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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 「死後の生命」…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  臨死体験を考える
 須田 アメリカの壮年部の体験を聞きました。1993年の四月十日、アメリカSGI本部で心筋梗塞で倒れたのです。急いで近くの病院に運ばれました。
 胸が何かに圧迫されるように痛く、ベッドで「採血をします」と言われて「OK」と返事をしたところまで覚えているのですが、その後、急に意識が無くなりました。気がついたら、医者たちが自分を見下ろしてのぞきこみ、看護士長が手を握っていた。この間、約二十秒ぐらい心臓が停止していたそうです。
 彼は、その間に不思議な体験をしました。意識が無くなった後、自分が真っ暗な闇の中に立っていると言うのです。音もまったくない沈黙の世界です。痛みもない。心臓の異常も何も感じない。自分が倒れたという意識もなかった。″何でこんなところにいるのだろうか″と思いました。
 足を見ようとすると、足は見えるが地面は見えない。靴ははいていなかった。ぐるっと周囲を見ました。右に首を廻しても何も見えない。
 今度は左を振り向くと、肩ごしに左の後ろの方に小さな光が見えました。遠くの方です。まるで壁に穴があいて、そこから漏れているような淡い感じです。
 まっすぐ光の方へ歩きました。だんだん光が強くなってきました。光はトンネルでした。その光のトンネルをくぐると、ロサンゼルスのアメリカSGI本部の講堂に出たと言うのです。講堂では、いつも演壇の脇で運営をしていました。そこに自分がいる。会合が行われていました。思わず右を見ると、メンバーが笑顔で座っています。
 壇上を見れば池田先生がスピーチをされていた。にっこりと、微笑んでおられた。あれ、これは一月二十七日に行われた全米総会の会合だと思った時、目が覚めて、皆がベッドの上にいる自分をのぞき込む場面に変わったそうです。
 池田 その総会のことはよく覚えています。彼は青年部長だった。その直前に日本にいるお母さんを亡くしていた。
 しかし彼は、「池田先生とともにアメリカで戦うことが、母への最高の供養になります」と言って、厳然と青年部をリードしていた。
2  人類の生き方を一変させる
 遠藤 この壮年の体験は、夢のようでもあります。しかし、″闇の中で光を見る″というトンネル体験や、体外離脱(自分の体から外に出て、意識を失っている自分や病室の周囲を見るという現象)は、臨死体験に特有の現象です。
 須田 そうなんです。この方も一週間の集中治療を終え、心臓の権威でもある担当医に、この話をしたそうです。
 すると医師は、「同じように、暗闇から帰ってきた話が、いくつもある」と語っていたそうです。
 池田 ″死にかけた″体験──臨死体験は最近、多くの研究が出ているね。統計的な本格的調査が始まっていると聞いています。
 斉藤 はい。アメリカのある調査によると、「死の瀬戸際まで行った」「九死に一生を得た」と答えたアメリカ人は15パーセントありました。そのうちの三分の一、すなわちアメリカの人口比からすると、八百万人ほどが、臨死状態で何らかの″死後の世界″を体験していると言うのです。
 (カーリス・オシス、エルレンドゥール・ハラルドソン著『人は死ぬ時何を見るのか──臨死体験1000人の証言』笠原敏堆訳、日本教文社。ジョージ・ギャラップ〈ギャラップ世論調査機関会長〉とウィリアム・プロククー〈著述家〉による調査)
 遠藤 八百万人とは、すごい数ですね。
 池田 そういう体験が埋もれたままであったことは、もったいない。今後、世界的に厳密な調査をしてもらいたいものです。「死後の世界」があるのかないのか。あるとしたら、どうなっているのか。これは、ある意味で、宇宙探検以上に価値がある、人類の最大課題でしょう。その答いかんによって、人類の生き方そのものが一変する可能性が高いからです。
 確か、ユング(スイスの深層心理学者)も、臨死体験を自伝に書いていたね。
 遠藤 はい。ユングは、「一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて足を骨折するという災難にあった。(中略)私は死の瀬戸際まで近づいて、夢を見ているのか、忘我の陶酔のなかにあるのかはわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身に起こりはじめていたのである」と記しています。
 そして、「私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸とがみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭はすばらしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた」
 「どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは、驚いたことに、ほぼ一五〇〇キロメートルの高さである。この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、最も美しいものであった」(A・ヤッフェ編『ユング自伝』2、河合隼雄・藤繩昭・出井淑子訳、みすず書房)
 池田 ″地球は青かった″と言っているんだね。それは、ガガーリン以前でしょう?
 斉藤 ガガーリンの″初の有人宇宙飛行″が一九六一年ですから、その十七年前になります。つまり、一九四四年とは、誰も宇宙から地球を見たことのない時代です。
 遠藤 それからユングは、地球を眺めたあと、インド洋を背に、宇宙空間に漂います。そして黒い大きな石塊がみえます。石塊は中がくりぬかれていて、礼拝堂になっていた。ユングが入り口に近づくと、地上に存在するものすべてが消え去っていく感じがした。そして、中に入れば、自分の生命が、どこから来て、どこへ行くのかわかると思ったそうです。
 池田 鮮烈な体験だったでしょう。ここからユングは広大なる精神世界への探究を大きく進めていくことになる。
 遠藤 事実、ユングは死後の存在を確信したようです。
 池田 ″臨死″というのは、もちろん死そのものではない。
 しかし、「死」というものを強烈に自覚する契機となっていることは間違いがないでしょう。
 その結果、臨死体験をした人の多くは、それまでの生き方を一変させている。
 遠藤 たしかに、臨死体験を持つ人は、「他者に対して寛容になった」「積極的に相手のために関われるようになった」という例が多いようです。
 須田 先ほどの壮年部の方も、「臨終の時に、人間というのは、こんなにも自分のコントロールがきかないものか」と痛感したそうです。
 命というものは、何とはかないものか、壊れやすいものか。これからは、毎日毎日、「もし万が一、このまま逝っても後悔はない」と本当に言える日々でなければならない、と強烈に感じたといいます。
3  臨終は「人生の総決算」
 斉藤 「臨終只今にあり」の精神ですね。いわゆる臨死体験とは違いますが、あの阪神・淡路大震災(一九九五年)で人生観が変わったという人は多かったようです。
 物とか、地位とか、名声や名誉以上に大切なものがある。それは人間の命だ、と分かった。それまで頭の中では分かっていたが、実感として初めて湧いてきたそうです。
 池田 自分にとって何が一番大切なのか──死に臨んで、それがはっきりする。
 以前、あるアメリカの母親の体験を本で読んだことがある。脳卒中で倒れ、数週間、昏睡状態が続いた。しかし、死の直前に彼女は、はっと目を開けた。そして急に笑顔になって、何か見えないものに手を差し伸べた」。彼女は、まるで「赤ん坊でも抱くようなしぐさ」をして、下を向いた。実に、うれしそうで、幸せな顔だった。そのままの格好で息を引き取った。
 じつは、彼女は初めての子どもを、出産してまもなく亡くしていたのです。その後で、五人の子どもを産み、皆、立派に育った。彼女は生前、亡くした子のことは話そうとしなかったそうだ。
 しかし、死の間際に、お母さんはその子に出会い、その子を抱いて死んでいった──残された子どもたちは皆、そう確信したという。(M・キャラナン、P・ケリー『死ぬ瞬間の言葉』石森携子、中村三千恵訳、二見書房)
 須田 心が打たれる話ですね。
 池田 臨死体験で有名なのは、いわゆる「走馬灯」体験です。走馬灯といっても、最近では実際に見た人は少ないから、「ビデオ・テープ」体験と言い換えたほうがいいかもしれない(笑い)。死に臨んで、一生の出来事が、パノラマのように次々に浮かび上がってくると言うのです。
 仏法から見れば、九識のうちの第八識である「蔵識」、すなわち「阿頼耶識あらやしき」に刻まれた一生の業(身口意の行い)が、一気に浮かび上がってくるという見方もできる。ともあれ、臨終は「人生の総決算」なのです。
 斉藤 日蓮大聖人が「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と言われたことは重要ですね。
 池田 釈尊も生まれてまもなく母を喪い、幼いころから死について考えていた。大聖人も幼少期から「死」を見つめておられた。
 「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて……」と。
 (日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが、念願したことなのだが「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露は譬えもなお及ばない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう」と思って……)
 「臨終」とは、「山頂」に譬えられるかもしれない。人生という山登りを終えた、その地点から振り返って、初めて自分の一生が見渡せる。
 自分は、この一生で何をしたのか。何を残したのか。どれだけの善をなしたのか。悪をなしたか。人に親切にしたのか。人を傷つけたのか。どちらが多かったのか。
 自分にとって、いったい何が一番、大切だったのか──それらが痛切に、否、嵐のような激しさで胸に迫ってくる。それが「臨終」の一側面かもしれない。
 遠藤 死にゆく人の肉体は静かに横たわっていても、その胸中では、ものすごい葛藤のドラマが展開しているのかもしれません。それを表現する肉体的力がもうないために、外には現れないわけですが。
 池田 もちろん安らかな死もあるわけだが、ある囚人は、こんな体験をしたという。
 彼は刑務所内の病棟に入りたくて、病気になるために何度も石鹸を食べた。ねらい通り、病気になったが、度を越してしまった。七転八倒の苦しみのなかで、彼の目の前をパノラマのように自分の人生が駆け抜けていった。彼は長い″犯罪人生″の一コマ一コマを体験し直すのです。
 そして驚くべきことに、自分が人に与えた苦しみを、今度は、そっくりそのまま自分が味わうことになったという。(David Lorimer, ″Whole in One″, Viking Pr, 1991. スーザン・ブラックモア『生と死の境界──臨死体験を科学する』由布翔子訳、読売新聞社)
 遠藤 恐ろしい体験ですね。まさに因果応報です。
 池田 こうした体験を、どう解釈するか。それは人さまざまです。ただ私は、一切の先入観を捨てて厳密に調査・研究すれば、「死によって生命は終わりになる」という現代的生命観では説明できない要素があることが証明されると信じています。しかし研究はまだ端緒に就いたばかりだ。
4  文化の違いを超えた普遍的な内容
 斉藤 はい。昔から日本でも、死にかかった人が意識を回復した時に、「三途の川」を見たとか、魂が肉体から抜けかしたとか、死んだ親に会ったとか、不思議現象を語ることがありました。こうしたことは世界中でも見られたのですが、学問の研究分野になってきたのは精神科のキューブラー・ロス博士からです。
 彼女は、死にゆく人たちの精神的ケアのなかで直面した臨死体験の事例を発表します。(一九六九年)
 遠藤 ロス博士自身も臨死体験をもっています。死の痛みを味わい、次に再生を経験したそうです。自分を見下ろす「第二の私」が光に近づき、光に溶け込み、一体化した瞬間、深い静寂に陥ります。そして目覚めた時に、彼女は生きとし生けるものの生命の脈動を体感するのです。石にも生命があることを感じたといいます。
 「私は、私を取り巻いている世界に対する愛と畏怖に満たされていました。私は一枚一枚の葉に、一つひとつの雲に、一本一本の草に、一匹一匹の虫に、恋していました。道の小石たちが脈打っているのが感じられました」と。(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』鈴木晶訳、読売新聞社)
 須田 ロス博士が先鞭をつけたあと、内科医のレイモンド・ムーディ氏が臨死体験をまとめます。これが大きな反響を呼び、学問的な研究が本格化します。現在では国際的な研究団体が組織されるまでになっています。
 池田 それまでは臨死体験といっても、単なる夢とか幻想であると思われていた。しかし、科学者による調査事例が揃うにつれて、必ずしもそうではないと考えられるようになったわけだね。
 斉藤 はい。臨死体験には、文化や宗教を超えて共通する普遍的な内容があります。
 どうして、まったく違う文化で育った人たちが同じような体験をするのか。なかには、自分の信じていた宗教とは矛盾する体験をする人もいるようです。こうなると、何か普遍的な「生命の事実」があると考えるほうが合理的な気がします。
 心理学や薬物学、神経学的な解釈では十分に説明しきれない面もあるようです。
 池田 現段階では、臨死体験が何を意味しているかは、学問的にはまだ結論が出ていないわけだね。
 遠藤 はい。大きく二つの見解が分かれています。一つは、何らかの意識が死後も存続するのではないかとする説。もう一つは、すべての臨死体験は″脳内現象がもたらすもの″として説明できるとする説です。この説に立つ科学者は、臨死体験は死後の世界を示したものにはならないと主張しています。
 池田 たしかに″死後″そのものは、実験によって検証できない以上、仮説の域を出ない。問題は、″死後″があるとするにせよ、ないとするにせよ、「どちらも仮説にすぎない」ということです。決して唯物論的な生命観だけが真実で、″死後存続″説だけが仮説なのではない。実証できないという点では同列です。
5  ″死後はない″説も証明不可能
 斉藤 現代の教育を受けた人のなかには、「死後の生命=迷信、非科学的」という図式を盲信している人たちが多いのは事実です。その図式自体が、証明がないという意味では「迷信」なのですが……。
 池田 だから要は、どちらの仮説が、より合理的で説得力があるか。すなわち多くの臨死体験や「過去世を記憶する人」などの例を検証して、どちらの説が、うまくそれらを説明できるかということになる。
 先ほども話が出たが、人間が死んでいく時の体験の核心部分は、文化や宗教、個人的な要因にあまり左右されないようだ。むしろ驚くほど似通っているという。そのこと自体も不思議です。例の一つに体外離脱体験がある。
 須田 意識が体外に離脱して、空中に浮かび、ベッドに横たわっているはずの自分が周囲の人々を見下ろしいたという体験は、非常に多いのです。もちろん、だれもが、こういう体験をするとは限りませんが──。
 遠藤 死の瞬間その人の生命境涯によって、大きく違うことが考えられますね。
 須田 ですから、あくまで個人的な体験として聞いていただければいいのですが、ある学会員の婦人の体験です。その方は、髄膜炎の再発によって意識不明になり、高熱が出て脈拍は切れ切れになり、ついに瞳孔も開いてしまった。周囲は葬式の相談を始めたそうです。葬儀の写真を何にするかまで打ち合わせを始めた。ところが、その方は後に蘇生して、こんなことを語ったのです。
 ──その時、頭の中から、すりばち状のものがすぼっと出ていき、頭の中はからっぼになってしまった。それが病室の天井のすみにくっついて、下の情景を見ている。上で見ている自分と、下に寝ている自分が分離してしまったのです。そして下で右往左往しているみんなの姿が全部、見えた。
 「私は死ぬんだなあ」と思った瞬間、御書の一節が浮かびました。「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如しやわらかなる事兜羅緜とろめんの如し
 (人は臨終の時に地獄に堕ちる者は色が黒くなるうえ、その身体の重いことは、千引の石〈千人がかりで引くほどの大きな岩のこと〉のようなものである。善人はたとえ七尺八尺の女人であっても、色の黒い者であっても、臨終には色が変わって白くなる。また軽いことは鵞毛〈鷲鳥の羽毛のこと〉のようであり、やわらかなことは兜羅緜〈綿花の意〉のようである)
 それで、死ぬのは怖くなかったが、不成仏が怖くて怖くて「成仏しなくては、成仏しなくては」と思い、声にならなかったが無我夢中で題目をあげようとしたと言うのです。お母さんの必死の唱題もあって、三日後に意識が回復しました。
 斉藤 こういう体験では、ベッドで寝ていたのでは絶対に見えないはずのものが見えていることがあります。意識不明の人に、周囲の親族の服装まで″見え″ており、後に検証するとぴったり当たっているのです。
 遠藤 さらに不思議なのは、目の見えない人が、ちゃんと周りが見えていたという証言です。キューブラー・ロス博士は、盲目の人が、病室にいた全員の服装についてくわしく説明できたという例を報告しています。(『死後の真実』伊藤ちぐさ訳、日本教文社、参照)
 池田 これらは生理学的には説明がきわめて困難でしょう。他にも、そういう例はあげられると思う。しかし、いったん「死後の生命なんて迷信」と信じ込んでしまった人に、事実を直視させることは、なかなかむずかしい。
 遠藤 学会員でも、信仰する前は、「信仰で生命力が強くなり、病気もよくなる」なんて迷信だと″信じ込んでいた″人は、いっぱいいます。どんなに説明しても、聞く耳をもたなかった人も多いのではないでしょうか。
 斉藤 キューブラー・ロス博士も、こう言っています。「私にとってはもはや信じるかどうかの問題ではありません。知るかどうかの問題なのです。みなさんが心から知りたいと望むのなら、この知識をどうすれば得ることができるのか、みなさんに話してあげることもできます。知りたくなければ、それでいっこうに構いません」と。なぜならば「みなさんもどっちにせよ死ねば分かることだからです」(笑い)。(同前)
6  池田 たしかに、死んでみればわかることは間違いない(笑い)。しかし、その時はもう手遅れかもしれない(笑い)。いずれにせよ、理論上は、現在のところ、どちらの説も決定的な″決め手″には欠けていると言えるでしょう。だから私は、いつもパスカルの議論を思い出すのです。
 須田 「人間は考える葦である」と言った数学者ですね。
 池田 思想家だが、数学にも長けていた。「確率」の研究でも有名です。そういう彼らしく、しかし人間として避けて通れない問題について、パスカルは「賭け」の理論で説明している。(『パンセ』)
 たとえば、死後の生命があるかどうか、理性ではどちらとも言えない。──これはカントが証明したことでもあるが、パスカルの考え方を借りれば、こう言えるでしょう。
 もし人が「死後の生命がある」ほうに賭けて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた──すなわち、じつはそれが存在しなかったとする。それでも「あなたは何も損をしないではないか」。一方、「死後の生命はない」ほうに賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。生きている間に善行を積んで、死後に備えていればよかったと思っても、もう間に合わない。だから、死後を信じるほうに賭ければ、賭けに勝てば幸福だし、負けても何も失わない。反対のほうに賭けて、賭けに負ければ、取り返しがつかない──と。
 こう冷静に考えれば、死後の生命を信じるほうに賭けることは──つまり宗教を受け入れることは、極めて「合理的な選択」であり、理性的である人ならば、これ以外の選択はないという論理です。異論もあるかもしれないが、私はパスカルの理論には今でも説得力があると思っている。
 遠藤 「賭け」ですか。たしかに、「絶対確実でなければ、何もしない」という態度では、結婚もできません(笑い)。
 「絶対うまくいく」という保証は、どこにもないわけですから──。
 池田 結婚のことはともかく(笑い)、「死」というものは、絶対にだれもが迎えざるを得ない。確実といえば、これほど確実なものはない。しかし、「生死」という人生の「一大事」を真剣に考える人が少ないのも、また事実です。
 日蓮大聖人が「夫れ生を受けしより死を免れざる理りは賢き御門より卑き民に至るまで人ごとに是を知るといへども実に是を大事とし是を歎く者千万人に一人も有がたし」と嘆かれている通りだ。
 (およそ生を受けた時から、「死を免れない」という道理は、貴い御門から卑しい民に至るまで、人はだれでも知っているけれども、まことにこれを大事として、これを嘆く者は千万人に一人もいないのである)
 とくに現代は、仏法でいう「断見」の人が多くなっている。
 斉藤 「断見」とは、生命が死によって無に帰するという生命観ですね。現代の「享楽主義」も、その裏腹の「不安」や「悲観主義」も、この「断見」に根っこがあると言えるかもしれません。
 須田 ″死ねば終わり″なら、どうしても、″今が楽しければいい″となりがちですからね。もちろん「一回きりの人生だから、真剣に生きよう」という人もいるでしょうが、実際に死を前にして不安を抱かないでいることが、非常にむずかしいと思います。
7  「死苦」をどう乗り越えるか
 池田 これは「ターミナル・ケア(末期医療)」の分野でも、極めて大事なテーマです。死を前にすると、その人が「いかなる生死観をもっているか」によって、人生の最後の日々が、劇的に違ってくる。
 遠藤 はい。最近、『死は終わりではない』(山下篤子沢、角川書店。以下、同書から引用・参照)という題名の本が出ました。
 池田 そのものズバリのタイトルだね。
 遠藤 著者は、アメリカの心理療法家であるスーキー・ラー博士ですが、彼女は、長年にわたり、死に直面した患者さんの心のケアに携わるなかで、「死後の世界」についての探究を深めていったようです。世界各地のさまざまな文化の死生観を比較文化的に研究し、紹介しています。
 池田 「死を宣告されて苦悩している患者」を前に、自分は何ができるか──その責任感から死の考察へと入っていったのかもしれない。
 遠藤 その通りです。彼女が多くの事例を通して感じたことは、「どんな死生観をもつかによって、臨終における態度がまるっきり違う」ということです。
 池田 いざ死に臨んだ時、人は一切の虚飾を剥がされてしまう。地位も名誉も財産も、すべて役に立たない。裸の「自分自身」で死に向き合わなければならない。
 仏典では、死後、衣服を奪い、剥ぎ取ってしまう「奪衣婆」の存在が説かれているが、裸の「自分自身」以外の飾りは何の意味もなくなることの象徴とも言えよう。だから生きている間に、信仰によって生命を磨けと教えているのです。
 遠藤 ミラー博士の二十年来の友人は四十五歳で亡くなりました。博士はつづっています。
 「(=彼は)知的な業績を高く評価し、霊魂など子供じみたおとぎ話だと考えていた」。
 そして、「合理的な説明」や、「現実の局面で説明がつかないこと」は、すべて「うさん臭いもの」と見る態度が習性となっていました。
 「だが、死が避けられないものとなったとき──彼を敬愛していた誰もが驚いたことに──彼には何の手段も、慰めも、心を癒す思想もないことがはっきりした。自分が直面しているものや行く手にある現実について、考えをめぐらせるどころではなく、ひたすら震えておびえているだけだった。死についても、その意味をとらえようとはせず、したがって安らかさや安心感にはほど遠い状態だった」。「死が避けられないことを知ったとき」、彼の心にあったのは、「まったくの恐怖だけだったのだ」と言うのです。
 池田 それが現実でしょうね。仮に、死で一切が終わりだと信じ、最後までその信念で生き抜くことができる人がいたとしよう。
 しかし、自分の身近な家族が死に直面して苦しんでいる時、その人はどんな癒しを与えられるだろうか。彼の信念、死生観が果たして希望となるだろうか。
 仏法で説く三世の生命観は、自分に希望をもたらすだけではない。人をも励まし、勇気と希望を与えゆく生命観なのです。
 遠藤 人はやはり何らかの「不死」なるものを求めるものかもしれません。アメリカでは、「遺体の冷凍保存」が行われています。そのための施設がいくつかあるそうです。
 あらかじめ施設と契約をしていた人が亡くなると、その人の体を冷凍保存し、将来の科学の進歩を待って、本人を生き返らせようという計画です。
 斉藤 にわかには信じがたい話ですが、実際に「冷凍保存から人間を蘇らせる」ことは可能なのでしょうか。あくまで将釆の可能性にかけているわけですね。
 遠藤 ええ、現段階では、動物実験でも成功していません。それでも、かなりの契約額にもかかわらず、申し込む人はなくなることはありません。
 「脳」だけを切り離して冷凍保存することも行われており、ある大物映画俳優も契約したと言って話題になりました。
 池田 人間の持つ不死への渇仰がどれほど根強いかを思い知らされるね。不老不死の薬を求めたという秦の始皇帝を思い出す。
 頭部だけを切り離して冷凍保存するというところなど、いかにも現代的です。「脳」にその人の心も人格もあるという考えが、そこにある。
 遠藤 涌出品のところで取り上げた、いわゆる「心」の局所説・局在説ですね。(心とは脳の中だけの現象であるとする説)
8  「脳」は「心」が働く場
 池田 心と身体、なかんずく心と脳が密接な関係にあることは明らかです。しかし、だからといって心の存在が脳の中に限定されると言えるのかどうか。イギリスの生物学者(ルパート・シェルドレイク)が、分かりやすい譬えを説いていた。(Nature*As*Alive:*Morphic*Re.*sonance*And*Collective*Memory)
 記憶と脳の関係を、テレビの「画像や音」と「受信機」に譬えるのです。たとえば、テレビで印象に残るシーンを見たとしよう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりはしない。テレビは、電波を受信するだけです。「受信機がなくては画像は映らない」が、テレビの中に画像そのものがあるわけではない。
 斉藤 心は「脳を媒介にして働く」としても、脳そのものではないという譬えですね。
 池田
 「而二不二(二にして、二でない)」が実相です。心という「心法」と、脳内現象という「色法」は、別のものでありながら(二にして)、しかも一体で活動する(不二)というのが仏法の見方です。いわば、脳は心の働きが顕在化する「場」であり、「心の座」とも言えるのではないだろうか。
 遠藤 テレビのどこかが壊れたら、画像はちゃんと映りません。脳もどこかが破壊されれば、精神現象に異常が生じます。
 またテレビが完全に壊れたら、画像は映りません。死によって脳細胞が破壊されたら、心理的・精神的現象も発現の場を失います。しかし、あくまで発現する「場」がなくなっただけで、心の働きそのものは存続していくと考えられます。
 須田 科学の進歩を疑わない人々は、脳の研究がこれからどんどん進むことによって、今は説明ができないことでも、やがては「一切の精神の働きは、脳の神経活動として説明できるようになる」、と考えているようです。しかし、どんなに精密に脳細胞を調査しても、「心」そのものは、とらえられないのではないでしょうか。
 池田 たとえば、頭の中に、ベートーヴェンの「歓喜の歌」のメロディーを思い浮かべたとする。脳には、何らかの現象が現れるでしょう。しかし、その現象をいくら調べても、そこに「歓喜の歌」のメロディーを発見できるわけではないでしょう。
 須田 それでも、多くの科学者は、いつかはそれが可能だと信じている──まさに″信じている″のですが、これが近代科学の性格なんですね。よく「要素還元主義」と呼ばれますが、何でも細かく部分に分けて調べれば、本質が突きとめられると考えるのです。
 しかし、たとえば、人間の「身体」をどんなに細かく分析し尽くしても、それだけで人間の生命が解明できるわけではありません。すべての臓器を持ち寄っても、それを集めて「人間」が生まれるわけではないのです。
 遠藤 ある学者は批判しています。「音楽を理解するのに、オーケストラのそれぞれの楽器の組成の分析をやるだけでよいなどということがあり得ようか」と。(E・シャルガフ著『ヘラクレイトスの火』村上陽一郎訳、岩波書店)
9  「断見」でも「常見」でもない
 斉藤 こういう「断見」が、多くの現代人の生死観だと思います。これを、かりに「断滅論」と名づけておきたいと思います。一方、現代においては、霊魂不滅論も、いろいろ形を変えて流行しています。
 しかし、肉体とは別に、不変の「魂」のようなものがあって、それがずっと続いていくという考えは、「常見」といって、これも仏法では否定します。
 池田 そう。フワフワと飛んでいく霊魂のような″実体″があるわけではない。あくまでも色心不二です。また死後の生命は「空」として、宇宙に溶け込み、宇宙と一体になっていく。
 「常見」も「断見」も、誤りなのです。どちらも一面の真理を含みながら、やはり偏った見方です。それでは、寿量品で説く「永遠の生命」とは何なのか。それを次に考えてみよう。
 日蓮大聖人は「但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり」と仰せだ。(〈あらゆる諸経典のなかで〉ただ本門寿量品の一品のみが、生死の迷苦を乗り越えるための要法なのである)
 正しい生死観を確立できるか否か。それによって、死の意味は変わる。生の意味も変わる。
 ゲーテは「来世を信じないものは、みなこの世でも死んでいる」と言っています。(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 生き生きと「永遠の希望」をもって生きるために、今、仏法を学んでいるのです。やがてくる死を、堂々たる「人生の完成」の時とするか。それとも、みじめな「人生の崩壊」の時とするのか。
 それはひとえに、この一生を、この「今」をどう生きたのかで決まってしまうのです。その意味でも、まさに「臨終」は、「只今」にあるのです。

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