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日蓮大聖人・池田大作

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分別功徳品(第十七章) 弘教の功徳――…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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12  最後まで「戦う人生」
 須田 そう思います。先ほどの白樺会の方が、どうしても忘れられない患者さんがいたと語っていました。
 壮年部一員で、ガンで亡くなったのですが、どんなに重度になっても、最後まで「戦う人生」を忘れなかったと言うのです。
 一つ一つの治療の時も、どんなにつらい時も、しつかり戦っていく姿勢は崩れなかった。医者や看護婦さんに、「きょうは、こうです」と容体を適切に話し、治療方法を相談し合いながら、可能性のある限り戦った。白樺会の方が一番印象的だったのは「目」です。剣豪のような目であったといいます。一度、元気になって退院し、再発して入院しますが、その時も戦いにいどむ「剣豪の目」は変わらない。白樺会の方は、「肉体が蝕まれていても命そのものは燃えている」と感じたそうです。
 池田 最後まで生きて生き抜くことが、「永遠の生命を知った」証です。
 「永遠の生命」と言っても、目に見えるわけではない。しかし、永遠の生命を「信ずる」ことはできます。
 斉藤 法華経では「信」が重要であることが何度も強調されています。
 池田 信ずるということは、全生命を、その法にかけていくということです。「行動即信心」です。折伏がそうです。友への励ましがそうです。妙法を伝えきっていく戦いが、今世の生命を鍛えるのです。
 そして、その鍛え抜かれた生命が、三世の軌道を自在に飛翔できるようになる。三世にわたる永遠の自由を、知らず知らずのうちに、我が生命に会得する。
 ロケットが宇宙を飛んでいけるように、生命に無尽蔵のエネルギーを貯蔵していく。獅子王の「大生命力の自分」になれる。それが如来寿量品の功徳です。
 斉藤 分別功徳品で説かれる「無生法忍」の功徳を思い出します。
 「無生法忍」とは、先ほどの「不退地」の功徳と同じとされますが、「無生」とは、生もなく死もない、すなわち常住の生命を確信する境涯です。「忍」とは「認」の意味で、一切の諸法(現象)が「無生(不生不滅)」であることを認めることです。
 池田 我が身が「永遠の仏」と一体である。仏とは、この我が生命のことである──この大確信があれば、断じて行き詰まりはありません。
 苦しみを乗り越え、悲しみを乗り越え、惰性を乗り越えて、無限に前進できます。悠々たる「不退地」です。
 遠藤 それが仏法の楽観主義ですね。
 池田 仏法の楽観主義は「なんとかなるだろう」というような″現実逃避の楽観主義″ではない。むしろ悪は悪として、苦しみは苦しみとして直視する。そして、それと断固、戦う。どんな悪や苦難とも「戦える自分自身」を信ずるのです。そういう″戦う楽観主義″です。
 楽観主義と言えば、″アメリカの良心″といわれたノーマン・カズンズ氏の、あの笑顔が浮かんでくる。亡くなられました。氏は、仏法者ではなかったが、人間の力を信ずることにおいては仏法者と同じであった。氏はこう言われています。
 「誰でも死を恐れなくてもいい。ただ一つ恐れなくてはならないのは、自分の持つ最大の力を知らずに死ぬことである。それは自分の命を他人のために捧げる自由意志の力である。われわれの力で他人の内部の何かが蘇えったら、その時われわれは不死に近づいたのである」(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)
 他人の幸福のために、自分を捧げていく。自由意志で、「菩薩の戦い」に打って出る。その時に、我が生命に「不死」の大生命力が湧現してくる。仏の「永遠の生命」が満ち潮のように、生命を浸してくる。生活だって、よくならないわけがない。その意味で、唱題できることが、弘教できることが、広宣流布に働けること自体が、最高の「功徳」なのです。
 「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」です。
 「広宣流布に生き抜く人生こそ最高だ」と、明らかに分別していく──そう覚悟していく智慧を、分別功徳品は教えているのです。

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