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従地涌出品(第十五章) 我、地涌の菩薩…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  ″地涌″とは民衆の「内発の力」を開拓
 須田 今年(一九九七年)は、池田先生の入信五十年です。この五十年の軌跡は、まさに「一人の人間革命」が社会を変え、日本を変え、世界を変えるうねりとなった証明の年月だと思います。
 遠藤 まさに、法華経の「本門」の真髄を見る思いです。現実の大地の上に展開された「生命変革のドラマ」です。
 斉藤 弟子として、私たちは感謝してもしきれません。弟子として、私たちも必ず続いてまいります。
 池田 烈風の五十年だった。激闘の五十年だった。戸田先生と二人で走り抜いた五十年だった。全部、原点は戸田先生です。戸田先生と一体で勝ったのです。
 戸田先生は言われた。「大革命をやるのだ。武力や権力でやる革命ではない。人間革命という無血革命をやるのだ。これが本当の革命なのだ」と。
 「貧乏人と病人の集まり」と言われた人たちとともに、民衆の民衆による民衆のための革命をやってきたのです。権力にもよらず、財力にもよらず、一人一人を「裕福になれ」「健康になれ」と抱きかかえながら──。
 今、世界で一千数百万の同志が、人間革命の黄金の軌道を歩んでいる。
 遠藤 「貧乏人と病人の集まり」と言われたことは、一番苦しんでいる人たちのところに創価学会が光を届けた証拠です。
 アジア太平洋人権情報センターの金東勲所長も、「貧乏人と病人の集まり」とは、人を救う宗教団体にとって「最高の称号」と言われています。
 斉藤 学会の運動が正しい証拠だとも言われていますね。
 須田 何か、イメージとして、地涌の菩薩が下方から、ぐーっと湧き出てくるのと、ぴったりする感じです。
 もちろん、この下方とは社会的に下方ということではなく、生命の根源であり、妙法ということですが……。
 斉藤 いや、その二つは別々のものではないでしょう。何も頼るものがない庶民だったからこそ、裸一貫というか、我が生命の力をふりしぼる以外に道はなかった。だからこそ、「命を変える」法華経の信仰の偉大さも早くわかった。そういうことではないでしょうか。
 池田 権威の鎧もない。学歴の盾もない。財力や地位の剣もない。ただ、我が生命の本然の力を出して戦う以外になかった。
 そして人間性と人間性で連帯する以外になかったのです。
2  学会は「菩薩の集団」
 遠藤 中国・深川(シェンチェン)大学の蘇東天そとうてん教授の講演を思い出します。
 香港SGI主催の文化講演会です。(「二十一世紀と仏教──池田SGI会長の仏法思想と二十一世紀文明」=一九九六年九月、香港文化会館で)
 教授は、欲望に翻弄される人類を憂えて、池田先生のような″良心的な知性″こそ、未来への光明であると訴えておられる。
 「とりわけ、特筆すべき偉大な功績は、その人格の周りに、多くの″菩薩の集団″をつくり上げたことではないでしょうか。日本の創価学会、香港SGIの皆さま方です」
 「(SGIは)これまでのさまざまな組織とは異なり、利害やイデオロギーによるつながりではなく、また法や契約などに基づくものでもない──強制的・外在的といった要素を一切排した、いわば、人と人の″心の絆″、″友情″だけがその礎となっている」と。
 池田 よく見てくださっている。全部、民衆自身の「自発の力」です。民衆の「内発の力」を開拓したのです。それが、すごいことなのです。学会の底力がそこにある。
 上からの権威などで、これほど多くの民衆が、これほど長く、生き生きと動くわけがない。これこそ、まさに法華経の「地涌」の義そのものの姿なのです。
 須田 そう言えば、地涌の菩薩は、「神」のように天上から降りてきたのではありません。大地の下から踊り出るように出現してきた。そこに、限りない民衆性が感じられてなりません。
3  「踊出」──踊り出る菩薩群
 遠藤 踊り出ると言えば、大聖人は「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」と仰せですね。
 法華経の写本では、同じ羅什訳でも、「涌出品」ではなく「踊出品」となっているものもあります。ほとんどの漢訳経典を収める『大正新脩しんしゅう大蔵経』にある法華経でもそうです。敦煌とんこうから出土した法華経にも「踊出」とあります。
 池田 なるほど。地涌出現のイメージとしては「踊出」は、ぴったりだね。妙法弘通の使命に奮い立って出現するわけだから。
 釈尊に言われて、しぶしぶ登場するのではない(笑い)。「さあ、自分たちの出番だ」と、待ってましたとばかり踊り出るのが地涌の菩薩です。
 斉藤 日蓮大聖人の御書の御真筆でも、何ヵ所か「地踊」「踊出」となっています。
 池田 「踊り出ていく」自発の信心でこそ、「永遠の幸福」がつかめる。
 戸田先生は信心の「大利益」を論じて、こう言われている。
 「成仏の境涯をいえば、いつも、いつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生れてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにない」(『戸田城聖全集第』3)
 信心の目的は、永遠の幸福です。今世は夢のようなものだ。その夢から醒めて、この一生で「永遠の幸福」を固めるための信心です。それを一生成仏という。だから今世を頑張りなさいと言うのです。そのためには、何が必要か。日蓮大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せです。大聖人と心を同じくして広宣流布へ戦う人こそ、真の地涌の菩薩なのです。
 広宣流布は「公転」です。人間革命は「自転」です。両者は一体です。
 学会は「仏の軍勢」です。ゆえに魔が襲うのは当然だ。「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」です。魔は、狩り出し、叩き出し、打ち破るものです。折伏精神です。
 「日蓮と同意」ならば、何も恐れるはずがない。牧口先生、戸田先生は戦時中、軍部の弾圧にも一歩も引かなかった。大聖人のご精神である師子王の心を、まっすぐに受け継いでおられた。
 遠藤 そこに宗門との決定的な分岐点がありました。宗門は「日蓮と同意」どころか、弾圧を恐れて、大聖人の精神を土足で踏みにじってしまった。
4  難即悟達、忍難即仏界
 池田 大事なことは、私どもの原点である戸田先生の悟達が、この「獄中」でなされたという一点です。
 法華経ゆえの投獄です。「四恩妙」に仰せのごとく、これは四六時中、片時も休まず法華経を身読していることに通じる。そのなかで、戸田先生は「我、地涌の菩薩なり!」と、豁然かつぜんと悟られた。大難のまっただなかでこそ、人間革命されたのです。難即悟達です。これこそ、まさに「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」の御金言を身をもって証明された姿といえよう。厳しく言えば、難なくして、本当の「日蓮と同意」とはいえないのです。
 この「獄中の悟達」こそ、私どもの、永遠の原点です。法華経を現代によみがえらせた一瞬であり、「人間革命」という太陽が現代に昇った一瞬だった。その時、闇は深く、だれも気がつかなかったが、夜明けは戸田先生の胸中で始まっていたのです。
 斉藤 その「獄中の悟達」については、戸田先生がいろんな形で言い残されています。それは昭和十九年の初冬のことでした。この時、戸田先生は、法華経の真理をつかもうと、真剣な唱題を重ねながら思索を続けられていました。
 遠藤 「わかりたい、わかりたい」と独り言を言われて独房の中を歩きながら、寝ても醒めても法華経の原文と格闘された。このように戸田先生自身が書かれた小説『人間革命』に述べられています。そして、年頭からの題目が百八十万遍に達しようとしていたある日の朝、しんしんと清々しい唱題をされている時に、戸田先生は不思議な体験をされました。
 「夢でもない、うつつでもない……時間にして、数秒であったか、数分であったか、それとも数時間であったか……計りようがなかったが、彼は、数限りない大衆と一緒に虚空にあって、金色燦爛こんじきさんらんたる大御本尊に向かって合掌している自分を発見した」
 「これは、嘘ではない! 自分は、今、ここにいるんだ! 彼は叫ぼうとした時、独房の椅子の上に座っており、朝日は清らかに輝いていた」
 ご自身が涌出品に示された虚空会の世界にいることを覚知されたと言うのです。
 池田 世界広布の原点となったのが、この時の戸田先生の悟達です。
 「我、地涌の菩薩なり!」──。
 この戸田先生の大確信から、広宣流布の壮大な流れが、ほとばしり始めた。
 須田 戸田先生は書いておられます。「今、眼の前に見る法華経は、昨日まで汗を絞っても解けなかった難解の法華経なのに、手の内の玉を見るように易々と読め、的確に意味が汲み取れる。それは遠い昔に教わった法華経が憶い出されてきたような、不思議さを覚えながらも感謝の思いで胸がいっぱいになった」「よし! 僕の一生は決まった! この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!」と決意された。
 池田 不思議と言えばこれほど不思議なことはない。しかし、戸田先生にとっては、まぎれもない体験であった。
 先生は、「霊山一会儼然未散(霊山一会、儼然として未だ散らず)」のお言葉を身で読まれたのです。
 斉藤 日淳上人は、戸田先生を「地涌の菩薩の先達」とたたえておられます。戸田先生が先達となって、地涌の菩薩である七十五万世帯の学会員を、この世に呼び出されたのであると。七十五万とは南無妙法蓮華経の「七字五字」とも言われています。
 涌出品は、まさに学会の生命線ともいうべき一品ですね。
5  「宝塔の中へ入るべきなり」
 須田 この戸田先生の自覚は、それ以前の「仏とは生命なり」という悟達と、どのような関係にあるのでしょうか。
 斉藤 「仏とは生命なり」とは、昭和十九年の三月初め、戸田先生が無量義経の経文を思索している時に得られた悟達ですね。有に非ず、無に非ず……という「三十四の否定」を超えて実在する仏とは何なのか──と。地涌の菩薩の悟達は十一月のことですから、その間には八ヵ月ほどの経過があります。その間、戸田先生は引き続き、唱題と思索を続けられました。
 遠藤 「仏とは生命なり」との悟達は、どちらかと言えば、知的な側面が強いのではないでしょうか。それが、全人格的な体験へと深まったものが「地涌の菩薩の自覚」ではないかと思われます。その意味で、二つの悟りは一連のものと言えるのではないでしょうか。
 池田 戸田先生の悟りの全容は、とうてい語り尽くせないが、先生は法華経ゆえに投獄された。迫害に耐えて信念を貫いた。そのこと自体が法華経を身をもって読むことであり、全人格的な体験です。忍難即仏界です。難と戦う信心によって、生命に大変革が起きたのです。「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」との仰せの通りです。
 悟りとは単なる認識ではない。ここが大事です。永遠の生命は認識するものでなく、それを生きるものです。修行が必要なのです。なぜならば、認識しようとしても、そうしようとしている自己自身をも支えているのが「生命」だからです。「波」に「海」をつかむことはできない。「小」で「大」をつかむことはできない。では、どうするのか。
 大いなる永遠の生命を、小さな我が身の上に顕現する──涌現する──以外にないのです。そためには、全存在をかけた自己浄化が必要です。それが仏道修行です。
 娑婆世界の衆生の心は、煩悩や業によって顛倒てんどうしている。すなわちわれわれの生命は、本来は「妙法根本」です。それが、「エゴ根本」になってしまうのが顛倒です。仏界という「永遠の生命」が自己の上にしみ通ってくるのを、その顛倒が邪魔しているのです。
 遠藤 寿量品には、顛倒の衆生は仏が近くにいても見えない、とあります。また、顛倒の衆生は苦しみの海に沈んでいる、とも説かれています。(「顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ」(法華経四九〇ページ)、「我諸の衆生を見るに苦海に没在せり」(法華経四九一ページ)
 池田 そう。くわしくは寿量品で学びたいが、その場合の仏とは、久遠の本仏としての釈尊だね。仏のことを如来と言う。如来とは、″如々として来る″、つまり妙法が瞬間瞬間、ここにいる自分にありのままに現れて来る生命状態です。
 この妙法の永遠の律動が、すなわち永遠の生命です。また、仏の本体であり、本仏です。諸仏のすべての功徳の源泉でもある。まさに戸田先生が悟られたごとく、「仏とは生命」なのです。
 この本仏は、じつは私たちの生命の根源でもある。その意味で本仏は近くにいるのです。しかし、「顛倒の衆生」には、この本仏が見えないのです。
 難と戦うということは、自身の顛倒した心を鍛えて、永遠の生命と一体化していくことになる。自己コントロールというか、楽器を調律するように、我が生命を、永遠の妙法の律動に合致させていく。全人格が永遠の宇宙生命と融合していくのです。それが地涌の菩薩です。
 大聖人は仰せです。「魚の水に練れ鳥の天に自在なるが如し
 地涌の菩薩は、はるか昔から、ひたすら妙法を修行してきた。妙法根本、信心根本の生き方を鍛えてきた。大聖人は、地涌の菩薩を「されば能く能く心をきたはせ給うにや」と仰せです。
 だからこそ娑婆世界で大難にも耐えて弘教していける。仏界に住しているからです。
6  須田 それが迹化の菩薩との違いと言っていいのでしょうか。
 池田 そう言えるでしょう。迹化の菩薩や他方の菩薩は、あくまで「成仏を目指す菩薩」です。それでは娑婆世界の弘教には耐えられない。
 久遠の妙法に習熟し、練達した本化地涌の菩薩でこそ、その任に耐えられるのです。
 前にも語ったが、牧口先生は「『塵も積もれば山となる』というが、実際に塵が積もってできた山はない。できるのは、せいぜい塚ぐらいのものである。現実の山は地殻の大変動によってこそできる。同じように、小善をいくら重ねても大善にはならない」と言われた。(『牧口常三郎全集』10、趣意)
 小善を重ねて成仏しようというのが「迹化の菩薩」の生き方とすれば、「本化の菩薩」は法性の淵底、生命の奥底から、あたかも火山の爆発のごとき勢いで、仏界の大生命力を噴出させるのです。
 地涌の菩薩は、つねに妙法を修行し、瞬間瞬間、永遠の生命を呼吸している菩薩です。修行する姿は菩薩でも、内面の境涯は仏です。
 地涌の菩薩として虚空会の儀式に参列していたという戸田先生の体験は、先生が永遠の生命の世界、本仏の真如の世界に確かに入ったということではないだろうか。
 遠藤 「仏とは生命なり」という覚知と、地涌の菩薩の自覚とは深く結びついているということですね。
 池田 その通りです。戸田先生は詠まれた。
 「御仏の 命を悟らば 久遠より 地涌の菩薩と 我を誇らん」
 会長に就任された昭和二十六年のお歌です。
 斉藤 虚空会は永遠の生命が顕現した宇宙大の世界です。また、地涌の菩薩は、永遠の生命を体現した菩薩です。そして、御本尊は、虚空会という永遠の世界を用いて、永遠の妙法と一体であられる大聖人のご境涯そのものをご図顕されている。その意味で、戸田先生の体験は御本尊の世界に入られたことを意味するのではないでしょうか。
 先生は、昭和二十年に出獄されてご自宅に戻られた時、直ちに御本尊を間近に拝して、ご自身の悟達が間違いないことを確認されています。
 遠藤 池田先生の小説『人間革命』(第一巻)には、その時の模様が、次のように述べられています。
 「彼は、御本尊に頬をすりよせるようにして、一字一字たどっていった──たしかに、このとおりだ。まちがいない。まったく、あの時のとおりだ。彼は、心につぶやきながら、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った。彼の心は歓喜にあふれ、涙が滂沱ぼうだとして頬をつたわっていった。(中略)心に、彼ははっきりと叫んだのである。──御本尊様、大聖人様、戸田が必ず広宣流布をいたします」
 池田 有名なご金言に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」とある。戸田先生は、この御文を、ありありと実感されたのです。そして大聖人が、信心によって「此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」と仰せの通り、宝塔の中に入られた。虚空会の中に入られた。
 御本尊即宝塔、宝塔即自身、その真実を、先生は生命全体で知ったのです。
7  法華経は一切衆生の己心のドラマ
 斉藤 それは、戸田先生の「己心」の中の悟りですね。その時の獄中の戸田先生を、もしか別の人が見ていたとしても、その人には虚空会は見えなかったでしょう。
 池田 己心です。法華経自体が釈尊の己心の説法であると戸田先生は言われていた。序品(第一章)や神力品(第二十一章)の瑞相も、声聞や菩薩たちとの対話も、宝塔の出現も、地涌の菩薩の涌出も、全部、釈尊己心のドラマと見ることができる。
 須田 インドの霊鷲山に行った時、地涌の菩薩が出てきた大地の割れ目を探していた人がいました(笑い)。しかし、あくまで己心のドラマであって、事実ではありませんね。
 池田 歴史的な事実ではないが、「生命の真実」を表しているのです。
 斉藤 この語らいでも、歴史的な事実ではない法華経のドラマを、便宜上、事実であるかのように語ってきたことがあります。それは、必ず「生命の真実」を表していると考えられるからです。
 遠藤 釈尊己心の説法ということでわかりにくいのは、釈尊自身です。法華経に登場する釈尊も「釈尊己心の釈尊」ということになるのでしょうか。
 池田 釈尊己心の自己自身です。ある意味で、迹門から本門に至る過程は、釈尊が「真実の自己」を顕していくためにあると言えるのではないだろうか。
 他の登場人物や出来事も、すべて釈尊自身の「真実の自己」を顕すための役割を担っている。
 斉藤 寿量品(第十六章)の久遠の本仏が、釈尊の「真実の自己」にあたるわけですね。
 池田 そう。久遠の本仏は、永遠の妙法と一体の「永遠の自己自身」を表しているのです。
 須田 地涌の菩薩も「釈尊己心の菩薩」ということになりますね。
 池田 釈尊の「永遠の自己自身」に具わる「永遠の菩薩」です。「御義口伝」にも「釈尊・所具の菩薩なるが故本地本化の弟子を召すなり」と仰せです。
 釈尊だけではない。大聖人は「一人を手本として一切衆生平等」と仰せです。釈尊の「永遠の自己」は一切衆生の「永遠の自己」なのです。一切衆生が総じては本仏なのです。地涌の菩薩も一切衆生に具わる「永遠の菩薩」です。そのことを大聖人は「観心本尊抄]で、「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」、「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」、「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」等と仰せられている。
 遠藤 法華経のドラマは、一切の人々の生命のドラマなのですね。
 そうしますと、大聖人の法華経──御本尊も同様でしょうか。
 池田 大聖人は、虚空会という法華経の舞台を用いて、ご自身の「永遠の自己自身」を御本尊として顕されたのです。
 大聖人の「永遠の自己自身」とは、言うまでもなく「南無妙法蓮華経」です。御本尊の中央に「南無妙法蓮華経日蓮」とおしたための通りです。
 斉藤 御書にも「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と仰せです。
 池田 戸田先生の獄中の悟達も、″折伏戦の棟梁″としての「永遠の自己自身」をつかまれたと考えられる。これが虚空会の体験です。それは、まぎれもない「生命の真実」です。「事実以上の根源的事実」なのです。ですから戸田先生は、虚空会を事実として語られている。学会員も、そこに連なっていたのだと語られたこともあった。
 遠藤 「ボヤボヤして後ろのほうで居眠りなんかしていた人が、いまになって教学がわからないのです」(『戸田城聖全集』5)ともおっしゃっています(笑い)。
 斉藤 戸田先生はまた「われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」(同全集5)と言われています。これも獄中でつかんだことの表現なのですね。
 須田 大聖人の顕された御本尊の相貌が、戸田先生が獄中でつかんだものと寸分違わず異ならなかった。この事実も、戸田先生がまさに御本尊の体内に入られたということの証左と思います。
 池田 戸田先生は、権力の魔性とまっこうから戦われた。その信心によって得られた大境涯です。以信得入です。それで法華経がすらすら読めるようになった。法華経が説き示そうとしているのが、永遠の妙法、すなわち南無妙法蓮華経であることが体得できたからです。ですから、「御本尊への信心がなくて法華経が読めるものか。読めるわけがない」とよくおっしゃっていた。
8  足下を掘れ、そこに大生命あり
 須田 獄中での唱題と思索の闘いは、法華経との対決であると同時に、ご自身を見つめ、ご自身を掘り下げられていった実践であったと思います。
 池田 「仏とは何か」を追求し抜いて、仏とはほかならぬ自分のことであり、宇宙の大生命であり、それらは一体であるとわかった。
 ″足下を掘れ、そこに泉あり″という言葉は有名だが、自身の根源を掘り下げていく時、そこに万人に共通する生命の基盤が現れてきた。それが永遠の宇宙生命です。戸田先生は、まさに自身の根源を悟られるとともに、″あらゆる人が、じつは根本においては地涌の菩薩である″という人類共通の基盤を悟られたのです。その″生命の故郷″を知ったのが、学会員です。
 先生は、その胸中の深いご確信を何とか学会員と分かち合おうと心を砕いておられた。時には「地涌の菩薩の皆さん、やろうではないか」と呼びかけられたこともある。
 自身の本源の生命に生き抜いた人は、どれほど尊いか。どれほど強いか──そのことを私どもに命懸けで教えてくださったのが戸田先生です。また、ご自身の一生を通して実証してくださった。″一人の力″は偉大です。まことの地涌の菩薩であれば、力が出ないわけがない。その確信がすべての出発点です。
 自己の根源には、清浄なる宇宙大の生命が広がっている。この自覚と証明が「人間革命」なのです。
9  「宇宙即慈悲」の体現者
 斉藤 この地涌の菩薩について、「御義口伝」には「千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし」と仰せです。地涌の菩薩というと、どうしても″人″を思い描くのですが……。
 遠藤 生命を利益する″働き″のことでしょうか。「御義口伝」には続いて、「されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり」とあります。
 池田 一つの指針は、戸田先生の「慈悲論」にあると思う。そこでの結論は、「この宇宙そのものが慈悲の当体である」と。
 万物を生成し、変化させ、生死生死を繰り返させながら、一切を生かそうとしている宇宙。この宇宙という大生命そのものが、仏の当体です。無作三身の仏の当体なのです。宇宙の慈悲とは「本有の仏界」の力用である。また「本有の菩薩界」の力用であり、これが地涌の菩薩の働きなのです。
 ゆえに総じては、宇宙の生きとし生ける一切のものが神聖なる地涌の菩薩なのです。別しては、この生命の法に目覚めた者を地涌の菩薩と呼ぶのです。
 菩薩道は人間性の極致の行動です。それは根底において、宇宙の慈悲の力用と一体なのです。私どもが友の幸福を祈り、語り、動いていくとき、その身口意の行動のなかに、永遠の生命が現れ出ているのです。
 遠藤 まさに仏法の「宇宙的ヒューマニズム」を仰ぐ思いがします。しかもそこには、山川草木も含めて、一切の存在のもつ尊厳性への敬意の目があります。
 斉藤 法華経で出現した地涌の菩薩たちは「無量百干万億の国土の虚空に偏満せる」(法華経四五五ページ)とあります。まさに宇宙的なスケールで、空間を覆い尽くわけですね。
 須田 ″宇宙即慈悲″の体現者として描かれた無数の人間群像──何と荘厳で、壮大なドラマでしょうか。涌出品に眼を開けば、社会のさまざまな差別意識や、エゴイズムに翻弄される姿が、本当にちっぽけなものに思えてきます。
10  斉藤 かつて先生が、ロサンゼルスの友に贈られた長編詩「新生の天地に地涌の太陽」を思い起こします。そこでは、地涌の菩薩を、あらゆる差異を突き抜けた、人類根源の″ル−ツ″として歌われていました。
   みずからのルーツをもとめて
   社会は千々に分裂し
   隣人と隣人が
   袂を分かちゆかんとするならば
   さらに深く我が生命の奥深く
   自身のルーツを徹して索めよ
   人間の″根源のルーツ″を索めよ
   そのとき君は見いだすにちがいない
   我らが己心の奥底に
   厳として広がりゆくは
   「地涌」の大地──と!
  
   その大地こそ
   人間の根源的実在の故郷
   国境もなく人種・性別もない
   ただ「人間」としてのみの
   真実の証の世界だ
   ″根源のルーツ″をたどれば
   すべては同胞!
   それに気づくを「地涌」という!(本全集第43巻収録)
11  須田 だれもが神聖である。だれもが、かけがえのないユニークな(唯一の)存在であり、しかも、だれもが共通の「生命の大地」の子どもである。
 このことを教えたのが涌出品なのですね。
 遠藤 ロスアンゼルスでは、その前年の一九九二年、黒人による″暴動″の悲劇が起きたばかりでした。白人の警官が、無抵抗の交通違反者の黒人に暴行を加えた事件で、警官に無罪の評決が下ったことに端を発した惨劇でした。
 池田 差別は絶対に悪です。「顛倒の心」は、自他ともの生命を傷つけてしまう。
 人種や民族に、自分たちの″ルーツ″を求めても、それは虚構です。砂漠に浮かぶ蜃気楼のようなものだ。人類共通の″生命の故郷″にはなれない。
 むしろ、他者との差異ばかりを際立たせ、対立・抗争の元凶となってしまう。
 今、求められているのは「人間観の変革」です。
 これが変われば一切が変わる。
 人間よ、国家や民族のくびきにとらわれるな。また、自分を無力な存在と思うな。物質の集まりにすぎないと思うな。遺伝子の奴隷とも思うな。本来はもっと無限の、大いなる可能性をもつ存在なのだ──と。
 本来、人間は、宇宙と一体の大いなる存在なのだ! 個人の力は、かくも偉大なのだ! これが法華経のメッセージです。
 遠藤 だからこそ「希望の経典」なのですね。
12  「心」は「脳の働きにすぎない」か
 須田 現代を代表する人間観のひとつは、「人間は生物組織によってできている一種の機械」であり、「心」といっても「脳の働き」にほかならない。脳の研究が進めば精神現象のすべては解明されるというものです。
 斉藤 くわしく論じる時間はありませんが、「実際には、脳の研究が進めば進むほど、脳の神経活動と精神現象のいずれもがその驚異をいっそう増しながら、両者はまったく別の存在であることが一層明らかになってきている」という指摘もあります。(前掲『心は脳を超える』)
 池田 「脳」は「心の道具」であり、精神現象が働く「場」であるという考え方もある。
 脳の働きなくして、心は自己を表現しようがないが、両者はあくまで別の存在です。現代的に言えば、脳はすばらしいコンピューターであるが、あくまで道具である。それを使っている主体は「心」である──とも言えるでしょう。
 人間の「心」は、多くの現代人が考えているような、身体や脳の中に″閉じ込められた(局在的な)″存在ではない。そのことは、科学的研究によって解明されつつある。心はもっと広大で、物質的な束縛を超えた広がりを持っているのです。
 たとえば、アメリカの臨床医師ラリー・ドッシー博士は、こう述べている。
 「心は空間や時間に制約されず、人間同士の意識を結びつけるものであり、肉体とともに滅びるものではない」(『魂の再発見』上野圭一・井上哲彰訳、春秋社)
 時空を超えた「心」とは「非局在的な心」──すなわち小我を超えた広がりをもつ心のことです。
 「もし非局在的な心が実在だとするならば、世界は孤独と分離ではなく、相互作用とつながりの場になる。そしてもし人類が非局在的な心を実感することができれば、新しい価値基準が生まれる。人間や国家を長年支配し続けた狂気から、あっけなく抜け出すことが可能かもしれない」(同前)
 遠藤 心の無限の広がり──。「一念三千」の法理が示しているのも、まさにその一点ですね。
 斉藤 「一生成仏抄」の「此の一念の心・法界に徧満へんまんするを指して万法とは云うなり」との有名な一節がありますが、仏法の生命観に科学が接近している感があります。
13  真の法華宗とは「人間宗」
 池田 さらに、博士はこう論じている。「何百年にもわたって受け入れられてきた人間に対する概念そのものを変えなければ、この地球に未来があるかどうかは疑わしい。もし明日があるとすれば、地球と地上にある一切のものに対する聖なる敬意が再び生まれなければならないからだ」(前掲『魂の再発見』)
 この「人間に対する概念そのもの」を大転換していくのが仏法です。それは知的転換にとどまらず、慈悲の実践という、振る舞いの変革になって現れる。人間自身の「境涯の変革」ということです。地涌の菩薩の登場は、その壮麗なる号砲といってよい。
 端的に言えば、真実の「法華宗」とは、「人間宗」なのです。このことは戸田先生も言われていた。
 斉藤 人間こそ偉大──ということで、興味深い言葉があります。アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンが言った次の言葉です。
 「いま世上に行われている『キリスト教への信仰』は、『人間への不信仰』にほかならぬ。(中略)キリストは人間の偉大さを説いたが、私たちはただキリストの偉大さだけを聞かされている」(「たましいの記録」『エマソン選集7』小泉一郎訳、日本教文社)と。
 池田 エマソンらしい洞察だね。そうなのです。″神聖なるもの″、は国家でもイデオロギーでもない、また超人的な神や仏でもない。
 地涌の菩薩は、じつは仏です。しかし、仏というと、どうしても超越的な感じに見られてしまう。地涌の菩薩は、あくまで「修行する人間」としての菩薩に徹している。人間に徹しているのです。ここに重大な意義がある。
 「人間」への信頼、「人間」への信仰──その復権こそ、われわれが論じ合っている「二十一世紀の宗教」のカギなのです。ある意味では、偉大なる「人間教」「生命教」の登場を、世界は待ち望んでいるのです。
 須田 時代の最先端ですね。
14  池田 たとえば、今世紀の大変動の一つであるソ連邦の崩壊なども、根本は「人間自身」の内面の渇きによるものといえるかもしれない。
 遠藤 そう言えば、イスラエルのシモン・ペレス元首相(ノーベル平和賞受賞者)は、こう述べていました。
 「ソ連は、アメリカの圧力やヨーロッパの内政干渉、中国の脅威を受けて崩壊したのではない。圧力は外部からかけられたのではなく、内部から吹きだしてきた。人間の組織におけるとてつもなく大きな変革が、軍隊の銃も、政党の旗じるしも、大国の脅威もなしに起こったのである」(ネイサン・ガーデルズ編『知の大潮流──二十一世紀へのパラダイム転換』仁保真佐子訳、徳間書店)と。
 須田 ″外からの力″による崩壊ではなく、″内からの叫び″による破綻であったということですね。
 遠藤 ペレス氏は、この当時に見たある鮮烈な映像について語っています。
 ──それはゴルバチョフ大統領へのクーデター未遂事件が起きたときの報道であった。
 モスクワの″ホワイトハウス″であるロシア共和国最高会議の建物の前には、大勢のソ連軍兵士の姿があった。
 「兵士たちは『誰がかまうものか』と言いたげな冷めたようすだった。そのとき突然一人の″おばあさん″が兵士たちのところに来て、『子供たち、こんなところで何をしているんだい。さっさとお帰り!』と怒鳴りつけた。まるで″おばあさん″がソ連軍の唯一の指揮官であるかのようだった」「ソ連が打倒されようとする時、軍はもはや中立を保った。より正確に言えば、傍観していたのである」(前掲、引用・参照)とペレス氏は回想しています。
 斉藤 緊迫した場面なのに、ものすごい勇気のあるおばあさんですね。学会草創から戦い抜いてこられた「多宝会」のおばあちゃんのようです。
 池田 いざという時に強いのは庶民です。庶民のなかで鍛え抜かれた「人間そのもの」が輝くのです。この「人間そのもの」を最高に輝かせるのが、妙法の信仰です。
 日蓮大聖人は叫ばれた。「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」と。この一節が、私には万感の思いで迫ってくるのです。
 「人間革命」の大闘争は、人類が待ちに待っていた生命の夜明けです。歴史の夜明けです。これこそ、生命の根底からの人間の解放です。永遠の次元にわたる人間の解放です。そのために、大聖人が一人立たれた。
 この「地涌の法旗」のもとに、久遠からの不思議なる縁をもって馳せ参じたのが私どもなのです。「我いま仏の旨をうけ」(「同志の歌」)──と。
 それを思えば、どれほどの使命があるか。どれほどの力がわくか。百万馬力のエンジンにギアを合わせたような自分自身となれるのです。

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