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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界論(中)「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 これまでが、(1)地獄界(2)餓鬼界(3)畜生界の「三悪道」でしたので、ここからは「修羅界」から見ていきたいと思います。
 池田 勉強しましょう。自分の境涯革命のために。十界論は「鏡」です。この鏡をもてば、自分が見えてくる。他人が見え、社会が見え、何をなすべきかが見えてくる。
 須田 はい。修羅界・人界・天界は、三悪道に対して「三善道」と言われます。両方を合わせて「六道」です。
 遠藤 不思議に思うのは、修羅界は三悪道と合わせて「四悪趣」と言われるのに、「三善道」にも入っている。善でもあり、悪でもあるのですね。
 池田 そのことも、考えておく必要があるね。まず基本的な意味を見ておこう。
2  修羅界──他人を見下す慢心
 遠藤 修羅界の「修羅」とは「阿修羅」のことで、梵語のアスラの音訳です。古代インドでは、正義の神の一つでしたが、やがて魔神として位置づけられるようになりました。
 須田 日蓮大聖人は「諂曲てんごくなるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「へつらい」「曲がった」心のことです。「てん」も「ごく」も「心が曲がっている」ことです。なかんずく「自分の本心を見せないで、従順をよそおう」のが「諂い」です。
 遠藤 「修羅」というと、何か「肩をいからせて、いばっている」姿を思い浮かべそうですが、「へつらう」というのは、イメージが反対です。修羅の境涯は、一見、大変に謙虚にさえ見えるということでしょうか。
 池田 そこに問題がある。修羅は「慢」の生命です。「慢」は、七慢・九慢など、いろいろ分類されているが、要は、他人と自分を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩です。
 いわば″自分はすばらしい″という自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていくのです。だから人にも「すばらしい人だ」と思われるために、「本心を明かさない」──すなわち「へつらう」のです。
 遠藤 本心と外見が違っているわけですね。だから、心にもないことも言う。これは三悪道にはなかったことです。かなり知能犯というか、ある意味で、高級になっているわけですね。
 斉藤 たしかに、修羅について天台は、内面と外面が違うと述べています。
 「常に他人に勝つことを願い、それが叶わなければ、人を見下し、他者を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろすようなものである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を見せようとして、下品の善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(『摩訶止観』)。内面では、自分より優れた者の存在を許せない。人を心から尊敬することができない。自分だけが偉いと思っている。「勝他しょうたの念」を燃やしている。
 しかし外面では、そういう心を、おくびにも出さない。仁・義・礼・智・信を備えた人格者のように振る舞う。そうすることによって、「人格面でも優れている」と人に思わせ、あるいは、自分でも思いこもうとするのかもしれません。
 遠藤 「これほど謙虚な自分は立派なのだ」と慢心したり(笑い)。
 須田 内面と外面が違う。「うそつき」だということが修羅の特徴ですね。
 池田 同志を裏切っていった反逆者は、そういう連中であった。外面に、だまされてはならない。
 斉藤 たしかに、「諂曲」とある通り、かなり「曲がって」います。
 池田 そう。心が「曲がっている」から、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、すばらしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長がない。
 「御義口伝」には「上慢(増上慢)」と「我慢」についての文句記の文を挙げられています。「疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す」と。
 斉藤 自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが「増上慢」。とくに、仏道修行の成果を得ていないのに、得たと傲ることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしないのが「我慢」です。
 池田 法華経の方便品には、悪世の衆生は「我慢にしてみずから矜高こうこうし諂曲にして心不実なり」(法華経一三二ページ)と説いている。我慢の心が強く、みずからを誇り、高ぶっていながら、心は曲がり、率直でも誠実でもない、と。その通りの世相ではないだろうか。
 須田 よく「我慢しなさい!」と、お母さんが子どもを叱ったりしますが、本当は「我慢」は、いけないのですね(笑い)。
3  自分が、さらけ出される「恐怖」
 池田 そのように、「我慢」は、いつしか「忍耐」の意味で使われるようになった。なぜだろうか。慢心は、時に強靭な意志力を発揮するのです。「すばらしい自分」という幻想の自己像を守るために、すさまじいエネルギーを出すのです。
 斉藤 自分自身の向上に、それだけのエネルギーを注げばすばらしいのに、「偽りの自分」に執着し、守るためにエネルギーを使ってしまうのですね。
 池田 そこに「修羅」の不幸がある。その心は、いつもおびえている。自分の「本当の婆」を暴かれることを恐れている。
 「佐渡御書」には「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」と仰せです。その反対に、「獅子王の心」は何ものも恐れない。自分を守るためではなく、正法を守り、民衆を守るために生きているからです。
 遠藤 「修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝に過ぎず」(日寛上人の「三重秘伝抄」)と、巨大な姿で説かれています。大海の中に立っても、水が膝くらいまでしかこない。それくらい大きな姿なのですが、これは主観的な自己像であって、実像とは違うということですね。
 須田 たしかに慢心している心は、自分を大きいように錯覚します。しかし、帝釈天のような本物の力をもった存在に、慢心を打ち破られると、とたんに池の中の蓮の中に隠れるくらい小さくなってしまう。
 遠藤 風船がしぼんだような婆ですね。
 斉藤 こうして見てくると、阿修羅というのは、非常に多くの現代人を特徴づけているのではないでしょうか。最近話題になった『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著、森英明訳、草思社。以下、同書から引用)で分析されている「邪悪な人」というのは、「修羅界の人」と大変、共通しているように感じるのです。
 遠藤 私も読みましたが、平気でうそをつく「邪悪な人」とは決して特殊な例ではなく、どこにでもいる普通の人の中にいるという趣旨でしたね。
 斉藤 ええ。その特徴は「自分には欠点がないと深く信じこんでいる」。
 「完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しょうと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである」
 「彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって『善』とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている」
 須田 なるほど、「下品の善心」で外面を飾るということですね。
4  遠藤 さきほど「我慢」のエネルギーという話がありましたが、こうも書かれています。
 「邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである」
 「彼らは、ご立派な体面や世間体を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向がある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意をもって困難に取り組むことすらある」
 池田 問題は、そういう努力が全部、自分の利己心から出ているということだね。仏法では「心こそ大切」と説く。同じような努力の姿でも、自分を超えた何らかの価値──善や美、多くの人の利益のためなのか、自分のエゴのためなのか。
 私どもで言えば、「広宣流布のために自分がある」と心を定めて、自分を捧げきっていくのが信心です。しかし退転者・反逆者は「自分のために創価学会がある」という転倒に陥ってしまっていた。慢心のあまり、同志を尊敬するどころか、学会を利用し、役職を利用し、私を利用して、自分をさも偉く見せようとした。
 斉藤 それを先生に見破られ、多くの人にも嫌われていったのですね。
 須田 それで反省すればよいものを、逆恨みして攻撃を始めた。
 遠藤 その心理もやはり、幻影の自我像を守ろうとするのが要因ではないでしょうか。
 先ほどの本に、こうあります。
 「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する」「自分自身のなかにある病を破壊すべきであるにもかかわらず、彼らは他人を破壊しようとする」。彼らは「自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する」。(前掲『平気でうそをつく人たち』)
 須田 まさに「みずから省ること能わざる」姿です。だから逆恨みする。
 斉藤 これまで単に、「修羅は勝他の念」と公式的に語りがちでしたが、深い人間学がありますね。人間の自我意識そのものにまつわる宿命的な婆といいますか……。
 三悪道は環境に埋没している境涯です。しかし修羅界は、そこを一歩抜け出て、環境や状況に左右されない自己を、ある意味で持っています。
 須田 それが「三善道」の一つに数えられる理由でしょうね。
 斉藤 しかし、そういう主体的な自我意識をもったとたん、「勝他の念」という煩悩に支配されてしまう。
 池田 そこを、どう突破するか。そこに「人界」への飛躍がある。結論すれば、「他人に勝つ」しことに向けられていたエネルギーを「自分に勝つ」ことに向けてこそ、人界となるのです。
 ただ、人界を語る前に、修羅界の大きな特徹である「嫉妬」について考えておこう。
5  「嫉妬社会」は転落する
 池田 日蓮大聖人は、当時の日本の社会を「嫉妬の思い甚し」と仰せです。今もその傾向性は変わっていない。
 また日本のみならず、「嫉妬社会」になった国は転落していく。よきものを尊敬せず、引きずり落とそうとするからです。
 その実例としては、古代ギリシャのアテネが有名です。
 遠藤 アテネが「嫉妬社会」であった象徴は「陶片追放(オストラキスモス)」の歴史です。「独裁者を防ぐため」という名目で、″独裁者になる危険がある人物″を投票で決め、追放する制度です。
 須田 それが、どんなに悪しき制度であったか。以前、池田先生は『ブルターク英堆伝』の中から紹介してくださいました。(本全集第85巻収録)
 ──人々が投票しようとしていたとき、「正義の人」アリスタイディーズに文盲の男が近づいてきた。自分で字が書けないその男は、本人(アリスタイディーズ)と知らずに、「ここに、アリスタイディーズと書いてください」と言った。「正義の人」は男に尋ねた。「彼(アリスタイディーズ)は、何か、あなたに悪いことをしましたか」
 男は答えた。「いいや迷惑なんぞ一つだってありやしない。当人を識ってもいないんだが、ただどこへ行ってもあの男が正義者正義者と呼ばれるのを聞きあきたまでさ」(鶴見祐輔『ブルターク英雄伝』3、潮出版社)
 「正義の人」は、黙って自分の名前を書いて、男に渡した。そして、追放された。ブルタークは書いています。
 「最近の戦勝によって思いあがりうぬぼれきった民衆の心は、自然に通常以上の名声を有するすべての人にたいする嫌悪の情をいだいた。それゆえに四方よりアゼンス(=アテネ)に集まった彼らは、アリスタイティーズの名声に対する嫉妬に専制忌怖きふの名目を与えて、彼を貝殻追放(=陶片追放)に処した」(同前)
 池田 歴史の教訓です。国は栄え、民衆は「自分たちは大したものだ」とうぬぼれていた。そして、人を尊敬する心を失っていった。少しでも優れた人物が出てくると、嫉妬し、足を引っ張った。その結果、一流の人物は皆、いなくなり、二流、三流ばかりになっていった。やがて、国を支える人物がいなくなり、国は没落し、最後は戦争に負けて、栄光の歴史の幕を閉じたのです。
 斉藤 嫉妬というのは、恐ろしいですね。国をも滅ぼしてしまう。嫉妬の正体は、どんなものか。多くの研究がありますが、哲学者の三木清は、こう書いています。
 「嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る」
 「しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとする」(「人生論ノート」『三木清全集』1所収、岩波書店)
6  嫉妬されるほうが優れている
 池田 相手に勝つために、自分を高めるのではなく、相手を引きずりおろそうとする──慢心というものは不毛です。そんなことを一生懸命やっても何にもならない。人を傷つけて喜んでいても、自分は少しも偉くなっていない。幸福にもなっていない。
 十界論は「幸福の追求」です。修羅界の「勝他の念」には、本当の幸福はない。
 いつも、自分より優れた存在にいらつき、自分の真の姿をさらすことにおびえている。その「おぴえ」を癒すために、嫉妬して相手を引きずりおろそうとするが、そうすればするほど、じつは自分がみじめになるのです。
 須田 どうしてでしょうか。
 池田 嫉妬するということは、じつは、相手のほうが優れていることに、ひそかに気づいているからです。
 「嫉妬は称賛の一種」という言葉があるが、相手が優れていることを心の底では認めているのです。しかし、その事実から「修羅」は目をそらそうとする。
 須田 自分のちっぽけな姿を見ようとしないわけですね。本当にプライドが高い(笑い)。
 池田 その慢心が修羅を不幸にしている。だれかを優れた人物だと認めれば認めるほど、その人を妬み、憎んでしまう。
 そうすればするほど、自分が、つまらない存在であることに気づかされ、その悔しさをさらに相手にぶつける──という悪循環に陥る。
 本当は、何か偉大なものを心から尊敬した分だけ、自分も偉大になれるのだが。
 ゲーテは当時の学界や文学界の人々のことを「本当に偉大なものは、彼らには不愉快で、そんなものは世の中から放っぽりだしかねないし、そうすれば、彼ら自身がそれだけ少しでも有名になるとでも思っている」(エッカーマン著『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)と嘆いた。
 斉藤 嫉妬は、たしかに不毛です。三木清も書いています。「嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない」(前掲「人生論ノート」)。あっちでも、こっちでも、無意味なことを、とりつかれたようにやっていると言うのです。
 池田 何が、そうまでさせるのか。そこがポイントだね。
 遠藤 さきほど「修羅はおびえている」と言われましたが、嫉妬の根っこも「自信のなさ」ではないでしょうか。
 その証拠に、嫉妬している人は、「自分は嫉妬のために、人を攻撃している」とは、なかなか認めません。必ず何か別の理由を見つけます。
 それは「嫉妬している」と認めたとたんに、自分のほうが相手よりも劣っていることを認めることになるからです。それは「勝他の念」には、耐え難いことです。
 斉藤 だから嫉妬する人間は、いつも「正義」の仮面をかぶるわけですね。
 須田 たしかに俗悪週刊誌なんか、いい例ですね。人を引きずり落とすためには「平気でうそをつく人々」です。しかも、常に社会正義だとか言論の自由だとか、立派そうな外見をつけています。
 しかし、やっていることは、「はじめに結論ありき」で、だれか、やっつける相手を見つけたら、相手を傷つけるために、ありとあらゆる卑劣な手を使うわけです。ある学者いわく、そこにあるのは「ファクト(事実)」ではなくて、「ストーリー(物語)」だ、と。勝手につくった「ストーリー」を、ばらまいているだけなのです。
 遠藤 彼らのために、どれほど多くの人の人権が破壊されたかわかりません。まさに現代の「陶片追放」ではないでしょうか。放置しておけば、社会が転落していくのは当然だと思います。
 立派なことをやればやるほど嫉妬して、引きずりおろそうというのですから。
7  誤った「平等主義」
 斉藤 俗悪週刊誌は「嫉妬社会」の一つの象徴だと思いますが、そういう邪悪を許しているのは社会に渦巻く「嫉妬」の情念です。
 それを生む土壌の一つに、誤った「平等主義」があるのではないでしょうか。つまり、すべてが画一的で「横ならび」でないと気がすまないという、悪平等主義です。
 須田 そこから、「傑出した存在」を引きずりおろそうという嫉妬が生まれる、と。
 池田 たしかに「いじめ」の根底にも、そういう画一主義があるかもしれない。何か人と違うところがあると、すぐに、いじめる。「多数派」の中に入らないと、のけ者にしてしまう。
 傑出した者への「嫉妬」も、そして「いじめ」も、ともに画一主義の所産という面がある。その意味で、アテネが民主主義の発祥地だったことも興味深い。
 須田 民主主義で「平等」を追求すると「嫉妬」が強まるというのは、やはり、全てを「横ならび」にしようとするからでしょうか。
 池田 もちろん、それは本当の平等ではない。真の平等とは「桜梅桃李」です。
 それぞれの個性が十分に発揮できるのが平等であり、そのために平等なチャンスを与えるのが民主主義です。
 反対に、一つの狭い価値観で皆を評価しようとすると、その価値観からはみ出した人は、行き場がなくなる。
 斉藤 今は、「偏差値」中心の教育であり、有名校・有名会社志向の学歴社会です。これでは、人間は平等に扱われているようで、じつは、明確に勝者と敗者ができてしまう。
 敗者は、敗北感を癒すすべがありません。また勝者も、単に試験の成績がいいだけにすぎないのに、すべてが優れているような優越感をもってしまう。
 須田 そこに不毛な嫉妬やいじめが生まれる土壌がありそうですね。
 遠藤 昔は「勉強ができる」なんてことは、子ども社会では全然、価値がなくて、「あいつは石投げの名人だ」とか(笑い)、「虫のことなら、俺に聞け」とか(笑い)、ある程度、幅がありました。
 そういう世界では、「勉強できる奴を、いじめよう」とか、そういう嫉妬は少なかった気がします。
 池田 画一主義は「狭い心」です。その狭さから「嫉妬」が生まれ、「いじめ」が生まれる。残酷な修羅の「争い」が生まれる。
 相手を尊敬する「広い心」が必要なのです。その究極が、万人に仏界があることを教えた法華経です。また「広い心」の究極は「仏界」そのものです。
 また画一主義は、世界的にも大きな問題です。
 今、「経済」だけを価値観にして、先進国だ途上国だと決めつけているが、尺度を変えれば、世界の地図は、がらっと変わることでしょう。
 たとえば「家族の仲の良さ」とか「自然を大切にする文化」とか、別の尺度で見れば、どこが先進国か、変わってしまう。二十一世妃は、そういう多元主義で、互いに尊敬していかねばならない。
 遠藤 とくに日本は画一主義になりやすいので要注意ですね。画一主義の上に、伝統の集団主義が加わると、まさにファシズムになってしまう。多数派に従わないと許さないという人権無視の方向に行ってしまう。
8  「人権の防波堤」として
 須田 反対に言うと、日本の社会というのは、「皆と同じ」ことをやっている分には、とても居心地がいいんですね(笑い)。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」です。
 池田 だから「信念をもった個人」をつくる必要があるのです。国家主義の危険が高いからこそ、今、戦わなければならない。
 斉藤 創価学会が、そういう「人権の防波堤」になっているがゆえに、国家主義的勢力から攻撃されています。
 池田 敢然と「獅子王の心」で戦うのです。「獅子奮迅」の力を出すための法華経です。
 「師子奮迅之力」(涌出品、法華経四六三ページ)を出すのが地涌の仏であり、菩薩です。
 邪悪に対しては、それこそ阿修羅のように戦わなければならない。
 ″仏法は勝負″であり、勝つ以外にない。「広宣流布のために」戦い切れば、修羅の生命も仏の働きをする。十界互具です。その奮闘には三世十方の仏菩薩が「あっぱれ」と喝采を送るでしょう。
 反対に、「自分のため」は卑しい。自分のエゴで、人を見下し、傷つけるのは提婆達多の生命です。そういう卑劣な「勝他の念」は自分が不幸です。
 斉藤 たしかに不幸だと思います。釈尊に敵対した提婆達多は、ともかく「釈尊に勝つ」ことが執念でした。
 そのために、あらゆる悪に手を染めましたが、釈尊は泰然自若としている。その姿を見るたびに、自分の卑小さとの違いを見せつけられているようで、悔しさのあまり、ますます修羅の道に、のめり込んでいった。最後は地獄の境涯に転落してしまった。
 須田 提婆達多が、釈尊よりも厳格な修行(五法)を掲げて清廉そうな外見を示したのも「下品の善心」ですね。
 池田 修羅は、自分をだまし、人もだまし、うそにうそを重ねた人生を生きている。本当の充実もなければ、生命空間の拡大もない。小さな幻想の自我にしがみつき、虚勢を張りながら、哀れに生きているのです。
 遠藤 さきほどの『平気でうそをつく人たち』にもこうありました。「自分自身を照らし出す光や自身の良心の声から永久に逃れつづけようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである」。
 池田 「慢」の心は、いつも揺れ動いている。安定し、安らぐことがない。相手を動揺させようとしていながら、実際に揺れ動いているのは、嫉妬の人間のほうなのです。
 大聖人は、法華経の敵の″眼の転倒″を、こう指摘された。「自分の誤りをかえりみない者が(大聖人を)嫉妬するあまり、自分の目が回っているのに、大山のほうが回っていると見ている」(御書一四五三ページ、趣意)
 大山は不動です。それなのに、大山が回っているように騒ぐ人間は、自分の目が回っていることを告白しているに過ぎない。
 斉藤 それを見扱く「鏡」が十界論ですね。多くの人々は、目が回っている嫉妬の人間に同調して、大山の偉大さを正しく評価することができません。
 池田 まさに「猶多怨嫉」です。(法華経法師品〈第十章〉に、釈尊在世すら「猶怨嫉多し。況や滅度の後をや」〈法華経三六二ページ〉と。末法の法華経の行者には、釈尊在世以上の、多くの憎しみと嫉妬が襲うこと)
 修羅界の考察が大分、多くなってしまったが、これも「猶怨嫉多し」だから、しかたがないだろう(笑い)。
9  人界──自分に打ち勝っ「軌道」を
 斉藤 そこで「人界」ですが、さきほど修羅が「勝他の念」であるのに対して、人界は「自分に勝つ」境涯であると言われ、パッと聞ける思いがしました。
 池田 正確には「自分に勝つ」境涯の第一歩が「人界」です。その最高の段階が菩薩界であり仏界です。大聖人は仏典を引いて「三帰五戒は人に生る」とされている。
 三帰(仏への帰依・法への帰依・僧伽〈修行者の組織〉への帰依)も、五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒成)も、正しい人生の「軌道」を歩んでいこうとする努力です。
 「軌道」を歩むことによって、自分の生命が安定してくる。「慢」の心のように、揺るがなくなるのです。
 三帰は、広げて言えば信仰心です。修羅は、自分より優れたものは認めなかった。頭を垂れなかった。しかし、そうすることによって、結局、慢心の奴隷となり、悪のとりこになってしまった。
 「人界」は、反対に、自分を超えた大いなる存在を畏敬し、全生命をあげて尊敬することによって、かえって自分自身を豊かにするのです。
 五戒というのは、生命を外側から縛るものではなく、内面化された規範であり、誓いであり、人生の軌道といってよい。
 五戒を破れば苦しみの果報があると知って、知性で自分で自分をコントロールできるのが「人界」です。
 須田 梵語では「人間」は、マヌシャといい、「思考する者」「考える者」という意味です。やはり知性が大切な要件です。
 大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と仰せです。三悪道・四悪趣よりも、ちゃんと物事の善悪を見る力がある境涯ですね。
 斉藤 天台は、人界の特徴として″結果が出る前に広く因を修めていること″をあげています。「因果の道理」を、それなりに弁えているのが人界です。
 遠藤 「大白蓮華」の一九九七年五月号に「仏教の人権思想」と題して、サリー・キング教授(ジェームズ・マディソン大学)へのインタビュー記事が載っていましたが、五戒についても言及されていました。
 仏教で説く戒律──たとえば、不殺生戒は、他人に対する善にもなり、同時に自分にとっての善にもなっている、と。なぜならば、他人を害すれば、因果の法に従って自分自身をも害することになるからです。
 そうした視点から、教授は「自身への戒めの心に根差した生き方は、結局、すべての人のためになるのです」「こうした生き方の中に仏教的な人権意識がはぐくまれている」という結論を導き出しています。
 池田 仏教の現代的な意義が浮き彫りにされているね。自分を生かし、人をも生かす「道」。人間としてどう生きるのが正しいのか──その「軌道」を仏法は明かしているのです。「軌道」を歩むゆえに、一歩一歩、向上するし、安定するのです。
 人界の境涯について、大聖人は、観心本尊抄で「平かなるは人なり」と仰せだ。
 須田 平静な生命状態ですね。一日の生活でいえば、仕事や家事を終えた後の穏やかなひととき、といったイメージでしょうか。
 遠藤 「平かなるは……」のところで、いつも思い浮かぶ小説があります。吉川英治氏の『新・平家物語』(『吉川英治全集』39所収、講談社)のラストシーンです。
 源平の戦乱の半世紀を見続けてきた庶民──阿部麻鳥あべぼあさとりと妻・よもぎの二人が、吉野山の桜を見ながら過去を振り返り、しみじみと幸福をかみしめて語り合う場面です。
 「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ」
 「それなのになんで、人はみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう」……。
 「人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変りがあろう」
 戦乱の中を不思議にも生き延びてきた、平凡な老夫婦の姿──。これはまさに「人界」ではないかと思います。
 池田 有名なシーンだね。平凡かも知れないが、そこには人間としての立派な輝きがある。
 「修羅」の生命は「位階」や「権力」を求めて争い、血を流し、傷つけ合っている。
 しかし、二人は、自分自身に生きた。人と比べるのではなくて、自分らしく、自分の道をまっとうした。
 その「軌道」が修羅の世相のなかでも、人界の安心をもたらしたと言える。安心といい、「平か」と言っても、決して努力なくして得られるのではない。努力しなければ、環境に染まってしまうものです。
10  何のために「人界」に生まれたのか
 須田 たしかに、人界といっても、環境の変化やさまざまな縁にふれて、たちまち三悪道や修羅の生命に引きずりこまれてしまいます。
 私たちの日常の経験から言っても、「平かなる」自分を維持していくことは大変です。ちょっとしたことで、すぐにふさぎ込んだり、カッとなったりします。
 池田 人間が人間らしく生きることの難しさです。いわんや悪世であり、悪縁ばかりの世界です。
 だからこそ、「人間らしく生きる」には、絶え間なく向上する「軌道」が必要です。それが私どもの仏道修行です。コマも静止してしまえば倒れてしまう。安定していられるのは猛スピードで回転しているからです。
 斉藤 「人間に生まれた」ということは「人間になる可能性をもっている」ということにすぎないのかもしれません。
 池田 だから教育が大事なのです。「人間らしい人間」になるための人間教育が必要なのです。
 遠藤 そう言えば、こんな話を聞きました。子どもがテストで百点を取って帰ってきた。母親は、開口一番「百点はクラスに何人いたの?」と聞いたと言うのです。「たくさんいた」と言ったら、「じやあ、百点でも当たり前ね」と。
 須田 子どもは、やりきれませんね(笑い)。
 遠藤 子ども自身が何を学び、どれだけ進歩したのか──その喜びや努力を見ないで、″他人と比べてどうか″ということばかり気にする。これでは、修羅界の人間を育てているようなものではないでしょうか。
 池田 「平凡でも、人間らしく生きる」ことがむずかしい世の中に、だんだん、なってきている。
 十界論では「人界」は十界の中心に置かれている。ここからさらに上の境涯に行くこともできるし、下の境涯に転落することもある。そういう要の位置にあると言ってよい。だからこそ大聖人は、せっかく人界に生をうけたのだから、より高い境涯を目指して歩みなさいと、繰り返し繰り返し、仰せなのです。
 須田 はい。たとえば、「夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く人間の生を受くるは爪上の土より少し」と仰せです。
 遠藤 また「今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を見聞しつ今生をもだ黙止しては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき」ともあります。
 せっかく人間に生まれ、あいがたき正法を目にし耳にしながら、今世でそのまま何もしないでいたら、一体いつの世に、生死を離れるのか──いつ永遠の幸福を得られるのかという意味です。
 池田 だから元気なうちに真剣に働くのです。広宣流布のために勇んで働いた分だけ、自分の生命の中に「永遠の幸福」への軌道が固まっていく。
 仏法では人界を「聖道正器」と言って、仏道を行じられる法器──″法の器″としている。その器に仏界の大生命を満たしてこそ、人界に生まれてきた真の意義がある。
11  人類の境涯を引き上げる戦い
 斉藤 その意味で、人界は人界以上の境涯を目指して進んでこそ、人界としての意味があると言えるのではないでしょうか。
 池田 そう言えるでしょう。それが「天界」であるし、「二乗界」「菩薩界」「仏界」です。
 ともあれ「境涯」は不思議です。自分で気がつこうと気がつくまいと、自分の感情はもちろん、振る舞いも、思考も、人間関係も、人生行路も、自分の「境涯」によって大きく決定づけられている。
 個人だけではない。社会にも十界の傾向性がある。私どもの広宣流布ほ、個人の境涯を変えるのみならず、一国の境涯を変え、人類の境涯を引き上げる運動です。人類史上、いまだかつてない壮大な実験なのです。
 私は今、田中正造翁の晩年の言葉を思い出します。
 (翁は、足尾鉱毒事件の解決に努力した政治家、社会運動家〈一八四一年〜一九一三年〉。近代日本の民衆蹂躙に、生涯、抵抗した)
 「国は尚人の如し。人こえたるを以って必ずしもたつとからず。知徳あるを尊しとす。国は尚人の如し。腕力ありとて尊からず、痩せても知識あるを尊しとす」(明治四十一年十月の「日記」から、『田中正道全集』11〈田中正道全集編纂会編〉所収、岩波書店)
 日本の国は、内外の民衆を犠牲にして、「富国強兵」の「修羅」の道をひた走り、傲慢になって、魂を失った。
 「人間としての軌道」を失ってしまった。
 翁は「日本形ありとするも精神已になし。日本已になし」(大正二年四月二日の「日記」から、同全集13所収)とも言いきっている。亡くなる四ヵ月前です。日本が形の上でも滅びたのは、その三十二年後です。
 同じ悲劇を繰り返させたくないからこそ、私たちは叫んでいるのです。「慢心を捨てよ! 謙虚に人間主義の道を求めよ!」と。

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