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日蓮大聖人・池田大作

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従地涌出品(第十五章) 「蓮華の文化史…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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15  「日蓮又日月と蓮華との如くなり」
 斉藤 地涌の菩薩も、神力品(第二十一章)では、太陽に譬えられています。(「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し」〈法華経五七五ページ〉)
 そうすると、地涌の菩薩もまた、教主・釈尊と等しく、蓮華であり、太陽であることになりますね。
 池田 そう。この神力品の文について、大聖人はこう仰せです。
 「上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり」と。
 末法で法華経の肝要である南無妙法蓮華経を弘通される大聖人こそが、上行菩薩の再誕であることを示されているのです。さらに「一切の物にわたりて名の大切なるなり(中略)日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」と仰せです。
 須田 自解仏乗とは、「みずから仏の境地を悟った」ということです。大聖人ご自身が「仏」であり、その悟りを「日蓮」という御名に込めてあるということですね。
 遠藤 四条金吾夫人へのお手紙でも、「法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」と仰せですね。
 池田 「日蓮」という御名を名のられたこと自体が、大聖人こそが、法華経の御当体であるということです。大聖人こそが末法の全民衆を永遠に照らす″太陽″であり、諸仏を生んだ根源である清浄の″蓮華″──なかんずく白蓮華であることを、示されたものなのです。
 日蓮という御名については、重々の深義があり、くわしくは、日寛上人が「日蓮の二字の事」(『富要』三巻二五五ページ)にまとめておられる。結論を言えば、お名前自体が、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、御本仏であるとの大宣言なのです。
 斉藤 大聖人門下である私どももまた、それぞれが「太陽」となり、「蓮華」とならなければいけないということですね。
 池田 自分が「太陽」になれば、人生に闇はありません。自分の毎日はもちろん、他の人をも明るく照らしていける。
 自分が「蓮華」になれば、″煩悩″の泥沼も即幸福の″菩提″にしていける。
 涌出品に「如蓮華在水」とあった。私ども地涌の菩薩は、世間の泥沼のまっただ中に入っていく。決して現実から逃げない。しかも、絶対に世間の汚れに染まらないということです。なぜなのか。それは「使命を忘れない」からです。
 大聖人は、地涌の菩薩について「但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり」と仰せです。
 広宣流布です。折伏精神です。広宣流布のために一切を捧げていく信心が、地涌の菩薩の魂です。これをなくしてしまえば、どんなに立派な格好をしても、心は世間の法に染まってしまう。
 須田 「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」と仰せです。
 権力者などから、どんなに富や地位で誘惑されても、絶対に「信心」を曲げないということですね。
 池田 絶対に同志を裏切らないということです。裏切った人間は、末路は哀れです。昔も、今も──。広宣流布のために我が身を捧げる「殉教の信心」こそが、日蓮大聖人が身をもって示してくださった法華経の精髄です。その崇高な前進のなかにこそ、「歓喜の中の大歓喜」の太陽が昇るのです。そして、我が身そのものが、「黄金の蓮華」のごとく、「千葉の蓮華」のごとく、馥郁ふくいくたる幸福の当体と花咲いていくのです。
 広宣流布とは、社会に慈悲の太陽を昇らせ、幸福の蓮華を広げていく運動なのです。

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