘレンさん、この世の中には空洞(うつろ)な、どんよりとした、魂の抜けた、物の見えない目というものもあるのですよ」(ヘレン・ケラー『わたしの生涯』岩橋武夫訳、角川文庫)と。
 池田 彼女は、マーク・トウェインと友人だったね。
 トウェインは彼女のことを「十九世紀は二人の偉人を生んだ。ひとりはナポレオン一世、もうひとりはヘレン・ケラーだ」(ヘレン・ケラー『光の中へ』めるくま−る。監修者・高橋和夫の解説から)と称えていた。
 「ナポレオンは武力で世界征服を企てて失敗した。だがヘレンは、三重の苦悩を背負いながらも、豊かな精神力で栄光を勝ち取ったのだ」(同前)
 彼女がどれだけ多くの人に「希望」を与え、「勇気」を与えたか、はかりしれない。文字通り、血のにじむような努力、努力を重ねて、学問の山へ登り、転んではまた登り、彼女は叫んだ。「そうだ、心の仙境(ワンダ−ランド)においては、私は他の人と同じ自由を持つであろう」。(前掲『わたしの生涯』)
 「心」の世界は「自由」です。「仙境」というのは「不思議の国」ということでしょう。驚嘆ワンダーに満ちたすばらしい世界が、心の中に開けたのです。自由です。自在です。
 須田 そう言えば、池田先生は、学会の目の不自由な方々のグループを「自在会」と名づけられました。
 池田 ヘレンには妙法はなかった。妙法を持った自在会の人たちが、最高の「智慧の眼」を開いて、幸福になれないわけがない。
 必ずそうなってほしいという意味で命名したのです。
 また体のほかのところが不自由な人も同様です。
9  耳根清浄──″心の声″を聞く
 斉藤 眼根に続いては「耳根」です。「耳根清浄」の人は、世界のあらゆる声を聞くことができると説き、非常に具体的に表現されています。
 「三千大千世界の、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る。其の中の内外の種種の所有る語言、音声、象声、馬声、牛声、車声、啼哭声、愁歎声、螺声、鼓声、鐘声、鈴声、笑声、語声、男声、女声、童子声、童女声、法声、非法声、苦声、楽声、凡夫声、聖人声、喜声、不喜声、天声、龍声、夜叉声、乾闥婆声、阿修羅声、迦楼羅声、緊那羅声、摩喉羅伽声、火声、水声、風声、地獄声、畜生声、餓鬼声、比丘声、比丘尼声、声聞声、辟支仏声、菩薩声、仏声を聞かん。
 要を以って之を言わば、三千大千世界の中の、一切の内外の有らゆる諸の声、未だ天耳を得ずと雖も、父母ぼも所生の清浄の常の耳を以って、皆悉な聞き知らん」(法華経五二九ページ)
 池田 ここに十界の全てが挙げられている。
 地獄の衆生のうめき声から、仏が衆生を救う慈悲の声まで、世界には、ありとあらゆる声が満ちている。「耳根の功徳」を得た人は、それを悉く聞くことができる。「声」を聞いて、生命の本質が聞き分けられるということです。
 また仏の師子吼を聞けるということは最高の幸福です。魔を打ち破っていく大音声です。
 遠藤 天台の摩河止観に、医師の段階について「上医は声を聴き、中医は色を相し、下医は脈を診る」とあります。優れた医者は、脈をみたり、顔や体の様子を観察しなくても、声を聴くだけで病気がわかると言うのです。
 池田 有名な「病の起る因縁を明すに六有り」と説明する章(「病息を観ぜよ」の章)だね。仏法の歴史はつねに「生老病死」と対決し続けてきたのです。たしかに「声」には、その人の境涯、状況が、はっきり表れる。温かい声、冷たい声、弱々しい声、張りのある声、深みのある声、薄っペらな声、福徳のある声、誠実な声、二心のある声。
 聞く人が聞けば、ごまかしようがない。ある意味で、話の「中身」以上に、「声」が、その人を表している。
 斉藤 「個人指導」の名人という方々も、必ず「よく相手の話を聞くこと」を強調しておられます。話の内容は当然として、相手の「声」を慈愛をもって、耳に入れ、心に入れていくことが大事だということだと思います。
 池田 法師功徳品には「其の耳聡利なるが故に悉く能く分別して知らん」(法華経五三四ページ)とある。生命の境涯を聞き分けられるのです。
 「聡利」とは「聡明」と同じ意味だが、「聡」の字にも「耳」の字が入っている。「耳」が聡いことを「聡」といい、「目」が明察できることを「明」という。
 御書に「師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ」と仰せのように、耳ざとく、目はしが利いていなければならない。
 (師曠は中国・春秋時代の音楽家。素晴らしく耳がよかった。離婁は中国古代の伝説上の人物で、百歩離れて人の細かい毛が見えたという)
 情報戦です。この御文も、伊豆流罪という大難の直前、門下の椎地四郎に、しっかり正確な情報を集めなさいと励まされた御文とも解釈できる。「聞こえる」ということは大切なことです。「聖」という字にも「耳」が入っている。一説には、祈りながら、耳をすまして天の声を聴くことを示すという。
 天の声──宇宙の根源の声を聴く徳を「聡」と言い、その人を「聖」と言うのです。
 今言った「師曠が耳」の「師曠」もじつは目が見えなかった。目の見えない音楽家であり、文化の指導者でした。
 春秋時代、晋の国と楚の国が戦った時、晋に仕えていた師曠は風の声の中に「死声」を聴き分けて、勝負を占い、楚の国の敗北を予言したという。
10  斉藤 時代の動向をも「声」によって察知していく力が、「耳根清浄」ですね。
 池田 大聖人は「念仏の哀音」と破折された。この哀音は、亡国の響きであり、人を「死」へ誘う響きがあると。(御書には「念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」等と仰せである)
 須田 「死」の響きに対して、題目は「生」の響きです。希望のリズムです。
 池田 その「希望のリズム」を「耳」に入れていくことが娑婆世界での成仏の根本となる。「耳根得道の国」です。
 遠藤 「耳根得道」でない国土もあるということですね。
 池田 天台が「法華玄義」で説いていたでしょう。
 「香り」をもって得道(成仏)する「鼻根得道の国」とか……。
 斉藤 はい。「衆香土」は、「香を以て仏事と為す」「香を用って経と為す」とあります。
 遠藤 「声仏事を為す」ではなくて、「香、仏事を為す」ですか(笑い)。
 斉藤 光などの「色」をもって「経」とする「眼根得道の国」もあれば、天衣が身に触れて成仏する「身根得道の国」、「食」によって得道する「舌根得道の国」もあると説いています。
 須田 「舌根得道の国」で仏道修行すると、皆、太ってしょうがないでしょうね(爆笑)。
11  希望の歌声よあの人に届け!
 池田 仏法は柔軟です。生命のあらゆる可能性を見つめながら、この現実の地球においては、何が大事なのかを洞察している。地球の衆生は「耳根」が大事なのです。
 たとえば人間の五官の中で、耳は一番早く活動を始め、一番遅くまで活動する器官とされる。胎内の赤ちゃんは、ほぼ六カ月で、聞く器官と神経ができ上がり、「生まれた時には、すでにお母さんの声を覚えている」と言われる。
 牧口先生は「子どもは、お腹にいる時が一番の安住の所です。その時、信心することが子どもにとって幸いになります」と指導された。お母さんの唱題の声も、ちゃんと聞いているんです。もちろん、夫婦げんかの声も聞いている(笑い)。
 妙音を聞かせていくことが大切です。また死が近づいた時も、耳は最後まで機能している場合が多いと言われる。
 遠藤 たしかに、目や口は閉じても、耳は常に開いています。
 池田 耳は、小宇宙から大宇宙に向かって開かれた「生命の窓」なのです。また、そこから、命の奥底にまっすぐに入っていける「魂への門」なのです。音楽が、生命の深みを揺さぶるのも、この力です。
 斉藤 白樺グループの方の体験をうかがいました。
 彼女が働く病院に、あるとき、末期のガンで入院してきた男性の方がいました。
 四十代の若さでしたが、日に日に状態は悪化していきました。
 彼女は、信仰していないKさんに「最後の最後まで最高の人生を送ってもらいたい。今世で仏縁を結んでもらいたい」と祈りました。そして、「聴覚は最後まで残る」という言葉を思い出し、学会歌をテープに入れてプレゼントしたのです。
 それから数日後、その男性は亡くなったのですが、Kさんのお母さんが彼女にこう言ったのだそうです。「最後に看護婦さんからもらったテープを聞いて、この子、涙を流していたんですよ」と。
 須田 もう、かなり容体が悪くなられた時ですね。
 斉藤 ええ、それでも聞こえていたようです。
 次の日、その方の奥さんから彼女に電話がありました。「主人が涙を流して聞いていたテープを、葬儀に使わせてもらいたい」とのことでした。彼女は、自分の思いがKさんやご家族に通じたことを確信しました。「心を打つものは、やはり心である」という池田先生の指導の通りだと思ったそうです。
 池田 その「心」を「浄化」するのが「六根清浄」の根本です。「意根清浄」です。ともかく「耳根得道」なのだから、「語る」ことです。「声を出す」ことです。広宣流布の「声」を聞かせていくことです。
 温かい励ましの声。鋭い破折の正義の声。力強く呼びかける声。そして喜びの歌声。
 「こえも惜まず」と大聖人が仰せのように、広宣流布は、民衆の声が一波から万波へと広がって進んでいくのです。
 また「耳根清浄」なのだから、民衆の大地に耳をそば立て、耳を押しつけるようにして、庶民の声を聞いていかなければならない。一方通行では「耳根」は働いていない。清浄でなく汚れている。
 遠藤 民衆が耳もとで叫んでも、何も聞こえないような政治家もいます(笑い)。
12  努力の人には「努力の香り」が
 斉藤 あとは「鼻根」については、「是の法華を持たん者は香を聞いで悉く能く知らん」(法華経五三八ページ)等とあります。あらゆる香りを嗅ぎ分ける力を説いています。
 須田 通常、人は数千種を嗅ぎ分けるそうですが、香水の調香師になると一万種ともいいます。
 池田 昔から日本には「香道」という文化があった。香料や香木をたいて、香りを味わうのです。どういう香料がブレンドしであるかを嗅ぎ分けたり、香りの優劣を競う競争もしたらしい。
 「香を嗅ぐ」ことを「香を聞く」と言って「聞香(ききこう、ぶんこう)」とも言った。
 斉藤 経文にも「香を聞いで」と、「聞く」の字が使ってあります。
 池田 法華経は日本文化の基礎ですから、昔の文化人は当然、法華経を何度も読んでいたのです。
 ともあれ、その人には、その人ならではの香りがある。香水とか体臭とかではなくて、「心の香り」「生命の香り」がある。
 一心不乱に勉強し、努力し、向上している人には「努力の香り」がある。「鍛錬の香り」が、若木の香気のように、かんばしく匂ってくる。
 反対に、堕落した安逸な生活をしていれば、何となく全身から、いやな腐臭のようなものがこぼれてくる。恐ろしいものです。
 須田 それがわかるのが「鼻根清浄」ですね。
13  人を元気にさせる「声」
 斉藤 次に舌根清浄ですが、これは婦人部にはかないません(笑い)。
 遠藤 「口八丁、手八丁」という素晴らしさですからね。
 斉藤 「舌の功徳」には二種類あります。一つは「何を食べても、おいしく感じられること」。二つめは「法を説く、その人の声を山を聞いて、皆が歓喜すること」です。
 池田 一番目は「境涯の妙」だね。健康で、生命がはずんでいる人は、質素な食事であっても、おいしい。憂いに沈んでいれば、最高のごちそうでも「砂を噛んでいる」ようになる。もちろん、「だから料理がへたでもいい」ということではないが(笑い)、境涯というものは不思議なものです。
 眼根清浄の人は、平凡な風景であっても、生命が輝き出づる奇跡を見るだろうし、耳根清浄の人は、うるさい赤ん坊の泣き声も、モーツァルトの曲に聞こえるかもしれない。
 遠藤 たしかに、池田先生の写真を見ますと、平凡な風景も、「こんなに美しかったのか」と思います。
 須田 奥さんに叱られている声も、交響曲のように聞こえれば、すばらしいですね(笑い)。
 斉藤 どんなことでも楽しいということは、戸田先生が強調された「絶対的幸福境涯」にあたりますね。戸田先生は「絶対的幸福というのは、金にも因らず、健康もじゅうぶんである。一家のなかも平和で、商売もうまくいって、心豊かに、もう見るもの聞くものが、ああ、楽しいな、こう思う世界が起こってくれば、この世は、この娑婆世界が浄土であって、それを成仏というのです」と言われています。たとえば夫婦喧嘩をしても楽しい(笑い)、腹が立つ時も愉快に腹が立つ(笑い)とも言われています。
 池田 大きな青空に、真綿の雲を広げて、そのうえで悠々と下界を見おろしているような境涯です(笑い)。そういう高い境涯になるためには、ジェット機のように、一心不乱に、信心ひとすじに走りなさいというのが、「法師功徳品」なのです。
 「法師」とは「広宣流布のリーダー」です。広宣流布に身命を捧げた人のことです。自分が「法師」になれば、必ず、絶対的幸福という「大功徳」があるのです。
14  遠藤 東京・台東区のある婦人部の方は、聖教新聞啓蒙の「達人」として有名です。一九九六年は一人で一〇五八ポイント、九七年は一六一二ポイントの啓蒙をされ、九八年も三年連続千ポイントの目標を掲げて、昨年以上の勢いで啓蒙を進めておられます。東京・秋葉原のお店に勤めている勤労婦人です。
 池田 こういう方々が学会を支えてくださっている。申し訳ないことだ。英雄です。女王です。心から賛嘆し、感謝していかなければならない。皆は偉そうなことを言っているけれども、足元にも及ばない。
 遠藤 彼女が勤めている八階建てのビルには四十ものお店や会社が入っています。そこでビルに出入りする人に誰にでも明るく挨拶し、話のできる関係になっているそうです。もちろん、そうなるまでには、ごみの片付けを手伝ってあげるなど、困っている人がいれば、すすんで手助けをし、信頼を築く努力を長年重ねてこられました。多くの人が「あなたが勧めてくれるなら」といって購読してくださるそうです。
 須田 これだけの戦いをされている背景には深い決意があったのでしょうね。
 遠藤 この方はご両親の顔も知らず、おじいさんに育てられたそうです。ご両親が亡くなっていることを聞いたのは四歳の時でした。そのおじいさんも、寺沢さんが小学四年生の時に亡くなり、近所の家に年季奉公に出されました。満足に学校にも行けず、本当に「おしん」(NHKの連続テレビドラマ)のような生活だったそうです。
 それからお手伝いさんや店員やウエートレスなどの仕事をしてこられました。そしてご主人と知り合い、十年前、五十三歳の時に結婚されました。同時にご主人の紹介で創価学会に入会されたのです。ご主人に巡り会い、また妙法に出合って彼女の人生が変わりました。それまで一人ぼっちで心細い思いで生きてきたのが、精神的にも生活のうえでも、何の心配もない人生になった。″考えられないような境涯にさせていただいた″という感謝の思いが原動力だそうです。″今、私にできることは聖教新聞を啓蒙し、学会理解の輪を広げることだ″と決意して立ち上がられたのです。
 斉藤 実際にどういう努力、工夫をされているのでしょうか。もちろん単なる「方法」でできることではありませんが──。
 遠藤 「決意してからは寝ても覚めても頭の中は聖教新聞のことばかり」と言われていました。真剣さに胸を打たれます。体験談や「名字の言」など、それぞれの人に合った記事の切り抜きをこまめに贈呈されています。″この人には、この体験がぴったりだな。読ませてあげたいな″という思いが自然にわいてくるそうです。「声」を聞けば、その人の生命状態がわかるともいいます。たとえば、元気そうに話をしていても、どことなくカラ元気みたいだな、と(笑い)。そして、その人の心に響く話が自在にできる。
 池田 まさに耳根清浄──「其の耳聡利なるが故に悉く能く分別して知らん」(法華経五三四ページ)の境地ですね。人間通であり、対話の名人です。
 また舌根清浄──「若し舌根を以って、大衆の中に於いて演説する所有らんに、深妙の声を出して、能く其の心に入れて、皆歓喜し快楽せしめん」(法華経五四三ページ)のお姿です。これまでのご苦労が全部、生きてきたのでしょう。
15  リ−ダーは太陽の如く!
 斉藤 経文では、次に「身の功徳」を説いています。「清浄の身、浄瑠璃の如くにして、衆生の見ると喜ぶを得ん」(法華経五四六ページ)。誰もが見たがるような、気品のある姿になると言うのです。
 須田 浄瑠璃というのは、磨き抜かれた透明な瑠璃のことです。瑠璃は七宝の一つで、べリル(緑柱石)のこととも、またガラスの類ともいいます。
 池田 明鏡のように、「生命が輝いている」ということでしょう。そういう人が一人いると、周囲まで明るくなるし、さわやかになっていく。「太陽」のような存在になれるということです。
 リーダーは、顔色もよく、太陽が昇るような生命力でなければいけない。
 斉藤 「身の功徳」のもう一つは、清浄な身であるゆえに、″浄らかな鏡に一切が映るように、十界のあらゆるものが、その身に映じる″という功徳です。
 池田 ばっと会っただけで、生命の傾向性がわかるということです。
 自分が妙法に生ききっていれば、相手の生命が、明鏡に映すようにわかってくる。それは慈悲があるからです。決して、威張って「自分は人を見抜く力がある」などと言っては絶対にならない。お互いに凡夫です。また御本仏の家族であり、創価家族です。
 悪人は見抜かなければいけないが、同志は、どこまでも励まし合い、守り合っていくのです。
16  「戦う心」がある限り!
 斉藤 最後に「意根清浄」です。経文の「一偈、一句」を聞いただけで、「無量無辺の義」をわかるようになるとあります。また、その一偈、一句の意義を一カ月でも、四カ月、一年でも、自在に説いていけるし、説くところの法は「皆実相と相違背せじ」(法華経五四九ページ)とあります。
 池田 話す内容が全部、宇宙の真理に、きちっとかなっている。
 斉藤 はい。「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経五四九ページ)とあります。世俗の思想や、政治・経済・産業・生活等のことについて語っても、すべて正法にかなっている──それが「意根清浄の功徳」です。
 須田 池田先生の広大な言論活動は、まさにこの通りだと思います。
 池田 「意根清浄」だから、頭だって、よくなっていく。生々世々、大学者、大智慧者にもなっていく。
 要するに、六根清浄とは「全身これ広宣流布の武器たれ」ということです。要領でなく、計算でなく、不惜身命で広布へ働いていく時、限りのない生命力が全身にしみわたってくる。智慧もわく。元気もわく。慈愛もわく。
 たとえば、年をとって目が悪くなっても、手はまだ動く。手紙も書ける。口は動く。電話もできる。無理をするということではなく、胸中に「戦う心」が燃えていることが大事です。その「信心」があれば、六根精浄です。
 どんな悩みがあっても、全部、「価値」に変えていける。「功徳」に変えていける。その大生命力を「法師功徳」と言うのです。
 結論すれば、仏勅の創価学会とともに、広宣流布ひとすじに生きた人は必ず、「これ以上はない」という無上道の軌道に入っていくということです。
 前進しきった人が、必ず勝つ。
 題目を唱えきった人が、必ず最後は勝つのです。

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