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日蓮大聖人・池田大作

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提婆達多品(第十二章) 悪人成仏――″…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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11  斉藤 「悪と戦わないのは、悪をなすのと同じだ」ということですね。この思想は、自分以外のことに無関心に生きている現代人に対する鋭い警鐘であると思います。
 池田 アメリカの人権運動の闘士、マーチン・ルーサー・キング牧師の闘いもそうでした。″悪を、おとなしく受け入れる者は、悪を助ける者と同じく悪に加担することになる。悪に抵抗しない者は、悪に協力したことになるのだ″と。(『自由への大いなる歩み』雪山慶正訳、岩波文庫、参照)
 須田 何回かアジアの各国を訪問させていただきましたが、牧口先生の説く「積極的人生」が強く人々を引きつけていることを感じます。
 とくに、世界的に何が善で何が悪かということがはっきりしなくなっています。そういうなかで、「積極的に善を創造していく」という仏法の行き方こそ光明だと思います。
 池田 その通りです。イデオロギーが崩壊した「哲学なき時代」を、エゴが野放しになる危険な時代にしてはならない。古い哲学の廃墟の上に、冷たいニヒリズム(虚無主義)を君臨させてはならない。確固たる「生命の道」を示し、希望の太陽を君臨させなければなりません。
 善と悪については古今東西、さまざまな哲学的議論がある。それをたどることは今はしないが、ともかく「生命こそ目的であり、生命を手段にしてはならない」。
 これが大前提です。その尊極の生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。生命を萎縮させ、手段にするのが悪と言えるでしょう。また「結合は善」「分断は悪」です。
 ゆえに最高善は、人々の仏界を開くことであり、人々の善意を結びつけることです。仏法を基調とした平和・文化・教育の運動、すなわち広宣流布の運動こそ最高善なのです。この行動の持続に、悪をも善の一部にしていく「善悪不二」のダイナミックな実践があるのでです。
 自分を見つめ、自分と格闘しながら進むのです。自分に勝利して進むのです。その人が提婆品を読んだことになる。釈尊と提婆達多との激闘といっても、つまるところ、我が身一身に納まるのです。そう読むのが文底の法華経です。
 タゴールの美しい言葉があります。
 「なぜ悪が存在しているかという問いは、なぜ不完全なものが存在しているのかという問いと同じである」
 「われわれが本当に問わねばならないのは、この不完全は最終的な事実なのか、絶対的、究極的な悪なのか、ということである。河には両岸があるというだけなのであろうか。つまり両岸は川の水にとってたしかに制限である。しかし、川には両岸があるというだけなのだろうか。つまり両岸が川についての最終的な事実なのだろうか。両岸という制限があるからこそ川の水は前に進むことができるのではないか」(「サーダナ」美田稔訳、『タゴール著作集』8所収、第三文明社)
 要するに──悪は河における岸のごときものである。岸は流れを堰きとめるが、それは流れを推し進めるよすがとなる。この世の悪は、人間を水の流れるごとく善に向かわしめるために存在する──」と。
 悪との「限りなき闘争」を続けながら、いよいよ水かさを増して、世界に「善の大河」を広げていきたいものです。

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