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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 永遠の生命とは…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  五陰の和合がとかれていく
 須田 それでは、ひとつの手がかりとして、「臨終用心抄」(富要三巻二五九ページ)を見てみたいと思います。
 これは日寛上人の説法を記録したとされるものです。
 文字どおり、「臨終」を迎えるに当たっての「用心」が書いてあります。
 遠藤 「病人の周りに酒に酔った人を近づけてはならない」とか、「大勢で騒がしく取り囲むようなことは避けなさい」とか書いてあります。(同前二六四ページ、趣意)これは、死にゆく人の静穏を乱してはならないということですね。
 池田 「臨終」の際の「一念」が、どこに向いているかで、宇宙の何界に溶けこんでいくかが大きくが左右されてしまう。そこで、臨終の一念を、一心に妙法へ向けさせていく「用心」が示されているわけです。
 斉藤 「病人が執着を残すような財宝をそばに置いてはいけない」とか「執着を起こさせるようなことを話してはいけない」「腹を立てさせてはいけない」(同ページ、趣意)などの用心も、一心に妙法へ心を向けさせるためです。
 須田 「息が絶えても、しばらくは、亡くなった人の耳に題目を聞かせてあげなさい」(同前二六五ページ、趣意)とも言われています。
 つまり「死ても底心そこしんあり」(同ページ)ということで、当時は呼吸が止まれば「死」とされたのに、その後もしばらくは、生命の奥底に心が残っている。その心に題目を聞かせてあげなさいと言われているのです。
 遠藤 「生から死へ」の移行は、一瞬になされるのではなく、次第に推移していくと見ているわけですね。
 池田 「死」を、連続的な「過程(プロセス)」と見ている。
 斉藤 その過程とは、肉体の面で言えば、体が「有情」から「非情」へと移っていく変化と言えます。途中までは何かのきっかけで、再び「生」の方向へ転ずる可能性もあります。しかし、ある段階を越えると、二度と「生」に転ずることはなくなると思われます。前に取り上げた臨死体験は、もちろん、戻ることができる段階の体験です。
 須田 二度と逆戻りしない地点を越えて、生命は遂に完全な「死」へと向かいます。この地点のことを、古来、「三途の川」という表現で示してきたのかもしれません。
 池田 生命体が「生」から「死」へ向かう時、何が起きるのか。仏法では、一個の生命体を、心身の働きが「仮に和合したもの」と見る。
 遠藤 五陰仮和合ですね。
 池田 五陰のうち「色陰」は生命の物質的側面です。「受陰・想陰・行陰・識陰」は精神作用です。
 (「受」は眼耳鼻舌身意の六根を通して、外界を受け入れる心的作用。「想」は受け入れたものを知覚し、想い浮かべる心的作用。「行」は想陰に基づいて何かを行おうとする心の作用。「識」は受・想・行陰の作用を統括する根本の心的活動)
 「生」の力とは、こうした色心の働きを「和合」させる力です。和合し、統合し、外界に向かって能動的に活動させていく。
 遠藤 たしかに色法だけを見ても、宇宙の物質を集めてわれわれの身体はできています。
 池田 人体の細胞は、一説には六十兆個とも言われる。それらが新陳代謝を、常に繰り返している。いわば細胞次元での「生と死」を繰り返している。生死の二法です。
 それでありながら一個の生命として、厳然と統合され、秩序立って活動しています。それが「死」に向かうとき、生の統合力が失われ、「かりに和合していた」五陰の和合が、ほどかれていく。色心の働きは「潜在化」していきます。
 また肉体を支えていた五大(地水火風空)の統合が失われていきます。
 須田 「臨終用心抄」では、「断末魔の風が身中に出来する時、骨と肉と離るる也」(同前二五九ページ)とあります。体の中を風が吹き抜けて、五体をバラバラにするように感じるのでしょうか。実際、そういう臨死体験もあります。
 その時に受ける苦しみを「死苦」と呼ぶわけですが、日寛上人は、死苦について「善業有れば苦悩多からず」(同ページ)と言われています。
 池田 死ぬ時に苦しまない──これだけでも信仰の偉大なる功徳です。どれほど、ありがたいことか。
3  「臨終の相」に医学的裏付け
 斉藤 学会の中には、そういう体験が無数にあります。見事な臨終の相で穏やかに亡くなられている方が実に多い。病気で亡くなっても苦しまなかったとか、不慮の事故で亡くなっても眠るような表情だったという話もよく聞きます。
 須田 葬祭業の仕事をしている人から聞いたのですが、「たしかに死化粧というのはあるが、どんなに繕っても死相を根本的に変えることはできない。こればかりは、お金で買ったり、地位で得ることは絶対にできない。いろいろ見てきたけれど、結局その人の生きぎまが、そのまま反映しているのではないかと思えてならない」と言っていました。
 学会の葬儀は、参列者の雰囲気も、やはり違う。送る人も、心からその人の死を悼んでいることがわかって、「ああ、故人が人を大切にしてきたからなんだな」と感じることがあるそうです。
 遠藤 とくに、人のために動いてきた方の葬儀は、参列者が後をたちません。社会的には無名なのに次から次に参列者が来るので、信心をしていない遺族や町内会の人が、あらためて故人の偉大な足跡を知ったという話をよく聞きます。
 池田 死んでからも折伏しているんだね。見事です。その方々こそ″庶民の英雄″です。「是の人は命終して、千仏のみてを授け、恐怖くふせず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを」(法華経六七二ページ)と法華経(普賢品〈第二十八章〉)にある通りだ。
 (この人は命を終わる時、千の仏が手を授けて、恐怖することなく、苦悩の境涯に堕ちないようにさせてくださるのである)
 広宣流布へ戦った庶民の英雄を、千仏が賛嘆する。千仏とは、故人のために唱題する多くの人々のこととも言える。もちろん、大事なのは、送る人の人数ではない。故人を包む真心の唱題です。同志の真心の唱題に送られていくことほど、霊山への最高の旅立ちはありません。
 須田 昨年(一九九六年)に亡くなられた八王子の婦人部の方の体験を聞きました。長年、地域広布の中心者として戦い、本当に大勢の人に送られて葬儀が営まれました。
 六十五歳で亡くなられた時の穏やかな顔は地域でも評判になりました。葬儀の関係で五日間、遺体を家で安置されていたのですが、日ましに顔が綺麗になっていったと言うのです。おでこのシワもなくなり、若返って見えました。「童女のように微笑んでいる、本当に、そんなお顔だった」と訪れた人は一様に驚いたそうです。
 昭和三十年(一九五五年)の入会で、八年前に肺腫瘍で手術をしましたが、退院後も、生き生きと八王子の天地を走っておられたようです。
 池田 よくうかがっています。八王子だけでなく、第二東京の多くの人たちから信頼が厚かったようだね。
 須田 時間があれば地域の学会員のかたと懇談したり、電話をかけて人を励まし続けていました。いつも賑やかなくらいお元気で、ある人が「なんでそんなに明るいんですか」と聞いたことがあった。すると「人の悩みを解決しようと唱題をするおかげです。人を励ませば励ますほど、ますます自分の生命力が豊かになっていると思うわ」と語っておられたといいます。
 いつも部員さんを明るく激励されていたので、突然の死に、誰もが驚きました。生前、よく「永遠の生命なんだもの。どうせなら、花が散るように死んでいきたいわ。皆に迷惑をかけないからね」と言っておられたそうです。
 亡くなられる時は、すーっと意識が遠のき、苦しみも、まったくなかった。そして、先ほどご紹介しましたように、本当に穏やかな顔で、まるで人を励ましているようだったといいます。
 斉藤 臨終の相で、また皆を激励しているのですね。
 遠藤 日蓮大聖人は、臨終の相に「死後」の状態が表れていくと言われています。前にも出たように「善人」は顔色も白くなり、体も軽く、柔らかくなる等と仰せです(御書一三一六ページ、趣意)。どういう場合に、顔色がよくなることが多いか、ターミナル・ケア(終末医療)の専門家の方にうかがったことがあります。
 要約しますと、満足感をもって安心して亡くなる場合は、大体、血管が開いた状態だそうです。すると、血液の凝固と筋肉の硬直が比較的遅くなる。だから、顔色が白く、体が柔らかい。
 ところが、後悔や無念さを抱いて苦しみながら亡くなる場合、拳を握り締めたような形になるので血管が収縮した状態になる。すると、血液の凝固と筋肉の硬直が早く始まり、色が黒く、体が硬くなるという話でした。
 成仏ということとは次元が違うかもしれませんが、一般的な傾向として、死を迎えた時の心の状態が、その人の亡くなっていく姿に現れるのではないかと言うのです。
 池田 臨終の姿の相違が医学的にも、ある程度、裏付けられるということだね。
 もちろん、妙法の功徳は一切の罪障を消しているのですから、信心に励んでいる人は何があっても、心配する必要は、まったくない。たとえ事故などで亡くなった場合であっても、生前に強盛な信心があれば成仏していけることは間違いない。
4  「業のエネルギー」が続く
 斉藤 そこで問題は、死後、何が続いていくのかです。とくに、仏教では霊魂などの実体を否定し、「無我」と説きます。永遠に不変の「我」は実体としては存在しないというわけです。
 その一方で、死後の生命を説き、ある意味で「輪廻転生」を認めている。この二つは矛盾するのではないかということです。
 池田 仏教発祥以来の古い疑問です。これを仏教史を通して論ずると興味深いが、煩雑になるので省きます。ただ「空」の思想も、「唯識」学派の探究も、この問題意識と深く関わっていたことだけは言っておきたい。
 死後、何が続くのか?──結論を言えば、釈尊の答えは「業相続」でした。現在は過去の行為(業=カルマ)の結果(果報)であり、現在の行為が未来の生の在り方を決定する。つまり、行為(業)の影響が次々に生死を超えて受け継がれていくということです。
 斉藤 業──「身口意の三業」というように、色心の「行い」のことですね。「したこと」「言ったこと」「思ったこと」。それらの影響が少しも消えることなく、すべて未来へ続いていくということですね。考えてみれば、厳粛なまでに厳しい教えです。
 池田 そうです。現代人にわかりやすく言うと、「業のエネルギー」が生死を超えて続いていくのです。
 遠藤 「エネルギー」で思い出したのですが、物理学の法則に「エネルギー保存の法則」があります。エネルギーは「不生不滅」だということです。
 熱エネルギーが運動エネルギーに変わったり、位置エネルギーが電気エネルギーに変換されることはあっても、無から突然、エネルギーが生れることはなく、今あるエネルギーが突然に消えることもありません。ただ、姿を変えるだけです。
 須田 「物質」にしても、それは「エネルギー」が安定した姿なんですね。たしかに「エネルギーこそ究極の実在」と言われるのも理由があります。
 池田 ルネ・ユイグ氏も名著『かたちと力』(西野嘉章・寺田光徳訳、潮出版社)の中で、そのことを論じていた。(ユイグ氏〈一九〇六年〜九七年〉はフランスの美学者。名誉会長と対談集『闇は暁を求めて』〈本全集第五巻収録〉)
 ユイグ氏によると、原子の世界から大宇宙の生成まで、「かたち」と「力」という原理がダイナミックに貫いているという。芸術の創造という高度の精神作用も例外ではないと言うのです。
 「力」とは、今の場合、エネルギーの別名といってよい。そのエネルギーが、何らかの作用で、安定した「かたち」をつくる。
 その「かたち」に込められたエネルギーが作用を続行すれば、また別の「かたち」を取ったり、エネルギーそのものへと戻っていく。
 仏法の眼で見れば、「力」とは、「空諦」の面でしょう。「かたち」とは「仮諦」の面です。
 斉藤 そうしますと、「生と死」で言えば、業のエネルギーが、かりに一定の「かたち」をとったのが「生」であり、その「かたち」をくずして、エネルギーの流れそのものとして宇宙の生命流に溶けこんでいくのが「死」と考えてよいでしょうか。
 池田 比喩的に言えば、そう言えるでしょう。もちろん、その「かたち」も刻々と変化を続けているのです。
 遠藤 「エネルギー保存の法則」をもじって言えば、「カルマ(業)保存の法則」と言えそうですね。
 池田 興味深いのは、ユイグ氏が「力(エネルギー)」が「かたち」になるための重要な要素として「波動」をあげていることです。そのエネルギーがもっている、それぞれの「波動」「振動」「リズム」によって、「かたち」が決まってくるという。
 有名な「サイマティクス(波動形態学)」の実験をもとにした話です。
 斉藤 「サイマティクス」というのは、円盤の上に、液体や粉末、金属のくず等をばらまき、一定の振動を与える実験をするのですね。
 すると、周波数がある段階に達すると、粉末などは、盤上で一定の模様を描き始める。らせん型とか渦とか、樹木状、六角形、鱗などの模様になると言うのです。
 池田 しかも、有機物の「かたち」を示すことも多い。たとえば「さんごの芽や枝」「ソラマメ」「貝殻」「魚の骨」「亀の甲羅」「蜂の巣の六角形の房室」などです。
 これらを通して、ユイグ氏は、あらゆる存在にあるのは、エネルギーと、その振動(リズム)ではないかと洞察しています。それぞれの生命体に固有の「生命の波長」があるのかもしれないという洞察です。
 もちろん「業のエネルギー」は「物理的エネルギー」とは違う。色法にも心法にも影響を及ぼす「潜在的な生命エネルギー」です。だから、あくまで生死の二法の実相を類推する手がかりと考えてもらいたい。
5  業の連続性を担う「阿頼耶識あらやしき
 須田 その業のエネルギーが、生死を超えて流れていくとします。
 業には善業と悪業がありますから、各生命体の過去世からの善悪の業力(エネルギー)によって、現在の「生」の姿が決まっていくわけですね。
 池田 そう。プラス(善)のエネルギーと、マイナス(悪)のエネルギーのかね合いで、生の「かたち」が決まっていく。
 遠藤 業力の果報として、頭がよく生まれたり、美しく生まれたりする──これは自分自身の主体への果報ですから「正報」です。けんかの絶えない家に生まれたりするのは「依報」としての果報となります。
 戸田先生は、こう言われています。「過去世に行った自分の行状というものが、自分の生命のなかに全部含まれてくるのであります。ここに仏法の大事さがあるのであります。『まえにやったことは関係ない。おれは新しく生まれるのだから』と、こういいたいでしょうけれども、そういうわけにはいきません。
 なぜ貧乏人に生まれたのだ、なぜ頭が悪く生まれたのだ、こんなに商売を一生懸命にやっているのに、なぜうまくゆかないのだろうかと……。みんな過去世にあるのであります。過去世にあるが、それをどう打開するかということが大聖人の仏法なのであります。
 生理学上われわれの生命というものは、五年間たつと、目の玉の芯から骨の髄まで細胞が変わってしまうのであります。これは今の医学で認めているところであります。だから五年前に借金したのは、払わなくてもいいことになるのですが、それでカンペンしてくれればよいのですけれども、借金取りはきちんと取りにきます。過去のわれわれの行動は、未来において責任をおわなければなりません。
 それは理屈のうえではわかりますが、実際問題としては困ります。そこで大聖人のおおせには『あなた方は薄徳の人だ。だがこの大御本尊様を拝めば、過去世でどんな悪いことをしてあっても全部許されます。そして、善いことをしたのと同じ結果が現れる』と。ですから信心が大事になってくるのであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 斉藤 生命を支えている業のエネルギーが、すべて現在、表面に出ているわけではありません。しかし、今世とはかぎらなくても、いつか、そのエネルギーは何らかの果報をもたらします。ここでのテーマに沿って言うと、この業エネルギーが、どのように死後も続いていくのか、それが問題です。
6  池田 そのことを緻密に説いたのが、「九識論」でしょう。
 斉藤 そうですね。唯識論は、現代の心理学にも大きな影響を与えるほど、人間生命の内奥を明かしていますが、そもそも「無我説と輪廻説の矛盾を解決する」役割をも担っていました。
 須田 九識のうち、初めの五識は、いわゆる五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)に基づいた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識です。
 感覚・知覚作用である、これらの五識を統括しているのが第六識の意識です。これは物事を推理・判断する知性の働きです。私たちの日常生活は、ほとんどこの六識までで営まれています。
 遠藤 そこから、さらに踏み込んで第七識の末那識まなしき、第八識の阿頼耶識あらやしきを立てています。これはいわば無意識の領域です。
 池田 業の連続性は、この第八識が担っているわけだ。
 斉藤 阿頼耶識あらやしきですね。第七識までは、死んでしまうとその働きは停止してしまいますが、第八識は三世にわたって働き続けます。「阿頼耶(アラヤ)」という言葉は本来、「在りか」という意味です。業が貯蔵される在りか、蔵ですから「蔵識」とも訳されます。
 池田 「ヒマラヤ」というのも、「ヒマ」つまり「雪」と「アラヤ」つまり「蔵」を組み合わせてできたようだ。
 遠藤 「雪の蔵」ですね。
 池田 「阿頼耶識」は蔵のように、一切の業がそこに貯蔵されていくわけだね。善業も悪業も、すべてそこに種子として貯蔵されていく。ただ、「蔵」というと、業エネルギーとは別に、何らかの容れものとしての実体があるような印象を受ける。
 しかし、実際には、業エネルギーの生命流そのものが八識と言ったほうがいいかもしれない。
 斉藤 仏典にも「暴流のごとし」(「唯識三十論頌」)とあります。
 池田 しかも、八識の生命流は、一個人の境界を超えて、他の生命の業エネルギーと交流している。
 八識という生命内奥の次元では、業の潜在的エネルギーは、家族、民族、人類の潜在エネルギーと合流し、さらには動物、植物といった他の生命とも融合しているのです。
 須田 壮大ですね。だからこそ、一人の「人間革命」が、家庭や社会の宿命をも転換していくわけですね。一個人の生命の奥底の業のエネルギーが、悪業から善業に変わることが、他の生命の業の転換に連動していきます。
 池田 「マイナス・エネルギー(悪業)からプラス・エネルギー(善業)への転換」──そのためには善業を一つ一つ積み重ねるという方法もある。
 しかし、現実的には、石を積んでは自分で崩してしまうようなことになりかねない。とくに、社会の奥底に悪のエネルギーが渦巻いているような時代にあっては、そうでしょう。
 そこで、八識をも包みゆく宇宙生命それ自体──第九識といわれる「根本浄識」を触発することによって、一気に、善悪の業エネルギーを「極善」のエネルギーに変えていく方法を教えたのが法華経なのです。寿量品の「久遠の仏」とは、この無始無終の根本浄識の人格的表現とも言えるでしょう。
 この根本浄識を触発することによって、個人の善悪の業エネルギーは、すべて価値創造へ向かう。さらには民族心(民族意識)、人類心(人類意識)をも、慈悲と智慧の生命流に浸していけるのです。
 斉藤 この根本浄識こそ、大聖人の教えられた「九識心王真如の都」ですね。御本尊であり、信仰者の「胸中の肉団」の御本尊です。
 遠藤 大聖人は「妙法の五字は九識」とも仰せです。「妙法蓮華経」即「宇宙生命」ということですね。
7  「生命の波長」に十界の違いが
 池田 さあ、そこで「死後の生命」です。これは業の生命流が、「空」の状態で宇宙生命と一体になるのです。「空」だから、「有」でも「無」でもない。宇宙の″ここ″にあるとか″あそこ″にあるとかは言えない。宇宙生命の全体と一体になっているのです。
 須田 戸田先生は「大宇宙には家のおじいさんの命も、おばあさんの命も存在している。おじいさんとおばあさんが手をつないでいるなどと、そんなことはありません。どこにいるかさっぱりわからないのです」と言われています。
 池田 どこにあるのでもない。だから、単純に「有る」とは言えない。しかし、「無い」かというと、生命は縁に応じてまた生まれてくる。死後の生命は「有」「無」の概念を超えているのです。
 こういうと神秘的な感じがするかもしれないが、通常の「日常的思考」を超えているという点では、物理学の先端──たとえば量子力学でも同じです。光が「波」であると同時に「粒子」の性格をもつというような発見は、日常的思考の枠を超えているといえる。
 須田 「波」と「粒子」では、互いに矛盾するわけですから──。それが両方の性格をもっていて、しかも、常にどちらか一方の性格を示すというのですから、不思議です。
 斉藤 前にも出ましたが、「空」の状態の生命を、戸田先生は、ラジオの電波を譬えにして説明されていました。現代人なら、テレビの電波のほうが分かりやすいでしょうか。
 池田 そう。今、世界には、さまざまな放送局からいろんな波長の電波が飛び交っている。今、ここにも、日本のいろんな放送局からの電波もあれば、海外からのいろんな電波もある。
 いっぱいあるが、受像機があって、見たい放送の波長にチャンネルを合わせれば、音が聞こえ、映像が見える。受像機が「縁」となって、見えない波長が、見える像になる。いわば波長の「死から生へ」の変化です。
 須田 放送は音や映像をいろいろな要素に分解し電波にして伝えられています。しかしテレビの受像機でまた合成されて、もとの映像が再現されます。音も映像も要素にばらばらになっていても、元々、一つのまとまりのものは、まとまって再現されるわけです。「仮和合」の姿に似ていますね。
8  池田 人間も生まれるときに、自分自身の業のエネルギーにふさわしい色心すなわち「正報」と、ふさわしい環境すなわち「依報」を得て生まれてくる。
 もちろん依正不二で、この二つは一体です。ともに自分自身の業エネルギーの顕現(果報)だからです。この「死から生へ」について、戸田先生がよく例に引かれていたのが、囲碁の局面です。名人戦などの大きなタイトル戦では、一局の勝負が二日間にわたるね。初日に決着がつかないと、いったん終わる。これが「臨終」に当たる。しかし、翌日には、再び石が、終わった時とまったく同じように並べられて、対局が開始される。これが「次の生」です。連続しているのです。ゼロから始まるのではない。「続き」をやるのです。だから「生まれ変わる」のではない。
 戸田先生は「長い線香が短い線香に生まれ変わったとか、長いタバコが短く生まれ変わったとか言わないでしょう。この生命が、そのまま続いていくのです」とも強調されていた。ご自分の胸をたたきながら、「この肉体が、そのまま続いていくのです」と言われたこともある。どこまでも色心一体の生命が連続することを教えられたのです。
 ともあれ、私たちのそれぞれの生命は十界のいずれかです。戸田先生は、その十界の違いを波長の違いに譬えられていた。十界の違いを「生命の波長」とされたのです。そして、宇宙の大生命にも十界がある。その人の臨終の一念が地獄界なら、宇宙生命の地獄界に溶けこむ。天界なら、天界に溶けこむ。
 遠藤 つまり、自分の「生命の波長」と一致する波長をもつ宇宙生命の十界のどこかに溶けこむのですね。
 斉藤 「生命の波長」──先ほどの、ユイグ氏が、万物の究極はエネルギーとその波動(リズム)ではないかと言われていたことを思い出しますね。
 須田 溶けこむという、その「溶けこみ方」ですが(笑い)、先ほどの話からすれば、宇宙生命に具わる十界といっても、宇宙のどこかに実体として存在しているものではありません。
 冥王星の向こうに八寒地獄があるとか、金星のそばに天界があるとかということではない。としますと、宇宙生命全体に広がって具わっている……。
 池田 地獄界でも天界でも仏界でも、宇宙全体です。これは「十界互具」のところでもやったことだが──。
 そこに溶けこむ各界の生命も、宇宙全体と一つになっている。だからこそ、縁さえあれば、宇宙のどこであっても、直ちに感じ応じることができる。そして、宇宙中から最もふさわしい色心と環境を選んで、一個の生命として生まれてくるのです。
 遠藤 戸田先生は、宇宙全体に広がっている生命が「片寄ってきてしまえば、衆生として生まれてこなくてはいけない」(同全集2)とおっしゃっています。縁があると、宇宙に広がっている生命が瞬時に一個所に集まって一個の生命になるということでしょうか。
 池田 そういう見方をすれば、そういう説明になるね。宇宙全体に広がっているといっても、生命にとってはそれが広いということはないのです。また、芥子粒のような生命体の中にあっても、それが狭いということはないのです。
 斉藤 「総勘文抄」には「芥子けしの中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」と仰せですね。
 池田 つまり、実体的に広がっていたのが、無限の空間を超えて集まってくるというのではないのです。
 生命は「冥伏している」のであって、「分散している」わけではない。宇宙全体が一つの生命だから、どこであっても、遠いということはなく、一瞬にして顕現するのです。そこを誤解してはいけない。
 遠藤 むずかしいですね。
9  死後の生命はどのように感じているか
 須田 一つ疑問があります。死んだ人の生命は冥伏していて、「無性無相」と言われます。それでも、死後の生命は苦しみや楽しみを感じているのでしょうか。
 池田 その通りです。感じるのです。戸田先生は、「死後の生命を見る機械が発明されたら面白いだろうな」(笑い)と言われていた。
 「大宇宙に溶け込んだおやじや兄弟の生命を見ることができれば、実に悲鳴をあげているものもあれば、歓喜に満ちているものもいる。形もなければ、色もなければ、生命自身がもつ苦しさ楽しさのために耐えるのが、死後の生命なので、その空観というものがわからなければ、生命論の本質はわからない」と。
 斉藤 そう言えば、発明王エジソンも「死後の生命」に深い関心を抱いていたそうです。彼は、やはりエネルギーが永久に存在し続けるという科学的な法則から推理しても、「不滅の個性」が死後にも存続すると考えました。
 一九二〇年には、「『空間の霊気中をさまよう』無数の、微小だが不滅の単子を探知し、記録するための高感度な器具の開発に取り組んでいると発表した」そうです。(ニール・ボールドウィン『エジソン 二〇世紀を発明した男』椿正晴訳、三田出版会)
 池田 それは面白いね。発明王が、死後の生命を感知する機械をつくってくれていたら、それこそ「人類最大の発明」になっていたでしょう。
 斉藤 彼は「あなたがあなたであり、私がエジソンであるのは、私たちに備わる存在物の群れ、あるいは集団、いや何と呼んでいただいてもけっこうですが、とにかくそうした存在物の集まりが異なるからなのです」(同前)とも書いています。
 これも仏法の眠から見るならば、「それぞれの生命体の個性は、それぞれの業エネルギーによって、五陰仮和合の在り方が異なるからである」と言いかえられるかもしれません。ちなみに彼の最期の言葉は「向こうはとてもきれいだな」(同前)でした。昏睡状態にあったエジソンが、突然目を開いて、奥さんにそう言ったのです。
 池田 示唆的な言葉だね。ともあれ、そういう機械ができたら、死後の生命が、自分自身の業にしたがって、善悪の「生命感」を受けているのがわかるでしょう。
 須田 それを感じている主体は何なのでしょうか。
 池田 それは善悪の業に染められた自分自身の生命流そのものです。刻々と変化してやまない、その生命流以外に自分というものはないのです。しかも、その流れは常に他の生命流と「縁起」の関係によって、互いに互いを生じさせている。だから「無我」です。固定的な実体というものではない。
 しかし、にもかかわらず厳然として、自分自身という生命流は存在するのです。
 斉藤 その自分自身の生命流を、生命の「我」と表現してもよいわけですね。「空」「無我」という実相を押さえたうえで言えば。
 池田 「生」の特徴は能動性にあるが、「死」の生命は基本的には受動的です。自分で自分の生命実感を変えることはできない。
 たとえば、「生」のときであれば、生命の「基底部」が地獄界の人であっても、さまざまな縁に触れて、天界になったり、人界になることもあるでしょう。しかし、「死」の生命は、「基底部」の生命感以外にはなくなってしまう。地獄界の基底部をもつ生命は、死とともに、宇宙の地獄界と一体となって、苦悩一色に染められていってしまう。
 餓鬼界の基底部をもつ生命は、飢餓感がいっそう募り、生命をさいなんでいく。天界や人界の基底部をもつ生命は、「死苦」を乗り越えた後は、生命の「我」は平穏さを取り戻し、充実した満足感が、ひたひたと包んでいくことでしょう。
 仏界を基底部にした生命は、瞬時のうちに大宇宙の仏界と一体になり、その黄金の大歓喜に包まれていくに違いない。そして全宇宙が仏国土であると実感しながら、「我此土安穏 天人常充満」「衆生所遊楽 諸天撃天鼓」(法華経四九一ページ)の境涯を楽しみ、自らの誓願のままに、「久遠の仏」と一体の活動を生死不二で為していくことでしょう。
 この仏界の生死については次の寿量品のまとめでさらに論じることにしたい。
10  死後の生命を変えられるか
 遠藤 死後の生命には能動性がないということですが、もし、死んでしまって地獄界に溶けこんだら、もうどうしようもないということでしょうか。
 池田 だから今世で人間革命に励みなさいと言うのです。一生空しく過ごして、万歳悔いても、もう取り返しがつかない。ただし、妙法の力は偉大です。こちらが唱える題目は、宇宙生命に冥伏している生命にも届くのです。
 戸田先生は「題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命を、あたかも花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化させるのである」とおっしゃっている。題目の音声は、全宇宙に届くのです。
 遠藤 生きている者の題目が、死後の生命にも通じる。そうしますと、死後の生命から、生きている者への働きかけはできるのでしょうか。
 斉藤 死後の生命は冥伏していて、能動性は失われているわけですね。したがって、死後の生命から、積極的に働きかけることはできないのではないですか。
 須田 そういうことになりますね。一部の宗教では「先祖の霊があれを欲しがっている、これを欲しがっている」等と言って、信者にいろいろせびっているようですが、とんでもないことですね。
 遠藤 その通りですが、「死者の声を聞いた」とか「幽霊を見た」とかいう体験も実際にあります。すべてを錯覚と決めつけられないようですが──。
 池田 戸田先生は、死者の声を聞いたという人に対して、こういうふうに答えられたことがある。
 「生きている人も十界の生命をもっている。それで、大宇宙に溶け込んでいる死後の生命の『生命の波長』を感じてしまうこともある。それを言葉で聞こえたように思う」と。
 つまり、こちらの生命力が弱いから、向こうの「生命の波長」を受けて、自分がちょうどラジオかテレビの機械みたいになってしまう──ということです。
 そして、自分だけが聞いたり、見たりするのです。だから戸田先生は、むしろこちらが強い信心で生命力を出していけば、こちらの仏界の「生命の波長」を送って、安らかにしてあげられると指導されていた。
 「死んだ妻、死んだ先祖、これをいままでも、死霊などとだまされていたわけです。そのようなごまかしに、ひっかかってはいけません。そんなことを言ったら、死霊ばかりいて、身動きがつかなくなります」と断言されている。ともあれ、全宇宙が「生死の二法」のリズムを永遠に奏でている。
 生命の大海の無限の潮流は高鳴り、静まり、一瞬も停滞することなく、「生」と「死」のドラマを繰り広げ続けている。その原動力を、寿量品では、如来の「神通之力」と説いたのです。
 大聖人は「御義口伝」で、こう仰せです。「生住異滅の森羅三千の当体ことごとく神通之力の体なり」(生まれ、生命活動を営み、衰え、消滅していく宇宙の万象の当体は〈寿量品の久遠の如来の〉神通の力の本体である)
 この神通之力──根源の大生命を、我が身に開いていきなさいというのが、寿量品の肝要なのです。そして大事なことは、「神通之力」といい、宇宙生命と言っても、広宣流布へと全身全霊で行動するなかでしか感得できないということです。
 「一心欲見仏 不自惜身命」(法華経四九〇ページ)です。(一心に仏を見たてまつらんと欲してみずから身命を惜しまず)
 戸田先生は難とまっこうから戦って牢獄に入り、悟りを得られた。
 「生も死も超えた使命感」に立って、広宣流布のために命も捨てようと誓った、その信心によって、生死の実相を覚知されたのです。
 三世の果てまで広宣流布に戦い抜いていく──その信心こそが「生死の大海」を永遠に悠々と渡っていく大船となるのです。

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