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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界互具〈上〉…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  「日に新たに」リ−ダ−は成長を!
 池田 「空」だから、どんな自分にでもなれるのです。今の姿に、とらわれてはならない。変化、変化です。問題は、よい方向に変化しているのか、悪い方向に変化しているのかだ。中間はないのです。
 須田 「自分は成長がなくて」と言う人がいますが、甘えた言葉ですね。「成長がない」ということは「退歩している」ということですから。
 池田 「進まざるは退転」です。とくに、組織の上のほうが成長を止めたら、こんな不幸はない。皆が、かわいそうです。だからこそ、「人間革命」です。
 「日に新たに、日に日に、また日に新たなり」(『大学』)だ。自分が止まったら、周囲も後輩も止まってしまう。自分が止まってしまったリーダーにかぎって、威張るし、感情的に人を叱る。威張ったり、怒ったりするのは畜生界、餓鬼界です。ほめたたえるのが菩薩界です。人をたたえることです。学会員は宝の人です。尊敬し、一緒に「いい人生を生きていこう」と励まし合っていくのです。そのために組織がある。今こそ幹部自身が境涯革命する時です。その総立ちの「うねり」が、一念三千の理法で、社会をも変えていくにちがいない。
 斉藤 はい。世の中全体が暗く、無軌道になっていますが、そうであればあるほど「このままでは、日本は、どうしようもない」「どうしても人間の根底から変えていく以外にない」という声が高まっています。
 遠藤 対症療法じゃダメだ、根底から治療しなければ、ということですね。教育改革を、といっても、その根底となる哲学、人間観、人生観を問わずしては、小手先の技術論になってしまいます。
 須田 へたをしたら、悪い政治家に利用されるだけでしょうね。
3  「心の不思議を」を知る人が仏
 池田 日蓮大聖人は「病の起りを知らざる人の病を治せばいよいよ病は倍増すべし」と仰せだ。
 境涯革命──そのポイントは「心の革命」にある。「一念の革命」です。「心こそ大切」なのです。その大切な心が、どっちの方向を向いているのか。
 もっと健康になって、広宣流布に活躍していこうという心なのか、一歩引いて、病気になってしまう心の動きか。もっと成長し、皆さんに喜んでいただこうという心なのか、組織や立場を利用して、威張っていこうという心なのか。タッチの差だが、結果は百八十度、違ってくる。
 この「心の微妙さ」が十界論の真髄であり、十界互具論の真髄でもある。大聖人は、こう仰せだ。「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う
 斉藤 仏とは「心の不思議」を知り究めた人のことである──ということですね。
 池田 そうです。それを体得するには修行しかない。ある有名な柔道家がいた。師匠に投げられて、投げられ抜いて、くたくたになって、どうしようもなくなった時に、ふっと心に宿るものがあった。そのとき、心技一体になって、勝つことができた、と。そういう話がある。本も、よくわからなくても、一生懸命に読んでいくうちに、何となく、わかるようになってくる。パッと、分かるときがくる。何でも「心」なんです。
 仏道修行も、学んで、戦って、それで仏になる。境涯革命と何回、口で言っても、何も変わらない。組織の上に乗かって、人に苦労させ、自分は楽をしている。それでは堕落です。仏になど、なれるわけがない。一番、大変な思いをした人が仏になるのです。
4  あえて苦労を──それが菩薩
 斉藤 それが菩薩ですね。
 池田 菩薩です。あえて苦労していこう、法のため、人のため、社会のために、あえて重荷を背負っていこうという「心」です。「自分中心」ではない。
 須田 自分中心は、六道であり、二乗もそうです。
 遠藤 菩薩界というのは、「人のため」「法のため」に自分を捧げている。二乗までと正反対であり、人間の生き方の根本的転換です。
 「菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り」とあります。
 「自分を軽んじて、他人を重んじる」「苦しいことは自分が引き受け、楽しいことを他に与えようとする」。これは、理想の人間像であり、指導者論ですね。
 須田 人間の本能のままの生き方とは正反対です。今の社会は「自分を重んじて、他人を軽んじ」「苦しいことは人に押しつけ、楽しいことは自分が貪る」のが当たり前のようになっています。
 池田 その通りだ。だから創価学会が、どれほど社会にとって必要か。学会員の生き方こそが、闇の社会を照らす太陽になっている。
 遠藤 ポーリング博士が言っておられた「(十界のうち)ナンバー・ナイン(第九)の菩薩界が人類を救う」ということですね。
 (ポーリング博士〈一九〇一年〜九四年〉。現代化学の父。ノーベル化学貰・平和賞受賞。名誉会長と対談集『「生命の世紀」へ探求』〈本全集第一四巻収録〉を発刊。名誉会長の米クレアモント・マッケナ大学での講演〈九三年一月〉にも、わざわざ駆けつけ、講演をたたえて「ナンバー・ナイン」の話をした)
5  「利己主義の社会」の底流を変える
 池田 そうです。「自分中心」の心の行きっくところは地獄界です。人生においても、社会においても。「法のため」「人のため」の心の行きつくところが仏界です。いな因果倶時で、その心にすでに仏界が宿っている。
 社会の底流を「自分中心」から「人間愛」へ、「利己主義」から「慈悲」へと変えていくのが広宣流布の戦いです。
 今、一番、必要な、一番、根本の貢献をしているのです。その誇りをもってもらいたい。正義を語り抜いてもらいたい。「菩薩界」といっても、特別なことではない。
 大聖人は「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」と仰せだ。
 (「他人をまったく顧みることのない悪人でも、妻子を慈愛する。これは人界に具わる菩薩界の一分である」)
 家族愛であり、子を思う親の愛です。それを自分たちだけのエゴではなくて、もっと大きく広げたところに菩薩界の社会がある。
 遠藤 広島の「世界平和祈願の碑」(一九九七年六月、完成)を思い出します。六体のブロンズ像(フランスの世界的彫刻家・デルプレ氏作)の中に「後継の像」がありました。
 池田 子どもを抱いている母の像だね。
 遠藤 はい。後継の子を抱き、高く掲げる母の像です。「今より、もっとすばらしい社会を、あなたに」と語りかけているような表情が印象的です。
 斉藤 その心が、菩薩界の一分ですね。
6  子どもたちに、もっといい時代を
 須田 今年(一九九七年)は戸田先生の「原水爆禁止宣言」から四十周年です。
 (一九五七年(昭和三十二年)九月八日、横浜・三ツ沢競技場の″若人の祭典″で、原水爆実験に対して「私はその奥に隠されているところの爪をもぎとりたい」と宣言。世界の民衆の生存の権利を脅かすものは「魔もの」であり、「サタン」であり、「怪物」であると叫んだ)
 先ほど「自分中心の心の行きつくところは地獄界」と言われましたが、戦争と原爆は、その象徴だと思います。
 その邪悪な心を変えるために戦った一人の母を紹介させていただきたいと思います。
 広島で被爆したその方は、昭和十九年(一九四四年)に結婚し、翌年、出産を控えていた時に被爆しました。
 爆心地から二・五キロメートル。倒壊した家屋の下敷きになるところを、寸前で逃れたものの、近くの学校へ避難する途中、″黒い雨″に打たれ、全身ずぷぬれになってしまったのです。
 この雨水を飲んだ人は、数日後に髪の毛が抜け、下痢を起こして亡くなったといいます。それが放射能を含んだ雨で、どんなに恐ろしいものであったか、当時の彼女は知るよしもありませんでした。四ヵ月後に長男を、三年後に次男を出産。彼女は、幼い子どもたちに平和の大切さを語って聞かせました。
 「お母ちゃんは、おまえたちが大人になっても、戦争に行かんでいい世の中をつくっていくよ」。食事をしながら、洗濯をしながら、布団の縫い替えをしながら──。
 長男が小学四年生のころ、自宅を開放して、親しいお母さん方との勉強会が始まります。教材のテーマは「女性史」「家庭教育」「歴史と人間」等々。
 週一回、熱心な討論を重ねながら、原水禁運動、生ワクチンの署名運動など、平和と人権と教育改革の行動に、地道に参加していきました。五年後には、勉強会は、二十数人の母親が集まり、昼の部と夜の部にわかれて学習するまでに発展したのです。
 遠藤 ″草の根″の運動ですね。
 須田 そうなんです。「お母さんの活動も大変なんだね」と尋ねる長男に、彼女はこう答えたそうです。
 「戦争ををなくしてしまう活動だからね。被爆した人たはの苦しみが今もつづいているんよ。原爆を落とされた広島の人たちが先頭に立ち上がらなくちゃね。どんなに大変でもやらなくちゃならんのよ」
 しかし、この間、彼女の体は、刻々と原爆症によるがんに蝕まれていました。昭和三十七年(一九六二年)の夏に入院し手術、翌年二月に再入院し、夏に手術。ある日、高校生の長男が病室を訪ねると、彼女は古い寝巻を丁寧に畳んでいるところでした。
 「そんなものどうするんだい。捨ててしまえばいいのに」
 「これはね、あんたがお嫁さんをもらって赤ちゃんが生まれたとき、おしめに使うんよ」
 「あんたたちの子どもは、どんな時代に生きるんかねえ。それを見届けんことには死ねんよ」
 「さぞ、うるさいおばあちゃんになるんだろうな」
 「おばあちゃんたちが苦労して、こんな平和な時代を作ったんよ、と言えるようになりたいね」──。
 翌三十九年の五月に三度目の手術。結果は思わしくなく、六月十六日、枕もとに集まった家族や親族の一人一人にお礼を言い、最後まで人々を気遣いながら、息を引き取られました。三十九歳でした。ガンは肺、肝臓、子宮に広がっていました。
 斉藤 原爆の″黒い雨″のせいですね。
 須田 ″母たちの学習会″は、その後も二十年間にわたって続けられました。反戦・反核、平和教育への実績は、今でも高く評価されています。
 ある時、平和運動のプラカード作りを手伝いながら、長男が母に言いました。「戦争は悪いことだと、だれもが知っているのに、どうしてして起こるんだろう」
 「人間って、いつのまにか戦争の起こるほうへ流されていくんよ。だから、こわいんよ。ユネスコ憲章のなかにも、こんな言葉があるけど、学校で習わんかった?『戦争は人の心の中に生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない』」
 「戦争は人の心の中に生れるって、どういうこと?」
 「そりゃ、お互いに憎み合ったり、自分さえよければええと思うたり、他人の不幸をみても何にも思わんかったり、そういう心が、戦争につながるんよ。そいう心をなくすることが、平和の砦を築くということなんよ」
 「だけど、どうやってなくすの?」
 「お母ちゃんらにも、それがようわからんのよ……」
 彼女は、そう言って、少しため息をついたそうです。
 斉藤 人間の「業」である悪の心を、じっと見つめておられたんでしょうね。現実と深く格闘しておられたから、「心を変える」難しさが身にしみておられた……。
 須田 長男は、母が亡くなって二年後、仏法に出合い、入会しました。胎内で被爆したことによる「死の恐怖」を乗り越え、広島青年部の反戦出版の活動も大きく推進しました。現在は、壮年部の中核の一人として、広島の同志とともに、広宣流布の活動に、邁進されています。
 池田 よく存じ上げています。親子一体──永遠の母子だね。お母さんも、さぞ喜んでおられることでしょう。
 斉藤 人々の「心の中」に、平和の砦を築きたい──その母たちの願いも、広宣流布という民衆運動の大河に、大きく包まれているのですね。
7  「自他不二」だから菩薩道を
 池田 世の中には、無数の「心が傷ついた人」がいる。そういう人たちに癒しの手を差し伸べなければならない。そうすることによって、じつは自分自身が癒されていくのです。
 人は何かあると、「自分ほど不幸な人間はいない」と思いがちだ。自分を憐れみ、自分のこと以外、何も考えられなくなってしまう。自分の苦しみにとらわれ、不平と失望の中で、生命力を衰えさせてしまう。
 その時、人に「生きる力」を与えるのは何か。それは、自分以外の誰かのために生きようという「人間の絆」ではないだろうか。エゴイズムに閉じこもっていては幸福はない。打って出て、「人のため」に行動する時、その時に、自分自身の生命の泉も蘇生していくのです。
 遠藤 心理学的にも、「思いやりが、自分に心を癒す」ことが強調されています。
 ストレスや不安に苦しむ人々は、自分自身の苦しみを果てしもなく考えて時間をすごしてしまいます。それを、集団の場を設けて、他人のことを考えたり、助けてあげるようにエネルギーを向けさせていくという療法もあります。
 斉藤 自分と同じように苦しんでいる人の面倒をみるということですか。
 遠藤 そうです。その人の話を聞いてあげたり、話し合ったりできる雰囲気をつくっていきます。そうすることによって、面倒をみてもらったほうはもちろん、みたほうの人も、以前より、ぐっと「生きる力」が強まると言うのです。
 須田 学会活動でも、人を激励したら、自分も元気になりますからね(笑い)。
 池田 学会は、ありがたいところだね。人の面倒をみた分だけ──つまり、人の「生きる力」を引き出した分だけ、自分の「生きる力」も増していく。人の生命を拡大してあげた分だけ、自分の生命も拡大する。これが菩薩道の妙です。「利他」と「自利」の一致です。
 利他だけを言うと、傲慢になる。人を救ってあげているという偽善になる。自分のためにもなっていることを自覚してはじめて、「修行させてもらっている」という謙虚さが出る。自他不二です。ゆえに菩薩道しかないのです。
 遠藤 「人を助けることが自分を助けることになる」ということですね。
 ナチスの強制収容所での話です。あの地獄で生き残ったある人は、一つの規則にしたがって生きていたといいます。「私たちのグループはすべてのものをみんなで共有していました。そして、グループのメンバーがひとりで物を食べ始めたとき、それがその人の死に始まりだということがわかっていました」(ジュリアス・シーガル『生き抜く力』小此木啓吾訳、フォーユー)
 池田 すごい言葉だ。わかります。極限状態の中での本当の人間の声だ。
 斉藤 人と分かち合う心を、なくしたとたんに──死が始まっていった。恐ろしい真実の証言です。
 池田 もちろん強制収容所での体験は、体験しなかった人間が軽々しく論じられるものではありません。それほどに重い。であるからこそ、人類への宝の証言であることも、また事実でしょう。
 遠藤 はい。多くの人が生涯にわたる心理的障害を背負いましたが、ある生存者の一人は、戦争の後も、収容所での体験を思い出して苦しむことはなかったといいます。その理由を聞かれて、その人は、アウシュビッツにいて本当の友情とは何かを学んだからだと答えたそうです。(同前、参照)
 「子どもの頃、知らない人たちが自分たちの身体を使って強い風をさえぎってくれました。彼らは、″自分″以外に使えるものを持っていなかったからです」(同前)
 もちろん、「動物のような状態に陥ってしまった」(同前)人たちもいました。無理もありません。その一方で、自分の体を風よけにして子どもたちを守った人々もいたのです。
8  「ナルシシズム(自己愛)社会」のわな
 遠藤 これらの体験を紹介した心理学者(J・シーガル)は、現代はナルシシズム(自己愛)の罠に、はまってしまっていると警告しています。自分を満足させることだけが人生の目的となり、「他の人のことを思うなどというのは今や時代遅れ」(同前)になっている、と。
 ″人々は、楽しまなくてはいけない、自分が喜びを感じなくてはいけないと強要され、半ば命令されている。そういう文化になっている″という思想家(V・E・フランクル)の観察をふまえて、「自分を犠牲にして他の人に尽くすなどということは、不健康で誤った考え方だと広く信じられてきている」と分析しているのです。(同前、引用・参照)
 池田 納得できるね。問題は、その結果、より幸福な社会になったのかということです。そうではないでしょう。
 遠藤 はい。ますます、人は孤独になり、励まし合うことを忘れ、生きる力を衰弱させています。
 斉藤 だからこそ、ますます「もっと楽しいことはないか」と、欲望を肥大させていく──悪循環てすね。
 池田 その悪循環の″黒い鉄鎖″を断ち切るのが「菩薩界」です。「ナンバー・ナイン(十界の第九)」の生き方です。
 有名な話だが、ある人が地獄に行った。すると皆がごちそうを前に食べられないで苦しんでいる。どうして食べられないのか。ハシが自分の手よりも長くて、口に食べものを入れられない。
 今度は仏国土へ行った。そこでも皆のハシは手よりも長い。なのに皆が満足して食べていた。どうしていたか。互いに、相手の口に入れてあげていた。
 斉藤 地獄と仏国土の違いは、環境の違いではなかった。住む人の「心」の違いだったということですね。
 須田 豊かさの中で、なぜか苦しんでいる現代。その原因が、どこにあるかを示す話と思います。
 池田 ともあれ、社会は変わる。刻々と変わっていく。政治も経済も流行も、世の中の全部が変わっていく。そのなかで変わらない不動の一点。それをもっているか否か。それをもっているのが私どもです。それは妙法です。妙法こそ、不動の原点であり、そして、すべてをよりよい方向へ変化、変化させていく根本の力です。
 人は変わる。しかし法は変わらない。人は、だませる。しかし法は、だませない。インチキは通用しない。この不変にして絶対の「法」を中心にしてこそ、人生も社会も永遠の栄えがあるのです。それ以外は、すべて幻のようなものだ。結論していえば、広宣流布に生き抜いてしく地涌の菩薩の人生こそ最高です。これ以上の人生はないのです。それを自覚するか否かが信心の問題てす。
9  「師子王の心」の信心が仏界
 斉藤 菩薩というのは「上求菩提じょうぐぼだい下化衆生げけしゅじょう(上は菩提を求め、下は衆生を化する)」と言われます。私たちで言うと「自行・化他」ということですね。
 池田 自分も幸福になり、人をも幸福にするということです。自転をしながら、公転していくということです。それが宇宙の法則です。
 ある意味で、自分の幸福は後回しにしてでも、民衆の幸福のために尽くすしていくのが菩薩です。それが学会精神だ。崇高です。信心は戦いです。人生は戦いです。仏法は戦いであり、菩薩界・仏界というのは、勇んで悪と戦っていく行動にしか出ない。
 この宇宙は第六天の魔王の支配する世界です。「不幸の将軍」「不幸の王」が率いている。だから幸福の人間を妬む。あだむ。壊そうとする。これと戦ったのが大聖人であり、釈尊です。どうしても妬む。弾圧する。人を不幸にして喜ぶ。そういう邪悪な軍勢と戦って、打ち破って幸福になる。仏になる。だから大聖人は「師子王の心を取り出して」と仰せなのです。
 須田 「師子王の心」の信心が仏界ということでしょうか。仏界とは「何があっても崩れることがない幸福境涯」と言われますが……。
 池田 絶対的な幸福の境涯です。「絶対的」というのは、何があっても明らかに見ていけるからです。智慧です。そして、何があっても動じないからです。心の強さです。その智慧と強さを、いかなる時にも、生命の奥底からくみ出していけるから、絶対的幸福なのです。
 決して、何の悩みも苦難もないということではない。そんな人生はありえない。何もかも順調というのは、それ自体、幻であり、嘘です。悩みがあるのが実像です。大聖人は「煩悩即菩提」と仰せです。悩みがあるから幸福が味わえるのです。苦難があるから成仏できるのです。悩みがない人生というのは、本当は、少しも幸福ではない。それが仏法の見方です。
 それでは「仏界」とは何か。それは私どもでいえば「信心」以外にないのです。戸田先生は、こう言われた。
 「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来に向かって仏であると覚悟することである」(『戸田城聖全集』3)
 「信心」であり「覚悟」です。「自覚」です。
10  「本来の生命に帰る」のが本門
 池田 寿量品では「久遠の仏」が説かれる。その仏とは、だれのことか。前にも語ったが、大聖人は「我実成仏己来、無量無辺百千万億那由佗劫(我実に成仏してより己来このかた、無量無辺百千万億那由佗劫なり)」(法華経四七八ページ)の「我」とは「法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり」と仰せだ。寿量品の「久遠の仏」とは一切衆生のことなのです。私どものことです。凡夫は凡夫のままで仏なのです。
 命に差別はない。平等です。平等に仏です。違うのは、それを自覚しているか否か、その「心」の違いだけです。
 三十二相八十種好で身を飾るのが仏なのではない。我が生命そのものが本来、仏です。宇宙そのものが本来、仏なのです。太陽が出るのも慈悲。月が照らすのも慈悲。緑の木々が美しく呼吸しているのも慈悲です。宇宙全体が無始無終にわたって慈悲の活動を続ける大生命体なのです。
 その大生命を久遠の仏という。そして、十界の誰の生命も、この寿量品の仏と一体なのです。その本来の生命に帰るカギが信心です。
 斉藤 本来の生命に帰る──それが本門ですね。
 池田 その通りだ。大聖人は「寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり」と明快に言われている。
 須田 「久遠の本仏」の大生命こそ、十界の衆生の「本命」である。その本来の命に入っていくのが本門の本門たるゆえんなのですね。
 遠藤 本来、自分のものなのだから、いくらでも本仏の力を頂けるということですね。
 池田 全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ(笑い)。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。
 そして「信心」とは「魔と戦う」こと以外にはない。正義とは、悪と戦うことであり、仏法とは難と戦うことです。
 ある時、四条金吾が度重なる苦難に、思わず弱音を吐いた。「法華経を信ずる者は現世安穏のはずであったが……」と。それを伝え聞いた大聖人は、こう指導されている。
 「松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる(中略)法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし
 松が風雪に耐えて「万年の寿命」を証明するように、法華経の行者は、難に耐えることによって、「永遠の生命をもつ仏」という本地を現わす。今こそ、尊極の「仏界」を現わす時である。最高の功徳が出る時なのに、何を弱音を吐くことがあろうかと、励ましておられる。
 斉藤 同じ御書では「法華経の行者は難に値うと心得て法華経を受持せよ」「成仏は持つにあり」とも仰せです。
 池田 受持です。「自分には広宣流布の使命があるんだ」と信じ、妙法を受持しきって生き抜くのです。
11  「魔を破る」のと「仏になる」のは同じこと
 池田 釈尊も絶えず魔と戦った。「魔と戦い続ける」ことと「仏である」こととは、じつは同じことと言っても過言ではない。
 須田 はい。経典を読みますと、釈尊が生涯、魔と戦っていたことは明らかです。そして、魔が競うたびに、釈尊は魔の誘惑を斥けています。その武器は、「信」と「努力」と「智慧」とされています。
 池田 そもそも釈尊の悟りそのものが魔との戦いです。釈尊が、菩提樹の下で成道した直後の言葉が残されているね。
 遠藤 はい。熱心に修行している釈尊の生命に「法」が顕になった時、″悪魔の軍隊を降して″虚空に輝く太陽のように安立していた、とあります(「ウダーナ」)。
 池田 妙法が己心に顕現し、我が生命は、大空の太陽のように悠然と輝いている。これが、仏界だね。「仏界が顕れる」ことと「魔軍を降す」こととは一体なのです。魔は、内にも外にもいる。しかし、それに勝つか、負けるかは自分自身の一念です。大事なことは、勝ち続けることです。立ち止まらないことです。決して魔に紛動されない自分自身を鍛え上げることです。
 須田 釈尊は、悟りの時だけではなくて、その後も、絶えず障魔と戦い、魔の誘惑を斥けていたと言われています。中村はじめ博士は、こう述べています。
 「悪魔を撃退してからさとりを得たというのではなくて、悪魔を降すこととさとりを得ることとは、同一事実の表裏の関係になっている」(「ゴークマ・ブッダI」、『中村元選集』第十一巻所収、春秋社)
 「ブッダたることは、誘惑を斥けるという行為それ自体のうちに求められねばならぬ。不断の精進がそのまま仏行ぶつぎょうなのである。さとりを開いて『仏』という別のものになるのではない」(『ゴータマ・ブッダ』1,『中村元選集[決定版]』)
 池田 仏界とは、妙法と一体の境地であり、仏とは、妙法を師とする人です。妙法を受持しぬく境地そのものが仏界です。釈尊は成道の直後に、″妙法を師として生き続ける″ことを誓って、こう言っている。
 「わたくしはこの法(dhamma)をさとったのだ。わたくしはその法を尊敬し、うやまい、たよっているようにしよう」(同前)。そして、その通りの生涯をまっとうした。
 斉藤 入滅の時の言葉にも、「わたしは自己に帰依することをなしとげた」(『ゴータマ・ブッダ』2,同選集12)とあります。自己に帰依するというのは、内なる永遠の妙法に帰依するということですね。
 遠藤 弟子たちにも、自分と同じように、「法と自己を拠り所とせよ」と遺言しています。
 池田 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(『六波羅蜜経』)ということです。自分中心ではなく、法を中心に生きるということです。広宣流布を中心に生きるということです。そうしていこうという心が信心です。
12  「信心」が仏界のある証明
 池田 「観心本尊抄」の「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」との仰せは、非常に重い意味を持っている。
 法華経を信ずる「信心」が、私たちに仏界が具することの証拠なのです。
 須田 ″仏界を具しているから法華経を信ずることができる″というのは、少し不思議な感じがします。″法華経を信ずるから仏界に至ることができる″と考えるのが普通ですが、この考え方とは、方向が逆ですね。
 池田 両方あるのです。たしかに法華経を信ずるから仏界に至ると言える。しかし、その「法華経への信」は、自分が久遠の妙法の当体であるからこそ、つまり仏界を具しているからこそ可能なのです。「一切の人々が成仏できる」という迹門の法門にしても、「仏の生命は永遠である」という本門の法門にしても、永遠なるものを自分の中に感じられるからこそ、信ずることができるのです。
 斉藤 無意識的にせよ、人間であれば、誰でも、永遠なるものを感じていると思います。
 池田 誰もが「永遠を感ずる力」をもっている。それが人間の最も大きな特徴かもしれない。宗教が人間にしかないのも、そのためでしょう。それは、「生命の尊厳を感ずる心」と言ってもよいし、「人との絆を貴ぶ心」「自然・宇宙と共鳴していく力」とも言える。そういう「善なる心」「善なる力」こそが法華経を信ずる信力の源です。
 いずれにせよ、私たちに仏界が具しているからこそ、法華経を信ずることができると言えるのです。そして、その信力によって法華経を信ずれば、もともと具わっている仏界の力が開放され、価値創造へと生かされていく。ますます強まっていく。
 須田 仏界があればこそ信心が起こり、信心によって仏界が開かれてくるという関係にあるわけですね。
 斉藤 一面の譬えですが、九界は部屋に閉じこもっている状態、仏界は晴れ渡って澄み切った外の世界に譬えられないでしょうか。九界の衆生は、もともと仏界という大宇宙の中にいる。人間は、それを「永遠を感ずる」という形で、うすうすは感づいていたが、迷いという厚い壁に覆われた部屋に閉じこもっているため、わからなかった。しかし、信心によって迷いの壁を破れば、妙法という大宇宙の空気を呼吸できるようになる……。
 遠藤 信心のカギによって心の窓を開ければ、外のさわやかな空気も、さんさんたる光も部屋に入ってくる。部屋の中にいても外にいるのと変わらなくなります。
 池田 九界と仏界の関係については、次に語ることにしよう。
13  「一心に仏を見る」一心が仏
 池田 ともあれ、心の開放、内なる力の涌現が、私たちの信心の実感だね。学会活動しきったあとの、あのさわやかさ! 受け身ではいけない。不自惜身命でこそ、本当の力が出る。
 日蓮大聖人は、「一心欲見仏不自惜身命」(法華経四九〇ページ)の経文によって、「己心の仏界」を顕すと仰せです(「義浄房御書」御書八九二ページ、趣意)。みずからの身命を惜しまず、一心に仏を求めるというのは「信心」であり、「求道心」です。御本仏を求め抜く一心に、御本仏の力用が現れるのです。大聖人は、この「一心欲見仏」を、より深く読まれているね。
 須田 はい。「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」と仰せです。
 池田 そう。最初は「一心に仏を見る」であったが、最後は「一心を見れば仏なり」となっている。信心の一念、不自惜身命の一心が、そのまま久遠の仏界となって現れるのです。要するに、信心即仏界です。これが「人界所具の仏界」の実相です。
 遠藤 不自惜身命──「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」との仰せと同じですね。
 斉藤 日寛上人が「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)と言われているのも同じ意味ですね。
 池田 同じことを言われているのです。仏法を守ろう、仏子を守ろう、難を我が身に受けていこうという「師子王の心」こそ、仏界涌現の秘訣なのです。
 斉藤 学会の「死身弘法」「不惜身命」の精神の大切さを改めて知る思いです。
 池田 信心とは、広宣流布のために、自分の一切を捧げていくという修行です。自己中心を捨てるのです。殉教です。
 牧口先生も、戸田先生も、私も、ただ広宣流布のため、みんなのため、社会のため、人のために生きてきた、自分のためなんか、考えない、一番、あと回しです。だらけた考えで、成仏などできるわけがない。大聖人は「身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめ」と仰せだ。
 仏とは人間です。戦い続ける人間です。どこか別世界にいるような、特別の存在とかではない。凡夫即極と仰せです。諸法実相であり、諸法という、人生と社会の「現実」のなかに、実相がある。仏界がある。
 ある人はビジネスマン、ある人は教師、ある人は主婦、ある人は農業というように、社会のさまざまな活動の中に「仏界」の躍動はある。それが法華経の見方です。
 須田 宗門のように、弘教もしない法主を特別な仏のように崇めさせるというのは、法華経の心を、まっこうから殺すものです。
 遠藤 インチキに、ごまかされてはいけませんね。
 池田 私どもは祈りの時に「合掌」する。両の掌を合わせることで「仏界即九界」を表す。また「妙法」を表す。(「御義口伝」に「合とは妙なり掌とは法なり(中略)合とは仏界なり掌とは九界なり」と)
 すなわち何があっても、信心根本に題目をあげていくところに仏界がある。九界の苦しみが、どうあろうと、強き強き信心によって、九界即仏界、仏界即九界の人生となっていく。題目を唱えて、すぐに祈りが叶う場合もあれば、すぐには叶わない場合もある。それでも、祈りを続けていく。題目を唱えていく。行動していく。その信心が即「仏界」です。その信心が即「勝利」なのです。
 その信心を、人生の最後の最後まで燃やしきっていけば、寿量品の「久遠の仏」と一体の三世の旅路となるのです。

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