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日蓮大聖人・池田大作

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見宝塔品(第十一章) 「人間を手段にす…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 「宝塔」について考えれば考えるほど、現代人にとって根本的に大切なことを教えてくれていると感じられてなりません。それは「人間は決して、小さな、無力な存在ではない」ということを象徴的に訴えているからです。
 つまり現代人は、決して今の人生と世界に満足しているわけではない。にもかかわらず、「自分一人くらいが何を、どう変えられるというのか」という無力感をもっているのではないでしょうか。その無力感、絶望感が人生と社会の深い部分に黒々と影を投げかけている──ここに現代の根本的な問題があるのではないかと思うのです。
 池田 それは急所の問題です。とくに、いわゆる先進国において深刻です。
 アメリカでは若者の中に「どうしても自分を尊敬できない」という悩みが広がっているという。「自分を尊敬できない」苦しみから逃避するために麻薬を常用するようになることも多い。
 遠藤 自分を大切に思えない。それでは、他人を大切に思うこともむずかしいでしょう。
 池田 自分も他人も虫ケラのように見える──これは悲劇です。
 現代社会は、あらゆるものが巨大化してしまった。その巨大な「量」と「大きさ」に押しつぶされている心のうめきが聞こえてきます。アメリカの良心と呼ばれたノーマン・カズンズ博士は、すでに六〇年代初めに、そのことを指摘していました。
 「アメリカ国内を旅行してみて、わたしは一種の憂欝症がはびこっているのを知った。いま人々が知りたがっているのは、自分たちの個人所得に関わる問題でもなければ、生活を楽しむためのよりよい方法を見出す問題でもない。彼らが知りたがっているのは、重大な問題に対して自分たちは何もすることができないという無力感を、いかにすれば打開できるかという点なのだ」(『ある編集者のオデッセイ』松田銑訳、早川書房)
 須田 とくに、この時期は、核戦争の不安が、巨大に人々の上にのしかかっていたころですね。
 池田 それが一つの象徴だったでしょう。昔は、人々が意識する「世界」は小さな範囲だった。都市とか村々とか、そこで起こる問題には直接発言することも影響力を与えることもできた。しかし今は巨大な国家の一員となってしまった。また人類全体が一つの運命共同体になってしまった。
 国と人類の行く末を心配はしても、何をどこで発言し、何をどのように行動すればよいのか、わからない。
 何かをやってみても、それが世界を良くすることに本当に役立ったのか、自信がもてない。これが現代人の置かれている状態です。
 カズンズ博士は「現在における教育上の最大問題は、各個人に、彼らが重大事件に関わりあいをもっていることを意識させ、彼らの力がこれらの事件に対し影響力をもちうることを教えることである」(同前)と論じています。
 学校教育はもちろんですが、私たちの民衆運動も、広い社会教育です。人間に「あなたの行動が世界を変えうるのです」と教えていく運動なのです。そして、そのことに目ざめた人々の連帯を広げていく運動なのです。
 斉藤 それこそ「事の一念三千」だと思います。日蓮大聖人は「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せです。一人の人間が国土をも変えられる、と。
 そういう「一人の人間の巨大さ」を教えたのが宝塔ですね。自分自身は小宇宙であり、宇宙と一体不二の存在なのだと自覚できれば、これほどの歓喜はないでしょう。
 池田 小宇宙といえば、人体を構成する元素は、宇宙を構成する元素と共通していますね。たとえば宝塔は「七宝」で飾られていますが、この七宝の成分も人間の体にあるのではないだろうか。
2  遠藤 はい。少し調べてみました。七宝は、鳩摩羅什の訳では、金、銀、瑠璃、硨磲しゃこ、碼碯、真珠、玫瑰まいえの七つです。このうち金、銀、碼碯、真珠は、宝石・貴金属の類では有名ですね。私も見たことがあります。持ってはいませんが(笑い)。
 瑠璃は、ラピスラズリとも呼ばれる深い青色の貴石です。硨磲しゃこは、シャコ貝という貝の殻。玫瑰まいえは雲母の仲間で、中国産の珍しい石だそうです。
 斉藤 サンスクリットの法華経では、珊瑚、琥珀、水晶となっているものもあります。
 遠藤 七宝のうち、瑠璃、碼碯、玫瑰まいえの基本となる成分は、ケイ素です。ケイ素は、人体に必須の物質の一つで、骨格の成長や形成に欠かせません。
 真珠や硨磲しゃこの主な成分はカルシウムです。カルシウムは私たちの骨や歯などをつくっていることでも知られています。
 また碼碯の、さまざまな色彩は、含まれる金属の違いによるのだそうです。鉄が入ると赤に、コバルトが入ると青に、クロムが入ると緑に、といった具合です。
 じつは、これらはどれも、人間が生きていくうえで欠かせない金属です。鉄は血液中の酸素の運搬に、コバルトは造血に、クロムは糖や脂肪の代謝に……と。ほかに銅、亜鉛、スズ、マンガン、ニッケルなども人体に必要な金属です。金や水銀なども、必要である可能性があるそうです。
 池田 不思議だね。生命は、文字通り″宝″ということだ。人体を構成する元素で最も多いのは、水素、酸素、炭素、窒素と言われるが、今挙げた金属も絶妙なバランスで含まれていて、″小宇宙″である生命を支えているんだね。
 須田 今、血液の話が出ましたが、体内の血管の長さを合計すると、約十万キロメートルにもなるそうです。これは地球の二回り半にあたります。ちょっと信じられません。そんなに長い距離が、自分の体に納まっているなんて(笑い)。
 池田 日蓮大聖人は「総勘文抄」で「この身の一つ一つが、天地の姿にならっている」という妙楽の言葉(『止観輔行伝弘決』)を引かれているね。この中に「脈は江河に法とり」とある。血液の流れは、自然界の大河のようであると。人間の生命が、自然界と一体であることを教えられている。
 斉藤 宇宙的なスケールですね。ほかに「眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり」(同)ともあります。眼は太陽や月のようであり、その開閉は昼夜のようである、と。
 池田 眼は太陽と月──一見、飛躍しているようでいて、″なるほど″と思いますね。ゲーテも″眼は太陽である″という古代人の言葉を引いていた。
 「もしもこの眼が太陽でなかったならば
 なぜに光を見ることができようか」(『自然と象徴』高橋義人編訳・前田富士男訳、冨山房)
 またゲーテ自身、こう洞察している。
 「内にあるものもなければ外にあるものもない
 内がそのまま外なのだ」(同前)と。
 大聖人は、さきほどの妙楽の言葉を引かれて、自分自身を知ることは宇宙の万象を知ることであると教えられている。自分が変われば、環境は変わる。一念が変われば、すべてが変わる。一念三千です。ゲーテの真意はともあれ、一念三千とは″内がそのまま外なのだ″ということなのです。
3  須田 仏法では、あらゆる生命を貫き、大宇宙を貫いて、何らかの法則性が存在していると説いています。このことは、科学において生命体の「形」のうえからも考察されています。こうした考察にはゲーテの影響もあります。ゲーテは、植物の観察を通して、生物のあらゆる部分が「らせん状」になっていることに注目しました。ヒルガオの″つる″の巻き方、シラカバの木が自分自身を軸として回転していること等々です。
 また巻き貝の殻、羊や牛の角、象の牙もそうです。血管も「らせん状」の繊維で織られたチューブです。さらに微小な世界では、遺伝情報をもったDNA(デオキシリボ核酸)の二重らせん構造です。大きな世界では、竜巻、台風、さらには星雲の形にも、共通して「らせん」あるいは「渦巻き」が見られます。
 遠藤 「鳴門の渦潮」もそうですね。「らせん」は古くから、生命力や成長、進化のシンボルとされていたようです。ある研究者は、「らせん」は類似する現象の繰り返しであることから、「リズム」を表しているとの見方を紹介していました。(三木成夫『生命形態の自然誌』1うぶすな書院、参照)
 池田 大宇宙には「リズム」がある。個々の生命のどんなリズムも、大宇宙のリズムと響き合っている。″生きている″ということは、大宇宙と、われわれの生命すなわち小宇宙とが、「共振」することではないか、と思う。
 ″リズム″という言葉を借りれば、大宇宙それ自体がリズムを奏でている。「生きとし生けるものを成長させよう、向上させよう」という慈悲のリズムです。あるいは、慈悲の″波長″と言ったほうがいいかもしれない。生命は、この波長をキャッチできる″受信機″です。どこにいようと、仏界のチャンネルに合わせれば″自分も成長し人をも成長させる″という慈愛の曲に包まれていく。あるいは″音叉″をイメージしてもいいかもしれない。同じ波長の二本の音叉があれば、一本を鳴らすと離れたところのもう一本も自ずと鳴り出す。
 斉藤 「レゾナンス(共鳴)」ですね。
 池田 そう。「慈愛」という生命の音叉を鳴らせば、初めは一本でも、必ずどこかで、二本、三本と、同じ「慈愛」の音叉が鳴り出すのです。
 慈愛という波長はあるのです。だれかが最初に鳴らさなくては。また音叉は、寝かせて置いたままでは鳴らない。立てなくては。宝塔品で、十方分身の仏たちが釈尊のもとへと馳せ参じた姿は、あたかも「令法久住」という音叉の響きに呼ばれて、たくさんの音叉が同時に鳴り出したかのような光景だったのではないか。
 斉藤 美しい壮大なイメージですね。釈尊は十方に散っている分身仏を集めるために、三度にわたって娑婆世界を浄化しました。これが三変土田です。三変土田自体が、「国土の変革」を示しています。
 まず娑婆世界を変じて清浄とします。そして、法華経の会座に集った衆生だけを除いて、その他の諸の天人を他土に移します。これが第一の国土の浄化です。ところが、十方の分身仏の数が余りに膨大なために、娑婆世界におさまりきらない。
 そこで次に、四方(東西南北)・四維(西北・西南・東北・東南)の八方において、それぞれ二百万億那由侘の国を変じて清浄にし、諸天人を他土に移します。そうすると、それらの国土は一つの仏国土のようにひと続きとなります。これが第二の浄化です。
 さらに、同じく八方において、それぞれ二百万億那由佗の国を変じて清浄にし、三たび諸天人を他土に移します。これが第三の国土の浄化ですが、やはり一つの仏国土のようにひと続きになります。
 こうして、浄化された八方の「合わせて四百万億那由佗の国土」に、十方の分身仏が満ちあふれます。これが三変土田です。
 池田 諸の天人を他土に移すというのが面白いね。これには、さまざまな解釈が可能だと思うが……。
 須田 天人も六道のうちです。娑婆世界を浄化して、仏国土を出現させても、六道を輪廻する諸天人には見えないことを「他土に移す」と表現したのではないでしょうか。自分が変わらなければ、何も変わって見えないわけです。
 遠藤 ポスト冷戦へ世界がどんどん変わっているのに、いまだに冷戦時代と同じ古い意識にしばられている日本人を思い起こさせますね。
 斉藤 天台大師は「法華文句」で、この三変土田を三昧によるものと解釈しています。
 池田 そう。三昧とは心が一つに定まることだね。いわゆる禅定ですが、私どもで言えば、揺るぎない境涯です。一念です。何ものによっても動かされない不動の「内面世界」です。「三変土田」は、その意味で、国土の浄化を説いているだけではない。自身の一念の変革を明かしている。
4  病める人間生命を「健康」に
 斉藤 そう言えば、小説『人間革命』第五巻の「戦争と講和」の章で、身近な譬えを通して、三変土田の原理が示されていました。
 ──昔、近しい親戚同士で、隣り合って住んできた二軒の家があった。これを斉藤家と遠藤家としましょうか(笑い)。ところが、先代同士が喧嘩して、長い間、絶交状態になっていた。そうしている間に、遠藤家は、千里の向こうに新しい親戚──須田家とします──ができて、親しく付き合うようになった。
 斉藤家と遠藤家は、先代の記憶も薄くなり、お互いにそろそろ仲良くしようという気持ちはもっているものの、遠藤家は須田家に気がねをして、どうしても友好の手を差しのべることができない。斉藤家は、カンカンに腹を立ててしまっている。
 ここでもし、斉藤家と遠藤家の隣同士が一切の行きがかりを捨てて、思い切って友好の手を握り合ったとしたらどうなるか。一切の環境がガラリと変わる。須田家も加えて、三軒の家が、親戚として平和な交際を始めるに至る。これこそ、三変土田の原理でもある──。このような趣旨でした。
 遠藤 隣同士の家とは日本と中国で、日本の遠くの友人とはアメリカですね。日本は中国と友好を結べ、という先生の主張でした。日本と中国、中国とアメリカが対立していたあの時代に、じつに新鮮な感動をもって読んだことを思い出します。
 池田 国といっても、要は人間です。人間の集まりであり、人間がつくるものであり、人間が変えられないはずがない。また国家も「人間のため」にあるのです。
 この素朴にして明快な事実が、さまざまな「とらわれ」から見えなくなる。独善的なイデオロギーにとらわれ、小さな利害にとらわれ、感情にとらわれ、誤った知識や先入観にとらわれ、根本的には人間と生命への無知にとらわれて、自分で自分を狭い世界に閉じこめてしまうのです。その「とらわれ」の鎖を断ち切れば、相手を「人間として」尊敬できるようになる。そこから「人間として」の対話が始まります。
 斉藤 先生が冷戦のさなかにソ連を訪問されたときも、多くの批判がありました。しかし「私は行く。そこに人間がいるから」と言われ、友好の橋を厳然と築かれた。
 中国とソ連の対立も、そのころは″永遠に続く″かに思われていました。事実、中国の人からもソ連訪問を批判されたと、うかがっています。しかし先生は「必ず中ソは仲良くなります」と言われ、信念を貫かれた。その通りになりました。すごい「人間信頼」です。「不信」を「信頼」に変える。言うは易く、行動するには大変な困難があります。
 池田 「力の世界」で人間主義を貫けば、必ず「難」を受けます。それが宝塔品の「六難九易」でもある。ともあれ、ローマクラブのホフライトネル会長が語っていた。「地球が病んでいるといっても、本当の問題は、人間が病んでいるということです」と。
 三変土田とは、病める人間生命を「健康」にすることによって、世界を、地球を「健康」にするということです。
 須田 天台は『法華文句』で、この三度にわたる国土の浄化を「三惑」、すなわち見思惑、塵沙惑、無明惑の三つに対応させています。これら「三つの惑い」を打ち破ったのが「三変土田」です。
 まず、見思惑とは見惑と思惑です。端的に言えば見惑とは間違ったものの見方、思惑とは貪・瞋・癡という三毒からくる迷いです。この見思惑を打ち破ることによって、国土が浄化されるのが、第一の変浄となります。
 遠藤 自分の苦しみを、自分以外の他のもののせいにする。これも見惑です。すべて自分に原因があることに気がつけば、それも見惑を打ち破ったことになると思います。
 斉藤 広く見れば、偏見や上下関係で人を見下すのも、見惑と言えますね。
 池田 そうだね。人は往々にして意図的に作り出されたイメージをそのまま受けとってしまう。みずからの心を開いて、真実を見極めようとせず、イメージに安易によりかかると、たちまち偏見に陥ってしまう。一度、偏見に陥ると、そこに執着して離れられないのが人間のつねです。これが見惑のひとつです。
 須田 それに対して、思惑は、もっと深く生命に巣くう濁りと言えるかもしれません。そのために、真実を見る眼が曇ってしまう。
 池田 生命の歪みと言ってよい。相手を映す自分の心が歪んでいる。だから人をも歪めて見てしまうのです。「癡かさ」「貪り」「瞋り」──これらが人間関係をそこなうことは言うまでもない。国と国の関係も同じではないだろうか。結局、見思惑のもたらすものは、偏見と憎悪でしかないのです。これでは、誰に対しても心を開いて対話することはできない。相手も、心を開くことができない。
5  「宝塔」の林立が仏国土
 斉藤 第二の変浄は、三惑のうちの塵沙惑を浄化することを表しています。塵沙惑は菩薩の無数の迷いですから、私たちが人々の幸福のために戦うところに起きる無数の悩みと言えるかと思います。
 池田 そうだね。これは学会員が等しく感じているところでしょう。信仰するまでは、自分の悩みをどう乗り越えるか、それだけで奮闘していた。
 ところが、今度はだんだんと人のために悩むようになってくる。たとえば、病で苦しむ同志をどう励ませばいいか──崇高な悩みです。
 遠藤 時には、犬も食わない夫婦喧嘩に立ち会って悩むこともあります(笑い)。
 池田 友のために悩み、友の幸せのために祈る。学会員にとっては当たり前のことが、どれほど尊いことか。悩める人々のために、厭うことなく娑婆世界の現実に飛び込んでいるのです。経文には、第二、第三の変浄では、八方のそれぞれ二百万億那由佗の国々を清浄にしたとあるね。広宣流布が広がっていく姿です。
 学会員の一人一人が、最も苦しんでいる人々のために、あえて労苦を引き受け、ありとあらゆるところに「寂光の都」を建設している姿をほうふつさせます。苦悩のどん底にあった友が同志の励ましで立ち上がり、妙法による「蘇生のドラマ」を演じていく。それ自体が、苦しみに満ちた「穢土」から、歓喜に満ちた「浄土」への見事な変革です。
 斉藤 そうした一人一人の人間革命が、根本的に、一国の変革をなしていくのですね。
 池田 言葉で言ってしまうと、静的のように思われるけど、そこには一人一人の現実との格闘があるわけだから、三変土田は極めてダイナミックな原理です。
 「娑婆世界を浄化した」とあるように、どこか別の世界に浄土があるのではない。あくまでも「娑婆即寂光」なのです。
 要するに、仏国土とは、人間の「宝塔」を打ち立てることです。皆が「宝の塔」と輝くことです。その「宝塔」の林立が仏国土をつくるのです。
 遠藤 最後の変浄は、無明惑を除くことを表すとされています。
 池田 無明惑とは、文字通り、自分の生命に暗いということです。それが迷いの根本です。自分の生命に暗いということは、他人の生命にも暗いということになる。
 分かりやすく言えば、あらゆる人間、あらゆる生命を、尊厳なる「宝塔」として見る。その「開かれた心」が法性です。それができない「閉じた心」が無明です。
 さあ、問題はここです。「無明」と「法性」については、今後も、さまざまな観点から論じることになると思うが、今回は宝塔品に即して、「六難九易」との関係を考えてみたい。
 結論から言えば、法華経を弘通することは「元品の無明」との戦いであり、それゆえに何よりも「むずかしい」のです。また、それは「第六天の魔王」との戦いでもあるゆえに、「難」が起きるのです。
 須田 まず六難九易とは、文字通り「六つの難しいこと」と「九つの易しいこと」です。この比較を通して、仏の滅後の妙法弘通が、どんなに困難であるかを示しています。
 斉藤 大聖人も御書で、この六難九易の経文を随所に引かれ、ご自身の身にあたる文とされています。
 池田 とくに「開目抄」では「法華経の六難九易をわきまうれば一切経よまざるにしたがうべし」とまで言われている。
 「大海の主」には、あらゆる「河神」が従うように、また「須弥山の王」には、あらゆる「山神」が従うように、六難九易を身で読みきった大聖人には、一切経の仏菩薩が従い、一切経をことごとく掌中におさめたことになるという意味でしょう。
 法華経は「諸経の王」です。その実践の肝心要が「六難九易」となる。これを身読した人自身が「王者」となるのです。
6  斉藤 それでは法華経の流れのなかで「六難九易」を見ておきたいと思います。
 三変土田が終わって、諸仏が″集合完了″しました。そこで釈尊と多宝仏の二仏が宝塔の中に並んで座り、会座の衆生がすべて虚空に引き上げられます。これで舞台が整いました。いよいよ虚空会の儀式の始まりです。
 釈尊の第一声は「誰がこの娑婆世界で広く妙法蓮華経を説くのか。私はまもなく入滅するので、この妙法蓮華経のバトンを渡したい」(法華経三八六ページ、趣意)という呼びかけです。
 遠藤 この第一声を含めて、宝塔品では三回にわたり、釈尊が菩薩たちに呼びかけ、「滅後の弘通」を勧めています。
 池田 大聖人は「開目抄」で、それを「三箇の鳳詔」と呼ばれている。
 須田 はい。第二回は、多宝如来および分身の諸仏が集まってきたのは「令法久住(法をして久しく住せしむ)」のためであるということを明かして、呼びかけています。
 三回目が、「六難九易」を説き、滅後弘通が至難であることを明らかにしたうえでの呼びかけです。
 池田 こうしてみると虚空会が「滅後のため」であることが、はっきりとするね。
 釈迦・多宝が、十方の諸仏が、こぞって「未来に正法を弘めよ」と勧めているのです。そのための壮大な舞台設定なのです。
 遠藤 「六難九易」の「九易」とは、次のようになります。
 (1)法華経以外の諸々の経典を説くこと(2)須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置くこと(3)足の指でこの三千大千世界を動かし、遠く他国に投げること(4)この世界の頂点である有頂天に立って、法華経以外の無量の経典を説くこと(5)手で虚空をつかんで自在に動くこと(6)大地を足の甲に置いて天に昇ること(7)乾いた草を背負って大火に入っても焼けないこと(8)無数の法門を説いて人々に神通力を得させること(9)多くの人々に小乗の最高の悟りである阿羅漢の位を得させること。
 須田 一体、どこが「易しい」のか、「九難」の間違いじゃないのか(笑い)と思ってしまいますね。
 斉藤 この九つをあえて大別すれば、「物理的なこと」と「教理的なこと」の二つになると思われます。(2)(3)(5)(6)(7)が物理的なことです。(1)(4)(8)(9)は主に教理的なことですね。これらが、すべて「六つの難しいこと」と比べれば「易しい」とされています。
 池田 それはもちろん「六難」の大変さを強調するためでしょう。しかし決して、主観的で大げさに誇張された表現とは言い切れない。そこには深い意味があると思う。
 遠藤 はい。「六難」の内容を確認しますと次のようになります。
 (1)仏の滅後に、悪世で法華経を説くこと(2)仏の滅後に、法華経を書き、あるいは人にも書かせること(3)仏の滅後に、悪世で、しばらくの間でも法華経を読むこと(4)仏の滅後に、一人のためにでも法華経を説くこと(5)仏の滅後に、法華経を聴き、その意味を問うこと(6)仏の滅後に、能く法華経を受持すること。
 要するに、「悪世において」「法華経を自行化他にわたって修行する」ことは極めてむずかしいというのです。
 池田 それはなぜなのか。末法の法華経が、南無妙法蓮華経の大白法である、ということもあるでしょう。法を弘める資格の問題もあるでしょう。
 地涌の菩薩にあらずんば行じ難き妙法ですから。そのうえで、やはり、法華経を行ずれば必ず「大難」がある。そこがポイントでしょう。
 大聖人は、「御義口伝」で、宝塔品の「此経難持(この経は持ち難し)」(法華経三九三ページ)の文について、こう仰せです。「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」と。
7  斉藤 この「法華経」は「末法の法華経」である南無妙法蓮華経の御本尊であり、「持つ」とは、妙法の広宣流布に生き抜いていくことですね。
 遠藤 難を耐え抜いて、妙法弘通を貫いてこそ「法華経を持つ」ということになります。宗門のように、弘教もせず、難を避け、経文を読んでいるだけでは「法華経を持つ」ことになりません。
 須田 その読経でさえ、さぽりがちだそうですよ(爆笑)。
 斉藤 その意味では、殉教の牧口先生はじめ創価学会こそ、近代において「法華経を持つ」難事を実践してきたといえますね。
 池田 法華経の「六難九易」に照らせば、それがどれほど大変なことであるかがわかるのです。権力にもよらず、権威にもよらず、財力にもよらず、民衆が民衆の力で、民衆のために、民衆を幸福にする大法を、世界百二十八ヵ国・地域(=二〇〇五年十一月現在、百九十ヶ国・地域)に弘めてきたのです。日蓮大聖人がたたえてくださっているでしょう。釈迦・多宝、十方の諸仏が喝采を送っていることでしょう。
 須田 難事であるゆえに、釈尊も成道の直後には、法を説くことをためらいました。大聖人も立宗の前に迷われたと言われています。
 ──不見思惑幸の根源がどこにあるかを一言でも言えば、自分はもちろん、父母、兄弟、師匠にまで国主からの王難が襲ってくることは疑いがない。しかし、もし言わなければ無慈悲になってしまう──。
 言うべきか言わざるべきか、と悩まれた。法華経や涅槃経等の経文に照らして考えるならば、もし本当のことを言わなければ、今世は何もなくても後生は必ず無間地獄に堕ちる。言えば三障四魔が必ず競い起こるであろう──そう考えられたうえで、立宗を決断された。
 そして、もし王難が起こった時に退転するぐらいならば、はじめから言わないほうがよいと考えられた。そのとき思い起こされたのが「宝塔品の六難九易」であると言われています。(「開目抄」御書200、趣意)
 遠藤 六難九易を思い起こされて、大聖人は「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじ」との誓願を立てられたのですね。そこで問題は、なぜ法華経を弘めれば難が起こるのかということです。
 須田 まず法華経が「折伏の経」であり、「随自意の経」であることが挙げられます。「仏の心」そのままを、相手に妥協せず、まっすぐに主張する。その意味では、反発が起こるのは当然だと思います。
 斉藤 たしかに「良薬は口に苦し」です。真実を言うことがかえって反発を招くのは、歴史上、無数に例があります。ガリレオなどの科学者も含めて、多くの先覚者が命に及ぶ迫害を受けてきました。
 遠藤 権力というのは、自分たちの安住している世界像が崩されようとする時は、たとえ真理であってもそれを否定し、猛烈に反撃してきますね。
 須田 宗教裁判で有罪と宣告されても、「それでも地球は回っている」とつぶやいたという伝説は有名ですが、ガリレオの場合、彼の主張をつぶそうとしたのは、教会の権力とともに、当時の社会をイデオロギー的に担っていた伝統的なスコラ哲学者でした。
 池田 イデオロギーというと難しくなるけど、どんな社会であれ、またいかなる時代であれ、そこには必ず人々の意識を支えている世界観なり、価値観がある。それと抵触するものが現れると、反動が起きるというのは古今東西変わることがない。
 須田 デカルトもそうですね。彼が『世界論』を著しながら、そこにコペルニクスの地動説に論及しているたにめ、ガリレオの二の舞いになることを避け、以降、公にしなかった。
8  「元品の無明」の克服こそ難事
 池田 それが普通です。誰だって自分の命が惜しい。しかし、法華経は、この大法を教えないと、人類が根本的に「闇」になってしまう。だから、大聖人は決断された。我が身を惜しまないのが「法華経の行者」なのです。
 しかし、これだけでは、まだ十分に「六難」の難事たるゆえんを説明したことにはならない。なぜなら法華経以外の教説でも難はあるからです。そこで、先ほど言った「元品の無明」との対決ということが焦点になってくる。
 法華経とは「生命変革の法」であり、せんじつめれば「元品の無明」を克服するための大法です。「元品の無明」とは、生命にもともと具わる「根本的な迷い」です。
 これには、いろいろな観点があるが、日蓮大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と仰せです。
 また「兄弟抄」にも「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり(中略)設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや」と言われている。
 斉藤 等覚といえば「妙覚」すなわち「仏の悟り」と等しい悟りを得たとされる最高位の菩薩です。その等覚の菩薩でさえ「元品の無明」を克服できないと。言い換えれば、「元品の無明」を克服したかどうかが「成仏」のポイントになるわけです。
 遠藤 どちらの御文も「元品の無明」が「第六天の魔王」と顕れて法華経の行者の障害となるという意味ですね。
 「第六天」とは、三界のうち欲界の第六番目の天、すなわち「他化自在天」です。他を自在に動かして喜ぶ天とでもいいましょうか。いわゆる「権力の魔性」と考えられます。
 池田 「他化自在天」とは、こうも考えられないだろうか。「自分以外のすべてを、自分の手段として利用しようという生命の根本的傾向性」と。
 これは生命が生きていこうとする限り、ある意味で自然な欲求といえます。反対に「自分を周囲のために捧げよう」とすることは、極めてむずかしい。慈悲、人間愛、奉仕。これらは、すばらしいことであるが、実践は極めて困難です。
 宇宙と自分は一体不二である。そう頭ではわかっても、生命の根底ではわからない。これが「元品の無明」とも言えよう。この無明のために、宇宙を自分のために奉仕させ、手段にしようとする。それが「他化自在天」であり「第六天の魔王」であり「権力の魔性」です。
 法華経では、自己即宇宙と説く。その具体的実践は慈悲であり、相手を「宝塔」として尊敬し、礼拝し、難に耐えながら、自他不二で幸福になっていくことです。その実践には、必ず自身の「元品の無明」との戦いがある。そして他の人々の「元品の無明」をも刺激し、激発するゆえに、難があるのです。
 「権力の魔性」とは権力者だけにあるのではない。「智者の身に入つて」と仰せのように、世間から尊敬されている精神的指導者が「権力の魔性」をふるう場合もある。
 斉藤 「僭聖増上慢」ですね。(勧持品〈第十三章〉に説かれる「三類の強敵」の第三)
 池田 大難は大抵、この両者(悪の権力者と悪の精神的指導者)が結託して起こるのです。これは過去も現在も未来も同じです。
 遠藤 そう見てきますと、三変土田で「娑婆即寂光」とするために、最後に「無明惑」と戦わなければならなかった──そのことと、きちっと一致してきます。
 斉藤 天台の説いた「三障四魔」も、本来は、自身の内観を進めていく過程で生命の深層から出てくる障魔のことですね。一念三千すなわち自身の一念が宇宙と一体であることを体得するためには、それら内なる七つの障魔(三障四魔)と戦わなければならない。それが大聖人の仏法では、主に妙法を行ずる過程で外から襲いかかってくる障魔というように、ダイナミックなとらえ方になっています。
 須田 「元品の無明」との戦い、「権力の魔性」との戦いに勝つことが、「法華経を持つ」ということであるならば、たしかにこれは「難事」です。
 池田 そう。「九易」の「物理的」事例も、「教理的」事例も、これに比べれば、難事ではない。
 遠藤 物理的事例は、不可能に見えますが、あくまで外面的なことです。事実、科学技術の発達が、その一部は可能にしつつあるかもしれません。
 池田 ともかくポイントは「外面世界を動かす」よりも「内面世界を変える」ほうがむずかしいということです。このことを「六難九易」は教えているとも言える。
 須田 また「九易」の教理的事例も、法華経以外の経典では「元品の無明」を克服しないゆえに「易しい」のですね。
 池田 ただ注意しなければならないのは、法華経は「無明法性一体」と説くことです。くわしくは別の機会に論じることにしたい。
 魔王にも「体の魔王」と「用(働き)の魔王」があると大聖人は言われている(御書八四三ページ)。体の魔王とは「無明法性一体」としての本有の魔王です。用の魔王とは、そこから派生する″働き″としての「第六天の魔王」です。無明法性一体ですから、最後は、魔王さえも仏法を護るのです。法華経に「魔及び魔民でも仏法を護る」(授記品)とあるのは、このことです。ただ今回は、この「用の魔王」を中心に学んでいるわけです。
9  すべてを結合させる「慈悲」の力
 斉藤 そこで、この「権力の魔性」ですが、これだけでも何回も論じなければならないテーマです。
 池田 その通りです。「権力悪」とは何か──これは二十一世紀を考える上でも根本的問題です。なぜか。二十世紀とは、この「権力悪」がある意味で極限にまで肥大化した時代だからです。その代表が「ファシズム」であり「スターリニズム」です。
 遠藤 右と左の両翼という対極の立場でありながら、ともに恐怖の全体主義社会を出現させた点では共通しています。
 池田 全体主義にとっては、一切が権力者の「手段」となる。人間はそこでは「道具」にすぎない。「モノ」にすぎない。「数字」にすぎない。いな「無」にすぎない。それはナチスによる「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」、またナチスが劣等者とレッテルを貼った心身の障害者への迫害を、少しでも見れば明らかです。
 それはあまりにも残酷であるゆえに、安易に口にしたくはない。そこでは「人間」が、権力者たちが勝手に決めた基準によって「役に立つ」とか立たないとか選別されたのです。そして虐殺です。
 須田 日本軍のアジア侵略でも、狂気としかいいようのない「人間のモノ化」が行われました。
 遠藤 「権力の魔性」はいつの時代にも存在していたわけですが、二十世紀においては、それが巨大化し、組織化されたわけですね。
 池田 イデオロギーで「正当化」されもした。その上に、科学技術の進歩が、悲劇を拡大した。原爆、(ナチスの強制収容所の)ガス室などがその象徴ですが、人間の虐待を大規模に、また徹底的に行える力を人間は手にしてしまったのです。
 また科学技術そのものの本性として「一切を数量化する」傾向がある。″魂なき科学技術″は「人間のモノ化」に拍車をかけます。「原爆」は「権力の魔性」の象徴です。「魔王」が形になったようなものです。「魔」とは「奪命者(命を奪う者)」という意味なのです。その反対が「仏」です。「命を蘇生させる者」です。
 斉藤 「核兵器を使った者は魔ものであり、サタンである」との戸田先生の原水爆禁止宣言は、そういう生命の洞察に裏づけられていたわけですね。
 池田 戸田先生は、全生命で宇宙に瀰漫する魔と戦っておられたのです。戦いは壮絶でした。その苦痛、その緊張感は、だれにもわからないでしょう。普通なら、病気になるか、死ぬか、自殺するか、精神に異常をきたすか──それくらい、生命への猛烈な圧迫があるのです。
 原爆は「無明」が形になったものと言いましたが、それは「人間不信」と「人間憎悪」が形になったものとも言える。哲学者のマックス・ピカート博士でしたか、原爆は「分裂する世界」の象徴と論じていました。
 (「もろもろの原子を結合して原子世界を成立せしめていた力が、いまや一つの世界を爆破し粉砕するために利用されるのである。原子爆弾が、今日、この時代に──万事を分裂することによって生き、且つそのために死につつあるこの時代に──発明されたのは、決して偶然ではない」(『われわれ自身のなかのヒトラー』、佐野利勝訳、みすず書房))
 「権力の魔性」は「分裂」させます。人と宇宙、人と人、国と国、人と自然を「分断」させます。
 反対に、「慈悲」はそれらを「結合」させます。そして宇宙そのものに「結合させる慈悲」がある。
 宇宙そのものが本来は慈悲なのです。その意味で、宇宙は仏と魔との戦いの舞台です。「権力の魔性」と「慈悲」との戦いです。「生命を手段にする」欲望と、「生命を目的とする」慈愛との闘争です。人間を砂粒化し、「無」化していく力と、人間を宝塔化する力との、せめぎ合いなのです。
10  斉藤 お話をうかがって思い出すのは、有名なカントの「尊厳」の定義です。カントによれば、人間は「尊厳」である。それは「人間は、けっして、目的のための手段にされてはならない」ということだと。(『道徳形而上学の基礎づけ』篠田英雄約、岩波文庫、参照)
 遠藤 カントと言えば、もう一つ思い出すのが「それを考えること屡々にしてかつ長ければ長いほど益々新たにしてかつ増大してくる感嘆と崇敬とをもって心を充たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳的法則とである」(『実践理性批判』波田野精一・宮本和吉訳、岩波文庫)という言葉です。
 「宇宙」と「内なる法」ですね。これが不二であるというのが仏法です。ゲーテの″内がそのまま外なのだ″に通じます。しかも、これがともに「慈悲の法」であるというのですね。すべてを「結合」させる力というか……。
 池田 冒頭、話の出たカズンズ博士も「わたしは宇宙の秩序と道徳の秩序とのあいだに区別を認めない」(前掲『ある編集者のオデッセイ』)と言われています。
 「わたしはこの宇宙の秩序を包含したり、命令したりはできないが、この秩序に同化できる。なぜならわたしはその一部であるからだ」(同前)とも。カズンズ博士は、お会いしてすぐ、「この人は菩薩だ」と直感しました。偉大な方でした。
 須田 被爆した女性たちの治療に奔走されたり、ナチスの″実験モルモット″にされたポーランドの女性たちの心身を癒すために尽力されたことは有名です。
 池田 本当に「権力の魔性」は残酷だ。その反対が「一人の人を、かけがえのない存在として愛する」ということです。そのために尽くし、そのために苦しむ。そのことを自分の喜びとする生き方です。
 ナチスの強制収容所からの″生還者″である心理学者フランクル博士については、この座談会の冒頭でもふれましたが、ここでふたたび取り上げたい。博士は、講演でこんな話を紹介しています。あるお母さんの手紙の一節です。
 「私の子供は、胎内で頭蓋骨が早期に癒着したために不治の病にかかったまま、一九二九年六月六日に生まれました。私は当時十八歳でした。私は子供を神さまのように崇め、かぎりなく愛しました。母と私は、このかわいそうなおちびちゃんを助けるために、あらゆることをしました。が、むだでした。子供は歩くことも話すこともできませんでした。でも私は若かったし、希望を捨てませんでした。私は昼も夜も働きました。ひたすら、かわいい娘に栄養食品や薬を買ってやるためでした。そして、娘の小さなやせた手を私の首に回してやって、『お母さんのこと好き? ちびちゃん』ときくと、娘は私にしっかり抱きついてほほえみ、小さな手で不器用に私の顔をなでるのでした。そんなとき私はしあわせでした。どんなにつらいことがあっても、かぎりなくしあわせだったのです」(『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)。
 これが「人間を手段化する」権力の魔性と対極の姿でしょう。
11  斉藤 宝塔品の深い意味が少しわかってきたように思います。
 池田 権力の魔性を、もっと身近なことで言えば、リーダーが「人に苦労を押しつける」というのもその一つです。自分が楽をして、いやなこと、大変なことは人にやらせる。「責任」も人に押しつけ、自分は甘い汁だけを吸おうとする──。
 こんな言葉があります。
 「どんな国にも大変なことはある。もし、あなたが大統領であれば、大変なことは君自身にふりかかってくる。しかし、もしも、あなたが独裁者ならば、あなたはこの大変なことを他の人々にふりかかるようにできる」(Don marquis, The Lives and Times of Archy and Mehiabel, Doubleday, Doran and Company, inc., New York, 1942)
 「指導者」と「独裁者」は違う。指導者というのは、自分が皆のために苦しんでいく人なのです。
 大聖人は「元品の無明」は「第六天の魔王」と顕れ、「元品の法性」は「梵天・帝釈等」と顕れると言われている(御書九九七ページ)。
 魔王は独裁者。梵天・帝釈は指導者です。両者の違いは決定的です。「天地雲泥」と言える。一方、一念の世界においては、「紙一重」とも言えるのです。
 斉藤 私たち皆が、気をつけていかなければなりませんね。
 こうしてみますと、冒頭、話していただいた「人間の無力感」も、現代社会が人間を「機能」だけで見たり、「手段」としてしか見ないことが大きな要因だと思われます。
 遠藤 子どもも、ただ「成績」だけを基準に「序列化」されることは、たまらないでしょうね。かけがえのない存在として受けとめてくれる場所が本来は家庭のはずなのですが、家庭までが、成績という「部分」をもって、子どもの「全体」を測ろうとする傾向がある。これでは子どもが本当の意味での自信──「何があっても自分は自分だ」という強さをもてなくなってくるのも当然かもしれません。
 池田 そう。生命に序列はつけられない。だからこそ「尊厳」なのです。
 子どもにも大人にも「無力感を感じさせない」ための教育を与えていく。心の滋養を与えていく。そして連帯していく。これが現代の根本的要請です。
 その意味で、万人に向かって、「あなたこそ宝の塔なのです」「かぎりない力を秘めているのです」と呼びかける宝塔品は、豊かな示唆を与えてくれているのではないだろうか。
 あらゆる「権力の魔性」と戦い続けることこそが「法華経を持つ」ことであり、その人間愛の苦闘によってこそ、我が身が、真に「宝塔」と輝くのです。
 我が生活が、永遠を呼吸する「虚空会」に連なるのです。瞬間瞬間が、生きる歓びのエネルギーに彩られてくるのです。

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