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日蓮大聖人・池田大作

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提婆達多品(第十二章) 竜女成仏――大…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  「即身成仏の現証」の衝撃
 須田 まず提婆品での流れを見ておきます。
 提婆達多への授記が終わると、多宝如来についてきた智積菩薩が本土(宝浄世界)に帰ろうとします。智積とは″智慧が積み重なっている″という意味ですから、頭がよくて察しが早かったのでしょう。悪人成仏を聞いて″令法久住(釈尊の入滅後、法華経を弘めること)の勧めは、もう終わった″と思ったのかもしれません。
 遠藤 しかし、早とちりだった(笑い)。釈尊の説法は、まだ終わっていませんでした。
 池田 そう。智積にもわかっていないことがあった。それが「即身成仏」だね。
 須田 はい。そこで釈尊は智積を引きとめ、「文殊師利菩薩と妙法について対話をしてから帰ったらどうか」と提案します。すると、大海の竜宮で弘教していた文殊師利菩薩が、教化した多くの菩薩たちを引き連れて虚空会に出現します。
 そこで智積と文殊の対話が始まります。まず、智積が文殊に「あなたは竜宮でどのくらいの衆生を化導してきたのか」と尋ねます。文殊は「竜宮おいて、もっぱら法華経を説いて無量の衆生を化導してきた」と言い、さらに「竜王の娘であるある八歳の竜女が法華経を聞いて即座に悟りを得た」と語ります。
 しかし、智積はそれを信じようとしません。仏の悟りは菩薩が無量劫の間、難行苦行を重ねて初めて得られるものであって、竜女が短い時間に成仏したなどということは、到底信じられないと言うのです。
 斉藤 文殊の竜宮での弘教は、宝塔品(第十一章)が説かれているわずかの間であったと大聖人は仰せです。そのわずかの間に、文殊は多くの衆生を教化し、竜女は悟りを得たのですが、それは全部、「法華経の力」を示しているとも仰せです。
 (「文殊の教化によりて海中にして・法師・提婆の中間わづかに宝塔品を説かれし時刻に仏になりたりし事は・ありがたき事なり、一代超過の法華経の御力にあらずば・いかでか・かくは候べき」)
 池田 智積は、その「法華経の力」がわからなかった。だから竜女が即身成仏したといっても信じられなかった。「不信」です。妙法への不信は、日蓮大聖人が「根本無明」と言われている。それは自分自身の生命に暗いことであり、結局、自分自身の生命への不信です。また大聖人が、智積の不信を「別教の意なり」と仰せのように、菩薩の五十二位など、「多くの段階を経なければ成仏できない」という考えを智積は代表しています。
 これに対し、竜女は、法華経という円教を代表している。旧思想の男性軍に対して、新思想を身をもって示しているのが竜女なのです。
 提婆品は、そういう「思想劇」の側面を強くもっている。深遠な内容を、劇的なストーリーによって表現しています。だから聴く人を飽きさせない。
 遠藤 次のところもそうですね。智積が不信の言葉を言い終わらないうちに、突然、竜女本人がその場に現れます。
 須田 ドラマチックですね。
 遠藤 竜女は、釈尊にあいさつして言います。「仏のみが自分の成仏を知ってくださっています。私は大乗の教え(法華経)を開いて、苦悩の衆生を救ってまいります」(法華経四〇七ページ、趣意)と誓うのです。
 池田 「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」(同ページ)。有名な言葉です。すばらしい言葉です。
 ″皆は自分をバカにしているかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよい。真実は仏がわかってくれている。自分はただ、自分を救ってくれた妙法の力で、人々を救っていくだけだ″と。
 即身成仏とは、「苦しむ人を救わずにはおくものか」という仏の強い心を、我が身に開くことなのです。バカにされようが、差別されようが、にっこり笑って、悠々と、不幸の人々を救っていくのです。その人は、その身そのままで、仏と輝いていくのです。
3  須田 男性側は、わからずやというか(笑い)、このあとも「不信」の言葉が続きます。
 竜女の決意を聞いて、今度は、舎利弗が不信を表明するのです。舎利弗の不信の理由は二つあります。一つは、智積と同じで、仏の悟りは長い長い間の苦行によって得られるものだという固定観念です。
 もう一つは、女性は梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏には成れないという「五障」の説です。ここから、女性の身で速やかに成仏するなどということはありえない、と竜女を非難するのです。
 斉藤 天台大師は「身子(=舎利弗)は三蔵の権を挟んで難ず」(『法華文句』)と述べています。「五障」の説は「三蔵の権」つまりかりに説かれた小乗教の説ですね。
 遠藤 舎利弗は、ここでは、いわば小乗教の代表選手で、悪役です(笑い)。
 池田 これら「歴劫修行の成仏観」も「五障の説」も、竜女が即身成仏の現証を示すことによって、見事に破折されるわけだね。
 須田 はい。竜女は、三千大千世界すなわち宇宙全体の価値に等しい一つの宝珠を取り出して、釈尊に奉ります。釈尊は、これを直ちに受け取ります。そして、竜女は、これを見ていた舎利弗に対して、自分の成仏は、この宝珠の受け渡しよりも速やかなのだと言い放ちます。
 池田 象徴的な表現だが、根本的な破折になっている。
 「宇宙全体と同じ価値を持つ宝珠」とは、宇宙の根源の法である「妙法」を象徴しています。また、妙法の当体である自身の「生命」の象徴であると言ってもよいでしょう。
 それを仏に捧げるということは、かけがえのない自分の身命を捧げることです。つまり、帰命であり、南無することであり、信心です。
 宝珠を仏が受け取ったということは、竜女の生命が仏と一体になったということであり、竜女の成仏を仏が証明しているのです。また宝珠とは一念三千の宝珠のことです。仏にそれを捧げたとは、竜女が一念三千の妙理を悟っていることを表している。
 遠藤 「御義口伝」では、こう仰せです。「竜女が手に持てる時は性得の宝珠なり仏受け取り給う時は修得の宝珠なり」と。
 性得の宝珠とは竜女が本来具えている仏性であり、修得の宝珠とは、仏性を修行によって現したということでしょうか。
4  女性が成仏してこそ男性も成仏
 池田 だれもが「性得の宝珠(仏性)」をもっている。一切衆生が平等に「宝珠」を生命にもっているのです。そう見るのが十界互具であり、一念三千であり、法華経です。十界の中には畜生界もある。竜女は畜身ですが、当然、畜生界にも仏界が具わっている。しかし、差別観にとらわれた目には、それが見えない。
 生きとし生けるものに仏界を観る法華経です。女性への差別など、微塵もありようがない。女性は成仏できないなどというなら、それは一念三千ではありえない。一念三千を否定するならば、自分自身の成仏もない。
 ゆえに、竜女の成仏は、全女性の成仏を表すだけでなく、じつは男性の成仏をも表しているのです。女性の成仏を否定する男性は、自分の成仏を否定しているのです。皆、そこが、なかなかわからない。
 斉藤 前に、二乗作仏のところで、菩薩たちが、「二乗は成仏できないが自分たちはできる」と思い込んでいた。しかし、一念三千がわかってみると、二乗が成仏できないとしたら、自分の生命の二乗界も成仏できず、自分の成仏もなかったのだと気がつく──それに似ていますね。
 須田 「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏」ということが、菩薩たちには、わからなかった。
 池田 人ごとだと思っていたのです。しかし、どんな差別でも、だれかを差別するということは、自分自身の生命を差別することなのです。だから竜女は、この時、舎利弗や智積に向かって、こう叫びます。「汝が神力を以って、我が成仏を観よ」(法華経四〇九ページ)と。
 大聖人は、この叫びを、「舎利弗竜女が成仏と思うが僻事なり、我が成仏ぞと観ぜよと責めたるなり」「舎利弗よ、これを『竜女の成仏』と思うのが見当違いなのだ。『我が成仏』なのだと観ていくのだ」と(竜女が舎利弗を)責めたのである──と仰せです。
 遠藤 舎利弗も智積菩薩も、やられっぱなしですね(笑い)。
 そもそも菩薩は「一切衆生を成仏させてから、その後に自分も成仏しよう」という誓願を立てています。一切衆生の半分は女性ですから、女性が成仏しない限り、自分も成仏しないのは、当然といえます。
 須田 しかし、差別意識の根は深い。理論だけでは、なかなか、そのとらわれを除くことはむずかしいものです。その意味で、提婆品の象徴的な表現は、「現証」によって女人成仏を教えようとしていると思います。
 池田 そうかもしれない。次の「変成男子(変じて男子と成って)」(法華経四〇九ページ)のところも、具体的に成仏の姿を示したものです。
 須田 はい。「我が成仏を観よ」と叫ぶや、竜女は、人々の見ている前で男性に変わります。さらに南方の「無垢世界」に行って、成仏の証明として皆にわかるように、「三十二相・八十種好(仏に具わる理想的特長)」を具え、一切衆生に妙法を説いている姿を顕して見せるのです。その姿を、はるかに見た娑婆世界の衆生は大いに歓喜し、最敬礼しました。
 そして、彼らも不退転の境地を得て、成仏の授記を受けました。これらの「現証」を眼前に見て、智積菩薩と舎利弗は沈黙せざるを得ませんでした。提婆品は、ここで終わっています。
 斉藤 この「変成男子」について、成仏するために男性の姿に変わらなければならないというのであれは、やはり女性はまだ差別されているのではないか、という意見があります。
5  変成男子は″わからせるため″の方便
 池田 いや、それは違う。竜女の成仏は、あくまでも「即身成仏」です。女性の身のままで成仏したのです。
 変成男子は、舎利弗をはじめ、成仏は男性に限られると思いかんでいた人々に対して、竜女が成仏したことを、わかりやすく示すための方便にすぎないでしょう。男性にならなければ成仏できないという意味ではないのです。
 そのことは、一番初めに文殊菩薩が竜女のことを紹介するくだりで、すでに明確です。竜女がすでに成仏していると文殊菩薩は語っているのです。
 遠藤 少し長いですが、大事なところなので読んでみます。
 「娑竭羅龍王しゃからりゅうおうの女、年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説の甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って、諸法を了達し、刹那の頃に於いて、菩提心を発して不退転を得たり、弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶、赤子の如し。功徳具足して、心に念い口に演ぶること、微妙広大なり。慈悲仁譲、志意和雅にして、能く菩提に至れり」(法華経四〇五ページ)
 (娑竭羅龍王の娘は、年はやっと八歳である。智慧にすぐれ、衆生のさまざまな素質がどのように現われるかを知っている。法の精髄を記憶して忘れずに、悪を防ぐ力を得ている。多くの仏が説いた奥深い秘蔵の法を、ことごとく受持できている。深く禅定に入って、諸法を完全に会得し、悟りを求める心をおこして、もはや退くことのない境地を一瞬のうちに得た。その弁舌の才能は自由自在であり、衆生を慈しみ、常に思っていることは、あたかも母が赤子に対するようである。あらゆる修行の功徳を具え、心に思い、口に述べることは、深遠で素晴らしく、また広大である。慈悲があり、情けは深く、心は穏やかで優雅で、よく悟りに到達した)
 池田 まさに仏の姿です。また理想の女性像、人間像とも言ってよいと思う。
 斉藤 「諸法を了達し」「不退転を得」、人々を救う慈悲と智慧と力を具え、「能く菩提に至れり」というのですから、すでに成仏していたということですね。
 また竜女自身が自分のことを「菩提を成じた(悟りを得た)」と言っています。
 遠藤 竜女は、通常の成仏観から見れば、いちばん成仏に遠い条件を備えているように見えます。つまり、(1)畜身であること(2)女性であること(3)八歳という年少てあること──の三つです。竜女が成仏したといっても、外面の姿だけを見ていたのでは、とてもわかりませんし、人々には信じられなかった。
 そこで、舎利弗らの低い機根に合わせて(笑い)、わからずやの人々が「これならわかる」という姿を示した。これが「変成男子」ということでしょうか。
 池田 そうなるでしょう。「変成男子」は、他の大乗仏典の中でも多く出てきます。これも、本来、大乗仏教の「空」の立場から言えば、男性・女性という違いにこだわること自体、おかしな話だし、理論上はまったく必要がない。しかし、それが説かれた時代に、「女性がその身そのままで仏に成る」という思想には、大きな抵抗が予想されたのでしょう。
 遠藤 当時のインド社会は女性差別の社会ですから──。また仏教においても、それまでの小乗教においては、女性は強く差別されてきました。だから、たしかに、「いったん男性に成ってから成仏する」と説いたほうが、クッションがあって、受け入れられやすかったと思います。
 須田 いわば″妥協の産物″でしょうか。
 池田 そういう面があるでしょう。本来、仏教は、生きとし生けるものを、ひとつの黄金の大生命の個々の現れと観る。それが釈尊の悟りです。それを「縁起」とも言い、「空」とも言い、「妙法」とも言うのです。その悟りの眼から見れば、男女間の上下の差別など、ありえない。ただ、その「法」を社会に広め、定着させていくには、どう説けば受け入れられるかを考えなければならない。「随自意」(悟りそのものを、そのまま示すこと)の信念の上に、「隋他意」(人々の機根や傾向に従って説き、次第に悟りに導くこと)の智慧が必要な場合がある。
 法華経以前の大乗仏教の「変成男子」説も、よく言えば、″女性は永遠に成仏できない″としていた小乗の思想を打ち破る革命的な教えだったとも言える。
 斉藤 いきなり真実そのままを説いても、抵抗が大きすぎたということですね。そして法華経に至って、初めて「随自意」の「女性の即身成仏」を宣言した。
 池田 ただ問題は、そういう「社会への適応」のなかで、宗教者自身が、しだいに社会の差別意識にとらわれてしまう場合です。それでは「法」は、ゆがめられてしまう。その結果、ゆがんで伝えられた教えが、社会の差別意識をさらに助長し、固定化する″悪″となることも多い。
 仏教の女性観を歴史的にたどっても、そういう紆余曲折があったのではないだろうか。
 遠藤 そう思います。舎利弗が語った「五障説」(女性は梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏にはなれないと説く)は、その典型です。
 この説は、釈尊滅後に、出家憎が権威主義化した小乗仏教(部派仏教)の時代にできたとされます。小乗仏教では、当時のインド社会の差別主義に影響されて、女性と在家に対するあからさまな差別が行われるようになっています。そこには多くの男性出家者がバラモン出身であり、その体質を捨て切れなかったという事情が背景にあるかもしれません。
6  差別社会と戦った釈尊
 須田 女性差別は、釈尊の精神にまっこうから背くものですね。釈尊の時代のインド社会も、極端な女性差別の時代でした。バラモン教の経典にも、女性に対する″悪口雑言″が、おびただしく並んでいます。
 そのなかで、釈尊が女性をまったく差別しなかった。熟慮した結果、女性が出家修行者になることも認めています。
 釈尊の育ての親であった摩訶波闍波提比丘尼、出家以前の妻であった耶輸陀羅比丘尼も出家しました。当時、これは画期的なことだったと言われています。
 遠藤 バラモン教では、出家も男性に限られていましたからね。
 須田 ところが、仏教においては、釈尊の在世も、釈尊の滅後まもない時代にも、多くの女性出家者が活躍しています。
 その様子は「テーリーガーター」というパーリ語仏典にうかがえます。中村元博士は、『尼僧の告白──テーリーガーター』(中村元訳、岩波書店)の「あとがき」で次のように述べています。
 「尼僧の教団の出現ということは、世界の思想史においても驚くべき事実である。当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、〈尼僧の教団〉なるものは存在しなかった。仏教が初めてつくったのである」と。
 比丘尼たちの、かつての境遇もさまざまでした。中村博士は述べています。
 「尼僧も、かつて世俗の生活のうちにあった時には、唯の女人であった。彼女らは濁悪の世に生き、この世に生きる苦しみ、つらさをつぶさに体験していた。夫に死なれ、子を亡い、人々にさげすまれ、生きて行くのがやっとのことであったという人々もいた。男運が悪くて、何度結婚しても破局を迎えるという、気の毒な、不運な女性もいた。(中略)あまりのつらさにみずから死を決意した人々もいた」と。
 もちろん、なかには裕福で、才能や美貌に恵まれた女性もいました。しかし、そういう女性も老いと死の問題に直面して苦悩せざるを得ませんでした。釈尊が、さまざまな女性に対し、「ここに幸福への道がある」と教えたのです。
7  池田 こういう悩みは今も同じですね。釈尊は出家・在家を差別しなかったから、在家の女性にも平等に幸福への道を示したことはいうまでもない。また、在家の女性信者の中には頻婆娑羅王の妃(韋提希夫人)や阿踰闍国の王妃(勝鬘夫人)などもいたが、釈尊の態度は、庶民と接する態度と変わらなかった。
 「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」(『ブッダのことば──スッタニパータ』中村元訳、岩波書店)という有名な言葉がある。釈尊は厳しい差別社会にありながら、身分や性別、出身、僧俗の違いなどは、まったく問題にしなかった。だからこそ保守的な差別主義者から危険人物とされ、迫害されたともいえる。
 遠藤 釈尊の平等の精神は、初めのうちは、教団内に生き生きと脈動していたようです。ある尼僧は、女性は絶対に悟りを得ることができないと囁く者に対して、堂々と言い返しています。「心も安定している、智慧も現に生じているとき」、悟りを得るのに「女人であることが、どうして妨げとなろうか」(前掲『尼僧の告白』)と。
 また、この尼僧の言葉を裏付けるような釈尊の説法も伝えられています。「男女の区別があるが、しかし人の本性に差別があるのではない。男が道を修めて悟りを得るように、女もまた道を修めれば、然るべき心の道筋を経て、悟りに至るであろう」(「律大品」、田上太秀『仏教と性差別』東京書籍)と。
 池田 男性であろうが、女性であろうが、その人が何をしたかによって、高貴にもなれば卑しくもなる。問題は「行為」である。「心」である。それが釈尊の精神でしょう。
 斉藤 もちろん初期の経典の中にも、釈尊の言葉として、女性についての厳しい表現が伝えられています。しかし、それは男性の修行者に対して、女性に迷うことなく修行するよう戒めたものと考えられます。
 遠藤 たしかに、女性に関する釈尊の説法は、出家者に対するものと在家者に対するものとでは、まったく違うという指摘もあります。
 出家教団の中で厳格な修行を続けさせるために説かれたものだけを見て、釈尊に女性差別があったと見るのは、正しくないと思います。
 須田 男性の出家者は二百五十戒、女性の出家者は三百四十八戒、五百戒と、女性のほうに厳しいのも、当時の社会背景と関係していると思います。
 また、それだけ女性が毅然としていてくれないと、男性はすぐに、ふらふら迷ってしまうということかもしれません(笑い)。
8  池田 少なくとも、こうは言えるでしょう。
 初期仏典に伝えられる釈尊の言葉が、どこまで釈尊の肉声を伝えているか、わからない。しかし「事実」として、釈尊は女性にも出家を許したし、厳格な修行をさせている。修行するのは当然、「修行すれば悟りが得られる」という大前提があるからです。その可能性がないならば、女性の修行者を許すはずがありません。この一点だけでも、釈尊の平等観はうかがえるのではないだろうか。
 『尼僧の告白』の中でも、「わたしの心は解脱しました」「もろもろの悲しみの起るもとである根底を、わたしは、知りつくして、捨て去った」「わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました」等々、釈尊が教えた平安の境地に達した喜びが次々に語られています。
 須田 こういう釈尊の精神は、小乗仏教(部派仏教)の時代になると急速に失われてしまいます。小乗仏教は釈尊を人間離れした存在として神格化しました。そして、人間はとても仏にはなれない、声聞の最高の悟りである阿羅漢の境地でさえも男性の出家でなければ得られないと主張するようになったのです。在家と女性に対する差別も公然と行われるようになりました。そういうなかから、提婆品で舎利弗が語ったような「五障説」も生まれたとされています。
 遠藤 釈尊が入滅して百年後(二百年後説もある)と言われているアショーカ王の時代でも、すでに僧侶の堕落が指摘されています。権威と差別に傾いて釈尊の心を見失った小乗仏教。これに対し、″釈尊の精神に帰れ″という「ルネサンス運動」を起こしたのが大乗仏教です。
 そこで大乗経典では、さまざまな形で「女人成仏」が説かれるようになりました。たとえば「無量寿経」や「大阿弥陀経」にも阿弥陀如来の本願の一つとして「女人往生」があります。もちろん女性の身のままでは浄土に往生できないわけですが。
 また「勝鬘経」や「維摩経」では「空」の法理を強調して、男女という区別にとらわれること自体が迷いであり無意味であると主張し、小乗仏教の女性差別を批判しています。
 斉藤 「変成男子」の形で女人成仏を説く大乗経典は、たくさんあります。「宝積経」「大集経」「般若経」などです。
 提婆品で竜女の「変成男子」が説かれるのも、こうした大乗経典の延長にあると一往は考えられます。しかし、法華経では即身成仏を説いているわけで、変成男子を成仏の条件にしているわけではありません。ですから、これらの経典と根本的に異なると言えます。
9  池田 法華経では、悟りにおいても修行においても男女平等です。
 たとえば法師品(第十章)では「是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣が著、如来の座に坐して、爾していまし応に四衆の為に広く斯の経を説くべし」(法華経三六六ページ)とある。善男子・善女人すなわち男女が等しく仏に代わって法を説く資格があることを宣言している。
 勧持品(第十三章)では、女性に成仏の授記が与えられています。
 また不軽菩薩が「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず」(法華経五七七ページ)と礼拝した相手も、在家と出家の男女です。
 女性が成仏することが当然の前提になっています。ですから日蓮大聖人が「女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず」と仰せの通りなのです。
 「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」ともある。
 遠藤 「改転の成仏」というのは変成男子のように、その身を改めて成仏するという思想ですね。
 その身を改めなければならないとすること自体、じつは十界互具・一念三千がわかっていないことです。一念三千という生命の実相を離れれば、いくら成仏できる、浄土に往生できると言っても、″空手形″のようなもので、実際には成仏の実体はない。そこで「有名無実」(名のみ有って、実体はない)」と仰せです。
 須田 日蓮大聖人の仏法においては、男女の平等観は徹底されています。
 有名な「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」──末法で妙法を広宣流布していくにあたって、そこに男女の差別・えりごのみは絶対にあってはならない──の御文もそうです。
 また「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり」とも仰せです。
 斉藤 「日妙聖人」「光日上人」と、女性を「聖人」や「上人」の称号で呼んでおられる。この事実にも、大聖人の女性観が表れていますね。
 池田 そのお振る舞いは、当時の日本の社会や仏教界にあって、際立っていた。大聖人ほど女性をたたえ、女性を尊敬された仏法者はいなかったでしょう。
 須田 当時、伝統仏教界は、比叡山にしても高野山にしても、東大寺、醍醐寺も、いわゆる旧仏教の官僧寺院は女人禁制です。また鎌倉新仏教と呼ばれる念仏・禅宗なども、それなりに女性救済に目を向けましたが、あくまで、男性の身に変わってから成仏する、往生するという説でした。
 池田 そういうなかで大聖人は「法華経の行者は男女ことごとく世尊に非ずや」と宣言されていたのだから、偉大だね。
10  日本で最初の出家者は「女性」
 斉藤 じつは、日本の仏教においても、初めから女性が排除されていたのではありません。たとえば、日本で初めての出家者は女性です。
 池田 たしか善信尼ぜんしんにですね。
 斉藤 はい。渡来人の司馬達等しばたつと(六世紀中ごろ、仏教伝来の初期に日本で活躍した)の娘とされています。五八四年に出家しました。彼女とともに出家した二人がいましたが、二人とも女性だったようです。これは当時、女性が仏教的に差別されていなかった例証と言えると思います。
 遠藤 その頃(六〜八世紀)は、女性の天皇が相次ぐなど社会全体に女性の地位が高かったのかもしれませんね。
 斉藤 奈良時代(八世紀)には、奈良の法華寺をはじめ、国分尼寺も各地に建てられました。別名を「法華滅罪の寺」と呼ばれ、法華経の功徳で女性の平安を願うことを目的としたものです。これも九世紀以後は衰亡し、廃寺になったり、男性の寺院になったり、その末寺になったりしています
 須田 その理由は、仏教の国家主義化の進展とか、神道との関係なども考える必要があると思います。いずれにせよ、インドと似て、日本でも仏教本来の平等観を貫くことは大変に難しかったことがわかります。
 池田 絶えず、″原点に帰れ──創始者の精神に帰れ″と、努力を続けなければならない。宗教といっても、所詮は「人」です。「人」で決まるのです。
 また別の角度から言えば、歴史はつねに変化、変化てす。今の男性中心社会も、いつまでも続くものではないし、続けてはなりません。
 斉藤 人類の歴史を見ると、紀元前の世界では、数千年以上にわたる長い母権社会が続いていていたわけですね。その後、男性中心の社会になったわけですからむしろ男性中心の社会のほうが、歴史的には短いと言えるかもしかません。
 池田 今後はどちらが中心ということではなく、まったく新しい調和の文明が必要でしょう。ともあれ、日蓮大聖人の平等観はじつに透徹しておられる。
 たとえば、大聖人は「一切衆生は性徳の竜女なり」と仰せです。一切衆生が、竜女としての性分をもっている。その意味で、男性も竜女である。だからこそ竜女は、自分の成仏は、舎利弗の成仏でもあると叫んだのです。
11  「人間として」輝いてこそ
 遠藤 そうしますと、仏法上、男女の違いはどう見るのでしょうか。
 男性も女性も一念三千の当体であるという平等面はよくわかるのですが、やはり、さまざまな違いが現実にはあると思うのですが。
 須田 一般によく言われるのは、男性の行動パターンが、どちらかといえば観念的・抽象的であるのに対し、女性の場合は直感的、現実的であると。偽者や嘘を、女性の鋭い直感で直ちに見抜くとか(笑い)。
 遠藤 何といっても女性には、子どもを出産できる性であるという根底的な特質があります。生命の誕生に直接関わっているという意味では、女性のほうが生命の基本的な次元により深く根差しているという意見もあります。
 斉藤 深層心理学でも、男性と女性の特質については、相当深く研究されているようです。たとえばユング派心理学の河合隼雄博士は、母性原理はすべてを平等に「包含する」機能によって示されるのに対し、父性原理はすべてのものを主体と客体、善と悪などに分割し、類別していく「切断する」機能によって示されると述べています(『母性社会日本の病理』中央公論社、参照)。
 池田 他にも、いろいろ見方はあるでしょう。問題は、それらの違いがはたして先天的で、あらゆる時代、あらゆる社会に共通する普遍的なものかどうか。それとも後天的で、その社会の文化・伝統によって形成された違いなのか。その線引きは極めてむずかしい。今後の諸学問の研究に期待したいと思う。
 たとえば、あるアメリカの女性による、こんな指摘があります。
 「男子は子どもの時から危険を冒してみるように育てられるが、女子は安全を求めるものとされた。(中略)かりに女子が危険を求めようとすれば、その子は男のようになりたくてそうしているというわけである。アドラー(=オーストリアの精神医学者)でさえ、女の子が木に登れば、男の子の真似をしたがっていると言い、女の子だって面白がって木に登るかもしれないとは思わず、男子と同じように女子も危険を冒すことで自主性を養えるとも思っていない」(グレース・ハルセル著『夢と自由と冒険と』堀たお子訳、サイマル出版会)
 この指摘が正しいかどうかは別にして、われわれの意識の中にある「男らしさ」「女らしさ」のイメージは、長い間の文化伝統によって深刻に影響されていることは事実です。
 その影響は言語、宗教、制度、教育、学問の在り方など、全社会の毛細血管にまで、しみ通っていると考えられる。ですから大事なのは、男性はこうすべきだとか、女性はこうすべきだとか、あらかじめ決めつけることではなく、第一にも第二にも「人間として」「人間らしく」生きていく努力ではないだろうか。
 仏法においても、男女の在り方について種々の教えがあるが、説かれた時代・社会における男性観・女性観が当然、反映されています。それらを一概に固定化することはできないでしょう。
 大切なことは、女性も男性も、人間として「幸福になる」ということです。幸福になるのが「目的」であり、他は「手段」です。「こうあるべきだ」と決めつけ、それが、どんなに正論のように見えても、それを実行して不幸になったのでは何にもなりません。また女性が不幸のままで男性だけが幸福になれるわけもない。
12  遠藤 よく分かりました。男性も女性も、「人間として」光り、その結果、おのずとにじみ出てくる男性らしい輝き。女性らしい光彩であればよいということですね。
 須田 アメリカにおける戦後のフェミニズム(男女同権論、女性解放論)の火つけ役となった本に、『新しい女性の創造(ベティ・フリーダン著、三浦冨美子訳〈改訂版〉大和書房)があります。原著の刊行は一九六三年です。その第一章は「満たされない生活」です。
 そこには、女性は夫と子供と家庭のことだけを心配すればよいという風潮のなかで、多くの女性が人知れず悩んでいた様子が描かれています。
 「ある女性は『どういうわけか無意味に感じるのです……満ちたりないのです』と言い、また『生きているような気がしないのです』とも言った。時には鎮静剤でこの気持ちを消す女性もいた。(中略)『疲れきった感じで……自分ではっとするくらい子供たちに腹がたつのです……わけもないのに泣き出したくなるのです』と訴える女性もいた」。
 「ある女性は、そんな気分になると、家から駈け出して、道をどんどん歩くのですと、私に話した。時にはどこへも出かけずに家の中で泣くのですとも言った」(同前)
 遠藤 そのころのアメリカの中産階級の女性といえば、広い芝生の庭と、進んだ電化製品、明るくて、豊かで──というイメージでしたね。日本でも、そういうイメージしか伝えられていなかったと思います。その裏側で、そういう「心のむなしさ」に苦しんでいた人々がいたわけですね。
 須田 「女性はこうあるべし」という押しつけに反発し、こういう女性を救おうというところに、今のフェミニズムの大きな動機があると思います。
 ですから、あくまで目的は女性自身の幸福の実感です。そこを見失って、フェミニズムの運動そのものが自己目的化した場合には、今度は逆の意味で、女性を「かくあるべし」と圧迫してしまうかもしれません。これは、あらゆる運動について言えることですが──。
 斉藤 議論が分かれるところでしょうね。フェミニズムにも多くの流れがありますから……。キリスト教においても「フェミニズム神学」が注目を集めています。
 キリスト教の神学における男性優位の傾向を批判したり、教義が男性による女性の支配の道具とされてきたことを批判しています。
 遠藤 女性差別の根源は「父なる神」という概念にあるとして、「父にして母なる神」と言いかえるべきだという主張もありますね。
 斉藤 こういう動きに対して、批判もありますが、その真摯さは評価すべきだ、と思います。
13  女性と男性──対立から調和へ
 池田 永遠の生命から見れば、男といい女といっても、ある人生では男性となり、ある時は女性と生まれ、固定的なものではありません。その意味でも、あらゆる人のなかに「男性的なるもの」と「女性的なるもの」が両方あると考えられます。
 須田 女性にも男性ホルモンがあり、男性にも女性ホルモンがあるようなものでしょうか。ちょっと次元が違うかもしれませんが(笑い)。
 池田 いや、分かりやすい譬えかもしれない(笑い)。ともあれ、一人の人間の中に「男性的なるもの」と「女性的なるもの」が調和していなければならない。それが人格の成熟であるし、自己実現でしょう。
 つまり、男性も、いわゆる「男らしい」だけでは粗暴になってしまう。女性の考え方、感性を理解できるこまやかさ、優しさが必要でしょう。女性の場合も、いわゆる「女らしい」だけでは十分とは言えないでしょう。
 現代の文化では男性的な特質とされている冷静・沈着な思考力、判断力、展望力などを具えていかなければ、自分自身を大きく開花させたとは言えないのではないだろうか。それは男性の女性化でもなければ、女性の男性化でもない。女性の男性化ならば、それは「変成男子」になってしまう。
 どんな社会においても、男性は男性らしさ、女性は女性らしさが、その社会なりに要求されます。その要求に適応すればするほど、それ以外の自分の特質が抑圧されてしまう面がある。それは、ある意味で、しかたのないことかもしれないが、だからこそ、男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに自分の人格を大きく育てていくべきではないだろうか。
 結婚の意義の一つも、こういう自己完成にあると思う。もちろん、結婚しなければならないという意味ではありません。
 遠藤 ある心理学者(E・ノイマン)は、こう述べています。「男性にとっても女性にとっても、昼と夜、上と下、父権的意識と母権的意識といった対立要素が結合して、それぞれ独自の生産性を発揮し、たがいに補完し合い、実らせ合うようになってはじめて、全一性に到達することもできるのである」(『女性の深層』松代洋一・鎌田輝男訳、紀伊國屋書店)
14  「女性的なるもの」を求めた詩人たち
 池田 なるほど。私は青春時代から、ダンテの『神曲』とゲーテの『ファウスト』に魅かれ続けてきた。何回か論じたこともあります。その両方とも、「女性的なるもの」への憧憬と賛嘆がつづられています。
 『神曲』は言うまでもなく、ベアトリーチェ(ダンテの初恋の女性)を天上界への導きの星として記されたものですし、聖母マリアが大きな位置を占めています。聖母マリア信仰そのものが、キリスト教信徒からの「女性的なるもの」への要求に応えるものであるとも論じられています。
 遠藤 キリスト教自体は、どちらかと言えば男性的な側面の強い宗教であり、その補完としてマリア信仰が高まったということが指摘されていますね。
 池田 ダンテは自分自身の人間としての完成のために、ベアトリーチェという理想化された「女性的なるもの」が必要だったとは言えないだろうか。
 また『ファウスト』の最後は、有名な次の言葉でしめくくられています。
 「永遠の女性的なるものこそ
 われらを高みのかなたへひいていく」(山下肇訳『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 ゲーテもまた、「全体人間」たらんとする精神闘争のなかで、男性として「永遠の女性的なるもの」を求め続けたのではないだろうか。
 この「全体人間」の究極が、一念三千を体得した仏となるのです。
 その意味で、提婆品に、提婆達多の「悪人成仏」と竜女の「女人成仏」が両方そろって説かれていることには意味があると思う。
15  「一個の人間」に提婆と竜女の両面が
 斉藤 はい。この両方がなぜ、ここで説かれているのか、前半と後半で脈絡がないではないかといった指摘もなされています。しかし両方あって初めて、人間の全体像が押さえられると思います。男性と女性の両方ということもありますが、一個の人間における「提婆達多」の面と「竜女」の面が成仏するという意義があるのではないでしょうか。
 池田 そうだね。大聖人は、「提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす」、「提婆は我等が煩悩即菩提を顕すなり、竜女は生死即涅槃を顕すなり」と論じておられる。この両方があるからこそ、一個の人間における色心ともの成仏になるのです。
 遠藤 竜女の場合、畜生の身そのままで「即身成仏」したところに説法の力点があるわけですから、色心二法のうち「身の成仏」を象徴しているわけですね。また悪人成仏の場合、善悪は心の問題で、悪人と善人で身体が違うということはありません。そこで竜女に対比すれば「心の成仏」を象徴するということだと思います。
 須田 「心」の次元の成仏は、煩悩即菩提ですし、生死即涅槃は「身体」を含んだ生命全体の次元です。この両方があって色心不二の成仏となります。提婆品全体で、一個の人間の色心も、「男性的なるもの」も「女性的なるもの」も成仏することを表していると考えられます。
 池田 その通りだが、これは決して形式論ではない。自分自身という存在にどこまで深く肉薄するかという問題です。日蓮大聖人は佐渡流罪という生涯最大の難のなかで、一個の人間としての御自身を、ぎりぎりまで見つめられた。「佐渡御書」では、こう仰せです。
 「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(中略)心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」云々と。
 流人の身です。権力者と対極にある。地位もない。財産もない。権力もない。満足な食糧も衣服も住居もない。あるのは生命のみ。まさに赤裸々な「人間」それ自身だけです。そういうなかで、ご自身の存在を″身は畜身なり″と言い切られた。
 たしかに人間の身体は、つまるところ動物としての身体です。ですから、その意味でも、竜女の「畜身の成仏」は他人事ではないのです。女性だけのことでないのは言うまでもない。そして″心は梵天帝釈も恐れない″と。この「心」ひとつで、大聖人は強大な幕府権力と戦われたのです。
 大聖人のご内省は、さらに続きますが、結論として、この裸一貫の心身を法華経に捧げきって、色心ともに仏になる、必ず自分は仏になるのだと高らかに宣言なされている。
 斉藤 「いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」──不軽菩薩と同じ修行を行じる日蓮が、それを因として、どうして一人、仏にならないはずがあろうか──と仰せです。
 池田 大難を受け、大難と戦いきってこそ「即身成仏」はあることを教えてくださっているのです。提婆品も、この一点を忘れて読めば観念論になってしまう。
16  女性の連帯が「文明の質」を変える
 池田 いわゆる「男性的なるもの」にもプラス面とマイナス面がある。たとえば、「力」を自在に行使して何かを建設する面があるとしたら、それは場合によっては、権力欲となり、横暴さや破壊となって表れるかもしれない。まさに「悪人」です。提婆達多です。
 一方、「女性的なるもの」に、多くのものを「包みこむ」特質があるとしたら、それは場合によっては、貪欲に「のみこむ」悪となって表れるかもしれない。
 遠藤 鬼子母神は、その典型ですね。
 池田 それらのプラス面を最大に輝かせるのが、提婆と竜女の成仏であり、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の実証と言えるでしょう。
 さらに、女性だから女性の苦しみがわかり、女性を救っていける。女性として苦しんだ分だけ、人を幸福にできる力となる。それが妙法の力です。また、それが竜女成仏です。畜身で女性で年少で──一番、低く見られていた竜女が一番早く「即身成仏」した。そこに意味がある。ともあれ、しいたげられた差別社会のなかで、竜女成仏は万感の思いをこめた「人権宣言」だったと言えるでしょう。
 フランス革命の人権宣言(一七八九年)は有名ですが、そこでいう「人」とは「男性」だけであった。それを批判して「女性および女性市民の権利宣言」(一七九一年)を発表した女性がいた。彼女、オランプ・ドゥ・グージュは、しかし″反革命″の罪状でギロチンにかけれてしまった。その他、女性の人権を獲得するために、無数の犠牲が払われてきました。
 その尊き歴史をムダにしないためにも、法華経に基づく「女性の人権宣言」は、一人一人がだれよりも幸福になることが根本です。一人の犠牲もなく、一人一人竜女のごとく、生死海の大海のなかで「苦の衆生」を救いながら、自他ともに絶対の幸福境涯の航海をしていくのです。
 女性は幸福になってもらいたい。ならねばならない。それが法華経の心です。そして竜女とは、「竜」は父の竜王、「女」は娘で、「親子一体の成仏」を表す。自分の成仏で、親をも救っていける。
 さらに、竜女が成仏して活躍する国土が「無垢世界」と説かれるように、一人の女性の成仏は周囲の一切を浄らかな美しき世界に一変させてしまう。さらに、みずからの尊貴さに目覚めた女性の連帯は、文明の質をも変えていくでしょう。学会の婦人部・女子部の皆さまは、その先覚者であり中核です。これ以上に尊い存在はない。かけがえのない方々です。世界も注目しています。
 たとえばタゴール(インドの詩聖)が、現代文明を男性優位の「力の文明」とし、女性の力で、慈愛に基づく「魂の文明」を育ててほしいと念願したのは有名です。(「人格論」山口三夫訳、『タゴール著作集』9所収、第三文明社、参照)
 斉藤 たしかに自然破壊にせよ、生命を機械視する科学にせよ、男性的な「支配する知」が根底にあると論じられています。
 池田 その意味で、提婆品は、文明の在り方をも転換させゆく大きな示唆を秘めているのではないだろうか。
 端的に言えば、「物質文明」から「生命の文明」への転換です。「支配と服従]の社会から、「調和と慈悲」の社会への転換です。その転換の一つのカギは、竜女をたたえた文殊菩薩の言葉にあると思う。
 「衆生を慈念すること、猶、赤子の如し」(法華経四〇六ページ)。生きとし生けるものを我が子のように慈愛で包んでいくと言うのです。その境涯を女性も男性も、人類全体が目指していく。そこに竜女成仏の文明論的意味があるのではないだろうか。

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