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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界互具(下)…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  「仏界の大地」で広布のドラマを名優のごとく!
 斉藤 青年部の一級教学試験が終わりました(一九九七年八月)。二十一世紀の幕を開く「新しい人材」が、「新しい舞台」へと躍り出ました。
 池田 合否を問わず、真剣に御書を学び抜いた人が「勝利者」です。また「広宣流布の宝」です。
 夏休みを返上して、受験する後輩の面倒をみてくれた先輩たちがいたことも、よく知っています。その労苦の汗は、どれほど尊いか。試験に受かろうが受かるまいが、これからが、青年の勝負です。縦横無尽に、一人でも多くの人に、大仏法を語り抜いてもらいたい。
 遠藤 そうでなければ、何のための試験か、ということになりますね。
 池田 戸田先生が亡くなられて(昭和三十三年〈一九五八年〉四月二日)、いちばん最初に行った全国行事が任用試験(四月六日)だった。
 まだ告別式(四月八日)も終えていない、大師匠を失った悲嘆のなかで、予定を変更することなく、厳然と行われたのが教学試験だったのです。全国六十余都市の会場で、多くの同志が受験した。世間は、先生なき後の学会を、さまざまに揶揄やゆし、中傷した。その最中さなかでも、学会は、ひたぶるに「行学の二道」を歩んだのです。
 須田 世間では「学会は空中分解する」と言われていました。他宗教の僧侶や学者たちも「彼(戸田先生)亡き後の創価学会は少しも恐ろしくない」「これから戸田氏在世当時のように創価学会がゆけるかと言えば到底それは考えられない」と。
 遠藤 折伏の闘士がいなくなったことに、「ほっとした」と、もらした仏教学者もいました。
 池田 内外ともに、どれほど戸田先生を、偉大な指導者と見ていたか。その証左と言ってもよいでしょう。
 斉藤 しかし学会は「空中分解」するどころか、いよいよの勢いで、弘教・拡大を開始していきました。まさに池田先生を中心に「行学の二道」を、まっしぐらに進んだたまものだと思います。
 池田 あれは、確か昭和二十五年(一九五〇年)の暮れだったと思う。私は二十二歳だった。戸田先生の事業の蹉跌さてつによる苦しみは、まだ続いていた。
 もちろん、先生の会長就任もまだです。学会員の中にも、借金を抱えて苦労している戸田先生を見かぎり、離れていく人間も少なくなかった。
 そんななか、戸田先生と私は、所用で湘南電車に乗った。二人だけの旅だった。車中でも、いつも勉強です。この日は「観心本尊抄」だった。日寛上人の文段を拝しながら、「観心の本尊」の功徳の広大無辺なることを、戸田先生は語ってくださった。
 車窓から広大なる太平洋が見えた。戸田先生は言われた。「あの太平洋のような大境涯の信心で、この御書を拝することだ。そうでなければ、凡夫が御本仏のお心に近づくことはできないのだ」と。
 御書は、ただ才智で読んでもわからない。全生命をかけた「信心」で拝していきなさいとのお話だったと思う。明日も見えない苦境の中で、実に悠々たるお姿でした。
 青年部をはじめ教学を真剣に学んでいる方々のために紹介しておきます。
 斉藤 ありがとうございます。
2  十界の「互具」は法華経だけの法門
 須田 これまで十界のそれぞれを論じていただきましたが、ここでは、十界の「互具」がテーマです。
 池田 御書には、「十界」は法華経以前の経典でも説かれたが、その「互具」を説いたのは「法華経」だけであると仰せです。
 (「法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり」)
 法華経の法門の要のなかの要だ。それだけに、短い時間で語り尽くせるものではない。そこで、まず「互具」とは何か。「互具」がわかれば、人生は、どう変わるのか。そこを中心に、語り合ってはどうだろうか。
 須田 はい。「十界互具」とは、文字通り言えば、「十界のそれぞれに十界が具わっている」ということです。「十界の、どの一界にも他の九界が具わっている」とも言えます。
 そのことを″10×10″で「百界」とも表現します。
 (「十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し十界互に具すれば百法界なり」)
 遠藤 十界論は、私たちの生命状態を説明する場合によく用います。時々、質問を受けるのは、「十界が互具して『百界』になると、生命状態は百種類あることになるのですか」ということです。
 「地獄界所具の仏界」「人界所具の仏界」等の言い方をします。もし百種類にわかれるとすれば、「たとえば『地獄界所具の餓鬼界』と『餓鬼界所具の地獄界』では、どう違うのか」とか、いろいろ疑問が出てきます。
 須田 また、人間に生まれたこと自体は「人界」と、とらえられます。そうすると、(1)人間として生まれ、(2)病気で地獄の苦しみを味わい、(3)菩薩の使命に目覚めた時、「『人界所具の地獄界』所具の菩薩界」となる。これだと″10×10×10″で、千界になってしまいます。
 斉藤 それでは、一念三千ではなく″一念三万″になりますね(笑い)。
 池田 基本的な勘違いがあるような気がする(笑い)。まず、これまで、私たちの人生を例に「十界」論を学んできたが、これ自体、「人界に十界を具する」ことが大前提になっていたわけです。
 須田 たしかに、その通りです。
 池田 じつは、これ自体が、法華経以外では考えられないことなのです。
 斉藤 爾前教では、十界が説かれても、それは、いわばバラバラの存在でした。ですから人界の衆生が仏界に至るには、人界の生命を捨てるしかありません。歴劫修行し、九界の低い境涯を捨てて仏になれると説いたり、あるいは極楽浄土などの遠い──この娑婆世界とは別の国土に死後、生まれる(往生する)と説いたりしました。
 池田 「人界に十界を具する」──私たちが当然のことのように思っている、このことが、じつは「十界互具」の思想のポイントです。
 すなわち、宇宙にも十界がある。宇宙全体が十界を具えた大生命です。そのうちの人界に今、われわれは生まれた。宇宙の中の、この人界にも十界が具わっているし、同じく畜生界にも十界が具わっている。餓鬼界にも修羅界にも、十界すべてに、それぞれ十界が具している。
 遠藤 宇宙全体としての十界互具ですね。
3  池田 そこで、何のために「十界互具」が説かれたか。
 それは、あくまでも「人界に十界が具わっている」ということを教えんがためです。なかんずく「人界に仏界が具わっている」ということ、凡夫がその身そのままで成仏できるのだということを教えんがためです。
 斉藤 それを知るのが「観心」ということですね。「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」と仰せです。
 須田 たしかに「観心本尊抄」でも「人界所具の十界」なかんずく「人界所具の仏界」に焦点をしぼって論じられています。
 遠藤 十界互具が説かれた目的が、はっきりしました。その意味では「『地獄界所具の餓鬼界』と『餓鬼界所具の地獄界』の違いは」というような議論は、十界互具の本質から、かけ離れてしまいますね。
 須田 それでは例の″千界問題″(笑い)はどうなるでしょうか。
 斉藤 「人界所具の地獄界所具の菩薩界」云々の話ですね。
 須田 結構、多くの人が混乱していると思うのですが。
 斉藤 たしかに、宇宙に十界があり、そのうちの一界の衆生が、それぞれ十界互具(百界)の当体だとしたら、宇宙全体では千界になってしまいます。しかし、これも十界互具が説かんとしていることを誤解していると思います。つまり、ポイントは、各界のどの衆生をとっても、そこに十界が具わっているという「不思議」にあります。
 本来、十界のうちの一界は″部分″のはずです。その″部分″に十界という″全体″が具わっているという不思議な生命の実相を言わんとしているのです。それが「互具」です。互具という実相に意味があるのであって、それは百界まで言えば十分なわけです。
4  宇宙も「百界」自分も「百界」
 池田 こう言えば、わかるだろうか。人間は「小宇宙」です。「小宇宙」即「大宇宙」であり、我即宇宙です。宇宙全体は十界互具の当体だから、百界です。一方、私どもの生命も、宇宙即我であるゆえに、百界が具している。同じく百界(十界互具)の当体なのです。
 須田 たしかに、われわれ(小宇宙)が百界で、宇宙全体(大宇宙)が千界であっては、くい違ってしまいますね。「即」にはなりません。よくわかりました。
 遠藤 宇宙も一個の大生命であり、われわれも一個の生命です。「生命」であるということで平等です。「互具」というのは、この生命の不思議な実相そのものを説こうとしているということですね。
 池田 その実相とは、十界のどの衆生であっても、そのままで「完璧な小宇宙」なのだということです。それは「諸法実相」のところで学んだことと同じです。
 日蓮大聖人は、法華経の「諸法実相」について、こう仰せです。「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり
 この御文で、「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体」というのが「諸法」にあたる。諸法とは全宇宙の一切の現象のことです。この森羅万象も、すべて十界のうちに納まってしまう。
 依正というのは、たとえば正報(主体)が地獄界なら依報(環境)も地獄界です。
 宇宙の一切の法(諸法)も、「十界の依正」以外にはない。それらが、ことごとく一法ものこさず、「妙法蓮華経のすがたなり」と。これが「実相」なのだと言うのです。つまり、一切の法(諸法)の、どの一法をとってみても、それは南無妙法蓮華経という宇宙の大生命の顕れであるということになる。
 斉藤 そうしますと、十界互具も諸法実相から帰結されるということですね。諸法実相というのは、個々の生命(諸法)がそのまま宇宙生命(実相)の顕れであるということですから。これを十界にあてはめると、十界の、どの一界──″個々の生命″をとっても、そこに宇宙の全体──十界──が具わっている。そういう関係になります。
 池田 すごい生命観、世界観、宇宙観なのです。大聖人は「草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す」とも仰せだ。
5  須田 前にも紹介していただいた有名なブレイク(英国の詩人)の詩にこうあります。
 「ひとっぶの砂にも世界を
  いちりんの野の花にも天国を見
  きみのたなごころに無限を
  そしてひとときのうちに永遠をとらえる」(『ブレイク詩集』寿岳文章訳、彌生書房)
 池田 一粒の砂、一輪の花も、妙法の当体です。妙法の当体ということは、そこに宇宙生命の全体が込められているということです。
 遠藤 もはや、大きいとか小さいとかの次元では、とらえられません。日寛上人は一念三千について、「微小な一念に、どうして三千という広大な次元を具していると言えるのか」という問いを設け、法華経は「具遍」を明かしているのだと答えられています(「三重秘伝抄」)。
 「具」は「そなわる」こと。「遍」は「ゆきわたる」ことです。「法界の全体は一念に具し一念の全体は法界に遍し」と。極大が極小に具わり、極小が極大に広がっていきます。「それは譬えば、一つぶの土に、その周りの広大な国土の成分がすべて具わっており、一滴の水を大海に加えると、それが大海中に広くゆきわたるようなものだ」とも仰せになっています。
 須田 こうした不思議については、「空」ということがわからないと、わからないのではないでしょうか。
 再び「よく受ける質問」についてなんですが(笑い)、「宇宙に十界がある」といっても、宇宙のどの部分が「修羅界」で、どの部分が「天界」で──と考えればいいのでしょうかと。地球のあたりが「人界」でしょうか──という人もいます。
6  「空」とは何か
 池田 「大宇宙の十界」についてだね。戸田先生は、よくラジオの電波を譬えにして、「空」ということを教えてくださった。これは諸君も聞いたことがあるでしょう。
 遠藤 はい。一つの部屋に、いろいろな放送局から発信される電波がきている。海外からの電波もある。あるといっても、目に見えない。では、ないかというと、ラジオを置いて、周波数を合わせれば、ちゃんと受信できる。では、そんな部屋に、たくさんの電波がきていて、部屋が狭くはないかと。いや、狭くない。電波と電波が互いに邪魔し合うこともない。
 大宇宙の十界も、このような状態で存在しているという譬えですね。
 池田 そう。ただこれは、あくまで譬えであって、電波の存在する状態が、そのまま「空」であるという意味ではありません。この大宇宙において、十界のそれぞれの界は重なっているのでもなければ、並んでいるのでもない。どこか特定の場所に固まっているのでもない。全宇宙にとけこんでいて、縁に応じて顕現してくるのです。これは、個人の十界についても同様です。
 斉藤 たとえば私たちの生命に地獄界が現れているときには、生命のどこをさがしても、地獄界以外はありません。全生命が苦しみにのたうちまわり、そこには天界がまざっていたりはしません。
 しかし、次の瞬間には、苦しみがパッと消えて、天界が現れるかもしれない。すると、この天界はどこから来たのか。自分以外の他のところから来たわけではないことは確かです。地獄界に苦しんでいたとき、天界は「空」の状態にあったことになります。
 十界のうち一界が出ているとき──常に一界しか出ていないわけですが──それ以外の九界は空の状態に冥伏している。それが縁にふれて「仮」として顕在化してくる。こういうことになります。
 池田 「空」というのはむずかしいね。頑張って、もう少し探求してみよう。「十界」とは、くわしくは「十法界」という。「法界」とは、どんな意味になるだろうか。
 須田 「法界」とは、わかりやすく言えば、森羅万象の世界すなわち全宇宙のことです。法界の「法」とは、一切の現象であり、何らかの因果によって起きます。この因果に、地獄界から仏界までの十種の因果があるわけです。
 法界の「界」とは、境界などと言うように、他とは区別された領域を指します。ですから「十法界」とは、十種の因によって生じた十種の法界──十種の宇宙ということになります。
 池田 なるほど。そうすると、十の宇宙があるのだろうか。
 遠藤 宇宙は一つのはずです。法界は「一法界」だけで全宇宙を表しています。
 池田 すると「十法界」とは、一法界の十倍の宇宙ということではないわけだね。
 遠藤 そうなります。やはり、一つの法界(一界)に十法界(十界)が具わっていると言う以外にありません。
7  十法界──三種の読み方
 池田 不思議だね。大聖人は「法界とは広きに非ず狭きに非ず」と仰せですが、天台は「十法界」を三種に読んでいるでしょう(法華玄義)。
 斉藤 はい。三種類というのは、「十の法界」「十法の界」「十即ち法界」と読む読み方です。それぞれ、空諦・仮帝・中諦に対応しています。
 第一に、「十の法界」と読みます。これは十界の違いはあっても、どれも「法界」である。仏が悟った実相の世界、つまり全宇宙であるということです。地獄界なら地獄界、人界なら人界のそれぞれが、すべて「法界」として平等である。宇宙生命、妙法の当体として平等であるということです。
 遠藤 それが空諦の見方ですね。
 斉藤 地獄界とか人界とかの「違い」はあっても、それらの違いは「実体ではない」と見るから「空諦」です。
 池田 つまり、個々の界が、そのまま大宇宙の全体と見る。いわば「諸法即実相」であり、「個即全体」です。一粒の砂に全世界を見る見方だ。その反対に、「実相は必ず諸法」だから、「全体即個」の側面がある。
 宇宙生命は、無限の違いをもつ森羅万象となって顕れるという側面です。
 須田 それが「仮諦」の見方です。平等に法界であるといっても、現実には十界の違いがあります。そこで「十法の界」と読みます。この「界」は「違い」という意味です。
 池田 それでは、どうして、そういう「違い」が出てくるのだろうか。
 遠藤 それは、平等の「法界」をどうとらえるのか、衆生によって、とらえ方が違うし、感じ方が違います。その違いに十種類あるということではないでしょうか。
 池田 そうでしょう。その意味で、十法界(十界)というのは、宇宙の客観的な姿というよりも、主体的なとらえ方──境涯の世界を表している。同じ大海に浸っていても、海水をくむ人の器の大小によって、くみとられた水の多い少ないは違ってくる。智慧の海も同じです。
 本来、十界のどの衆生も、宇宙生命の全体そのものである。それが仏の悟った宇宙の実相です。しかし、衆生の側では、そうとらえられずに、地獄界に苦しみ、餓鬼界に苦しみ、あるいは修羅界に争い、二乗界に満足している。
 しかし、そのように地獄界にいたとしても、それでもなおかつ、その地獄界に全法界が具している。そう見るのが「中諦」です。これが天台の第三の読み方だ。
 斉藤 はい。「十即ち法界」と読みます。つまり、地獄界は地獄界のままで法界です。地獄界から他の界に移るのではなく、そのままで一切法を具している。一切法(諸法)とは「十界の依正」のことですから、地獄界に十界を具しているということになります。他の九界も同様です。
 遠藤 それが十界互具ということですね。だんだんわかってきた気がしますが、やはりむずかしいですね(笑い)。
 須田 むずかしいのは、通常のわれわれの考え方を超えているからではないでしょうか。ふつうは「部分が集まって全体になる」ととらえるわけですが、仏法が説く生命の世界には、これは通用しない。「部分(個)がそのまま全体である」というのですから。
8  「一人」の幸福に、広布の「主体」が
 池田 だからこそ「一人の人を大切に」と何度も言うのです。「一人の人」が全宇宙と同じ大きさであり、最高に尊貴なのです。これが皆、なかなかわからない。なかんずく、いわゆる陽の当たるところにいる人だけでなく、「陰の人」に徹底して励ましを送ることだ。表の人を激励するだけでは官僚主義です。陰の人に、また陰の人にと、徹底的に光を当てるのが仏法者です。一人の人を励まし、一人の人が幸福になっていく。その中に「広宣流布」の全体が含まれている。この一点を離れて、上から″組織を動かそう″というのは転倒なのです。
 ともあれ、「個」即「全体」という実相は、たしかに通常の思考(思議)を超えている。「不可思議」すなわち「妙」と言われるゆえんです。
 遠藤 天台も、十界互具によって、自分が悟った「不可思議境」(『摩訶止観』)を表そうとしたわけですから、わかろうとするのが無理なのかもしれません。
 池田 しかし、その「不可思議境」というのは、われわれ凡夫の現実を離れたところにあるのではない。いな、凡夫の現実こそが「妙」なのだ、人間はすばらしいのだと宣言したのだということを忘れてはならない。
 この現実を離れて、どこかに″妙なる所″があったり、すばらしい″妙なる存在″がいるのではない。これを信心に約して言えば、「信心以外にない」と決めることです。「信心で勝とう」「信心で道を開こう」と決心することです。
 「不可思議境」と言っても、究極は「御本尊」のことであるし、「信心」の二字に納まる。
 「心こそ大切」です。格好だけ御本尊を拝んでいても、惰性であったり、疑ったり、文句の心や逃避の心があれば、本当の功徳は出ない。
 大聖人は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」と仰せです。(〈祈りの〉叶う叶わないは、あなたの御信心によって決まります。まったく日蓮のせいではありません)
 信心以上のすばらしい世界はないのだ。御本尊以上の宝聚はないのだ。これこそ「不可思議境」であり、「妙」であり、最高にすばらしい宝をもっているのだ──こう歓喜に燃えていけば、功徳はどんどん出てくる。
 どこか他の世界に、もっとすばらしいところがあるのではないか。信心以上の何かいい方法があるのではないか。そういう一念は、仏界の涌現の力を弱めてしまうのです。そして、仏界が涌現してこそ、事実の上で仏界即九界、九界即仏界になり、十界互具になるのです。
 斉藤 「信心」がなければ、十界互具といっても言葉だけのことですね。
 遠藤 さきほど「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」の御文を拝しましたが、日寛上人の仰せによれば、この「我が己心を観じて」とは、文底の仏法でいえば「御本尊を信ずる」ことです。「観心の本尊」といわれるゆえんです。また「十法界を見る」とは「妙法を唱える」ことです。
 池田 そう。妙法を唱える──唱える私どもは九界。唱え奉る妙法は仏界。妙法を唱えることで、九界と仏界が一体となり、十界互具になっていく。大いなる「境涯革命」が、そこに起こる。
 仏界が涌現しなければ、十界互具といっても、理論的な可能性(理具)に終わってしまう。信行があって初めて事実の上(事行)で十界互具になるのです。その意味で、十界互具の「理論」は、きわめてむずかしいが、その「現証」は創価学会の世界には無数にある。いな、学会の世界にしかないと断言できる。
9  境涯革命──母のドラマ
 遠藤 先日、広島の婦人部の体験をうかがい、大変に感動しました。その方は、在日韓国人で、被爆された女性です。差別の苦しみ、被爆の苦しみを乗り越えて、今、平和の語り部として活躍されています。
 彼女は、日本へ移住してきた両親の間に、大阪で生まれました。一家は韓国で手広く農業を営んでおられたのですが、軍国・日本に侵略され、植民地政策によって土地を奪われてしまったのです。やむなく日本へ来ざるを得ませんでした。「日本に行けばすばらしい生活が待っている」との宣伝文句が頼りでした。しかし、危険な工事現場を転々とさせられ、行きついた所は、山奥の小さな村。養蚕所の一角をムシロで区切っただけの小屋に入れられ、小作人の下働きとして働かされました。
 しかも、割り当てられたのは、沼地のような田んぼでした。満足な収穫などあるはずがありません。僅かな配給と、草や木の実で飢えをしのいだそうです。
 須田 ひどいですね。当時、たくさんの韓国・朝鮮の人々が、そうやって日本にだまされた。
 遠藤 広島に移住して一年後の昭和二十年(1945年)八月六日、「新型爆弾によって広島が全滅した」との噂が流れます。
 彼女は、お母さんと一緒に親類・同胞の安否を気遣って、被爆直後の広島市内へ行きました。その時、二次被爆をしてしまったのです。十二歳の時でした。やっと会えた叔母とその息子は、ひどい火傷で、手の施しょうがありません。
 叔母が「医者や薬が足らんけえ、朝鮮人までは手が回らんげな。このまま死を待つだけじゃー」と言うと、お母さんは「アイゴー(哀号)!」と悲鳴をあげました。
 「アイゴー(哀号)! 国を取られ、日本まで連れてこられ、牛馬のようにこき使い、ひと思いに殺さず、何の罪あってこうやって、半焼きにして苦しめるのか! 生きるも死ぬも差別するのか!」。こぶしで地面をたたきながら慟哭どうこくする母の姿を、今も忘れることはできないと言われます。
 その後、彼女は十六歳で結婚。″ロベらし″のためでした。そして出産したころから、被爆の影響でしょう、重度の貧血と内臓疾患に侵され、何度も手術を受けました。
 医師から、治る見込みはないと宣告され、広島の病院に移された時は、昏睡状態だったそうです。夫も寄りつかなくなり、病院食を幼い子どもと三人で分けあう日々。お金がないので、それも続けることができず、病院を出て、水道もない小屋に住み、トイレは近くの公園に行くという、みじめな生活でした。そんな一家に手を差しのべてくれたのが、近所の学会婦人部の方々でした。
 「一緒に、幸せになりましょう!」。親身になって語りかけながら、熱いうどんをもってきてくれたこともありました。それが、人間不信に陥っていた彼女の心に、どんなに深く染み入ったことか──。
 昭和三十九年(1964年)に三十二歳で入会。真剣に信仰に励むなか、めきめきと健康を取り戻していきました。その姿に、ご主人も入会しました。
 しかし、その後も長い間、頭に離れない疑問があったそうです。それは「なぜ私が、韓国人として差別を受け、そのうえ、被爆しなければならなかったのか」ということでした。それが、仏法の「願兼於業」(「願、業を兼ぬ」と読む。菩薩がみずから願って、悪世に生まれて、人々を救うこと)という法門を聞き、心から納得できたのです。
 「そうか、私には、私にしか果たせない使命があるんだ。願って、このような境遇に生まれてきたんだ」と。そして、戸田先生の「原水爆禁止宣言」を読み、池田先生の指導を学ぶうちに、彼女の心には強い決意がみなぎっていったのです。「在日韓国人被爆者である私にしかできない、平和への貢献があるはずだ。使命を果たすために、もっをカをつけよう! 勉強しよう!」
 五十二歳で中学の夜間学級に編入。定時制高校では学年で一、二番の成績を修め、五十七歳の時、広島大学の二部に入学されました。
 斉藤 その年齢からの勉学は、並大抵のご苦労ではなかったでしょうね。
 遠藤 「在学中にふとんを敷いて寝た記憶はほとんどない」「いつ寝て、いつ起きたかもわからなかった」そうです。こんな努力に努力を重ね、一九九五年の春、六十二歳で晴れて卒業を勝ち取られたのです。
 現在は、母校の定時制高校で非常勤で教壇に立つかたわら、平和の語り部として、各地の講演会やシンポジウムに出席。識字学枚への援助など、ボランティア活動をネパールやフィリピンをはじめアジア各国で展開するなど、縦横無尽に活躍されています。
 入会の折、彼女は、紹介者の方から言われました。「想像もできんような幸せの境涯になれますよ」。その時、こう思ったそうです。
 「私は、想像もできんような幸せより、すぐ想像できる幸せでええんよ。主人がお酒飲まんようになって、仕事をしてくれる。それだけで十分よ」
 それが本当に「想像もしなかった幸せの境涯」を築かれたのです。彼女は、力を込めて語っておられます。「池田先生が広島に建立してくださった『世界平和祈願の碑』の心を我が心として、世界中の人たちの、平和と幸せの実現のため、生命のかぎり、我が使命を果たしていく決意です」
10  十界の姿を″自在に演じる″
 池田 すばらしい体験です。すばらしい人生だ。すばらしい「信心の勝利」です。「御義口伝」に、(法華経・妙音菩薩品第二十四の)妙音菩薩について「卅四身を現じて十界互具を顕し給い利益説法するなり」と仰せです。人々を救うために、その機根や悩みに随って、自在に三十四身を現じ、法華経を広宣流布していく。これを「十界互具を顕し給い」と仰せなのです。
 彼女の人生も、あるときは地獄界の苦しみを見せながら、あるときは餓鬼界の悲しみを見せながら、信心によって、それらは全部、願兼於業だったのだと自覚した。地涌の菩薩が広宣流布のために、あえて、どん底の苦しみを自分が引き受けたのだと、確信した。
 十界のさまざまな婆を示しながら、最後は勝利の姿を示して、人々に「妙法の偉大さ」を教えていく。その人は、十界のドラマを演じる″名優″です。その人生はまさに「三十四身を現じて十界互具を顕し給い」の姿に通ずる。
 須田 ″十界互具を顕す″というのは、本来は仏・菩薩であるのに、十界のさまざまな姿を示していくということですね。
 斉藤 「観心本尊抄」で、法華経寿量品の「或説己身或説他身(或は己身を説き、或は他身を説き)」等の経文について、これが「仏界所具の十界」を表すと、仰せです(御書二四〇ページ)。(経文は「或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」〈法華経四八一ページ〉と続く)
 「己身」は仏の身(仏界)、「他身」は十界のさまざまな姿をとるということですね。
 池田 久遠以来、仏は、九界のさまざまな姿をも示しながら、仏としての活動をしてきたということです。成仏した後も、九界の生命がなくならないから、それができるのです。十界本有(十界をもともと具えていること)です。
 また、少しむずかしいが、方便品の「理具の十界互具」に対して、寿量品は「事行の十界互具」を説いている。仏の一身における事実の行動で、十界互具を示しているのです。それが「或は己身を示し、或は他身を示し」等の意味です。
 妙音菩薩が三十四身を自在に顕して人々を救ったように、私どもも、あるいは教師として、ビジネスマンとして、あるいは家庭の主婦として等、さまざまな姿を示して、広宣流布を進めている。また、あるときは苦悩の地獄界の姿を示し、あるときは喜びの天界の姿を示し、あるときは修羅の姿を示して、前進することもあるでしょう。
 創価学会においても、平和団体として活動し、また教育を進め、妙音の名のごとく文化を広げ、言論活動をし、仏法を基調に、ありとあらゆる姿を示しながら前進しています。まさに三十四身であり、十界互具の実践なのです。
11  生命の「基底部」を変える
 須田 最後に、もう一つ確認しておきたいことがあります。十界互具論の目的は、人界所具の十界、なかんずく仏界を涌現するところにある──これは納得できるのですが、そこで疑問になるのは、宇宙に百界があるように、人間の生命にも百界が具わっています。それでは、その「人界の生命の百界」には、どういう意味があるのかということです。
 斉藤 たしかに御書では、「人界所具の十界」に焦点を当てて論じておられます。そのうえで、一個の人間が十界互具(百界)の当体であるというのは一体どういう意味になるのか。それとも論じる意味がないのか──という疑問ですね。
 池田 一つのとらえ方として、生命の「基底部」を考えたらどうだろう。「基底部」というのは、同じ人間でも、地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる。
 斉藤 地獄界を基底部にするというのは、ちょっとしたことでもすぐに落ちこんでしまう──などという傾向性もそうですね。
 池田 いわば、生命の「くせ」です。これまでの業因によってつくりあげてきた、その人なりのくせがある。
 斉藤 それは、その人の「パーソナリティ(人格)」とかも含まれますね。
 遠藤 その人がいつ一も立ち返る「拠点」というか、「マイホーム」というか(笑い)、生命の根本軌道でしょうか。
 池田 バネが、伸ばした後もまた戻るように、自分の基底部に戻っていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の「勝他の念」を基底部にする人でも、ときには菩薩界や天界を出すこともあるでしょう。
 須田 それを「修羅界所具の菩薩界」と言っていいわけですね。
 池田 しかし、修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、また、すぐに修羅界に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯革命です。
 その人の「奥底の一念」を変えると言ってもよい。生命の基底部がどこにあるかで、人生は決まってしまう。譬えていえば、餓鬼界が基底部の人は、餓鬼界という船に乗っているようなものだ。
 餓鬼の軌道を進みながら、その船の上で、あるときは笑い、あるときは苦しむ。さまざまな変化はあるが、船は厳然と餓鬼界の軌道を進んでいる。ゆえに、見える風景も餓鬼界の色に染まっているし、死後も、宇宙の餓鬼界の方向に合致していってしまうでしょう。
 この基底部を仏界にしていくのが成仏ということです。もちろん基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから、悩みや苦しみがなくなるわけではない。しかし人生の根底が「希望」になっていく、「安心」と「歓喜」のリズムになっていくのです。
 戸田先生は言われた。
 「たとえ病気になっても『なにだいじょうぶだ。御本尊様を拝めばなおるのだ』と、それでいいのです。そして、安心しきって生きていける境界を仏界というのではないのか。それでいて、仏界に九界があるのだから、ときに怒ったり困ったりもする、安心しきっているのだから怒るのはやめたとか、なんとかいうのではなくて、やっぱり心配なことは心配する。しかし、根底が安心しきっている、それが仏なのです」
 「生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないのだろうか。これが、大聖人様のご境涯を得られることではないだろうか。首斬られるといったって平気だし。ぼくらなんかだったら、あわてる、それは。あんな佐渡へ流されて、弟子にいろいろ教えていらっしゃるし、『開目抄』や『観心本尊抄』をおしたためになったりしておられるのだから。あんな大論文は安心してなければ書けません」
 須田 先ほど、池田先生が紹介してくださったように、戸田先生は苦境の中でも「太平洋のような大境涯の信心」をもっておられた。これも″根底が安心″ということではないでしょうか。
12  九界の労苦で仏界を強める
 遠藤 生命の基底部を仏界にしていくためには、根本は勤行・唱題ですね。
 池田 仏の生命と一体になる荘厳な儀式です。この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し繰り返し、たゆみなく続けていくことによって、わが生命の仏界は、揺るぎなき大地のように、踏み固められていく。その大地の上に、瞬間瞬間、九界のドラマを自在に演じきっていくのです。また社会の基底を仏界に変えていくのが広宣流布の戦いです。その根本は「同志を増やす」ことだ。
 ともあれ、この信心を根底にすれば、何一つむだにならない。仏界が基底の人生は、過去・現在の九界の生活を全部、生かしながら、希望の未来へと進める。いな、むしろ九界の苦労こそが、仏界を強めるエネルギーになっていく。煩悩即菩提で、悩み(煩悩=九界)が全部、幸福(菩提=仏界)の薪となる。身体が食物を摂って消化吸収し、エネルギーに変えるようなものです。
 須田 そうしますと、薪がなければ炎はなく、食物がなければ身体のエネルギーはないわけですから、仏界も九界がなければカを失ってしまうということでしょうか。
 池田 そうです。九界の現実の苦悩と無関係な仏など、真の仏ではない。十界互具の仏ではないのです。それが寿量品の心です。
 ある意味で、仏界とは「あえて地獄の苦しみを引き受けていく」生命といってもよい。仏界所具の地獄界。それは、同苦であり、あえて引き受けた苦悩であり、責任感と慈悲の発露です。弘教のため、同志のために、あえて悩んでいく──その悩みが仏界を強めるのです。
 「自分が、あえて苦労していこう」というのが信心です。要領よく、″人にやらせよう″というのは信心ではない。組織主義であり、権威主義になってしまう。
 斉藤 「あえて苦しみの中へ」──それは菩薩の願兼於業の精神とも、相通じますね。
 池田 苦労しなければ人間はできない。苦労を避けて、本当の信心も人間革命もない。戸田先生は言われていた。
 「瀬戸内海の鯛というものは、内海で生まれ、玄界灘の荒波にもまれて育ち、再び瀬戸内海に帰ってくる。したがって、玄界灘の激しい潮流にもまれるので、肉がしまり、骨が堅くなって、おいしい。青年も、このように世の荒波にもまれてこそ、すぐれた人物に成長できるのだ」
 ある調理師さんの話によると、魚の肉で味がいいのは、魚が生きている間に、よく使った部分だという。しっぼのつけ根とか、ひれのつけ根の肉とか。
 須田 あんまり食べないところですね(笑い)。
 遠藤 一番おいしいところを、皆、食べないでいるのかもしれません(笑い)。
 池田 人間でも、苦労した人のほうが人間として味がある。人間味に深さがある。
 なかには苦労に負けて、自分を崩してしまう人もいるでしょう。食物も、消化し吸収する力が弱っているときに摂りすぎたら体をこわしてしまう。だから、強い生命力が大切なのです。生命が強ければ、苦労を全部、栄養に変えられるのです。
 反対に、いくら信心をし、勤行・唱題していたとしても、広宣流布の苦労を避けていては、仏界が強まるわけがない。仏界が固まるわけがない。
 斉藤 十界互具というのは、「九界を切り捨てない」ところにポイントがあると思います。すべてを生かしていくというか──大らかさを感じる思想です。
13  飾らず「ありのまま」ひたぶるに生きる
 池田 十界互具の人生は、信心を根本に、「ありのままに生きる」ということです。十界互具を説かない教えでは、九界を嫌う。九界を断ち切って、仏界に至ろうとする。
 これは、広げて言えば、人間を「刈り込んでいく」生き方です。ここがいけない、あそこが悪いと。だめだ、だめだと欠点を否定していく。その究極が「灰身減智」です。そういう反省も大事だろうが、へたをすると、小さく固まって、生きているのか死んでいるのか、わからないような人間になる危険もある。
 「角を矯めて牛を殺す」(少しの欠点を直そうとして全体をだめにする)ということわざがあるが、むしろ少しくらいの欠点はそのままにして、大きく希望を与え、目標を与えて伸び伸びと進ませるほうがいい場合が多い。
 そうやって、はつらつと自信をもって生きていけば、自然のうちに欠点も隠れてしまう。たとえば「せっかちだ」という欠点が「行動力がある」という長所に変わっていく。
 自分の人生についてもそうだし、人を育てる場合もそうです。ありのままの自分で、背伸びする必要もなければ、飾る必要もない。人間だから、泣きたいときもあるし、笑いたいときもある。怒りたいときもある。迷うこともあるでしょう。
 そういう、ありのままの凡夫が、奥底の一念を「広宣流布」に向けることによって、生命の基底部が仏界になっていく。そして、怒るべきときに怒り、悩むべきときに悩み、笑うべきときに笑い、楽しむべきときに楽しみ、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき」、活発に、生き生きと、毎日を生きながら、自分もそして人も絶対的な幸福に向かって突進していくのです。
 須田 それこそが十界互具を生きるということですね。
14  我が一念に「広宣流布」を入れる
 池田 そのためには、広宣流布への強き責任感に立つことだ。
 「だれかがやるだろう」とか、「何とかなるだろう」という、いいかげんな気持ちが一念にあれば、自分で自分の仏界を傷つけるようなものだ。
 たとえば今月の予定・スケジュールが決まる。それをただ手帳に書いているだけなら、自分の一念の中には入っていかない。なすべきことを全部、自分の一念の中に入れていくことです。入れていけば、それが祈りとなっていく。一念三千で、勝利の方向へ、勝利の方向へと全宇宙が回転していく。
 自分の魂の中、一念の中に、「広宣流布」を入れていくのです。一切の「我が同志」を入れていくのです。広宣流布を祈り、創価学会の繁栄を祈り、我が同志の幸福を祈り、行動するのです。それが広宣流布の大闘士です。
 悪人は「悪鬼入其身(悪鬼其の身に入る)」(勧持品〈第十三章〉、法華経四一九ページ)だが、その反対に、いわば「仏入其身」とならねばならない。
 広宣流布こそ仏の「毎自作是念(毎にみずから是の念を作さく)」(寿量品、法華経四九三ページ)です。この一念をともにしていこうとするとき、仏界が躍動し、はじめて真の十界互具・一念三千となっていく。
 凡夫の九界の身に、御本仏の生命がわいてくる。十界互具です。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」です。
 ″億劫の辛労″です。広宣流布のために、極限までの辛労を尽くしてこそ、仏界は太陽のごとく輝いていく。この御文にこそ、十界互具の要諦があるのです。

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