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日蓮大聖人・池田大作

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従地涌出品(第十五章) 「蓮華の文化史…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  「ハス」と「スイレン」
 斉藤 たしかに「蓮華」という同じ花でも、国や時代によって、ずいぶん受けとめ方が違います。第一、最近の若い人の中には「実物を見たことがない」という人もいます(笑い)。
 須田 蓮華というと「お盆かお葬式を思い出す」(笑い)という人も多いでしょうね。しかし本当は、古来、「蓮華」は最も高貴な人間の姿を象徴していました。中国では「君子の花」とも呼ばれています。
 遠藤 美人のことを「芙蓉の人」といいますが、あの「芙蓉」も、もともとは蓮華のことですね。以前、先生がカラン・シン博士(インド文化関係評議会会長)の言葉を紹介してくださいましたが、インドでも、女性の目の美しさを「蓮華のような」と譬えるようです。(『生命と仏法を語る』参照)
 斉藤 今、「ハスの花のようだ」と言われても、ほめられた気がしない女性もいるかもしれません(笑い)。
 池田 文化の違いだね。そう言えば、こんなことがあった。初めてポルトガルに行った時だが、菊の花を来客に差し上げようと思って、花屋に行ったら、現地在住の方から、やめたほうがいいと言われた。
 日本では、気品ある花とされているが、ポルトガルでは、悲しさや寂しさを表す花で、葬式に使うものだということだった。国や文化によって、花の受けとめ方はいろいろです。
 それでは、少し三人をテストしてみよう。みんなは、いつも試験をみる側だから、たまには試験されるのもいいだろう(笑い)。
 まず、蓮華といっても、ハスもあればスイレンもある。どういう関係になるのか?
 遠藤 はい。蓮華は、植物学の分類で、ハスとスイレンに分かれます(スイレン科のハス属とスイレン属)。スイレンは、漢字では「睡る蓮」──「睡蓮」と書きます。スイレンには昼咲きと夜咲きがありますが、時間がくると、咲いていた花を閉じて「睡っているみたい」だからです。
 斉藤 ヒツジグサというのがあります。日本に自生していた(もともと繁殖していた)スイレンですが、未の刻、つまり午後二時ごろに開くところから、「ヒツジグサ」と名づけられたようです。
 遠藤 日が沈むと閉じて「睡ってしまう」わけですね。
 須田 ハスも、夜明けごろに開き、午後には閉じるようです。
 池田 ハスとスイレンには、似ているところも、違うところも、いろいろあるね。形の上ではどうだろう。
 須田 ハスの場合、茎とか、蓮根(地下茎)には、穴が通っています。蓮根には節がありますが、この節から葉や花が出てきます。水面から離れたところまで生長して、蕾は花開きます。その後も、そのまま空気中で実がなります。
 これに対して、スイレンには、茎にも根にも穴は通っていません。地下茎はサツマイモのようで、ぎっしり詰まっています。花も水面に浮かんで咲き、花がしぼむと水の中に沈んで実がなります。
 斉藤 仏法でいう蓮華には、「ハス」も「スイレン」も含まれます。ただし、妙法蓮華経の蓮華というのは、「ハス」なかんずく「白いハス」のことです。
3  池田 それでは、ハスやスイレンは何種ぐらいあるのだろうか?
 遠藤 植物学的には、ハスには二種しかありません。アジア・オセアニアに分布するハスと、北アメリカのキバナハスです。一方、スイレンは、世界中に約四十種もあります。その多くは熱帯性です。温帯性のものは、地中海周辺の原産の白いスイレン(ユーラシア大陸に広く分布する)、日本のヒツジグサなどです。
 須田 南米・アマゾン河流域には、オオオニバスがあります。これはスイレンの一種です。小さな子どもなら、その葉の上に乗っても水に浮いています。
 池田 そうだったね。ヨーロッパにも蓮華はあるのかな。
 遠藤 先ほど述べた白いスイレン(地中海周辺の原産)は自生するようですがハスは自生していないようです。化石としてはありますが。
 池田 ハスは古くからあったのだったね。確か、白亜紀(およそ一億三千五百年前)にもさかのぼると言われている。種子植物(花が咲いて種ができる植物)ができてすぐから繁栄していたようだ。
 須田 ヨーロッパでは、白いスイレンは、「純潔」のしるしです。スイレンの花ことばも「心の純潔」とされ、「純情」「信頼」という寓意があります。
 池田 ヨーロッパのスイレンといえば、フランス印象派の画家モネが描いたスイレンが有名だ。東京富士美術館にもあります。モネの睡蓮については、ルネ・ユイグ氏(フランスの高名な美術史家)とも語り合ったことがある。では、アフリカはどうかな。
 斉藤 エジプトなどには、スイレンがあります。エジプトの国花は、スイレンです。
 ナイル河には、多くのスイレンが生えています。「夜咲きの白いスイレン」と「昼咲きの青いスイレン」があり、青が多いそうです。
 池田 ナイルに浮かぶ青と白の睡蓮の群れ──美しい光景です。ヘロドトス(古代ギリシャの歴史家)だったか、古代エジプトでは蓮華を食用にしていたと書いていたと思ったが。
 遠藤 はい。彼の著作『歴史』では、蓮華をユリの一種としています。英語では、スイレンに「ウオーター・リリー(水の百合)」という別名があります。
 須田 スズランは「谷間の百合」といいますね。ユリには何か意味があるのですか。
 遠藤 清らかで美しい花をユリといったようです。ユリは″清純さ″の象徴だったようです。
 斉藤 婦人部のシンボルは「白ユリ」ですが、まさにぴったりです。
 池田 古代エジプトにはスイレンだけかな?ハスは?
 遠藤 ハスもあったようですが、それは「バラに似たユリの一種」とされています。実際は、よくわかりません。
 池田 それでは次に、日本語で「ハス」のことを、どうして「ハス」というのか。
 これは、どうだろうか?
 斉藤 はい。ハスは古くは「ハチス」いいました。「蜂の巣」のことです。ハスの花が開くと、シャワーの先を真上に向けたような形の実が現れます。この部分が「蜂の巣」に似ていることから「ハチス」になり、「ハス」になったわけです。漢字で「蓮」というのは、この部分です。
4  花と果が同時に生長
 池田 その通り。厳密にいうと、この部分は花托かたくだね(花托とは、花弁、雄しべ、雌しべなどをつける部分)。ハスの種子が、この″蜂の巣″の穴の中にある。
 須田 種がそこにあるから、「果実」に当たると考えていいわけですね。
 遠藤 そこで蓮華の特徴は、花が開く前から、この果実(花托)が大きく成長することです。
 普通は「花が先で、果が後」です。これを因果に分けると、花が原因で、果は結果です。「原因が先で、結果が後」というのは、とても自然です。
 ところが蓮華は、花(原因)と果(結果)が同時に大きくなっていく。そこで、「因果倶時」いう法華経(妙法蓮華経)の法門の譬えに、蓮華を使うわけです。
5  地涌の証とは「永遠の前進」
 池田 「因果倶時」という法門は、甚深の法門だから、機会を改めて論じたい。
 一言だけ言っておくと、この因果とは、とくに「仏因」「仏果」を指している。仏界が「果」、仏界を目指しての修行が「因」です。通常は、これが同時にはありえない。あくまで修行(困)があって、成仏(果)があるわけです。
 ところが南無妙法蓮華経という成仏の「本因」を修行すれば、じつは、その修行自体がすでに仏界である。南無妙法蓮華経は、成仏の「本因」であり同時に「本果」です。
 この不思議の法(妙法)を蓮華で譬えたわけだが、大事なことは、この「因果倶時」を我が身に体現しているのが、「地涌の菩薩」だということです。
 斉藤 地涌の「菩薩」だから、「仏因」の立場です。にもかかわらず、その内証は、すでに「仏」である(「仏果」を得ている)ということですね。
 池田 「仏である」といっても、何か、止まった一つの状態のことではない。蓮華の果が花とともに生長するように、広宣流布の「行」とともに、「仏果(仏界)」もいよいよ成長していくのです。
 その意味で、地涌の菩薩とは、「永遠の前進」「永遠の成長」を意味する。ゆえに、前進を止めてしまえば、もはや地涌の菩薩ではない。
6  千葉せんようの蓮華」
 池田 さて「蓮華の文化史」の続きだ(笑い)。アジアでは、どうだったか。日本、中国、インドの順に見てみよう。
 須田 日本でも、蓮華の話が『日本書紀』や『万葉集』にもありますので、古くから愛されていたようです。仏教が広まるにつれ、中国から多くの観賞用の立派な花蓮の品種が伝わってきたようです。
 遠藤 日本では、古くから、各地にハスがあったようで、ハスに関連する地名がたくさん、残っています。
 池田 そうだね。日蓮大聖人御聖誕の地・千葉も、一説には「千葉の蓮華」に由来するといわれる。
 斉藤 「千葉」の由来について、古文書には、「池田の池」というのがあって、そこに蓮華が千葉に咲いていた、といいますね。
 (『妙見実録千集記』に「池田の池とて清浄の池あり。此の池に蓮の花千葉に咲けり」とある)
 須田 先生と同じ名前の池ですね。
 池田 よくわからないんだが、我が家のルーツは、千葉の池田郷というところにあるのではという人もいる。また、千葉県庁舎は、この池田の池があったあたりに建てられているそうです。
 斉藤 「千葉」というのは、別に葉っぱが多いということではなくて、千枚の花びらがある蓮華という意味ですね。
 遠藤 実際、そんな蓮華があるんでしょうか。法華経にも提婆達多品(第十二章)に「千葉の蓮華」が出てきますが。
 池田 文殊師利菩薩が「千葉の蓮華の、大いさ車輪の如くなる」(法華経四〇三ページ)に乗って出現したとあるね。
 千枚の花びらがある蓮華が本当にあるかどうか。くわしくはわからないが、蓮の花びらは、通常は、二十枚から二十五枚で、これが一重咲きとされる。しかし、時には、百枚、三百枚にもなるそうだ。
 さらに、花托の部分からまた花が開く「多頭蓮」という種類があって、これには花びらが三千枚から五千枚になるものもあると聞いたことがある。
 「千葉の蓮華」を実際に見たことはないけれども、子どものころの忘れ得ぬ風景に、家の近くのハス池があります。
 小学校五年生の時だったと思うが(昭和十三年)、実家がそれまでの広い屋敷を人手に渡して移転した。(蒲田区〈現在の大田区〉糀谷三丁目から、糀谷二丁目へ)
 日中戦争が始まっていて、兄たちは戦争に行ってしまうし、父は体をこわしていた。
 その移転した家の隣に、ハスの池があった。そう、数百本は優にあったと思う。ハスの花が次々に咲き広がっていく、あの光景は忘れられない。毎年、咲くのを楽しみに待ったものです。その家も、やがて強制疎開させられてしまったが──。今は、その池もなくなったようだ。
 さて、中国はどうだろうか。
7  須田 はい。中国で蓮華をたたえた文章といえば、宋の周敦頤しゅうとんい茂叔もしゅく)の「愛蓮の説」が有名です。
 彼は「蓮を好む理由」をいくつかあげていますが、整理するとこうなります。
 (1)泥から出て泥に染まらない。──如蓮華在水です。(2)清らかなさざなみに洗われて妖艶なところがない。(3)中に穴が空いていて、すきっと筋が通っており、外もまっすぐで、蔓も枝もない。(4)香りが遠くまで届き、しかも遠くにいくほどすがすがしい。(5)まっすぐ上に、行儀よく生え、遠くから眺められ、間近ににじり寄って、楽しむものではない。そして、清らかな蓮を「君子の花」として、賛嘆しています。(三浦功大著『蓮の文化史』かど書房、参照)
 池田 なるほど。蓮華は清らかなものの代表だね。仏教でも、蓮華は「清浄」を表す。
 ところで、蓮華はなぜ泥水に染まらないのかな。
 斉藤 植物学者の牧野富太郎博士によれば、葉に細かい毛のようなものがあって、水をはじいてしまうからのようです。
 遠藤 中国で、蓮華が清らかなものとされたのは、仏教の影響だと思われます。仏教が伝わる以前は、蓮華は、多産とか繁栄の象徴だったようです。
 はらに、蓮の字の音の「レン」が「恋」や「憐(憐れむ)」に通じるので、恋愛や愛情の象徴でもあったようです。また、蓮華の各部分が、「食用」や「薬用」に使われています。
 池田 蓮華は古くから身近な存在だったんだね。
 遠藤 蓮根や葉や雄しべには止血作用があります。中国では、他の生薬と調合して、胃潰瘍や子宮出血や痔などに使うそうです。
 須田 インドでも、種を生で食べたり、蓮根を漬物の一種や油いためにしたりするそうです。またインド医学でも、古くから、蓮華がさまざまに使われています。
8  「ハスの種子」の強靭な生命力
 遠藤 中国では、ハスの種子は滋養強壮の薬とされました。″気力を増し、百病を治し、長く服せば、不老長寿になる″と絶賛されています。また、石のように堅いので、「石蓮子」と呼ばれました。
 斉藤 ″堅い″といえば、ハスの学名にもなっています。
 学名は「ネルンボ・ヌキフェラ」です。この「ヌキフェラ」というのが、″堅い実のなる″という意味です。
 種に石のような堅い殻があるんです。(学名のうち「ネルンボ」は、スリランカの言葉で「ハス」という意味)
 池田 ハスの種子は、そのように堅いからこそ、さまざまな困難を乗り越えて、芽を出し、花咲く力をもっているんだね。
 有名な大賀ハスも、何と二千年の時を超えて芽を出した。″少なくとも三千年を超える″と言う研究者もいる。大変なことです。
 今、大賀ハスは関西、東京の創価学園や創価大学にもあるね。
 遠藤 ハスの種が長く生き続けられる理由は、大賀一郎博士によれば、まず「果実の皮が堅く、水分及び空気の出入を全然絶っているからであり、その中で非常に緩慢な呼吸作用を営んでいる」(『ハスを語る』忍書房)ので、種が二酸化炭素で窒息するまで時間がかかるからだそうです。
 池田 蓮華がもつ強靭な生命力を感じる。
 法華経の教えの精髄は、「成仏のための種子」とされる。万人を成仏させる「仏種」が秘められているからこそ、法華経は偉大なのです。そして法華経の仏種は、金剛に譬えられる。
 今で言えばダイヤモンドのように堅固であり、壊れない。たとえ地獄などの悪道に堕ちても壊れない種である。
 また「種子不失の徳」と言って、地涌の菩薩は久遠以来、南無妙法蓮華経という仏種を失わず、つねに修行している。
 須田 この法を「蓮華の法」と名づけた智慧は、蓮華の種が頑丈で寿命が長いことも見抜いていたのかもしれませんね。
 遠藤 大賀ハスが花開いたのは昭和二十七年(一九五二年)。ちょうど日蓮大聖人の立教開宗から七百年の大佳節でした。
 しかも、その種子が発見されたのは大聖人御生誕の地・千葉でした。
 池田 そうだった。そのうえ、ちょうど同じころ、″アメリカのワシントン国立公園で、数万年を経た「蓮華」の種が、薄紅の大輪の花を咲かせた″というニュースが伝えられた。
 立宗七百年の年に、東西でそれぞれ、何千年・何万年も前の「蓮華」の種が開花したのです。
 戸田先生は、これを大白法興隆の素晴らしき瑞相と、とらえておられた。
 (「泥沼にあえぐ民衆の一大欲求は、一大仏法の出現である。崇高にして正しく、利益と罰と厳然として、だれ人も頼むに足るべき、偉大なる仏法が現れなくてはならないときである。東西両洋に咲いた蓮の花は、泥土より見事に花を咲かせたではないか。すなわち、何千何万年の夢を破って。今、日本民衆の泥沼の中から、遠く久遠元初、近くは、七百年の夢を破って、末法御本仏の崇高なる仏法が、ぱっと咲き乱れるのである。この蓮華の花が、東西両洋に咲き出したということは、末法御本仏の仏法が、花やかに咲き出す瑞相でなくて、なんであろう」〈昭和二十七年九月三十日の「巻頭言」『戸田城聖全集』1〉)
 私は当時、二十四歳。東洋へ、そしてアメリカはじめ全西洋へも、最高の「蓮華の法」を弘めていこうと決意を固めたものです。
9  法華経には、どんな蓮華が
 池田 さて、いよいよインドだが、「蓮華」については古代から広く知られていて、ヒンドゥー教でも重要な中心的位置を占めているね。
 須田 はい。インド最古の宗教文献とされる『リグ・ヴェーダ』にも、蓮華のことが出てきます。
 池田 それでは、法華経においては、どんな「蓮華」が登場するのだろうか。
 斉藤 法師功徳品には、赤、白、青の蓮華が出てきます。「赤蓮華香、青蓮華香、白蓮華香」(法華経五三四ページ)と。梵語の経典で該当するところを見ますと、赤蓮華(紅蓮華)にあたるのが、パドマ(波頭摩はどま)です。これは白いスイレンですが、桃色の変種もあるようです。
 青蓮華とは、ウトパラ(優鉢羅うはつら。ニーロートパラ〈青いウトパラ〉とも)という青いスイレンです。白蓮華とは、プンダリーカ(芬陀梨華ふんだりけ)という白いハスです。
 この「プンダリーカ」──白蓮華が、法華経全体の経題になっているわけですね。
 池田 サンスクリットの経典では、蓮華は、普通、青・黄・紅・白の順で出てくるそうだ。最後に出てくる白蓮華が、最も高貴で尊厳とされている。
 法華経は最高の教えだから、サンスクリットでは『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』、白蓮華の経典とされているのです。
 須田 法華経には、この他に、クムダ(拘物頭くもつず)という夜咲きの白または赤のスイレンが挙げられています。その他には、妙音菩薩の住む東方世界の仏・浄華宿王智仏の名の「華」は、カマラという赤いハスです。
 池田 なかなか、くわしいね。黄色いハスは、どうですか。
 須田 鳩摩羅什訳以外の法華経には、「黄蓮」が出てきます。(竺法護訳『正法華経』の歎法師品〈羅什訳では法師功徳品〉・総持品〈同、陀羅尼品〉)
 ただし、現実には、黄色のハスやスイレンはインドにはないようです。
 遠藤 アメリカのミシシッピ河流域などには、黄色いハス(キバナハス)が、あるようです。
 須田 空想上のことですが、密教では、赤・白・青・黄の他に「黒色の蓮華」もあるとされます。
 斉藤 ちょっと想像しにくいですね(笑い)
 池田 仏典では、さまざまな色の蓮華が説かれている。ある経典では、釈尊が″出家前に過ごした家の庭に、青蓮華、紅蓮華、白蓮華が植えられていた″と回想している(『ゴータマ・ブッダ』1,『中村元選集[決定版]』11、春秋社、参照)。蓮華は、夏の暑さに清涼感を与えてくれる。インドは日本よりも暑さが厳しいのでいっそう、その思いがあったかもしれない。
 斉藤 御書にも出てくる阿耨池、つまり「清涼池」にも、蓮華が生えているとされます。これは、インド人が考えた理想郷ですが、理想郷には、蓮池が欠かせないようです。
 阿弥陀仏の極楽浄土も、蓮で覆われています。
 須田 インドの「蓮華」重視は、インダス文明以来の伝統のようです。
 有名なモヘンジョ・ダロ遺跡からは、頭に蓮の花をつけた″大地の女神″と思われる像が、出土しています。
 池田 モヘンジョ・ダロ遺跡といえば、三、四千年以上も前の遺跡でしょう。
 そのころから、「蓮華」が重要視されていたとは興味深いね。しかも「大地(の女神)」と「蓮華」が結びついているところに注目したい。
 地涌の菩薩という「人間の蓮華」も「大地」から出現した。そこには仏法上の深義は別にして、インド文化のひとつの伝統的なイメージが背景にあるのかもしれない。
 もちろん断定はできないが、今後の研究に待ちたいところです。
10  「下方の虚空」とは究極の根源
 斉藤 はい。「母なる大地」というイメージは全世界に広くありますが、インドも例外ではありません。大地は万物を生む母であり、女神とされます。
 遠藤 母なる大地を母胎として地涌の菩薩が誕生したということでしょうか。
 池田 そこには、「見わたす限りの美しい蓮華が、下方から出現してくる」というイメージがあるかもしれない。ただ、厳密にいうと、地涌の菩薩は、大地の下の虚空にいたとされている。これを考えてみよう。
 「大地の下に虚空があるとは、一体、どういうことなのか」と疑問に思う人もいるにちがいない。
 遠藤 はい。インドの世界観では、地下の構造はこうなっています。私たちの住む地面は地輪の表面で、その下には金輪がある。その下には水輪があります。この金輪と水輪の境目が「金輪際こんりんざい」です。
 池田 面白いね。金輪際は「底の底」のほうにあるから、「どこまでも」という意味になり、「断じて」という意味になり、結局、「金輪際、もう付き合わない」(笑い)などと使われるようになったわけだ。
 遠藤 その通りです。で、水輪のさらに下に風輪があるとされます。この風輪が、虚空に浮かんでいるとされるわけです。
 斉藤 インド人は、『リグ・ヴェーダ』の時代から「万物の根源は何か」と種々、考えました。
 ある哲学詩では、創造主が世界を創造するに当たって、″大いなる虚空に水を母胎として置いた″とされます。水よりも、虚空がより根源だと考えたのです。後の注釈書では、「虚空は究極の根源」とされており、虚空が「ぼん(プラフマン)」として崇拝されるようになっています(『ウバニシャッドの思想』、『中村元選集[決定版]』9、春秋社、引用・参照)。これから考えると、水輪よりも下に風輪があり、その下に虚空があるとするのは、「虚空が、水や風よりも根源である」ことを表現していると思われます。
 こういう文化伝統から見ても、地涌の菩薩がいた「下方の虚空」とは、最も下にある虚空で、根源の中の根源といえるのではないでしょうか。
 遠藤 「根源中の根源」からの誕生と考えれば、まさに「法性の淵底・玄宗の極地」に通じるかもしれません。もちろん、これらだけから論じるわけにはいきませんが。
 池田 地涌の菩薩は寿量品の本仏の「久遠の弟子」である。その久遠の弟子が、根源の中の根源から誕生してくるということだね。もちろん「法性の淵底・玄宗の極地」とは根源の「真理」であり、南無妙法蓮華経の「一法」です。
 そのうえで、涌出品で説く「下方の虚空から生じる」とは、空間的に根源を示し、「久遠以来の教化」とは、時間としての始源しげんを示していると言えるかもしれない。
 地涌の菩薩の出現とは、宇宙と生命の根源のドラマなのです。つまり、本門に秘められた法が根本中の根本であることを示唆していると言えるでしょう。
11  シルクロードは「蓮華ロータスロード」
 斉藤 こうして見てきますと、世界のじつに多くの地域で、「蓮華」が重要なシンボルになってきたことを、改めて実感します。
 須田 とくに、エジプト文明では、蓮華の象形文字や、「蓮華柱頭」といって蓮華を頭に刻んだ柱が神殿にあるなど、″蓮華文化″の一大拠点です。
 遠藤 エジプト文明の多くを継いだギリシャ文明でも、オリンボスの神殿に「唐草模様に蓮華」の文様があります。
 池田 そのギリシャ文明をインドまで運んだのが、かのアレキサンダー大王だね。大王の遠征によって、西のギリシャ文明と東のオリエント文明が融合した。
 そしてインド文明と西洋文明の出合いが、やがて仏像などのガンダーラ文明を生み、アジアに広がり、中国、韓・朝鮮半島、そして日本へも伝わってくる。
 個々に、どう影響しあったかという実証はむずかしいが、ユーラシア大陸を結ぶ、壮大な「蓮華の道」があったことは確かです。
 斉藤 「シルクロード」は「蓮華ロータスロード」でもあったわけですね。
 池田 その「道」の足となったひとつは、「砂漠の船」と呼ばれるラクダです。
 かつて常書鴻じょうしょこう画伯(中国敦煌研究院名誉院長)が言われていた。「ラクダが歩いた跡には、砂の上に、まるで蓮華の花のような足跡が、ずっと続いているのです」と。
 遠藤 「蓮華ロード」には、実際に、蓮華の花文様はなもんようが描かれていたのですね。
 須田 美しい光景です。
 池田 私たちが開いている「広布の道」も、歩いたあとに、人々の「幸福の蓮華」が香り高く咲き誇っている。私たちの人生そのものが、美しき「蓮華ロータスロード」なのです。
 さて、最後に「太陽と蓮華」について、概観しておきたい。日蓮大聖人の御名前にも関連する非常に重要なポイントです。
12  太陽は天の蓮華、蓮華は地の太陽
 遠藤 はい。まずエジプトでも、蓮華が太陽と関連づけられています。
 花びらが放射状に開いていることから、太陽光線と似ていると考えられたのでしょうか。さらに、朝、花を開いて、夕方までに閉じることからも、太陽と密接に結び付けられたようです。
 須田 エジプトの神話では、夜、蓮華の花冠が「太陽の揺籃ゆりかご」となり、夜明けになると、太陽に新しい生命を与えると考えられていたようです。
 池田 太陽は、どこの地域でも、無限の生命力の象徴だね。また、沈んでも翌朝にはまた昇るので、″復活の象徴″″永遠の生命の象徴″と考えられていた。
 斉藤 それで、永遠の生命、復活を願って、蓮華をミイラの上に乗せたり、葬式に使ったりしたようです。
 エジプトには、「原初の水から生じた蓮華が開くと、世界を創造する美しい子供、すなわち生まれたての太陽が現れ出た」という伝承があるそうです。(アーサー・コッテル『世界神話辞典』伊藤克巳・左近司祥子・瀬戸井厚子訳、柏書房)
 須田 また、ペルシャ人も蓮華を「太陽の化身」と考えました。一方、太陽神を″光の衣″と″蓮華の王冠″を身につけた姿で描いています
 池田 古代オリエントでは、蓮華は「地上の太陽」であり、太陽は「天井の蓮華」だったのだろう。蓮華は、聖なるものを生み出したり、内に秘めているものだった。じつに聖なる植物だったのだね。
 斉藤 インドでも古くから、蓮華は聖なるものを生み出すとされています。先ほど話に出た「千葉せんようの蓮華」は、その代表です。
 古い伝説によれば、宇宙の創造をこう述べています。
 ──元初には、宇宙に水だけしか存在しなかった。その水の中からハスの葉が浮かび、「太陽のように金色に輝く千葉の蓮華」が浮かびあがった。その中に宇宙の創造者・梵天が生まれた──と。この蓮華は、「黄金の母胎」と考えられています。
 須田 「黄金の母胎」とは、最古のバラモン経典『リグ・ヴェーダ』に出てくる万物の根源ですね。万物を胎児として内に具え、生み出すものです。
 遠藤 蓮華の花托もサンスクリットでは、母胎・子宮を意味する「ガルバ」という名前で呼びます。「種子を育む」ところから名づけられたのでしょう。また、「黄金の蓮華」は、太陽の象徴とされています。
 斉藤 この「黄金の千葉の蓮華」のイメージは、仏教でも使われています。
 舎衛城での奇跡の話では、″ナンダ竜王とウパナンダ竜王が、車輪のように大きく、茎は宝石でできた「黄金の千葉の蓮華」を創り出し、釈尊に差し出した″とされています(『ディブヤーバグーナ』)。
13  仏は太陽、仏は蓮華
 池田 釈尊は、「慧日大聖尊」(法華経一一三ページ)とも呼ばれる。″智慧の光を放つ太陽″とされているのだね。人々に法を説く教主・釈尊は、太陽であり、蓮華ということです。このことは、非常に重要です。
 斉藤 『大智度論』には、「千葉の蓮華」と「智慧の光」の関係を示す話が記されています。──釈尊が三昧に入っている時、大光明を発した。すると、その一々の光は、宝石でできた「千葉の蓮華」となり、それぞれの蓮華の上にみな仏が生じていた──と。
 池田 仏の智慧は「慧光」と呼ばれる。仏の慈悲は「慈光」と呼ばれる。ともに光に譬えられている。この話は、仏の智慧と慈悲の「光」を母として、諸仏が誕生することを示しています。
 ゆえに私どもも、人々に「光」を当て、「光」を送らなければならない。自分も「光」を浴びなければならない。暗がりにいてはいけない。暗がりに人を置いたままにしてもいけない。暗がりでは、花は咲かない。蓮華は咲かない。
 自分が縁するすべての人に、妙法の「光」を送るのです。それが、自分の「光」を増すことになる。無数の「千葉の蓮華」の上に、無数の諸仏が誕生していく──壮麗な光景です。これに似た光景が法華経にもあったね。
 虚空会で、釈尊と多宝如来が宝塔の中に「二仏並坐」する。その宝塔の周りに、十方の世界から分身の諸仏が集まってくる……。
 須田 はい。この諸仏は「蓮華の群集」に譬えられています。
14  一切の法門は「蓮華」の二字から
 池田 「蓮華」から万物が出生するという思想は、華厳経の「蓮華蔵世界」などでも展開されていますが、くわしくは略したい。
 日蓮大聖人は、「蓮」の一字について、「万法の根源、一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮しょせん源蓮の一字より起る者なり」とされている。
 また「一切の法門は蓮華の二字より起れり」とも仰せです。万物を生む蓮華といっても、その究極は南無妙法蓮華経以外にない。
 「蓮華と太陽」について話は尽きないが、まだ別の観点があるだろうか。
 斉藤 「胸間の蓮華」ということが説かれますが、一説にはこれは「心臓」のことであり、心臓は同時に太陽であるとされます。
 池田 心臓が蓮華であるというのは、心臓の形が、ちょうど蓮華がつぼんでいる姿に似ているからだね。しかも心臓には筋脈がついていて、八つに分かれているように見える。それで心臓のことを「八葉の蓮華」ともいった。
 遠藤 古代インドでは、人間の体を「ブラフマン(梵)」(宇宙の根本原理)が住む、「ブラフマンの都」と、考えました。
 心臓は、その都の中の「小さな白蓮華の宮殿」としています。
 池田 心臓が蓮華というのはわかったが、同時に太陽でもあるというのは説明が必要だね。
 斉藤 はい。人間の心臓と、太陽は微細な脈管でつながっていると考えられていました。太陽の「光」を栄養として、心臓の中の「(アートマン)」が活動していると、考えたのです。
 須田 要するに、心臓を動かし、人間を生かしている生命エネルギーは、太陽エネルギーに由来しているということでしょうか。
 池田 そう見れば、現代科学の見識にも一致するね。食物連鎖をたどれば、すべてのエネルギーの根源は、太陽光線にある。太陽は、地球上のあらゆる生命の母だ。人間の営みもすべて太陽の恵みがあればこそです。
 要するに、太陽も、蓮華も、宇宙のエネルギーの根源を象徴している。その当体は南無妙法蓮華経であり、妙法は即太陽、即蓮華です。人に即していえば、大聖人が太陽であり、蓮華です。
15  「日蓮又日月と蓮華との如くなり」
 斉藤 地涌の菩薩も、神力品(第二十一章)では、太陽に譬えられています。(「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し」〈法華経五七五ページ〉)
 そうすると、地涌の菩薩もまた、教主・釈尊と等しく、蓮華であり、太陽であることになりますね。
 池田 そう。この神力品の文について、大聖人はこう仰せです。
 「上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり」と。
 末法で法華経の肝要である南無妙法蓮華経を弘通される大聖人こそが、上行菩薩の再誕であることを示されているのです。さらに「一切の物にわたりて名の大切なるなり(中略)日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」と仰せです。
 須田 自解仏乗とは、「みずから仏の境地を悟った」ということです。大聖人ご自身が「仏」であり、その悟りを「日蓮」という御名に込めてあるということですね。
 遠藤 四条金吾夫人へのお手紙でも、「法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」と仰せですね。
 池田 「日蓮」という御名を名のられたこと自体が、大聖人こそが、法華経の御当体であるということです。大聖人こそが末法の全民衆を永遠に照らす″太陽″であり、諸仏を生んだ根源である清浄の″蓮華″──なかんずく白蓮華であることを、示されたものなのです。
 日蓮という御名については、重々の深義があり、くわしくは、日寛上人が「日蓮の二字の事」(『富要』三巻二五五ページ)にまとめておられる。結論を言えば、お名前自体が、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、御本仏であるとの大宣言なのです。
 斉藤 大聖人門下である私どももまた、それぞれが「太陽」となり、「蓮華」とならなければいけないということですね。
 池田 自分が「太陽」になれば、人生に闇はありません。自分の毎日はもちろん、他の人をも明るく照らしていける。
 自分が「蓮華」になれば、″煩悩″の泥沼も即幸福の″菩提″にしていける。
 涌出品に「如蓮華在水」とあった。私ども地涌の菩薩は、世間の泥沼のまっただ中に入っていく。決して現実から逃げない。しかも、絶対に世間の汚れに染まらないということです。なぜなのか。それは「使命を忘れない」からです。
 大聖人は、地涌の菩薩について「但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり」と仰せです。
 広宣流布です。折伏精神です。広宣流布のために一切を捧げていく信心が、地涌の菩薩の魂です。これをなくしてしまえば、どんなに立派な格好をしても、心は世間の法に染まってしまう。
 須田 「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」と仰せです。
 権力者などから、どんなに富や地位で誘惑されても、絶対に「信心」を曲げないということですね。
 池田 絶対に同志を裏切らないということです。裏切った人間は、末路は哀れです。昔も、今も──。広宣流布のために我が身を捧げる「殉教の信心」こそが、日蓮大聖人が身をもって示してくださった法華経の精髄です。その崇高な前進のなかにこそ、「歓喜の中の大歓喜」の太陽が昇るのです。そして、我が身そのものが、「黄金の蓮華」のごとく、「千葉の蓮華」のごとく、馥郁ふくいくたる幸福の当体と花咲いていくのです。
 広宣流布とは、社会に慈悲の太陽を昇らせ、幸福の蓮華を広げていく運動なのです。

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