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日蓮大聖人・池田大作

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安楽行品(第十四章) 人類を絶対の「安…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  「行動できるなんて幸福だ」
 遠藤 学会の歴史は、まさに「難即安楽」の証明ですね。無名の庶民の死闘で築かれた創価学会です。その歴史を垣間見るたびに、厳粛な思いでいっぱいになります。この十一月(一九九六年)で、創立六十六周年を迎えます。
 斉藤 今年、入会満四十年になる、あるご夫妻の体験をうかがいしまた。
 ──入会(昭和三十一年)当時、想像を絶する貧乏のなか、「折伏をすれば幸せになれる」との一言を信じて、兄弟・親戚から、仏法を語っていった。皆、喜んで入会してくれると思っていたのに猛反対。一切の付き合いを絶たれてしまう。「自分のように貧乏で悩んでいる人、病気で悩んでいる人に、この仏法を教えてあげたい」。そう思って通った家でも、塩をまかれたり、風呂の水をかけられたりしたことは数しれない。
 人の家の物置小屋に、親子五人で間借りする生活。そこも、信心をしているというだけで追い出された。子どもに食べさせるのに精一杯だったためか、夜になると目が見えなくなった──。
 遠藤 栄養失調の症状のようですね。
 斉藤 こんなこともあったそうです。弘教の帰り、霧雨の中を、一人の子を背負い、もう一人の子の手を引いて歩いていた。親切なバスの運転手さんが、停留所でもないのに停めてくれた。でも、お金がないので乗れない。仕方なく、親子で一時間以上も歩いて帰った。題目を唱えながら、「いつかきっと、この道を、タクシーで来てみせるぞ」と。
 須田 せっかくの親切に応えきれない悔しさもあったかもしれませんね。
 斉藤 このようにして、ご夫婦で百世帯以上の弘教をされました。先輩は「大きな悩みがある人ほど、大きな功徳を受けられるのが妙法の信心だ」と教えてくれたそうです。どんなに苦しくても「信心」だけはやり抜いて、体も健康になっていきました。
 わずかの資金で始めた飲食業の商売も軌道に乗り始めます。功徳が感謝に、その感謝がさらに大きな功徳にと、発展を重ねてこられたのです。今では、店舗のほかに大きな工場もでき、全国に発送。三千六百軒の得意先から連日、注文が入ってくるそうです。ぜひ、支部の会場にと、広い家も建てられました。そこには、五、六十台も停められる駐車場があり、「三色旗」を掲げるポールまであるとか。
 遠藤 すばらしいですね。
 斉藤 ご夫妻が、しみじみ語られていたのは、「学会活動ほど楽しいものはない」とうことです。一時期、先輩から、経済闘争を優先させなさいと言われ、学会活動ができない時があった。「これほど、つらいことはなかった」と言っておられました。「広宣流布のために働ける。それが私たちの幸せそのものでした」と。
 お店をもっていることに目をつけて、悪い妨主が「脱会して、こっちに来ないか」と言い寄ってきた時も、ご夫妻は断固はね返しました。「結構です! 私たちは、どこまでも学会とともに、池田先生とともに進みます!」と。
 須田 本当に学会活動こそ「難即安楽」の軌道ですね。
 池田 そのご夫婦は、私もよく存じ上げています。私は、陰で学会に尽くしてくださった方々を絶対に忘れません。特別の著名人でもない、社会的に″偉い人″でもない。しかし自分自身が大変ななかで、広宣流布のため、同志のために、黙々と学会を支えてきてくださった。仏法の眼から見て、この無名の庶民ほど尊い方々は絶対にいないのです。私は、そういう方々を、草の根を分ける思いで探し出し、顕彰して差し上げたい。苦労に報いたい。それが私の本当の気持ちです。「学会員でよかった」「苦労してきてよかった」──そういう世界を広げたいのです。
 「難即安楽」と言っても、指導者に「全同志を必ず安楽の境地に導いてみせる」との一念がなければ観念論です。
 「学会に、全同志に、限りなき希望の道を開かせたまえ」と、私は若き日より祈り続けてきたのです。
3  智慧を使って不惜身命の弘法
 遠藤 安楽行品の概要ですが、主に説かれるのは、四安楽行といって、(1)身、(2)口、(3)意、(4)誓願の四つにわたる修行法です。これを、大聖人は「摂受」と位置づけられていますね。
 須田 ええ。像法時代の天台の修行は、安楽行品と普賢菩薩勧発品(第二十八章)に基づくものであり、「摂受」であるとされています。これに対して末法の大聖人の修行は、勧持品(第十三章)・不軽品(第二十章)に基づく「折伏」であるとされています。
 遠藤 末法に四安楽行を実践するのは「時を失う物怪もっけ」であるとも仰せです。末法は折伏の時代ですから。
 斉藤 そのうえで、国や民衆の状況に応じて、摂受と折伏のどちらを中心とするかを決めるべきであるとも教えられています。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり」と仰せです。この摂受・折伏を、どうとらえるかということですが──。
 池田 まず大前提として末法において南無妙法蓮華経を説くことは、すべて「折伏」です。我が身を惜しまず妙法を語っていく折伏精神が根本であれば、相手の誤りを破折することも、また相手の考えを包容しながら真実を説くことも、両方あってよいのです。
 須田 折伏と摂受という言葉は、仏教だけの用語ではなく、古代インドの社会で広く使われていたそうです。折伏という言葉はパーリ語の「ニッガハ」(とがめる)、サンスクリット語の「アビバーハ」(力において勝っていること・相手を打ち負かすこと)の漢訳です。また摂受は、バーリ語の「パッガパ」の漢訳で、「手をさしのべる」「恵みを与える」という意味です。
 遠藤 どちらも人間の振る舞いや態度を指すものですね。
 池田 両方を使いきっていく″智慧″が大事です。法師品(第十章)のところでも語り合ったように、折伏とは「真実を言いきっていくこと」です。誠実に、まじめに、相手の幸せを願って仏法を語っていけば、すべて「折伏」になるのです。
 斉藤 言葉を荒らげて「強引に」語ることが折伏なのではありませんね。
 池田 相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。「破折」を忘れたら、大聖人の弟子ではない。悪への「破折」がなくなったら、創価学会の魂はありません。
 しかし、何も知らない人が相手であれば、当然、説き方は変わってくる。
 遠藤 仏法をまったく知らない人に、いきなり″念仏無間!″と叫んでも通じませんね(笑い)。たとえば海外では、その国の文化や生活に即して、わかりやすく語っていくのが当然です。
 斉藤 安楽行品の修行が、法華経弘教の初心者である菩薩たちが、無益な争いで法を下げたり、心を乱して成仏の道を踏みはずさないように″注意事項″を説いたものだと思います。
 池田 私どもで言えば、不惜身命で弘法をする場合にも、「絶対に、法を傷つけてはならない」ということです。「正法を惜しむがゆえに、よくよく智慧を使って弘教せよ」──これが安楽行品の心です。
 あらゆる人々に、どうしたら妙法の功徳を受けさせてあげられるか。安楽行品は、その一念を教えている。ゆえに、友の幸福を真剣に祈り、智慧を発揮して仏法を語っていく中に、安楽行品の心は全部生きてくるのです。日蓮大聖人も、不惜身命の折伏精神を門下に教えられるとともに、礼儀、尊敬、そして賢明な振る舞いの大切さを強調されています。
 遠藤 大聖人の仰せの通り、自在の智慧を発揮して、人々を救いきってきたのが学会です。不惜身命の真剣さが智慧を生んだといえます。
 斉藤 まさに″布教革命″ですね。日淳上人は、創価学会の出現によって「護持の時代」から「流通広布の時代」に入ったと、学会の時代即応の弘教を賛嘆されています。(『日淳上人全集』下)
 池田 安楽行品には、「妙法を実践する人が、恐れなく活躍することは師子王のようであり、その智慧の光明は太陽のようであろう」(「遊行するに畏れなきこと師子王の如く智慧の光明日の照らすが如くならん」(法華経四四七ページ)とある。
 広宣流布とは、太陽のように世界を照らす大智慧の宗教運動です。一人一人が智慧の光となり、その光が集まって、この地球をも発光させていく──。いわば壮大なる″境涯革命の芸術″です。具体的には平和・文化・教育の拡大です。
 斉藤 先日(一九九六年十月一日)、ブラジル・リオデジャネイロ州のドゥッケ・デ・カシアス市議会から、池田先生を「平和の英雄」とたたえる顕彰の証書が贈られました。その推挙の辞に、こうありました。
 「SGI会長は、平和を成し遂げることが可能であるということを教えてくれた″希望の光″です。創価学会よ、前進せよ。大きくなれ。この庶民の町カシアスの大地を光と希望で埋め尽くしていただきたい」。
 SGIの発展を、世界の人々が心から期待している。広宣流布してほしいと言っている。そういう時代に入ったのだなと感動しました。(この顕彰とともに、ブラジルSGIは、同市の「公益機関」に認定された)
4  根源の一法を受持したゆえに「安楽」
 遠藤 さて、安楽行品は、文殊師利菩薩が釈尊に「悪世において、どのように法華経を説いたらよいでしょうか」と質問するところから始まります。
 釈尊はこれに答えて、「身」「口」「意」「誓願」の四つの安楽行を説いていきます。
 須田 簡単に言えば──。(1)「身安楽行」とは、身を安定させて悪縁を避け、静寂な所で修行すること。(2)「口安楽行」とは、他人や他の経典を、みだりにけなしたり、ほめたりせず、平穏な気持ちで説きさとすこと。(3)「意安楽行」とは、嫉妬や慢心やおもねりの心をいだかず、争論を避けて経を持ち、読み、説くこと。(4)「誓願安楽行」とは、大慈大悲の心で、衆生救済の誓願を立て、修行することです。
 遠藤 この四安楽行は「方法」を説いていると天台は言っています(『法華文句』)。つまり、悪世のさまざまなことに心身を煩わされずに、法華経を弘めていく方法です。
 斉藤 ベテランの菩薩(深行の菩薩)には、方法を教えるまでもないけれども、初心の菩薩(浅行の菩薩)には、方法を教えてあげないと、自行も化他行も全うできないとも天台は言っています。安楽行は初心者用の修行の″助け船″とも言えないでしょうか。
 池田 安楽行品が「方法論」であるとすれば、勧持品は「精神」を説いている。その精神とは「不惜身命」です。我が身を惜しまず、正法を惜しむ心です。
 この「不惜身命」を安楽行品の根本と見なければ、それこそ″どうすれば楽に修行できるか″という底の浅い話になってしまう。
 四安楽行の「安楽」とは、根本的には、妙法を「身・口・意の三業」つまり「全生命」で行じていくことです。ゆえに全生命が安楽の境涯になる。南無妙法蓮華経こそ真の安楽の法なのです。
 斉藤 私たちにとって、具体的にどうすることが安楽なのかが大事ですね。
 「御義口伝」には「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり」と仰せです。安楽行の本体は、法華経において上行菩薩が受け継いだ、そして上行菩薩によって末法に弘通されるべき「三大秘法の南無妙法蓮華経」であると。
 池田 文底のお立場から教えてくださっているところだね。
 戸田先生は、安楽行品の「御義口伝」を講義されて、こうおっしゃっていた。
 「四つの安楽行というのがあるのだよ。なかなかヤカマシイのだよ(中略)それを大聖人様は、型を破っちゃった。『南無妙法蓮華経といえば、みな安楽になるから、それでいいんじゃないか』と」。
 「釈迦仏法の安楽行品からいけば、『心ではこう思え。口ではこういえ。体ではこうやれ。願いはこう立てろ』と、いろいろな条件をつけたけれども、大聖人様の安楽行品は楽なんだよ。『困ったら、御本尊様に、南無妙法蓮華経といえ』と言うのです。そうすれば、安楽になってしまうじゃないか、他はないでしょう」。
 「御義口伝」に「諸法実相なれば安楽行に非ざること莫し」と仰せだが、先生は「諸法実相、世の中のことというものは、みな、変わったことをやることはないのだよ。自分の好きなようにやっていればいいのだよ。諸法実相、犬もそのまま、人間もそのまま、ただ、南無妙法蓮華経と唱えるか唱えないかで、諸法実相であるか、ないかということになる(中略)ありのままで、その姿それ自体であれば、安楽行品だ」と。
 ありのままの自分で、「ああ本当に満足だ」「我が人生は大勝利だ」となるのが信心です。それが「安楽」です。人間は、だれでも幸福を求めている。本当の揺るぎない安楽を求めている。ある人は、それを「蔵の財」に求め、ある人は、地位とか健康とかの「身の財」に求める。しかし、本当の幸福は「心の財」にある。その実体は「信心」という大境涯です。
 大聖人は「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」、「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」と仰せです。南無妙法蓮華経と唱える以外にないのだ、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて」南無妙法蓮華経と唱えていきなさい、と。
 欲望を満足させて得られる安楽ではない。「自受法楽」──こんこんと湧き出づる法楽を、みずから受けて楽しむ。そういう安楽の境涯が得られるのです。生命自体の安楽だから強いのです。
 大聖人は、「現世安穏・後生善処とは是なり」とも仰せられている。
 また、三類の強敵の出現こそ「現世安穏」の文の証明であると述べられている(御書八二五ページ)。
 須田 普通の「安穏」観とは正反対ですね。
 池田 難を避け、苦しみを避けて、何か、こそこそと生きていくような弱々しい生命ではないのです。「さあ何でもこい!」と。「さあ、また山を越えるぞ! 山をを越えた分、また人生を大きく楽しめるんだ。多くの人を救えるんだ」と。究極の「積極的人生」が大聖人の仏法です。
5  四安楽行
 池田 これまでの話を前提にして、四安楽行の内容を少し見てみよう。
 須田 はい。まず「身安楽行」です。ここでは、菩薩の「行処」すなわち「どう振る舞うべきか」と、「親近処」すなわち「人との交際はどうすべきか」が説かれます。
 「行処」とは「忍耐強く、柔和で、乱暴でなく、おそれおののくことなく、何ものにもとらわれず、物事をありのままに見て、みだりに決めつけることがない」と。これらは一つ一つ大事なことですね。
 「親近処」では、誘惑されて仏道の志を失いそうなところへは近づくなと言っています。権力者のところや遊興の場所に行くなとか。男性は女性に、やさしい心をもって、法を説くなとか。そして、それらの根本姿勢を「一切は空であるから、有であるとか無であるとか、とらわれの心で見てはいけない」と説いています。
 斉藤 大まかに言って、人間としての振る舞い、常識やエチケットを教えています。″悪縁″に近づかず、″偏見や邪見″などにとらわれるなと、用心を教えているのではないでしょうか。
 須田 次に「口安楽行」。これは、「口のきき方」についての注意です。経典や法師の悪口を言ってはいけない。他人の、ここが好きとか嫌いとか、ここがいいとか悪いとか言ってはいけない。名前をあげて人をけなしたり、ほめたりしてはいけない、などです。まさに摂受ですね。
 遠藤 ただ、あくまで法を説くにあたっては「方便を用いて皆を発心させ、次第次第に仏道に入らせよ」「慈しみの心をもって説け」「昼も夜も常に、無上道の教えを説き、多くの因縁、譬喩を語って、衆生を歓喜させよ」「質問を受けたら、小乗の教えではなく、大乗の教えによって答え、一切のありのままを知る智慧を得させよ」「多くの人々が仏道を成就することを、心に念ぜよ」等と強調しています。
 これらは、今でも通じる仏法のリーダーの振る舞いを教えたものと考えてよいのではないでしょうか。
 池田 ″何かを与える″のがリーダーです。ひとことでもいい。「お疲れのようですね。お忙しいんですか」「ご主人は、お元気ですか。かぜをひかれないようあたたかくしてくださいいね」「いつも、すばらしい会場を使わせていただいて、ありがとう」。
 たとえば、せんべいの一枚、みかんの一個でもあれば、小さい袋か何かに入れてね(笑い)、「よろしかったら、帰りにでも召し上がってください」と。何でもいいんです。どうすれば皆が元気になるか、どうすれば希望を与えられるか、安心を与えられるか、つねに考えていくのがリーダーです。
 須田 次は「意安楽行」です。ここでは「法華経を説くにあたっては、妬み、怒り、驕り、へつらい、いつわりの心を捨てよ」と教えています。そして「仏法を学ぼうとする人をバカにしたり、悩ませたり、疑いを起こさせてはいけない」「法を弘める人を尊敬しなくてはならない」と言っています。
 斉藤 これも大事なリーダーの姿勢ですね。
 池田 とくに注目したいのは、「法を説く相手が、深く法を愛しているから、その人には多く説き、そうでない人には少なく説く、ということがあってはならない」と注意している点です。
 現代に広げて言えば、仕事や子育て、家族の介護などで忙しくて、なかなか活動に参加できない人がいる。また、自分では信仰しているけれども、何らかの理由で組織に出づらくなってしまう場合もある。そういう方々をこそリーダーは包容し、親身になって話を聞き、励ましていきなさいということになるでしょう。
 須田 最後は「誓願安楽行」です。法華経を受持する者は、人々に大慈大悲の、心を起こし、次のように思いなさい、と。
 「ああ、この人は、仏が、この人にふさわしいように法を説いてくださっているのを、聞かず、知らず、信ぜず、理解しようともしないけれども、私が最高の境地を得た時、私は、どこにいようとも、この人を仏法から離れないようにさせよう」。
 斉藤 どんなに″わからずや″の人でも(笑い)、絶対に見捨ててはならないということでしょうか。
6  我らの誓願は「人間を救え!」
 池田 戸田先生は、この「誓願」について、おっしゃっていた。
 「(安楽行品の)誓願なんて、とってもノンキなものだよ。『もし、自分が仏になったら助けてやる』という、誓願を立てるのだ。そうなれば安楽だろう。折伏なんか、今すぐすることないから。『ワシが仏になったらそのときに縁を結んだヤツは助けてやる』と」
 自分が仏になったら救ってあげようというのは、まだまだ無慈悲なのです。
 遠藤 たしかに、誓願の経文では「自分が最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得た時に」人々を救うとあります。法華経を求めず信じようとしない人々を、「自分が悟った後に」救おうと言うのです。
 斉藤 本来は、一切衆生を救い尽くすまで自分は成仏しない」という強烈な誓願をもつのが真の菩薩ですね。
 遠藤 それこそ、学会の同志だと思います。安楽行品の誓願とは比べものにならないほど偉大な実践をしています。草創の方々は、自分がどんなに貧しくて、苦しい生活をしていても、他人を救うために必死で正法を教えに歩いたのですから。
 斉藤 「この信心をしたら、絶対に幸せになれるのよ」と語っても、相手から「あんたが金持ちになったらやってやるよ」とバカにされ、ののしられ、追い返された。それでも、毅然として正義を叫びきってこられました。
 池田 あまりにも崇高です。自分のことなど後まわしにしても悩める人を救う。″それこそが真の菩薩なんだ。地涌の菩薩の心意気なんだ″──皆、この誇りに燃えていた。だから、身は貧しくとも、心は幸福であった。境涯は大富豪であった。慈悲の折伏をやりきった時点で、その相手よりも根本的な「安楽」の境涯になっていたのです。
 斉藤 このすばらしい「菩薩の行動」で、今日の大創価学会が築かれてきたのですね。
 池田 ロマン・ロランは叫んでいる。
 「自分の魂が救われるか救われないかということにばかりこだわっていれば、救われることからかえって遠ざかる。君が君自身を救いたいなら、人間を救え! もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ! そうすれば、それ以外のたいせつなことはみな君につけ加わって来るだろう」(『内面の旅路』片山敏彦訳、『ロマン・ロラン全集』17所収、みすず書房)と。
 この究極を実践しているのが、我が地涌の同志です。「貧乏人と病人の集まり」と、ののしられながら、心は人間王者であった。じつは本来、仏でありながら、そういう姿をとって、妙法を証明してきたのです。学会の世界は、地位でもない、学歴でもない、財産でもない、真の「人間としての偉大さ」を追求する世界なのです。
 遠藤 名もないご婦人が、大学教授に堂々と仏法を教えているといった光景も、学会ならではですね。
 須田 多くの人は、学歴や名声や財力があると、それだけで″偉い人″のように見てしまう。とくに近年の日本は、外面だけで人間を″ランクづけ″しがちです。
 遠藤 政治家たちが、発展途上の国々を見下ろして傲慢な発言をするのも、同じ心理ではないでしょうか。
 池田 そういう「差別の心」が、子どもたちの世界にも「いじめ」となって深刻な影を落としていると言えるでしょう。
 須田 こうした、がんじがらめの″序列社会″を根底から変革してきたのが学会の運動ですね。
 斉藤 日本がここまで硬直的な学歴社会になってしまった理由として、ある識者は、日本人が無宗教であることをあげています。たとえば神の下に、だれもが「平等」に集い合うような信仰の場があれば、今日のような序列社会にはならなかったはずだと。
 遠藤 宗教の社会的な意義についての洞察ですね。
 池田 仏法は「人間」そのものを見る。その人の「心」「生命」を見るのが、仏法です。
 仏眼・法眼で見れば、仏教徒ではなくとも″菩薩界″の人がいる。反対に、仏教徒でも″外道″の人がいる。見かけは信心しているようでも、心は″餓鬼界″の人もいる。「何教徒か」を見るのではない、その人の生命が「何界か」を見るのが仏法なのです。そしてすべての人の中の仏界を開くための仏法です。世間は「差別(差異)」の世界である。仏法は「出世間」です。出世間とは、あらゆる表面の差異を超えて、人間の「いのち」を見るということです。
7  宗教対話=人類を真の安楽へ運ぶ
 斉藤 同じ「人間」であるという一点を貫けば、どんな宗教とも対話によって対立を克服していけるのではないでしょうか。
 池田 その通りだ。「人間として」の一点に、仏法の平和思想の核心がある。相手の人格を尊重し、人間として、対話もできないようでは、宗教は人類を、不幸にする一方です。
 斉藤 昨年(一九九五年)、制定されたSGI憲章は「SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」とうたっています。その根本精神も、ここにありますね。もちろん、その信仰者が利害や売名でなく、人間として誠実に人類の幸福を追求していることが大前提ですが。
 池田 もともと世界宗教の始祖といわれる人たちは、一個の吃立した「人間」であった。マハトマ・ガンジーは言っています。
 「世界で最も偉大な人は常に一人立つ。偉大な預言者たち──ゾロアスター、仏陀、イエス、マホメット──を見よ。彼らはすべて一人立っている」(『直接行動』浦田広朗訳、『私にとっての宗教──マハトマ・ガンディー』所収、新評論)と。ガンジー自身も含めて、人類の平和と幸福のために決然と立ち上がったのです。大誠実の闘争です。
 戸田先生は、「世界の大宗教の宗祖が皆、集まって会議を開いたら話は早いのだ。人類をどう幸福にするか真剣だから、すぐに話が通じるはずだ」と言われていた。この精神で私も「文明間の対話」に走っているのです。
 須田 その点、現代世界で、政治的な紛争のために宗教が利用されているケースがあまりにも多いのは悲しいことですね。
 遠藤 日本でも、学会を独善的・排他的だなどと決めつけてきた一部の勢力が、政治権力と結託して国民の「信教の自由」を脅かしています。これなどもひどい矛盾です。「寛容」を口にしながら、宗教弾圧という、最も「不寛容」な行為に手を貸しているのですから。
 斉藤 日本人の浅はかな宗教観の象徴ですね。陰謀や暴力は、それ自体、宗教の自殺行為であり人間性の敗北です。
 須田 本来、宗教の優劣は、″教義″の深さは当然として、実践者の″行動″と″人格″に現れるべきです。その宗教を実践する人が、いかに人権を尊重し、生命を守り人類を励ましているか。この事実の姿が、ますます問われてくることでしょう。「道理証文よりも現証にはすぎず」です。
 池田 牧口先生は、「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から、やがて「人道的競争」の時代が到来すると予見されていた(『牧口常三郎全集』2)。すなわち、武力よりも、権力よりも、経済力よりも、″精神の力″″人格の力″が問われる時代です。ますます世界は、その通りに進まざるを得なくなってきている。
 須田 牧口先生の偉大な先見性に改めて感動します。
 池田 これが私どもの先師です。創価学会の誇るべき創立者です。牧口先生、戸田先生の偉大さは、ますます大きく世界に輝いていくにちがいない。否、断じてそうするのが弟子の使命です。そのためにも、われわれはこの「世界市民の輩出競争」で、堂々と実証を示しきっていかなくてはならない。
 ともあれ、宗派や主義主張の違いを超えて、全人類を「安楽」の境涯に運んでいく。そこに法華経の「智慧」がある。その根本は「対話」です。われわれの前進は、紛争に明け暮れてきた人類の宿命を変える大運動なのです。このことを誇りとし、二十一世紀へ胸を張って進んでいこう。
8  言論の「法輪」を打ち出せ
 遠藤 安楽行品の最後の部分では、「髻中明珠けいちゅうめいしゅの譬」が説かれています。
 ──転輪聖王は、兵士たちの武勲に対して、武具や田畑や家や財宝など、あらゆる物を褒美として与えた。ただし、髻(髪を頭の上で束ねた部分)の中の明珠だけは誰にも与えなかった。なぜなら、この明珠は、王の頭上に、ただ一つだけあり、もしこれを誰かに与えれば、家臣たちは大いに驚いて怪しむだろうからだ。
 しかし、本当に大きな功労があった者には、王は喜んでこの髻中の明珠を与えるであろう。この転輪聖王と同じように、仏も、第一の法華経を長い間、誰にも与えず胸中に秘めてきた。それを今初めて、あなたたちのために説くのである──と。
 須田 転輪聖王は、インドの理想の王です。法華経がどれほど偉大な、あいがたい教えであるかを譬えたものです。転輪聖王が明珠を誰にも与えなかったというのは、釈尊が真実の教えを説かず、ずっと爾前・権教を説き続けてきたことを示しています。
 池田 この転輪聖王は、車輪の形をした「輪宝」という武器をもっていた、とされるね。
 斉藤 はい。これを転がして、悪を砕き、国内を統治するといわれています。「輪宝」は、戦車の車輪とも、敵陣に投げ込んだ武器ともいわれます。
 池田 王が「輪宝」を転じたごとく、仏は「法輪」を転じるのです。王の輪宝がハード・パワーであったのに対し、仏の法輪は言論による最高のソフト.パワ−といえると思う。
 斉藤 「法輪を転じる」ことから、仏の説法を「転法輪」といいます。初の説法を「初転法輪」といいますね。
 池田 仏教は本来、縦横自在の「対話」の宗教です。対話・言論という″武器″で平和のために戦っていくのです。
 大聖人は転輪聖王について「わずかな間に、全世界をめぐる」(御書一〇二四ページ、趣意)と説かれている。
 友から友へ、ここからかしこへ、国から国へと、「法輪」を次々に転じ、自由自在に弘めていく。悪に対しては、破折の精神で、敢然と戦う。これが仏の闘争です。
 以前、平和学の父ガルトゥング博士も、仏教の思想を「車輪」にたとえておられた。
 仏教は本来、開放的であり、車輪が回転するように、つねに新しき知恵を発揮しながら、その時代その時代の問題に取り組んでいく──と。
9  遠藤 創価学会の運動も、まさに、この通りですね。
 須田 博士は、先生との対談でこう言われていました。
 「車輪は動いています。名誉会長は、車輪の動きのごとく、『行動』によって仏教の運動を発展させておられる。仏教思想の車輪を回転させることによって、『東洋』と『西洋』を結ぶ原動力を与えてこられたように思います」(「聖教新聞」一九九〇年十月二十五日付)と。
 池田 仏教の教えそのものが、決して硬直していない。偏狭なドグマ性から自由であり、社会に開かれている。博士は、ここに注目しておられる。
 須田 仏教が、社会の中に生き生きと脈動する宗教であることを実感します。
 池田 日々、それを実践しているのが学会の同志です。言論という「法輪」を回して、来る日も来る日も、社会に平和の価値を生み出している。これほど崇高な姿はありません。
 一軒また一軒、こつこつと激励や弘教に歩く。一人また一人と、友から友に仏法を語っていく──。その行動こそ「転法輪」です。妙法を世界に転じ広げゆく「広布の転輪聖王」の行動です。その福運は永遠です。
 「御義口伝」には「三世常恒に生死・生死とめぐるを転輪聖王と云うなり」と仰せになっている。今、行動した分だけ、来世も、次の生も、また次の生も、あるいは社会の大指導者となり、あるいは大科学者となり、大文豪、大経済人、大学者となり、また庶民の無名の王者となり、あらゆる長者の姿をとって、妙法を根本に人々を救っていけるのです。
 大聖人は「霊山浄土に安楽に行詣す可きなり」と仰せです。生きている間も、死んでからも、喜びに満ち満ちて霊山浄土へ行ける。生きていること自体が楽しいということです。生も歓喜、死も歓喜ということです。そうなるためには、御本尊に唱題することが楽しい、友に仏法を語ることが楽しいとなればいい。勤行が苦しくて苦しくてというのではダメです(笑い)。御本尊が慕わしくならなければ信心はウソです。
10  斉藤 そうなれば本当に揺るぎない「安楽」ですね。
 遠藤 「難即安楽」という大聖人の教えは、そうした永遠にわたる大境涯を築くための王道なのですね。
 池田 「大難」と戦って、生命を鍛えに鍛えて、屹然たる自分をつくり上げることだ。そこにこそ真実の「安楽」がある。ダンテの境涯革命の書『神曲』にこうある。
 「この山は、裾の登り始めこそ難儀なれど、
 登るにつれて、苦労が減るようになっている。
 されば、身も心もうらうらと楽しく、
 登るのが、船で流れを下るほど気楽に思われてくる」(煉獄篇第四歌、寿岳文章訳、集英社)と。
 「いざ登りゆけ、汝は雄々し」──こう呼びかけているのです。
 山を登れば、自分の境涯も上がる。谷に下れば、楽かもしれないが、最後は苦悩の人生です。
 絢爛たる創価の世紀の幕は上がり始めました。全同志が一人ももれなく、「広宣流布の山」という無上道を登攀しぬいてもらいたい。
 そして、汝自身の揺るぎなき「安楽」の境涯の王座を、晴れ晴れと勝ちとってもらいたい。それが私の祈りなのです。

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