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日蓮大聖人・池田大作

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見宝塔品(第十一章) 「我が身が宝塔」…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 先日(一九九六年四月二十四日)は、池田先生とチャペル博士(ハワイ大学宗教学部教授)との語らいに、私たち三人も同席させていただきました。ありがとうございました。ヴォロビヨヴァ博士(ロシア科学アカデミー東洋学研究所)の時もそうですが、先生の語らいには「法華経の智慧」を学ぶための大切な視点が、珠玉のごとくちりばめられています。
 須田 しかも、絶妙のユーモアを交えられての対話でしたので、三時間半が、あっという間でした。先生と博士は、お疲れになったと思いますが(笑い)。
 遠藤 博士を迎えた瞬間から、何ともいえない温かい雰囲気に、私たちも包まれました。「聖教新聞」に写真が出ていましたが、先生が、すかさず、博士の手荷物の紙袋を持ってさしあげたり……。じつはその中には、先生のために用意されたハワイの写真集や書籍が入っていました。後で博士が一点一点を紹介され、「重くてすみません」と言って手渡すと、先生は、お礼を言われながら「知ってます。さっき持ちましたから」と(爆笑)。
 池田 よく覚えてるねー(笑い)。もっとほかに、大事な話があったはずなんだが(大笑い)。
 チャペル博士は語っておられた。法華経に基づいた「対話」こそが、人類の未来を開くカギであると。法華経に基づく──というのは、あらゆる人を「宝の存在」として尊敬するということです。それが法華経であり、宝塔品です。その土台の上に、実りある「対話」もあるし、「友情」もある。「平和」もある。博士は「軍事力よりも強いのは、人間対人間の『友情』です」とも言われていました。
 斉藤 法華経といい、仏法といっても、決して遠いところにあるのではない。身近な現実の「振る舞い」にあるということですね。
 遠藤 ジョーゼフ・キャンベルというアメリカの神話学者も「思いやりこそ根本的な宗教経験であり、もしそれが欠けていたら、もはやなんにもない」(J・キャンベル、B・モイヤーズ『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房)と言っています。
 須田 そのことを、いつも先生が手本として示してくださっているのですが、われわれは「すごいなあ」と思うだけで……(笑い)。
 池田 仏法も身近にある。「いま・ここ」にある。現実の生活にあり、人生にあり、社会にある。それを離れた、どこかに何か深遠なものがあるように見せるのは、まやかしです。
 斉藤 はい。とくに、後世の僧侶が自分たちを権威づけるために、神秘めかして説いたという側面があります。
 遠藤 仏がわかりやすく説いたものを、あえて難しく説いたり(笑い)。
 池田 そう。これから学ぶ「見宝塔品」も古来、多くの解釈があった。それはそれとして、その時代に意味があった場合もあるが、日蓮大聖人は端的に、「宝塔とは我等が一身のことである」と仰せです。
 そして宝塔が出現するとは、母の胎内から生まれ出ることであるとして、「宝浄世界とは我等が母の胎内なり」、「出胎する処を涌現と云うなり」と述べられている。
 我が身が荘厳なる宝塔である──しかし、なかなか、その真実が見えない。それを見るのが「見宝塔」であり、それを見るための「鏡」が宝塔品の儀式なのです。また宝塔品の儀式を用いて建立された御本尊も「明鏡」です。
 身近なのです。現実なのです。この根本を押さえた上で、法華経の説法を見ていこう。
2  宝塔の出現
 遠藤 はい。見宝塔品は、その宝塔の出現から始まります(法華経三七二ページ)。巨大な宝塔が大地より突如として出現し、空中に浮かんで静止します。そして、その中から大音声が聞こえてきます。「すばらしい。すばらしい。よくぞ法華経を大衆のために説いてくださった。その通りです。その通りです。あなたが説かれたことは、すべて真実です」と。
 この賛嘆の声を聞いて、人々は大いに疑問をいだきます。「こんなことは、今までなかった。いったい、どういうわけで、宝塔が大地から現れ、その中から声が発せられたのだろう」
 釈尊は答えます。「この宝塔の中には、多宝如来という名前の仏様がおられる。この仏様は、かつて誓ったのです。『法華経が説かれるところがあれば、私の塔はその前に現れ、証明役となって、すばらしい、すばらしいと賛嘆しよう』と。だから今、法華経が説かれるこの場所に、多宝如来の塔が出現して賛嘆したのです」。
 須田 ここで、ある菩薩が「それなら、その仏様に会わせてください」と、食い下がった(笑い)。
 遠藤 ええ。しかし、それには条件があった。多宝如来が姿を見せるには、釈尊の分身として十方世界で説法している仏たちを、すべて、呼びもどさなくてはならない。
 仏たちが集まってこられるように、釈尊は、今いる娑婆世界を三回にわたって清め、広げて、一つの仏国土にします。これを「三変土田」といいます。仏たちが″集合完了″したところで、釈尊が宝塔を開くと、多宝如来が、荘厳な姿で座っています。
 須田 「おおー」と、人々のため息が聞こえてきそうな場面ですね。
 遠藤 多宝如来は、重ねて「すばらしい、すばらしい」と、釈尊の法華経説法をほめたたえます。そして、座っている場所を半分あけて、釈尊に、ここにお座りください、と。
 須田 こうして二人の仏が並んで座ったのが「二仏並坐」ですね。
 遠藤 この時、人々は、はるか高いところに二人の仏を見上げている格好でしたが、釈尊は、人々を、ぐーんと空中に引き上げます。ここからが「虚空会」です。
 そして釈尊は呼びかけます。「だれか、この娑婆世界で、広く法華経を説くものはいないか。私は、もう長くは生きていない。法華経のバトンを渡したいのだ」。そして「多宝の宝塔が現れ、十方の仏たちが集まったのは何のためか。それは、この妙法を、永遠に伝え弘めていくためなのだ」と。
 須田 「令法久住(法をして久しく住せしめん)」(法華経三八七ページ)ですね。
 遠藤 さらに、仏の滅後に法華経を持ち弘めることが、他の経典の場合にくらべて、いかに難しいか(六難九易)を説きながら、その困難をなしゆく大願をおこせ、その人こそ、無上の仏道を得ることができるのだと、誓願を勧めます。これが宝塔品のストーリーです。
 斉藤 やはり圧巻は、壮麗、壮大な宝塔の出現です。七宝すなわち金・銀・瑠璃・碼碯などの七種の宝玉でできている塔です。
 池田 大いなる塔が建つ──「虚空会の儀式」の劇的な始まりだね。
 大聖人は、「儀式ただ事ならず」と言われている。
 遠藤 本当に、ただ事ではありません。「宝塔の出現」「多宝如来の証明」「三変土田」「十方世界の分身諸仏の集合」「釈迦・多宝の二仏並坐」と、前代未聞のことが次々と起こります。
 須田 宝塔の大きさ自体も、ただ事ではありませんね。高さが五百由句、幅が二百五十由句という巨大なものです。
 由句とは、インドの距離の単位です。当時の帝王が一日に行軍する距離とされています。一説には、中国の四十里にあたると言われていますが、他にもいくつかの説があります。少なく見積もっても、五百由句は地球の(直径の)三分の一ほどになるのではないでしょうか。当時の人々には理解しがたい巨大さだったでしょう。
 池田 当時の人だけではないね(笑い)。宇宙的なスケールで考えないと、わからない。七宝でできているというのも並外れている。
 遠藤 その宝塔の中に多宝如来がいるわけですが、いったい、そんな巨大な宝塔のどこにいるのか。釈尊が右手で宝塔を開き、多宝如来と並び座る二仏並座なのですが、開けた扉が大きいのか、小さいのか、塔のどこにあったのか。よくわからないことが多いのです。
 池田 宝塔とは何かと、阿仏房が大聖人にお尋ねしたのも無理はない(笑い)。
3  斉藤 宝塔の形も、はっきりと説かれていません。″タテ長″だということは、わかりますが、直方体なのか、円筒なのか、円錐や角錐の形をしているのか、はたまたドーム型なのか、明確ではありません。
 池田 当時のインドの人ならイメージできたのかもしれないね。むしろ大事なのは、形よりも、人々にとって「塔」が何を象徴しているかということではないだろうか。
 須田 はい。インドの塔には、非常に豊かな象徴性があると言われています。
 「塔」は、サンスクリット語の「ストゥーパ」の漢訳です。この音をそのまま漢字で写したのが「卒塔婆」や「塔婆」です。
 この言葉は、古くは『ヴェーダ』にも現れ、″天と地をつなぐ軸″や″支柱の頂″などの意味を持っていたようです。ヴェーダには宇宙全体を樹木としてとらえ、その頂の部分をストゥーパと呼んでいる所があります。それが宇宙全体の象徴でもあったようです。
 池田 そういう文化的な背景があるとすれば、インドの人々は宝塔によって宇宙的なものをイメージしたかもしれないね。
 遠藤 「塔婆」も「宝塔」も「ストゥーパ」だというのが面白いですね。日顕宗は金もうけのために、塔婆を立てろ立てろとうるさかったが、我が身に宝塔は立てようとしなかった(笑い)。
 須田 また、ストゥーパの本体はドーム型のものが多いのですが、これは「卵」(アンダ)と呼ばれていました。形が似ているだけでなく、やはりヴェーダの創造神話に出てくる黄金の卵と関係があり、宇宙創造の原理の象徴であったようです。
 遠藤 古代インドの世界観で、世界の中心にあった須弥山とも関係があるようです。インドの人々は、ヒマラヤなど、美しくそびえる高峰を理想郷と見ていたようです。とくに水源であることが、大きい意味を持っていたようです。インドは干魃が多いですから。
 ストゥーパの様々な部分には、理想郷としての須弥山を象徴するものが多いそうです。また、仏典には、ストゥーパを須弥山と同一視する記述も多くあります。
 池田 ネパールで見たが、たしかにヒマラヤは荘厳であり、天と地をつなぐ宝塔の威厳があった。今までの話で共通しているのは、ストゥーパは、「宇宙の中心」「世界の中心」を象徴しているということだね。宇宙的なスケールを持つ法華経の宝塔も、そのような意義があると思う。
 宝塔品では、釈尊の分身諸仏を十方世界から集めるために三変土田がなされ、四百万億那由佗という膨大な数の国土が、一つの仏国土として統一されます。
 夜の闇に光明が灯ったような、輝かしき無数の仏の集合。無量の宝石と花々で飾られた瑠璃の大地。連なる宝樹の繁り。めくるめくような黄金の光景です。その中心に宝塔が位置することになる。
 宝塔は、大宇宙にそびえ立っている。大宇宙の宝を集めたかのような輝かしい姿です。その荘厳さで「あなた方の生命こそ宝の集まりなのだ」と教えているのです。その巨大さで「あなた方の生命は宇宙大なのだ」と教えているのです。
4  斉藤 宝塔が空中に浮かんでいるのも、天と地を結ぶ軸のように見えます。
 池田 大聖人は「虚空とは蓮華なり経とは大地なり妙法は天なり」と仰せです。宝塔が浮かぶ虚空を真ん中にして、天・虚空・地の全体で妙法蓮華経であるとされている。
 天地全体、宇宙全体が妙法蓮華経である。我が身も妙法蓮華経である。宝塔もまた妙法蓮華経であり、宇宙即我の壮大な真理を象徴しているのです。
 また三諦論でいえば、宇宙が妙法の当体であるというのは空諦です。我が身が妙法と知るのは仮諦です。
 斉藤 はい。五陰(色・受・想・行・識)がかりに和合したのが、個々の生命です。そう見るのが仮諦です。
 「御義口伝」にも「見宝塔」について「宝とは五陰なり塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり、此の五陰和合とは妙法の五字なりと見る是を見とは云うなり」とあります。
 我が身が妙法蓮華経なんだと見るのが見宝塔であると。これは仮諦です。
 池田 空諦そして仮諦。宝塔の出現とは中諦の妙法蓮華経に当たるでしょう。この宝塔を鏡として、「自身の宝塔を見る」のです。「自身が宝塔であると見る」のです。
 斉藤 「宝塔」とはほかでもない、妙法を信じ、南無妙法蓮華経と唱えゆく人間の生命そのものなのだということですね。大聖人は、繰り返し繰り返し、このことを強調されています。
 遠藤 そうですね。たとえば──「日女御前の御身の内心に宝塔品まします
 「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり
 「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり
 池田 阿仏房は「宝塔」の意味が知りたかった。大聖人は端的に「ほかならぬあなたが宝塔なんですよ」と教えられた。そして「此れより外の才覚無益なり」──これだけ知っていればいいのだ。他の理屈や知識は「無益」なのだと。
 たしかに「御本尊を拝している自分が多宝の塔なのだ」と分かれば、あとは何もいらないのです。
 こうして法華経を学ぶことも、その「眼目」を確認し、確信を深めるためであり、また多くの人に語るためであって、それを外れた知識は、成仏のためには「無益」となってしまう。それを前提に「法華経における宝塔」について整理してみたら、どうだろう。
5  宝塔とは妙法蓮華経の五字
 斉藤 はい。宝塔品では「宝塔の由来」を説いています。梵本と羅什訳を合わせて整理しますと、おおよそ次のようになります。
 一、過去に、東方の宝浄世界という所で、多宝如来が「妙法蓮華の法門」を聞いて成仏した。
 二、多宝如来は入滅に際して、「如来の全身」を祀るための巨大な宝塔を建立するように人々に遺言した。
 三、その宝塔は、多宝如来の誓願の力によって、「妙法蓮華の法門」が説き明かされる所であるならば、どこにでも出現する。そして「妙法蓮華の法門」が説かれている時には、空中で静止している。
 四、宝塔の出現の目的は、「妙法蓮華の法門」を聞くためであり、また、それが真実であることを「証明」するためである。
 五、宝塔を開いて「如来の全身」を人々に示すためには、「妙法蓮華の法門」を説く仏が、彼の分身の諸仏を十方世界から集めなければならない──。
 ここで特徴的なのは、「妙法蓮華の法門」という言葉が非常に多く出てくることです。羅什訳では「法華経」とか「此の経」と訳され、出てくる回数も少なくて目立ちませんが、梵本では明確に「妙法蓮華の法門」という表現が繰り返され、強調されています。その度合いは、法華経の中でも随一です。
 池田 宝塔は、「妙法蓮華経」の五字と密接な関係がある。というよりも、大聖人が仰せのように、宝塔自体が妙法蓮華経なのです。
 斉藤 とくに、「妙法蓮華の法門」が説かれる所には、どこにでも宝塔が出現するとされているのが大事ですね。宝塔と妙法蓮華経の関係を考える上で示唆的です。植物は、太陽の光や雨を縁として開花します。それに似て、法華経の説法によって、宝塔が出現します。その姿の全体に妙法蓮華経という一法の本質が現れているのではないでしょうか。
 須田 たしかに、宝塔は、突如として涌出しました。まるで法華経の説法という太陽の光に照らされて、蓮華が咲きだしたようです。法華経の会座にいれば、そう感じられたのではないでしょうか。
 池田 妙法蓮華経の説法によって、妙法蓮華経の宝塔が涌現する。私どもが自行化他にわたって妙法を唱えるとき、私たちの生命が宝塔となる。宝塔が出現する。唱えられる法も妙法蓮華経。唱える私たちも妙法蓮華経です。
 戸田先生が、こんな話をされたことがある。
 「ある僧侶になっている学者でありますが、私が、その人に向かって『いったい、法華経を説くところ、宝塔がたつと法華経にあるが、大聖人様は法華経を説かれたけれども宝搭がどこにもたたなかったが、そのわけはなんですか』と聞いたことがあります。ご本人は困った。
 ご本人は困った。宝塔というのは、阿仏房が大聖人様に宝塔のことをうかがいたてまつったときに、『阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房』と仰せられたことがある。あなた方の体が、それ自体が宝塔なのです。その宝塔の中に、あなた方の体のなかに釈迦、多宝の二仏がおすわりになって、上行菩薩という方を呼びだした」(『戸田城聖全集』7)と。
 須田 仏法を「観念」でとらえがちな学者の落とし穴ですね。宝塔も、どこか遠い所に考えている。
6  池田 戸田先生は、こうも言われています。
 「われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかしこれを、われわれの生命体のうえに具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。すなわち釈迦は宝塔の儀式をもって、己心の十界互具、一念三千を表しているのである」(『戸田城聖全集』6)
 宝塔品の儀式は、仏界という尊厳なる生命を具体的に説こうとしているのです。
 では、なぜ具体的な形で妙法蓮華経が示されなければならなかったのか。それは、ひとえに「滅後のため」です。「令法久住(法をして久しく住せしめる)」のためです。
 これまで、法華経を聞いて信解すれば、必ず成仏できると説かれてきた。宝塔の出現は、その法華経の力を実証するものではないだろうか。これまで「理」として説かれてきたものが、宝塔品からは「事」として示されていくのです。「事」は本門です。宝塔品から本門の序文が始まっているのです。
 多宝如来の「証明」というのも、塔の中から「よきかな、よきかな」と言って、法華経が真実であることを「言葉」で証明したことだけを言うのではないでしょう。多宝如来と宝塔の出現それ自体が、妙法蓮華経の「現証」となっている。「見宝塔」という題名は、宝塔の出現を通して「妙法蓮華経を見る」のです。いわば妙法蓮華経を「実体験」したのです。
 つまり、我が身が妙法蓮華経であるということを、宝塔が教えてくれたのです。その意味から大聖人は、宝塔品を「明鏡」だと言われているね。
 遠藤 はい。「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり」とあります。また「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり」と仰せです。
 池田 七宝の塔──それは、本来の自分自身の屹立した姿です。″汝自身を知れ″というソクラテスの哲学的命題──その確たる答えが法華経に説かれる「宝塔」です。
 大衆が虚空会に見た宝塔とは、紛れもなく自分自身であったはずです。大宇宙の中に厳然と屹立する不動の自己を、そこに見たにちがいないのです。だから「明鏡」なのです。
 また、宝塔が大地から出現したというのも意味がある。大地とは九界の現実です。衆生の生命です。宝塔は、ただ単に仏界という生命を表現しているだけではない。衆生の命そのものに宝塔が打ちたてられることを示している。九界即仏界です。ゆえに宝塔は大地から涌出したのではないだろうか。
7  境智冥合──自分らしく輝く
 斉藤 大聖人は、釈迦・多宝の二仏は「境智の二法」であり、「二仏並坐」は境智冥合を意味するとされていますが、この点はどう考えればよいでしょうか。多宝が「境」、釈迦が「智」に当たるわけですが……。
 池田 戸田先生は、「境」は客観世界、「智」は主観世界と言われていた。
 しかし、これも西洋的な二元論の意味でおっしゃったのではない。主客不二(主体・客体が根底では一体であること)が前提となっている。
 須田 大聖人は、「境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」と仰せですね。
 池田 そう。戸田先生がよく言われていた。「八百屋であるということは境だ。八百屋らしく商売に励んでいるということが墳智冥合である」と。
 もちろん、魚屋さんでも会社員でも何でもいいわけだが、その人には、その人のなすべき使命があり、道がある。それが「境」に当たる。その境を立派に輝かせていくのが智慧の光です。その場で「なくてはならない人」になるのが境智冥合です。
 人間だけではない。桜が四季の移り変わりを感じながら、春になるといっせいに見事な花を咲かせ、人々を楽しませるというのも「境智冥合」の姿です。春の訪れを本然的に感じるのが桜の智慧と言える。
 須田 夏に咲いたら、みんなびっくりしてしまいます(笑い)。
 池田 本来、だれもが「仏」である。これは「境」です。その仏界を輝かせるのは、智慧の光です。仏であることを自覚する智慧があって初めて仏と輝く。これが境地冥合です。私どもでいえば「以信代慧(信を以て慧に代う)」ですから、「信心」が「智」にあたる。自分に「仏界がある」というのは客観的真理であり「境」です。それを事実の上で輝かせるのが「信心」です。
 釈迦・多宝の如来も、煩悩に覆われた衆生が本来の仏界を輝かせている姿です。如来といっても凡夫なのです。人間なのです。大聖人は「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり」と仰せです。
 また多宝が「境」であるというのは、多宝如来は法華経が説かれるところには、いつでも現れる。つまり「永遠の真理」を象徴している。その「永遠の真理」を「いま・ここで」顕現させたのが釈尊なのです。
 つまり、二仏並坐=境地冥合によって、「いま・ここに」永遠なるものが顕れている。いな、「いま・ここに」しか永遠なるものは顕れないのです。あとは全部、幻です。
 釈尊=「智」、は主体です。主体的な人生の大闘争の中にしか妙法の顕現はない。
 「我、地涌の菩薩なり、仏なり」という確信に燃えて、使命の行動をする時に、境智冥合となるのです。
 斉藤 その境智冥合の姿そのものが南無妙法蓮華経なのですね。
 池田 そうです。「境」も妙法という境であり、「智」も妙法の智です。
 大聖人が「境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」と言われている通りです。境と智は別々にあるものではない。一体なのです。境が智を発し、智が境を照らすという関係です。たとえば、太陽を考えてみるとわかりやすかもしれない。太陽という本体は境です。その境そのものが智を発している。太陽がみずから光を放ち、みずからを照らしているようなものです。
 須田 釈迦・多宝の二仏は南無妙法蓮華経の一法の「働き」なのですね。釈迦・多宝という姿によって、境智不二の南無妙法蓮華経を表しているわけです。
 池田 そう。大聖人は「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」と仰せです。明快だね。
8  宝塔品の儀式と御本尊
 遠藤 大聖人の顕された御本尊の相貌で言えば、中央の首題に南無妙法蓮華経の一法が、その脇士として釈迦・多宝が配されている所以がまさにそこにあると言えます。
 斉藤 二仏並坐はまた「諸法実相」を表します。多宝が諸法、釈迦が実相です。また「生死不二」を表しています。多宝が死、釈迦が生です。
 須田 大聖人は、二仏並坐をはじめ宝塔品の儀式をもって御本尊を顕されました。大聖人以外には「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」と言われていますし、「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ摺形木たる本尊なり」と断言されています。
 池田 阿仏房に宝塔品の意義を説明されるに当たって、「此の法門ゆゆしき大事なり」と断られているのも、この法門が御本尊に関わる根本問題だからでしょう。
 斉藤 四条金吾に与えられたお手紙でも、「此等はゆゆしき大事の法門なり」と仰せですね。
 池田 天台大師は、多宝の証明の意義について証前・起後と立て分けました。
 須田 はい。証前・起後については『法華文句』(巻八下)にあります。
 「証前」とは、「前を証明する」ことで、宝塔の中から、多宝如来が大音声を放って、釈尊の言葉は真実だと証明したことです。
 池田 みずからの「声」で、「姿」で妙法を証明する。これが多宝如来です。学会でいえば「多宝会」の皆さまが、その代表になるでしょう。
 遠藤 先生が、人生経験豊かな年配の方々を「多宝会」として顕彰されている意味がよくわかります。
 池田 「妙法の証明者」として尊い使命に生き抜いてこられた。文字通り、お一人お一人が学会の「宝」であり、広宣流布の「宝」であり、社会の「宝」です。うんと長生きをしていただきたい。皆さまが長生きした分だけ、広宣流布の勝利です。
 また広布の多宝如来として、後輩を「よきかな、よきかな」「すばらしい、すばらしい」と、ほめたたえてあげていただきたい。
 遠藤 この「証前」に対して「起後」とは、「後を起こす」ということです。釈尊は十方分身の諸仏を集めましたが、これが寿量品を説くための起点となっているということですね。つまり、無数の分身仏が集まったということ自体、釈尊の仏としての化導が久遠の昔から行われていることを示唆しているわけです。
 池田 文上の解釈では、「証前」の「前」とは迹門の説法です。「起後」の「後」とは本門です。宝塔の涌出が後の本門を説き起こす起点となっている。
 しかし、文底から見れば、この宝塔の涌出は、大聖人の法門を引き起こしているのです。宝塔品の説法が、大聖人が御本尊を建立される起点となっている。末法の御本尊を顕されることは「起後」にあたる。ゆえに、大聖人は御みずから顕された御本尊を宝塔と呼ばれたのです。御本尊こそ大聖人の御生命そのものにほかならない。無作三身如来の御生命です。南無妙法蓮華経の宝塔です。
 釈迦・多宝の二仏が境智の二法を表すことは先に述べた通りですが、「境」としての多宝如来は三身で言えば、「法身如来」です。「智」にあたる釈迦如来は「報身如来」です。そして、境智が「冥合」して慈悲を起こすことから、これが「応身如来」で、十方分身の諸仏がこれにあたるのです。
 釈迦・多宝・十方の諸仏という三仏の出現は、大聖人の御身に成就されている無作三身の御生命を表している。無作三身については、別の機会に論じることにして、ここで大事なことは、末法の一切衆生が、だれでもこの無作三身を我が身の上に実現できる道を大聖人が開かれたということです。それが御本尊の信受です。
9  斉藤 「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」と仰せられているのがまさにそれですね。
 池田 大聖人が「此の御本尊の宝塔の中へ入る」とおっしゃっているのも、私どもが己心の中に宝塔を打ち建てることができる、ということです。依正不二ですから、我が身に宝塔を開けば、我が生きる世界も宝塔の世界であり、「宝塔の中に入る」ことになる。御本仏の世界の一員として、自在に活躍していけるということです。このちっぽけな自分という身が、七宝で荘厳され、大宇宙へと限りなく境涯が広がるのです。これほどすばらしいことはない。
 戸田先生は、獄中で法華経を読み切られ、その真髄が大聖人の御本尊にあることを悟られた。法華経の一文一句が大聖人の仰せと寸分も違わないことを知って、歓喜の涙を流されたのです。
 斉藤 その模様は小説『人間革命』の第一巻に記されています。牢を出られた戸田先生は、ご自宅の御本尊を拝して、一字一字たどっていきます。
 そして、「たしかに、このとおりだ。まちがいない。まったく、あの時のとおりだ。彼は心につぶやきながら、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った。彼の心は歓喜にあふれ、涙は滂沱として頬をつたわっていった」とつづられています。
 遠藤 今の私たちには、その歓喜の程は想像するしかありませんが、獄中で体得したことに間違いがなかったことを、その時、いっそう確信されたのですね。
 池田 その戸田先生の確信があればこそ、御本尊根本の信心が学会の中に確固として築かれたのです。学会の大発展の原点です。
 先生は透徹した眼ですべてを見通されていた。小手先はいっさい通用しない。だから、体当たりでぶつかるしかなかった。それに必ず応えてくださる先生だった。年を経るにつれ、戸田先生のすごさを改めて実感してならない。身に染みて分かってくる。
 たとえば、多くの宗教は、聖地巡礼のように、宗祖ゆかりの場所を特別の地として崇める。大聖人でいえば、流罪の地である伊豆や佐渡、法難の竜の口や小松原また活躍された鎌倉、聖誕の地・小湊、その他、身延、池上などの地があります。しかし戸田先生は、それらの地を″聖地″とするのではなく、どこまでも「御本尊根本」でいけ、と教えられた。ここに戸田先生の偉大さがある。
 御本尊を強盛な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の″聖地″である。そこが虚空会であり、霊山であり、宝塔が建つところだからです。
 須田 ブライアン・ウィルソン博士(国際宗教社会学会元会長)は、ある特定の地を聖地として、そこに行かなければならないとするような宗教では、世界宗教にはなりえないとも言われたそうです。
 池田 その通りです。「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なれる。我が身に、我が生活に、我が家庭に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。どこまでも身近です。現実です。虚空会は前後の霊山会(霊鷲山での会座)と違って、「時空を超えた」世界である。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも・どこでも」虚空会につながることができるのです。
 虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な「生命の旅」といえるのではないだろうか。
10  自身を荘厳する「七宝」
 遠藤 そうしますと、宝塔を飾る「七宝」も私たち自身の生命にあるものですね。
 池田 そうです。それ以外にありません。
 斉藤 大聖人は、阿仏房に「七宝」とは「聞」「信」「戒」「定」「進」「捨」「慚」であることを明かされています。
 池田 我が身の内なる宝です。金・銀等の七宝が″世間″の財宝であるのに対し、聞・信等の七宝は″出世間″における財宝です。この財宝だけは、死後にも、もっていける(笑い)。「永遠の財宝」です。
 遠藤 この七宝は七法財といわれ、仏道修行の上で不可欠の要件とされています。
 須田 「七宝」については、かつて先生がわかりやすく教えてくださっています。
 まず、「聞」とは、聞こうとする求道心です。仏道修行の第一歩は「聞」から始まります。
 「信」は信ずる力。以信代慧で、智慧も「信」から涌現する。また、人間と人間を結ぶのも「信」の力です。
 「戒」は、本来、防非止悪(非を防ぎ悪を止む)の意味で、仏法の正しい軌道を、きちっと歩んでいくということです。自律の精神、正義の心とも言えます。
 「定」は禅定、すなわち心を定め、雑念を払い、安定した境地に立つことです。「定」とは揺るぎなき不動の心、信念と言えるでしょう。
 「進」は「精進」の意です。一生成仏と広宣流布を目指し、たゆみなく前進し、進歩する息吹です。
 「捨」は、執着などを捨て去ること。小さなエゴを打ち破っていく勇気、大いなる理想への挑戦なども含まれます。
 「慚」とは慚じることで、自分を見つめる謙虚な心を意味しています。
 池田 これらは全部、「信心」の二字に納まっている。
 学会活動に全部、入っている。妙法を根本に、昼は太陽とともに働き、夜は月光とともに自分という人間を見つめて、また進歩していく。そういう信心即生活こそが七宝に飾られているのです。これこそ本当の「豊かな人生」なのです。
 斉藤 これらの一つ一つは、信仰者だけでなく、万人にとって大切な「人間の条件」ですね。
 池田 信仰とは、最高に正しい人生を生きるということです。仏法の智慧は、最上の「人間学」です。
 宝塔は人間の「生命」にある──そう見ることは、一切の差別を超えて「人間の尊厳」を見ることです。
 なぜかならば、「生命」に序列はない。だれもが「生命」をもっている。男女の違いもない。皮膚の色の違いもなければ、貴賤上下の差別も一切ない。民族の違いもない。一切、平等です。
 ゆえに、宝塔が立つとは、「人間平等」の尊厳観が打ち立てられたとも言えるのです。真実のヒューマニズムです。
 遠藤 「貴賤上下をえらばず」──「阿仏房御書」の一節の通りですね。
 池田 他人を差別する人は、自分の尊厳をも傷つけているのです。他人を大切にすることによって、みずからの宝塔も輝くのです。
 須田 「自他不二」の心ですね。
 斉藤 不軽菩薩品(第二十章)のテーマになりそうな感じですね。
 遠藤 先に進み過ぎると、あとで困るかもしれません(笑い)。
 池田 それもそうだけど、大事なテーマは、おしなべて法華経全体に貫かれているものです。また、くわしく論じる機会があるでしょう。
11  究極の民主主義
 遠藤 相手を「宝」として尊敬するというのは、まさに究極の民主主義ではないでしょうか。
 ホイットマンは「民主主義の真髄には、結局のところ宗教的要素がある」(『民主主義の展望』、佐渡谷重信訳、講談社)と言っています。
 須田 ホイットマンの民主主義観は、私も読んだことがあります。こう書いていますね。
 「民主主義は今のところ、やっと萌芽しつつある状態であり、それをもっぱら広範囲にわたって、十分に満足させるほど正当化する仕事は未来にゆだねられているように思われる。そのためには、主に民衆の中に完全な人間をたくさん作り出すことであり、さらに健全で、全面的に普及するような信仰心が現れることだと思う」(同前)
 斉藤 先日(一九九六年四月二十六日)、ボストン二十一世紀センターでも、「民主主義と宗教」をめぐっての講演会が開かれました。
 アメリカ公民権運動のキング牧師の盟友であったハーディング博士(デンバー大学教授)が講師でした。キング氏の足跡にふれながら、「アメリカの民主主義は、いまだ未完成である。その完成のためには、宗教に根差し、民衆と同苦する指導者が不可欠である」という点を強調されたとうかがっています。
 池田 「民主主義」の魂は「個人への尊敬」です。あらゆる人の生命を、平等に尊極なるものと見ることができるかいなか。すべて、この一点にかかっている。
 須田 多くの日本人は「わが国は民主主義国家だ」と思っているかもしれませんが、「民主主義は、いまだ未完成」とした百三十年前のホイットマンや、今のハーディング博士のほうが、はるかに真実を見抜いていると思います。
 池田 民主主義は結局、生き方だからね。チェコスロバキアの祖国の父マサリクの言葉がある。チャペック(チェコの劇作家)が紹介しています。
 「民主主義は、単なる国家形態ではなく、単に憲法の条文だけではありません。民主主義は人生観であり、人々と人間性と人性への信頼に基づくものです」(『マサリクとの対話』、石川達夫訳、成文社)。
 人間を、何かの手段としてではなく、尊い「永遠の存在」として信頼する。それが民主主義だと言うのです。
 そのように自分を信じ、人を信じる。そうすれば、「永遠なる者は永遠なる者に対して無関心ではいられず、永遠なる者は永遠なる者を悪用したり搾取したり暴力的に支配したりすることはできません」(同前)と。
 大聖人は「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」と教えてくださっている。そのように見るのが「見宝塔品」です。
 我が身に宝塔を見、我が友に宝塔を見る。そして「宝塔」また「宝塔」の林立で、我が地域を荘厳していくのです。地球を荘厳していくのです。
 広宣流布の「宝の塔」を、我が地域に立てることです。私はこれだけやったと「永遠の金字塔」を残すことです。「我が塔は、ここに立つ」と人生を飾ることです。
 釈尊は大闘争の人生を総仕上げせんとして法華経を説いた。「妙法を広宣流布させるのだ」という釈尊の行動に呼応して、宝塔が出現した。多宝如来が加勢に現れ、十方の諸仏も集結して釈尊を取り囲んだ。全部、もとは釈尊の「広布への一念」です。戦いです。
 広布への行動によって、はじめて「宝塔」は建つ。観念ではない。現実との格闘であり、大難との真剣勝負です。
 そこに「聞・信・戒・定・進・捨・慚」の七宝で飾られた自分自身と輝くのです。
 大聖人も宝塔である御本尊を、大難のさなかで、はじめて建立された。その意味で、宝塔品に、末法の妙法流布の困難を教えた「六難九易」が説かれていることは偶然ではありません。
 次は、このことも語っていこう。

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