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日蓮大聖人・池田大作

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分別功徳品(第十七章) 弘教の功徳――…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 早いもので、「法華経の旅」も三年が経ちました(一九九五年〈平成七年〉二月から「大白蓮華」に連載開始)。あっという間です。
 池田 諸君には、あっという間でも、毎月やる私は大変なんだよ(笑い)。
 しかし、「生命の世紀」への大事な作業だから、頑張って、総仕上げの探究を開始しょう。
 一同 よろしくお願いします。
 池田 これから分別功徳品、随喜功徳品(第十八章)、法師功徳品(第十九章)と、三章にわたって「功徳」という名前がついた章が続く。
 全部、妙法の功徳が説かれている。なかんずく、妙法を弘める大功徳が説かれている。「広宣流布に戦う人」の生活、人生は、どうなっていくのか。それが説かれている。その意味で、現代において、これらの経文を実感できるのは、私どもをおいてない。その確信で学んでいこう。まず「功徳」とは、どういう意味だろうか。
 須田 はい。「功徳」とは「利益」とほとんど同じ意味としてよいと思います。「功能福徳」の略とする場合もあります。「功能」とは福利・福徳を生じさせる働きです。「福徳」とは、この功能によって生じた結果です。
 善い行動(善行)には、福徳を生じさせる「功能(働き)」か「徳」として備わっている。このことを「功徳」という場合もあります。
2  功徳は「行動」に備わる
 池田 少々、まわりくどい説明だが(笑い)、要するに、善の「行動」そのものに「功徳」は備わっている。
 決して、他から与えられるものではない。自分自身の生命の中から、自分自身の行動によって、泉のごとく滾々こんこんと湧いてくる。ほとばしって出てくる。それが「功徳」です。
 遠藤 ″棚からボタ餅″のような、いわゆる他力本願的な甘えとは違いますね。
 池田 日蓮大聖人は、「六根清浄」によって「功徳」はあると言われている。「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)」が「清浄」になるとは、我が生命の浄化です。「人間革命」であり、「宿命転換」です。
 (法師功徳品の御義口伝に「功徳とは六根清浄の果報なり、所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり」と)
 「成仏する」すなわち「人間革命する」こと以上の大功徳はない。生活上のさまざまな功徳も、自分目身の生命が、浄化された分だけ、依正不二で、さまさまな幸福の現象として現れてくるのです。
 斉藤 根本は、自分目身の生命変革にあるということですね。
 池田 自分が変われば、「さいわいを万里の外より」集めることができる。
 戸田先生はよく「私が受けた大功徳をこの講堂いっぱいとすれば、諸君の言っている功徳は小指の先くらいのものだ」と言われていた。
 広宣流布のために牢獄まで行って、牧口先生とともに迫害を一身に受けた。その「行動」の結果です。大聖人は「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」とも言われている。
 自分自身の生命の「悪」をなくし、「善」を生みだしていくのが「功徳」です。そうなるためには、折伏です。折伏とは「悪」を破折して、「善」に伏せしめることです。
 斉藤 ″悪を滅し、善を生ぜしめる″行動ですね。その行動によって、自分自身の生命の″悪を滅し、善を生ぜしめる″ことができるということですね。
 池田 反対に「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」と大聖人は仰せだ。
 (法華経の敵を見ていながら、放置して、責めなければ、師も門下も、ともに無間地獄の苦を受けることは疑いない)
 折伏です。これから学ぶ三章も、基本は「流通分」に入る。(「分別功徳品の前半」は、本門の正宗分。「涌出品の後半」と「寿量品」とこれを併せて「一品二半」とする)
 「流通」とは「流れ通わしめる」ことです。「弘教」です。
 弘教の功徳を説いているのです。妙法によって、人の幸福に尽くした分だけ、自分も幸福になる。これが仏法の功徳論です。
 遠藤 教えを「流れ通わしめる」のは弟子の使命ですから、法華経のこの章以下は、「弟子の戦い」を説いているわけですね。
3  「生きた哲学」か否か
 須田 「功徳」と言うと、いわゆる「現世利益」のように思って、低級な宗教のように見下す人もいます。しかし、仏法の功徳論は、「生命を浄化せよ」「自分自身を変革せよ」という教えなのですね。
 池田 功徳とは、現代的に言えば、「価値」であり「価値創造」ということです。
 価値の内容は「美」「利」「善」です。
 その反対(反価値)は「醜」「害(損)」「悪」です。人間の生活は、だれもが、これらの「価値」を目指して生きているのではないだろうか。
 須田 働くのも、食べるのも、本を読むのも、病気を治そうとするのも、全部、何らかの「価値」を得よう、創ろうとしていますね。
 池田 だれもが「幸福」を求めている。草木も自然に太陽に向かって伸びる。人間も、よりよき生活へ、よりよき生活へと生きている。
 それは生命の本然の働きであり、それがなくなったら、「生きながらの死」です。墓場に入ったようなものです。
 斉藤 意識しようとしまいと、人間は幸福を求め、価値を求め、功徳を求めている──たしかに、これは厳然たる事実だと思います。
 理論や解釈をうんぬんする前に、この「事実」から出発すべきです。そうでないと、どんな哲学も、実人生と関係のない「死んた哲学」になってしまいます。
 遠藤 仏法では、釈尊以来、「利」を否定したことは一度もありません。
 「功徳」を積むことを常に奨励してきたのか仏法です。そもそも功徳の「功(く)」は「功(こう)」とも読み、「幸」のことです。また「徳」は「得」のことです。(「御義口伝」に「功は幸と云う事なり」と。また「徳は得なり」(「勝曼宝窟巻上之本」)とされる)
 須田 もちろん仏法の「功徳」は、目に見える「現世利益」だけのことではありません。しかし、それを否定することは、宗教を実生活から離れた「観念の遊戯」にしてしまう。または、現実生活を向上させる力をもたない「力なき宗教」の弁解になってしまうのではないでしょうか。
4  煩悩すらそのまま功徳に
 池田 ともかく、宗教を「主観」の世界のことだけと見る偏見があることは、たしかでしょう。しかし、仏法は「生命の法」であるゆえに「生活法」なのです。
 人生は、主観視すれは「我が生命」であり、客観視すれは「我が生活」です。どちらか一方ではない。
 主観に偏れば唯心論的になるし、客観に偏れは唯物論的になる。どちらにも偏らず、「我が生命」を浄化し、強化して、「我が生活」を向上させていくのが仏法です。
 また「我が生活」の改善をもって、「我が生命」の向上の証明とするのです。
 たとえば「所願満足」と仏法では説く。「所願」は、基本的に客観世界の「我が生活」に関係している。「満足」は主観世界の「我が生命」の満足です。この両者が完全に冥合すれば「所願満足」であり、それが「幸福」です。これが戸田先生の哲学でした。
 須田 そうしますと、「所願」が少ない人は、簡単に「満足」できる──そうなるでしょうか(笑い)。
 池田 ソクラテスだったと思うが、「ちょっぴりしか欲をもたないことが、幸福への道」と言っている(笑)
 斉藤 ある意味で、小乗仏教は、欲望を滅することによって、「幸福」を得ようとしたと思います。それに対し、大乗仏教なかんずく法華経は「煩悩即菩提」と説きます。
 煩悩という「生命エネルギー」を、悪の方向にではなく、善の方向に方向づけていく智慧を教えています。
 池田 大いに欲ばり、大いに目標を高くして、全生命を燃やしていけと教えるのです。「怒りを抑えよ」と説かず、悪に対しては激怒して戦えというのが法華経です。
 御義口伝には「三毒の煩悩を此の品の時其の儘妙法の功徳なりと分別するなり」と仰せです。「貪・瞋・癡の三毒を捨てよ」というのでは偽善者をつくってしまう。
 また末法の巨大な悪にとって、こんな都合のいい民衆はない。おとなしく、無力に、翻弄されるだけの民衆であっではならない。
 大いに怒れ、大いに情熱を燃やしていけ、妙法を根本とすれば、すべてが価値創造のエネルキーに変わるのだ。これが法華経の哲学です。
 ともあれ、「功徳」と言い「罰」と言っても、宗教の専売特許ではない。万人の生活は、「功徳と罰」「価値と反価値」の連続です。
 商売して、売れれば「得(利)」だし、安く売って損すれば「損」すなわち「反価値」です。「すばらしい名画を描きたい(美の創造)」という主観が実現したら、主観と客観の冥合であり、「幸福」を感じる。望むように絵が売れたら、「利」の価値の創造です。価値創造できたら、人間は幸福を感じるのです。
 そして、「いかなる境遇(客観世界)にあろうとも価値創造できる」大生命力を、我が生命(主観世界)に開発するのが法華経の目的であり、それを人間革命という。
 須田 それが真実の「功徳」ですね。
 池田 信仰したからといって、苦しいことが何も起こらなくなるのではない。生きているかぎり、何か問題はある。しかし、何があろうとも「心」は微動だにしてはならない。妙法は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法です。
 広宣流布に前進していく信心があれば、必ず一切が「功徳」に変わる。その時はわからなくても、時とともに″万事これでよかったんだ″という所願満足の世界に入っていくのです。それを前提にして、三つの章を学んでいこう。まず順序として分別功徳品から。
5  「自我偈の功徳」を多角的に
 遠藤 はい。これは、前章の寿量品の説法を聞いた人々が、それぞれの境涯に応じて、さまざまな功徳を得ました。その功徳を十二段階にわたって分別して(区別して)説いであります。そこで「分別功徳品」と言います。
 斉藤 大聖人は端的に「自我偈の功徳」と仰せです。
 「法蓮抄」に「自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品ふんべつくどくほんに載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ」とあります。(この自我偈の功徳は、私が勝手に言う必要はありません。法華経で、次の分別功徳品に説かれています。この自我偈を聴聞して仏になった人を数えていうには、小千世界・大千世界・三千大千世界を微塵にしたほどであるとされているのです)
 池田 くわしくは、また論ずるとして、自我偈の説法を聴聞して仏になったというのは、文底から拝すれば、「南無妙法蓮華経如来を拝した功徳」のことです。御本尊を拝した大功徳です。自分自身が久遠の昔より、久遠元初の御本仏と一体不二であったことを信解した大功徳のことです。
 須田 分別功徳品は、こう始まります。
 「爾の時に大会、仏の、寿命の劫数長遠なること、是の如くなるを説きたもうを聞いて、無量無辺阿僧祇の衆生、大饒益だいにょうやくを得つ」(法華経四九四ページ)
 (その時、そこに集まっていた大勢の集いは、仏が、その寿命の劫の数が長く遠いことを、このように説かれたのを聞いて、無量・無辺・無数の衆生は、大いなる利益を得た)
 遠藤 この「大饒益」の中身については、こう説かれています。
 「或は不退地に住し 或は陀羅尼を得 或は無礙の楽説 万億の旋総持あり 或は大千界の 微塵数の菩薩有って 各各に皆能く 不滅の法輪を転ず(中略)是の如き等の衆生は 仏寿の長遠なることを聞いて 無量無漏精浄の果報を得(後略)」(法華経四九八ページ)
 池田 釈尊の説いた功徳を弥勒菩薩が、まとめ直して述べたところだね。
 遠藤 はい。ある者は「不退の地」に住する。「不退」とは「退かない」ことであり、「前へ前へ」と永遠に前進できる境涯です。
 池田 そう。「進まざるは退転」「戦わざるは退転」です。この「不退の境涯」を得られれば、その人はもう勝利者です。
 斉藤 「陀羅尼を得」とは「聞持陀羅尼門」のことで、聞いた教えを忘れない力を得るということです。
 池田 「憶持不忘の人は希なるなり」と、大聖人は仰せです。
 「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」です。そうならない、誓いを忘れない項涯を得る。また師匠の教えをちゃんと覚えていて、実践している。
6  語れば語るほど「声」は「力」に
 須田 「或は無礙の楽説」とは、「楽説無礙弁才」のことです。
 さわりなく、自由自在に、相手の楽うところにしたがって、正法を説ける力のことです。
 池田 「声仏事を為す」です。しゃべらなければならない。「口八丁、手八丁」くらいでいい。もちろん「弁才」といっても、単なるおしゃべりではない。たとえ短い言葉であっても、ぴしっと的確に破折できる。
 また、相手が心の底で一番知りたいことに、きちっと答えていける。自分がわからなければ、「わかる人のところに行きましょう」。それでもかまわないのです。それが一番いい場合だっである。大切なことは相手の「心を揺さぶり」「心をつかむ」力です。
 要するに、広宣流布への自在の言論戦です。
 斉藤 たしかに、池田先生の世界的な言論戦は、この通りの行動だと思います。
 対談集の発刊だけでも、あらゆる分野の人を相手に、約三十もの対談があります。
 (=二〇〇七年二月現在、海外識者との対談集は四十三点。対談の相手は、外国人では、トインビー博士、マルロー氏、カレルギー伯、ユイグ氏、ペッチェイ博士、ウィルソン博士、ログノフ博士とは二冊、キッシンジャー博士、カラン・シン博士、デルポラフ博士、ポーリング博士、ウィックラマシンゲ博士、常書鴻じょうしょこう氏、カズンズ氏、アイトマートフ氏、アタイデ氏、ガルトゥング博士、チリ共和国のエイルウィン前大統領、ゴルバチョフ氏、金庸きんよう氏、リハーノフ博士、ナンダ博士、シマー博士ならびにブルジョ博士、ヴィティエール博士、ジエロバ博士、また日本人では、松下幸之助氏、井上靖氏、ブラジル移住者の児玉良一氏らである)
 池田 仏法には、それだけの力があるのです。皆、まだまだ、妙法の偉大なる力を知らない。
7  精神は休まない
 須田 次の「万億の旋総持せんそうじあり」というのは、「旋陀羅尼」ともいいます。(総持とは陀羅尼のこと)。「旋」というのは、比重の異なるものが混じり合っているのを旋回させて、遠心力で分離させることを言います。ものすごい「回転」によって煩悩を分離させ、昇華し、仏の偉大さを示しきっていく精神力をいうと考えられます。
 「陀羅尼」とは、善を行い、悪を止める精神力のことです。
 池田 本当の安穏の境地というのは、悪と戦い続ける「大回転」のなかにあるということです。次も、そうした「回転」の意味がこめられているでしょう。
 須田 はい。五番目に「能く不退の法輪を転ず」、六番目に「能く清浄の法輪を転ず」とあります。
 「法輪」とは、教えを「回転する輪」に譬えたものです。仏の教えを退くことなく弘めていこう、清浄なる教えをどこまでも伝えきっていこうという信心の躍動を表現していると思います。
 遠藤 このあと七番目に、多くの菩薩たちが八回生まれ変わった後に、この上ない完全なさとりに到達することが述べられます。
 それ以降、同様に(8)四回生まれ変わった後に(9)三回生まれ変わった後に(10)二回生まれ変わった後に(11)一回生まれ変わった後に、多くの菩薩が、この上ない完全な悟りに到達する、と続きます。そして最後に、(12)「多くの衆生が皆、この上ない完全な悟りに到達したいという心を起こした」と、寿量品を聞いた功徳の紹介がしめくくられます。
 斉藤 天台大師は、これらの功徳を菩産の五十二位に立て分けています。
 (不退地(無生法忍)=十住、聞持陀羅尼=十行、楽説無礙弁才=十回向、旋陀羅尼=〈十地のうち〉初地、転不遇法輪=第二地、転清浄法輪=第三地、八生して無上の悟り〈阿耨多羅三藐三菩提〉を得る=第四地、……四生して無上の悟りを得る=第八地、三生して無上の悟りを得る=第九地、二生して無上の悟りを得る=第十地、一生して無上の悟りを得る=等覚、無上の悟りを得ようと発心する=十信)
 菩薩が得る功徳が、さまざまに挙げられています。一見これらは「人によって、それぞれの段階の功徳しか得られない」ことを示しているように見えます。しかし、そうではなく、むしろ「どんな人にも功徳を与えられる」寿量品の力用の大きさを示していると思います。
 池田 菩薩行によって得られる功徳のすべてが「寿量品への信」に含まれているのです。それは、なぜか。「等覚一転名字妙覚」といって、寿量品を聞いて「等覚」に登った菩薩(仏と等しい覚りを得た菩薩)も、じつは、その説法を通して、久遠元初の妙法を覚知し、一転して、名字即の凡夫の位から直ちに「妙覚」(仏の位)に入ったのです。
 譬えて言えば、「妙覚」という仏の位を目指し、一段一段、山を登ってきた。ところが登ってみると、何が見えてきたか。
 寿量品の山頂から見た光景は何であったか。
 それは、久遠元初以来、常住の本仏が、休むことなく不断に一切衆生を救う活動をなされている。自分自身も、かつてその化導を受けた。「大宇宙と一体の仏」と自分とは、本来は師弟一体であった。その「我が生命の真実」を思い出したのです。
 自分がどこから来て、どこへ行くのか、自分が何者なのか。それを思い出した。
 この本有常住の仏とともに、永遠に一体で衆生を救っていくために働き続ける──その「わが使命」を思い出したのです。
 「仏(妙覚)」とは決して、安住の「ゴール」ではなかった。「名字の凡夫」即「妙覚」こそが真実であった。成仏の本因に住して「戦い続ける」その境涯こそが「仏」であった。その真実がわかったのです。あえて要約して言えば、そういうことになるでしょう。
 斉藤 寿量品の文上では、そういうことは、はっきり説かれていません。しかし、「五百塵点劫」の説法を「ヒント」として、そこまでわかったということですね。
 池田 信濃町の駅まで連れてくれば、あとは教えなくても学会本部には行ける(笑い)。いわんや、一度本部に行ったことのある人なら、なおさらです。思い出せばいいのです。
 須田 釈尊が「すでに五百塵点劫という遠い昔に私は成仏していた」と説きました。それを聞いて「等覚」に至った聴衆は、釈尊が成仏するために師とした「久遠元初の妙法」こそ成仏の本因であることがわかった。
 遠藤 そして、その法を信受したのが「名字即」で、それによって直ちに釈尊と同じ境地である「妙覚」に至った──文底からみた本質論はこうなるのではないでしょう。
8  星々の″さまざまな死″
 池田 自己の生命の根源に立ち返ったのです。宇宙全体が、一つの大生命体です。自分もその宇宙生命と一体だとわかった。飛躍するようだが、先日、NASA(アメリカ航空宇宙局)が「星々のさまざまな死」の写真を発表していたね。
 須田 はい。ハッブル宇宙望遠鏡でとらえた写真です。(一九九七年十二月十七日、公表)
 星の最期の姿は、「球形」のもの、「風船形」「スプリンクラー形」「蝶々形」「ロケット形」「車輪形」のものなど、さまざまです。
 遠藤 星にも「生」と「死」がある。「生死の二法」のリズムを奏でているということですね。
 池田 恒星の「死」は、星の質量によって違うともいわれている。
 太陽と同じくらいの質量の星だと、最期は燃え尽きて、ゆっくりガスを出しながら、やがて、多くは「燃えない星」となるそうだ。白色矮星と言われる星です。
 斉藤 「燃え尽きて」静かに死んでいく──人間にもいますね(笑い)。
 池田 一方、太陽の数倍の質量があると、最期は華々しく「大爆発」を起こすと言われている。
 斉藤 超新星といわれるものですね。
 池田 そうです。日本の藤原定家の日記『明月記』にも、今の「かに星雲」を生んだ『超新星』の大爆発が記録されている。
 西暦でいうと一〇五四年(天喜二年)。平安時代の後半です。
 遠藤 ちょうど「末法の始まり」とされた年(一〇五二年)の二年後ですね。
 須田 超新星というのは、天空に突然、輝き始めて、昼間でも肉眼で見えるほど輝くものもあるそうです。そのあと、光がまた弱くなっていくわけですが──。
 池田 この時(一〇五四年)の超新星は、中国でも、アラビアでも記録され、アメリカの洞窟にも、その記録らしい線画が残されているという。
 遠藤 かに星雲は、地球からどれくらいの距離ですか。
 須田 たしか七二〇〇光年くらいです。
 遠藤 そんな遠くの「死」が地球で大騒ぎを引き起こすほどですから、エネルギー満々の、まあ、じつに″派手な死に方″です(笑い)。
 須田 そういう死に憧れる人もいるでしょうね(笑い)。
 斉藤 今回発表された写真では、太陽と同じくらいの質量の星にも「多彩な死に方」があるとわかったわけで、興味深いですね。
9  池田 宇宙のありとあらゆる存在が、「生きている」。「生死の二法」すなわち「妙法」の当体です。(妙は死、法は生を表す)
 物質面だけを見ても、星の「死」によって宇宙にまき散らされた物質が、また次の星の誕生に使われ、生物の体にも使われていく。
 われわれの体をつくっている原子も、かつでは、どこかの星として輝いていたものかもしれない。人間は「星の子」であり「宇宙の子」なのです。
 我が生命は「宇宙の大生命」と一体であり、南無妙法蓮華経の功徳とは、文字通り、宇宙大の功徳である。はてがない。限界がない。
 分別功徳品には「虚空無辺なるが如く其の福も亦是の如し」(法華経五一四ページ)とある。また「譬えば、虚空の東西南北、四維(東北・東南・西北・西南)上下、無量無辺なるが如く、是の人の功徳も、亦復是の如し」(法華経五一〇ページ)とある。
 御本尊には、無量無辺の功徳がある。無量無辺だから、説き尽くすことはできません。
 「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(日寛上人「観心本尊抄文段」文段集四四三ページ)です。その大確信の中に、分別功徳品で説かれる「四信」も「五品」も、すべて含まれている。
 (法華経の功徳について、在世の弟子に約して「四信」、滅後の弟子に約して「五品」の各段階を立てる。
 四信とは(1)一念信解〈一念の信心を起こす〉(2)略解言趣〈説かれたことの趣意をほぼ理解する〉(3)広為他説〈広く他人のために説く〉(4)深信観成〈深く信じ真理を観じて理解する〉。
 五品とは(1)初随喜品〈法華経を聞いて随喜の心を起こす〉(2)読誦品〈法華経を読誦する〉(3)説法品〈みずから受持し他人のために説く〉(4)兼行六度品〈法華経を受持する傍らに六波羅蜜を行ずる〉(5)正行六度品〈六波羅蜜を本格的に行ずる〉)
 ゆえに、「信心」があれば、乗り越えられない苦難などない。「獅子王の大生命力」がわいてくる。御本仏・日蓮大聖人の御生命がわいてくる。
 分別功徳品にも″仏と同じく師子吼して″とある。
 斉藤 はい。こうあります。「我未来に於いて 長寿にして衆生を度せんこと 今日の世尊の諸釈の中の王として 道場にて師子吼し 法を説きともうに畏るる所無きが如く 我等も未来世に一切に尊敬せられて 道場に座せん時 寿を説くこと亦是の如くならんと願わん」(法華経五〇五ページ)
 (〈仏の寿命の無量なることを聞いて、そのまま信じ受けいれる人々は、この法華経をいただいて、このように顕う〉私は、未来において、長き寿命を生きて、衆生を救済しよう。あたかも、今日の釈尊が、多くの釈迦族のなかの王として、道場において師子吼し、法を説かれるのに恐れなきように、我らも未来世において、すべてのものに尊敬されて、道場に坐す場合には、仏の無量の寿命を説くことにおいて、釈尊のようでありたい、と)
10  必ず「所願満足」に!
 池田 「長寿にして」とは「妙法の大生命をもって生き抜く」ということです。
 「師子吼」とは、「師」とは師匠、「子」とは弟子。師とともに叫びきっていくという師弟不二です。これが本来の折伏です。
 私は「戸田先生は末法の折伏の師匠である。私はその弟子である。ならば折伏ができないはずがない」と決めた。その一念で、だれ人にもまさる弘教をなしとげたのです。
 「畏るる所無し」です。恐れてはならない。恐れもなければ、グチも嘆きもない。晴れやかな「強気の信心」でいくのです。そこにこそ妙法の無限の功力が噴出してくる。
 私は、あらゆる迫害に耐え、あらゆる障害を乗り越えて、正法を弘め、学会を守った。ゆえに御本尊から偉大な功徳を頂戴した。同じ御本尊を拝んでいても、こちらの信心が弱ければ、こみあげてくる真の「大歓喜」は味わえない。信心次第で、功徳が違ってくる。一人一人、千差万別の功徳です。これを「分別功徳」と言うのです。
 また、それぞれの信心、境遇、宿命などによって、功徳の現れ方は違うが、信心を貫けば、必ず最後には「所願満足」となる。これが「分別功徳」の深義です。
 たとえば、事故は絶対にあっではならないが、かりに不慮の事故等で亡くなった場合にも、「信心」さえ燃えていれば、「須臾の間に」(御書五七四ページ)──すぐに──また広宣流布の陣列に戻ってこられる。「悪知識」に染まれば地獄に堕ちるが、「悪象」に殺されても地獄には堕ちないと、経文にも御書にも仰せです。「悪象に殺される」とは、今で言えば交通事故などの不慮の事故です。
 いわんや、広宣流布の活動の途上で亡くなった方が、大果報を受けないはずがない。「転重軽受法門」(御書一〇〇〇ページ)にも、そう仰せです。いわば殉教です。人間として最高に尊貴なる死なのです。
11  学会同志の荘厳な生死
 斉蒔 先ほど、「星の死に方も、さまざまである」というお話がありましたが、人間の死に方もさまざまです。これは、白樺会(婦人部の看護者のグループ)の方から聞いた話です。よく「本人の生前の死生観が大切」と言いますが、臨終の時は理屈や知識だけでは全く役に立たないそうです。
 貪・瞋・癡の三毒が噴き上げてくるような厳しさの中で、「本当に心の底から安定していないと乗り越えられるものではありません」と語っておられました。地位や財産が関係ないのは当然ですが、学会の世界にあっても、役職は関係ない。自分は幹部だから大丈夫などと無理して痛みをつくろっても、臨終の苦悩はごまかすことができない、と。
 遠藤 ある壮年の方の体験ですが、訪れて来る人を最後まで励まし続けて亡くなるんですね。もう、これで最期だという時に、看病していた奥さんが泣き出す。そうしたら、ご主人が″泣くんじゃない″と、かえって励ましたそうです。
 看護婦さんたちにも、「もうこれで自分は最期だと思います。お世話になった他の看護婦の皆さんにも『ありがとうごぎいました』とお伝えください」とあいさつをされた。そして、最後まで奥さんを励まして亡くなっていかれたそうです。
 須田 私も、「看護婦さんたちから、『マシュマロのような存在だった』と言われた」婦人部の万の話を聞きました。なぜ、マシュマロかというと、その人を看病した誰もが、まろやかなマシュマロにフワフワと抱っこされるような気持ちになるからだというのです(笑い)。
 人を思いやる温かさに満ちあふれていた方でした。亡くなる最期まで、豊かな気持ちで周りを包んでいたそうです。
 池田 菩薩です。否、仏の生命です。自分の境涯革命はおろか、他人の境涯まで高めながら亡くなられている。
 斉藤 分別功徳品は「如来の寿命の長さを知る功徳」すなわち「永遠の生命を知る功徳」が説かれています。それはまさに、こうした人たちの臨終の姿にあらわれているのではないでしょうか。
 池田 そうです。現実を離れた観念の話ではない。
 私ども無名の庶民が力強く、「生も充実、死も充実」と胸を張って、どこまでも前向きに、真剣に生きていく。その大生命力を与えるために仏法は説かれたのです。
 分別功徳品には、こうある。「精進勇猛にして、諸の善法を摂し、利根智慧にして、善く問難に答えん」(法華経五一一ページ)(精進すること勇猛にして、多くの善なる法を学び、機根と智慧にすぐれ、むずかしい問いにも、巧みに答えるであろ)
 これこそ、我が同志の姿ではないだろうか。勇猛精進です。
12  最後まで「戦う人生」
 須田 そう思います。先ほどの白樺会の方が、どうしても忘れられない患者さんがいたと語っていました。
 壮年部一員で、ガンで亡くなったのですが、どんなに重度になっても、最後まで「戦う人生」を忘れなかったと言うのです。
 一つ一つの治療の時も、どんなにつらい時も、しつかり戦っていく姿勢は崩れなかった。医者や看護婦さんに、「きょうは、こうです」と容体を適切に話し、治療方法を相談し合いながら、可能性のある限り戦った。白樺会の方が一番印象的だったのは「目」です。剣豪のような目であったといいます。一度、元気になって退院し、再発して入院しますが、その時も戦いにいどむ「剣豪の目」は変わらない。白樺会の方は、「肉体が蝕まれていても命そのものは燃えている」と感じたそうです。
 池田 最後まで生きて生き抜くことが、「永遠の生命を知った」証です。
 「永遠の生命」と言っても、目に見えるわけではない。しかし、永遠の生命を「信ずる」ことはできます。
 斉藤 法華経では「信」が重要であることが何度も強調されています。
 池田 信ずるということは、全生命を、その法にかけていくということです。「行動即信心」です。折伏がそうです。友への励ましがそうです。妙法を伝えきっていく戦いが、今世の生命を鍛えるのです。
 そして、その鍛え抜かれた生命が、三世の軌道を自在に飛翔できるようになる。三世にわたる永遠の自由を、知らず知らずのうちに、我が生命に会得する。
 ロケットが宇宙を飛んでいけるように、生命に無尽蔵のエネルギーを貯蔵していく。獅子王の「大生命力の自分」になれる。それが如来寿量品の功徳です。
 斉藤 分別功徳品で説かれる「無生法忍」の功徳を思い出します。
 「無生法忍」とは、先ほどの「不退地」の功徳と同じとされますが、「無生」とは、生もなく死もない、すなわち常住の生命を確信する境涯です。「忍」とは「認」の意味で、一切の諸法(現象)が「無生(不生不滅)」であることを認めることです。
 池田 我が身が「永遠の仏」と一体である。仏とは、この我が生命のことである──この大確信があれば、断じて行き詰まりはありません。
 苦しみを乗り越え、悲しみを乗り越え、惰性を乗り越えて、無限に前進できます。悠々たる「不退地」です。
 遠藤 それが仏法の楽観主義ですね。
 池田 仏法の楽観主義は「なんとかなるだろう」というような″現実逃避の楽観主義″ではない。むしろ悪は悪として、苦しみは苦しみとして直視する。そして、それと断固、戦う。どんな悪や苦難とも「戦える自分自身」を信ずるのです。そういう″戦う楽観主義″です。
 楽観主義と言えば、″アメリカの良心″といわれたノーマン・カズンズ氏の、あの笑顔が浮かんでくる。亡くなられました。氏は、仏法者ではなかったが、人間の力を信ずることにおいては仏法者と同じであった。氏はこう言われています。
 「誰でも死を恐れなくてもいい。ただ一つ恐れなくてはならないのは、自分の持つ最大の力を知らずに死ぬことである。それは自分の命を他人のために捧げる自由意志の力である。われわれの力で他人の内部の何かが蘇えったら、その時われわれは不死に近づいたのである」(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)
 他人の幸福のために、自分を捧げていく。自由意志で、「菩薩の戦い」に打って出る。その時に、我が生命に「不死」の大生命力が湧現してくる。仏の「永遠の生命」が満ち潮のように、生命を浸してくる。生活だって、よくならないわけがない。その意味で、唱題できることが、弘教できることが、広宣流布に働けること自体が、最高の「功徳」なのです。
 「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」です。
 「広宣流布に生き抜く人生こそ最高だ」と、明らかに分別していく──そう覚悟していく智慧を、分別功徳品は教えているのです。

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